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本編
シニア編
+ | 第61話 |
「おかえりなさいませ、ご主人さま♡」
迎えたファン感謝祭当日、私たちのお店は予想通り大盛況を博していた。ベタすぎて逆に避けられたのか、メイド喫茶が私たちのクラスのみだったことは大きいとは思う。けれどそれ以上に好評だったのが大正浪漫を思わせる和風のメイド服と──
「……はい、あたしの勝ち。お代として1割増しだからねー」
勝てば割り引き、負ければ割り増し、メイド服を着た店員と腕相撲対決、このイベントがユニークだとSNSで人気を集めたことで、店の外に数十分待ちの長い行列ができるまでになった。
「本当によく思いついたものです。腕相撲に負けたお客さまも満足げですし、私たちは……」
「どうしたの、ザイア。ブツブツ言って」 「なんでもございません……あっ、しゅき……」 「えっ、ほんとにどうしたの……?」
ホールとキッチンの間からクラスの皆さんが接客されている様子を垣間見ていると、肩をトントンと叩かれ振り向く。一体誰かと思えば、そこに立っていたのは『立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花』を体現した、大変見目麗しいメイド服姿のお姉さまだった。きっと、いや必ず大正時代にこのような給仕が働いていれば、そのお店は大繁盛だったに違いない。私なら絶対毎日開店から閉店まで通いつめていた。
「それよりさ、そろそろホールの子と交代の時間じゃない? 一緒に行くよ」
「かしこまりました、お姉さま……いえお嬢さま」 「私のことはいいってば。でもその調子なら大丈夫そうだね」
そう言ってピンと背筋を伸ばすと、私とお姉さまはキッチンからホールへと歩いていく。お客さまがお姉さまを見て思わず『おぉ……』という声を声を上げたのを聞き、なぜだか自分のことのように嬉しくなった。
(やはりお姉さまは注目の的ですね……ですが残念ながら一番はあなた方ではございません)
そのときタイミングよくお店、もとい教室の扉が開かれ一人の男性が入店した。店中から聞こえる『おかえりなさいませ』の声に続いて、お姉さまは彼ににっこりと微笑んでこう伝える。
「おかえりなさい。注文は『いつもの』でいい?」
私には見える、2人の間に主人とメイド以上の醸成された甘い匂いが。「幸せ」を具現化した花畑が背景に描かれているのではと錯覚するほどに素敵な空間が出来上がっていた。
(お姉さま、存分に搾り……いえ、トレーナーさんと楽しく過ごされてください)
邪魔をする者はいない──
「そういえばザイアも同じシフトだったな。おーい!」
「……」 「あれ、ザイアだよな?」 「……」
人の恋路を邪魔する者はウマ娘に蹴られる。私は幼い頃にそう教わった。だから今は──
「あー、大変忙しいですー。ご主人さまとお嬢さまが大勢いらっしゃっていて猫の手も借りたいほど忙しいですー」
徹底的にトレーナーさんの存在を無視することにした。
(私のことを気にかけている暇があるなら、目の前のお姉さまに集中してください!)
心の中で彼にキレながら、そのシフト中私は無愛想なメイドとしてトレーナーさん以外への接客と割り引きを賭けた腕相撲をひたすらこなし続けていた。
─────
「トレーナーさんのあの周囲を見渡す力は時には仇となることを覚えておいてください」 「私の知らないところでみんなと仲良くなってるし……」 「悪かったって。ほら、腹減っただろうし何か奢るよ。だから、な?」
私たちのシフトが終わり、店の外で待っていたトレーナーさんと合流したのだけれど、お姉さまは少し、ではなく明らかに膨れていた。聞くところによるとシフトの時間に来る約束は果たしてくれたものの、自分だけを見てほしいとの契りは守られず、近くを通った知り合いのウマ娘と話をしていたらしい。私はあえて見ない、聞かないふりをしていたけれど、裏ではそのようなことが起こっていたみたいだ。お姉さまも独占欲はほどほどにした方がいいけれど、それを加味してもトレーナーさんのたらしっぷりが酷い。私はお姉さまの調子が奈落の底に落ちてしまわないように、トレーナーさんへキッチリと諫言した。
「私甘いもの食べたい」
「今はお昼どきじゃ……」 「トレーナーさん?」 「はい……」
