琴峯教会は、琴峯一家の自宅を兼ねた建造物である。
 それなりに由緒のある教会なのだが、ナシロが生まれた頃に不自然にならない形で居住スペースを増築した。
 娘の将来を縛りたがる両親ではなかったが、それでも神の教えとその信仰に親しみながら育ってほしいという願いがあったのだろう。
 あるいはただ単に、自宅と教会を行き来するのが面倒でそうしただけかもしれないし、もっと別な理由があったのかもしれない。
 何にしろ、琴峯夫妻が身罷った今となってはその理由は藪の中、だった。

 ナシロも人並みには友達がいる。
 ただ、教会の実質の責任者を務める彼女は基本的にいつも多忙だ。
 学校が終わって帰宅したら、あとの時間はシスターとしての活動に費やされることがほとんど。
 そんなライフスタイルなので、ナシロはこの数年友達と遊びに出かけたりした記憶がとんとない。
 ましてや自分の"家"に招くようなことは、間違いなく一度としてなかったと断言できる。
 だからこそ琴峯ナシロは今、その食卓を自分含めて六人もの面々で囲っている状況に不思議な新鮮さを覚えていた。

「……いいのか? こんな大勢で押しかけた挙げ句、ごちそうまでしてもらって」
「気にしないでくれ、腹が減っては戦はできぬって言うだろ。
 この先まともに飯を食う時間があるかも分からないんだ、今のうちに腹に溜めとかないとな」

 今、琴峯教会の食卓には数枚のピザと炭酸飲料のボトル、そしてチキンやポテトといったオードブルが所狭しと並んでいる。
 ヤドリバエとの約束もありどの道豪勢に出前でも取るつもりだったのだが、今言った理由で済ませられるうちに食事を済ませた方がいいだろうとナシロが判断した。
 英霊どもはと言えば、ヤドリバエはもちろんマキナもどこか茫然とした顔でピザを見つめ時々垂れかけた涎を啜っていた。
 ちなみにエパメイノンダスも「おお……こりゃ凄いな……!!」と慄いている。よかったね。

「何から何まで世話になりっぱなしだな。やっぱり代金は俺が出すよ」
「いや、いいよ。うちのアサシンはぽんこつだから、これからあんたらの世話になるのは確実なんだ。護衛代とでも思ってくれ」
「そうか……、いや、なら半分だ。せめて半分は出させてくれよ」
「なんだよ。強情だな」
「50近いオッサンが女子高生に晩メシ奢られてたら流石にいろいろ情けないんだよ察してくれ。俺の顔を立てる意味でも、素直に貰ってくれると嬉しい」
「……はは、真面目な人だなあんたも。じゃあわかったよ。それはありがたく受け取らせてもらう」

 鉄志とナシロは互いに苦笑し合う。
 そこで河二がひょい、と小さく手を挙げた。

「僕も多少は出すぞ。宅配ピザの相場には明るくないが、これだけ頼むとだいぶかかるだろう」
「おまえはおとなしく奢られとけ」
「以下同文、だな。ていうかお前らふたり、高校生にしては人間が出来すぎだろ。
 俺が学生の頃なんてもっとおちゃらけてたぞ。タバコ吸ってバイクでニケツしてたわ」
「……むぅ。揃って言われてしまっては、これ以上の主張は僕の我儘になるか」

 生真面目な誠実をぴしゃりと異口同音に切り捨てられ、手を下ろすまで数秒。
 こうしてやけに実直な高校生ふたりとくたびれた中年男性の三人、そのサーヴァント三体で夕餉の席は始まる。
 聖杯戦争の血生臭さなどまったくない、焼けたピザ生地のいい香りと食欲を刺激するサラミの香りに満たされたつかの間の休息。
 夕ご飯を一緒に食べるという、親睦会みたいな平穏の時間が、窓から射し込む夕日に照らされながらちょっと早めに幕開けた。



◇◇



「んむっ、はむ、はむもむむむむ……。
 なんれふかこれ、ナシロひゃん! ほんなおいひーもの、ふぁんでいままでたべふぁせてくれなかったんれふ!? このけちんぼ!!」
「飲み込んでから喋れ。行儀が悪いぞ」
「あうっ」

 ヤドリバエの成虫は基本的に花に集まり、蜜を吸って暮らす。
 幼虫期には宿主の肉を踊り食いしながら過ごすのだが、もちろん昆虫の肉と動物の肉の味わいは比較にならない。
 まして食への探究心がとても貪欲な民族の暮らす島国で進化発展を遂げまくった、健康度外視のジャンクフードである。
 初めてカップ麺や白米を食べた時と同じかそれ以上の感動に打ち震えながら、ヤドリバエは口の周りをべったべたにしピザを貪っていた。

「……はむ、あむ。
 複雑怪奇です。チーズのミルク感と肉類の味わいに、トッピングされている野菜類の苦味酸味が極悪なマッチングを果たしています。
 なんと冒涜的な味わいでしょう。神たる当機がいただいていいのか不安に駆られますね、もっきゅもっきゅ」
「要するに気に入ったんだな。そういえば食べさせたことなかったっけか」

 マキナは機械の身体を持つが、食べようと思えば人間用の食事を摂ることも無意味だが可能ではあるらしい。
 眼をきらきらと輝かせながら、ピザを両手でお行儀よく握ってはむはむ食べ進めている。
 なんだか聞く側の食欲が落ちそうな形容をしているものの、食べるペースは微塵も落ちていない。
 鉄志はそんな自分のサーヴァントに語りかけながら、チキンの脂をコーラで流し込んでいた。

「いやあ、この国はこと食にかけては現代随一だって聞いてたがこりゃ本当に凄いなぁ。
 俺の時代ならこれを巡って戦争が起きてても不思議じゃねえぞ。
 デュオニュソス神に一切れ分けてやりたいくらいだ。……おお、この揚げた芋も旨いなぁ!」
「そういえば、昔は香辛料を巡って本気で殺し合いが起こっていたと聞くな。そう考えるとあながち冗談でもないのか」

 エパメイノンダスは、現代ではこれが家で待っているだけで届けられることにえらく感嘆していた。
 河二はそんな彼に相槌を打ちつつ、間違いなくこのテーブルの中でいちばん小綺麗にピザを食んでいる。
 糧食としてはいささか過剰な脂かもしれないが、さっきナシロが言ったように腹が減っては戦はできぬもの。
 「自腹でもう一切れ頼んで、携帯食にしても良かったなあ」と将軍はぼやいていた。サーヴァントに食事は必要ないよ。

 ……とまあそんな調子で、サーヴァント達は現代の宅配ピザを大層気に入った様子だった。
 偽りの悪魔と新造の神と、テーバイの将軍が同じ卓を囲んで脂っこいピザを絶賛している光景はまるで何かの冗談だ。
 マスター陣は皆一様にそういう感想を抱いていたが、とはいえ改めてこれから自分達は組んでやっていくんだぞ、ということを共有し合うには上々の流れを辿っていると言えただろう。

「むむ……。この黒々と泡立つ名状し難い飲み物、人工咽頭に妙な刺激を感じます。攻撃の可能性が否定できません」
「ぷぷ! おこちゃまはコーラも知らないんですね! それでよくわたしにあれこれ口ごたえできたものです!」
「……のん。抗議します。貴女もこのピザに対していたく感動しているように見受けられました。虚言の可能性を指摘します」
「は~~? 言っときますけどわたしはこれまでにそうですねぇ、かれこれこのボトル一本分くらいはコーラを飲んでるかなあ」
「んなっ……!?」

 にひ、と悪い顔をするヤドリバエと仰け反るマキナ。
 こいつら実は相性いいんじゃないのか? とナシロはそれを見ていて思う。
 実は鉄志もまったく同じことを思っていた。少なくとも絵面だけ見ると完全に小学生同士のやり合いにしか見えない。
 現代経験という点で旗色が悪いと見たのだろう。マキナは「こほん」とわざとらしく咳払いをする。
 それから、改めてヤドリバエの方を見直して口を開いた。

「……非生産的なお話はこの辺にしておきましょう。
 当機はあなたに質問があります、アサシン・ベルゼブブ」
「ふふーん? いいですよ。なんでもお姉ちゃんが答えてあげますので」
「ヤドリバエでいいぞ。ぜんぜんベルゼブブじゃないしなこいつ」
「ナシロさん?」
「あい・こぴー。ではヤドリバエ」
「ナシロさん????」

 ベルゼブブ(ヤドリバエ)の抗議を受け流しながら紙で口元を拭っているナシロ。
 一見するとコメディめいたやり取りだが、マキナからヤドリバエに訊きたいことがあるのは本当だった。
 偽りなれどもベルゼブブ。その名を負って現界することを許された無辜の怪物。
 これは新造の神、そして救世の機械神となることを願う少女にとって願ってもない好機だったのだ。

「旧し……こほ、こほん。失礼。
 ナザレの救世主の大敵であり、地獄の大君主とされる大悪魔――蝿王ベルゼブブ。
 現代ではその悪名は、異なる宗教の神を忌み嫌い意図的に汚染されたものであるという見方が強いと聞き及んでいます」
「はぁ? そんなこと言われてるんですか? だったらド不敬ですけど」

 ヤドリバエがナシロの方を、なんとも不服そうな顔で見やる。
 話を振られたナシロは顎に指を当て、少し考えてから答えた。

「まあ、そうだな。バアル・ゼブルって異教の神を貶めるために邪神扱いしたって話は割と主流な筈だよ。
 ……自分の宗教の悪口はあまり言いたくないが、世界史ひっくり返すとウチも割とろくでもないことやってるからな。そう不思議じゃない」

 異教の最高神を糞山の王、それに集る蝿の王扱いして侮蔑する。
 立派な宗教差別であり、現代の価値観ではまったく褒められたものではないやり方だ。
 そんな注釈を聞いて頷き、マキナは続けた。

「ですが、ヤドリバエ。貴女の言動と曰くを聞くに、少なくとも"蝿王"という存在は実在しているような印象を当機は受けました。
 つきましては後学のために、貴女が力を借り受けている蝿王ベルゼブブについてお聞かせ願いたいのです」

 後学のため。
 至って生真面目な動機で問われたヤドリバエは、「んー」と少し考えて。

「まあ、いいですよ? 蝿王様はわたし達ハエ目の憧れなので、いくらでも語り聞かせてあげましょう」
「さんきゅーです。初めてりすぺ……りすぽくと……あ、リスペクトに値するお方と思えました」
「はあああああ!? このクールビューティーなお姉さんは最初っから最高のリスペクト対象でしょうが!!??」

 まったくこれだからちびっ子は……と呟くヤドリバエ。
 マキナがむっと眉を顰めたが、幸いこれ以上話が脱線することはない。
 脂と肉汁でべったべたの口元をふきふきして、ヤドリバエがいつになく静かに口を開いたからだ。
 今の会話の内容を借りるなら、そんな様子を見るにかの"王"が彼女にとって最大のリスペクト対象であることは確かなようだった。

