なんだここは
+ | 有益な無為 |
「ここかな?」
地図アプリを開いたスマートフォンから目を離して前方を見れば、モダン、そんな形容詞が似合いそうな、そういう建物ひとつ。外装の特徴が示されたメモ書きと看板を交互に見れば、その一致はすぐに認識された。画面を見る彼女、アドマイヤラプラスの心中をたゆたう、奇妙な緊張状態も無理はない。ここで彼女、この文内においては香港のスター、インディファティガブルが待ち構えている、という事実によってそれが形成されている。 「…お邪魔しまーす」 初見の店に入るときはいつもそうするように、若干身を低くして小声でつぶやきながら、ラプラスはドアを開いた。途端、木材に紅茶に少しの花の匂い、さまざまに混ざって知覚する。 良い意味で重厚さを欠くコンパクトな、しかしどこかアンティークを感じさせる、不思議な雰囲気の内装。店内全体に行きわたった清潔さ、それに幽かな紅茶の香りが美意識を労働させ、好感情を沸き立たせていく。 目前には店主らしき人物がカウンターに立つ姿、いくらかの休暇を楽しむ人、PCを広げる人、コーヒーを運ぶ店員が一人。 「『店主には連絡しているから、メモを見せればテーブルまで案内してくれる』……と」 メモ書きを取り出しながら、彼女はカウンターに数歩踏み出した。
指さされたテーブルに、一人の女性が座っている。彼女がインディファティガブルのはずだ。
はずだ、と言いつつ、思考には明瞭な違和感が同居人になっていた。理性は確かに、眼前の女性が誘い主であろうと予測している。けれども勘、あるいは理性の一部が、それ以外の回答をラプラスの施行内に提供していたのである。とにかく彼女は眼前に座った。 その様を確認した女性は、どことない方向に声をかける。 "Hey, auther. Please translate" Hmm,OK.
「さて、これで言語の壁は問題ありませんね。ようこそお越しいただきました」
「急なメタ発言」
体面によって違和感は拡大した。目前の彼女が事前の印象と大分違うことに、彼女は気づいている。
これまでにラプラスが目にした彼女の顔が覇道を邁進する様であったことを考慮すると、別人のような、音たてぬ凪のような穏健さ、静寂さが、丁寧な口調に現出していた。多くの労苦の末に、ニヒリズムに至らない程度の達観を獲得した姿か、あるいは意図せぬ役割の中で労苦を背負い、そこからの解放をようやく得ている姿であろうか。とにかくいえることとして、彼女がインディファティガブルと言われても、ラプラスは疑念のほうが勝っていたのである。 ラプラスが着席したのを見計らうかのように、ウェイターがソーサーに乗せたティーカップをラプラスの前に置いた。中の紅茶は程よく湯気を店内の空気に放っている。 「まあ、まずは一杯」 「…いい雰囲気、ですね」 「私も気に入っているんですよ。日々の癒しとしてはこの上ない場所です」 勧められるままに、ティーカップの取っ手を手に取った。 …微妙な渋み、しかし一方では甘みを感じさせる味覚的要素、それを全て統合しうる、強烈さと謙虚さを両立させるような、そんな芳香を、ラプラスは舌に乗せた。形容しがたいそれを表現するほどの専門性をこの人生で持っていなかったために、最も穏当かつ一般的な形容詞で彼女は表現した。 「とても美味しいです」 「イギリスにいた期間が、結構長かったものでして。紅茶にはこだわりがあります」
ティーカップを戻したラプラスは、そこから一呼吸ののちに、
「さて、どのような理由で私を呼んでくださったのですか?インディファティガブルさん」 違和感こそありつつも、招待者に準拠した名前で呼びかけた。ラプラスが返答として期待していたのは、健闘への勝算であったり、もしくは敗北の恨み節であったり、そういう意図である。このどちらか、おそらくは前者の線で彼女は語りかけてくるだろう……と考えていた。 「…『不撓不屈』ですか」 そういう期待は、しかし素早く、無視され、放棄を余儀なくされる。始点は形容しがたい微笑であった。 「ふふふ…なんとも、大げさな名前ですね、その方は」
……『その方』?
