楪依里朱は思考する。
 今日は少し、感情に囚われすぎていた。
 ライダーの独断と失敗。
 小動物に手を噛まれる不測。
 そして、天の星との再会。
 思い出しても胸の奥がドロついてくる記憶の数々をどうにか理性で押し退けて。
 依里朱は、少しだけ冷えた頭でスマートフォンを点けた。
 現在時刻。十七時四十五分。小さく指先でこめかみを小突いて、傍らで炭酸飲料の缶を傾ける飛蝗に問いを投げる。

「本調子に戻るまであとどのくらい?」
「ん? あー、そうだな。もう三十分ってとこじゃねえの?
 病院じゃ一枚食わされたが、別に痛い目遭わされたわけじゃねえからなー。
 さっきのオッサンと揉めたの含めても、まあそのくらいだろ」
「そ」

 日没程度には、と聞いていたが実際その憶測と大差ないらしい。
 直に、シストセルカ・グレガリアが復活する。
 都市を喰らい、世界を犯す、〈蝗害〉の嵐が再動する。
 太陽へ翔んで失った羽根は血肉と性交で蘇り、砂漠の暴食者達が幅を利かせる時代が来る。

 それすなわち、この聖杯戦争における"最大戦力"の再臨を意味していた。
 神寂祓葉という例外中の例外を除き、虫螻の王は純粋武力において最強格だ。
 その総軍を一点に束ねでもすれば、たとえ本物の神霊だろうと瞬きの内に食い尽くす。

 状況は悪くない。むしろこれから、時間が経つにつれてどんどん良くなる。
 〈蝗害〉で都市は虱潰しに荒らされ、あぶり出された演者は餌として彼の腹の中。
 どんな策略も備蓄も、結局のところイリスの持つ暴力の前には意味を成さない。
 "天敵"だ。前回の聖杯戦争では終始翻弄される側だった彼女が、今度は猪口才な策のすべてを踏み潰す。
 暴力という世界でもっとも効率よい無法で、溜飲という溜飲を下げてやろう。

 それはいい。
 だが、飛蝗の武力に胡座を掻いて思考停止できるほどイリスは怠惰にはなれなかった。
 というより彼女は、基本的に真面目なのだ。言うなれば優等生タイプで、だからこそ反則上等の前回ではいつも割りを食わされた。
 こんなナリと性格はしているが、その価値観や思考回路は〈はじまり〉に列せられたマスター達の中でも群を抜いて月並みである。

「じゃあ、次は誰を潰すかだな……」

 そんなイリスが考えたのは、次なる標的を誰にするべきか。
 無論、彼女の殺意は主に自分と同じ〈はじまりの六人〉、祓葉の衛星達へと向けられている。
 単純な私怨もあるが、そうでなくても彼らは生かしておくには危険すぎる。
 時間を与えれば与えるほど肥え太って手が付けられなくなっていく手合いだ。
 可能なら日付が変わるまでには、最低でもひとりの首は獲っておきたい。では、今一番欲しいのは誰の首か。

「強さだけで言うならジジイ。でもアイツ、絶対同じ轍を踏んじゃくれないだろうから――少し様子を見たいな。
 ホムンクルスはガーンドレッドの根暗どもがいるのかどうかで評価が変わるけど……」
「え。お前結構独り言うるさいタイプ? 急にブツブツ言い出すからびっくりしたんだけど」
「食欲一辺倒の馬鹿は黙ってなさい」
「ちぇッ。頭に血ぃ昇ったメンヘラ女を優しくエスコートしてやったのはどこの誰でしょうかねぇ…………って、あ」
「今度は何」
「いや。何だっけ? ガーンドレッド? それ聞き覚えあるわ。何だっけな……えーっと脳ミソのこの辺に……」

 人型を成したそのこめかみに指を突っ込んでぐりぐり抉れば、空いた穴から茶色い飛蝗が這い出てくる。
 グロテスク通り越して冒涜的ですらある光景もイリスはもう見慣れた。
 そもそも山間の集落育ちなので、虫なんて隣人みたいなものだったのもあるかもしれない。

「ああ、あったあった。
 そいつらな、なんかあのホムンクルスが自分でブッ殺したらしいぞ」
「……、はぁ?」
「いや、マジマジ。仲間(おれ)が窓に貼り付いて聞いた情報だぜ、間違いねえよ」

 ガーンドレッドの人形が時を同じくして病院へ訪れていたのはイリスとしても予想外だった。
 だからこそ先刻シストセルカから聞いた時には気を引き締めたものだ。
 やはり自分以外も皆動いている。出遅れれば、祓葉の遊戯場ではたちまち席を失う。
 そう思う一方で、何故、と疑問に抱くこともあった。

