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本編
シニア編
| + | 第61話 |
「おかえりなさいませ、ご主人さま♡」
迎えたファン感謝祭当日、私たちのお店は予想通り大盛況を博していた。ベタすぎて逆に避けられたのか、メイド喫茶が私たちのクラスのみだったことは大きいとは思う。けれどそれ以上に好評だったのが大正浪漫を思わせる和風のメイド服と──
「……はい、あたしの勝ち。お代として1割増しだからねー」
勝てば割り引き、負ければ割り増し、メイド服を着た店員と腕相撲対決、このイベントがユニークだとSNSで人気を集めたことで、店の外に数十分待ちの長い行列ができるまでになった。
「本当によく思いついたものです。腕相撲に負けたお客さまも満足げですし、私たちは……」
「どうしたの、ザイア。ブツブツ言って」 「なんでもございません……あっ、しゅき……」 「えっ、ほんとにどうしたの……?」
ホールとキッチンの間からクラスの皆さんが接客されている様子を垣間見ていると、肩をトントンと叩かれ振り向く。一体誰かと思えば、そこに立っていたのは『立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花』を体現した、大変見目麗しいメイド服姿のお姉さまだった。きっと、いや必ず大正時代にこのような給仕が働いていれば、そのお店は大繁盛だったに違いない。私なら絶対毎日開店から閉店まで通いつめていた。
「それよりさ、そろそろホールの子と交代の時間じゃない? 一緒に行くよ」
「かしこまりました、お姉さま……いえお嬢さま」 「私のことはいいってば。でもその調子なら大丈夫そうだね」
そう言ってピンと背筋を伸ばすと、私とお姉さまはキッチンからホールへと歩いていく。お客さまがお姉さまを見て思わず『おぉ……』という声を声を上げたのを聞き、なぜだか自分のことのように嬉しくなった。
(やはりお姉さまは注目の的ですね……ですが残念ながら一番はあなた方ではございません)
そのときタイミングよくお店、もとい教室の扉が開かれ一人の男性が入店した。店中から聞こえる『おかえりなさいませ』の声に続いて、お姉さまは彼ににっこりと微笑んでこう伝える。
「おかえりなさい。注文は『いつもの』でいい?」
私には見える、2人の間に主人とメイド以上の醸成された甘い匂いが。「幸せ」を具現化した花畑が背景に描かれているのではと錯覚するほどに素敵な空間が出来上がっていた。
(お姉さま、存分に搾り……いえ、トレーナーさんと楽しく過ごされてください)
邪魔をする者はいない──
「そういえばザイアも同じシフトだったな。おーい!」
「……」 「あれ、ザイアだよな?」 「……」
人の恋路を邪魔する者はウマ娘に蹴られる。私は幼い頃にそう教わった。だから今は──
「あー、大変忙しいですー。ご主人さまとお嬢さまが大勢いらっしゃっていて猫の手も借りたいほど忙しいですー」
徹底的にトレーナーさんの存在を無視することにした。
(私のことを気にかけている暇があるなら、目の前のお姉さまに集中してください!)
心の中で彼にキレながら、そのシフト中私は無愛想なメイドとしてトレーナーさん以外への接客と割り引きを賭けた腕相撲をひたすらこなし続けていた。
─────
「トレーナーさんのあの周囲を見渡す力は時には仇となることを覚えておいてください」 「私の知らないところでみんなと仲良くなってるし……」 「悪かったって。ほら、腹減っただろうし何か奢るよ。だから、な?」
私たちのシフトが終わり、店の外で待っていたトレーナーさんと合流したのだけれど、お姉さまは少し、ではなく明らかに膨れていた。聞くところによるとシフトの時間に来る約束は果たしてくれたものの、自分だけを見てほしいとの契りは守られず、近くを通った知り合いのウマ娘と話をしていたらしい。私はあえて見ない、聞かないふりをしていたけれど、裏ではそのようなことが起こっていたみたいだ。お姉さまも独占欲はほどほどにした方がいいけれど、それを加味してもトレーナーさんのたらしっぷりが酷い。私はお姉さまの調子が奈落の底に落ちてしまわないように、トレーナーさんへキッチリと諫言した。
「私甘いもの食べたい」
「今はお昼どきじゃ……」 「トレーナーさん?」 「はい……」
大人であるトレーナーさんを叱るのも変わった話ではあるけれど、ここは反省してもらわないといけない場面なので厳しく接していく。別に私のメイド服姿を見てほしくないと言えば嘘になってしまうけれど、それ以上にお姉さまが報われてほしいという想いの方が大きいのだ。そこは理解してほしい。
「……とりあえずいろいろ見て回ろうか」
「トレーナーの素敵なエスコート、楽しみにしてるから」 「頑張るよ……」
─────
「及第点ではありました」 「そうか、及第点か……」 「私は楽しかったよ?」
休憩時間がそろそろ終わる頃、私たち3人はお店となっている教室へと並んで歩いていた。どこもかしこも学園外部からのファンの方たちで溢れかえっている中、時折私たちを応援してくださっている方たちから声をかけられることもあった。
「エスキモーさん! いつも応援しています! が、頑張ってください!」
「ありがとー! またお店にも来てね!」 「は、はい!」
やはりというか当然というか、お姉さまには男性の方のファンが多い。しかしながらお姉さまは『お姉さま』なので……
「あ、あの……」
「どうしたの? ゆっくりでいいから聞かせて?」 「お、お姉様と呼んでもいいですか!?」
などという女性ファンの方もたまに見かける。しかも必ずしも年下の女性というわけではなく、中には私たちより明らかに年上の方からもそのような声をかけられていた。
「むっ……私だけのお姉さまですのに……」
「本人も嫌がってないんだからいいじゃないか。第一最初にエスキモーのことをそう呼び始めたのってザイアだろ? いわばファン1号なんだから、むしろ胸を張らないと」 「確かにそうですね……その発想はありませんでした。ありがとうございます」 「納得してもらえたようで何よりだよ」
なぜか胸を撫で下ろしているトレーナーさんを視界の隅に見ながら、ファン対応を笑顔でこなすお姉さまの様子をうっとりと見つめていた。そのときメイド服の上から羽織っていたジャージの裾がくいくいっと引っ張られたのを感じ、視線を右下へと移す。するとそこには、お母様と思わしき方と手を繋いでいる小さなウマ娘が私の顔をじっと見つめていた。
「あら、どうされましたか?」
「……おねえさん、きょねんじーわん2つかってた。このまえも、レースかってた。わたし、みてたよ」 「ありがとうございます。私のレース、観ていただいていたのですね」
膝を曲げ、幼きファンである彼女と同じ目線で語らう。たどたどしくも私のことを応援してくださっている彼女の言葉は素直で心に染み渡る。
「けが、もういたくない?」
「はい、問題ありません。お気遣いありがとうございます」 「わたしもおねえさんみたいにはしれるようになる?」 「ええ。お母様の言うことを聞いて、たくさん走ればきっと。好き嫌いをしてはいけませんよ」 「わかった。ピーマンにがてだけどがんばってたべる」 「とても素晴らしいです。えらいえらい」
私が頭を撫でると彼女はニッコリと笑ってくれた。私もそれに釣られてつい頬が緩み、心がぽかぽかと温かくなっていく。そこからまた2つ、3つ言葉を交わし、最後に彼女と握手をして別れると、いつの間にかファン対応を終えられていたお姉さまとトレーナーさんが私の方をニコニコと微笑んで見守っていた。
「……お姉さまはいつから見られていましたか?」
「ザイアがあの子の頭を優しい顔で撫でてたときからかな? あのときのザイア、母性満点だったよね」 「ああ、慈愛の精神に満ち溢れていたな」 「……気のせいではないでしょうか。何かの見間違いでは?」
太陽が廊下を明るく照らす中、私はわずかに紅を差す頬を見られないように、2人を置き去りにして教室への帰路を急いだ。トレーナーさんはともかくお姉さまにはまた夜に弄られるのだろうけれど、ひとまず今はお仕事モードへと頭を徐々に切り替えることに努めよう、そう心に誓った。
(……それと次の大阪杯、勝つ理由が増えましたね)
お姉さまとともに走ることができる喜びと、ファンからの声援という両翼があれば私は負けない。お姉さまにもきっと。
─────
「お疲れさま、2人とも。この時間からコーヒーは飲まないだろうと思ってさ、温かいお茶買ってきたよ」 「ありがとうございます」 「ありがと。これすっごく温まるね」
全てのシフト時間が終わり、日もそろそろ地平線の彼方へと沈もうとしている頃、私たちは広場でキャンプファイヤーが行われているのを遠くから見つめていた。フォークダンスもウマ娘同士やトレーナーとウマ娘の組み合わせで行われてはいたけれど、私たちはその輪に入ることはせずに、ただ穏やかな時間を過ごしている。
「メイド喫茶をやるって決めてからあっという間だったね。大変だったのは大変だったけど、最後はみんな笑顔で嬉しかったな。トレーナーも支えてくれてありがとね」
「ええ、トレーニングと準備の連続で多忙な毎日でしたが、私もとても楽しませていただきました。トレーナーさんも練習面を含め、多々ご協力いただきありがとうございました」 「いいっていいって。もちろんレースで勝つことも大事だけど、オレは君たちが学園生活を楽しく過ごせるようにするのが仕事だからさ」
