「個人的に、貴方の育成指針には大変関心を寄せておりまして」
「……そんな風に言われたのは、初めてだったな」
「まあ、新人故の戯言と言われれば返す言葉もありませんが……」
ある土曜日の昼。プルタブを引けば、中の空気が溢れ出す小気味よい音が響く。白衣の男性……カラレスミラージュさんのトレーナーから差し出された、加糖コーヒーの缶。仄かな苦みと確かな甘さが舌を伝う。
ほとんど同期みたいなものだから敬語は要らない、自分は崩せないけどなんて二律背反を平然とぶつけてきたけど、こう話してみると悪い人じゃないのが伝わってくる。
自分自身のために買ったブラックコーヒーを傾けて、彼は続けた。
「脚の疲労ケアを筆頭に、走行フォームの維持やペース配分……負けが込むのは仕方ないとして、こと精神面以外のダメージがほぼ見られないのは特筆に値します」
「本当に、上手く出来ているかは分からないけどね。あの子の才能と心の強さに頼り切りなんじゃないか、と思うこともある」
「脚を折ろうとした件は……まあ、否定できませんね。それでも勝利への執念で少しずつタイムを縮めていたのは驚きましたが」
……思い返せば。初めて出会った時の、自信に満ち溢れた天真爛漫な彼女の顔を、どれほど見ていないだろう。確かに彼女は強くなっている、私が思っていたよりずっと。油断も慢心も捨て去って、ただ勝つことに決意を向けている。ただ。
今日も、吐瀉物が床を叩く音を聞いた。それが実物か、私の幻聴かは、重要じゃない。彼女を追い詰めているのは、事実だから。
……模擬レースの依頼。意図が分からないという顔を向けられたことも、そんな愚行は止めろと叫ばれたことも、楽しくないから嫌と断られたこともある。その点、「自分のトレーナーと相談して決めて欲しい」で済ませたあたり、彼女は優しかったのかな。単に心を痛めていただけの可能性もあるが。
「根性論は然程好きではありませんが。貴方がミフネさんに向ける信頼あってのことであれば、私は止めませんので」
そう言って、その場を立ち去ろうとする……前に、何かを放り投げてきた。見れば、未開封の睡眠薬。市販のそれより少し効能の強いものだ。
「しっかりよく寝て、日取りを教えて下さいね。自身の健康管理もトレーナーの職務ですよ」 担当は説得しておきます。それだけ言い残して、彼は今度こそ立ち去った。
「……そんな風に言われたのは、初めてだったな」
「まあ、新人故の戯言と言われれば返す言葉もありませんが……」
ある土曜日の昼。プルタブを引けば、中の空気が溢れ出す小気味よい音が響く。白衣の男性……カラレスミラージュさんのトレーナーから差し出された、加糖コーヒーの缶。仄かな苦みと確かな甘さが舌を伝う。
ほとんど同期みたいなものだから敬語は要らない、自分は崩せないけどなんて二律背反を平然とぶつけてきたけど、こう話してみると悪い人じゃないのが伝わってくる。
自分自身のために買ったブラックコーヒーを傾けて、彼は続けた。
「脚の疲労ケアを筆頭に、走行フォームの維持やペース配分……負けが込むのは仕方ないとして、こと精神面以外のダメージがほぼ見られないのは特筆に値します」
「本当に、上手く出来ているかは分からないけどね。あの子の才能と心の強さに頼り切りなんじゃないか、と思うこともある」
「脚を折ろうとした件は……まあ、否定できませんね。それでも勝利への執念で少しずつタイムを縮めていたのは驚きましたが」
……思い返せば。初めて出会った時の、自信に満ち溢れた天真爛漫な彼女の顔を、どれほど見ていないだろう。確かに彼女は強くなっている、私が思っていたよりずっと。油断も慢心も捨て去って、ただ勝つことに決意を向けている。ただ。
今日も、吐瀉物が床を叩く音を聞いた。それが実物か、私の幻聴かは、重要じゃない。彼女を追い詰めているのは、事実だから。
……模擬レースの依頼。意図が分からないという顔を向けられたことも、そんな愚行は止めろと叫ばれたことも、楽しくないから嫌と断られたこともある。その点、「自分のトレーナーと相談して決めて欲しい」で済ませたあたり、彼女は優しかったのかな。単に心を痛めていただけの可能性もあるが。
「根性論は然程好きではありませんが。貴方がミフネさんに向ける信頼あってのことであれば、私は止めませんので」
そう言って、その場を立ち去ろうとする……前に、何かを放り投げてきた。見れば、未開封の睡眠薬。市販のそれより少し効能の強いものだ。