 ホムンクルス36号というマスターは、イリスの知る限りただの傀儡である。
 人形、要石。ある家が聖杯を勝ち取るために用立てた人柱。彼に限ってはそれ以上でも以下でもないと断言できる。
 逆に言えば、あのホムンクルスは彼らの陣営のアキレス腱なのだ。
 前線で何があろうと気に留めず済むだけの人員と備えがある一方で、マスター役の人形を落とされれば瞬時に崩壊する。
 だから前回は常に奥地に隠されていたし、言うなればそうやって扱うべき存在。
 なのにそんな人形が、何だって蛇杖堂寂句の膝元という特級の危険地帯にわざわざ顔を出しているのか。

 不思議には思ったが、それよりも"前回のアサシン"――ノクト・サムスタンプの相棒がまた喚ばれていることのインパクトの方が大きかった。
 だからごく自然な流れで思考の奥底に追いやられてそのままになっていたひとつの不可解。
 それが今、シストセルカから告げられた予想外の事実によって氷解する。
 もっともこれも結局、また新たな不可解をひとつ追加するだけに過ぎなかったのだが……

「……何やってんのアイツ。馬鹿じゃないの? 保護者がいなくなったアイツなんて、ただの的でしかないじゃない」
「クソジジイも同じようなこと言ってたぜ」

 祓葉の衛星と化している以上は彼も少なからず灼かれているのだろうが、それにしたって普通に考えればあり得ない択だ。
 蛇杖堂が嘲笑するのも頷ける。それはそれとして同じにはされたくないので、シストセルカの言葉は無視した。

 とはいえ、敵の心情の変化に思いを馳せていても仕方がない。
 とりあえず確定したことは、ホムンクルスは後回しでいいということだ。

「何、アイツそんな弱えのか? 俺ぁ魔術師ってのにはそう詳しくねえけどよ、なんか目からビームとか出せねえのかよ」
「アレを生み出したガーンドレッド家ってのはね、兎にも角にも小心者の集まりだったの。
 そんな玉無し連中がわざわざ反旗を翻されるリスクなんて残すわけないでしょ」
「人間ってのは情けねえなぁオイ。それならあの場で、多少無理してでも食ってくればよかったぜ」
「かもね」

 ホムンクルス36号に戦闘機能が搭載されていないことは知っている。
 おまけに瓶の外にも出られない、一切の自立を考慮に入れない造りの生命体だ。
 それが何を思ったか親殺しを働いた。その結果、アサシンをわざわざ前線に出さざるを得ないほど状況的に困窮している。
 であればわざわざ躍起になって殺しに行くまでもない。遠からぬ内にどこかで野垂れ死ぬだろう。

 ホムンクルスはもはや見ずともいい。
 蛇杖堂は静観を要する。
 アギリとは当座、進んで揉める必要がない。
 となると残る顔はふたつ。

「ノクトと〈脱出王〉、か。ものの見事に面倒どころが残ったな……」

 ノクト・サムスタンプと〈脱出王〉ハリー・フーディーニ
 イリスでなくとも、誰だろうが難しい顔をする。
 前回の聖杯戦争に名乗りを上げた曲者どもの中でも、群を抜いて厄介な怪人どもである。

 さあ、どちらを殺すか。
 もとい、"狩る"か。
 相性なら圧倒的に前者だ。策士は誰ひとり蝗の物量に耐えられない。
 しかし放置したくなさなら後者も負けていない。奇術師の跳梁が予想を超えた結果を生むのは知っている。

 右か左か。
 北か南か。
 白か黒か。

 深まる思考の渦。
 研ぎ澄まされる逡巡の線。
 それを途切れさせたのは、無機質な電子音だった。
 ぴろん。そんな音を立てて、手の中のデバイスが振動する。

 なんだよ、間の悪い――。
 そう思いながら画面へ再び視線を落として。
 それとは別な意味で眉根が寄った。
 そこにあったのは、トークアプリの通知。


『〈NEETY GIRL さんからメッセージが届いています〉』


 イリスがこの都市で、ほんの暇潰しにプレイしていた狩猟ゲーム。
 それで"多少"打ち解けたから、時々一緒にクエストへ足を運んでいたプレイヤーの名前がそこにあった。
 数刻前の煩わしい記憶が蓋をした脳裏の奥から這い出てくる。
 あの時いっそブロックでもしておけばよかったなと、そう思いつつアプリを起動。


『NEETY GIRL:いーちゃん』
『NEETY GIRL:さっきはごめん』
『NEETY GIRL:今時間ある?』
『NEETY GIRL:その』
『NEETY GIRL:ちょっとお話したいんだけど』
『NEETY GIRL:よかったらお返事ほしいなー……』
『NEETY GIRL:なんて』