大人であるトレーナーさんを叱るのも変わった話ではあるけれど、ここは反省してもらわないといけない場面なので厳しく接していく。別に私のメイド服姿を見てほしくないと言えば嘘になってしまうけれど、それ以上にお姉さまが報われてほしいという想いの方が大きいのだ。そこは理解してほしい。
「……とりあえずいろいろ見て回ろうか」
「トレーナーの素敵なエスコート、楽しみにしてるから」 「頑張るよ……」
─────
「及第点ではありました」 「そうか、及第点か……」 「私は楽しかったよ?」
休憩時間がそろそろ終わる頃、私たち3人はお店となっている教室へと並んで歩いていた。どこもかしこも学園外部からのファンの方たちで溢れかえっている中、時折私たちを応援してくださっている方たちから声をかけられることもあった。
「エスキモーさん! いつも応援しています! が、頑張ってください!」
「ありがとー! またお店にも来てね!」 「は、はい!」
やはりというか当然というか、お姉さまには男性の方のファンが多い。しかしながらお姉さまは『お姉さま』なので……
「あ、あの……」
「どうしたの? ゆっくりでいいから聞かせて?」 「お、お姉様と呼んでもいいですか!?」
などという女性ファンの方もたまに見かける。しかも必ずしも年下の女性というわけではなく、中には私たちより明らかに年上の方からもそのような声をかけられていた。
「むっ……私だけのお姉さまですのに……」
「本人も嫌がってないんだからいいじゃないか。第一最初にエスキモーのことをそう呼び始めたのってザイアだろ? いわばファン1号なんだから、むしろ胸を張らないと」 「確かにそうですね……その発想はありませんでした。ありがとうございます」 「納得してもらえたようで何よりだよ」
なぜか胸を撫で下ろしているトレーナーさんを視界の隅に見ながら、ファン対応を笑顔でこなすお姉さまの様子をうっとりと見つめていた。そのときメイド服の上から羽織っていたジャージの裾がくいくいっと引っ張られたのを感じ、視線を右下へと移す。するとそこには、お母様と思わしき方と手を繋いでいる小さなウマ娘が私の顔をじっと見つめていた。
「あら、どうされましたか?」
「……おねえさん、きょねんじーわん2つかってた。このまえも、レースかってた。わたし、みてたよ」 「ありがとうございます。私のレース、観ていただいていたのですね」
膝を曲げ、幼きファンである彼女と同じ目線で語らう。たどたどしくも私のことを応援してくださっている彼女の言葉は素直で心に染み渡る。
「けが、もういたくない?」
「はい、問題ありません。お気遣いありがとうございます」 「わたしもおねえさんみたいにはしれるようになる?」 「ええ。お母様の言うことを聞いて、たくさん走ればきっと。好き嫌いをしてはいけませんよ」 「わかった。ピーマンにがてだけどがんばってたべる」 「とても素晴らしいです。えらいえらい」
私が頭を撫でると彼女はニッコリと笑ってくれた。私もそれに釣られてつい頬が緩み、心がぽかぽかと温かくなっていく。そこからまた2つ、3つ言葉を交わし、最後に彼女と握手をして別れると、いつの間にかファン対応を終えられていたお姉さまとトレーナーさんが私の方をニコニコと微笑んで見守っていた。
「……お姉さまはいつから見られていましたか?」
「ザイアがあの子の頭を優しい顔で撫でてたときからかな? あのときのザイア、母性満点だったよね」 「ああ、慈愛の精神に満ち溢れていたな」 「……気のせいではないでしょうか。何かの見間違いでは?」
太陽が廊下を明るく照らす中、私はわずかに紅を差す頬を見られないように、2人を置き去りにして教室への帰路を急いだ。トレーナーさんはともかくお姉さまにはまた夜に弄られるのだろうけれど、ひとまず今はお仕事モードへと頭を徐々に切り替えることに努めよう、そう心に誓った。
(……それと次の大阪杯、勝つ理由が増えましたね)
お姉さまとともに走ることができる喜びと、ファンからの声援という両翼があれば私は負けない。お姉さまにもきっと。
─────
「お疲れさま、2人とも。この時間からコーヒーは飲まないだろうと思ってさ、温かいお茶買ってきたよ」 「ありがとうございます」 「ありがと。これすっごく温まるね」
全てのシフト時間が終わり、日もそろそろ地平線の彼方へと沈もうとしている頃、私たちは広場でキャンプファイヤーが行われているのを遠くから見つめていた。フォークダンスもウマ娘同士やトレーナーとウマ娘の組み合わせで行われてはいたけれど、私たちはその輪に入ることはせずに、ただ穏やかな時間を過ごしている。
