5月█日、京都レース場。
その日は、朝から強い雨が降り続いていた。
その日は、朝から強い雨が降り続いていた。
「それでスッピーはあんなにウキウキしてるの?」
「……いや、わからん。してるのかアレ?」
サブトレの質問にトレーナーは逆に問いかける。多くのウマ娘たちをGⅠの舞台で輝かせ続け、本来は自分のチームを持っている彼のトレーナー――現在はスリーピースピネルの都合でチーム『カオス』で教鞭を執っているが――であるが、スリーピースピネルの表情からそのテンションを読み取ることはできなかった。
思えば、このトレーナーが担当してきたウマ娘たちは皆、基本的に表情豊かな者が多かった。その代表格がツインターボやスイープトウショウであり、比較的読み取りにくい者でもナリタタイシンくらいのものであった。
まぁそもそも当のスリーピースピネルは控室のベンチで横になり、顔にタオルをかけて寝ているので表情など見えないのであるが。
思えば、このトレーナーが担当してきたウマ娘たちは皆、基本的に表情豊かな者が多かった。その代表格がツインターボやスイープトウショウであり、比較的読み取りにくい者でもナリタタイシンくらいのものであった。
まぁそもそも当のスリーピースピネルは控室のベンチで横になり、顔にタオルをかけて寝ているので表情など見えないのであるが。
ベテランと言っていいこのトレーナーではあるが、スプリンターを育てた経験は薄い。特に純粋なスプリンターという面で言えばカレンチャン以外育てたことはなく、もうひとりの担当はマイラーも兼任していた。
こと逃げ脚質については、それこそこのサブトレの現役時代がそうであるように多くの経験があるのだが、しかしスリーピースピネルの現在の戦績はいいものとは言えない。
試しにと出してみたマイルの条件戦が当然のように全敗であるのは仕方ないとして、短距離でも負け越している。かと思えば唯一の勝ち星はレコード勝利を飾っているのだから不思議なものであり、そしてその理由はおおかた予想がついていた。
こと逃げ脚質については、それこそこのサブトレの現役時代がそうであるように多くの経験があるのだが、しかしスリーピースピネルの現在の戦績はいいものとは言えない。
試しにと出してみたマイルの条件戦が当然のように全敗であるのは仕方ないとして、短距離でも負け越している。かと思えば唯一の勝ち星はレコード勝利を飾っているのだから不思議なものであり、そしてその理由はおおかた予想がついていた。
「テンションは上がってるけど焦れ込んでるって感じじゃなさそう。むしろこのくらいなら、期待できるテンションだと思うの」
「そりゃ重畳。とはいえ、雨の日にしか勝てない、なんてことにならなきゃいいがな」
「ネイちゃんの3着のジンクスみたいに?」
「あの巡り合わせも酷かったな……」
ふたりが駄弁っていると、おもむろにスリーピースピネルが体を起こした。表情はいつもと変わらないポーカーフェイスに見えるが、しかし彼女のまとう雰囲気が普段よりも熱を伝えるものに感じる。
1400mのリステッドレース、橘ステークス。これで勝てれば、条件戦をまるまるスキップして一気にオープンウマ娘まで飛躍することになる。
1400mのリステッドレース、橘ステークス。これで勝てれば、条件戦をまるまるスキップして一気にオープンウマ娘まで飛躍することになる。
「スリーピースピネル。行けるか?」
「ん……もち」
言葉少なにそう言い切って、スリーピースピネルは控室を出る。地下バ道のモニターに表示された彼女の人気順位は4番人気。レコードホルダーとしては低い順位だが、勝ち星の数から考えれば高いとも言える。
ライバルは9人。そのうち1人は先日の条件戦で敗着した相手で、他にも負けたことのある相手がチラホラと見て取れる。
ライバルは9人。そのうち1人は先日の条件戦で敗着した相手で、他にも負けたことのある相手がチラホラと見て取れる。
トレーナーもスリーピースピネル自身も言い訳にする気はないが、スリーピースピネルの敗因は主にその散漫な集中力にある。1600m、下手をすれば1400mでも保たず、掛かったり仕掛けを早まったりしてしまう弱点のせいで、本来ならスプリンターはもちろんマイラーとしてもやっていける完成されたポテンシャルを発揮しきれていないのだ。
勿論、それに気づいているのはスリーピースピネル陣営だけではない。鎬を削る一部のライバルたちも、スリーピースピネルの潜在能力には感づいている。
そのうちのひとりが、スリーピースピネルへ声をかけた。