「……まず最初に言いますが、わたしも本物の蝿王様にお会いしたことはありません。
 自分で認めるのはたいへん癪ですけど、わたしはあくまでねじ曲げられた存在――人が蝿(わたしたち)と蝿王様を結び付けて恐れる精神から生まれた存在ですからね。
 おチビちゃんは知らないかもですが人間ってほんと愚かでビビりなので、勝手に自分達の中で因果関係を作って真面目に怖がるんですよ。
 そんなにわたしたちが怖いなら、見かけるなりぺちって潰すのをまずやめろって話なんですが」

 彼女はあくまでヤドリバエ/Tachinidae。
 蝿をかの王の象徴として恐れる心、ある種の信仰が生んだ無辜の怪物。
 つまり彼女や、同じ理由で偽りの悪魔に貶められた蝿達は被害者の側なのである。

 ただひとつ。彼女達が真の蝿王を崇め、それになりたがっていることと。
 現に単なる存在や魂魄の汚染の範疇を超えた、悪魔の力を担い振るうことを除くならば。

「では、やはり蝿の王はそもそも存在しない可能性もあると?」
「いいえ? 存在しますよ」
「……会ったことがないのに、どうして断言できるのですか?」

 マキナの問いに、ヤドリバエは小さく笑った。
 変わらずそれは嘲りだったが、さっきまでの単に張り合うための貌ではない。
 夜空の星に手を伸ばす子どもを嗤うような、無知の滑稽を嘲る貌だった。


「――蝿王ベルゼブブは間違いなく実在します。
 わたしたち昆虫は人間やその他動物よりも強く本能で動く生き物ですからね、分かるんですよ」


 ぶぶぶぶぶぶぶ、という。
 蝿の羽音を、マキナは聞いた気がした。
 それが幻聴だったのか。
 あるいは自身の眷属に倣って嗤う誰かの声だったのかを、彼女は判別できない。
 マキナは精神に対する干渉を受けない。
 であればこれは、彼女自身が勝手に思い描いたイメージであるのか。

「居場所は知りません。生きているのか、死んでいるのかも知りません。
 そもそもこの世界……ナシロさんやあなたのマスターがたが生まれた場所に残っているのかも分かりません。
 ただ仮にいたとしても、わたしたち境界記録帯(ゴーストライナー)や人間程度の存在で知覚できる場所にはいないでしょう」

 その"音"に似た不穏は、食卓の全員が知覚していた。
 彼女の得体を知らない時に感じた、あの底冷えするような不穏と同じだ。
 蝿の羽音に似た、神経や知覚系にまとわり付くような凶兆。
 理由はわからないが、何故か急に歯が震えそうなほど恐ろしくなる。
 そんな、底のない恐怖。あるいは、天蓋のない恐怖。空にない星。

「真性悪魔という概念があります。英霊であるなら、あなたも知っていることとは思いますが」
「……第六架空要素。人間の願いに取り憑き、その願いを歪んだ方法で成就せんとする存在――その極み。ですか」
「はい、よくできました。
 まあ蝿王様はおそらくソレ、もしくはもっとわけの分からない何かなのでしょう。
 わたしたちは皆彼に憧れています、悪食のニクバエお姉ちゃんも厄介者のイエバエお兄ちゃんも、かわいい妹のツェツェバエちゃんなんかも。
 みんなみんなみぃんな、蝿王様になりたいんです。より正しくは、彼を継ぐモノになりたい。
 全知全能に相反する人知無能、その極北。真の全能者、本物の悪魔……世界という糞山を未来永劫抱擁し続ける、素晴らしき蝿の王様」

 真性悪魔、という単語に覚えがあったのは英霊を除けば雪村鉄志だけだったらしい。
 彼だけが訝しげに眉を顰め、マキナは真剣な顔でヤドリバエの、蝿王の眷属の言葉に耳を傾けている。
 矮小にして弱小なる蝿の言葉が、今この時だけは場を支配していた。
 それは彼女の仕業なのか。それとも、彼女を介して世界を見る何かの御業なのか。答えはこの次元に存在しない。

「改めて言いますが、わたしはかの王の真実を何も知りません。
 ヒトの身勝手で歪曲された尊いモノの成れの果てなのか。わかりません。
 それとも言い伝え通りの禍々しくおぞましい悪魔の王なのか。わかりません。
 救世主が長い戦いの末に放逐した、この世の地獄そのものだったのか。わかりません。

 でも、蝿王様は確実に存在する。
 今もどこかで生死を問わず、恐怖そのものとして在り続けているのです」

 ……マキナはそこで、自分が呼吸を忘れていたことに気付いた。
 英霊、境界記録帯とは言うに及ばぬ超常の存在。
 そうでなくとも機械の神である彼女にそんな行動は必要ない。
 なのに今この時、息が苦しいと感じていた。
 それは果たしてヒトの時代の名残だったのか。答えはその機体の内には存在しない。


「今こうしている間も、どこかでわたし達のことを見守っているかもしれませんよ?」


 すべては虚実のあわいの中。
 丑三つ時に見た居るはずのない女を、幽霊と見るか枯れ尾花と見るかの違い。
 悪魔は存在する、それも真実。悪魔は存在しない、それも真実。
 蝿の王とはそういうもの。聞こえた異音を、感じた不穏を預ける恐怖の依代。その化身。あるいは根源。

 だからこそ蝿王の実在は永遠に虚無と虚構と合理と矛盾の中。
 それらあらゆる要素の境界に揺蕩う夢幻の泡、不安の種、死産児の鼓動。
 想像妊娠、心理的瑕疵、子どもの絵、隣人の性癖、笑顔の集落、排水溝の先、用水路に佇む子、非通知着信。
 買った覚えのない本、ヴォイニッチ手稿、明晰夢、恐怖症、空想の鳥、水底の廃墟、回るドアノブ、油絵の下絵。
 もうこの世には存在しない言語、誰かのへその緒、片足の老人、猿の出る夢、背後の気配、蛍光灯の明滅、七不思議の八番目。
 合わせ鏡、余命宣告、赤黒く錆びた釘、犬の遠吠え、シュミラクラ現象、古いアルバムの写真、仏壇の中から響く音、人形のつむじの香り。
 異形の仏、人探しのポスター、自傷行為、緊急地震速報、蛇口の水音、シャボン玉に映る自分の背後、存在しない殺人事件。
 祖父の遺品のテープレコーダー、夜空の鳥、無人の屋台、深海、笛を吹く男、逆夢、近親相姦、無音配信、幻肢痛。
 遺影、白昼夢、娘の位牌、父の背中、無形の蛇、蝗の演奏、結末の違う物語、二つ目の太陽、狂気の衛星、蛆虫、蝿の王――――――――



「――はっはっはっはっはっは!! いやあ凄え語り口だな、魂まで震えるなんていつぶりの経験か分からん!!」



 満ちた澱みと、恐怖の濁り。
 それを断ち切ったのは、豪放磊落を地で行く男の声だった。
 ともすれば粗野と受け取られてもおかしくはないのに、春風のような爽やかさが荒々しい印象を帳消しにしている。
 声の主が誰であるかなど、今更問うまでもないだろう。
 無論、エパメイノンダス。古代ギリシャはテーバイに生を受け、神聖隊を牽引してスパルタの軍勢を打ち破った大将軍である。

「ちょっと! 虫(ひと)が気持ちよく語ってるところに水差さないでくださいよ、これだから乱暴者の人間英霊は!!」
「いやあ、すまんすまん。辛気臭いのはどうにも性に合わなくてなぁ。ほら、俺のチキンを一個あげるから許してくれ」
「え! いいんですか!? ふふん、今回だけは許してあげましょう……特別ですよ。ふふふふん」

 化けの皮が剥がれるとはまさにこのこと。
 勝ち誇ったような顔でチキンを受け取るヤドリバエの姿は、充満した不穏をかき消すには十分すぎるものだった。
 そんなヤドリバエの隣で、遅れて我に返ったナシロが咳払いをする。

「お前な、変なところで威厳出そうとするな。空気が読めないにも程があるぞ」
「聞かれたことに答えただけじゃないですか! そのおチビ神がこのベルゼブブ大先生に講義を乞うてきたんですよ!?」
「いやまあそれはそうだが……にしてもやり過ぎだ。本当に何か出てくるんじゃないかと思った」

 この威厳を少しでも初対面の時に見せられていたら話も違ったろうに、と思いつつ喉を潤す。
 何にせよ、ただ質問しただけで謎に本気を出されたマキナが流石に哀れだ。
 コバエのマスターとして一応フォローはしてやるべきか――そう考えるナシロだったが、それを行動に移す前に少女神の声が響いた。

「……なるなる。よくわかりました。いえ、何もわからないということがよくわかった、と言うべきなのでしょう」

 デウス・エクス・マキナは神である。
 ある心優しい、優しすぎるが故に破綻した詩人の娘を依代に顕現した救済機構。
 彼女は地上最新の神である。これまで生まれそして滅んだどの神々よりも多くの、無限大とも呼べる可能性を秘めている。
 だが新しさとは幼さとイコール。マキナは現状、己が神話を開闢(はじ)めるにはあまりにも未熟で無知だった。

 蝿の王。神の大敵。救世主の光と相反してゲヘナに蠢く永遠の悪意。
 理想の神を目指すならば、当然その敵となるものを見据える必要も出てくる。
 だからこそ質問した。その結果返ってきたのはともすれば火傷するような劇物の暗黒だったが、マキナは乱れた思考を収めながら頷く。

「ありがとうございます、ヤドリバエ。かの王の眷属たるあなた。当機はとても貴重なお話を伺うことができました」

 ぺこり、と小さく頭を下げるマキナ。
 ヤドリバエはと言うと、素直にお礼をされるとそれはそれで調子が狂うのか、なんだか微妙な顔をしていた。
 とはいえ、今の言葉はマキナにとってれっきとした本心だ。断じて皮肉ではない。実際、貴重なことを学べたのは事実なのだから。

 ――世界には、よくわからないものが溢れている。
 例えばそれは、機体の奥で今も脈を打ついつかの記憶のように。
 されどマキナの創神論を貫くならば、わからないから仕方がないなんて言い訳は通用しない。
 すべての悲劇を撃滅する永久不変のご都合主義に、手の届かない領域があるなど許されないのだから。
 であればこそ、ヤドリバエの語りを通じて大いなる悪魔、あるいはそれとも異なる混沌の存在を知れたことはまごうことなき前進だった。
 機体の記憶。雪靴の女神との対話。少なからず揺れていた芯が、得た知識で補強され確ある形を取り戻したのを感じる。

「返礼はいずれ、当機が理想を遂げた時に致します。
 当機は何処かで嗤う蝿の王に必ず辿り着き、撃滅した後にその実像を語り継ぐと誓いましょう」
「は~~? 蝿王様はあなたみたいなおチビちゃんに負けないんですけど??」
「のん。性悪な悪魔がいつまでも笑っているような世界は当機の理念に反します」
「ほうほう。ではさっそくひと笑いさせてもらいましょうか、ひょいぱく」
「……あっ!?」