キャンプファイヤーが放つ明かりに照らされているトレーナーさんの横顔を見ながら、私は彼が自身のトレーナーでよかったと頭の片隅でぼんやりと考えていた。正直クラスの出し物にも注力したいと彼に伝えた時、断られるのではないかとわずかな危惧を抱いていた。当然トレーニングの時間を多少なりとも感謝祭の準備に持っていかれるわけなので、トレーナーとしての立場なら拒否したとしてもおかしくはなかった。ただそれでも彼は私たちの想いを受け止め、トレーニングと準備を両立できるよう最大限のサポートを約束してくれた。結果としてメイド喫茶は大成功を収めた上に、トレーニングでも好調を維持し続けられている。だからお姉さまと私は改めて彼へ感謝の意を伝えたのだ。彼は気にしないでと謙遜するけれど、区切りという意味でもこの気持ちを口にしておきたかった。
「でもそっか、来週はもう大阪杯なんだね……ねえトレーナー、今のところ出走予定なのって何人いるんだっけ?」
そのまま話はシームレスにレースの話題へと繋がる。レースと学園生活は表裏一体。先ほどトレーナーさんが言っていた台詞と被るけれど、それが私たちの日常なのだ。
「君たち含めて14人だな。登録はフルゲートだけど、2人は回避して翌週以降のレースに向かうらしい」
「そしてGⅠウィナーはお姉さまと私を含めて4人ですか……白熱した一戦になりそうですね」 「ああ。細かい分析は明日以降に伝えるけどいいレースになりそうだよ」 「ザイアと走れるの、ほんとに楽しみ! そうだ、せっかくだし今から踊る練習しとこ!」 「練習とは一体……ああ、フォークダンスですか……えっ私と、ですか!?」
お姉さまが指を指すのは真っ赤に燃える炎ではなく、その周囲を2人組で踊っている人たちだった。私はてっきりお姉さまはトレーナーさんとするのだと思い込んでいたので、予想だにしない指名についお姉さまの顔を二度見してしまった。
「もしかして嫌だった?」
「いえ、そういうことではございません。ただお姉さまはトレーナーさんと踊られるとばかり考えておりましたので、私と踊っていただけるなど夢にも思いませんでしたから」 「そっか。まあトレーナーともあとで踊るけど」 「踊るのは確定なんだな……」 「当然! だけど私はザイアとも楽しく踊りたいの。この手、取ってくれる?」
最初に誘った時とはうってかわって、お姉さまは私に向かって弱気に右手を差し出す。そんなお姉さまのしゅんとした表情を私はいつまでも見ていたかったけれど、私のことでいつまでも不安な思いを抱かせたくはなかったので、そっと左手をお姉さまの手の上に重ねた。
「それでは、失礼ながらお姉さまのお相手を務めさせていただきます」
「うん、一緒に踊ろ!」
握ったお姉さまの手は温かい。『手先が冷たい人は心も温かい』などと巷では言うけれど、お姉さまは手先も心も温かい方なのだと改めて思う。先程私と走ることをずっと楽しみにしているとおっしゃっていたのもきっと本心だろう。
(お姉さまに恥じぬ走りをしなければ、ですね)
空を見上げると、太陽の光で隠れていた星たちが1つ、2つ、3つと時を経るたびに顔を出し始める。隣で楽しげに踊るお姉さまもまた、私にとっては眩しく煌めく星のように見えた。
“Nihil difficile amanti. Lv.2→Lv.3”
─────
そして週末。ドバイの地で今、夜空に星が瞬こうとしていた。
「さあレイン! オレたちの出番だ!」
「うん。2人で一緒に頑張ろう、ルージュ」 |
| + | 第62話 |
時は少し遡り、私とお姉さまの大阪杯に向けた最終追い切りが行われた。無論2人の次走が大阪杯と決まってからレースまでは併走を行わないこととトレーナーさんが決められたので、同じウッドチップコースでの追い切りにも関わらずそれぞれ単走での実施となっている。
「最後の1ハロン、もう一段ギア上げろ!」
「……っ!」
脚も重くなってくる最後の1ハロンだけれど、トレーナーさんのかけ声を聞いてもうひと踏ん張り、いやふた踏ん張りほど脚へ力と気合いを注ぐ。そうして歯を食いしばってゴール板を駆け抜けると、そこから先は過度な負担が脚にかからないよう、徐々に速度を落としていき、ゆっくりとゆっくりと立ち止まる。私は大きく深呼吸をしながら他の方の走りを邪魔しないよう一旦ラチの外に出ると、そこから先は再びジョギングレベルで走り出し、2人が待つ場所へと駆け寄った。
「トレーナーさん、タイムはいかがでしたでしょうか?」
「ああ、ゴール前を強めに追い込んで6ハロン全体が80.3秒、最後の1ハロンが11.0秒なら文句なしだ。本番に向けて態勢はバッチリ整ったな」 「はい、タオルとドリンク。次は私の番だしもう行くね」 「ええ、ありがとうございますお姉さま。お姉さまも頑張ってくださいね」
私の感謝とエールにお姉さまは走りながら後ろ手を振って応えてくれた。トレーニングを始める前より太陽がわずかに傾きつつある中、私はそのようなお姉さまの背中をただじっと眺めていた。
「位置について! よーいスタート!」
トレーナーさんがかけ声とともにストップウォッチのスイッチを押した瞬間、お姉さまは爆発的なスタートダッシュを決めた。私たちの周囲で休憩していたトレーナーやウマ娘の方たちも思わず感嘆の声を上げてしまうほどのそれは今のお姉さまの絶好調ぶりを示していた。
「あまり飛ばさなくてもいいからと伝えていたんだが、それでもこのインパクトか……」
「以前より迫力が増していますね。お姉さま、流石です」
快調に飛ばすお姉さまの表情を遠目で見てみても全く苦しそうに見えず、むしろ笑っているのではないかと感じるほどに軽快な足取りでウッドチップを蹴り上げている。見た者に週末の結果は決まったと思わせるほどの衝撃をもたらすお姉さまの走りは、かの空を飛ぶとまで言われた英雄を思い出させた。
(それでもまだレースは始まってすらいません。負けを認めるのはあまりにも早計です)
トレーナーさんの真横から一歩だけ後ろに下がると、彼に見られないように歯を食いしばり拳を強く握る。武者震いか、それとも恐怖故か、視線を下に下げると足が小刻みに震えているのが見えた。
(勝ちたい……お姉さまに勝ちたい、です。そのために私は……)
顔を上げ、トレーナーさんの横顔をじっと見つめる。彼は私がお姉さまに勝つ手段を必死になって考えてくれている。そう強く信じ、当日まで彼の指示に従おうと心に決めた。
「ゴール! よし、最後も問題なく伸びている。好調キープだな」
「私より少し外を回ったにも関わらず6ハロン82.2秒、最後の1ハロンが11.7秒ですか」 「あとは本番まで維持できるかが鍵だな。もちろんザイアもな」 「ええ、お姉さまに負けるつもりはございません」
トレーナーさんのすぐ隣で、 帰ってくるお姉さまへ渡すタオルとドリンクの準備をする。本番のレースでは敵だったとしても今は互いに声援を送り合う親友兼仲間として、笑って過ごしたいなと夕焼け空に願いをかけた。
─────
「それじゃまずはレインのブリーフィングからやっていこうか」 「はい、お願いします」
日本から遠く離れたドバイ、メイダンレース場。今晩ここで行われるドバイワールドカップミーティングにボクとルージュの2人が選出された。ボクは外側の芝コースを一周する2410mのドバイシーマクラシックに、ルージュはダートコースを一周と少し走る2000mのドバイワールドカップへと出走する。ただ初めからドバイシーマクラシックへ照準を合わせていたボクとは異なり、ルージュについてはドバイワールドカップの他にもボクと同じレースか、もしくは芝1800mで行われるドバイターフも検討していたとトレーナーさんは話していた。しかし前走であるサウジカップにてダート適性が垣間見ることができたとのことで、それより距離が1ハロン延長されるドバイワールドカップに歩を進めることになったとのことだ。
「レインのゲート番は5番。出走者は12人だからちょうど真ん中辺りの枠からスタートすることになる」
「外枠引かなくてよかったよなー。最初のコーナーまで1ハロンぐらいしかないんだろ?」 「うん。ルージュみたいな差しや追い込み脚質ならともかく、基本的に先行するタイプのボクからしたらかなり厳しかったかもしれない」 「ああ。秋天や有馬と比べるとよりかはまだマシだが、イン有利になることは間違いない」
トレーナーさんの言う通り、東京レース場の芝2000mはスタートしてから2コーナーまでの距離が130m、中山レース場の芝2500mでは4コーナーまで200m弱と、ドバイより外枠が不利なコース形態になっている。そのような不利の中、去年の有馬記念でボクにハナ差まで迫ったエスキモーはやはり実力もレースセンスもずば抜けていると思う。もし枠がボクと逆だったなら楽勝していたことだろう。それほどまでの差がボクと彼女の間には存在する。
「だったら練習通り今日もある程度前につける形でいいんですよね?」
「それで問題ない。例年と変わらずそれほどハイペースにはならないだろうから」 「いっそのこと逃げるとかどうだ? 確かレインの姉ちゃんもそれで勝ったんだろ?」 「あれは姉さんの実力が抜けていただけだから。流石にボクには難しいよ」 「そうか? オレはできると思うんだけどな」
靴を脱いでソファに足を伸ばすルージュの言う通り、確かにボクの姉さんは初めての海外の舞台で初めて逃げて、そして勝った。しかもレースレコードのおまけつきで結果3バ身以上の差をつけての圧勝。このレースをきっかけに姉さんは世界最強と呼ばれるようになった。
「トレーナーとしての立場から言うと、初めから決めていたならともかくレースの展開次第で逃げるというのはあまりオススメはできない。逃げるということは常に他の出走者全員に背中を晒し続けるプレッシャーに耐えなければいけない。それに加えてペースメイクも大事になる。大一番で突発的にすることじゃないよ」
