サンテネリ国王(在位期間については言及なし、1712年1月18日死去)。正妃はマリエンヌ・エン・ルロワ。サンテネリ王国の威信を外交・軍事面で大きく高めた王として知られる一方、王国の財政を破綻寸前に追い込んだ責任を負う。
正式名称
グロワス12世 (Gloice XII)
家族構成
父:グロワス11世
異母兄弟姉妹: (マリエンヌ以外の側妃との間に子がいたかどうかは不明だが、マリエンヌは「数居るグロワス12世の妃達の中で子どもを産んだのは自分のみ」と認識していた。)
異母兄弟姉妹: (マリエンヌ以外の側妃との間に子がいたかどうかは不明だが、マリエンヌは「数居るグロワス12世の妃達の中で子どもを産んだのは自分のみ」と認識していた。)
容姿
地位
サンテネリ国王
作中での活躍
グロワス12世は、1692年1月7日に正妃マリエンヌとの間に男児グロワス(後のグロワス13世)をもうけた。彼は長く子に恵まれなかったため、「良質な畑を求めて」4人の側妃を娶っていた。
グロワス12世の治世は、父グロワス11世の治世と合わせ二代にわたる外征と領土拡張の時代であった。彼は幾多の戦いを躊躇うことなく行い、大陸中の争いに口を突っ込むことを厭わなかった。彼は基本的に「観念の人」であり、サンテネリ王国という大企業を動かすためには、人間を数字へと抽象化しなければならないという思考を持っていた。その抽象化の思考ゆえに、幾多の戦いを躊躇なく行えた。
しかし、彼の度重なる新大陸介入とその失敗、およびシュトゥビルグ王国への干渉を発端としたエストビルグ王国との戦争により、サンテネリ王国の財政は致命的な状況に陥った。王国の艦隊は彼の政策により使い潰され、再建の目途は全く立たない状態であった。
彼の治世末期には渇病を患い、政務から離れ、家宰(フロイスブル侯爵)が政治を差配し始めていた。
息子への教育
グロワス12世は10歳になった息子グロワス(後の13世)に対し、自ら教育を開始した。この教育は、現代の基準では虐待に当たるともいえる厳格なものであったが、当時の常識的な「男の育て方」としては至極真っ当なものであった。
彼は息子の空想的な趣味や内向的な性格を禁じ、代わりに軍学、乗馬、狩猟といった帝王学を与えた。その結果、息子グロワスは父王を慕い、父に好まれるよう過激な言動をとる青年王へと自己を構築した。
最期
1710年頃には病に伏し、家宰が政務を差配し始めた。
1712年1月16日、グロワス12世は臨終間際に錯乱状態に陥り、見舞いに来た王太子グロワスに対し、長年にわたり抱いていた疑念を吐露した。王は理性を失いながら、息子に「汝、我が子にあらず」と叫んだ。この言葉は王太子に生涯にわたる影響を与えた。
1712年1月16日、グロワス12世は臨終間際に錯乱状態に陥り、見舞いに来た王太子グロワスに対し、長年にわたり抱いていた疑念を吐露した。王は理性を失いながら、息子に「汝、我が子にあらず」と叫んだ。この言葉は王太子に生涯にわたる影響を与えた。
王太子は瀉血(当時の渇病治療法)の一部始終を目撃したが、これは王の衰弱を招いた。
グロワス12世は1712年1月18日に死去した。