 ヤドリバエがひょいと手を伸ばして、マキナの皿に取り分けられていたピザを拝借。
 こんな時ばかり目にも留まらぬ速さを発揮して口に運び、もちゃもちゃ食べながら憎たらしい笑みを向ける。

「んふふふふふ。ピザの一枚も守れないちびっ子神がスパデビ(※スーパーデビルの略)蝿王様に勝てるわけがありませんねぇ~~!
 寝言は寝てから言うものですよおチビちゃん! うふふふふふ!! あーおかしい! いつまでも笑っちゃえそうですねもきゅもきゅ」
「……、…………あい・こぴー。宣戦布告を承りました。これより当機、報復措置に入ります」

 俯きながら、わなわなと震えて拳を握るマキナ。
 その手がテーブルの上の、赤い液体の入った小瓶に伸びる。
 それを掴むなり、彼女はヤドリバエのキープしていたピザにぱしゃぱしゃと中身をかけ始めた。

「ぷーっくっく! 何をするかと思えばわざわざわたしのピザをおいしくしてくれるなんて。
 おチビちゃんらしい嫌がらせじゃないですか、かわいらしくてたいへんよろしいですね。
 さてこれを食べてもうひと笑いと洒落込みましょう。何をかけたか知りませんけど、わたしは成虫(オトナ)なので好き嫌いなんてしないんですよ?」

 余裕綽々。
 ぷーくすくす、と小馬鹿にして笑いながら、ヤドリバエは真っ赤に染まったピザを口元へ運んだ。
 次に起こることを、彼女以外の同席している全員が察する。
 ご満悦顔でピザを頬張ったヤドリバエの笑みが固まる。顔がだんだん赤くなっていき、脂汗が浮かんで、そして――

「――ひぎゃああああああああん!!?!? からーーーーーーーーーい!!!!!!! ひーーーーーっ!!??」

 想像通り、ある意味では期待通りの悶絶が響き渡る。
 タバスコに含まれているカプサイシンは多くの虫が嫌う刺激物だ。
 なのでこれを水に薄めて野菜や花に噴射すると、殺虫剤を使わずに害虫を追い払うことができるのである。
 そのことを知っていた人間がこの場にどれほどいたかはさておき、知らなくても、「ああこいつは調子に乗った分だけしっかり痛い目を見るタイプなんだな」という共通認識はもうなんとなく出来上がっていた。
 隣のナシロにひーん!!と泣きついたヤドリバエを見て、マキナはふんす、と成し遂げた顔をする。

「おいおい、食べ物で遊ぶのは感心しないぞ」
「それについては謝罪します。ですが、必要な戦闘行動でした」

 諌める鉄志に膨れ顔のまま答える姿は、まさに父と怒った娘といった構図で。

「ナシロさ~~~ん!! 卑劣な罠にかけられました!! 舌がひりひりします、わたしにも報復の許可をください~~……っ」
「断固として却下する。ていうか、一から十までおまえが悪い。おとなしくしばらく悶絶してるんだな」
「そんなぁ……うぅ、からぁい……! 畑を守ってあげてる虫にあんなものかけるなんてあんまりですぅ……!!」

 ならばこっちは、姉と幼い妹だろうか。
 何はともあれ、三陣営同盟の食卓はおおむね賑やかかつ平凡な路線に思いの外するりと戻った。
 河二は黙々と食事を続けながら、思った以上にバランスのいい面々が集まったのかもしれないな、なんて感想を抱く。
 高乃家の食卓は亡き父が健在だった頃もここまでてんやわんやしてはいなかったが、まあ、それでも悪いものとは感じない。
 コメディ映画のワンシーンを見ているような心地になりながらコーラを嚥下する河二の隣で、「仲が良いなあ嬢ちゃん達」とからから笑っていたエパメイノンダスが、不意に絶賛悶絶中のヤドリバエへ口を開いた。

「だが真面目に、なかなか興味深い話だったぞ。
 ろくでもない存在だという認識はマキナちゃんと同じだが、一度死んだ身でまだ新しい知識を得れるってのは英霊ならではの悦びだ」
「はぁー……へぁー……。うう、でしたらこの非道な人道犯罪を未然に阻止してほしかったんですが……」
「ところで、俺からも一個質問をいいか? いや、ベルゼブブのことじゃないんだが」

 ちびちびとコーラを口に含んで辛みを消そうとしながら、ヤドリバエは涙目で首を傾げる。
 ナシロは「辛いもの食べて炭酸飲むと余計キツくなるんだが、まあいいお灸になるだろ」と思ってそれを見ていた。
 それはさておき、エパメイノンダスはポテトを一本口に運びつつ、抱いた疑問をコバエの少女へ投げる。

「虫に寄生するハエがいるってのは俺の時代でも知られてた。で、お前さんは"ソレ"なんだろ? ヤドリバエ、だったか」
「えぇ……まあ、はい。それが何か?」
「だったらアサシン。お前、あの〈蝗害〉を討ち取れるんじゃねえのかよ?」

 ナシロが、ハッと目を見開いた。
 河二も鉄志も、マキナでさえ同じだ。
 〈蝗害〉。東京を蝕む黒き厄災。
 無辜の市民達の心を最も不安で支配するそれは、いずれ向き合わねばならない課題のひとつだった。
 そこに提示された予想外の活路。
 ヤドリバエはおよそサーヴァントとしては最弱の一種と言っていいだろうぽんこつだが、しかしその生態は、こと同じ虫螻に対しては信じられないほどの無慈悲を発揮する。

 彼女達は圧倒的な生物多様性で自然界に群れをなしている。
 当人もとい当虫達にしてみれば子孫を残すため行動しているだけに過ぎないだろうが、その寄生が生態系にもたらす影響は実に甚大だ。
 増えすぎる個体数を間引き、いのちの均衡を取る大自然の調停者(ルーラー)。
 昆虫の殺人者(インセクト・マーダー)たるヤドリバエの中には、バッタやコオロギに代表される直翅目を標的とする種も少なくない。

 ――神代から現代まで世に蔓延り続ける〈蝗害〉の象徴たるかの種もまた、彼女達の寄生対象である。

「……うぅん」

 見えた希望、一縷の光明。
 しかしヤドリバエの反応は、なんとも煮え切らない微妙なものだった。

「ニュースで見ましたけど、アレってサバクトビバッタですよね。
 だったらまあ、イケるとは思いますよ? 今のわたしは何にでも産卵できますけど、やっぱり同族相手が一番クリティカルなので」
「そりゃ嬉しい返事だが。その口ぶりだと、何か不安要素がありそうだな?」
「〈蝗害〉にそれを操る親玉、核みたいな一匹がいるんだったら確かにわたしで殺れるでしょう。
 ただ、なんか……うーん。そう単純じゃない気もするんですよね、あの大食いども」

 人類に与えられる四つの死、それを司る騎士。その原型(アーキタイプ)。
 虫螻の王、神話すら暴食する節操を知らない大災害。
 彼らは一枚の葉と一体の神を同じ理屈で食い尽くすが、ヤドリバエに言わせればどこまで行っても昆虫の一種でしかない。
 であれば、昆虫の殺人者はそれを殺せる。いつも通り天敵として、飛蝗の体内に卵を産み付け死を与えるだろう。
 しかし問題がひとつあると、自然界の抑止力はそう語る。

「もしも特定の核がない場合。この都市じゅうに広がった群体の全部を引っくるめて"一体の英霊"として現界してるようだと、ちょっと気の遠くなる勝負になってきちゃいます。
 なんてったって今のわたし、一匹なので。最低でもあっちの勢力の三割くらいは眷属を増やさないとちょっと途方もないですね」
「な?」
「こらそこ! ナシロさん! 役立たないだろこいつ、みたいな顔で肩をすくめない!! デリカシーがないですよ!!!」

 もしかすると、狩る側として本能的に直感している部分があったのかもしれない。
 実際、その推測は当たっていた。
 英霊サバクトビバッタ/厄災シストセルカ・グレガリアは個でなく群、群にして個。
 特定の核を持たず、故に正攻法では鏖殺できないまさに災害そのものの暴風。
 一個体同士の戦いならばヤドリバエが優位を取るだろうが、億、兆、最悪それ以上の数に及ぶ飛蝗の軍勢を彼女一匹で駆逐するのはあまりに荷が重い。
 見えかけた希望はあっさり頓挫し、まだこの先も頭の痛いものを抱えながら進んでいくしかないかに思われたが……

「いや、やっぱり嬉しい返事だったぜこりゃ。アサシンよ、確認するが……お前、宝具で眷属を増やせるんだな?」
「できますよ。ナシロさんが許してくれないので、今のところ此処ではやったことないですけど」

 サーヴァント・ベルゼブブ/Tachinidaeは、正面戦闘に限って言えば確かにクソ雑魚のぽんこつである。
 が、戦って勝つことに主眼を置かず、かつ罪もない誰かの犠牲を厭わないなら彼女は実に凶悪なサーヴァントへ変貌する。
 ヤドリバエの名の所以でもある捕食寄生。卵を産み付け、魂を食らわせてその体内から眷属を羽ばたかせる。
 都市に掃いて捨てるほどいる市民を手当り次第に宿主にしていけば、大した時間もかけずにベルゼブブの眷属を量産できるのだ。
 流石に〈蝗害〉に比べれば絶対数で圧倒的に劣るものの、それでも第二の都市喰いとなる可能性を秘めた英霊であった。

 だがそれを徹底して戒め、禁じたのが彼女のマスターであるナシロだ。
 ナシロの愚直な善性はともすれば数千、数万の人命を救っていた。
 もし仮に、宿り蝿のベルゼブブを召喚したのが〈はじまり〉の詐欺師や医者であったならば――
 冗談でもなんでもなく、ひと月で万を超える蝿型悪魔の軍勢が誕生していたことだろう。

「わはははは、確かにそりゃ褒められたやり方じゃねえわな。うん、無論俺としても認めるわけにはいかん」
「はああああ、どいつもこいつもお利口ちゃんばっかりでヤんなっちゃいます。それで? だったらなんだって言うんです?」
「おう、だがそいつは相手が罪もない人間だってんなら、の話だ」
「……ああ、なるほど。そういうことですか」

 ヤドリバエは既に意図を理解したらしく、小さく息を吐いている。
 エパメイノンダスはしたり顔で、言葉を重ねた。

「例の〈蝗害〉や、魔術師どもが得意げな顔で飛ばしてる使い魔ども。
 そういう奴らを餌にしちまう分には許容範囲内だと思うんだが……どうだ? ナシロ」
「――なるほどな。それなら私も止める理由はない」

