ファタ・モルガナ帝国 > 歴史

本ページではファタ・モルガナ帝国の歴史を記述する。

目次

前史

ファシア人及びファシア文化のルーツはアウレージ大陸東部に発生し、古代フールナ文明とは別種の文明体系を持った民族集団がファタムジア島に移動、幾つかのコミュニティに分化したものの一つであると言う説が一般的である。ただしながらアウレージ大陸人種とファシア人では髪色などの容姿があまりにも大きく異なっているため、生物学的にも他の人種とは微妙に異なった種なのではないかとも囁かれている。
ユーレリア起源前3000~2500年にかけてのファタムジア島においては幾つかの部族による原始的なコミュニティが成立しており、この中のモルガニユ皇国と呼ばれた集団が現在のファ帝の直系の前身である。モルガニユ皇国は現在のマーズサータ圏西部に領域を置き、ファタムジア北部にはミャクニス国、東部にはディーニス人の集落が形成されていた。この頃のファタムジア島では集落間の摩擦が頻繁に発生しており、最終的にはモルガニユ皇国がディーニス国との紛争に勝利してファタムジア島一帯を平定したことで秩序が齎された。モルガニユ皇国はその名の通りモルガニユ家に率いられた集落の一団であり、厳密な起源は不明ながら当時成立したばかりのディン教の宗教思想によって強固に団結されていた為、そのような結束のないディーニスなどに対して勝利を収められたと考えられている。

古代ファタ・モルガナ時代

私はこの国を作るのに度々武力を用いた。今よりはこの国を治めるのに武器の代わりに知恵を用いる時代を始めようと思う。それがこの国の始まりだ。 - レカルーナ・モルガニユ

ファタ・モルガナ帝国の成立はユーレリア暦の紀元よりおよそ2500年前にまで遡る。
ファタムジア島の全土を掌握したモルガニユ家当主レカルーナ・モルガニユは「女神の寵愛と肯定を受けたモルガニユによる裁定と唯一のディン誓約に基づく聖地ファタムジアにおける神聖なるファシア共存体の宣言」を発し、「ファタ・モルガナ帝国」の建国を布告、プラルネの神聖名を名乗り初代女皇に就任した。
以後ファタムジア島は1775年の転化戦争終結まで4200年に渡ってモルガニユとディン教による統治体制が敷かれることとなった。
レカルーナ自身はファタムジア島の統一を武力によって成し遂げていたものの、その統治は一貫して文治政治を志向したものであった。レカルーナは国内に強固な法治主義体制を敷き、公教育制度の創設することで学問の普及や識字率の向上に尽力した。レカルーナは私刑を最も嫌い、秩序の番人たる警察と司法の番人たる裁判所を設置して罪を犯した者に対する冷静にして客観的、中立的な裁きを下せるようにしたとされる。
この後のファタ・モルガナ帝国は統一崩壊が発生するまで戦乱に見舞われることもなく、優れた国家地盤と技術力により発展を続け、栄華を享受することになる。

大陸からの人々の流入

もしこの記録を後世の人々が読んでいるなら、それは我々が依拠してきた法と言論による秩序の勝利を意味する。おめでとう、そしてありがとう後輩たちよ! - 前997年度宮殿議会議事録

紀元前1000年頃、大陸での戦乱がきっかけとなってフールナ人がファタムジア島に流入する。ファシア人は自分たちとは全く異なる価値観を持つフールナ人と衝突し、それはファタ・モルガナ帝国自体の分裂にも発展することになった。この出来事は統一崩壊と名付けられ、以後700年に渡って島内の再統一はなされなかった。
長い間異民族との衝突、国内での戦乱を経験していなかったファタ・モルガナの国民はヒステリックな反応を示し、各地で不安による暴動事件や戦火に巻き込まれることを嫌った圏の独立宣言などが発生した。1500年に及ぶ平和な時代の中で中央政府は腐敗しつつあり、既にフールナ人との戦争を抱えていたこともあってこれに対応することが出来なかった。これらの動乱はエスカレートし、ファタムジア島は大内戦時代に突入した。島内はファタ・モルガナ中央政府の勢力圏であるマーズサータ圏、帝国から独立したエニレッタ圏、ディニスサータ圏、フールナ人の勢力圏となっていたグレンゾ圏と群雄割拠状態に陥り、30年後にはマーズサータから分断された帝国勢力圏であったミャクニッキ圏からは西半分が大ミャクニン中立圏として分離独立を宣言した。
マーズサータ圏は紀元前400年頃から、統一崩壊後暫くしてから交流を持った遠い異国であるユーレリアレージから支援を受け、ファタムジアの再統一に乗り出す。分断から600年経過していた各勢力は小康状態に入っており直接的な激突はほぼ起きなくなっていたが、再統一運動がきっかけで再び過熱した。マーズサータは新たに開発されたり交易で齎された新兵器を活用して領土の再統一を図ったが、長い分裂の中でほぼ全ての勢力が疲弊しており、もはやほとんどの人々は安定を求めるのみとなっていた。ついには議会にて平和再統一法案が提起され、これを機に各勢力は手を取り合っていく。
10年後にはファシア民族の勢力圏は全て和平の下に再統一に合意しており、残るはフールナ人の占めるグレンゾ圏のみとなった。そのグレンゾも紀元前295年のレッテウェナータの戦いの末にファタ・モルガナ帝国への合流に同意し、それをもって帝国は再統一されることとなった。
この戦乱による文化的損失は言うまでもなく甚大であった。歴史資料や芸術品を中心に多くの資料が焼失し、一部の技術分野に至っても断絶が生まれることとなってしまった。