「メイド喫茶をやるって決めてからあっという間だったね。大変だったのは大変だったけど、最後はみんな笑顔で嬉しかったな。トレーナーも支えてくれてありがとね」
「ええ、トレーニングと準備の連続で多忙な毎日でしたが、私もとても楽しませていただきました。トレーナーさんも練習面を含め、多々ご協力いただきありがとうございました」 「いいっていいって。もちろんレースで勝つことも大事だけど、オレは君たちが学園生活を楽しく過ごせるようにするのが仕事だからさ」
キャンプファイヤーが放つ明かりに照らされているトレーナーさんの横顔を見ながら、私は彼が自身のトレーナーでよかったと頭の片隅でぼんやりと考えていた。正直クラスの出し物にも注力したいと彼に伝えた時、断られるのではないかとわずかな危惧を抱いていた。当然トレーニングの時間を多少なりとも感謝祭の準備に持っていかれるわけなので、トレーナーとしての立場なら拒否したとしてもおかしくはなかった。ただそれでも彼は私たちの想いを受け止め、トレーニングと準備を両立できるよう最大限のサポートを約束してくれた。結果としてメイド喫茶は大成功を収めた上に、トレーニングでも好調を維持し続けられている。だからお姉さまと私は改めて彼へ感謝の意を伝えたのだ。彼は気にしないでと謙遜するけれど、区切りという意味でもこの気持ちを口にしておきたかった。
「でもそっか、来週はもう大阪杯なんだね……ねえトレーナー、今のところ出走予定なのって何人いるんだっけ?」
そのまま話はシームレスにレースの話題へと繋がる。レースと学園生活は表裏一体。先ほどトレーナーさんが言っていた台詞と被るけれど、それが私たちの日常なのだ。
「君たち含めて14人だな。登録はフルゲートだけど、2人は回避して翌週以降のレースに向かうらしい」
「そしてGⅠウィナーはお姉さまと私を含めて4人ですか……白熱した一戦になりそうですね」 「ああ。細かい分析は明日以降に伝えるけどいいレースになりそうだよ」 「ザイアと走れるの、ほんとに楽しみ! そうだ、せっかくだし今から踊る練習しとこ!」 「練習とは一体……ああ、フォークダンスですか……えっ私と、ですか!?」
お姉さまが指を指すのは真っ赤に燃える炎ではなく、その周囲を2人組で踊っている人たちだった。私はてっきりお姉さまはトレーナーさんとするのだと思い込んでいたので、予想だにしない指名についお姉さまの顔を二度見してしまった。
「もしかして嫌だった?」
「いえ、そういうことではございません。ただお姉さまはトレーナーさんと踊られるとばかり考えておりましたので、私と踊っていただけるなど夢にも思いませんでしたから」 「そっか。まあトレーナーともあとで踊るけど」 「踊るのは確定なんだな……」 「当然! だけど私はザイアとも楽しく踊りたいの。この手、取ってくれる?」
最初に誘った時とはうってかわって、お姉さまは私に向かって弱気に右手を差し出す。そんなお姉さまのしゅんとした表情を私はいつまでも見ていたかったけれど、私のことでいつまでも不安な思いを抱かせたくはなかったので、そっと左手をお姉さまの手の上に重ねた。
「それでは、失礼ながらお姉さまのお相手を務めさせていただきます」
「うん、一緒に踊ろ!」
握ったお姉さまの手は温かい。『手先が冷たい人は心も温かい』などと巷では言うけれど、お姉さまは手先も心も温かい方なのだと改めて思う。先程私と走ることをずっと楽しみにしているとおっしゃっていたのもきっと本心だろう。
(お姉さまに恥じぬ走りをしなければ、ですね)
空を見上げると、太陽の光で隠れていた星たちが1つ、2つ、3つと時を経るたびに顔を出し始める。隣で楽しげに踊るお姉さまもまた、私にとっては眩しく煌めく星のように見えた。
“Nihil difficile amanti. Lv.2→Lv.3”
─────
そして週末。ドバイの地で今、夜空に星が瞬こうとしていた。
「さあレイン! オレたちの出番だ!」
「うん。2人で一緒に頑張ろう、ルージュ」 |
+ | 第62話 |
時は少し遡り、私とお姉さまの大阪杯に向けた最終追い切りが行われた。無論2人の次走が大阪杯と決まってからレースまでは併走を行わないこととトレーナーさんが決められたので、同じウッドチップコースでの追い切りにも関わらずそれぞれ単走での実施となっている。