 ナシロも実際、それについては考えたことがある。
 ヤドリバエがあんまり頼りないのと、眷属を得た彼女が制御不能の存在になることを危惧して結局保留にしたままだったが、戦力面を補ってくれる同盟相手を得られた今なら別だ。
 コバエの動向に常に目を光らせておく必要はあるが、純粋な戦力増強ができるのはナシロとしても願ってもない話。
 味方なんて制御が利くなら多いに越したことはない。戦うにしろ情報を集めるにしろ、少数と多数では何から何まで話が違ってくる。

「ないんだが、そうだな。元々頼もうと思ってたことではあるんだが、私だけじゃどうも何をするにも不安が残る。
 こいつの眷属を増やしていくにしろまた別な方針を取るにしろ、やっぱり高乃か雪村さんのどちらかとは一緒に行動させてほしい」

 そう、それは何も眷属どうこうに限った話ではない。
 琴峯ナシロは、この場にいる三人のマスターの中で間違いなくいちばんの只人である。
 ヤドリバエの強弱抜きに、単独でこの魔境じみた都市へ挑むには自分じゃ役者が足りていない――と本人は思っていた。
 こうして食卓を囲む前に、ある程度今後を見据えた話し合いは済ませている。
 ただ具体的にどう組むか、までは決まっていなかった。ピザを食べつつそこを詰めよう、という流れで議論が一段落したからだ。
 なので改めて切り出したというよりは、いいタイミングなのでさっきの話の続きを切り出した、というのが正しいだろう。

「一応、あのヘンな時計の影響かな。魔術ってのを使えないわけじゃない。
 でも戦闘経験はゼロだ。多分だが、雪村さんの言ってた〈はじまり〉の連中に遭遇したら手も足も出ず虐殺される」

 勤勉な性分から、誰に言われるでもなくトレーニングの類は日課として重ねてきた。
 だがあくまでも護身術になるかどうか程度のレベルであり、殺し殺されが日常の魔術師達と張り合えるほどでは絶対にない。
 最初のアレは相手がヤドリバエという戦闘経験もセンスも皆無のコバエだったからどうにかなったというだけで、それでのぼせ上がるほどナシロの自己評価は高くなかった。
 一応は生存競争であるこの聖杯戦争で、無償で自分の護衛を務めさせるのは少々気が引けていたので、こうしてこちらから提供できるメリットができたことはナシロとしても安心だ。
 だからこその申し入れだったのだが、それに対して雪村鉄志が別な話で割り込んだ。

「あー、ちょっといいか? 話が逸れちまうんで、本当は後に回そうと思ってたんだが」
「……今話すのがちょうどいいかも、ってことか?」
「そうなる。というか、まさに琴峯に聞きたかった話でな」

 私に? とナシロが訝しげに眉を顰める。
 ヤドリバエのことだろうか。それとも、この身に宿った"力"のことか。
 しかし放たれた問いは、そのどちらでもなく。


「――琴峯。お前……この教会について、どこまで聞いてる?」


 そんなことを藪から棒に聞かれたものだから、眉間の皺は余計に深くなった。
 というか、質問の意味が分からない。
 考えても意図が読めず、やむなくこちらも質問で返すしかなかった。

「どこまで、って……なんだ。ウチの成り立ちでも知りたいのか?
 一応ウチはそれなりに歴史の長い、地域に根ざした教会って感じでやってるが……」
「質問の仕方が悪かった。
 誓って揶揄するつもりはないんだけどな――"お父さん"か"お母さん"から、この建物自体について何か聞いたことはないか?
 特別な仕掛けがあるとかそういうのだ。もしくはご両親が教会絡み以外に仕事を持ってたとか、ふらっと出かけたと思ったら怪我して帰ってくるようなことがよくあったとか、そんな話でもいい」
「…………何が言いたいんだ、あんた?」

 気を悪くしたわけではなく、純粋に理解ができずナシロはまたも問い返す。
 強いて言うなら確かに、教会の神父にしてはやけに出張の多い両親だったと記憶しているが――、それを今此処で問われる理由が分からない。
 鉄志との付き合いはまだせいぜい一時間少しというところだが、それでも他人のデリケートな部分をほじくり返して喜ぶ質の人間でないと思える程度には信用しているつもりだ。
 だからこそ何故そんなことを聞くのか、ナシロは疑問でならなかった。
 そんな彼女に対して鉄志は一瞬口ごもった後、やや言いにくそうに伝えた。

 ……琴峯ナシロにとって、まったく予想だにしなかった真実を。


「教会の所々に、魔術的な仕掛けが見られる」
「……、は?」
「家主が気付かない内に何者かが仕掛けたと考えられなくもないが、どれもこれも"外からの侵入を阻む""中の人間を守る"ための備えに見える」
「ま……待て待て。話がまったく見えない。じゃあ何か? 私の両親は実は魔術師で、子の私にだけはそれを隠してたって言いたいのか?」


 雪村鉄志は、厳密には魔術師ではなく"魔術使い"と呼ばれる存在である。
 コネも知識も本職の魔術師には遠く及ばない、せいぜい一般人上がりの浅さでしかない。
 ただ、途中で抜けたとはいえ警視庁の機密組織・公安機動特務隊に身を置いていた人間だ。
 専門的な知識は知れているが、魔術師や同じ魔術使い達が施した"仕掛け"に関してはある程度の見る目を有していた。
 だからこの教会へ踏み入った時は、驚かされた。教会のそこかしこに対魔、対悪霊用の備えが張り巡らされていたからだ。

「へ? ナシロさん、もしかして知らなかったんですか?」
「……アサシン。まさかお前も気付いてたのか?」
「気付いてたっていうか……あんまり所々に置いてあるもんだから、ナシロさんも何か聞かされてるもんだとばっかり。
 流石に境界記録帯(わたしたち)レベルの存在を弾けるほどではないみたいですけど、そのへんの悪霊や並の吸血種なら入れないくらいには要塞ですよ? 此処」
「――、――」

 ヤドリバエまであっけらかんとこんなことを言い出すものだから、いよいよ琴峯教会の跡取り娘は絶句するしかない。
 この反応を見れば瞭然だが、ナシロは亡き両親からそんな話はまったく聞いたことがなかった。
 ナシロにとって父と母はいつも人の心に寄り添い、祈りを捧げに来る人々を優しく受け入れる立派な人達で。
 それ以上でもそれ以下でもないと信じていたからこそ、鉄志の指摘とヤドリバエの言葉は大きくその心を揺らした。

「いや……でも、流石にただの偶然だろ。
 私も詳しくは知らないが、魔術師ってのは自分の魔術回路?を子孫に受け継がせることを大事にするらしいじゃないか。
 だったら娘の私がまったく知らなかったなんておかしい。父も母も聖職者だったから、たまたま魔除けとかそういう分野に心得があったってだけの話だと思うぞ」
「それにしては徹底しすぎてる。俺もいろいろと現場を見てきたから分かるが、これは明らかに知っている人間のやり方だ」

 鉄志にそう言われて、ナシロはますます混乱する。
 というのも、本当にまったく心当たりらしいものがないのだ。
 ヤドリバエは「ほら、あそことか」と部屋の隅を指差しているが、ナシロにはそこは何もない壁面としか認識できない。
 紛れもなく話の当事者であるにも関わらず、何か狂言や悪い冗談に嵌められているような心地だった。

「琴峯。さっき、"魔術を使えないわけじゃない"って言ってたよな」
「……ああ。言った」
「見せてもらってもいいか、魔術(それ)。もちろん強制はしないが、何か分かることがあるかもしれない」

 鉄志に促されて、ナシロは少し逡巡し。
 だが断る理由も思いつかず、静かに右手へ魔力を込めた。
 ナシロはこの口調やこれまでの物言いの通り、非常に生真面目な人間である。
 何もせずに過ごすということが耐えられず、少しでも暇があれば何か実になることをしようと試みてしまう。

 だからこの世界に来て、聖杯戦争と自分の置かれた立場と、そして宿った力について理解した時から今日に至るまで。
 教会の仕事や学業の合間を縫って、〈古びた懐中時計〉が覚醒させた自分の魔術を使い慣れることにも取り組んできた。
 より速く、より強く。努力家らしい愚直さで自身の力と向き合ってきた成果を、まさかこんな形でお披露目することになるとは思わなかったが。


「――――投影(エゴー)、開始(エイミー)」


 自分で設定した、魔術行使のコマンドワード。
 エゴー・エイミー(ἐγὼ εἰμί)。私は、存在する。
 己が存在を世界に告げることを、琴峯ナシロは自身の魔術の撃鉄としていた。
 同時に開放される魔術回路。それが極めて効率に悖る魔術であることもナシロは知らない。
 彼女の魔術の形はグラデーション・エア。投影魔術。水面に写した原点のその鏡像に、形を与えて現出させる術式。

 ナシロの手のひらに、一振りの剣が現出する。
 それは、十字架によく似ていた。
 握って振るうよりも、投げて貫くことに長けるであろう投擲剣。
 この扱いを覚えるのにナシロは相当難儀したが、今ではとりあえず、百発百中とは行かずとも八十中くらいはできるようになった。

「……これが私の魔術だ。たださっきも言ったけど、両親に学んだものじゃない。この世界に来て初めて身に着いた力だよ」

 息を吐いて、ナシロは言う。
 苦笑のひとつもしたい気分だったが、あいにく顔はそれを象ってくれなかった。
 隠しきれない動揺と混迷。それに輪をかける言葉を、鉄志が言う。

「――琴峯。お前、なんでその剣を選んだ?」
「なんで、って言われても……なんだろうな。
 自分でもうまく説明できないんだが、昔見た夢の中で、父親がこれを握ってた気がするんだ」
「なら、悪いが確定だ」
「……なんでそうなるんだよ」

 ナシロはわずかな不服を顔に宿して、鉄志を睨む。
 自分でも子どものようなことをしていると分かっていたが、止められなかった。
 亡き両親について好き勝手言われているようで、動揺も合わさってどうにも気分が悪い。
 だが雪村鉄志はそれで気を悪くするでもなく、"琴峯神父"の忘れ形見である彼女へ続けた。

「聖堂教会という組織がある。聞き覚えは……ないよな」
「聖堂――教会?」
「厳密には違うんだけどな、ざっくり言うならエクソシストみたいなもんだ。
 世界社会を脅かす魔性のモノを狩る、キリスト教の暗部ってやつだよ。
 で……その中に、代行者って言う奴らがいてな。俺も仕事で何度か顔を合わせただけだが、俺が会った連中はものの見事に超人揃いだった。
 魔を祓い、悪魔を殺す。信仰を貫き、その名のもとに敵を排する。身を粉にしてその大義に殉ずる、そういう集団だったよ」

 聖堂教会。
 代行者。
 それらもやはり、ナシロには馴染みのない言葉だった。
 が、しかし――


「お前の投影したその投擲剣の名は、"黒鍵"という。
 聖堂教会の戦闘信徒、代行者どものシンボルだ」


 続いた鉄志の言葉が、ありもしない点と点を線で繋いだ。



◇◇



 聖堂教会。
 世界最大宗教、キリスト教の暗部組織。
 その存在意義は魔、異端の排除。
 現在は死徒、俗に言う吸血種の打倒を掲げている。
 〈はじまりの聖杯戦争〉では監督役として東京の土を踏み、悪辣な魔術師達の陰謀の前に露と散った。