「しっかりよく寝て、日取りを教えて下さいね。自身の健康管理もトレーナーの職務ですよ」 担当は説得しておきます。それだけ言い残して、彼は今度こそ立ち去った。
…………
説得しておく、か。心にもないことを言った代償か、半端に口元が緩む。
自室に戻れば、ちょうど引き合いに出していた担当がノートを閉じたところだった。
「おかえりなさい、トレーナーさん! ……話、終わった?」
「……ああ」
年相応に取り繕った仮面はすぐに剥がれ、冷え切った目で俺を見る。普段なら多少揶揄うところだが、今日はそんな気にならず本題を切り出した。
「あれだけキツいなら、止めればいいものを……」
「……ツキノミフネ?」
「指導側。まあ堪えるのも分かるが、今にも倒れそうな割にしっかり目がキマってるのがな……」
自分の担当を折るために行動している、そんな異端の新人が居ることは聞いていた。実際、さっき語った内容に嘘は殆ど無く、医学的観点から関心を向けているのも事実。敢えて言うなら『自分の担当に同じことをする気は毛頭ない』ことと、『説得など必要なく、担当は既に走ることへ同意している』点くらいだろうか。
「で、行けるか? 5バ身差」
「……当然。執念だけで走るなら、対処は難しくない」
……担当も、以前は執念を持たず流されるままに走っていたウマ娘だった。ちょっと唆してやれば騙されて限界を超えたあたり相当だが……案外、件の彼女に通じるものがあるのかもしれない。
「分かった。温情は不要……どうせキミが与えても他の連中に折らせるだろうからな。徹底的にやってこい」
「……」
コクリと一度頷き、会話は終了を迎えた。さあ、次は依頼の遂行方法について話し合うか……
自室に戻れば、ちょうど引き合いに出していた担当がノートを閉じたところだった。
「おかえりなさい、トレーナーさん! ……話、終わった?」
「……ああ」
年相応に取り繕った仮面はすぐに剥がれ、冷え切った目で俺を見る。普段なら多少揶揄うところだが、今日はそんな気にならず本題を切り出した。
「あれだけキツいなら、止めればいいものを……」
「……ツキノミフネ?」
「指導側。まあ堪えるのも分かるが、今にも倒れそうな割にしっかり目がキマってるのがな……」
自分の担当を折るために行動している、そんな異端の新人が居ることは聞いていた。実際、さっき語った内容に嘘は殆ど無く、医学的観点から関心を向けているのも事実。敢えて言うなら『自分の担当に同じことをする気は毛頭ない』ことと、『説得など必要なく、担当は既に走ることへ同意している』点くらいだろうか。
「で、行けるか? 5バ身差」
「……当然。執念だけで走るなら、対処は難しくない」
……担当も、以前は執念を持たず流されるままに走っていたウマ娘だった。ちょっと唆してやれば騙されて限界を超えたあたり相当だが……案外、件の彼女に通じるものがあるのかもしれない。
「分かった。温情は不要……どうせキミが与えても他の連中に折らせるだろうからな。徹底的にやってこい」
「……」
コクリと一度頷き、会話は終了を迎えた。さあ、次は依頼の遂行方法について話し合うか……
…………
1年ほど、前だったか。彼女に尋ねられたのは。どうしてそんなに明るく振る舞えるのか、と。
『――私はミフネ先輩が思うほど、立派なウマ娘じゃないと思いますから』
あの時は、まだ少しばかり仲良くなっただけだった。ちょっと共通項が多いだけの、友達未満な2人組。
あの時見た笑顔を、私も長らく見ていないと思う。それが成長なのか破損なのか、私は知らない、分からない。ただ。
あの時見た笑顔を、私も長らく見ていないと思う。それが成長なのか破損なのか、私は知らない、分からない。ただ。
「私は貴女が思うほど、立派なウマ娘じゃない」
だって、こうして貴女の心に負荷を加える行為へ、罪悪感というものが僅かにしか湧いてこないのだから。
まあ、恨むならば。私のような性悪女と、それを育てたトレーナーを恨んで欲しい。
……それで少しでも、貴女が救われるのであれば。
だって、こうして貴女の心に負荷を加える行為へ、罪悪感というものが僅かにしか湧いてこないのだから。
まあ、恨むならば。私のような性悪女と、それを育てたトレーナーを恨んで欲しい。
……それで少しでも、貴女が救われるのであれば。