「最後の1ハロン、もう一段ギア上げろ!」
「……っ!」
脚も重くなってくる最後の1ハロンだけれど、トレーナーさんのかけ声を聞いてもうひと踏ん張り、いやふた踏ん張りほど脚へ力と気合いを注ぐ。そうして歯を食いしばってゴール板を駆け抜けると、そこから先は過度な負担が脚にかからないよう、徐々に速度を落としていき、ゆっくりとゆっくりと立ち止まる。私は大きく深呼吸をしながら他の方の走りを邪魔しないよう一旦ラチの外に出ると、そこから先は再びジョギングレベルで走り出し、2人が待つ場所へと駆け寄った。
「トレーナーさん、タイムはいかがでしたでしょうか?」
「ああ、ゴール前を強めに追い込んで6ハロン全体が80.3秒、最後の1ハロンが11.0秒なら文句なしだ。本番に向けて態勢はバッチリ整ったな」 「はい、タオルとドリンク。次は私の番だしもう行くね」 「ええ、ありがとうございますお姉さま。お姉さまも頑張ってくださいね」
私の感謝とエールにお姉さまは走りながら後ろ手を振って応えてくれた。トレーニングを始める前より太陽がわずかに傾きつつある中、私はそのようなお姉さまの背中をただじっと眺めていた。
「位置について! よーいスタート!」
トレーナーさんがかけ声とともにストップウォッチのスイッチを押した瞬間、お姉さまは爆発的なスタートダッシュを決めた。私たちの周囲で休憩していたトレーナーやウマ娘の方たちも思わず感嘆の声を上げてしまうほどのそれは今のお姉さまの絶好調ぶりを示していた。
「あまり飛ばさなくてもいいからと伝えていたんだが、それでもこのインパクトか……」
「以前より迫力が増していますね。お姉さま、流石です」
快調に飛ばすお姉さまの表情を遠目で見てみても全く苦しそうに見えず、むしろ笑っているのではないかと感じるほどに軽快な足取りでウッドチップを蹴り上げている。見た者に週末の結果は決まったと思わせるほどの衝撃をもたらすお姉さまの走りは、かの空を飛ぶとまで言われた英雄を思い出させた。
(それでもまだレースは始まってすらいません。負けを認めるのはあまりにも早計です)
トレーナーさんの真横から一歩だけ後ろに下がると、彼に見られないように歯を食いしばり拳を強く握る。武者震いか、それとも恐怖故か、視線を下に下げると足が小刻みに震えているのが見えた。
(勝ちたい……お姉さまに勝ちたい、です。そのために私は……)
顔を上げ、トレーナーさんの横顔をじっと見つめる。彼は私がお姉さまに勝つ手段を必死になって考えてくれている。そう強く信じ、当日まで彼の指示に従おうと心に決めた。
「ゴール! よし、最後も問題なく伸びている。好調キープだな」
「私より少し外を回ったにも関わらず6ハロン82.2秒、最後の1ハロンが11.7秒ですか」 「あとは本番まで維持できるかが鍵だな。もちろんザイアもな」 「ええ、お姉さまに負けるつもりはございません」
トレーナーさんのすぐ隣で、 帰ってくるお姉さまへ渡すタオルとドリンクの準備をする。本番のレースでは敵だったとしても今は互いに声援を送り合う親友兼仲間として、笑って過ごしたいなと夕焼け空に願いをかけた。
─────
「それじゃまずはレインのブリーフィングからやっていこうか」 「はい、お願いします」
日本から遠く離れたドバイ、メイダンレース場。今晩ここで行われるドバイワールドカップミーティングにボクとルージュの2人が選出された。ボクは外側の芝コースを一周する2410mのドバイシーマクラシックに、ルージュはダートコースを一周と少し走る2000mのドバイワールドカップへと出走する。ただ初めからドバイシーマクラシックへ照準を合わせていたボクとは異なり、ルージュについてはドバイワールドカップの他にもボクと同じレースか、もしくは芝1800mで行われるドバイターフも検討していたとトレーナーさんは話していた。しかし前走であるサウジカップにてダート適性が垣間見ることができたとのことで、それより距離が1ハロン延長されるドバイワールドカップに歩を進めることになったとのことだ。
「レインのゲート番は5番。出走者は12人だからちょうど真ん中辺りの枠からスタートすることになる」
「外枠引かなくてよかったよなー。最初のコーナーまで1ハロンぐらいしかないんだろ?」 「うん。ルージュみたいな差しや追い込み脚質ならともかく、基本的に先行するタイプのボクからしたらかなり厳しかったかもしれない」 「ああ。秋天や有馬と比べるとよりかはまだマシだが、イン有利になることは間違いない」