 ……すると、複数件のメッセージが一気に表示された。
 時間を見れば、ちょうどイリスがレミュリン・ウェルブレイシス・スタールと交戦していた時間帯だ。
 返信がないものだから定期的に送ってきていたらしい。
 らしいというか、なんというか――自分が返事などする殊勝な人間に見えたのだろうか。
 そんなことを思いながら文面に目を通していく中で。


『NEETY GIRL:いーちゃんさ』


 おもむろに。


『NEETY GIRL:聖杯戦争って知ってる?』


 そんなメッセージが目に入ったものだから――楪依里朱は思わず、その場で硬直してしまった。


「は……?」

 聖杯戦争。
 およそ画面の向こうのこいつから、〈NEETY GIRL〉から出てくる筈のない単語。
 流行りのアニメや漫画に同名のものでもあるのかと思った。が、すぐにそんなわけがないと考えを改めた。
 確かにこの光の箱庭は奇跡や偶然、そういうものを好んでいるのかもしれない。
 だが、だからこそ、こんなすれ違いは起こり得ないとイリスの直感がそう告げていた。

 ――聖杯戦争。
 ――こいつも、マスター?
 ――ほんの偶然知り合った、こいつが?
 ――なら、いつから。
 ――いつからこいつは、私が"そう"だと知っていた?

 ぐるぐる、ぐるぐる。
 疑問符の踊る脳みそは思考を停滞させる。
 驚愕と、一方的に自分の素性を知られていたらしいことへの強い危機感。
 ふたつの感情が綯い交ぜになって、イリスに返信の手を動かさせない。
 だが最近のトークアプリは便利なもので、読んだ瞬間に既読の通知が相手に届く。
 メッセージなど無視してやるつもりで開いたことが災いし、まんまとイリスが文言を読んだ事実は相手に届いていて。
 それを確認したのだろう。すぐに、追ってのメッセージが届き彼女の端末を震わせた。


『NEETY GIRL:わたしはマスターだよ』
『NEETY GIRL:もし覚えがあったら、通話かけてきてほしい』


 思えば、通話とかVCとか、そういう煩わしいことを言い出さないからこいつとつるんでいた気がする。
 その前提が今崩れた。いやそれ以前に、今や〈NEETY GIRL〉は楪依里朱にとって得体の知れない"敵"へ変わっている。
 であればこそ、此処で無視を決め込む選択肢はなかった。
 〈NEETY GIRL〉の魂胆を突き止めなければならない。
 そうでなければ自分は、得体の知れないネット上の存在に警戒を抱いたまま戦い続けていくことになる……!


『NEETY GIRL:いーちゃん』
『NEETY GIRL:だめ?』


 だから、そう。
 こんなガキの泣き落としみたいな言い草は関係ない。
 まるでどこかの誰かのようなやり口など、誓ってただの戯言だ。
 〈未練〉の狂人に揺さぶりは通じない。
 見据える未来をひとつに絞った黒白の魔女は、迷わないし過たない。
 指先で、通話の発信ボタンをタップする。
 コール音が響き、画面に発信中の旨が表示される。

「なんだよ怖ぇ顔して。今度は浮気相手と修羅場んのか?」

 口を挟んでくる虫螻は後で必ず分からせると誓いながら、自分で通話を求めてきた癖になかなか出ない〈NEETY GIRL〉に苛立つ無駄な時間。
 それを経ること、三十秒弱。画面が変わり、〈NEETY GIRL〉のアイコンが表示される。目隠しをした白髪の男。流行りのナントカっていう漫画に出てくるキャラクターらしい。興味もない。
 付き合いは三週間かそこら。少なくとも一ヶ月には絶対に満たない。
 けれどこの通り誰に対してもツンケンしていて、およそ人受けする性格ではないし本人もそれでいいと思っているのがイリスだ。
 たとえそれがゲームチャットの、テキスト上のやり取りだったとしても――それは、地金を晒して付き合えた数少ない人間関係のひとつだった。

 〈NEETY GIRL〉が聖杯戦争の関係者だと分かった時。
 覚えたのは、本当にただの驚愕だったろうか。それともある種の、落胆だったろうか。
 今となっては知るすべもなく、何よりイリス自身がそれを望んでいない。
 だからこそすべては茶碗の中から始まる。結末、得体を綴られずして終わったあの怪談のように。


『――も、もしもし……。え、っと……いーちゃん、だよね……?』


 端末越しに響く、自分から通話に誘ってきたとは思えないほどおっかなびっくりな声を聞きながら。
 文字通りまっさらな心境のまま、楪依里朱は運命の数奇さに無遠慮な舌打ちを響かせたのだった。