「あのー、あなたがインディファティガブルさんでは……」
「あら、そのような方はこの場所にはいませんよ?」 「…?」 困惑を隠せない、といった表情の前に、いたずらっぽい、といった笑いが相対している。 「失礼、ご挨拶が遅れてしまいました。私はランカスター。まあ、しがない競争ウマ娘ですよ。彼女、インディファティガブルの…まあ、一応友人です」 ラプラスの聴覚を刺激したその固有名詞は、その次に彼女の記憶を刺激した。 ランカスター…イギリスの地名にあったね、確か。爆撃機の名前にもある。あとは…何か他の用途でも聞いたことがあるような? 「急用のため、彼女はまだここに到着していないもので。私がその間埋めを頼まれました」 「なるほど、しかしそんな急用が来るとは、チャンピオンというのはやはり大変な仕事なのでしょう」 「どうなのでしょうね?本人は意外に楽しんでいるように見えます」 「ふむふむ…」 相槌を打ちながら、奇妙な感覚をラプラスは感じていた。どうしようもない矛盾を腹に抱えている。眼前の女性にもあるが、しかしそれ以上に、このシチュエーションそのものへのぬぐえない違和感。
「さしあたり、私と彼女との関係を詳細に…と、その前に私の経歴も手短に」
間埋め、という名目を果たそうと、ランカスターは切り出した。 「もともと私はイギリスで走っていましたが、どうにもうまくいきませんでした。なに、よくある話です。この世界は厳しいですから」 ありがちな話である。本来ならまずまず貴重である意欲と一定の能力との共生はあくまで前提。あとはいくらでも環境、努力、幸運、そして才能を無限に要求されるのがレース世界、あるいはそのガワをまとったこの世の競争の法則である。この世界に満ち満ちたその土台の上で、ランカスターは大半の側として、そしてその聞き手はごく少数の側として立っていた。 ただし、多数派が全くもって少数者になれないかと言えばそういうわけでもない。それをシフトさせる試みがある限りは。 「そういう中で、チームトレーナーが、こちらのチームへの編入を進めてくださいました。お前は走りのパワーが不足しているが、反面キレには見るべきものもあると、そうおっしゃっていました。香港なら、こちらよりはそれを生かせるのだ、と。そうしてこちらのチームへ移籍したのですが、同じ時期に彼女も移籍していたのです。そうやって縁ができました」 「……」 「ああ、言い忘れていました。今はレース中はランカスターという名前ではなく…」
途端、ラプラスの脳裏には、回顧の一矢が翔ぶ。
香港における競争従事者のウマ娘は2種類存在している。
一つはデビュー前から香港のトレセンで練習し、その後レースの世界に飛び出す、所謂「現地組」グループ。もう一つは、オーストラリアや欧州から移籍し、香港という新しい環境に挑む「移籍組」グループ。さて、ここでは後者を少しばかり解説しよう。 もともと香港移籍者というのは、移籍以前から戦績が伸び悩み、可能性に賭けて新天地を求めるウマ娘が多い。このような背景から、香港のレース業界では、これまでの競技者としての自分を捨て去り、新たな命を得るかのごとくにすべてを一新する、という慣習が存在している。 即ち、髪飾りを変え、新たな勝負服に身を包み…そして、もう一つの名を得る。 インディファティガブル、彼女は移籍組。イギリスのレース界に所属していたもののそこではイマイチで、香港を主戦場として、そこで名を挙げた。 つまりその名は新しき名で、本名ではない。そして、事前リサーチを思い出して、結びつく名前─
「少しお待ちいただけるでしょうか、ランカスターさん」
「どうしました?」 「…あなたのご友人が到着なさったようですね。というより、既にこのテーブルについていらしたようですが」
一瞬の間。
「…まあ、さすがにわかりますか…」 ランカスターが苦笑した。しかし彼女はそれをすぐに収めて、多少の真剣さを得た顔から、改めて音声が発せられる。