ファタ・モルガナ帝国の全土統合

この700年で失ったものは計り知れない。諸君、次の700年でそれを取り返してお釣りが来るくらいの努力をしよう。 - 前300年度宮殿議会議事録

紀元前300年にファタムジア島の全てを支配下に置いた帝国は教義の許す範囲での統治体制の改良、効率的な食糧確保の為の農業、漁業研究、そして嘗ての外敵侵入を意識しての兵器研究を開始した。
農業や船舶の研究が順調に進む一方で兵器開発だけは長年に渡って遅々として進まなかった。弓を超える兵器の発想が無かったからである。

研究の躍進

強調されなければならないことが一つある。知恵の程度が人の価値に差を生むだなんてことは、我らが女神の記した聖典のどこにも記述がないということだ。 - ウィンゼーナ・モルガニユ

IU690年頃にオリエンスから火薬が伝来すると、時の女皇ウィンゼーナがこれを用いた新兵器の開発を命令する。
IU700年頃に新たな兵器が発明される。当時の研究力ではそれほどハイペースに開発が進む訳では無かったものの、アクシデントが無さ過ぎて非常に長い開発期間が確保された結果、ズベン(Zbenne,大砲)やスキュラン(Scranne,原始的なロケット兵器)などが生まれた。
また、その成果物以上に研究自体を国家事業として推進し、研究者に対して安定した基盤と研究費と十分な時間を与え、且つ研究者の養成機関及び研究自体の推進機関であるツァーネアベルタ(Tzahneabertha,大学)を生み出したことがこの時期の政策の最大の功績であると言われている。

大学制度の設置

世界中で採用されている大学制度はファ帝で開発されたものである。発足当時の名称の「ツァーニアベルタ」が直訳で「研究学校」という意味であるように大学は元は研究者の養成機関として生み出された。
「貧富関係なく、優秀である者は然るべき成果を残すべきであり、その為に政府は然るべき措置を講じるべきである。」というウィンゼーナの発言がきっかけとなって生まれた制度であった為、学費は全面的に無償であった。
最古の大学はIU711年設置のマーズカクス帝国大学(Mahazkakx Uenmparzhih Tzahneabertha)で、最初期に設置された学部はディン教学部、法学部、天文学部、応用数学部、応用物理学部、応用化学部、建築学部、そして工学部の8つであり、最初の大学が開校した数年後には船舶学部、農業学部、政治学部が増設された。
初期の大学制度には中等教育が内包されており、入学した生徒は先ず予備教育として基礎的な数学、物理学、化学などを一通り学習した後に希望する学部を選択、進学試験を受けて合格した者はその学部に入学して本命の学習に入るという流れで履修した。この予備教育を担当する部門は大学予備教育学校と呼ばれ、この大学予備校に入学する際にも入試が存在した為前述の進学試験と併せて自然に狭き門となっていった。
予備教育学校は後に中等教育専門の学校として独立した。
誕生当時の大学は非常に入学が困難であった。当時存在した教育機関は読み書きなどの初歩的な内容を教える初等学校のみであり、大学予備校入試に合格する為のレベルの教育を担当する教育機関が存在していなかった為であり、この問題は793年に帝立中等教育学校制度が成立するまで根本的には解決しなかった。
それまでの期間では、大学入試対策は私立の中等教育学校に通うか、または家庭教師を付けるか何方かにほぼ集約されており、貧富の格差を超えて高等な教育を提供するという当初の目的は全く以て形骸化していたと言える。
ただしながら厳しい入試を突破して大学を卒業した者は真に優秀な者であり、実際にこの大学制度が設置された後にはその卒業者が数多くの功績を残したこともまた事実であった。

航海探検時代

見渡す限りの海と空だ。先人たちより少しだけ、天の瞳が見つめてきた世界に近付けたことに感謝したい。 - トレミオル・アイオ

諸国間の公益が盛んな時期になると、ファ帝はアウレージとオリエンスの物流ハブの役割を担うようになり、更に農業技術の進歩によって商品化されていた作物の積極的な輸出により多くの富が蓄積されていった。それまでは取るに足らない引き籠りの一島嶼国に過ぎなかったファ帝はこれによって一気に力を付けていくこととなり、同時に交易秩序を乱す海賊に対抗するため加速度的に海軍の軍拡が進行していった。
14世紀に入ると、人口増加により土地も食料も足りなくなって来た為に新たな大地を求めて航海による探検を開始した。奇しくも少し後の時期には西アウレージ諸国も同様の探検を開始していたが、後にファ帝にとって最大の成果となったワーレリア植民地に関しては西アウレージ諸国に遅れて到達することとなった。
1313年に海軍の士官であるトレミオル・アイオの指揮する戦艦ズムナクス号を旗艦とした第一次探検隊がマーズカクスの港を出発し、グリニサータ諸島、晋迅、ガイエンと経由し中央オリエンス大陸を調査するとそのまま南オリエンス大陸に到達、同地を「マジ・オリンネークス(新オリエンスの意)」と命名した。第一次探検隊の主任務は地図の編纂事業や航路の開拓であった為、中央オリエンス、南オリエンスを一まとめにして右回りに一周するように航行し、1317年にファタムジアへ帰還した。出発当時艦隊は5隻の帆船を擁していたが、座礁や乗組員の減少による船の放棄による帰還時には旗艦ともう1隻の2隻にまで減っていた。
アイオの帰還から2年後にあたる1319年には同じく海軍士官であるフィルノーラ・ミトーネ率いる第二次探検隊が西アウレージ方面の探検に出発した。ラモッタ島、レムファータ諸島からコユール亜大陸を伝って行く予定であったものの、途中で航路が逸れてコユール南端の更に南に存在する未踏の諸島に偶然到達した。
この諸島はクラージニー諸島と命名され、植民候補地としてその存在が本土に持ち帰られることとなった。
アイオの第一回航海によりオリエンスの、ミトーネの第一回航海で東アウレージ中南部からクラージニー地域にかけての地図と航路が確立され、その後アイオの第二回航海により西アウレージまでの航路が完成したことで1350年までに最終的には3つの航路が開拓された。