トレーナーさんの言う通り、東京レース場の芝2000mはスタートしてから2コーナーまでの距離が130m、中山レース場の芝2500mでは4コーナーまで200m弱と、ドバイより外枠が不利なコース形態になっている。そのような不利の中、去年の有馬記念でボクにハナ差まで迫ったエスキモーはやはり実力もレースセンスもずば抜けていると思う。もし枠がボクと逆だったなら楽勝していたことだろう。それほどまでの差がボクと彼女の間には存在する。
「だったら練習通り今日もある程度前につける形でいいんですよね?」
「それで問題ない。例年と変わらずそれほどハイペースにはならないだろうから」 「いっそのこと逃げるとかどうだ? 確かレインの姉ちゃんもそれで勝ったんだろ?」 「あれは姉さんの実力が抜けていただけだから。流石にボクには難しいよ」 「そうか? オレはできると思うんだけどな」
靴を脱いでソファに足を伸ばすルージュの言う通り、確かにボクの姉さんは初めての海外の舞台で初めて逃げて、そして勝った。しかもレースレコードのおまけつきで結果3バ身以上の差をつけての圧勝。このレースをきっかけに姉さんは世界最強と呼ばれるようになった。
「トレーナーとしての立場から言うと、初めから決めていたならともかくレースの展開次第で逃げるというのはあまりオススメはできない。逃げるということは常に他の出走者全員に背中を晒し続けるプレッシャーに耐えなければいけない。それに加えてペースメイクも大事になる。大一番で突発的にすることじゃないよ」
「そう、ですよね。姉さんにレースの時のことを聞いたら、ある程度想定していたからできたって言っていました」 「すげーな、やっぱり」
確かに大一番で展開を見て逃げた姉さんはすごい。だけどボクはボクだ、姉さんじゃない。あの日姉さんに勝った「彼女」みたいにボクは勝ってみせる。
「でもやっぱりボクは逃げません。いつもみたいに番手につけるレースで勝ってみせます」
「うん、それでいい。君が走りやすいように走ったらいいんだ」 「わわっ……いきなり頭を撫でられるとびっくりしますよ、トレーナーさん……」 「つい撫でたくなってな、悪い悪い。というか前にエスキモーにも同じこと言われたんだよな」 「そりゃそうだろ。オレは気にしないけど髪グシャグシャになるしな」
ルージュの発言を聞いて、トレーナーさんがボクの頭から手を離す。『ごめんな?』と言ってくれるトレーナーさんに「気にしてないです」とボクは笑ってごまかした。けれど。
(少しびっくりしただけで、嫌とは言ってないんだけどな……)
トレーナーさんに撫でられるのは嫌いじゃない。ルージュがいる手前言えなかっただけで、本当だったらもっと撫でてほしかった。娘にするのと同じように、いやそれ以上に。
「とりあえずレインのブリーフィングはこんなところで、次はルージュだな」
「そんなんアレだろ? サウジカップよりもうちょい前につけて、道中ガーッと捲っていけばいいんだろ?」 「じゃ、そういうことで」 「いやいやいや! もう少しこう、さあ!」
トレーナーさんとルージュが楽しそうに言い合っているのを何も言わず、ただ細い目で見つめる。
(父さんとこんなのしたことなかったな……)
太陽は沈み月が輝く。外では宴を祝う花火が大量に打ち上がる中、少しずつ決戦の刻が迫っていた。
─────
現地時間午後8時、GⅠドバイシーマクラシックの出走時刻を迎えた。夜闇の中眩い光に照らされる芝の上に設けられたゲートに次々と収まっていく猛者たちは、虎視眈々と瞳の先にあるゴールだけを見ている。
(日本のウマ娘はボクを含めて3人。その中で海外初挑戦なのはボクだけ)
同じレースに挑む仲間として、先輩である2人とは現地入りしてから世間話や最近の調子などを語り合い、互いに緊張を解し、解してもらっていた。GⅠの勝利数としてはボクがトップだったけど、先輩たちからは「海外経験談」という大切なものを教えてもらった。
(ルージュからも教えてもらっていたんだけど、彼女の場合表現が直情的だったり擬音語混じりだったからね……)
彼女の『海外ってさあ!』という話をこのタイミングで思い出し失笑してしまう。だけどおかげで無駄に入っていた力がふっと抜け、平常心へと戻ることができた。
(大外のウマ娘がゲートに入った……ふぅ……)
そして係員が外ラチの方へ小走りで駆けていき──
(行くよっ!)