「そう、ですよね。姉さんにレースの時のことを聞いたら、ある程度想定していたからできたって言っていました」 「すげーな、やっぱり」
確かに大一番で展開を見て逃げた姉さんはすごい。だけどボクはボクだ、姉さんじゃない。あの日姉さんに勝った「彼女」みたいにボクは勝ってみせる。
「でもやっぱりボクは逃げません。いつもみたいに番手につけるレースで勝ってみせます」
「うん、それでいい。君が走りやすいように走ったらいいんだ」 「わわっ……いきなり頭を撫でられるとびっくりしますよ、トレーナーさん……」 「つい撫でたくなってな、悪い悪い。というか前にエスキモーにも同じこと言われたんだよな」 「そりゃそうだろ。オレは気にしないけど髪グシャグシャになるしな」
ルージュの発言を聞いて、トレーナーさんがボクの頭から手を離す。『ごめんな?』と言ってくれるトレーナーさんに「気にしてないです」とボクは笑ってごまかした。けれど。
(少しびっくりしただけで、嫌とは言ってないんだけどな……)
トレーナーさんに撫でられるのは嫌いじゃない。ルージュがいる手前言えなかっただけで、本当だったらもっと撫でてほしかった。娘にするのと同じように、いやそれ以上に。
「とりあえずレインのブリーフィングはこんなところで、次はルージュだな」
「そんなんアレだろ? サウジカップよりもうちょい前につけて、道中ガーッと捲っていけばいいんだろ?」 「じゃ、そういうことで」 「いやいやいや! もう少しこう、さあ!」
トレーナーさんとルージュが楽しそうに言い合っているのを何も言わず、ただ細い目で見つめる。
(父さんとこんなのしたことなかったな……)
太陽は沈み月が輝く。外では宴を祝う花火が大量に打ち上がる中、少しずつ決戦の刻が迫っていた。
─────
現地時間午後8時、GⅠドバイシーマクラシックの出走時刻を迎えた。夜闇の中眩い光に照らされる芝の上に設けられたゲートに次々と収まっていく猛者たちは、虎視眈々と瞳の先にあるゴールだけを見ている。
(日本のウマ娘はボクを含めて3人。その中で海外初挑戦なのはボクだけ)
同じレースに挑む仲間として、先輩である2人とは現地入りしてから世間話や最近の調子などを語り合い、互いに緊張を解し、解してもらっていた。GⅠの勝利数としてはボクがトップだったけど、先輩たちからは「海外経験談」という大切なものを教えてもらった。
(ルージュからも教えてもらっていたんだけど、彼女の場合表現が直情的だったり擬音語混じりだったからね……)
彼女の『海外ってさあ!』という話をこのタイミングで思い出し失笑してしまう。だけどおかげで無駄に入っていた力がふっと抜け、平常心へと戻ることができた。
(大外のウマ娘がゲートに入った……ふぅ……)
そして係員が外ラチの方へ小走りで駆けていき──
(行くよっ!)
ガコンと音を立てて開いたゲートから飛び出し、150秒弱の物語が幕を開けた。
─────
(大きな出遅れは……なし。外から被せてくるのが何人かいるけど、この場所は譲らないよ)
1コーナーまでの1ハロンを抜け、進路を左へと変えていく12人。ダートコースとの間に設けられている数m幅の通路に中継用の車が走っているのを横目に見ながら、淡々としたペースでレースが展開される。しかしペースは落ち着いてはいるけど、位置取り争いは日本以上に熾烈だった。
(トレーナーさんから聞いてはいたけど……っつ! それでもボクは……!)
そこを譲れと言わんばかりのプレッシャー。それに制裁を受けないギリギリのラインを攻めるように行われる接触。昔のレースの記事で海外のウマ娘が『日本のウマ娘は上品すぎる』と話していたものを見たことかあるけど、それはこういうことだったのかと身をもって痛感する。だけど。
(ボクだって体を強くするためにトレーニングを重ねてきた。昔みたいにエスキモーたちより強度を下げないとすぐに疲れが出てしまっていたボクじゃない。だから、この場所は君たちには譲らない!)
これ以上争っても疲弊するだけと悟ったのか、2コーナーからバックストレッチに向かう頃には圧が弱まった。無論前から3番手ほどで内ラチ沿いを走っているので、すぐ隣には1人ボクをマークするように併走しているものの、過度に寄せてくるようなラフプレーはなくなった。
(ペースも少し落ち着いた。残り半分ぐらいだし、この辺りで息を入れられそうかな)
細かいタイムまでは分からないけど、おそらくダービーより若干スローで流れている気がする。あとで映像を見たら確か最初の1000mを60秒を切るぐらいで進んでいた気がするから、今回は大体1000m62秒前後で流れていると思う。
(トレーナーさんの予想通り。これなら!)
3コーナーが目前に迫る中、心の中でわずかな自信の炎が灯った。残り1000mを迎え、若干落ち着きを見せていた後続バ群が徐々に騒がしさを増す。それでもなおボクの頭と心は凪いだ湖のように平穏を保っている。焦らず、気負わず、今走っているこの場所が家の庭と錯覚するほどにただ静かにラストスパートのタイミングを計る。
(4コーナー手前なのに後ろはもう仕掛け始めている……背中に感じる圧と聞こえる蹄鉄の音がちょっとずつ大きくなってきている。それでもまだ耐えて、耐えて……)
4コーナーに入ってバ群が一気に凝縮される。前を走るウマ娘の勢いが若干衰え、反対に後続が一気に押し寄せることで横にずらりと並ぶ展開となった。
(残り600m……よし、今だ!)
進路を瞬時に探し出し、そこへ目掛けてアクセルを一気に踏み込む。ギアを1つ、いや2つ上げ、芝どころかその下の土までえぐり取るほどの踏み込みは誰の追随も許さない。
(この一撃でボクは世界に……!)
“蛟竜、雲雨を得 Lv.3”
かの伝説にはまだ遠く及ばないけど、それでもなお前であがいているウマ娘を一瞬で切り捨て、後続も瞬時に置き去りにする。瞳に映る姉さんの幻影を振り払い、ただひたすらに光煌めくゴールへと全速力で駆ける。
(世界の強豪なんて知ったことか。ボクはあの日見た輝きに手を伸ばすんだ……!)
「ああああああああああっっっっっ!!!」
残り100m、再び背後に強烈な圧を感じる。頂点は絶対に譲らないと言わんばかりのその迫力、並大抵の者では怯んでしまうほどの圧迫感。しかし今のボクはもうそのようなものに怯えることはない。
(トレーナーさんが、ルージュが、海の向こうでエスキモーが見ているんだ……負けるものか!!!!!)
残り50m、40m、30m……そして──
「んんんんんっっっ!!!」
ボクは夜空に輝く一番星となった。
─────
「おめでとう、レイン!!!」 「やるじゃねえか! これはオレも頑張んねえとな!」 「トレーナーさん、汗臭いですから抱きしめられるのは……ルージュもそんなに背中叩かないで……」
控え室に戻るなりトレーナーさんとルージュから盛大な祝福を受けた。正確には盛大というより若干手荒なものだったけど、これほど喜んでもらえたならありがたく受け取っておこうかな。
「本当によくやってくれた。ゴールのあとなんて隣にいた知らない外国人と握手したぐらい興奮したよ」
「オレも思わず机叩きまくったわ。まあちょっと力入れすぎて変な音聞こえたけど、たぶん大丈夫だろ」 「トレーナーさんもルージュもボクの知らないところで何やってるの……」
トレーナーさんはともかくルージュはあとで怒られるんじゃないだろうかと内心ヒヤヒヤしながらも、祝福の時間はルージュがスタッフに呼び出されるまで続いた。
「次はルージュの出番だな。オレは一旦外に出ているから、準備が済んだらまた呼んでくれ」
「分かりました」
ルージュが慌ててパドックに向かってから、ボクはようやくタオルで顔の汗を拭い、用意してくれていたスポーツドリンクで喉を潤した。このあとルージュのレースとウイニングライブが立て続けにある関係で、シャワーを浴びて着替え直すことができないのは残念だけど、自分のことを心から応援してくれた親友へ声援を送らないわけにはいかないから仕方がない。ひとまずボクは勝負服を脱ぎ、大きめのタオルで全身の汗を拭いた。
(汗の匂い大丈夫かな……でもさっきは汗も拭いてないのに抱きしめてくれたし……でもやっぱり嫌かも……)
少し悶々としつつも手っ取り早く処理を済ませて着替え終わったところで、外で待っていたトレーナーさんを部屋の中へと呼び戻す。そのあと数分間トレーナーさんがどんな反応をするのかチラチラと見ていたけど、幸いにも何も言われることはなく、胸をホッと撫で下ろした。
「そろそろ観客席まで行こうか」
「はい!」
観客席まで向かう道中、嬉しくなったボクはいつもより近く、腕がぶつかるかぶつからないかぐらいの距離でトレーナーさんの隣を歩いた。きっとトレーナーさんはそのことに気づいていたんだろうけど、何も言うことなく他愛もない話をコースに着くまで続けてくれた。
─────
メイダンレース場、ダート2000m。1コーナーまでの300mで最後の直線は400m。キックバックが激しく、基本的には先行勢が有利。
(んなことは知らねえ。というか興味ねえ)
海外、主にアメリカのダートでは最初から飛ばしていき、最後はバテ合いの中どれほど粘れるかということはトレーナーから教えてもらった。実際、先月に走ったサウジカップでそれは痛いほど思い知らされた。
(まああの時は距離が短かったしな! ダートの感覚はなんとなく掴めたし、今回は1ハロン延長して2000mだからな)
相手関係はある程度頭に入っている。といってもいわゆる人気勢は前走オレが負けた相手ばかりだから、否が応でも印象に残っているだけとも言える。
(とにかく全員ぶち抜く! それ以外ねえ!)