勿論、それに気づいているのはスリーピースピネル陣営だけではない。鎬を削る一部のライバルたちも、スリーピースピネルの潜在能力には感づいている。
そのうちのひとりが、スリーピースピネルへ声をかけた。
「やぁスピネル、調子はどう?」
スリーピースピネルに話しかけてきたのは、最近増えてきたとはいえまだまだ珍しい"白毛"のウマ娘。URA史上初の白毛GⅠウマ娘となりティアラ路線のマイルGⅠを完全制覇した『白桜』を師に持つ期待の才媛。
金木トレーナー率いるチーム『α・βクルックス』所属、カマプアアだ。
金木トレーナー率いるチーム『α・βクルックス』所属、カマプアアだ。
「見ての通り、抜群」
「そっかーそりゃよかった。どうせ勝つなら好調なときがいいからね」
挑発じみた言葉を投げかけるカマプアアだが、スリーピースピネルは動じない。
カマプアアはスリーピースピネルがメイクデビューで敗北した相手であり、スプリント路線にも足を伸ばしているもののその本領はマイラーである。
マイルのレースに集中するようになれば、自ずとスリーピースピネルと競い合う機会も少なくなる。スリーピースピネルのポテンシャルに気付いていたカマプアアは、一度は全力を出し切ったスリーピースピネルと戦いたいと考えていたのだ。
スリーピースピネルからすれば特段意識している相手ではなく、強いて言うならこのレースの1番人気こそこのカマプアアであるから、強敵としてやや警戒している程度である。
スリーピースピネルを揺らがすのは無理だと判断したカマプアアは短く挨拶を残し先にゲートへと向かった。
カマプアアはスリーピースピネルがメイクデビューで敗北した相手であり、スプリント路線にも足を伸ばしているもののその本領はマイラーである。
マイルのレースに集中するようになれば、自ずとスリーピースピネルと競い合う機会も少なくなる。スリーピースピネルのポテンシャルに気付いていたカマプアアは、一度は全力を出し切ったスリーピースピネルと戦いたいと考えていたのだ。
スリーピースピネルからすれば特段意識している相手ではなく、強いて言うならこのレースの1番人気こそこのカマプアアであるから、強敵としてやや警戒している程度である。
スリーピースピネルを揺らがすのは無理だと判断したカマプアアは短く挨拶を残し先にゲートへと向かった。
スリーピースピネルは、頭に装着したホライゾネットを目元まで下げて地下バ道を出る。すぐに冷たく降り注ぐ雨が肌や髪を打つ。
地下バ道を抜けた他のウマ娘たちは駆け足でゲートへと向かう。ゲートにも屋根はないから濡れるかどうかは大して変わらないのだが。
一方のスリーピースピネルは雨の感触を楽しみながら一度目を瞑り、肺に湿気た芝の匂いを大きく溜め込む。鼻孔を擽る雨の匂いがスリーピースピネルの脳にエンドルフィンを流し始めた。
重バ場となったこの橘ステークス、スリーピースピネルは10人立てで8枠10番、逃げウマ娘であるにも関わらず大外枠を引いてしまっていた。
それに加え重い芝と淀の坂、スプリントの1400mでありながらパワーとスタミナも要求されることになると予想されるこのレースだが、スリーピースピネルの胸には不思議と不安はなかった。
地下バ道を抜けた他のウマ娘たちは駆け足でゲートへと向かう。ゲートにも屋根はないから濡れるかどうかは大して変わらないのだが。
一方のスリーピースピネルは雨の感触を楽しみながら一度目を瞑り、肺に湿気た芝の匂いを大きく溜め込む。鼻孔を擽る雨の匂いがスリーピースピネルの脳にエンドルフィンを流し始めた。
重バ場となったこの橘ステークス、スリーピースピネルは10人立てで8枠10番、逃げウマ娘であるにも関わらず大外枠を引いてしまっていた。
それに加え重い芝と淀の坂、スプリントの1400mでありながらパワーとスタミナも要求されることになると予想されるこのレースだが、スリーピースピネルの胸には不思議と不安はなかった。
体操服に染みた雨粒の跡が点から面になり始めたとき、最後の枠入りとなるスリーピースピネルがゲートへ入った。すぐに足元を踏み固め、スタートダッシュでしっかりと力が伝わる土台にする。
ゲートが開く。観客にはさながら、スリーピースピネルだけがスタートしたかのように見えただろう。踏み固めた地面が爆ぜ散るほどの踏み込みが生んだ推進力が、大外枠の不利を無に返す。
同じく逃げを選んでいたスマートレガリアが並びかけ競り合いになる。互いにプレッシャーをかけあう精神力の戦いは、当然大外のスリーピースピネルの方が不利なはずだ。