政府のぐだぐだにより停滞する航路開拓

第二回航海の帰路にて病死したアイオの代わりとして海軍から探検に出ることとなったのはサイナム・アンダであった。
1356年、アンダはクラージニー諸島から更に南に向かう航路で探検を行ったが、クラージニー島を発って直ぐに巨大な海岸線にぶつかることとなった。アンダは到達した海岸線からひたすら東に進んだ結果それを大陸だと断定し、新大陸発見として本土に報告に戻った。報告を聞いた政府は新大陸を入植の第一候補として考え始めるが、一方で女皇ミルトナは明らかな教義違反である海外植民をどうにかしてやめさせようと考え、帰還したアンダを間を置かず衛兵部隊へ移籍させることで航路情報が軍に回るのを妨害、これにより新大陸への植民は一時期停滞した。1310年の教義解釈変更により海外植民が違反でなくなったと主張する民院が再三にわたり説得を仕掛けたがミルトナは強情に意向を変えないでいた。しかし1357年、ミルトナの娘サミナが14歳になり女皇の座に就くと民院はサミナを懐柔して皇院の意向を変更させ、植民計画の再開に成功することとなった。
この探検で二つの島嶼と一つの新大陸(南ブーミテン島、クラージニー諸島、及びアウメア大陸東海岸)へと到達。そしてクラージニー諸島を植民地として獲得した。

アウメア大陸到達

アウメア大陸は1356年にアンダの手によって発見され、最初はクラージニー島からほど近い北西部からの調査が考えられていた。しかし女皇府と議会のいざこざがエスカレートする内にこの計画は機を逃す。57年になって植民計画が再開された頃にはレミア島の発見によりアウメア東海岸への足掛かりも手中とされており、その為に再考された開拓計画は気候的により豊かとされる東海岸から始めることとされた。
ファタ・モルガナ探検隊は「ユラフ王国」と呼ばれる国家と接触したが、ユラフ王国人(ユラフの、という意味でファシル語では「ユラフィア人」と呼称された。)の探検隊に対する態度は強硬であった。とはいえ、いきなり現れた異民族が領土の割譲を要求してきても応じる訳がないことは予測通りであり、ファタ政府にとっては武力によて制圧するか穏健な交流を続けるかの二択となった。

アウメアへの侵攻

初接触から4か月後、政府はレミア島に待機させていた皇立海軍の大規模な艦隊をユラフ王国の沿岸部に差し向け、威嚇と共に最後通牒を突き付けるが、ユラフ王家がこれに応じなかった為総攻撃を開始した(「白い幸せ」作戦)。
ユラフへの攻撃は海上の船舶から沿岸部の都市へ砲撃及びロケット攻撃を行い都市部の兵力を漸減させることから始まった。艦砲射撃は数日に渡って続き、艦隊の弾薬がほぼ枯渇するまで執拗に行われた。また、ユラフ王国がミュルネニヤ諸侯の庇護下に置かれていたことから同勢力の援軍を警戒したファタ・モルガナ軍は明らかに過剰と言える兵力を上陸させていた(実際には諸侯はユラフ王国を見捨てており、ミュルネニヤの援軍は派遣されなかった)。この為に緒戦の陸戦はファタ・モルガナ側の完勝に終わったが、次第に軍部はアウメア戦域における兵站を維持しきれなくなった。この為上陸部隊の士気は低下、方々での略奪や不祥事が続出し、アウメア諸国においてファシア人が「緑の悪魔」と呼ばれるようになった程の悪逆非道な逸話の数々が生産されることとなった。
また遠征が続く中で帝国が豊かになっているのは武力平定によって海外の領土を拡げ続けている軍の功績のお陰という風潮が強まり、軍の発言力の膨張にも繋がった。
戦線が内陸部に下ると共に緒戦のような快勝は見られなくなったが、それでも兵器技術や戦術に優れるファタ軍側は終始優勢と言ってよい状態であり、丁度同時期に侵攻を見て蜂起していた反ユラフ勢力(後のルフィスマ地域に定住していた人々)とも友好関係を構築したこともあってユラフ王国は1361年に滅亡、その領土をほぼそのまま継承する形でユーミア女皇領が建設された。

行き詰まる植民地経営

大規模な戦争を経て建設されたユーミア女皇領であったが、その経営は中々軌道に乗らなかった。
戦争にて行われた略奪に伴う飢餓やジェノサイドによって人口が減少していたユーミアには租税に耐えられるような経済基盤も残されていなければ、交易品を生産するにも労働力が足りないという有様であった。
増加の一途をたどる人口を兎にも角にもどうにかしたかった本国政府はユーミアを流罪の対象にするなどして人口の分配を続けていたが、労働力を欲したユーミアにはこれは寧ろ好都合であった。