すっかり夜の帳が下りたレース場。煌々と輝く照明に照らされながら、オレはゆっくりと「8」と記されたゲートへと足を踏み入れた。
(出遅れだけ注意して……)
外枠の方を見ながらゲートが開くタイミングを計る。最後に全員ぶち抜くとはいえ、デメリットしかない出遅れだけは避けたい。
(よし、大外の奴が入った)
最後に後ろ扉が閉められ全員がゲートへと収まる。そして係員が外ラチ側へと退避して──
(今だ……!)
ゲートが開いた。
(出遅れ、なし。砂が飛んでくるのダルいから少し外に出してっと)
ラストスパートのタイミングでドロドロになるのは仕方ないとして、レース序盤から砂まみれにはなりたくない。その上オレの脚質を考えると、ある程度外目でレースを進めた方がいいのは明らかだからな。
(それにしても相変わらずペースが速いこって。まあそんだけ飛ばしてくれたらオレはありがてえけどな)
芝でもダートでもハイペースになれば後方勢が有利になるし、スローペースになれば先行勢が有利になる。ただダートは瞬発力を活かしにくい関係上、ハイペースになっても差しにくい、らしい。これもトレーナーが言っていた。
(前から数えて……8番手ぐらいか? まあ想定通りだな)
レースは早くも向こう正面に入り、レースの中間地点を通過する。感覚的にはサウジカップよりは若干遅いが、あの時より1ハロン長い関係で最後はよりバテる中をいかに粘り込むかというレースになりそうだ。まあ全部トレーナーからの受け売りなんだがな。
(兎にも角にもやるっきゃねえなあ!)
残り800mほどとなり、3コーナー手前の上り坂を一気に駆け上がる。そこから先はゴールまで緩やかな下り坂が続いている。すなわち。
(仕掛けどころはここしかねえ!!!)
本来は直線一気を信条としているが、いつもと違うダートなら話が変わる。仕掛け方がアイツとダブるのが若干癪に障るが、この大舞台で四の五の言っている場合ではない。
(やってやらあ!)
芝とは異なる足元の感触。芝と比べて力が逃げやすくスピードを出しにくい。ただ。それならば。
(バ場の底までこの脚でぶち抜いて走りゃいいだけだろうが!!!)
オレが目指しているのは世界一の玉座。そこには芝もダートも関係ない。己の使命に従ってただ突き進むのみ。
(世界一の座、掴んでやるよ!!!)
“THE WORLD IS MINE Lv.3”
「ああああああああああっっっっっ!!!」
オレの唸り声に前を走っている奴らが全員ギョッとした顔で振り返り、そして負けじとスパートを掛け始める。ただ前半に飛ばした分先頭集団を形成していた奴らの動きは重く、直線入口で中団に構えていたオレたちと立ち位置が入れ替わる。
(はぁ……はぁ……真ん前には誰もいねえ。ただ右を見ても左を見てもまだまだ余裕そうな顔がずらりと並んでやがる……)
末脚の斬れ味には自信がある、というより自信しかない。ただやはりダートとなれば話は別で、ダートに特化した奴ら、例えばアメリカで走ってきたような奴らとは経験の差がどうしても出てしまう。
(んなことは百も承知なんだよ!!! それでも勝って最強を証明してやる!!!)
杭を打ち込むように力を込めてダートに脚を叩き込む。そしてそれを前への推進力に変換して前を走る奴らを捉えんとする。砂まみれでもいい、ドロドロに汚れてもいい。そんなもの終わってから洗い流してやればいいのだから。
「くっそおおおおおおおおおっっっ!!!」
ただ。それでもなお。世界の壁は厚かった。付け焼き刃の経験値ではあと一歩が埋まらない。栄光のゴールを先頭で駆け抜けることは、叶わない。
『──やはり世界の壁は厚かった! 日本のウマ娘で最先着したのは3着のメニュルージュ! 半バ身及びませんでした!』
─────
ボクとトレーナーさんが先に戻っていた控え室に、レースを終えたルージュが駆け込んできた。悲しいというより悔しいとの感情を貼りつけたその顔から発せられたのは己の未熟さを嘆くもので、ボクたちはそれを淡々と聞いている。
「くっそおおおおおおおおおっっっ!!! あと少しで勝てたんだ、あと少しでっ……! すぐそこだったんだ……」
「うん」 「もう少しゲートが……いやそれだけじゃあの差は埋まらねえ。やっぱり道中の位置取りの差だったか? もう一列前なら……ただもしかしたらハイペースにオレも巻き込まれていた可能性もあった……」 「そうだな。また明日ゆっくり考えよう」
勝ちと負けは薄紙一枚の差でしかない。僅差の決着であれば尚更そうだ。それをルージュもボクも、無論トレーナーさんも心に刻み込まれるほど理解している。だから今の彼女に安易な慰めはしない。自分の立場ならしてほしくないと分かっているから。
「ライブが始まるのが少し遅れるみたいだ。だから今から一緒にシャワーを浴びにいかない?」
「……ああ。このまま泥だらけでステージに立ったら怒られそうだからな」 「ふふっ、ルージュもそんなこと気にするんだ」 「当たり前だろ! オレだってれーせつ?ぐらい弁えてるっつーの」
ただ慰めではないけれど、少しぐらい気晴らしをさせてあげたくて、ライブの遅延を口実に彼女をシャワーに誘う。流した汗も顔や体を覆う泥も、そしてかすかに零れる悔し涙も洗い流せるように、ボクは笑いながら彼女の背中を押した。
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| + | 第63話 |
チーフがドバイへ発つ前に今度の大阪杯について尋ねたことがいくつかある。担当が同じレースに出走するときの気持ちの持ちようはどうしているのか、どういった心持ちでレースを観ればいいのか、主にその2つについてを。するとチーフはあっけらかんとした雰囲気で答えてくれた。
『難しく考えすぎたら駄目なんだよ。あくまでも自分は彼女たちそれぞれのトレーナーとして、ただ2人の勝利を願えばいい』
『自分にできるでしょうか……』 『お前は心のどこかでできたらエスキモーに勝ってほしいと思っていないか?』 『……はい』 『仮にオレがお前の立場なら同じことを少しは考えるよ。だけどな、トレーナーである以上私情は捨てろ。後悔することになるからな』
(あのときは聞き返せなかったけど、『後悔する』ってどういうことだったんだ?)
単純に考えるなら、肩入れしていなかった方が勝ったときに惨めになるからなんだろうけど、もう少し違う意味が含まれている気がする。ただ今は寝起きで頭がうまく回らない。それに、昨晩ドバイシーマクラシックとドバイワールドカップを観てしまったのもあって若干寝不足なのも尾を引いているのかもしれない。
(レース場まで一本で行ける場所のホテルを予約していてよかったよ……)
無論レースが始まるまで多少は仮眠は取っていた。やはりそれでも眠いものは眠い。
「もう8時か……早く行かないとエスキモーたちに怒られるな」
そんなことを言いながら身支度を済ませると、急いでホテルの朝食を食べに下の階へ向かう。するとちょうど食べ終わったエスキモーたちとエレベーター前で鉢合わせることになった。
「……もしかして今から朝ご飯食べに行くの?」
「……今日レースですよ?」 「ごめん……急ぐから先にチェックアウトしていてくれ……」
2人に睨まれながら到着したエレベーターに飛び込み、朝食会場である1階のボタンと「閉じる」ボタンを押す。そうして1階に着くやいなや速歩きで会場へ飛び込むと、栄養バランスなどを一切考慮せず、最低限の量を確保して口に放り込んでいく。途中喉が詰まりそうになったが、紙コップに注いだ水で無理やり流し込んだ。
「ごちそうさまでした、と。とりあえず今は急がないとな……」
空の食器に向かって手を合わせると、返却口にトレーごと置き、今度は小走りでエレベーターへと駆け込む。
(もしかしたら上で待ってくれているのか?)