「失敬。少しばかりやってみたくなった。付き合わせて悪いね」
声色や口調が明確に変わる。若さと威厳の両立する英雄の声を、聞き手は知っていた。昨日までは記録媒体を経由してのものに限定され、そして昨日からは直接知った、そういう声である。 「改めて自己紹介といこうか。インディファティガブル、本名ランカスターだ。ようこそ香港へ」 「アドマイヤラプラスです。本名は…まあそのままですが、とにかく昨日はいいレースをありがとうございました」 「警戒してはいたが、正直あそこまで粘られるとはね…久々に楽しめたよ」 その視線が、先ほどまでの穏健なものを含んでいて、然し明瞭に別であることがわかる。同じ海でも、先は朝凪であったが、今は手荒な崖沿いの海岸のそれを感じ取れた。激しくはあるが、一方で積極的な危害とは無縁である、といった双眸。 「正直に言うと、最初は負けたかと思いましたね。こちらはできるだけの完璧な走りをしたはずなのに、最後は全く並んでいたわけですからね」 「賞賛に値する走りだよ。あの段階からあれだけの闘志を持ち続けるのはやはり非凡というほかない」 勝者の謙遜と敗者の敬意とがひとしきり交換される中で、昨日のあの瞬間が思い出された。強敵と争うのは楽しい、という、一定の強さがなければ成立しない思考の花が物静かに咲く。
「はーい、ファンサービス終了になりまーす」
一瞬ばかり間を置いて、女性の雰囲気が変わった。人としての芯の部分までは当然変えようがなくとも、然し多少なりのオーラが確かに、先の状態に戻った。 「ファンサービス?」 「あの尊大なキャラクター、だいぶ作ったやつなんですよね。オフの時にまでパブリックイメージを持ち込むのは、流石に肩肘を張るでしょう?」 「ふむふむ…まあその、とにかくご配慮ありがとうございます」 その深部に感じた微妙な、「かえって申し訳ない」を言語化するのを放置しておきつつ、眼前で穏やかな笑顔を見せる彼女を見ながら、紅茶を一口すする。 途端に意識外から離れていた先ほどの疑問が急激に脳幹を刺激したがために、ラプラスは言葉の衝動に従った。 「で、なぜ私を呼んでくださったんです?」 「そうですね……実のところ、特段意味があるわけではありません。ただ単にお話してみたくなったのです。久々に私を負かしたお強い方にね」 返答は、先の期待に遅れつつ明確に答えながらも、一方では曖昧さのスペースを確保していた。 「それは光栄です…でいいのかな」 「光栄という言葉を使われるほど、大した者でもありませんよ」 年の差はそれほどないにも関わらず、その口調は何処か老成しているように、ラプラスには感じられる。少女というより女性。そんな雰囲気を感じさせる程度には、その感情は事実であった。
「…自分語りのようにはなってしまいますが、私がそれなりの名族の一支流であるというのは、ご存じでしたかね?」
ランカスターが懐かしむように言う。 「ええ、アイルランドの某家の出身であることはリサーチ済みです。あなたの御一族にとってもおそらく自慢だと思いますが」 「『今では』ね」 語気が少しだけ強まるのをラプラスは感じた。話がそれなりの深刻さをまとったものであることが、どことなく察せられた。 「私は出奔者でしたから。実力があるという自尊心か、実力に勝る同世代が一族に存在していたことへの劣等感か…おそらくはその両方がありました。自分の環境…アイルランドから離れ、自分はもっとやれるのだと見返したかったのです。まあ、若かったのでしょう」 ランカスターの語り方から、奇妙な老成の感覚は排除されていなかった。それだけ若き日(今も若き日である、というのはさておき、ここでは相対的なものを指そう)記憶から消し去ろうと努めたのか、それとも移籍後のに過ごした時間の密度が、常人をはるかに上回っていたが故なのだろうか。 「自尊心の見立て通り、能力はあったようなのですけどね。イギリスに足を踏み入れたあの頃の私は、不思議なほどメンタルに難を抱えていたのです。緊張、圧力、歓声、疲労、環境…ひっくるめて言えば、恐怖、と言うのでしょうね。そういったものに、私は適応できなかった。半端に能力があるのに、精神がそこについていかない。そして私に待っていたのは…」