ガコンと音を立てて開いたゲートから飛び出し、150秒弱の物語が幕を開けた。
─────
(大きな出遅れは……なし。外から被せてくるのが何人かいるけど、この場所は譲らないよ)
1コーナーまでの1ハロンを抜け、進路を左へと変えていく12人。ダートコースとの間に設けられている数m幅の通路に中継用の車が走っているのを横目に見ながら、淡々としたペースでレースが展開される。しかしペースは落ち着いてはいるけど、位置取り争いは日本以上に熾烈だった。
(トレーナーさんから聞いてはいたけど……っつ! それでもボクは……!)
そこを譲れと言わんばかりのプレッシャー。それに制裁を受けないギリギリのラインを攻めるように行われる接触。昔のレースの記事で海外のウマ娘が『日本のウマ娘は上品すぎる』と話していたものを見たことかあるけど、それはこういうことだったのかと身をもって痛感する。だけど。
(ボクだって体を強くするためにトレーニングを重ねてきた。昔みたいにエスキモーたちより強度を下げないとすぐに疲れが出てしまっていたボクじゃない。だから、この場所は君たちには譲らない!)
これ以上争っても疲弊するだけと悟ったのか、2コーナーからバックストレッチに向かう頃には圧が弱まった。無論前から3番手ほどで内ラチ沿いを走っているので、すぐ隣には1人ボクをマークするように併走しているものの、過度に寄せてくるようなラフプレーはなくなった。
(ペースも少し落ち着いた。残り半分ぐらいだし、この辺りで息を入れられそうかな)
細かいタイムまでは分からないけど、おそらくダービーより若干スローで流れている気がする。あとで映像を見たら確か最初の1000mを60秒を切るぐらいで進んでいた気がするから、今回は大体1000m62秒前後で流れていると思う。
(トレーナーさんの予想通り。これなら!)
3コーナーが目前に迫る中、心の中でわずかな自信の炎が灯った。残り1000mを迎え、若干落ち着きを見せていた後続バ群が徐々に騒がしさを増す。それでもなおボクの頭と心は凪いだ湖のように平穏を保っている。焦らず、気負わず、今走っているこの場所が家の庭と錯覚するほどにただ静かにラストスパートのタイミングを計る。
(4コーナー手前なのに後ろはもう仕掛け始めている……背中に感じる圧と聞こえる蹄鉄の音がちょっとずつ大きくなってきている。それでもまだ耐えて、耐えて……)
4コーナーに入ってバ群が一気に凝縮される。前を走るウマ娘の勢いが若干衰え、反対に後続が一気に押し寄せることで横にずらりと並ぶ展開となった。
(残り600m……よし、今だ!)
進路を瞬時に探し出し、そこへ目掛けてアクセルを一気に踏み込む。ギアを1つ、いや2つ上げ、芝どころかその下の土までえぐり取るほどの踏み込みは誰の追随も許さない。
(この一撃でボクは世界に……!)
“蛟竜、雲雨を得 Lv.3”
かの伝説にはまだ遠く及ばないけど、それでもなお前であがいているウマ娘を一瞬で切り捨て、後続も瞬時に置き去りにする。瞳に映る姉さんの幻影を振り払い、ただひたすらに光煌めくゴールへと全速力で駆ける。
(世界の強豪なんて知ったことか。ボクはあの日見た輝きに手を伸ばすんだ……!)
「ああああああああああっっっっっ!!!」
残り100m、再び背後に強烈な圧を感じる。頂点は絶対に譲らないと言わんばかりのその迫力、並大抵の者では怯んでしまうほどの圧迫感。しかし今のボクはもうそのようなものに怯えることはない。
(トレーナーさんが、ルージュが、海の向こうでエスキモーが見ているんだ……負けるものか!!!!!)