エレベーターを降りるとその予感は見事に的中していた。ただ待つというより待ち構えていたと言った方が適切ではあったのだが。
「これから遠征の朝はモーニングコールしてあげよっか?」
「……少し考えさせてくれ」
─────
そのあといろいろと2人にせっつかれながらも段取りを済ませ、なんとか1レースが始まる前に現地入りを果たすことができた。そして今──
「……なんだか広く感じるね」
「今まではずっと3人だったからな」
エスキモーの控え室で2人だけでレース前のブリーフィングを行っていた。いつもであれば3人合わせてわいわいとやっているところなのだが、今日は同じレースに2人が出走するということで控え室も別々に用意してもらっている。
「ザイアの大きいぱかプチでも持ってこればよかったなー」
「そんなのバッグに入らないだろ……」 「それはほら、配達で送ってもらうとか……って冗談だって。流石に私もそこまでしないから」 「次に直接対決があれば、小さいぱかプチをバッグに入れておけばいいんじゃないか?」 「それはアリだね。携帯にメモしておこーっと」
なんだか気の抜けるやりとりが続いているが、実際のところ話すことはほとんどない。バ場状態は3人で一緒に見ていたし、相手関係もそらで言うことができるほど2人の頭に刻み込んでいる。今の時間をブリーフィングと銘打ってはいるものの、実際のところは緊張をほぐすためのフリータイムに近い。エスキモーもそれが分かっているからこそ、あえてレースの話を振ってきていない……はずだ。
「それでさ、朝のモーニングコールどうしよっか? ほんとにしてほしかったら私するよ?」
「今朝は夜のレースを観ていたせいだからな。次は大丈夫、と思う」 「レインもルージュも凄かったよね。ルージュは惜しかったけど、ダートでもあんなに走れちゃうなんてびっくりしちゃった」 「本当にな。サウジカップの方が日本の芝のウマ娘に合っているって話だから、正直ドバイではどうかと思っていたんだけど──」
話はラグビーボールのように不規則に跳ねて転がっていく。ただそれでも彼女とは最後まで今日のレースについて話題に挙がることはなかった。
─────
「それで道中はだな──」 「でしたら最後の直線では──」
代わってこちらはザイアの控え室。彼女についても最初はエスキモーと同じようにレースとは関係ない話から切り出そうとしたのだが、レースの話をしている方が気持ちが落ち着くということでどっぷりと今日のレースに向けたミーティングを行っている。無論徹頭徹尾真面目な話なのだが……
(あのぱかプチ、もしかしてバッグの中に入れていたのか? いやでもあのキャリーバッグに入りそうにないよな……)
膝の上で抱き抱えているエスキモーの大きなぱかプチをどうしても注視してしまう。大きさとしては50cm近くあるだろうか、勝負服がデザインされたそれは彼女の魅力を見事に表現している上に、それをぎゅっと抱きしめているザイアの可愛さも存分に引き出しているように思える。
「すなわち今日が16日間Aコースを使用してきた最終日ですので……トレーナーさん、話を聞かれていますか?」
「あ、ああ、もちろん聞いているよ。コース替わり前だから内ラチ沿いをピッタリ走ると、荒れたバ場で体力を持っていかれるから気をつけないといけないぞ」 「聞いておられるのでしたら結構です。続いてですが──」
一瞬上の空になりかけたところを怪訝な目で見られたが、なんとか『Aコース』という単語が聞こえたから話に合流することができてホッとした。もう少しでまたため息をつかれてしまうところだった。
(ぱかプチのことはまたレースが終わってから聞いてみるか……)
そうして話が一段落した頃、ペットボトルの水を少し口に含んだ彼女に一つ気になっていることを問いかけた……ぱかプチ以外のことを。
「そういえばエスキモーとレースで走るのは初めてになるけど、エスキモーとレースのことで何か話はしたのか?」
「……雑談程度に。といっても私は本気半分で話しかけているのですが、お姉さまからは『楽しみだね』といった話しか返ってこないので、自然と雑談のようになってしまっております」 「そうか……いや、オレも昼食とか一緒に食べる時に聞いてみたんだけどさ。ザイアと同じ感じだったよ」 「トレーナーさん相手でも私と近い話になるのですか……」
おそらくエスキモーとしてはザイアと一緒にレースを走ることができる楽しみの比重が大きいから、自然と話が雑談寄りになるのだろう。無論追い切りのタイムは常に好調を維持しているから、決して手を抜いているわけではない。しかし、オレもザイアも彼女に対してどこか引っ掛かりを覚えている。ただ言語化ができるほどはっきりとした答えは見つけられてはいない。
「とりあえず話は一旦脇に置いておいて、自分のレースをするために集中力を高めていこうか」
「ええ、おっしゃるとおりです……すぅー……はぁー……すぅー……はぁ……」
ザイアに気持ちを切り替えるよう伝えると、彼女はエスキモーのぱかプチに顔を埋め深呼吸を始めた。もし今第三者がこの部屋に入ってきたら間違いなくシュールと思われるだろう。ただこれが彼女のルーティーンであるならばオレは止めはしない。彼女の薄く施された化粧と整えられた髪が乱れたりしないかが気になるぐらいだ。
(それにしてもぱかプチからどこかで嗅いだ匂いがするんだが、これってもしかして……)
ザイアが座っている方向からほんのり漂ってくるシャボンの香り。ただこれはおそらくザイア自身がその香りの香水を使っているわけではなさそうだ。なぜかというと彼女とは何回か近距離で話をしたことがあるが、どちらかというと甘い香りを漂わせていた記憶があるからだ。
「……集中しているところ悪いんだが、もしかしてそのぱかプチにエスキモーが使っている香水を振りかけたりしてないか?」
「ご名答です。よろしければトレーナーさんもどうですか?」 「流石に遠慮しておくよ……」 「そうですか。それでは再び失礼いたします……すぅー……はぁー……」 「……」
トレーナーの立場からすると、これでベストパフォーマンスを発揮するならあまり止めにくい。しかし一人の人間、いやウマ娘としてそれはどうなのかと注意した方がいいのかと、パドックへの集合時刻が訪れるまで頭の中で思考回路が右往左往を続けた。まあ結局最後まで出口という名の答えを見つけることができなかったのだが。
(本当にどうしようか……)
─────
向こう正面に生える桜並木の蕾が膨らみ、春の近づきを予感させる今日、空を見上げると雲が薄っすらと空を半分ほど覆っていた。幸いにも太陽は恥ずかしがることなく私たちに顔を出してくれているので、肌寒さはさほど感じない。
「もうすぐ始まりますね、お姉さま」
「うん。今日はよろしくね」
レース前の高まる緊張感に包まれているにも関わらず、お姉さまはそれほど普段とは変わらない雰囲気に思える。しかし第三者からすると、お姉さまから他を圧倒するオーラが発せられているのが見て取れるはずである。それでも私はその重圧に屈することはない。
(私もダブルティアラのウマ娘としての自信があります。私の全身全霊をもってお相手いたしましょう)
私にとっては夢にまで見た対決ではあるのだけれど、さりとてただ憧憬の相手として、崇拝する御神体としてただ見ていたわけではない。
(どのような相手であっても負けない、そのためのトレーニングを本日まで積んできました。その相手が仮にお姉さまだったとしても、私は引くことはいたしません)
ダノン家の誇りに懸けて、ダブルティアラを戴く者としての意地を今日この場でお姉さまに見せつける。
(それでは参りましょう、私たちの決戦の舞台へ)
耳目を集めたパドックを離れ地下バ道へ。そして再び私たちは衆人の視線を浴びる本バ場へと足を踏み入れる。期待、憧れ、信頼、様々な感情が混ざりあったサラダボウルに、私たち16人は熱狂という名のドレッシングを混ぜ合わせる。己のレゾンデートルを証明するために、10ハロン先の栄光を目指して。
─────
『昨年のダブルティアラウマ娘が再び仁川に舞い戻る。今年も桜吹雪を吹かせるか、3枠6番には2番人気ダノンディザイアが入ります』
いわゆる返しウマと呼ばれるバ場の確認と最後の準備運動を本バ場の入口から、スタンドから見て右手方向に位置するゲートの方角へ軽く駆け抜けていく。その際に多くの方から受ける声援は、レースを走り抜くためのエネルギー源として心の奥に蓄積される。そのエネルギーはいつ使われるのか、それは最後の最後、苦しくなった時に一気に消費される。先行勢にとってはいかに粘り込めるのかの、後方待機勢にとってはいかに差し切れるかの力として、レース前のファンの方々の声援が重要なのである。とにかく何が言いたいかというと……
(あなた方の声ははっきりと聞こえておりますし、場所によっては顔も覚えておりますのでお気をつけください)
まあそのようなことは今はどうでもいい。今一番重要なのはバ場状態の確認である。
(やはり内ラチ沿いは芝が剥げておりますね。閉じ込められないようにしなければ)
通常は内ラチ沿いから1人分スペースを空けて私たちは走っているのだけれど、今日はさらに0.5人分、下手をすると1人分余計に空けた方が体力の消費が抑えられそうだ。
(私より2枠外の方は逃げウマ娘ですから、ゲートを決めてもあえて先に行かせて、外からバ場が悪い内ラチ沿いに封じ込めることも選択肢として考えられますね)
原則としてはトレーナーさんに教授いただいたプランで臨むものの、付属プランとして考慮するのは問題ないだろう。スタミナの消費を抑えられる場合において、ライバルをより多く削るに越したことはない。
『さあ、昨年のクラシック路線の主役はシニア王道路線の主役となり得るのか。威風堂々と玉座を窺うのは6枠12番、1番人気メジロエスキモー!』
無論最大のライバルは背後から襲ってくるのだけれど。
─────
スタンド右手側に設置されているゲートへ次々とウマ娘たちが収まっていく。フルゲート16人で行われる春シニア3冠第一戦は、いよいよ戦いの火蓋が切って落とされようとしている。
(見ていてください、お姉さま。私は今からレースが終わるまで、貴女の瞳に私の背中だけを見つめてもらいますから)
どのような展開を迎えようと、最後はお姉さまが襲いかかってくることは確定事項と言っても全く過言ではない。その信頼があるからこそ、お姉さまを見るためにスタンドから溢れんばかりの方々がお姉さまにエールを送っている。ゲートにお姉さまが入る際も、私を含めた他の方より大きな喜びの声が掛けられていたのは若干耳に届いていた。
(しかしながら声援の大きい者が勝つということはありません。あくまでも勝つのは……私です)
さて大外枠のウマ娘のゲートインが終わると、いよいよ舞台の幕が上がる。宝塚の地に流れる120秒弱の魂震わすロックンロールは誰が歌うのか、果たして。
(そろそろですね……今!)