そう考えてスリーピースピネルへ圧をかけるスマートレガリアに、しかし手応えは返ってこなかった。スリーピースピネルから発せられるはずの威圧すらもない。
スマートレガリアに残ったのは、空の黒雲をどかそうと息を吹きかけたかのような虚無。スリーピースピネルの目に、スマートレガリアは映っていなかった。
スマートレガリアの頭に昇りかけた血液を雨が冷ます。1ハロン、200mを走って、淀の上り坂へと差し掛かった。たっぷりと水を含んだ芝は力を込めた脚をただ沈ませるばかりで、その下の地面へと巧く力が伝わらない。
ゲートが開く。観客にはさながら、スリーピースピネルだけがスタートしたかのように見えただろう。踏み固めた地面が爆ぜ散るほどの踏み込みが生んだ推進力が、大外枠の不利を無に返す。
同じく逃げを選んでいたスマートレガリアが並びかけ競り合いになる。互いにプレッシャーをかけあう精神力の戦いは、当然大外のスリーピースピネルの方が不利なはずだ。
そう考えてスリーピースピネルへ圧をかけるスマートレガリアに、しかし手応えは返ってこなかった。スリーピースピネルから発せられるはずの威圧すらもない。
スマートレガリアに残ったのは、空の黒雲をどかそうと息を吹きかけたかのような虚無。スリーピースピネルの目に、スマートレガリアは映っていなかった。
スマートレガリアの頭に昇りかけた血液を雨が冷ます。1ハロン、200mを走って、淀の上り坂へと差し掛かった。たっぷりと水を含んだ芝は力を込めた脚をただ沈ませるばかりで、その下の地面へと巧く力が伝わらない。
脚へとかかる負担が著しく大きくなったことに顔を顰めたスマートレガリアの視界に、遠のいていく背中が見えた。
「おい……嘘だろ?」
貴重な酸素が呆然とした呟きと共に漏れる。牛歩を続けるバ群を後目に、スリーピースピネルだけが加速していた。
バ群後方からそれを見るカマプアアは戦慄する。スリーピースピネルが、加速するという選択をしたことではなく加速することに成功した事実にだ。
そもそも、クラシックも始まったばかりの5月時点で、こんな最悪のコンディションの上り坂で、加速できるウマ娘などほんの一握りなのだ。
スリーピースピネルが自身の末脚から逃れない程度の距離と速度を保って脚を溜めるカマプアアだが、降り続く雨のせいでうまく距離をつかめない。
バ群後方からそれを見るカマプアアは戦慄する。スリーピースピネルが、加速するという選択をしたことではなく加速することに成功した事実にだ。
そもそも、クラシックも始まったばかりの5月時点で、こんな最悪のコンディションの上り坂で、加速できるウマ娘などほんの一握りなのだ。
スリーピースピネルが自身の末脚から逃れない程度の距離と速度を保って脚を溜めるカマプアアだが、降り続く雨のせいでうまく距離をつかめない。
『前半3ハロン終えて先頭はスリーピースピネルここから下りに入ります。ここまでのタイムは██.█……██.█!? 良バ場であってもハイペースと言えるタイムが出ておりますスリーピースピネル!! 追走するのはスマートレガリアとニシノブロウアキス、カマプアアは中団後方……』
コーナー途中からの下り。かつてはタブー視されていた淀の直滑降も――上りからの大まくりはともかく――今は比較的よく見られるようになったが、ただでさえ足を取られやすいこの重バ場でそれをするのはあまりにも無謀。
むしろスピードを抑えるべきであるが、踏ん張りの利かないこの足元ではそれさえ難しい。芝の上を足が滑れば、体勢の立て直しやリズムの修正で余計なスタミナを消費し、他のウマ娘に有利なポジショニングを許してしまう。
上りに比べて短い下り坂をスピードをコントロールしながら駆け下りれば、残る最終コーナーからゴールまではほぼ平坦なコースが続く。
むしろスピードを抑えるべきであるが、踏ん張りの利かないこの足元ではそれさえ難しい。芝の上を足が滑れば、体勢の立て直しやリズムの修正で余計なスタミナを消費し、他のウマ娘に有利なポジショニングを許してしまう。
上りに比べて短い下り坂をスピードをコントロールしながら駆け下りれば、残る最終コーナーからゴールまではほぼ平坦なコースが続く。
『最終コーナー、スリーピースピネル後続との差は2バ身から3バ身! ここまでなんとか追走してきたニシノブロウアキスは垂れてきている、スマートレガリアは踏ん張っているが伸びが苦しい! バ群抜け出してきたのはカマプアアだ!! エイシンアストロンも上がってきている!!』
(届くか? ギリギリ……いや、差し切ってみせる!!)