この後に登場を待つ単語を、ラプラスは事前リサーチの結果から知っていた。事前に軽くは確認しておいた、欧州時代のインディファティガブル、当時は本名そのままにランカスター、彼女のレース映像が思い浮かぶ。
即ち、「ラビット」である。
10月、欧州のレースではオフシーズン直前。チームトレーナーは、ランカスターの移籍に関する提案をする。彼は彼女が決して無能力ではなく、むしろそう現れない逸材であるとも見えていたが、一方でこの地でそれが咲き切るか、という疑問があったのも、同時に事実であった。
提案の段階で既に段取りは進められている。最後に必要なのは、それを受け入れる気概だけ。それができた瞬間に、歴史は確かに動き出した。
香港に移籍した海外のウマ娘は、勝負服を新調し、新しい名前を名乗る。死と誕生。決別と新たなる希望。そういう物を込めて、この島の競争と娯楽のシステムの一部へとなっていくのである。
それに関してはランカスターも同様だったが、彼女の場合は、この決別が単なる儀礼ではなく、実質を伴うものでなくてはならなかった。自分の中の弱さを、彼女は投げ捨てるか、少なくとも覆い隠す必要性に迫られていたのである。強くなるために、まず強くあろうとすることが、もっとも彼女のためになることであった。 「あの当時、私は変わる必要があった。臆病なランカスターではなく、王者の威厳を持つインディファティガブルに。実質を塗り替えるための虚構として生まれたのが、彼女というキャラクターなんです」
「そして、まあ幸いにして勝ちを重ねて、どうにか現在に至っているわけです。ドバイの後に一族から出奔者ではなく『誇り』だと呼ばれた時には、一族に自分の功績が吸収されて悔しいのだか、あるいは受け入れる世界があったのにわざわざ見放した昔の自分が阿保だったのか、少しばかり複雑になりましたけどね」
その自嘲は自然な流れであって、深刻さを察知できるであろう聞き手の側でも何となく笑気を誘発させられた。 「さて、私の方はこの程度で。次はあなたの番です」 「私?」 スコーンを手に取っていたラプラスは、疑問形で返す。 「あなたの物語も、少し聞かせてみてください。なぜあなたは、ここに立とうと思ったのか。そしてこれまで、どんな景色を見てきたのか」 「承知しました、やるだけやってみましょう……と、その前に一口」 「では私も…」 クリームを塗りたくったナイフでスコーンの表面を撫でながら、「どこから話しはじめようか」と、彼女は思案していた。
「…まあ、こうして今日に至るわけです」
「ありがとう。お友達に恵まれているのですね、良いことです」 2杯目に移ったカップも、内部の紅茶は大分浅くなり始めているのが見て取れる。 「では、一つ質問します。あなたにとって、走る理由は?」 ランカスターとしての顔を保ちながら聞いた質問には、一方で真剣さと隠せない威厳を経由して、もう一つの顔の影が見え隠れしている。作り上げたペルソナが、ついには本質に踏み込んでいるように。世間が「精神的な成長」と表現する、そういう物が、インディファティガブルにはあった。 「そうですね、いろいろとありますが…ひどく曖昧な言い方にはなってしまいますけど、とにかくいろいろある、というのが本音です、ごまかしではなく」 諦めようとしたときでも応援を続けてくれたファンへの感謝。ここまで付き合ってくれたトレーナーへの恩返し。ブレイズやフルールに勝ちたいと願った、その確かな思い。それらの理知とは別のベクトルにある、本能的な快感。全て全てが今の彼女を支えている。それに気づいたがゆえに、彼女は自分がここに立つ理由を見つけた。 「名誉欲も、快感も、敵愾心も、感謝も。すべての理由が正当なのだから、一つに固定しなくたっていい。そう思い続けてます」 「なるほどね、素晴らしい理由です、ええ」 短く儀礼的ではありつつも、社交事例というには丁重さを大分含んだ、そういう感想だった。 「逆に、あなたの側は?」 「そうですね、昔ならみんなを見返したい、とでも答えていたでしょうが……今なら、物語を作りたい、とでもいうべきでしょうか?」