ゲートが開く。夢が始まる。明日を掴むための戦いが、始まる。
─────
「よし、2人ともいいスタートダッシュだ」
ゲートが開きレースが始まる。まずは300mほどホームストレッチを使った位置取り争いが幕を開ける。ザイアは当然前に構えるが、ハナを主張したいウマ娘に先頭を譲り3番手ほどの位置につける。翻ってエスキモーはいつものようにやや後方へと下げ、先行集団の動きを窺える位置につけた。
(やっぱりみんな内が悪いって分かっているな。2人分ほど空けてコーナーを回っていっている)
GⅠに出てくるウマ娘はそれぞれが持ち得るポテンシャルのぶつかりあいも大きな見どころであるのだが、彼女たちを裏で支えるトレーナーの勝負師としてのレースセンスが一際垣間見える舞台でもある。レースの結果にウマ娘とトレーナーがどういった割合で影響を及ぼしたのか、よく言われるのは前者が8で後者が2の割合である。しかし一流のトレーナーにおいては、その2が3にも4にもなると言われていて、某世界的に有名なトレーナーに指導されると5バ身変わるとも噂されるほどだ。とにかく何が言いたいかというと……
(他のトレーナーも当然内の荒れ具合を理解している……あっ、今内へ閉じ込めようと微妙に寄せたな、あの子)
もちろん『あの子』はザイアでもエスキモーでもなく、被害を受けたのも2人ではない。トレーニングやレースに限らず常に視野を広く持てと彼女たちには口酸っぱく伝えているからか、他のウマ娘がヨレた結果進路を塞がれたり、前が壁になって動けなくなるということはまず起きていない。今回もザイアは単独3番手で追走する中、バ場が荒れていないギリギリのラインを通っていて、いつでも前を交わせるポジションを確保している。エスキモーは最初からバ群の外を回っているから、さらに外を回った子から内ラチ沿いに押し込められることはなく、反対に内からわざと外に持ち出してくる相手もいないので、スムーズに立ち回ることができている。
(コースロスを承知で外を回しているのに、それ以上に外へ出したら今度は他の子に遅れを取ることになるからな……)
2コーナーから向こう正面に駆けていく16人をターフビジョンで見つめていると、知らない間に祈るように両手を組んでいることに気づいた。2人が同じレース、GⅠに出走するといういつもとは異なる状況下で緊張しているのかもしれない。残り6ハロンの地点を48秒を切るペースで通過していく中、心の中では『最後まで頑張れ』という願いだけが募っていく。
─────
2コーナーから向こう正面に入っていく中で私は後ろをチラリと見やる。無論視線を向ける相手はお姉さまだけ。他の方は見えていても見てはいない。
(隙間からですが……かろうじて見えました。やはり中団より若干後ろにいらっしゃいますね)
最初の800mを48秒をわずかに切るペースで通過する中、個人的な感覚としては互いに良い位置を確保できたのではないかと思う。私は逃げることもできるけれど、先行して最後抜け出すという王道に近い走りができる。お姉さまは逃げ以外の脚質なら高水準で対応可能なのだけれど、やはり一番性に合っているのが差す脚質らしい。例外はあるものの、勝利を掴んだレースはほぼ全て差す形となっている。
(あの位置からなら十二分に差してくることができるはずです。でも私はそのような運命をひっくり返す!!!)
誰にも負けたくはない。いつもトレーニングで競い合っている相手なら尚更に。
(1000mの通過は……60秒をわずかに切っていると思われます)
3コーナーへと突入する中、レースは徐々に慌ただしさが顔を覗かせ始める。ミドルペースを重ねながらも本来視線による牽制、精神的圧力、物理的な迫力などで相手を萎縮させたいところではある。しかしながら私の高くもない身長と大きくない骨格を考慮すれば、行うべきは……
(ただひたすらに己の走りに徹するのみです!)
これは負けにいく戦いではない。勝つための決戦だ。
(お姉さまにも……負けません!)
来週には花びらが開いているだろう桜並木の横を時速60キロ以上もの速さで駆けていく。勝利というたった一つの栄誉を掴むため、私はここで息をわずかに入れた。
(勝負は残り800m!)
─────
バ群は縦長のまま、内回りの3コーナーへと突入する。先頭が懸命な表情で平均よりやや速いペースを刻んでいく中、ザイアは淡々とした顔で3番手を追走している。やはり1ハロン短かった前走の速い流れを制したスピードと、今回より2ハロン長いオークスを逃げ切ったスタミナがやはり効いているのだろう。当然後ろをゆくエスキモーも特に変わった様子はない。
と、ここで場内がワッと盛り上がる。それもそのはず、中団で待機していたエスキモーがここで動き始めたのだ。
『さあ、残り800mで1番人気のメジロエスキモーが動いた! ただ簡単に抜かせはしまいと他のウマ娘の動きも一気に激しくなる!』
3コーナー手前から続くなだらかな下り坂をウマ娘たちが一斉に駆け下りてくる。ある者はエスキモーに必死に食らいつき、ある者はエスキモーに交わされまいと凄まじい形相で粘りを見せる。しかし、走行しているのは未だ4コーナーの入口地点。
(ここからが最後の我慢比べだ)
意地と意地のぶつかりあいが幕を開ける。
─────
ゾクゾクと背中を這うように襲う恐怖。思わず縮み上がりかねない脅威が一歩前に踏み出すごとにその気配を増大させている。例えるならば台風や地震のような避けられない自然災害と呼ぶのが適切だろうか。体力が徐々に削られていく中を、私たちはその荒波に呑み込まれないように必死に脚を動かす。
(それでもまだ……私には脚が残っています。今日の今日まで鍛えた成果、お姉さまの前で示してみせます!)
内ラチ沿いの荒れたバ場も、まだ青々と生い茂った芝も覆い隠すように赤絨毯が敷かれる。それは玉座へと歩む女王の行く道を表したもの。何者も侵すことができない“Lord of Road”。今、貴方への愛を勝利をもってお示ししましょう。
“Nihil difficile amanti. Lv.3”
4コーナーを過ぎ、耳へ届く歓声がまた一段と大きくなっていく。一人、また一人と交わし見えた先にはゴール板がひっそりと佇んでいた。
(残り400m! お姉さまにも絶対に先頭は譲りません!)
外回りコースとの合流点を過ぎ、さらに私は加速する。バ場の真ん中を突き抜けるように、後続の方たちのコース取りを難しくするようにあえて私は状態の良いギリギリのラインではなく、そこからさらに2人分ほど空けて真っすぐ線を引くように風を切っていく。
(まだ息は切れていません。後続は……振り返る余裕はありませんけれど、あるていど振り切ったはずです……ただ一人を除いて)
残り300m。並の相手であればこの辺りで逃げ切り濃厚と断じられていたかもしれない。しかし、私が今日相手しているのは、並のウマ娘ではない。
(お姉さま……勝負です)
急坂が目前に迫る。そして背後から猛然とお姉さまが、迫る。
(私もGⅠを2つ勝利しております。そう簡単に食い破られるような真似はいたしません!!!)
2つのティアラを制した者としての誇りを胸に、私は心の炎を燃やす。脚が重くとも勝利だけを瞳に映して疾駆するのが私たちウマ娘。ただ愚直に腕を振り脚を動かし、己が力を最後の一滴まで絞り出す。
「ああああああああああっっっ!!!!!」
高低差2mの坂がどうした。この程度の急勾配など中山で経験済みだ。苦になどとするはずがない。細かく脚を動かすピッチ走法で一気に駆け上る。
「はっはっはっ……」
「はぁ、はぁ……っ!」
しかし、必死に逃げる私のすぐ背後から規則正しい呼吸音が聞こえてきた。その息遣いの主は当然、お姉さまだ。
(想定ではあと50mは先だったはずです……それならば粘り込みも可能だったはず……もしかして)
全て織り込み済みだったのだろう。トレーナーさんは私の作戦をお姉さまに伝えることはしていないけれど、お姉さまはおそらくレースの途中でそれを見抜いたに違いない。ただそれにしても。
(あまりにも……抜けています……)
格、実力、器、品。どれをとっても私には及ばない。一見崩しているように見えても、芯は真っすぐ揺るぎない。所作一つ挙げても、未だ格式張った場所から抜け出せない私とは存在する次元が違っている、そう見えた。
(最後まで諦めるわけにはいかないのですから!!!)