 代行者。
 聖堂教会の戦闘信徒、エクソシストならぬエクスキューター。
 ヒトの身にありながらそれを超越した、悪魔殺しのプロフェッショナル。
 そのシンボルこそが黒鍵、そう呼ばれる概念武装の投擲剣。
 琴峯ナシロが夢に見た、いや、そう錯覚している――いつかの剣の銘(なまえ)である。



◇◇



 目眩がした。
 ナシロにとって、既に父母の死は振り切った過去でしかなかったが。
 それでも、元公安の魔術使いに伝えられた"真実"に衝撃を覚えないほど達観してもいなかったのだ。

 悪魔殺し。教会の暗部、戦闘信徒。
 この聖杯戦争のような、人智を超えた鉄火場を渡り歩く代行者。
 記憶の中の優しい微笑みとはまったくかけ離れた事実に、ナシロは絶句するしかない。

 だが、彼女が最も揺さぶられているのは亡き両親の素性に関してではなかった。
 それもあるが、仮にどんな裏の顔を持っていたとしてもナシロにとってふたりは優しき父であり、母だった。
 ならばその認識は、今更何を知ったところでコロコロ変わるものじゃない。
 自分の知らないところで悪魔やら悪霊やらを殺し回っていたとしても、ナシロは幻滅しないしそれどころか誇りにさえ感じる。
 父さん達は昼も夜も、表も裏も、文字通り人生のすべてを費やして誰かの心の安寧のために戦っていたのだ――その在り方はナシロにとって尊いもので、もういない両親への尊敬を強めるものであった。

 しかし。

「……ウチの両親の死因は、出張帰りの交通事故だった。
 山道のキツいカーブでさ、ハンドルを切り間違えたんだと」

 どうしても過ぎってしまう、疑問がある。
 琴峯夫妻の悲劇は、ごくありふれたものだった。
 聖職者の会合か何かに出かけて、その帰りの山道で事故に遭ったのだ。
 ハンドル操作を誤って谷底に落ち、即死だったと警察からは聞いている。

 事件性があったわけではない。
 巻き込まれた被害者がいたわけでもない。
 だからナシロは悲しくこそあったが、その死を飲み込むことができた。
 が――そんな過ぎた筈の記憶に今打ち込まれた一本の楔。

「そんな死に方、するのか? 悪魔だの何だのを相手取って回るような覚悟の決まった超人が」
「……しない、と断言はできねえ。どんなに極まってようが人間は人間だからな」

 優れた魔術師でも、大抵は不意を突いてナイフでも突き刺せばそれで致命傷だ。
 如何に聖堂教会の狩人といえど、人体の構造を一撃で粉砕されては生存の続行はまず不可能だろう。
 だから、交通事故くらいで死ぬことはない、と断言はできない。
 ただ、と鉄志。

「ただ、不自然な話だとは思う」
「――は。何だ、そりゃ」
「そりゃ全員が人間辞めてるってわけでもねえんだろうが、ちょっとばかし腕が立つだけで名乗れる肩書きじゃないのは確かだ。
 そんな人外スレスレの超人が、疲労や不注意で車の運転なんて簡単な作業をミスるかって言われたら……妙な話ではあるな」

 ナシロは乾いた笑いを零したが、その心臓はひどく荒い鼓動を刻んでいた。
 慣れ親しんだ自分の中の欠落が、此処に来て自分の知らない意味合いを持ち始めている。

 事故ではない、のなら。
 不運ではないのなら。
 悲劇ではないのなら。
 であれば、アレは。
 あの日にあったことは、この欠落の名は、まさか――


「……似ているな」


 さっきとは別な意味で張り詰めた空気。
 和やかとはとても言えないムードの中、ぼそりと呟いたのは高乃河二だった。
 話に割り込むではなく、思わずつい口から溢れた言葉、という様子だったが……
 そこで鉄志は、最初に彼と交戦した時の会話を思い出した。

「それは……自分と琴峯が、って意味か?」
「気を悪くしないでほしいんだが、僕も父を亡くしている」

 この技に覚えがあるか、とあの時河二は鉄志に問うた。
 だから鉄志は、覚えがあったらどうなるのだ、と返した。
 問いを受けると同時に、傍から分かるほどに冷えていく心。
 おそらく自分の中にある欠落(モノ)と同じ名を持つ、その怜悧さで。

 ――――――――父の仇を討つ。

 高乃河二は、確かにそう断言したのだ。
 だから鉄志は、彼がこの都市で目指す/探す物を知っている。
 が、その仔細までは聞き及んでいない。
 いまだ謎のヴェールに包まれた、藪の中に消えてしまった過日のこと。
 琴峯ナシロの話に何か感じるものがあったのか、河二はそれを、誰に問われるでもなく語り始めた。


「父は強い人だった。ランサーのおかげで僕も能力の伸びを感じるが、それでもまだ父の足元にすら及ばないだろう」


 口にする言葉が進むにつれて、徐々に声音が冷えていく。
 同時に視線の先で握られたのは、彼の得物であり、父との絆でもある霊木製の義肢(こぶし)であった。
 義憤とも覚悟とも違う感情のままに作られた拳には、確かな殺意が横溢している。
 義肢の使い方、拳の握り方、武術の何たるか、そしてそれを振るう者の心。
 あまりに多くのことを教えてくれた父・辰巳の顔を河二は一日たりとも忘れたことがない。

「その父が数ヶ月前、何者かの手によって殺された。
 父は魔術師だ、恨みを買っていたとしても不思議ではない。
 だがそれでも、そう簡単に不覚を取るような人じゃなかった。
 それがある朝――まるで事故にでも遭ったように、天命が訪れたように、ただ静かに殺されていた」

 ナシロは河二の話を黙って聞いている。
 ともすれば勝手な同情をするなと激昂されても不思議ではない場面だが、無神経な慰めとは似つかない重みが彼の発する声音にはあった。
 他殺と事故死。魔術師と代行者。琴峯夫妻と高乃辰巳の死は、要素だけ並べると似通っているどころかむしろ真逆に思える。
 しかし聖杯戦争という非日常の中で、同じ種類の欠落を抱えた者同士がこうして巡り会い。
 その不可解な死に納得しかねているというどこか運命的なこの状況が、似ていると言った河二の台詞に理屈以上の説得力を与えていた。

 そして――この教会に集った欠落者は、彼らふたりだけには留まらない。
 しばらく唇を噛んで何事かを咀嚼している様子だった鉄志が、厳かに口を開く。


「……俺は娘を攫われた。今も行方はおろか、誰がやったのかも分からないままだ」


 もっとも、鉄志の娘はナシロや河二の家族のように力があったわけではない。
 無力な、どこにでもいる普通の少女だった。

 しかし彼の娘、雪村絵里もまた――ある日、突然その姿を消している。
 言葉にするには躊躇があり。だからこそ今も"攫われた"という表現に留めたが。
 彼も心のどこかでは既に"それ"を理解していたからこそ、ふたりの話に並べる形で自分の欠落を切り出したに違いなかった。
 年齢も違う。立場も違う。時期も違う。どういう形で喪ったかも、すべて違う。
 ただ単に肉親を亡くしている三人が偶然集まっただけ、そう片付けるのは簡単だし、それが一番合理的だろう。

 されど。
 鉄志は今、鈍い高揚で静かにその魂を震わせていた。
 彼の勘が告げていたのだ。自分達三人の過去は、これもまた、一本の線で繋げる点なのではないかと。

「――俺は数年前まで、公安の機密部隊でとある事件を追っていた」

 そうして鉄志は、語り始めた。
 本当なら段階を追って明かしていくつもりだった自分の過去と戦う理由。
 この世界で、ともすれば聖杯の獲得よりも優先して追っているモノについてを。
 猛る心と、高乃河二の抱く激情と間違いなく同種であろう想いを燃料に、だがそれでいて淡々と。

 ――ある、仮定上の犯罪者にまつわる話をしていった。



◇◇



 雪村鉄志は、今でも思うことがある。
 その考えは敗北であると分かってはいても、馳せずにはいられない思いがある。

 もしもあの時、藪の中に架空の怪物を見出さなければ。
 無数の行方不明者達の事案に、共通項を探ろうとなんてしなければ。
 自分達は呪われていると騒ぐその声に、耳を傾けていれば。
 理想の正義と現実の等身大の中間を見つけ、腰を落ち着けていれば。
 蛇の尾など追いかけなければ――今も自分は夜ごと、娘の将来を空想しながらアルバム片手に酒でも楽しむ日々を送れていたのではないか。

 そんな、今となってはまったく益体もないことを。
 ついつい考えてしまう程度には、鉄志は凡人だった。

「ニシキヘビ――――?」

 鉄志の伝えた名を、ナシロが復唱する。
 河二は神妙な顔で、ただ静かに眉根を寄せていた。
 鉄志は錆び付いた機械のように重々しく、それに頷く。

 ニシキヘビ。
 証拠はなく、足跡すらもない、藪の中に潜んだきりの黒幕。
 それはヒトの命を、音もなく己の袂へ奪い去る。
 男なのか女なのか、老人なのか若者なのか、人間なのかそうでないのかすら鉄志は未だに解き明かせていない。
 真の意味で得体の知れない、さりとて確実に"居る"とだけは確信している殺人鬼の名。
 かつて鉄志達公安機動特務隊を蝕み、緩やかな崩壊へと追いやった、現代日本に刻まれた呪いである。

「……正直私は、映画の脚本か何かを聞かされた気分なんだが」
「責めねえよ。突拍子もない話なのは事実だ。
 少なくともまともな人間にできる芸当じゃあねえ――俺だって何度も思ったさ。本当にこんな奴存在するのか、って」

 鉄志は超人でも、名探偵でもない。
 公安にいた頃も、一心不乱に調査を続ける一方でどこかじゃこう思っていた。
 蛇なんて、本当にいるのか。もしかすると全部、刑事の勘とやらを拗らせた自分の妄想に過ぎないんじゃないのか、と。

「だが、今俺は確信してる。
 この嘘みたいな化け物は必ずどこかでとぐろを巻いて、おぞましい欲望を満たし続けてると」

 現に警察を辞めて以降、鉄志は歯車を動かすことを止めた。
 すべてを諦め、怠惰に浸り、藪から目を逸らして逃げるように暮らしてきた。
 その止まった秒針を再び動かさせたのは亡き同僚の刑事魂であり、そして〈古びた懐中時計〉だった。
 ナシロの言う通り、荒唐無稽極まりない話を追っている自覚はある。
 それでも今、雪村鉄志の心にもはや自分への疑いはない。
 ニシキヘビは実在する。今も藪の中に潜んで、どこかで自分達を見下ろしているのだと確信していた。