芝に足を取られながらも、内をまくってきたカマプアアが少しずつスリーピースピネルへ迫る。前と後ろの差は詰まり、バ群が団子になる。飲み込まれたらそのまま沈んでしまうだろう。
巧くバ群を抜け出し、コーナーの終わり際。間もなくなんの障害もない平坦な最終直線に入る。スリーピースピネルとカマプアアとの距離はスマートレガリアを挟んで4バ身あるかないか。
スマートレガリアも躱し、カマプアアがスパートをかけようとしたその時。カマプアアの頬を、一際大きな芝塊が掠めた。
巧くバ群を抜け出し、コーナーの終わり際。間もなくなんの障害もない平坦な最終直線に入る。スリーピースピネルとカマプアアとの距離はスマートレガリアを挟んで4バ身あるかないか。
スマートレガリアも躱し、カマプアアがスパートをかけようとしたその時。カマプアアの頬を、一際大きな芝塊が掠めた。
マイルや中距離に比べれば、短距離の逃げでは二の脚が残ることも少なくない。重要なのは、短いラストスパートで残った脚をどこまで出しきれるか。
もうスリーピースピネルは何も考えていない。ただ、雨音が奏でる子守唄に耳を傾ける。スリーピースピネルの視界に映るのは、ただ彼女だけの世界。雨に閉ざされた視覚と聴覚は余計な情報を寄越さない。ゴーグル越しに見えるのは、ただゴールまでの一本道。没頭する彼女の集中が切れることはない。
意識が沈む。深い深い雨の世界へ。
もうスリーピースピネルは何も考えていない。ただ、雨音が奏でる子守唄に耳を傾ける。スリーピースピネルの視界に映るのは、ただ彼女だけの世界。雨に閉ざされた視覚と聴覚は余計な情報を寄越さない。ゴーグル越しに見えるのは、ただゴールまでの一本道。没頭する彼女の集中が切れることはない。
意識が沈む。深い深い雨の世界へ。
地面が抉れ飛ぶほどの踏み込みは、重バ場などもはや関係なく大地を捉え、スリーピースピネルに加速をもたらす。
一度は縮まった距離が再び開き始める。同じレースを走る全員に等しく課せられる雨天という枷がスリーピースピネルには作用しない。それはさながら、重力に敗け地を這いずる人間を空飛ぶ鳥が嘲笑うかのように。
地に鎖に繋がれた彼女たちでは『天空の宝石 』には届かない。
一度は縮まった距離が再び開き始める。同じレースを走る全員に等しく課せられる雨天という枷がスリーピースピネルには作用しない。それはさながら、重力に敗け地を這いずる人間を空飛ぶ鳥が嘲笑うかのように。
地に鎖に繋がれた彼女たちでは『
会場の熱気も、体の火照りも、降り続く雨が拭い去っていく。雨粒が地面に叩きつけられる音が万雷の拍手のごとくスリーピースピネルの鼓膜を打つ。
電光掲示板に灯されたタイムは赤く、示されたRの文字は2度目のレコード勝利を意味していた。
電光掲示板に灯されたタイムは赤く、示されたRの文字は2度目のレコード勝利を意味していた。
「スリーピースピネル」
自分を呼ぶ声に反応して振り返る。その先には、いつも通り黒スーツを着たトレーナーの姿。傘をさしてはいるが、スリーピースピネルの分の傘はない。必要ないことは既に暗黙の了解となっている。
それから少し遅れて、サブトレーナーである鹿毛のウマ娘が続く。このトレーナーの初めての担当バであり、URA史上初の凱旋門賞ウマ娘である。
それから少し遅れて、サブトレーナーである鹿毛のウマ娘が続く。このトレーナーの初めての担当バであり、URA史上初の凱旋門賞ウマ娘である。
「ん……ぶい、びくとりー」
スリーピースピネルはトレーナーにピースサインを向けながら、あくまでも平坦にそう呟く。トレーナーはそんな平常運転のスリーピースピネルに「晴れの日もこんくらい集中してくれねえかな」という想いを込めに込めた溜息を吐いて、親指で地下バ道を指し示した。
「風邪引くからさっさとシャワー浴びて着替えてこい」
「んむ」
「ライブの振り付けは覚えてるな? 不安なところがあったら控室で確認しとけ」
「りょ」
トレーナーの指示に短く返事をして小走りで地下バ道へ向かうスリーピースピネルを見送り、トレーナーはインタビューのために群がっているマスコミのもとへ向かう。
スリーピースピネルがいる必要はない。どうせ口下手な彼女にまともな応対ができるはずないことをトレーナーは理解していた。
スリーピースピネルがいる必要はない。どうせ口下手な彼女にまともな応対ができるはずないことをトレーナーは理解していた。
数日後、オープンに上がったことでスリーピースピネルから提出された勝負服デザインについて緊急面談が行われることを、まだ誰も知らない。