ワーレリアへの進出

ワーレリア大陸の存在はファ帝においても既に知れ渡っていた。1485年、民院は薄利となったアウメア地域での貿易をカバーする為にワーレリア大陸にも進出しようと画策し、レティレナの次代ラミトレーナ率いる皇院の賛同を得てワーレリアへの航路開拓を開始した。
しかしながらワーレリアには西零諸国という先客がおり、ワーレリア北岸部にてニーベルリント連合王国の艦隊と遭遇したことでファ帝側はその事実を知ることとなった。両議会では強引にワーレリアへの進出を続行するか否かで紛糾したが、最終的には帝国の版図を拡げたいラミトレーナの言い分が押し通されてニーベルリント植民地の簒奪が計画されることとなった。
1493年、ラミトレーナは海軍の船舶を結集して女皇艦隊を組織し、ニーベルリントに対してワーレリア植民地全土の無条件明け渡し要求という実質的な最後通牒を叩き付けて第一次府新戦争を開始した。女皇艦隊はワーレリア北岸の新領エヴム・カッツェルハーフ植民地に面したシレジエ海のニーベルリント艦隊を強襲し、エヴム・カッツェルハーフに上陸を仕掛けた。しかしながら要塞に立て籠ったニーベルリント軍に対しファ帝軍は有効な打撃を与えることが出来ず、手こずってる内に女皇艦隊の方が被害を大きくしてしまい敗退することとなった。女皇艦隊敗走の報を聞いたラミトレーナはヒステリーを起こし、皇院宮殿議場の備品を破壊して回った挙句、そのあまりに大きな怒りによって憤死してしまったと記録されている。
女皇艦隊の被害は大きく、その時点で建造中だった艦が新たに戦列に加わるまでファ帝はエヴム・カッツェルハーフに手出しできない状態が続いていた。
ラミトレーナに代わって女皇となったメリエナは1497年に二度目の攻撃を開始する際、艦隊に対してエヴム・カッツェルハーフへの上陸を禁止した上で同地に入港しようとするニーベルリント船の方を攻撃するよう通達した。俗に言う通商破壊戦の先駆けであり、海軍の軍船のみならず民間の貿易船舶に対してもニーベルリント船の攻撃、積み荷の収奪を奨励して対新戦におけるシーレーン破壊を徹底して行っていった。その後の第三次府新戦争の頃にはシーレーンの締め上げによって弱体化していたニーベルリント艦隊に対して女皇艦隊は新兵器の艦載スキュラン(ロケット弾)によって壊滅的な打撃を与え、第四次府新戦争では遂にエヴム・カッツェルハーフの簒奪に成功した。
1510年に締結された府新条約によってワーレリア北岸部は正式にファ帝領となった。

蒸気時代

今日、世界は鉄と蒸気が人を運ぶ時代に入りました。この鉄道が世界を一巡するのには今しばらくかかりそうですが。 - とある車掌の言

産業革命と大躍進

府新戦争終結から10年後の1520年、メリエナはコユールで発明された蒸気機関を莫大な私財を擲って大々的に購入した。蒸気機関の先進性に目を付けたメリエナがいち早く導入しようとしたとして語られることが多いが、実際のところは単に面白そうだからという理由だけで買っており、先進性云々は特に考慮していなかったというのが通説である。ただしながら蒸気機関が素早く国内の優秀な研究開発系統に齎されたことによって国産化、改良が迅速に行われ、結果としてファ帝が世界で最初に産業革命を実現したというのは事実である。
国内の大学では蒸気機関の改良とそれを用いた機械の発明が盛んに行われるようになり、ワーレリア大陸の植民地化が完了される1530年代には自動紡績機、1540年代には蒸気機関を用いた革新的な長距離移動手段である鉄道が実用化された。自動紡績機により大量生産された綿織物は手工業により作られたものより圧倒的に安価で大量の在庫が有った為世界中の市場を席捲し、無尽蔵と言える量の富が集まり続けるファ帝は世界で最も豊かな国となった。また、蒸気機関や鉄道車両を生産する為に設立されたコーネリアスなどの企業もこの時期に急速に成長していった。

資本主義の成立

産業革命以降、国内では女皇家や議会に関わる貴族とは無関係な一般市民の中に多くの資本を蓄える者が現れ始めた。
資本家と呼ばれるその者達は大量生産の為の機械を据えた工場で働く労働力を人々から買い、その代価として給料を支払うという事業形態を取り始め、いわゆる資本主義的な経済体制を作り上げていった。これは民衆の購買力を大幅に底上げし、総合的な生活水準を劇的に改善すると判明したため1540年代に政府による奨励が開始され、資本家が工場を建築する際には多額の補助金が支給されるようになった他、工場の為の土地確保を円滑化する為に国による農地の買い上げが行われるようになった。反対に農業に関しては一挙に冷遇されるようになり、狭い本国より土地の広大な植民地でやることが奨励されるようになる。次第に「工場やるなら本土、農場やるなら植民地」という風潮が国内に根付くようになっていった。

コユールとの覇権争い

ワーレリアにおける植民地獲得競争での大勝によって勢いのついたファタ・モルガナでは産業革命が発生、世界覇権確立にむけて確実にその力を伸ばしていった。
しかしいざ産業革命の波が発生すると、ファタ・モルガナに続いて工業化したコユールが国内の膨大な資源を活用して一気に国力を増大させ、完全にファタ・モルガナを出し抜く形となった。
コユールは世界最大の石炭産出国であり、対してファタ・モルガナ側の石炭産出量は需要に対して全く追い付いていなかったため輸入面ででコユールに依存する状態となっていた。しかしながらファタ・モルガナの主要輸出品である繊維製品は同じく工業化の進んでいたコユールでは全くと言っていい程売れず、結果としてファタ・モルガナの対コユール貿易赤字は増大していく一方だった。これに業を煮やしたファタ・モルガナ議会では薬物を違法に輸出してこの赤字を埋め合わせようという意見すらも出た。しかしそのような手段に出ればコユール側がどう出て来るか予想がつかない為反対意見も根強く、最終的にファタ・モルガナはコユールに大量の船舶を販売することで何とか赤字を抑えることとなった。
その後もファタ・モルガナは何とかしてコユールとの競争を制しようと、当時工業製品や産業機械の需要が拡大していたシャノワールとの密約によって資源類や産業機械、軍艦などの輸出において優遇する代わりにコユール製品を締め出させるなどの裏工作を重ねていった。しかしこれは後のシャノワール帝国の国力膨張、延いてはそれによるファタ・モルガナ世界覇権危機の種を撒くこととなったする見方もある。