「……とはいえ、はっきり言って捜査の進捗は芳しくない。
 だからお前達にも何か知らないか聞こうと思ってたんだが、まさかこうなるとは思ってなかったよ」

 人智を超えた事件の捜査に携わり続けてきた経歴、そこで培われた経験。
 娘を奪われ欠落を抱えた、ひとりの父親としての執念。
 それらに加えて今、鉄志はある種の"運命"のようなものも感じている。
 それが自分の背中を、天国か地獄かは知らないが押していることを強く感じ取っていた。

 蛇に呪われ――娘を奪われ、同僚を殺された自分。
 代行者の両親を、その能力を鑑みれば不自然なほど呆気ない死で失った琴峯ナシロ。
 魔術師の父を、予兆も痕跡もない死神の所業じみた殺人で亡くした高乃河二。
 共通点はひとつ。そこには一切の足跡がない。
 三人三様の喪失。その真実はいずれも、藪の中に隠されて探し出せないまま今この時を迎えている。

 鉄志は改めて、ニシキヘビの実在を信じ直した。
 ひとつひとつなら偶然でも、三つ集まればその信憑性は跳ね上がる。
 何より彼の刑事としての、そして復讐者としての勘が断じている。
 琴峯夫妻の事故死も。高乃辰巳の殺害も。雪村絵里の失踪も。

 すべて、すべてすべて――信じられないほど狡猾で貪欲な、あの蛇の仕業であるのだと喚いてやまないのだ。


「正直、僕の抱いた感想も琴峯さんと同じだ」

 高乃河二は、しばらく閉ざしていた口を開くなりそう言った。
 すぐには信じ切れない。鉄志が嘘を吐いているとは思わないが、個人への信用とその語る仮説の信憑性を盲目的に結びつけるのは躊躇われる。

「ただ、頭の中には入れておく。優れた魔術師だった父を殺せるとなれば、相手はかなりの手練れだろうとは踏んでいた。
 蛇の実在、そして貴方の悲劇と僕の悲劇が線で結べるかどうかはまだ様子見だが――そういうモノがいるかもしれないという可能性は無視できない」

 が、彼の場合は進む道が既に決まっていた。だからこそ信じる信じないは別として、無視する選択肢はない。
 ニシキヘビ。もしそんなモノがいるのなら、必ずや探し出して問わねばならないだろう。
 すなわち、この技に覚えはあるか、と。
 覚えがないと言うなら邪悪として討てばいい。だがもしも、父の無念と鉄志の執念の行き着く先が同じであったなら、その時は。

「何か分かったらすぐに伝える。手間をかけるが、そちらからも情報の共有をお願いしてもいいだろうか」
「……助かるぜ。もちろんそうさせてもらう。正直、ひとりで追うにはでかすぎるヤマなんでな」

 その時は――この復讐を、必ずや遂げさせて貰う。
 河二にとって、相手がどこの誰であるか、何であるかはさしたる問題ではないのだ。
 重要なのはひとつ。己が父を殺したか、殺していないか。
 だからこそ河二が鉄志の捜査に力添えすると決めたのはもはや必然の流れだった。

 こうして鉄志は、久方ぶりに捜査協力者を獲得するに至った。
 それも、生半可な"呪い"では折れない意思と力を持った頼もしい"同類"だ。加えてひと月分の捜査成果を一足飛びで上回る成果まで得られたのだから、分泌されるアドレナリンの量は並大抵ではない。
 今度こそ逃さない。絶対にその巨体を白日の下に引きずり出して、然るべき報いを受けさせてやる。


 ふたりの復讐者。
 造られた世界、造られた都市にて仇を探す亡者たち。
 そんな男たちを前にして、しかし少女は未だどこか現実感のない動揺の中を揺蕩っていた。


「――――悪い。私はもうちょっと、考える時間が要りそうだ」


 ナシロは素直に鉄志と、そして河二にそう告げた。
 琴峯ナシロも、心に欠落を抱えている。
 自分を育ててくれた両親の死は、彼女にとっても確かに欠落と呼べる空白だった。
 だがナシロの場合、鉄志達とは少々事情が異なっていた。
 何故なら彼女は両親の死を、単なる不運が招いた悲劇だと信じていたから。
 そこに得体の知れないモノの影があるなんて考えたこともなかった。
 だからナシロは彼らと違って、自分の中の欠落と折り合いを付け、前へ進むことで人生を謳歌していたのだ。

 父は、あるいは母も、自分が知らないもうひとつの顔を持っていた。
 受け入れた筈だったその死は、事故ではなかったかもしれない。
 そしてその悲劇は、目の前にいるふたりの男達が経験したそれと繋がっているかもしれなくて。
 挙げ句両親を死に追いやった仇は、この都市のどこかにいるかもしれない――。

 それはナシロにとって、自分が信じてきた世界の輪郭が崩れ去るほどの衝撃だった。
 河二のようにすぐ順応などできない。
 何故ならナシロは、復讐者ではないから。
 己が空白に、それ以上の意味を与えたことのない人間だから。

「……いや、考えてくれるだけでも十分だ。
 こっちこそ悪かった。アレだけ捲し立てておいて言うことじゃないが、少し配慮が欠けてたな」
「謝らないでくれ。正直頭の中はぐちゃぐちゃだけど、教えてくれたことには感謝してるんだ。
 だから、そうだな……。これはたぶん、私が弱いだけだ。我ながら腹立たしいくらいだよ」

 頭をぐしゃりと掻いて、ナシロは苦笑する。
 力ない笑いだった。らしくない顔であったと、隣のヤドリバエの困惑した表情を見るだけで分かってしまう。

 ――まったく情けない。それなりにメンタルの強い方だと思ってたんだけどな。

 とはいえいつまでもこうやって悩んでいるわけにもいかない。
 早い内にこの感情を解体し、進む道を決めなければならないだろう。
 停滞を嫌い、正しく進むことを良しとするのがナシロだ。
 そんな彼女にとって、こうして自分が他人の足を引いてしまうという状況は極めて不本意かつ不服なものだった。
 数分か、数十分か。分からないが一時間はかけたくない。
 ふう、と肺の中に蟠っていた生温い息を吐き出して、新鮮な空気を吸い込み脳を活性化させようとした――その時である。


 ぷるるるる、るるるるるる。


 ……と、ナシロのスマートフォンが色気のない電子音で着信を告げた。
 見れば画面には知り合いの名前が躍っている。
 席を立ち上がり、ナシロは食卓の面々に対し悪い、と小さく会釈した。

「少し席を外す。話を続けててくれ」



◇◇



 教会の運営は、皆が思っているほど美しく神秘的なものではない。
 維持費はかかるし、庭園はちょっと手入れを怠るとすぐ見栄えが落ちる。
 庭仕事や掃除、祈りに来た人達の応対をしてくれるシスターにだって賃金を払わなければならない。
 目が回るほど忙しく、緻密な金勘定が必要になるそんな仕事に、ナシロはほぼほぼひとりで向き合ってきた。
 だが無論、いかにナシロが優秀だろうと現実問題として二十歳にもなっていないぺーぺーの女子高生が自分の努力だけで切り盛りするのは無理がある。よってナシロは基本的には自分の力で教会を切り盛りしていたものの、どうしても自分の力でどうにもならない領分に関しては、古くから付き合いのある馴染みの教会に助力を乞うことで切り抜けてきた。
 そんな教会はいくつかあったが、中でも最も長く深い付き合いをしてきたのが、今かかってきた電話の主。

『こんにちは。急に連絡してすまないね、今は大丈夫だったかい?』
「……はい、ちょっと客が来てますけど問題ないです。お疲れ様です、ダヴィドフ神父」

 白鷺教会の、アンドレイ・ダヴィドフ神父である。
 温厚で実直な人柄は、親を亡くしたナシロにとってとても頼れるものだった。
 多忙の極まっている最近の琴峯教会に応援を寄越してくれたのも他ならぬ彼なのだから頭が上がらない。
 信者の訪れが一段落したことと、直に教会を閉める時間なこともあって応援のシスター達には先ほど丁寧にお礼を言って帰ってもらったが、彼女達の助力がなかったら間違いなくナシロはパンクしていただろう。

 とはいえ、彼ら白鷺教会の聖職者達も大変なことをナシロは知っていた。
 白鷺教会は〈蝗害〉の侵食に伴って実質の帰宅困難区域と化し、今は此処と同じように人手不足の教会へ援軍として赴きサポートする活動を主にしているという。
 スマートフォンを握る手に力が籠もる。分かっていたことだが、聖杯戦争が都市と、そこに暮らす人々に与えている影響はあまりにも甚大だ。

「今日は応援の派遣ありがとうございました。特に混む日だったので、本当に助かりましたよ」
『なに、困った時はお互い様だよ。ぼくも君のご両親にはたくさん助けて貰ったからね』
「はは……そう言ってもらえると私も嬉しいですよ。それで、どういったご用件でしたか?」

 魂だとか、造り物だとか、そんなことはナシロにはよく分からないが。
 真実がどうであるにしろ、"善き人々"の幸福が理不尽に脅かされることには腹が立つ。
 自分も同じ穴の狢と言ってしまえばそれまでだが、そういう自虐じみた自己弁護に逃げて思考を停止させるのは醜いことに思えた。
 やっぱり、どうにかしなくちゃいけないよな――できるできないは別として、やらないって選択肢はない。
 思考の整理と決意の確認をしながら通話を続けるナシロに、優しい神父は思いもよらぬことを尋ねてきた。

『それなんだがね……君のクラスに、楪という女の子がいると思うんだ』
「――楪? ええ、まあ……そういう奴はいますけど。それが何か?」
『ほら。ぼくはスクールカウンセラーとして君の学校に出入りしているだろう?
 その兼ね合いでね、不登校児のお宅を訪問する話が今日決まったんだよ。
 最近は何かと情勢が不安定だから、そういう子達へのメンタルケアは欠かせないってことでね』
「ああ、なるほど……」

 ダヴィドフ神父は確かに、スクールカウンセラーとして度々ナシロの学校を訪れている。
 とはいえその役職上、自ら会いに行かない限りそうそう顔を見ることはない。
 普段から付き合いのあるナシロはともかく、転校生の高乃河二などは名前すら知らなくても不思議ではないだろう。

『ただその子が、まあ、結構難しい子だって言うじゃないか。
 人のプライベートを詮索するのは褒められたことじゃないが、ナシロちゃんの私見を聞いておきたいと思ってね。
 何か知っていればでいいんだが、ぼくに少し教授しては貰えないかな』
「……難しい子、ね。間違いじゃないとは思いますけど」

 事情は分かった。
 幸いにして、伝えられることもある。
 が、ナシロの表情は硬かった。
 どうオブラートに包んだもんかな、という逡巡が窺える顔であった。

 ――楪依里朱。ナシロ達と同じ学校、同じクラスに在籍している女子生徒。そして不登校児。
 ナシロの知る限り、彼女はこれまで一度も学校に登校していない。
 ひょんな偶然でその顔写真を見た時、ナシロは思わずぎょっとしたものだ。
 金髪や茶髪、そんな生易しいものではない。黒と白の二色を、ブロックノイズのように散りばめたツートンヘア。
 比較的お硬い校風で、生徒もお行儀のいい優等生がほとんどであるナシロの高校ではまず見ることのないようなぶっ飛び具合だったから。

