地理・国体
帝国はサンテネリの東隣に位置する巨大な勢力圏である(詳細は地図参照)。モデルは神聖ローマ帝国(9)
正式名称は「正教の威光のもと諸王を束ねる権威を与えられた人界の君主が領する地」である。通称は単に「帝国」と呼ばれる(8)。
首都はヴェノンであり、大陸東部を流れるドンヌ川沿いにある(27)。ヴェノンの中核施設はオルブル大宮殿で、エストビルグ王宮や帝国宮などが含まれる(74)。
正式名称は「正教の威光のもと諸王を束ねる権威を与えられた人界の君主が領する地」である。通称は単に「帝国」と呼ばれる(8)。
首都はヴェノンであり、大陸東部を流れるドンヌ川沿いにある(27)。ヴェノンの中核施設はオルブル大宮殿で、エストビルグ王宮や帝国宮などが含まれる(74)。
国体は、名目上、巨大な諸侯たちが王号を名乗る緩やかな連合体であり、皇帝は選挙によって選ばれることになっている。しかし、実態としては帝位はエストビルグ家の世襲が続いており、エストビルグ家は皇帝であると同時にエストビルグ王国の王位を兼ねている(8)。帝国内の政治構造は複雑であり、王号を持つ大諸侯が選挙権を持ち、中小諸侯が行政権(運営権)を担うという合議制が機能している。行政の実務はペテル・ヴォー・ワイゼンベル公のような大管長(宰相)を中心とした中小諸侯が担う(74)。
エストビルグ王国単体でもサンテネリの約半分ほどの規模を持つ大国だが、他の帝国構成王国は比較的小さい(8)。
歴史
帝国の主要地域であったエストビルグ公国は中期後半に帝位を占めるようになり、14期にはオテル1世が皇帝に選出され、エストビルグ朝帝国が確立した。この王朝は250年以上にわたり中央大陸の中心地として繁栄を続けている(74)。
サンテネリを始めとした諸外国との関係
帝国(エストビルグ王国)はサンテネリ王国にとって古くからの敵国である(13)。両国は国王が交代する際などに互いに干渉し合い、特にサンテネリは帝国内の小王国(シュトゥビルグ王国など)の王位継承に介入することで勢力圏の拡大を図ってきた。これにより、エストビルグは軍事介入を余儀なくされてきた(8)。
1715年、サンテネリ国王グロワス13世とゲルギュ5世皇帝(エストビルグ国王)の長女アナリース・ヴォー・エストビルグ皇女(後の正妃アナリゼ)の婚姻が成立し、史上初の全面的な和約が締結された(13)。これは、当時勢力を拡大していたプロザン王国のフライシュ3世に対抗するための戦略的同盟であった(29)。
この同盟締結により、グロワス13世はゲルギュ5世の義理の息子という立場となった。しかし、グロワス13世の戦争指導に対する不信感から、大使バダン宮中伯はサンテネリの国内情勢を利用して、プロザンへの派兵を迫る外交工作を仕掛けた。
帝国の外交官たちは、サンテネリの政治構造に強く関心を寄せ、王の動きを常に監視していた。バダン宮中伯は、若く経験不足に見えるグロワス13世を「遊びを楽しまれている」臆病者と評し、容易にプロザンとの戦争に引きずり込めると判断した(28)。
和約はサンテネリ、エストビルグ、プロザンの三国同盟へと発展するが、プロザンは後に離脱し、二重戦争(1728年〜)で敵対することになる(83)。この戦争の終結後、サンテネリ王女マルグリテがフライシュ王太子(後のプロザン王フライシュ4世)の正妃として輿入れし、再び両国間の結びつきが強化された(107)。
サンテネリの大改革による王族の亡命
1742年の大改革の勃発により、サンテネリ国王グロワス14世(当時24歳)と王母アナリゼはエストビルグ王国へ亡命した(108)。
帝国ではグロワス14世はサンテネリ国王として遇され、王位を保持した。しかし、グロワス14世は、自身の名が祖国に対する侵略の旗頭になることを許容できず、ゲルギュ5世皇帝が要望した「王位復帰宣言」への署名を拒否した(108)。
グロワス14世はエストビルグ王国での「居候」生活を拒否し、1745年に狩りを口実に遠出したまま帰らず、側仕え数人のみ連れて連邦共和国公使の庇護のもと新大陸へ渡った(108)。
この逃避行の末に「流浪王」という英雄的な人物像として描かれることとなった。
グロワス14世が新大陸の連邦共和国の初代国王に即位した後、1747年にアングラン軍との戦闘で戦死すると、サンテネリ共和国のジュール・レスパンは、この出来事を「不幸な行き違いの末に祖国を後にして、遠く新大陸でその生を終えられた市民グロワス・ルロワ氏に哀悼の意を捧げたい。そして、かの市民を温かく迎え入れてくれた連邦共和国は偉大な”国家”であると、我が国はこの議場において確認したい」と表現し、連邦王国を連邦共和国として国家承認するに至った(109)。
一方で、帝国側の同盟国であったプロザン(フライシュ4世)は、グロワス14世が敵国アングラン兵によって殺害されたことを知ると、妻マルグリテ(グロワス14世の異母妹)の強い意向を受け、アングランとの同盟を非難し、サンテネリ共和国との講和に傾いた(109)。
帝国ではグロワス14世はサンテネリ国王として遇され、王位を保持した。しかし、グロワス14世は、自身の名が祖国に対する侵略の旗頭になることを許容できず、ゲルギュ5世皇帝が要望した「王位復帰宣言」への署名を拒否した(108)。
グロワス14世はエストビルグ王国での「居候」生活を拒否し、1745年に狩りを口実に遠出したまま帰らず、側仕え数人のみ連れて連邦共和国公使の庇護のもと新大陸へ渡った(108)。
この逃避行の末に「流浪王」という英雄的な人物像として描かれることとなった。
グロワス14世が新大陸の連邦共和国の初代国王に即位した後、1747年にアングラン軍との戦闘で戦死すると、サンテネリ共和国のジュール・レスパンは、この出来事を「不幸な行き違いの末に祖国を後にして、遠く新大陸でその生を終えられた市民グロワス・ルロワ氏に哀悼の意を捧げたい。そして、かの市民を温かく迎え入れてくれた連邦共和国は偉大な”国家”であると、我が国はこの議場において確認したい」と表現し、連邦王国を連邦共和国として国家承認するに至った(109)。
一方で、帝国側の同盟国であったプロザン(フライシュ4世)は、グロワス14世が敵国アングラン兵によって殺害されたことを知ると、妻マルグリテ(グロワス14世の異母妹)の強い意向を受け、アングランとの同盟を非難し、サンテネリ共和国との講和に傾いた(109)。