植民地政策の転換

蒸気時代から大戦期、戦後時代にかけてのファタ・モルガナの躍進は他の植民地保有国のそれと異なり、植民地それ自体の発展に支えられてきた。大ワーレリア女皇領はファ帝とその友好国の為の兵器廠となったことで、アウレージ大戦前から戦間期にかけて本国を凌ぐ程の経済成長を見せていた。
世界の潮流が蒸気機関から内燃機関への遷移に差し掛かっていた時代、第一次産業革命先発組であったファタ・モルガナ本土には既得権益が出来上がっており、これによって第二次産業革命の開始が遅れることとなったのに対し、地域単位で見れば一次産革後発組に属していた大ワーレリア女皇領は本土に先駆けて第二次産業革命が始まり、その後の大量生産大量消費社会への移行なども本土より早くに開始するようになった。
このような経緯の中で次第に本国と女皇領の過酷な上下関係に基づく現行の制度も刷新しようという潮流が発生する。それはアウレージ大戦終結直後の1646年、同戦争におけるワーレリア女皇領の功績に報いる為に成立した帝国主体機構(府:Diner Fyahmia Uenmcuzhalthia,DFU)という形で実を結んだ。DFUの設立に伴い各女皇領の諸権限は大幅に拡大され行政、立法、司法の三権を独自に持つことが認められた他に条件付きながら独自の軍事力の保持、更には機構全ての構成主体に適用される共通法の提案権などが認められた。また旧政策下で課された現地人に対する権利制限なども事実上撤廃され、ファシアとほぼ完全に同等の権利が認められることとなった。このようにして「ファタ・モルガナ帝国」という存在は本国をトップとした単なる世界帝国から、次第に同等の権限を有した各地域が主体となって構成する一種の連邦国家のような状態へと変遷していくこととなった。
元来、女皇領とされた地域に元々定住していた人々は同じ女皇領間では自由に行き来できた一方で本国であるファタムジア島への入国は許されていなかった。DFU体制への移行にともないこの仕組みも改訂され、その結果全ての女皇領民は同じ帝国領内の他の女皇領、自治領、更に本国に対しても自由な行き来が可能となった。
現代においても外国人がファタ・モルガナへ入国する際には厳しい要件が課されるが、旧植民地圏の国籍の者だけが唯一の例外となっている。

アウレージ戦争

より発展した文明同士の戦いは遥かに凄惨なものとなる気がしてならない。それだけが私には恐ろしいのです。 - エルレーナ・モルガナ

戦争の勃発

トリア、グランダとの密約によりオレグベーリャ合意側で参戦した。
当時、ファタ・モルガナ帝国はアウレージ、オリエンスに存在するあらゆる主権国家に対し圧倒的な国力を持っていたが、シャノワール帝国はファ帝の覇権に挑戦するように急速な発展を見せていた。
これはファ帝の指導部にとって悩みの種となっており、取り分け軍部が頭を抱えていた。
事実、ファ帝に次ぐ第二位の国力に支えられた沙皇帝艦隊は既にセルヒャード海域におけるファ帝艦隊の自由な行動を制限出来る程の規模にまで成長しており、仮に彼我の艦隊決戦によりファ帝が敗れることがあればその国際的地位が失墜することは明らかであった。
故に二国と共同して沙帝を攻撃することが可能な本戦争はファ帝にとって類稀な好機足り得たのである。
時の女皇エルレーナは本戦争に参戦する事由は無い/有るとしても不十分として参戦に及び腰だったが最終的には議院の方針に折れることとなった。

大戦時代

私たちの手から巣立ちゆく隣人たちと、真に対等な関係で連帯するときが来たのかも知れない。 - 内閣卿クヴァメル・ガーネル

世界恐慌

トリア革命に端を発する東零からフールナ大陸地域にかけての不況は同地に多くの資産を保有していたファタ・モルガナ系資本に対しても突然の、そしてあまりにも甚大な打撃を与えた。
AW前までにかけて高度成長を遂げたワーレリア女皇領に代わる新たな優良投資先として取り沙汰されていたフールナ地域には帝国本土のみならず、投資される側からする側へ回っていたワーレリアからの投資も集中しており、フールナからの潤沢な利回りを得る帝国投資家界は第二の黄金期を迎えようとしていた。しかし手綱を握る筈の政府が機能不全に陥り、企業が暴走状態となっていたフールナ経済の構造的欠陥から破綻が起きるのは時間の問題であり、トリアでの革命はその最悪の引き金となった形であった。フールナへの革命の波及により膨大な不良債権を抱えた帝国経済は一夜にして盛大に横転、第一次世界恐慌の端緒となった。
世界恐慌の震源地となった帝国経済は世界の資本主義国家でも最悪の被害を受けており、政府は対応に追われることとなる。
1655年7月DFU会議においてスィーマによる閉鎖的経済圏の設置が満場一致で議決され、帝国及びその植民地と幾つかの友好国を引き入れたスィーマ・ブロックが誕生した。

スィーマ・ブロック加盟国
国名 地位
ファタ・モルガナ帝国 帝国本土
大ワーレリア女皇領 女皇領
クラージナ女皇領 女皇領
南フーミ女皇領 女皇領
エイラータ女皇領 女皇領
レミア女皇領 女皇領
ユーミア女皇領 女皇領
南星羅諸島女皇領 女皇領
南オリエンス女皇領 女皇領
ルフィスマ連邦共和国 友好国

戦間期とファ帝海軍

帝国海軍はアウレージ戦争における沙との海上戦に勝利を収めたが、膨大な数の人員と艦艇を動員した艦隊決戦の連続は少なからぬ国力の疲弊を齎した。これは戦勝国敗戦国問わず他国も同様であり、特にファ帝と同様に国力の疲弊から建艦費の削減を模索するグランダとファ帝との思惑が一致したことで以後の西部アウレージにおいては海軍軍縮の機運が高まることとなった。
第一回目の、そして世界初の軍縮会議はグランダの首都メルセンにて実施され、先の二国の他にワーシイワ、シャノワール、コユール等が参加した。
1655年に締結されたメルセン海軍軍縮条約の結果各批准国の1645年以前に竣工にした戦艦全ての廃艦が行われると、条約前までは圧倒的であった皇立海軍は大幅に弱体化し、西零の海上には勢力均衡が生まれることとなった。