「すみません。どうやってもあんまり良い言い方ができないんですけど」
『構わないよ、此処だけの話にしておこう。聞いているのはぼくの方だしね』
「……一言で言うと、"できればお近付きになりたくない奴"です」

 ナシロは一度だけ、彼女に直接会ったことがある。
 会ったことがあると言っても、ただの偶然だ。
 半月ほど前のこと。買い出しに行った帰り、道で偶然すれ違った。
 一度見たらまず忘れないツートンヘア。しかし、実物はそれどころではなかった。
 髪だけでなく首から下も、身につけているあらゆるモノを白と黒の二色で統一していたのだ。
 流石にあ然としたが、一応はクラスメイトだ。話しかけないのも薄情かと考え、思い切って挨拶をしてみることにした。

 ……その結果どうなったのかについてはあえて伏せよう。
 ちなみにナシロは今でもたまにあの日のことを思い出して、こめかみに青筋を立てながら静かに深呼吸することがある。
 要するに非生産的で、非友好的で、そしてとても不愉快なやり取りであった、ということだけ察して貰えれば十分だ。

「礼儀とか対人コミュニケーション能力とか、そういう以前の話ですね。
 自分の機嫌で他人を不快にさせることに何の抵抗もないっていうか、世界は全部自分中心で回ってるって考えてるタイプっていうか」

 ナシロは聖職者だが、聖女ではない。
 人の好き嫌いくらいは当たり前にある。
 特に件の楪依里朱のような、他人の心に無頓着な人間はどうにも好きになれない。
 要するにナシロとかの白黒不登校児は、水と油くらい相性の悪いふたりだったのだ。

「……って、こんな話でいいんですかね。なんか陰口叩いてるみたいで具合悪くなって来たんですけど」
『いや、ありがとう。実に参考になったよ』
「ならいいんですけど……。神父も気を付けてくださいね、最近いろいろ物騒じゃないですか」
『ナシロちゃんは優しい子だね。天国のご両親も、さぞや誇りに思っておられることだろう』

 両親。
 いつもならなんてことのないワードに、ずきりとこめかみが痛む。
 やっぱりまだ切り替えられてないな、とナシロは自嘲した。
 と同時に、覚えたものは罪悪感。

『――さっきも言ったが、人のプライベートを詮索するのはよくないことだ。
 だから深くは聞かないよ』

 ナシロの父もそうだったが、優れた聖職者はとにかく人の心に敏いものだ。
 だからこの人の前で少しでも暗い感情を抱くと、すぐにそれを理解されてしまう。
 自分のような半端者とは違う正真正銘の聖職者に、余計な心配をかけてしまうこと。
 そうさせてしまう自分の弱さに、琴峯ナシロは心底嫌気が差した。

『だが、君は強い子だ。神は乗り越えられる試練しかお与えにならない。
 まだ若いのだから、存分に迷い、あがき、自分の道を見つけなさい』
「……はい。ありがとうございます、ダヴィドフ神父」
『いやいや、助けてもらったほんの礼だよ。それではまた、ナシロちゃん』

 通話が切れる。
 ふう、と息を吐き出した。

「自分の道、か」

 真実は、いまだ藪の中。
 すべてが雪村鉄志の邪推でしかないのなら一番いい。
 だが、もしも。
 もしも彼の言う通り、両親の死が"不運な事故"などではなかったというのなら。
 それが分かった時、自分は……どうするのだろう。
 この未成熟な頭で何を考え、そしてどこへ足を踏み出すのだろう。

 若き殉教者は静かに迷う。
 神父の言う通り、ナシロはまだあまりに若かった。
 大義に生きて殉じた父母の域には到底及ばない、ひとりの迷い子でしかないのだった。



◇◇



「……大丈夫かね、琴峯の奴」
「心配ねえさ。何せ奴さん、この俺を唸らせた女だぜ?
 いつまでも燻ってるようなタマじゃないし、嬢ちゃん自身がそれを許さねえだろうさ」
「だといいんだけどな」

 鉄志の零した台詞に、エパメイノンダスが爽やかに笑って答えた。
 そうであればいいのだが、やはり気にしてしまうものはある。
 いずれ戦う相手だからと割り切れるほど、鉄志は非情にはなれなかった。
 モヤついたものを抱えながらも、しかしナシロの言い残したように、今は話を進める必要がある。
 鉄志は思考を切り替えて、河二とエパメイノンダスを交互に見て言った。

「時に、だ。
 そういうわけで俺はニシキヘビを追い、かつもっと多角的に情報を集める都合上、今後も単独行動を取らせて貰いたい」
「異論はない。その方が理に適っていると思う」
「ただ、そうだな。琴峯も自分で言ってたが、できればお前達にはあいつと一緒に行動してやってほしい。
 侮辱するつもりはねえけどよ、流石に戦力的に不安が残るからな。その分お前達には苦労を掛けることになっちまうが……」

 暗に貧弱呼ばわりされたと認識したのだろう、ヤドリバエは鉄志をジト目で睨みながら頬を膨らませている。
 実際その認識で合っているのだが、小さな少女の見た目でそれをされると娘の拗ねた顔とダブってしまい、少し心の古傷が疼いた。

「コージは異論ねえんだろ? なら俺も以下同文だ、"引き受けた"。
 そこのアサシンの指南役をやるのも面白そうだしなァ! うん、俺もまったく異論ねえぞ!」
「え゛っ。なんかナシロさんとは別なベクトルでスパルタっぽくて嫌なんですけど」
「スパルタァ? ノンノン、俺はむしろそいつらと敵対した側だぜ。ま、最後はブチ殺されちまったけどな! わっはっは」
「とほほ、脳筋とは話が噛み合いません」
「その呼称はいささか不適当だ。ランサーの取り柄は武力だけでなく軍略にもある。この同盟を組むまでの一連のやり取りでも、それは窺い知れたかと思うのだが」
「あなた達主従揃ってなんかちょっとズレてるんですよ! 真面目な顔してズレられるとツッコミに困るんですよね巻き込まれた側は!!」

 うがー! と頭を抱えるヤドリバエ。
 マキナはそれをふふん、とどこか得意げな顔で見つめている。
 とてもではないが、世界中に恐れられる蝿の王の眷属と、全人類の救済を願う新造の神の姿とは思えない。

「時間さえあればウチのマキナにも軽く手ほどきを願いたかったくらいだよ。
 敵としては厄介なことこの上ないが、味方になったら頼もしいことこの上ないなあんたは」
「そりゃどうも。だがな、マキナちゃんに関しては俺が鍛えるよりもあんたが連れ回した方が効果的だと思うぜ?」
「……へえ。理由を聞いても?」
「どっちも羨ましいくらいに伸びしろがある。が、凹んでる部分がそれぞれ違うのさ」

 エパメイノンダスは、戦士としても将としても、更には師としても秀でている。
 亡き父に鍛えられていたとはいえ、ただの人間である河二が彼の手ほどきを受けた結果ひと月でこれほど伸びたのだ。
 基礎の土台で遥か上を行く英霊に対してその辣腕が振るわれたなら、まず間違いなくかなりの伸びが得られるだろう。
 そんな彼にはもう既に、ヤドリバエとデウス・エクス・マキナ、幼き二体の英霊に足りないものが手に取るように分かっていた。

「ベルゼブブ……ヤドリバエはナシロの言う通り戦いの基本がなってねえ。
 だがその分そこさえマシにできれば、短時間でも格段な能力の向上が見込めるだろうよ。
 ただマキナちゃんの場合は、そうさな。足りないのは基礎というより応用――要するに経験だ。そこが絶対的に足りてない。
 自分の目で見て、戦って、死物狂いで学び取る。俺があれこれ指図するより、本人の創造と学習に任せるのがいい筈だ」

 マキナは自分の方を見て笑う将軍の言葉に、真剣な顔で小さく頷いた。
 そこには確かな説得力があったからだ。理屈もそうだし、マキナがついさっき得たまさに"経験"もそれを後押しする。
 雪靴の女神、スカディとの対話。神としての在り方を知り、自分が次に問いを投げるべき相手を知ったあの時間は実に有意なものだった。
 戦いもきっと同じなのだろうと、マキナは思う。対話の手段が言葉ではなく力、殺意に変わるだけ。
 実際に語らい、ぶつかり合って学び取り、糧にする。そうして一歩ずつ、当機(じぶん)は当機(じぶん)の神話を進めていく。

「あい・こぴー。ご指導感謝します、ランサー」
「礼を言われるようなことじゃないさ。モノにできるかどうかは結局マキナちゃんの頑張り次第なんだからな。
 ま……首尾よく強くなれたらその時改めて言ってくれ。そしたら俺も鼻が高いからよ!」

 もう一度こくん、と頷いて。
 マキナはヤドリバエの方を見た。

「というわけで当機は貴女に先駆けて、これより実戦訓練に臨みます。貴女も頑張って下さい、おチビさんのアサシン」
「はーーーーー!!?? なんですかその先輩ヅラは! よぅし表に出なさい! 蝿王様パワーでけちょんけちょんにしてやります!!」
「臨むところです。新造の神に古い悪魔では及べないことをお見せしましょう」
「お見せするな」

 ナシロに倣って(でも、ちょっと弱めの力で)マキナの頭にぺしっとチョップを落とす鉄志。
 それを指差して笑っていたら、何故か同じく弱めの力でチョップを落とされるヤドリバエ。
 「あなたは何なんですか!?」と抗議されて、「すまない。ただ、こうした方がバランスが良いかと思った」と弁明する河二。
 にわかに騒がしい食卓の面々を眺めながら、最後の一切れになったピザを豪快に頬張り見守るエパメイノンダス。

 ……こうして。欠落を抱えた者達とそのサーヴァントによるつかの間の平和は、なんとも賑やかに続いていった。



◇◇



 受話器を置いて、金髪の男が腕を組んだ。
 その室内は薄暗く、どこか胡散臭い裕福さで彩られている。
 男の顔/名前はアンドレイ・ダヴィドフ。
 白鷺教会の神父であり、今しがた琴峯ナシロへ電話を掛けていた心優しい聖職者その人。

 それを疑われたことは一度もない。
 いや、疑った者は皆死んできた。
 琴峯夫妻はいい線まで行っていたが、最後の最後まで結局この顔へ疑いを向けることはできなかった。
 事故に見せかけて代行者の夫婦を葬った涜神者は、ふむ、と声を漏らす。
 雪村鉄志の推理は正しい。ニシキヘビは実在し、その影は今も都市で這いずり続けている。
 星々の神話とは違う、ただおぞましく不愉快なサスペンスストーリー。
 蠢く蛇は、支配欲に憑かれた現代の魔人は、ナシロとの通話内容を反芻し――

