『セカンドハンドの時代』(原題:Время секонд хэнд / Secondhand Time)は、ベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ)が2013年に発表した大作で、彼女のライフワーク「ユートピアの声」シリーズの最終巻にあたる。

概要
教えてくれ、ねえさん、なぜ人びとはあっという間に殺し合うことを覚えたのか? 彼らはみんな学校でハイヤームを読んでいたのに。プーシキンも読んでいたのに。
『セカンドハンドの時代 「赤い国」を生きた人々』512頁
『セカンドハンドの時代 「赤い国」を生きた人々』512頁
2015年のノーベル文学賞受賞の決め手の一つともなった作品であり、日本では2016年に岩波書店から松本妙子訳で刊行された。副題に「「赤い国」を生きた人びと」とあるように、ソ連という巨大な実験が崩壊したあと、その残響の中で生きる人々の声を集めたインタビュー集である。アレクシエーヴィチは1991年のソ連崩壊直後から20年以上にわたり、ロシアをはじめ旧ソ連各地で膨大な聞き取りを続けた。自殺した若者の家族、収容所を生き延びた老人、クレムリンの元高官、民族紛争の難民、地下鉄テロの生存者、デモで逮捕された学生など、さまざまな立場の人々が台所や街角で語る言葉を、ほとんどそのままに編み上げている。著者自身は「共犯者の覚え書き」と呼ぶ短い序文で、自分もこの歴史の参加者であり傍観者だと位置づけ、単に記録するだけでなく「すべてを正直に聞き取ろう」とした姿勢を明かしている。本書の核心は、ソ連という「赤い国」が消えたあと、人々が味わった途方もない喪失感と空虚さにある。多くの人が「自由が来た」と喜んだ1990年代は、たちまちハイパーインフレ、失業、犯罪の横行、マフィアの台頭というカオスに飲み込まれ、理想を掲げてバリケードに立った人々さえ「こんな自由を待っていたのか」と絶望する。かつてのソ連時代は抑圧的だったが、少なくとも「大きな意味」や「みんなで未来を築く」という物語があった。それが一夜にして消え、代わりにやってきたのは金と物だけが価値を持つ世界だった。思想も言葉も夢も、すべてが「他人のおさがり」「セカンドハンド」のように感じられるという感覚が、タイトルに凝縮されている。登場する声は極端に多様で、互いに矛盾し合う。ソ連を懐かしみ「またあの時代に戻りたい」と涙する老人もいれば、スターリン時代を生き抜いた人が「私たちは大きな国だったのに、今はただの商人だ」と嘆く。一方で、若い世代は「ソ連なんて知らない」と言いながらも、両親の語る過去の影に苛まれる。民族間の憎しみ、貧困、孤独、プーチン時代への回帰的な支持までが、ありのままに響き合う。著者はほとんど解説や判断を挟まず、ただ声を並べることで、ソ連以後のロシア社会が抱える深い傷と、21世紀に甦りつつある権威主義の気配を浮かび上がらせる。読み進めるうちに、歴史の大きなうねりではなく、個々の人生の細かな痛みや迷いが胸に迫ってくる。誰もが「ホモ・ソヴィエティクス(ソビエト的人間)」の残像を引きずりながら、新しい時代に適応しきれず、それでも生き続けている姿が痛ましいほどリアルだ。アレクシエーヴィチの手法は、単なるドキュメンタリーではなく、複数の声が重なり合う「ポリフォニー」として文学的な力を持つ。そこから見えてくるのは、ユートピアが崩れたあと、人間がどうやって意味を見出そうともがくのかという、普遍的な問いでもある。
評価
ソ連では、誰しもが最低限貧しかった。けれども、人々は豊かだった。なにが豊かだったのか。それは物ではなく、時間かもしれない。友情かもしれない。信念、幻想、あるいは諦め。そういったものが、生活の全体を包んでいた。そこには確かに「世界」があった。ソヴィエト人はひとりひとりが人間だった。ペレストロイカによって始まった「自由」とは、いったい何だったのだろうか? 本書のなかでは、それは「人の欲」として描かれる。ソーセージを食べること。メルセデスベンツに乗ること。だが、それだけだったのか? その欲望の奔流のなかで、ロシアの辺境にあった諸民族の友愛は崩れ去った。アルメニアとアゼルバイジャンでは、大量虐殺が始まった。アブハジアのスフミでは、グルジア人とアブハジア人の殺し合いが始まり、タジキスタンでは兄弟が殺しあいを始め、2000年代になると、モスクワではチェチェン独立派によるテロが頻発するようになる。「自由」とはなんだったのだろうか?
隣人を殺しあうこと?
騙し合うこと?
戦争か? テロか?
欲望の無限の解放か?ユーゴスラヴィアの場合はどうだっただろう。民族ごとの独立が「自由」だったのか。セルビア人による民族浄化――これは「自由」なのか? 「解放」の名のもとに、「異邦人はきれいな社会には必要ない」というスローガンが叫ばれ、支持され、人が殺されていった。このような状況でも、彼らを単純に「被害者」としては語れない。彼らは積極的にナショナリズムを選びとり、「敵」をつくり、「排除」を正義として肯定したのだ。「純粋な社会」への欲望――それは、道徳や人類愛の名の下にではなく、むしろその逸脱として表れた。人類の普遍的な愛、道徳、寛容から逸脱する生活。
それでも、それは「自然な」生活だったのか?スターリンは必要だったのか?
糞尿まみれの収容所。恐怖による秩序。豊かさへの攻撃。貧しさの崇拝。告発。告発。告発!
これらが、人類の普遍的な愛や平和を支えるために、本当に必要だったのだろうか?
生きるための殺人?誰もが「もっと欲しい」と思ったとき、それはもう「分かち合い」ではなく、「奪い合い」に変わってしまっていた。欲は、殺戮をもたらすのだろうか?「自由」とはなんだったのだろうか?
それは、売春? 人身売買? 臓器売買? 人殺し?それでもなお、わたしたちは――
希望を持つことができるのだろうか?(吉野うごく)
隣人を殺しあうこと?
騙し合うこと?
戦争か? テロか?
欲望の無限の解放か?ユーゴスラヴィアの場合はどうだっただろう。民族ごとの独立が「自由」だったのか。セルビア人による民族浄化――これは「自由」なのか? 「解放」の名のもとに、「異邦人はきれいな社会には必要ない」というスローガンが叫ばれ、支持され、人が殺されていった。このような状況でも、彼らを単純に「被害者」としては語れない。彼らは積極的にナショナリズムを選びとり、「敵」をつくり、「排除」を正義として肯定したのだ。「純粋な社会」への欲望――それは、道徳や人類愛の名の下にではなく、むしろその逸脱として表れた。人類の普遍的な愛、道徳、寛容から逸脱する生活。
それでも、それは「自然な」生活だったのか?スターリンは必要だったのか?
糞尿まみれの収容所。恐怖による秩序。豊かさへの攻撃。貧しさの崇拝。告発。告発。告発!
これらが、人類の普遍的な愛や平和を支えるために、本当に必要だったのだろうか?
生きるための殺人?誰もが「もっと欲しい」と思ったとき、それはもう「分かち合い」ではなく、「奪い合い」に変わってしまっていた。欲は、殺戮をもたらすのだろうか?「自由」とはなんだったのだろうか?
それは、売春? 人身売買? 臓器売買? 人殺し?それでもなお、わたしたちは――
希望を持つことができるのだろうか?(吉野うごく)