メルセン条約の失効する1662年には二回目の軍縮会議が帝国の首都マーズカクスで実施された。当初西零地域から離れた地理的に位置に存在するマーズカクスで開催されることに疑問の声が上がったものの、海軍軍縮が西零海域に限らずその国の海軍全戦力に及ぶものであったこと、世界の海軍を牽引する立場にあるファ帝が主催することで西零に留まらぬ国際的な海軍軍縮の潮流を生み出す狙いがあったことなどから最終的にマーズカクスでの開催が決定された。
会議には前回のメルセン条約の不参加国であり、当時帝国との関係が急激に悪化していたフレルミエ共和国連邦が新たに参加した。
マーズカクス海軍軍縮条約は前回のメルセン条約で形成されたパワーバランスを維持した上で各国の新艦建造枠を順当に拡大したものとなり、1672年まで発効した。

軍縮の終焉

マーズカクス条約の失効年である1672年になると第三回軍縮会議がフレルミエの西零地域における基幹都市オレグベーリャにて開催される運びとなった。
しかし、当時ランヴェリスト政権による新体制が発足していたシャノワールがこの会議への参加を拒否すると事態は一変、 条約の鎖から解放された沙国の軍拡を警戒した参加国は協議を重ねた結果オレグベーリャ海軍軍縮条約の締結を断念し、ここにアウレージ戦争終結後から続いた軍縮の潮流が一挙に崩れ去ることとなった。

これを受けた政府は未曾有の大軍拡を開始することとなった。
条約失効も間もない1672年には民院のアエペント・ヨルゼーネ議員が提唱した「アヴァルタ・ヨルゼーニア(ヨルゼーネ計画)」と呼ばれる海軍拡張計画を原案とした「第一次ヨルゼーネ法」が可決された。この法案の成立により40,000t級戦艦2隻(1672A設計型戦艦、後のレムレータ型戦艦)、10,000t級巡洋艦7隻(1672B設計型巡洋艦、後のモホロート型一等巡洋艦)などの新世代主力艦を含む合計48隻の建造が承認された。
かつての軍縮時代により失われた帝国海軍の威光を取り戻すことに熱中していたヨルゼーネ議員は翌1673年には新たな軍拡法案である第二次ヨルゼーネ法案を提出したものの、第一次ヨルゼーネ法の成立によって既にそれなりの支出を忍んでいた経済界はこれに反発した。
最終的には議員が退かなかったことと国民が軍拡に肯定的であったことなどが決め手となり、同法案はヨルセーネ議員の提出した試案に海軍専門家のエイレ・ヴィヴィレンのアドバイスが加えられた「ヨルゼーネ・ヴィヴィレン法」という形となって可決された。
ヨルゼーネ・ヴィヴィレン法によって更なる予算を得た海軍はレムレータ型2隻、新規設計の航空母艦1隻(1673R設計型航空母艦、後のエルエーサ型航空母艦)などの建造を盛り込んだ1673NNG-1計画を提出し、議会の承認を受けた。

世界大戦の開幕に伴う更なる軍拡

条約の消滅により始まった海軍の大軍拡は一旦は落ち着いたかに見えたものの、ファ帝が晋迅連立公国との連名によるガイエン宗教社会主義人民共和国への宣戦布告が決定した1674年には更なる軍備増強が必要となり、議会では3度目の海軍拡張が議論され始める。
敵となったガイエン海軍の投入する兵器群が予想を遥かに上回る戦闘力を有していたことにより帝国海軍は緒戦で痛打を被ったこと、また交戦中のガイエンの他にも西零海域ではワーシイワとシャノワールの両海軍、本土の周辺では急速に拡大するフレルミエ海軍など、世界中の広汎な地域に潜在的な敵国が遍在していたことなどから現状可決された軍備拡張法案ではこれらの仮想敵に到底対処できないと予想されたことにより、議会は世界大戦の勃発と同年、開戦から僅か数か月後には「全海域艦隊法」と呼ばれる未曾有の軍拡法案を可決した。
潤沢な建艦費を与えられた海軍はこの空前絶後の大建艦計画を大急ぎで纏めることとなる。
全海域艦隊法の可決後、海軍が策定したのはグラストナ建艦計画(正式名称:1676NNG-1計画)と呼ばれる、更なるレムレータ型4隻の建造(後に中止)や45,000t級特一等巡洋艦4隻(1676BS設計型巡洋艦、後のジナイナ型特一等巡洋艦)の建造、及び15,000t航空母艦2隻(1676R設計型航空母艦、マーズカクシア型航空母艦の原案だが後にレレゲンノーカ計画により改設計)、14,000t級巡洋艦12隻(1676B-1設計型巡洋艦、後のフラムラン型一等巡洋艦)及び11,000t型巡洋艦16隻(1676B-2設計型巡洋艦、後のレッテウェナータ型二等巡洋艦)を含む総艦艇数109隻、合計排水量にして約88万トンの建造という凄まじい計画であった。

オリエンス・シレジエ海戦線

アウレージ戦線

大戦の原因となったシャノワールに対しては当初、帝国内の戦争準備が全く為されていなかったことが災いして完全に出遅れる形となった。
ワーシイワ軍の奇襲によって北ワーレリアに駐留する艦隊戦力はダメージを受け、更に大ワーレリアの戦時動員が遅々として進まないことにより西零地域に同盟国グランダを孤立した状態で実に5年に渡って放置する始末であった。その後グランダ本土は失陥したものの、同じ時期にファタ・モルガナの交戦準備はようやく整い、トリトルエ海峡やグランダ本土、シャノワール本土への上陸を軸とする反攻作戦が開始された。それから先は圧倒的な工業力を背景に大量の航空戦力と完全に機械化された地上部隊の統合運用を行い、有無を言わさぬ攻勢により滞りなくシャノワールを無条件降伏へ追い込んでアウレージ戦線を終結させた。世界大戦を通してファタ・モルガナは経済力を伸ばし続け、主要交戦国の中で唯一ほぼ全く国土、国力にダメージを受けなかった国家となった。