「直情的で自分本意な性格。〈はじまりの聖杯戦争〉に列席した七人のひとり……。
 となると、楪依里朱のサーヴァントはやはり〈蝗害〉かなぁ。
 やれやれ面倒だな、アレは流石の僕もあまり関わり合いになりたくない手合いなんだが」

 ナシロが語った"楪依里朱"の人物評だけで、その従えるサーヴァントを言い当てた。
 神秘の秘匿も人命への配慮も一切皆無な〈蝗害〉の暴虐は、ナシロに聞いたパーソナリティと綺麗に一致する。
 蛇杖堂の暴君が科した時点で生半な課題ではないのだろうと思っていたが、よもやこれほどとは。
 これにはさしもの蛇も嘆息する。いつ殺そうか、蛇杖堂(アレ)……と本気で考える程度には、面食らわされた形だ。

「それに……琴峯教会に客人ねぇ。まさかとは思うが雪村くん、もう同類を探り当てたのかな?
 だとすればややもすると、高乃家の次男坊も合流してても不思議じゃないね。
 どうにも運命とやらは、僕を終わった話に近付けたがっているようだから」

 蛇は狡猾で用心深い。
 ナシロとの些細なやり取りで、琴峯教会に来客がいることを暴き出し。
 更に通話越しに聴力を集中させることで、それが複数人であることも看破した。
 具体的に誰の声であるかまでを聞き分けられなかったのは、彼ら彼女らにとって幸運だったに違いない。
 しかしだとしても、この時点で彼らの追うニシキヘビは、藪の中を見据える影が既に結集し始めている気配を感じ取ってしまった。

「どうしたものかね。泳がせるか、それともアーチャーに教会ごと吹き飛ばさせ揺さぶってみるか」

 辿り着いてみろ、と先刻語った口で、速やかで無駄のない排除択を思案する。
 それも彼の中では矛盾ではない。自分の所有物をどう使うかは自由だという理屈が当たり前に成り立っているから、その相反する思考を疑いもしない。

「ま、どうするにせよ……そろそろ僕も出てみようか。舞台、ってやつにね」

 金の長髪を両手でかき上げて、それと同時に今度はまた別なことを考える。
 さあ、どの顔を使おうか。
 幸いにして手札は無数。有名無名を問わないのなら蛇の顔は千を超えている。
 融通の利く身分を優先する? 悪くない。そういえば最近、芸能分野に関わらせている顔が妙な干渉を察知していた。
 誰も知らない顔を使ってみる? これもいい。無名とは誰の視界にも映っていないということ。どう育てるも思いのままだ。
 どちらも魅力的な択ではあったが、蛇が今回選んだのは――黒髪の、大人ではあるがまだあどけなさを残した女性の風貌だった。

 母体がよかったのか胤が優れていたのか、定かではないが顔の造形は実に佳い。
 背丈はやや小柄。女性として見るのであれば、平均的。
 体格は細身で、なのに貧相さを感じさせない。
 そんなうら若く美しい女の顔を、蛇は選択した。

「――役柄(ロール)は偶然〈古びた懐中時計〉を手にし、この都市に迷い込んだ非業の人。
 幸は薄く、しかし人並みの善性を忘れない。特定の願いよりも自分と、できるだけ多くの命の生存を選ぶ。
 懐中時計により開花した魔術は……そうだな、オーソドックスに身体強化にでもしておこう。
 四肢を柔軟に撓らせ、蛇のように敵を打ち砕き時に絡め取る。うっかり力を出しすぎないように気を付けないとだけど」

 その顔を知る存在は、蛇に喚ばれたやさぐれた疑神のアーチャーのみである。
 都市では何の身分も持たず、誰にも知られてはおらず、すべてと縁を持たない女。
 そう、誰も知らない。彼女の父であった男さえ、例外ではない。


 ――だって"彼"は、この魂(モデル)を大人にしてやれなかったのだから。


「えと、はじめまして。蛇杖堂絵里っていいます、わたし……あ、サーヴァントはアーチャーです……!」


 名前は悪意(リスペクト)を込めてそのままに。
 苗字は、面倒を押し付けてきたことへの当てつけでこれをチョイス。
 蛇杖堂の家に生まれ落ちながら、娘が道具になることを拒んだ親によって逃がされ、魔術の存在を知らずに市井で育った善良な子。
 蛇杖堂絵里。"雪村絵里"という少女の魂を使って生み出した新たな顔(ロール)で、〈支配の蛇〉は朗らかに笑った。



◇◇



【世田谷区・琴峯教会/一日目・夕方】

【雪村鉄志】
[状態]:健康
[令呪]:残り三画
[装備]:『杖』
[道具]:探偵として必要な各種小道具、ノートPC
[所持金]:社会人として考えるとあまり多くはない。良い服を買って更に減った。
[思考・状況]
基本方針:ニシキヘビを追い詰める。
0:今後はひとまず単独行動。ニシキヘビの調査と、状況への介入で聖杯戦争を進める。
1:ニシキヘビに繋がる情報を追う。
2:同盟を利用し、状況の変化に介入する。
3:〈一回目〉の参加者とこの世界の成り立ちを調査する。
4:マキナとの連携を強化する。
5:そうか、お前らも――
[備考]
赤坂亜切から、〈はじまりの六人〉の特に『蛇杖堂寂句』、『ホムンクルス36号』、『ノクト・サムスタンプ』の情報を重点的に得ています。

【アルターエゴ(デウス・エクス・マキナ)】
[状態]:健康
[装備]:スキルにより変動
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:マスターと共に聖杯戦争を戦う。
1:マスターとの連携を強化する。
2:目指す神の在り方について、スカディに返すべき答えを考える。
3:信仰というものの在り方について、琴峯ナシロを観察して学習する。
4:おとうさま……
5:必要なことは実戦で学び、経験を積む。……あい・こぴー。
[備考]
※紺色のワンピース(長袖)と諸々の私服を買ってもらいました。わーい。


【高乃河二】
[状態]:健康
[令呪]:残り三画
[装備]:『胎息木腕』
[道具]:なし
[所持金]:それなり(故郷からの仕送りという形でそれなりの軍資金がある)
[思考・状況]
基本方針:父の仇を探す。
1:同盟を利用し、状況の変化に介入する。
2:琴峯さんは善い人だ。善い報いがあって欲しいと思う。
3:ニシキヘビなる存在に強い関心。もしもそれが、我が父の仇ならば――
[備考]
※ロールとして『山梨からやってきた転校生』を与えられており、少なくとも琴峯ナシロとは同級生のようです。
※雪村鉄志から『赤坂亜切』、『蛇杖堂寂句』、『ホムンクルス36号』、『ノクト・サムスタンプ』並びに<一回目>に関する情報と推論を共有されています。

【ランサー(エパメイノンダス)】
[状態]:健康
[装備]:槍と盾
[道具]:革ジャン
[所持金]:なし(彼が好んだピタゴラス教団の教義では財産を私有せず共有する)
[思考・状況]
基本方針:マスターを導く。
1:同盟を利用し、状況の変化に介入する。
2:琴峯ナシロは中々度胸があって面白い。気に入った。
3:カドモスと会ってみたいなぁ!
[備考]
※カドモスの存在をなんとなく察しているようです。


【琴峯ナシロ】
[状態]:健康、動揺
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:修道服
[所持金]:あまり余裕はない
[思考・状況]
基本方針:教会と信者と自分を守る。
0:はぁ。切り替えないと、な……。
1:信者たちを、無辜の民を守る。そのために戦う。
2:なんか思ったより状況がうまく運んでちょっと動揺。
3:教会を応援に任せるのが心苦しい。
4:ニシキヘビ……。そんなモノが、本当にいるのか……?
[備考]
※少なくとも高乃河二とは同級生のようです。
※琴峯教会は現在、白鷺教会から派遣されたシスターに代理を任せています。
※雪村鉄志から『赤坂亜切』、『蛇杖堂寂句』、『ホムンクルス36号』、『ノクト・サムスタンプ』並びに<一回目>に関する情報と推論を共有されています。
※ナシロの両親は聖堂教会の代行者です。雪村鉄志との会話によってそれを知りました。

【アサシン(ベルゼブブ/Tachinidae)】
[状態]:健康、むかむか
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:聖杯を手に入れ本物の蝿王様になる!
1:ナシロさんが聖杯戦争にちょっと積極的になってくれて割とうれしい。
2:あんなチビっこ神霊には負けませんけど!蝿の王なんですけど!修行すらやぶさかじゃないですよむきーーーー!!!!
3:ナシロさん、らしくないなぁ……?
[備考]


[全体備考]
※雪村鉄志により、ニシキヘビの存在が共有されました。



【???/一日目・夕方】

神寂縁
[状態]:健康、『蛇杖堂絵里』へ変化
[令呪]:残り3画
[装備]:様々(偽る身分による)
[道具]:様々(偽る身分による)
[所持金]:潤沢
[思考・状況]
基本方針:この聖杯戦争を堪能する。
0:うん。そろそろ舞台に上がろうか。
1:楪依里朱に興味。調べて趣味に合致するようなら、飲み込む。
2:蛇杖堂寂句とは当面はゆるい協力体制をとりつつ、いつか必ず始末する。
3:ナシロちゃん周りのことについては……どうしたものかねぇ。
[備考]
※奪った身分を演じる際、無意識のうちに、認識阻害の魔術に近い能力を行使していることが確認されました。
 とはいえ本来であれは察知も対策も困難です。

※神寂縁の化けの皮として、個人輸入代行業者、サーペントトレード有限会社社長・水池魅鳥(みずち・みどり)が追加されました。
 裏社会ではカネ次第で銃器や麻薬、魔術関連の品々などなんでも用意する調達屋として知られています。

※楪依里朱について基本的な情報(名前、顔写真、高校名、住所等)を入手しました。
 蛇杖堂寂句との間には、蛇杖堂一族に属する静寂暁美として、緊急連絡が可能なホットラインが結ばれています。

※赤坂亜切の存在を知ったため、広域指定暴力団烈帛會理事長『山本帝一』の顔を予選段階で捨てています。
 山本帝一は赤坂亜切に依頼を行ったことがあるようです。

※神寂縁の化けの皮として、マスター・蛇杖堂絵里(じゃじょうどう・えり)が追加されました。
 雪村鉄志の娘・絵里の魂を用いており、外見は雪村絵里が成人した頃の姿かたちです。
 設定:偶然〈古びた懐中時計〉を手にし、この都市に迷い込んだ非業の人。二十歳。
    幸は薄く、しかし人並みの善性を忘れない。特定の願いよりも自分と、できるだけ多くの命の生存を選ぶ。
    懐中時計により開花した魔術は……身体強化。四肢を柔軟に撓らせ、それそのものを武器として戦う。
    蛇杖堂家の子であるが、その宿命を嫌った両親により市井に逃され、そのまま育った。ぜんぶ嘘ですけど。



前の話(時系列順)


次の話(時系列順)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2025年04月29日 16:28