記憶の中に眠る視界を、昨日のことのように鮮明に思い出せはしなくても、確かにランカスターの中に、原風景が眠っている。
カラレース場。スタンドに並ぶ紳士淑女たち。疾駆するウマ娘たち、そこから生まれる熱気。 そして、その世界に確かに魅了されていた、そんな少女の姿。
「私たちは物語を作れるのです。終わりなき物語などというものは幻影。けれどもその物語が私たちにもたらしてくれたものは…私たち自身の物語の中に、確かに脈づくのですから」
初めて聞く発言に親近を感じたのは、自分の物語の中に、これまでに見た物語が確かにあって、それが自分の物語の筋書きに多くのものをもたらしてきたから。そうラプラスは信じた。
既にティーカップが空になり、時針が相応の時間を指している。このひと時を刻む砂時計の赤い砂が、既に落ち切ろうとしているようだ。
ランカスターが差し出した手を、ラプラスが取る。二つの体温と細胞が重なり、生きている故の熱は双方に感じられていた。 「単純な言葉ではありますが…これからも応援しています」 「はい、そちらもご健康で」 言って、ランカスターは何かを思い出した、といった顔をして微笑んで、言葉をつづけた。 「君の走る理由を大事にしたまえ、挑戦者……そして、王者よ」
ラプラスの姿は空港のロビーにある。
香港でやるべきこと、及びやりたいことを終え、あとは懐かしの─尤も、この形容が似合う程度の長さの滞在ではないのだが─母国への飛行機を待っている。それゆえにこの無為の時間は、生きる上では必要な無為である。 そうはいっても、無為を単なる無為だけで済ませるのは勿体ない行為である。彼女は携帯電話を取り出して、ブラウザを開いた。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。ラプラスの行為は、その前者を成すためのものである。いずれ対峙する彼女らを迎え撃つために、必要なことだ。
『皐月賞を勝利したルナロッサは予定通りダービーへ。トレーナー「距離不安を払拭する走りを見せたい」』
『「すべての勝利はあの人のために」クラシック制覇を目指すジュニア王者、アスクアルタイルに直撃取材!』 『無敗のフォルティッシシモ、ダービーに向けて調整順調 豪脚再び光るか?』 |
+ | 新星到来 |
「毎年デビューする数千人のウマ娘、その中から選び抜かれた16人。すべてはこの日のために、夢の舞台へようこそ。東京優駿、日本ダービーです」
─今回がダービー初実況の某テレビ局アナウンサー
5月最後の日曜日という日付が、東京レース場の空気を異様なものにする。
レース界の年末と形容する人もいる、まだURAが帝國馬娘競争倶楽部と名乗っていた時代より続く、最古にして最高峰の栄誉。そういう肩書きを持つレースの直前ならば、この空気も妥当な物であろう。 準備運動、戦略の復習、精神統一、あるいは神頼み。それぞれの背景を背負った16人のウマ娘が、ゲート裏で準備を整えている。 「皐月賞ウマ娘ルナロッサがやはり先頭を取りに行くのでしょうか、そして注目の無敗のウマ娘、フォルティッシシモはどう行くのか」 ファンファーレが鳴る。年内に数度同じ曲を聴く機会があるが、今日の場合は特別な別の曲であるようにさえ、聞き手には感じられることだろう。立ち止まらずに時は近づく。 「さあゲートイン開始です。毎年デビューする数千人のウマ娘の頂点を決める一戦、最高の栄誉を求めるレースが始まります。さあ、今ゲートに入ったのはジュニア王者のアスクアルタイルですね」 カウントダウンは始まっている。上演時間は2分と20数秒。一回限りの限定公演の幕が、いよいよ上がる。 「16番ライオット、ゲートに収まりました、態勢完了!日本ダービー、今スタートしました!」