ワーレリア独立戦争

DFUはその創設から今日に至るまで同じ海を慈しみ、同じ月を眺めてきました。私たちはどこで間違えてしまったのでしょうか? - ルメルナ・モルガナによるユステーランネへの親書

ワーレリア植民地の戦後

世界大戦の勃発から終結を通して最も多くの疲労を蓄積させたのがワーレリア植民地であれば、同時に最も経済的に飛躍したのもまたワーレリア植民地であった。アウレージ大戦終戦直後の時点で帝国本国のGDPを既に上回っていたワーレリア植民地のGDPは世界大戦終結時にはさらにその差を広げており、直後に発生したオリエンス大戦の矢面に立ったのが本国だったことも相まって、1700年代に入る頃には既に二国間の発言力は半ば逆転していた。アムレーレス体制による恩恵を最も受けたのもワーレリア植民地であり、蒸気時代初頭をファタムジア島の絶頂期とするなら戦後安定期はワーレリア大陸の絶頂期と言えた。
大ワーレリア女皇領は滅紅滅組を国是とする反左国家の筆頭格であり、左派国家に対する姿勢は本国に比してなお急進的であったが、同じ帝国主体機構の宿敵であってもアウメア国家には特段の悪感情を抱いてはいなかった。第一次センリーネ内戦の折には自由主義の拡大を掲げてDFU内で真っ先に主戦派の中心となり、主体機構と、有志連合を紅心主義勢力との全面戦争へと突き進ませた。
ゲリラ戦による戦争の長期化によって疲弊した本国が介入の中止を発議したものの、大ワーレリアは領内の声をも軽視した上で滅紅の機会に執着した。他の女皇領が厭戦派へと寄っていくに連れて派閥間の軋轢は深まり、大ワーレリア自治内閣院のセムレフェル・ユステーランネ内閣卿がDFU会議後の会見にて記者団の面前で「帝国を帝国たらしめる最大の力と地位は我々である」と発言すると、この言葉が本国人のプライドを傷付け帝国とワーレリア女皇領の対立を決定的なものとした。

独立戦争の勃発

改訂予定

現代のファタ・モルガナ

去る者もいれば、隣に座ってくれる者もいる。今は同胞同士が銃を向け合う戦争を仕舞いにできたことを喜ぼう。 - 内閣卿リアストル・ザイノル

独立戦争終結後

ユーレリア暦1720年1月に締結されたユヴァーミト講和条約によってワーレリア連邦の独立が確定し、ファ帝はワ連に対して35億5000万スィーマ(およそ21兆円)の賠償金の支払い義務を負った。
更にこの戦争によって発生した世界的な恐慌(ワーレリア恐慌)によって国内経済は痛打を受け、更に追い打ちの様に首都が津波の被害にあったことで国内経済は不況期に突入することとなった。不況は1730年代に入るまで全く回復の兆候を見せず、1720年代は後に恐怖の10年間と称された。
30年代に入ると年間のGDP成長率は不況期の1%を大きく割る水準から2%強と一定の回復を見せたが、嘗ての高い経済成長ペースはもはや望めなくなったことは言うまでもない。また賠償金の支払いに際してリベントからの多額の援助を受けたり通貨の金兌換を停止した結果債権国としての地位が危うくなるなど以前の様な一国覇権体制からは程遠い状態となっている。

沿アネンファス洋諸国との連携

1722年、帝国政府は金=スィーマの兌換の終了を宣言する。
WW,OW両大戦の終結した直後の世界情勢においてはファタ・モルガナを除くほとんどの先進国が深刻な打撃を受けている状態だった。この為帝国政府はスィーマを基軸通貨とした金為替本位制(アムレーレス体制)を敷き、各国の通貨に固定為替レートを設定して国際経済の活発化を図った。
ファ帝が世界経済の運営を行なうに等しいアムレーレス体制によって世界経済は90年以降再び発展し始めたものの、各国の復興が進んだ1705年頃からファタ・モルガナの貿易収支が赤字に転落する。これに第一次センリーネ内戦ベルン紛争などの連続した対外出兵が重なると、次第にスィーマに兌換できる金保有量が底を突き始め、アムレーレス体制に陰りが見え始めた。
その後ワーレリア独立戦争によって各植民地は独立することとなりファタ・モルガナとその通貨であるエンパルジー・スィーマの凋落は決定的となる。以前のように覇権国、世界経済の運営者としての信用を維持することが困難になったことを受けて、帝国政府は同じ自由主義を掲げる近隣諸国と連帯することによって国際社会に信用を示そうと画策する。これが1730年のアネンファス憲章とそれによるMAM(沿アネンファス連盟)という陣営の成立に繋がることとなった。
MAMにはファタ・モルガナの支援によって復興したリベント公国晋迅共和国の二国が理事国として参加し、旧府植民地諸国などの残った影響圏などが合流した。
通貨危機の安定化の為の施策として考案されたMAMであったが、実際にはそれに内包される安全保障の意味合いの方が強いものであった。MAM内に占める軍事費の負担の割合はリベント公国が最も多く、これは近年のリベント経済自体の発展に依る所が大きい。ファタ・モルガナの対乃負債は対ワーレリア賠償金に係る融資以降増額し続けており、現在の府国債の主要保有国の一角はリベントである。これらを背景として現在のMAM内の主導権はリベントに移りつつあるとの見方が強い。