残り50m、40m、30m……そして──
「んんんんんっっっ!!!」
ボクは夜空に輝く一番星となった。
─────
「おめでとう、レイン!!!」 「やるじゃねえか! これはオレも頑張んねえとな!」 「トレーナーさん、汗臭いですから抱きしめられるのは……ルージュもそんなに背中叩かないで……」
控え室に戻るなりトレーナーさんとルージュから盛大な祝福を受けた。正確には盛大というより若干手荒なものだったけど、これほど喜んでもらえたならありがたく受け取っておこうかな。
「本当によくやってくれた。ゴールのあとなんて隣にいた知らない外国人と握手したぐらい興奮したよ」
「オレも思わず机叩きまくったわ。まあちょっと力入れすぎて変な音聞こえたけど、たぶん大丈夫だろ」 「トレーナーさんもルージュもボクの知らないところで何やってるの……」
トレーナーさんはともかくルージュはあとで怒られるんじゃないだろうかと内心ヒヤヒヤしながらも、祝福の時間はルージュがスタッフに呼び出されるまで続いた。
「次はルージュの出番だな。オレは一旦外に出ているから、準備が済んだらまた呼んでくれ」
「分かりました」
ルージュが慌ててパドックに向かってから、ボクはようやくタオルで顔の汗を拭い、用意してくれていたスポーツドリンクで喉を潤した。このあとルージュのレースとウイニングライブが立て続けにある関係で、シャワーを浴びて着替え直すことができないのは残念だけど、自分のことを心から応援してくれた親友へ声援を送らないわけにはいかないから仕方がない。ひとまずボクは勝負服を脱ぎ、大きめのタオルで全身の汗を拭いた。
(汗の匂い大丈夫かな……でもさっきは汗も拭いてないのに抱きしめてくれたし……でもやっぱり嫌かも……)
少し悶々としつつも手っ取り早く処理を済ませて着替え終わったところで、外で待っていたトレーナーさんを部屋の中へと呼び戻す。そのあと数分間トレーナーさんがどんな反応をするのかチラチラと見ていたけど、幸いにも何も言われることはなく、胸をホッと撫で下ろした。
「そろそろ観客席まで行こうか」
「はい!」
観客席まで向かう道中、嬉しくなったボクはいつもより近く、腕がぶつかるかぶつからないかぐらいの距離でトレーナーさんの隣を歩いた。きっとトレーナーさんはそのことに気づいていたんだろうけど、何も言うことなく他愛もない話をコースに着くまで続けてくれた。
─────
メイダンレース場、ダート2000m。1コーナーまでの300mで最後の直線は400m。キックバックが激しく、基本的には先行勢が有利。
(んなことは知らねえ。というか興味ねえ)
海外、主にアメリカのダートでは最初から飛ばしていき、最後はバテ合いの中どれほど粘れるかということはトレーナーから教えてもらった。実際、先月に走ったサウジカップでそれは痛いほど思い知らされた。
(まああの時は距離が短かったしな! ダートの感覚はなんとなく掴めたし、今回は1ハロン延長して2000mだからな)
相手関係はある程度頭に入っている。といってもいわゆる人気勢は前走オレが負けた相手ばかりだから、否が応でも印象に残っているだけとも言える。
(とにかく全員ぶち抜く! それ以外ねえ!)
すっかり夜の帳が下りたレース場。煌々と輝く照明に照らされながら、オレはゆっくりと「8」と記されたゲートへと足を踏み入れた。
(出遅れだけ注意して……)
外枠の方を見ながらゲートが開くタイミングを計る。最後に全員ぶち抜くとはいえ、デメリットしかない出遅れだけは避けたい。
(よし、大外の奴が入った)
最後に後ろ扉が閉められ全員がゲートへと収まる。そして係員が外ラチ側へと退避して──
(今だ……!)
ゲートが開いた。
(出遅れ、なし。砂が飛んでくるのダルいから少し外に出してっと)
ラストスパートのタイミングでドロドロになるのは仕方ないとして、レース序盤から砂まみれにはなりたくない。その上オレの脚質を考えると、ある程度外目でレースを進めた方がいいのは明らかだからな。
(それにしても相変わらずペースが速いこって。まあそんだけ飛ばしてくれたらオレはありがてえけどな)
芝でもダートでもハイペースになれば後方勢が有利になるし、スローペースになれば先行勢が有利になる。ただダートは瞬発力を活かしにくい関係上、ハイペースになっても差しにくい、らしい。これもトレーナーが言っていた。
(前から数えて……8番手ぐらいか? まあ想定通りだな)
レースは早くも向こう正面に入り、レースの中間地点を通過する。感覚的にはサウジカップよりは若干遅いが、あの時より1ハロン長い関係で最後はよりバテる中をいかに粘り込むかというレースになりそうだ。まあ全部トレーナーからの受け売りなんだがな。
(兎にも角にもやるっきゃねえなあ!)