「まず前を目指すのは5番バックファイヤですが…おお、内に切り込んでルナロッサが積極的に行きました、やはり先頭を狙う!」
前走、G1の舞台で逃げ切りを見せた要注目のウマ娘が、得意のスタートからハナを取りに行くのは、出走者と観客双方の予想通りであった。ダービーという条件は逃げには不利に働くが、しかしそれは単に不利というだけであって、勝利を不可能にするものでは決してない。逃げ切りの前例は少ないが、新しい前例が成立する可能性も十分にある。そして勝ち負けを抜きにしても、ここでも自分のスタイルを通したという事実は、彼女のファンに後々まで続く喜びの声を挙げさせることだろう。 万雷の拍手を身に受けながら…という使い古された表現を用いて形容されるように、16人はスタンド前の直線を進んでいった。
澱みない流れで、一団が迎える向こう正面。
ここで重要なのは余力を残しつつ、終盤に向けての位置を確保すること。後ろすぎて届かない、ということは避けなくてはならないが、位置を確保するのにエネルギーを使いすぎてはならない。外を回りすぎるのも良くないが、一方でインに入りすぎて直線で前が壁になるのも良くない。 「今回ダービー初出走のトレーナーが送り出したシルバードラゴンが中段、その後ろに付けました朝日杯王者アスクアルタイル」 ある冷静なウマ娘は4コーナーを小回りに進んでからインをつくことを見越して位置をキープし、ある自信家のウマ娘は終盤に備えてロスを覚悟で外側へ回る。あるウマ娘は前進の本能と欲求を体の中で抑え込み、できなかったあるウマ娘が無計画に順位を上げていく。 「豪脚発揮かフォルティッシシモ後方、最後方追走はアンダーステートで…」 静かな攻防戦の中でも時間は緩まずに過ぎていき、中継カメラが名物の大ケヤキを画面に映し始める。
「先頭はルナロッサがまだ軽快に逃げている!アスクアルタイル中段から位置を上げる、そしてフォルティシシモまだ後方、外に持ち出して、第4コーナーカーブ、最終直線、頂点への道!栄冠をつかむのは誰か!ルナロッサまだ先頭だ!」
高速走行ゆえの遠心力に耐えつつ曲線を進んで直線になれば、あとは純然たる地力勝負となる。 「ルナロッサを先頭キープ、まだまだ粘っている、迫るアスクアルタイル、内からロードグッドラック、大外からフォルティシシモも足を伸ばす!」
ウマ娘にとって、─人間全般に拡張しても相当数の人に適応されることではあるだろうが、しかし彼女らの場合それは特に強調されるべきであろう─走る、ということは人生と不可分の行為である。
この行為の中で彼女らは好悪それぞれの反応を見せる。自身の速度が強みなら好意を抱くだろうし、そうでなければそのまま逆の感情を持つのは不自然ではない。今年の皐月賞ウマ娘にして、この時点で2冠ウマ娘に物理的に最も近い距離にいるルナロッサの場合、それは前者であった。 ただし彼女の場合、その走りへの好感情は、それを名誉獲得の武器にしているが故のものとは質を違えるものである。彼女はトゥインクル・シリーズを走ることによって得られる、競い合うことへの充足感や栄誉、そして響く声援を決して嫌ってはいない。嫌ってはいないが、しかしそれが彼女がここにいる最大の理由とは決してなりえない。 彼女が愛を注いでいたのは、走るという行為の結果ではなく、行為そのものである。
肌を通る風。後退していく景色。心臓が刻むビートに合わせて前に出る脚。
生命がここにあるという絶対的な実感に満たされた、他者の理解など不要な多幸感。 ─ああ、快い! ただ、この瞬間の、他の無くただ自分だけが存在する時間を、そしてこの純粋な世界への同化を、この心臓が、魂が鼓動する間だけ続けたい! もはや勝ち負けすらその視界になく、圧倒的な開放と自由、そして後方に流れていく世界だけが、ルナロッサの魂を飾る色彩になっていた。