残り100m、横に並ばれる。それでも私は脚を動かすことをやめない。勝つことを諦めてはいない。醜くも足掻く、それが勝つために必要なものだと知っている。澄ました仮面もかなぐり捨て、手が届くところまで迫った栄誉のために、駆ける。しかし、現実は甘くない。
(お姉さまの背中が前に……)
抜群の末脚は他を置き去りにする。振るわれた鉈は有象無象を一網打尽に切って捨て、ただ己の強さのみを証明した。見向きもしてくれたのかも分からないまま、スローモーションの中でお姉さまの背中が小さくなっていく。
(果てしなく遠い……まだ、私には、届かない……)
先頭でゴールを駆け抜けることは叶わず、2バ身以上の差をもって私はお姉さまに屈した。
─────
『2バ身以上も差をつけてメジロエスキモー、今ゴールイン! 2着は2番人気ダノンディザイア! 同じトレーナーのワンツーといった結果となりました!』
ゴールの瞬間、観客のボルテージが最高潮へ達した。1番人気の快勝、それは見る者の多くを安心させるとともに、彼らや彼女らの感動をより増幅させるものとなる。無論オレも担当がGⅠを勝利して嬉しく思う。しかし片一方では『敗北した』というのも事実としてある。
(ただ安っぽい慰めは向こうから願い下げだろう。トレーナーとしてオレが今できること、それは)
未来の栄光とそれへ続く道を指し示すこと、ただそれだけなのだ。
(行くしか、ないな)
と、その前に。
(取材、オレもあるよなあ……)
控え室までの道中で案の定報道陣に囲まれる。大量の記者やアナウンサーに囲まれ、そこからしばらくの間同じ場所に閉じ込められた。
(彼女たちより先に帰っておきたいんだが……うーん……)
とにかくオレは必要最低限のことのみを答え、その場を去る。
(とりあえず今は次走への期待の言葉をかけるのと、簡単なレース回顧をすればいいかな)
さて、結果のみを記す。
彼女たちはとても強かった。オレが想像している以上よりもずっと。おそらく遠くない未来に追い抜かれるだろうと、そう確信できた。
「なんで笑ってるの?」
「どうして笑われているのですか?」 「いいや、なんでもないよ」
3度目の春はまだ始まったばかりだ。
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| + | 第64話 |
雨音が聞こえる。そうだ、今日は夕方から雨がぱらつくと朝のテレビでアナウンサーが言っていた。少し考え事をしていて、右から左に私が聞き流していたのだ。
(傘、置いてきてしまいました)
あれは何歳の頃だっただろうか。両親に連れられて買い物に出かけた時、店先に並んだ色鮮やかな和傘に目を奪われたのを今でも覚えている。私はお父様やお母様にあれが欲しいとしきりにねだったものの、『まだザイアには大きいから』と優しく説き伏せられて買ってもらうことができなかった。そこから数年が経過したのち、私の背もぐっと伸びた頃、誕生日プレゼントとして両親から贈られた。雨の中、遠くからでもはっきりと映える真っ赤で大きな傘は、トレセン学園に入学して数年が経った今でも愛用している。
(ただ、そろそろ新しいものを買う必要があるかもしれませんね)
それがいつになるかは分からないけれど、そのときまでは壊れないように大事に大事に使っていこう、そう心に決めた頃、授業の終わりを告げるチャイムが教室に鳴り響いた。
「起立、礼」
「「「「「ありがとうございました」」」」」 「着席」
しばらくしてホームルームが始まり、今日一日の授業が全て終わる。今日はトレーニングもないため、雨脚が強まる前に急いで寮へ帰ろうと鞄を肩に掛けて席を立つと、後ろから肩をトントンと叩かれた。
「はい、どうされました……お姉さま、此の指はなんですか」
「ふふっ、引っかかった。柔らかいね、ザイアのほっぺ」
後ろを振り返ると、そこに立っていたのはいたずらっ子のように微笑むお姉さまだった。いたずらっ子のようにというより、トントンと私の肩を叩いた手を人差し指だけ伸ばしていて、私がまんまとその方向に振り返ってしまったのを笑われているので、いたずらっ子そのものなのだけれど。
「よくむにむにと触られているのでよくご存知では? それで何かご用でもありましたでしょうか?」
「今日も遅くなるよっていうのと……誕生日パーティーしない?」 「誕生日パーティー、ですか?」
なんとお姉さまは今日の授業中、私の誕生日についてずっと考えられていたらしい。本当の私の誕生日は大阪杯当日だったので当然できるはずもなく、かといって何もしない、何もあげないというのはお姉さまのプライドが許さない、とのことだ。
「ご検討いただきありがとうございます。私としてはお姉さまのお誘いとあればいつでも構わないのですが、お姉さまのご都合はいかがでしょうか?」
「私もいつでも大丈夫なんだけど……早い方がいいし、次の日曜日にしよっか。それと前日の土曜日も予定空けておいてくれる?」 「? 承知いたしました」
メインが日曜日で、サブが土曜日ということなのだろうか。それともまた別の用事でもあるのだろうか。よく分からないけれど、お姉さまからのお誘いである以上、私としては全力でその2日間は何も予定を入れないよう、家の方へすぐに連絡を入れた。
「えっ、なになに? 副委員長の誕生日パーティーするの?」
「いいな〜 どこでやるの?」 「ウチも行きたーい」
携帯で連絡している隙に会話が少し漏れ聞こえていたのか、クラスの方が2、3人私たちへ楽しげな様子で近づいてきた。さらにその声が聞こえたのか、ちょうど教室を出ようとしていた他の方たちも鞄を置いて寄ってきた。
「パーティー自体は日曜日の予定ですが、それ以外のことは何も決まっておりません」
「だったらまたぱーっとやろうよ〜 去年委員長とレインがGⅠ勝ったときみたいにさー」 「いいねえ。わたしも参加したーい」 「あたしもー」 「ウチもー」
ザワザワがどんどんと周囲に波及していく。この勢いはもう止められそうにない。何か盛り上がることができそうなことには積極的に乗っていくこのクラス性、いい意味で当初から変わる気配が全く見受けられない。
(私も他の方の誕生日パーティーに幾度か顔を出させていただいたことはありますが、こうも皆さん前向きなのはありがたいことですね)
慕われていると好意的に解釈することにしよう。稀にクラスのマスコットのように扱われている気がするけれど、それは今は考えないことにしておく。
「分かりました。また詳細は追って連絡いたします」
「みんなが参加できるようにするからねー」
その瞬間歓喜の声と拍手が教室全体を包む。パーティーが始まっていないにも関わらずこの盛り上がり方、本番ではどのようになるのか、ほんのわずかに怖くなった。
(この数日間が勝負……私の誕生日パーティーですよね、今回)
頭に疑問符がいくつも浮かびながらもとにかく当日まで頑張ろうと、私は心に決めた。
─────
「──ということがありまして、トレーナーさんも参加していただけますか?」 「それは全然構わないんだけど……またずいぶん大規模になったなあ……」
翌日、トレーナーさんを誘いにトレーナールームへと足を運んだところ快く首を縦に振ってくれた。ただどうしても気になったことが一つあった。
「ありがとうございます。それはそうと、いつもお誘いした際に快諾いただいておりますが……トレーナーさん自身のご予定はないのですか?」
「ストレートに聞いてくるなあ……オレだって予定はあるよ。今は君たちの予定が最優先なだけで、同僚と出かけたり飲みに行ったりはするからな」 「……女性の方とは?」 「流石に2人きりはないよ。グループの中にいることはあるけど、サシで飲みに行くことはないかな」
打てば響く受け答えと嘘偽りを話しているようには見えない表情から、おそらく真実を言っているように思える。2年前の春より変わった様子は見受けられない。見た目は女子校で人気が高い若い担任教師にも関わらず、言い寄られたりはしないのだろうか。
「……承知いたしました」
「何を承知されたのかよく分からないけどな……それはそうと、オレもザイアに一つ聞きたいことがあるんだ」 「はい、どのようなお話でしょうか」
日の入りの時間が遅くなり、夕刻となっても立っている私の影は短い。彼はあくまでも普段と変わりなく、そう装いながらおもむろに口を開く。
「エスキモーの様子はどうだ?」
「お姉さまですか? 昨日より私の誕生日の件で張り切っていらっしゃいますが、それを除けば以前と特に変わりありません」 「大阪杯の直後は?」 「私と走ることができたことをとても喜ばれていた点以外は違和感はありませんでした」 「そうか……」
そう言うと、トレーナーさんは腕を組み、天井を仰ぎ見る。そういえば、大阪杯のレース直前に聞いてきた話と少し重複していると聞かれてから思い出した。
「何かあったのですか? 家やそれ以外の場所で」
「レース直前も直後も、君と走って嬉しかったとばかり楽しそうに話すんだよ」 「それは……私としては少し照れてしまいますが、何か問題でもあるのですか?」
それだけを聞くと特に違和感はない。私は若干恥ずかしいけれど、それほど楽しみにしていただいていたなら一生懸命に走った甲斐があるというものだ。無論負けたことに悔しい思いは抱いているものの、次こそはという気持ちでこれまで以上にトレーニングに臨んでいる。
「それしか話さないんだ。これまでは他の出走者の話とかレースの組み立て方について話を持ちかけてきたのに、君のことばかり話すんだよ」
「言われてみると確かに奇妙ですね。実力を鑑みると頭一つ抜けていましたが、そのようなレースはこれまでもあったはずです。それなのになぜ今回は……」
何かヒントになることはなかったか、思考回路をフルに稼働させて糸口を探すものの、解決に近づく道筋は見つけられない。
「……ごめんな、変なことを聞いて」
「いえ、何か大変な事態とならないよう私も探ってみることとします」 「ありがとう。オレも何か手がかりが見つかったら伝えるよ」
互いに頭を下げると、私はジャージに着替えるためにトレーナールームを辞した。怪我をしないよう、トレーニング中は頭から追い出そうと、そう廊下を歩きながら決めたとき、廊下の先からお姉さまが小走りでこちらに向かってきた。
「あれ? 教室出るの早かったのにまだ着替えてなかったの?」