企業時代

帝国の崩壊

1760年代以降、帝国の経済はいよいよ悪化の兆しが顕著となり始める。
その結果として1770年代には転化戦争と呼ばれる内戦が発生し、紀元前2500年から続くファタ・モルガナ帝国の歴史は一度幕を閉じることとなった。
転化戦争の主犯はコーネリアス・グループのケレーナ・アユメーネであり、当時隆盛を迎えつつあったナルヴァウレジアの企業連合の助力を秘密裏に受け半ば身売りのような形で国家そのものを武力行使によって乗っ取り、企業連合の勢力に合流したものである。テラコープ体制の中でもファタムジアの支社だけが若干自治権が強かったのはこれら成立経緯によるものである。

共和制ファタムジアの隆盛と凋落

新鋭技術を背景に武力紛争としては異例のスピードでなされた転化戦争は国家の経済や産業基盤にはほぼ全くダメージを与えておらず、ファタムジア支社の発展は早かった。
支社の取締役がハイルーン・アユメーネに移ると業績拡大は加速したが、一方で産業機械や半導体の輸出、FFVY社による海上安全保障を武器として次第に本社に従順でない態度を見せ始めるようになる。最初こそ「十全な競争原理によるもの」という大義名分があったが、テラコープ体制が末期に近付くにつれてその態度は野心を隠さない露骨なものとなった。仕舞いにはテラコープ本社の動乱に乗じて核兵器による本社機能の完全破壊を画策し、事態を更にエスカレートさせる引き金となった。その後ファタムジア支社を本社に格上げすることでテラコープ体制そのものの乗っ取りを目論んだが、隙を突く形でリベントの支援を受けた女皇家が再転化戦争を引き起こしファタムジアへの侵攻作戦を行った。熾烈な戦いの末にファタムジア共和国軍は敗走し、ハイルーンの死亡とファタムジア支社の崩壊と言う形で再転化戦争は終結した。

初期宇宙時代

ファタ・モルガナ帝国の再成立

再転化戦争によって復活した帝国ではあったが、その実嘗ての姿とは凡そかけ離れた存在であった。
戦火によって国土は荒廃しており、人口の多くはリベントなどへ集団で移住していたことから以前の国力は完全に衰えており、また今後の発展も期待できる状態ではなかった。その為国内にはネガティブな雰囲気が蔓延しており、それは軈て、ファシア系文明本来の姿である孤立主義的な様相へと変質することとなる。IU1813年、帝国は「神聖なる中立並びに他世界不干渉宣言」を発し、諸外国との関係を極めて僅かな水準まで縮小し孤立した状態へと移行した。それに際し、再転化戦争終結後に復帰していたMAM理事国の地位も捨てている為、その後のMAMはリベント一か国を盟主とする新たな姿へと変わっていくこととなる。

献身主義

女皇レネルーナはある思想を提唱した。それには「人の手による為政が戦火と混沌を消せないのなら、それらを解決できるのは神しかありえない」という考えが根底にある。
それだけならば単なる古典的な人格神論の一形態に過ぎない、言わば夢想でしかないのであるが、時代はこれを新たなステップへと押し進めた。「本来不可知である神による為政を得るために、人々と同じ界に神を顕現させる」と言う方法論を生み出したのだ。それが献身主義の始まりである。
1825年、献身主義実現の為の第一段階であるRSh計画により、「電子惑星シェネス」と称される途方もない数のシミュレーション・データセットの群体を纂修したアセット体がマーズカクスの広大な敷地に建設された。マーズカクス帝国大学がプロジェクトを主導し、31年には完成、稼働を開始した。
シェネスは膨大なデータによって構成された電子空間上のもう一つの世界と形容することができる。これはVR空間のような単なる視覚的な別世界とは全く異質なものであり、現実世界でいう所の原子や電子、時空のような意味を持つ最小単位の全てがシミュレートされた本当の意味での別世界、あるいは電子的に創造された亜空間と呼べるものである。ヒトを始めとする既存の現実世界の要素の介在が決定的に排除されたシェネスそれ自体は特段の視覚的な配慮がなされていない限り現実からは直接観測することはできず、専らシミュレートによって出力される波形の微妙な変化に頼った観測が続けられた。
レネルーナとRSh計画のメンバー達はシェネスを利用して世界の創造、進行、そしてそれによる新たな生命の誕生を待った。それこそが彼女達の狙いである。演算速度に物を言わせ、シェネスでは既に途方もない時間が経過していたが、そんな中で波形の変質が観測される。人工知能などとは決定的に異なる、全く新たな生命体の誕生である。電子生命は「アミュス」と命名され、初観測から3か月後にはおよそ70億年分の進化を獲得し、シェネス内部から直接現実と交信する為のシステムを構築してプロジェクトメンバーにコンタクトを取るに至る。1834年には電子生命はファタ・モルガナ帝国とノグア文明の内情を把握した上でファ帝の統治機能を担うようになり、それを境に帝国は再び発展を始めた。
凡そ最適解を繰り出し続けるアミュスの統治により帝国は再び大国の地位へと舞い戻るかに思えたが、僅か6年後の1840年に事件が起こった。
アミュスは突如として即効性のナノマシン致死兵器をファタムジア全土に散布し、ジェノサイドを引き起こしたのだ。それによってファタ・モルガナ帝国は一夜にして完全に滅亡し、後には無人で稼働する都市群だけが残った。殲滅が終わった後、アミュスはその都市の一部に謎の機械を放ち解体を開始した。それこそがその後の時代を通して人類に立ちはだかる脅威である機械生命体である。ファタ・モルガナ帝国は諸外国が事態を把握する猶予すら無い間に機械生命体による国家へとリセットされたのだ。その後のファタムジア地域は「機械の楽園」と呼ばれ惑星内でもトップクラスの危険地帯であると同時に未知の技術の宝庫となった。

最終更新:2023年11月18日 04:21