「ルナロッサ逃げ切るのか?逃げ切れるのか!?内からアスクアルタイル伸びているぞ!」
一人でもいい。
そうアスクアルタイルは思っていた。尤も、今回に関しては過去形を使うことが誤りかもしれない。 憂鬱で鬱陶しいモノ。網膜に投影される大半の他者を、彼女はそう認識している。 彼女をそのように至らしめるまでの手掛かりは、一方で単一としては存在しないように感ぜられる。自分抜きに作られていくグループ。その中の愚劣な関係とそこを生成限とする災い、そしてその多少の波及。そして、その法則が限定的に適用されるものでなく、普遍であるという現実。 そこから離れていくうちに、彼女に近づくものが減少していくのと反比例しながら、彼女の他の人格への拒絶が少しずつ強まっていく。よく言えば、群れずに孤独を愛する人。悪意ある表現を用いるなら……「陰キャ、コミュ障」。 それでもいいのだと思っていた。それが強さだと信じることにしていた。
「君をスカウトしたい!一度断られたくらいで諦めないぞ!」
この世界に入ってきた以上、それはいずれ出会う変哲の無い言葉であった。 「有力な相手を意識しながらレースを運ぶんだ。君の慎重さとキレならそれができる」 そう、別の世界線でも出会っていたはずの言葉。 「初勝利おめでとう!これからも君を支えていくよ!」 それが、何よりの思い出として、息をする限りリフレインできそうにさえ感じられる。 「おめでとう!君の頑張りによる勝ちだ!出会えて、本当に良かった!」 それだけ…なんというか、そう、魅力的だったのだ。
一人でもいい。
そう言えるほど強く、そして弱くもない彼女が作らざるを得なかったいくつかの例外の中に、確かに彼の姿はあった。 彼のために。私の……特別のために。 「私は、走るっ!」
渾身の力とともにアスクアルタイルが、先頭を保っていたルナロッサを差した。
(勝った…!) 彼女は手に入れた。彼女個人の栄誉と、そして、彼に渡すための最高の瞬間を、彼女は手に入れたのだ。
……彼女の現在地が、このレースのゴール板に実際より僅かに近ければ、という仮定のもとに限って。
『こんな感じかしらねえ。最近触ってなかったのだけれども、思いのほか弾けるものね』
やっぱピアノ上手だよな、ばーさん。何の曲だったんだ? 『トゥウィンクル・シリーズのファンファーレよ。少し昔の曲だけれども、ね』 レース前に音楽を鳴らすの? 『そうよ。この音が流れてくると、みんな背筋を伸ばして、「負けないぞっ!」って気分になるのよ。私もダービーの時はそうだったわね』 ダービーって?凄いレースなのか? 『そりゃもう、ものすごいレースよ。レースの世界にいるウマ娘なら、みーんなそこで走りたいと思ってるのよ。ダービーに勝てたらもうそこでレースをやめてもいい!って人も、たくさんいるのよ』 ふーん、なんだか面白そうだなあ。 『そういえば、あの時のビデオを持ってたんだっけね。一緒に見ましょうか?』
原点となる記憶のレコードに刻まれている、幾度となく再生されたあの風景。爆心地、元凶、そして自分の核。
『明日、出発だねえ。緊張するかい?』
いいや全然。ずっと楽しみだな、俺は。 『まあ、それなら安心。ダービーを目指すんだろう?』 おう。そん時は婆さんも、近所のみんなと一緒に来てくれよ。 『もちろん。でもね、大げさな期待は気をつけなさいよ。あんまり目標が大きすぎると、うまく行かなかった時にやりづらくなるよ?』 そんなの知らねーよ。婆さんは心配性だなあ。老婆心ってやつか? 『あらやだ、そりゃ文字通りだ。まあ、フォルちゃんなら大丈夫だろうねぇ。私が見れなかった景色、見て来なさいな』 言われなくても。
デビュー戦後の軽いけがのせいでしばらく休養を余儀なくされていたとはいえ、やろうと思えば、フォルティッシシモの皐月賞出走は不可能ではなかった。けれども、三冠の可能性を最初から放棄してまで、この時が彼女は欲しかった。
