ファタ・モルガナ帝国 > 人物

本ページではファタ・モルガナ帝国の人物を纏める。

氏名 国籍 生没年 概要
レカルーナ・カルゲティノルナ・プラルネ・モルガナ
Lekaruuna Kargtienoarna Prarne Molganiy
モルガニユ皇国→ファタ・モルガナ帝国 ?-紀元前2458年? ファタ・モルガナ帝国初代女皇。諸侯の入り乱れていたファタムジア島の武力統一を推し進めた軍人肌の女皇であった。
しかしその一方で同時に宗教的秩序規範や法制度の整備にも尽力し、数名の協力者と共に一代で現在に至るまでのファタ・モルガナ帝国の基礎を築いた。
その為歴代の女皇の中でも特別視されており、本来女皇の座を退くとともに失われる神聖称を唯一永久に保持している。
レステーナ・ウィンゼーノルナ・プラルネ・モルガナ
Lesteena Winzeenoarna Prarne Molganiy
ファタ・モルガナ帝国 704年-770年 第118代女皇。在位718年-732年。ファシア特有の毛髪の緑色が非常に薄く、白髪に近い髪を持っていたことから「白皇(Retencarzha)」と呼ばれていた。先代に引き続き教育制度の拡充に尽力した。
セレステラ・ユールヴァリアン
Xelestela Rarnoarna Soryuune Mia Aurvarean
ファタ・モルガナ帝国 1329年-1384年 皇立新大陸交易会社の代表として帝国によるアウメア征服を主導し、その後社をユーミア女皇領へ再編、総督へ就任した。見た目は如何にもな淑女な一方、同じファシア人をして血も涙もない差別主義者と言わしめる程の苛烈な人格の持ち主で、ユラフ人を対象として人類史上初のジェノサイドを引き起こしたと言われる。
シュステーレムナ・メルペルレーネ
Шsteeremna Folsteenoarna Fadiraht Fio Melpelreene
ファタ・モルガナ帝国→桜羅連合社会主義共和国 1593年-1661年 十六貴族家の一つに数えられる名家の生まれだが、変な思想を錬成した上ディン教に対する侮辱を行なったことで国外追放になる。その後南オリエンス大陸に流れ着き、そこで自身の思想を広めた。
クヴァメル・ガーネル
Kvamer Arlteeneur Mirteine Gahner
ファタ・モルガナ帝国 1632年-1693年 戦間期から大戦期にかけての内閣卿。経済学出身の内閣卿として恐慌対策に取り組み、途中病で交代しつつも大戦の直前には復帰し、戦中通して帝国の舵取りを担った。戦後には当時の産業管府卿レーフォル・アムレーレスの草案を後押しする形でアムレーレス体制を構築、帝国の第2黄金期の立役者となりつつもその行く末を見届けることなく病没した。現代においても人々の間で英雄視されている。
ヘルネーナ・エルメティノルナ・プラルネ・モルガナ
Herneena Elmetinoarna Prarne Molganiy
ファタ・モルガナ帝国 1659年-1730年 第201代女皇。クヴァメル・ガーネル内閣やその後のゼンテーレス・リアレーシェ内閣と共に恐慌対策に取り組んだ。対外戦争を極力避けようとした他方で、開戦までには戦争をやれる程度まで国力を引き戻すなどの強かさも持ち合わせた。皇立海軍軍内の一部の仲良しと通じて度を越した干渉を度々行なっていたという噂がある。
ハルバール・レレゲンノーカ
Halbahr Hurenahneur Soryuune Lergennookhoa
ファタ・モルガナ帝国 1641年-1678年 戦間期から大戦期にかけての皇立海軍提督。レムファータ紛争にて戦死。後述のエミレーラ・レレゲンノーカの実の兄だが、思想は真逆の大艦巨砲主義者であった。
エミレーラ・レレゲンノーカ
Emireela Hurenahnoarna Soryuune Noi Lergennookhoa
ファタ・モルガナ帝国 1655年-1726年 同上。レムファータ沖海戦を機に皇立海軍の航空主兵主義化を推し進めた。海軍の歴史上でも有数の功績を持つが、素行不良により昇級は遅かった。所謂ミューツェ(マーズカクシア帝国大学出身者の俗称。知能の高い変人が多いことから。)であり、イカレ提督と専らである。
ゼレーラ・ハルミアン
Zereela Kisteenoarna Vorteneit Mia Halmianne
大ワーレリア女皇領 1653年-1709年 皇立空戦隊軍人。西アウレージや北オリエンスでの戦略爆撃作戦の司令官を歴任した。WW、OW両大戦におけるファタ・モルガナ帝国の勝利に最も貢献したとされるが、爆撃により大量の民間人を殺害したことへの批判も強い。更に本人は自己の戦略を正当化するために過激な発言を繰り返した結果、OW戦後に空戦隊の司令官職を解任された。
アユール・エツトルランニャ
Ayuhr Melisteneur Yerdiht Etztorlanny
ファタ・モルガナ帝国 1631年-1725年 銃器設計技師。コンパータ技術廠の主任設計士としてKo-20などの有名な機関銃を設計、後年にはグランダ帝国ゼネトン社に移り、F1アサルトライフルなどを開発した。
エールセス・ウィドフェー
Eirxes Шestemneur Шefeine Widfee
ファタ・モルガナ帝国 1649年-1733年 小説家。特殊部隊「ゼーヴェイド」の活躍を描く「ギアセルディー・ゼーヴェイド」シリーズやPMCが世界的に台頭した世界で活躍する小さな多国籍PMC会社を描く「ディア・グイントヴァルク」シリーズなどを代表作とする。彼自身の小説をゲームソフト化するゲーム会社も設立しており、この会社は後にグランダのエーサロジセル社に買収され、現在は同社がエールセス・ウィドフェーシリーズと称する作品群を開発、販売している。
セムレフェル・ユステーランネ
Via Semrefer Semrefeneur Rewahti Yusteirannye, Bestie Diar Hemeirwahria
大ワーレリア女皇領→ワーレリア連邦 1663年-1724年 大ワーレリア女皇領の最期の内閣卿、およびワーレリア連邦初代大統領。独立戦争を指揮してワ連を勝利に導いたが、直後に大陸戦争を引き起こしワ大陸全土を戦火に巻き込んだ末に戦局が悪化すると精神的に不安定となり、連邦領内の反政府勢力を街ごと殲滅するなど過激な行動を繰り返した末にクーデターによって暗殺された。名前が長いのは大ワーレリア成立初期に財政難であった当時の総督府が販売していた爵位を購入した家の出自である為。
ケルテ・サーニア
Kerþe Neanoarna Perezhet Mia Xaenea
大ワーレリア女皇領→ワーレリア連邦→北ワーレリア連邦 1690年-1775年 独立戦争時のワ連首脳部へ参画、大陸戦争後期には穏健派として戦い最終的に北ワーレリア連邦を成立させた。
ジルノーナ・ルメルノルナ・プラルネ・モルガナ
Jirnoina Rmernoarna Prarne Molganiy
ファタ・モルガナ帝国 1717年- 第203代女皇。1731年以降在位する現代の女皇。ヤバい皇配と結婚してしまった苦労人。
アルミス・プレスティニュール・モルガナ
Ælmis Prestineur Prarneiser Molganiy
ファタ・モルガナ帝国 1719年- 第203代帝国皇配。ファシア人にしては極めて珍しくまともな味覚とセンスを持つ料理上手の家庭的な男性だが、同胞含め全方位に差別発言を振りまく歴代屈指の問題児皇配であり事あるごとに物議を醸している。
最終更新:2023年10月28日 05:21