「ええ。トレーナーさんに誕生日パーティーの件をお伝えしに行っておりました」 「あれ? 昨日の夜に聞いたんだけどな……でもあのとき上の空だったし、もしかして私の話聞いてなかったのかも」
おそらく先ほどの件をずっと考えているのであろう。しかし私はお姉さまにそのことを伝えることなく、ニコリと微笑んでごまかした。
──不規則な尻尾の揺れは、気づかれることはなかった。
─────
そして迎えた誕生日パーティー当日、降水確率が0%の快晴ということもあり、場所は結局メジロ家のお庭をお借りした。自由にテーブルを移動できるように料理は立食形式で振る舞われることになったのだけれど、私は主賓ということで自ら動くことなく、向こうからかわるがわる歓待を受ける格好となっていた。
「副委員長、誕生日おめでと〜!」
「本日はおもてなしいただきありがとうございます。このお料理も皆さんで作っていただいたと伺いました」 「そうなのー! 最初は委員長が全部作るーって言ってたんだけどー、流石にそれは大変だよーって手伝うことになったんだー」
私のためにお姉さまがそこまでするとおっしゃっていたことを初めて聞いて、思わず涙が出そうになったのを顔にぐっと力を入れてなんとか堪える。昨日の夜までそのような話は一切されていなかったので、全く気づくことができなかった。遠くのテーブルで他のクラスの方と談笑されている様子を見ても、そのような気配は全く感じない。
「そのようなことがあったのですか。あとでお姉さまに感謝を伝えねばなりませんね」
「そうなの、そうなの。ちなみにこのカルパッチョね、あたしも一緒に作ったんだよ。はい副委員長、あーん」
そう言われ口元に差し出されたフォークに私は左右をチラチラと見るも、他のクラスの方はニヤニヤするばかりで止めようとはしない。他に道はないと観念した私は仕方なく口を開いて、彼女のそれを受け入れた。
「ええと、その……あ、あーん……んっ」
「どう? おいしいでしょ?」 「んっ、んっ……はい、ドレッシングも合わさって大変おいしいです」 「でしょでしょ? ちなみにドレッシングも手作りなんだよね。流石副委員長、分かってるぅ」
親指をぐっと突き上げて笑う彼女の顔に釣られて私も思わず頬が緩む。私を中心に広がる笑顔の花は枯れることなく、絶えず咲き誇っていた。
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「どうだザイア。楽しんでいるか?」 「トレーナーさん。はい、見ての通りとても祝っていただいております」
しばらく経ってからトレーナーさんが私のテーブルを訪れた。聞くところによると、先程までお屋敷でいろいろと話し込んでいたらしい。確かにお姉さまについてや今日のこの場についてのお礼等含めて、積もる話があったのかもしれない。まあそれはそうと……
「委員長と副委員長のトレーナーさんだ!」
「教え方すごく丁寧で分かりやすいって聞きました!」 「委員長も副委員長もいいなあ……こんなかっこいいトレーナーさんについてもらって……」
トレーナーさんが来たことで私の周囲から途端に黄色い声が上がるようになった。以前私が例えた「女子校の若いクラスの担任」という表現は間違っていなかったようだ。
「いつもエスキモーとザイアの2人から話は聞いているよ。クラスのみんなはいい子たちばかりだって。2人を支えてくれてありがとう」
「全然そんなことないですよぉ」 「そうです。むしろいつも学級委員の2人に助けてもらってるんですからぁ」 「2人とも勉強できて宿題教えてくれるし、何か困ってたらすぐ駆けつけてくれるし、すっごく頼りになるんですぅ」
私を囲んでいた輪がトレーナーさんに取られた気がした。気がしたというより実際に取られているのだけれど、キャーキャーと盛り上がっている彼女たちの話に水を差すのは野暮だと思い、口を出すことはやめておく。
「あたしのトレーナーさんからもすごいって話は聞いてるんです! トレーナーさんにはあたしから頼むので、今度トレーニング見てもらえませんか!?」
「いいなー! ウチもウチも!」 「わたしもトレーニングの相談とか乗ってもらいたいなーって……駄目ですか?」
話は自然とトレーニングの話題に移っていく。ただそれはトレーナーさんと仲良くなりたいという下心が透けて見えるものだった。
(まあトレーナーさんは優秀ですし、外見も悪くないですから優良物件ではあるのですが……懸念すべき点が……)
案の定というべきか、知っていたというべきか、一人の足音がこちらへ近づいてきた。その音の主は言うまでもなく──
「みんな? トレーナーが困ってるから離してあげて?」
笑みを浮かべながら耳を絞っているお姉さまだった。
(尻尾も風を切るように振られて……いつから見られていたのやら)
お姉さまが全身からただならぬオーラを発しているのをその場にいる全員が感じ取り、少したじろぐ。私は何度も見ているからそこまで動揺することはなかったけれど、見慣れないクラスの方々は完全に震え上がってしまっている。
「トレーナーもずいぶん楽しそうに話してたの、私見てたよ?」
「普通に話していただけだよ……」 「ふーん……ねえみんな、トレーナーって私たちの練習を見るので忙しいから、みんなの練習を見てあげる暇ないと思うの。悪いけどごめんね?」 「「「う、うん……」」」
お姉さまが放つ殺気に近い威圧感に周囲にいるクラスの方が全員縮こまってしまっている。風が吹いていないのに髪が揺れているように見える上に、春のぽかぽかとした陽気が極寒の中に放り込まれたような冷たさに変わってしまったようにすら感じる。おそらくこれは……
(嫉妬、でしょうか。言えば睨まれるのが分かっているので言いませんが)
それでも誰がこの場を鎮めるかといえば私ぐらいしかいない。あくまでも冷静な面持ちで2人の間に立つと、お姉さまの方へ顔を向ける。
「お姉さま、お気持ちは理解いたしますが、できればまた別の機会にお願いいたします」
「ちょっと我を忘れてた……ごめんね」
しゅんとなるお姉さまの次に、今度はトレーナーさんの方へ顔を向ける。
「トレーナーさんもできない場合はできないとはっきりとそうおっしゃられた方がよろしいかと存じます。相手に勘違いされて苦労されるのはトレーナーさん自身です」
「そうだな、気をつけるよ」 「理解いただいているなら結構です」
私はその返事に小さく頷くと、元いたテーブルの前へと戻った。そして自身のカップに注がれていた紅茶を一口口に含むと、ほっと一息ついたのだけれど……
「皆さん? どうされましたか?」
何やら私に向かって多数の視線が注がれているのを感じる。無論決して嫌なものではなく、むしろ賞賛の眼差しを向けられているように感じる。
「副委員長ってすごいね……」
「先生みたい……」 「可愛いだけじゃなかったんだ……」
どこからともなく小さな拍手が聞こえてくると、その輪が徐々に広がっていき、しまいにはお姉さまとトレーナーさんまで手を叩き始めてしまった。
「……褒めていただいているのは理解しましたので、皆さんパーティーを続けてくださいますか?」
顔が少し熱くなるのを感じながらその一言を捻り出すまで、しばらくの間拍手は止まなかった。
(これは一体なんだったのでしょうか……)
はぁと小さくため息をつく。私は気を落ち着かせるために、再び紅茶を一口口に含んで、もう一度大きく息を吐いた。
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「大変楽しかったのですが……少し疲れてしまいました」 「なんかその……ごめんね」
パーティーが終わり、クラスの方々が片付けをされているのを庭の端の方で邪魔にならないように見守っている。最初は私も手伝おうとしたのだけれど……
『今日は副委員長が主役なんだからゆっくりしてて!』
『委員長もトレーナーさんも休んでてください!』
と、3人揃って使い終わったお皿やグラスをクラスの方々に取り上げられ、片付けが済むまで休むように命じられてしまったのだ。
「せっかくだし、今のうちにプレゼント渡そっか。私のは昨日ザイアと買いに行ったスプリングコートだけど」
「オレからはこれだ」
そう2人から言われ、それぞれからプレゼントを受け取る。お姉さまからいただいた紙袋の中に入っているのは、昨日デパートに一緒に買いに行ったアイボリーカラーのスプリングコートなのだけれど、トレーナーさんから受け取った細長いプレゼントは……
「包装を開けても、よろしいでしょうか」
「ああ、気に入ってくれると嬉しい」
真っ赤な色が映える大きな傘だった。高級感の中に可愛らしさも盛り込まれた、内と外で生地の色が異なるそのデザインは、ダノン家の一員としての少し背伸びをした私と、中等部としての年相応の私を示しているように私の瞳には映った。ただそれ以上に、どうして私が欲しいものが分かっていたのかという疑念が先行していた。それを尋ねようと口を開きかけたそのとき、私の表情を読み取っていたかの如く、トレーナーさんは答えを教えてくれた。
「この前トレーニングが休みだった日があるだろ? あの日の夕方に廊下を歩いていたら、雨が降っている中を小走りで寮まで向かう君の姿を見かけたんだ。だからもしかして傘が壊れてしまったんじゃないかと思って選んだんだよ」
「……見られていたのですね」
そう、結局あの日はお姉さまも学級委員長の仕事を忙しそうにされており、あいにく他のクラスの方とも出くわさなかった。そのような事情があったので、少し濡れてしまうのを承知で走って寮まで帰ったのだけれど、トレーナーさんにその様子を見られてしまっていたらしい。
「晴れの日にも使えるって店の人に言われたから、日傘としても使ってくれると嬉しい」
「……大事に使わせていただきます」
きっとこういうところが女性を惹きつけるのだろう。細かいことまで覚えていてくれていて、さりげなく支える、その姿勢が。またお姉さまから凄い目で睨まれているけれど、先ほどとは異なり今度は気づかないふりを続けている。
(今度出かける際に使わせていただきましょう)
陽射しが強く降り注ぐ日も、雨粒が地面を叩く日も、トレーナーさんからいただいた傘を差そう。一日でも長く、大切に。
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