ただ一度の、獲得すればそれ以上はもう不要物として切り捨てられても良いほどの、それだけの栄冠を手に入れたい。 今日までの数千日の人生が、まさに今日一日のためだけにあった。それは錯覚であって、しかし今の彼女が抱く疑いようのない事実でもある。 彼女は前に進む。叫ぶ。
「あそこに行くのは…俺だああッ!!」
ほとんど同じ状況を100度繰り返しても、同じ結果になるだろう、という絶対的な強さを表明するようなレースが、この世にはいくつか存在する。
一方でこの年のダービーには、その雰囲気はなかった。少しでも歯車がズレれば、全く別の結果を出力するような、そういうレースだった。 が、この競技において「たられば」は存在しえない。時間の針を戻すのは今の我々には不可能である。 だから、記録に、そして記憶に残る、唯一の尊い結果が、そこに生まれ出でるのだ。
「フォルティッシシモかわすか!交わしたー!ダービーウマ娘はフォルティッシシモ!」
世界のすべての視線が自分に降り注いでいるのが、フォルティッシシモには感じられた。表面に現れてはいないが、しかし激烈な高揚が、体の中を焼き尽くしてしまいかねない熱を放っている。聞こえてくる無数のコールが聴覚を殴りつけ、肌を流れる汗を吹き飛ばしてしまうように感じられた。
「……勝った。勝った!俺は勝ったぞーッ!!」
右腕を高らかに上げた途端、既に激しかった歓声が、もはや悲鳴との境界線を不明瞭にしている。 とても、メッゾフォルテなど鼻で笑われ、フォルテと比べるまでもなく、フォルテッシモですら足りないような…最上級の、実に最上級の。 力強く熱情的な歓声が、レース場という小さな世界を震えさせていた。
現役ウマ娘向けの優先スタンドからの拍手の音源の中に、アドマイヤラプラスの出す音もあった。
「やっぱりいいよね、ダービーってのは」 言ってみて、自分の台詞の陳腐さに少し苦笑する。確か昨年も言っていた。一昨年は…自分が出てた年ゆえ除外。その前の年は観客として…やはり言っていた気がする。別に修正しようとは微塵も思わなかったが。 「勢いに任せる軽快な逃げ、絶好のポジション取りからの切れ味、そしてすべてを叩き潰しに行く強烈な脚。いいねえ、最高の才能ばっかりだ。こりゃ首を取られないように用心しておかないと…」 言ってみて、彼女は気づいた。少し前には、この文章の後半部を言うことなど、考慮もしていなかったことを。 2年。少し、というには長い気がする。 相当の密度を抱えながら過ぎていった時間は、気づけば彼女をトップの形成者から中核にまで登らしめていたのである。かつての挑戦者は、今や王者の座から世間を見下ろし、迫りくる新時代の挑戦者を、温和な目で、しかし睨みつけている。 少し時を戻したころの自分は、その光景を外から鑑賞できていれば、それで満足だったのだが。不満などないが、いつの間にかそういうことまで気にせざるを得なくなっていた。 「しかしまあ、何が起きるか分からないよねー、人生って」 ……やっぱり使い古された台詞だな、と思った。
さて、それから3か月ほど。
この間にもトレセン学園にはそれぞれのニュース、そしてドラマが生まれていく。デビューするもの、勝利を積み重ねるもの、足踏みするもの、そして世代内未勝利戦のリミットを迎えるもの… 若手たちのそれぞれのドラマの一方で、シニア組もそれぞれの光景を見せる。あるものはサマーシリーズで実績と人気を積み重ね、あるものは合宿でさらなる心身の強化を行った。そしてまたあるものは…果敢にも海外遠征を。その象徴となった「アドマイヤラプラス、英国にて勝利!」の一報に関しては、ひとまず後の話としよう。
それぞれの夏が終わり、秋の涼風に温暖化の影響による夏日を入り混ぜた日常が始まっていたころ。一つのニュースが公開される。
『今年のダービーウマ娘であるフォルティッシシモは、秋の天皇賞を目標とすることが、トレーナーへのインタビューで判明した。これでダービー上位3人全員が、秋の天皇賞に参戦する運びとなる』 |