初出:84話
正式名称
グロワス・エネ・エン・ルロワ(Gloice aîné en Leroy)
ロー・グロワス・カトリージェン(*1)(Gloice XIV)
ロー・グロワス・カトリージェン(*1)(Gloice XIV)
家族構成
妻or夫(第一夫人or第一配偶者):なし (独身)
子:なし
子:なし
父方の親戚
祖父:グロワス12世
祖父:グロワス12世
母方の親戚
祖父:皇帝ゲルギュ5世
祖父:皇帝ゲルギュ5世
容姿
両親の特徴を程よく受け継いだ外見。
母からは深い栗色の髪を、父からは翠色の瞳を受け継いだ。
異母姉メアリ・アンヌと並べば頭一つ低いとは言え、年齢の割には大柄。
人並みの知性と好奇心に加え、人見知りしない明るい性格。
母からは深い栗色の髪を、父からは翠色の瞳を受け継いだ。
異母姉メアリ・アンヌと並べば頭一つ低いとは言え、年齢の割には大柄。
人並みの知性と好奇心に加え、人見知りしない明るい性格。
地位
サンテネリ王太子 → サンテネリ国王(在位 1735年〜1742年) → 連邦王国国王(在位 1745年〜1747年)
通称
「小 グロワス」、「流浪王」、「枢密院主宰者」
作中での活躍
王太子時代(〜1735年)
1718年頃に誕生。
父王グロワス13世の「王の授業」を受ける生徒の一人であり、兄ロベルや姉メアリ・アンヌとともに教育を受けた。
この世界では異端の父親の教育方針により、”歳相応の域を少しだけ超えた向こう見ずな感性”を備えている。
父王グロワス13世の「王の授業」を受ける生徒の一人であり、兄ロベルや姉メアリ・アンヌとともに教育を受けた。
この世界では異端の父親の教育方針により、”歳相応の域を少しだけ超えた向こう見ずな感性”を備えている。
サンテネリ国王時代
父グロワス13世の死(1735年)に伴い、17歳でサンテネリ国王に即位。また枢密院主催者の立場を受け継ぐ。
父グロワス13世死去の直前に首相に返り咲いたアキアヌ大公の元に3年間修業したのち親政。アキアヌ大公の引退後フロイスブル侯爵バルデルを首相に指名し、王兄ジェント大公ロベルを旗頭とするルロワ譜代首魁を閣僚に登用。
アキアヌ大公を首班とする枢密院体制下では、グロワス14世は国民会議の設立を推進し、平民階級の支持を集めようと努めた。1740年「国民の会議に関する枢密院令」を発。国民会設立を承認。
父グロワス13世死去の直前に首相に返り咲いたアキアヌ大公の元に3年間修業したのち親政。アキアヌ大公の引退後フロイスブル侯爵バルデルを首相に指名し、王兄ジェント大公ロベルを旗頭とするルロワ譜代首魁を閣僚に登用。
アキアヌ大公を首班とする枢密院体制下では、グロワス14世は国民会議の設立を推進し、平民階級の支持を集めようと努めた。1740年「国民の会議に関する枢密院令」を発。国民会設立を承認。
流浪と死
1742年、記録的な大雨とそれに続く暴動(大改革)が発生し、首都シュトロワが混乱に陥ると、母方の実家のある帝国へ脱出。
一時エストビルグに滞在するも「王位復帰宣言」に反発、連邦共和国公使の助けを得て新大陸へ出奔。彼は植民地人を「同胞」と呼び、自ら「王冠を被ろう!…同じ市民として!」と演説し、連邦共和国(後の超大国)の指導者たちから絶大な信頼を得た。彼は1745年に連邦王国の国王として即位したが、生涯「枢密院主催者」の称号のみを使用し、機能としての王、職業としての王の立場を表明。
同年8月、連邦共和国暫定首都フィーリアスに開催の連邦会議において連邦王国への変更が決議された結果、1745年9月20日グロワス1世として即位。独立戦争各地の戦場で先陣を切ったが、1747年のサラスの戦いにて敵国アングラン兵の狙撃により致命傷を負い、戦死した(27歳)。最期の言葉は「皆を割らないでくれ。——俺たちは同胞だ。王冠はなくとも」。
死の直前、彼は連邦王国の統一と和合を強く望む言葉を残し、その死は連邦王国が崩壊せず連邦共和国として存続する礎となった。
一時エストビルグに滞在するも「王位復帰宣言」に反発、連邦共和国公使の助けを得て新大陸へ出奔。彼は植民地人を「同胞」と呼び、自ら「王冠を被ろう!…同じ市民として!」と演説し、連邦共和国(後の超大国)の指導者たちから絶大な信頼を得た。彼は1745年に連邦王国の国王として即位したが、生涯「枢密院主催者」の称号のみを使用し、機能としての王、職業としての王の立場を表明。
同年8月、連邦共和国暫定首都フィーリアスに開催の連邦会議において連邦王国への変更が決議された結果、1745年9月20日グロワス1世として即位。独立戦争各地の戦場で先陣を切ったが、1747年のサラスの戦いにて敵国アングラン兵の狙撃により致命傷を負い、戦死した(27歳)。最期の言葉は「皆を割らないでくれ。——俺たちは同胞だ。王冠はなくとも」。
死の直前、彼は連邦王国の統一と和合を強く望む言葉を残し、その死は連邦王国が崩壊せず連邦共和国として存続する礎となった。
また彼の死はプロザンとの関係にも影響を与えた。プロザン王太子妃マルグリテは、兄の死に対する悲しみから、夫である摂政フライシュ王太子(後のフライシュ4世)に働きかけ、プロザン軍の撤兵とサンテネリ共和国との講和を決定させた。