残り800mほどとなり、3コーナー手前の上り坂を一気に駆け上がる。そこから先はゴールまで緩やかな下り坂が続いている。すなわち。
(仕掛けどころはここしかねえ!!!)
本来は直線一気を信条としているが、いつもと違うダートなら話が変わる。仕掛け方がアイツとダブるのが若干癪に障るが、この大舞台で四の五の言っている場合ではない。
(やってやらあ!)
芝とは異なる足元の感触。芝と比べて力が逃げやすくスピードを出しにくい。ただ。それならば。
(バ場の底までこの脚でぶち抜いて走りゃいいだけだろうが!!!)
オレが目指しているのは世界一の玉座。そこには芝もダートも関係ない。己の使命に従ってただ突き進むのみ。
(世界一の座、掴んでやるよ!!!)
“THE WORLD IS MINE Lv.3”
「ああああああああああっっっっっ!!!」
オレの唸り声に前を走っている奴らが全員ギョッとした顔で振り返り、そして負けじとスパートを掛け始める。ただ前半に飛ばした分先頭集団を形成していた奴らの動きは重く、直線入口で中団に構えていたオレたちと立ち位置が入れ替わる。
(はぁ……はぁ……真ん前には誰もいねえ。ただ右を見ても左を見てもまだまだ余裕そうな顔がずらりと並んでやがる……)
末脚の斬れ味には自信がある、というより自信しかない。ただやはりダートとなれば話は別で、ダートに特化した奴ら、例えばアメリカで走ってきたような奴らとは経験の差がどうしても出てしまう。
(んなことは百も承知なんだよ!!! それでも勝って最強を証明してやる!!!)
杭を打ち込むように力を込めてダートに脚を叩き込む。そしてそれを前への推進力に変換して前を走る奴らを捉えんとする。砂まみれでもいい、ドロドロに汚れてもいい。そんなもの終わってから洗い流してやればいいのだから。
「くっそおおおおおおおおおっっっ!!!」
ただ。それでもなお。世界の壁は厚かった。付け焼き刃の経験値ではあと一歩が埋まらない。栄光のゴールを先頭で駆け抜けることは、叶わない。
『──やはり世界の壁は厚かった! 日本のウマ娘で最先着したのは3着のメニュルージュ! 半バ身及びませんでした!』
─────
ボクとトレーナーさんが先に戻っていた控え室に、レースを終えたルージュが駆け込んできた。悲しいというより悔しいとの感情を貼りつけたその顔から発せられたのは己の未熟さを嘆くもので、ボクたちはそれを淡々と聞いている。
「くっそおおおおおおおおおっっっ!!! あと少しで勝てたんだ、あと少しでっ……! すぐそこだったんだ……」
「うん」 「もう少しゲートが……いやそれだけじゃあの差は埋まらねえ。やっぱり道中の位置取りの差だったか? もう一列前なら……ただもしかしたらハイペースにオレも巻き込まれていた可能性もあった……」 「そうだな。また明日ゆっくり考えよう」
勝ちと負けは薄紙一枚の差でしかない。僅差の決着であれば尚更そうだ。それをルージュもボクも、無論トレーナーさんも心に刻み込まれるほど理解している。だから今の彼女に安易な慰めはしない。自分の立場ならしてほしくないと分かっているから。
「ライブが始まるのが少し遅れるみたいだ。だから今から一緒にシャワーを浴びにいかない?」
「……ああ。このまま泥だらけでステージに立ったら怒られそうだからな」 「ふふっ、ルージュもそんなこと気にするんだ」 「当たり前だろ! オレだってれーせつ?ぐらい弁えてるっつーの」
ただ慰めではないけれど、少しぐらい気晴らしをさせてあげたくて、ライブの遅延を口実に彼女をシャワーに誘う。流した汗も顔や体を覆う泥も、そしてかすかに零れる悔し涙も洗い流せるように、ボクは笑いながら彼女の背中を押した。
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