◇◇



 天枷仁杜は、ぼんくらである。しかし凡人ではない。
 むしろ本質的には敏い部類で、天才と言っても間違いではない。
 というかそうでなければ、日本の最高学府と言われる大学にフルスコアで入学など出来はしない。
 なのに普段の仁杜は見るに堪えない、見るも無残なぼんくらそのもの。
 この齟齬(ギャップ)にはひとりの親友を含め誰もが悩まされてきた。そして実のところ、その解答はごく単純である。

 天枷仁杜は、よほど必要に迫られない限り本気を出せないのだ。
 言うなれば危機感の欠如。本当ににっちもさっちもいかなくならないと本気になれない。
 駄目人間のお手本あるいは極み。もしくはそれ以上の――語る言葉の存在しない銀河の彼方。

 そんな彼女がさっき、久しぶりに少しだけ頑張った。
 ネットゲーム上の関係から、願いを争う戦いの因果を見出し。
 そして小都音と薊美のふたりにひとつの疑問を提起した。
 これだけでも自堕落、他力本願、他責思考の仁杜にとっては自画自賛ものの働きだったが。

 今の仁杜には、もうちょっとだけやる気がある。
 なのでもうひとつ、密やかな行動を起こしていた。
 現在、仁杜は自室のトイレにいる。
 小都音達にはおなかが痛いとだけ言って、本当の理由は伝えていない。

 小都音も薊美も、とても頭のいい子たちだ。
 仁杜にはああいう筋道立てた考え方はできない。
 けれどだからこそ、彼女達にこれからやろうとしていることを伝えたら程度はどうあれ"途中式(ラグ)"が生まれてしまうと思ったのだ。

 それはきっと、"あの子"と話そうとする上ではとてもよくない。
 短気、感情的、いつもちょっとふて腐れている。
 思春期の擬人化みたいなあの子は、自分達に相談の時間を許してくれないと思った。
 むしろそのわずかなラグでくるりと選択を反転させてしまいそうな怖ささえある。
 だからこそ仁杜が選んだのはあえての単独行動、最短ルートでの対話決行だった。

 コール音が途切れる。
 耳に当てた端末から、遠いどこかの喧騒がかすかに聞こえてくる。
 相手は沈黙していた。もしもし、もはじめまして、もなしだ。
 よって意を決し、コミュ障ニートが自分から切り出す必要があった。

「――も、もしもし……。え、っと……いーちゃん、だよね……?」

 天枷仁杜の交友関係は極めて狭い。
 というか、友達なんて高天小都音を除けば今も昔もまったくいない。
 伊原薊美は相手が歩み寄ってきてくれたからまともに話せただけで、どちらかというとそれは誰にでも"自分"をねじ込める薊美の才能だ。
 ロキは例外。カインやカスターとも一対一で話すとなると、たぶんちょっとぎこちなくなる。
 そんな仁杜にとって、ネット上でしか付き合いのないゲーム仲間といきなり通話というのは自分で持ちかけておいてなんだがかなりハードルの高い行為である。

 心臓はずっとどきどきしているし、心なしか呼吸も浅い。
 スマホを握る手はヘンに汗ばんでいる。
 けれど、今だけはいつもみたいに逃げ出すわけにもいかなかった。
 なので耳を欹てて、通話の向こうから聞こえる音に神経を研ぎ澄ませ――


『いつ気付いた?』
「っ」


 初絡みの第一声としてはあまりにも不躾な台詞が、その耳朶を揺らした。
 声色には警戒を通り越して明確な敵意がこれでもかと込められている。
 一言で言うなら、威圧的。相手がどう思うかなど考えないし、考える意味もないとばかりの物言い。

『最初から? それとも途中で? 私の魔術を知ってれば、まあ絡む内に気付けても不思議じゃないとは思うけど』
「あ……その、えと……」
『で、用件は? 宣戦布告ってわけじゃなさそうだけど。
 何、一方的に弱み握って転がせるとでも思ってた? やってみなよ、こっちは悪いけど痛くも痒くもないから』
「あっ、ちがくて、その、あの……」

 分かっていたことではある。
 予想できたことではある。
 ゲーム上のやり取りと、小都音達から伝え聞いた人物像。

 果たして、その悪い予想は的中した。
 通話の相手、〈Iris〉。白黒の魔女たる、仁杜の友人。
 文面でならいざ知らず、直接言葉を交わすとなると、彼女はとても。
 そう、とっても――コミュ障ニートと相性の悪い相手だった。

『……あのそのえっとじゃ分かんないんだけど。
 そっちが話そうって誘ってきたんでしょ? ボンクラなのは分かってたけどさ、せめてこっちの質問にくらいは答えてくれない?』

 わたわたと混迷する脳みそで言葉を絞り出す、その時間を待ってくれない。
 次から次へと機嫌のままに喋ってくるし、一言一言にやたらと棘がある。
 相手の事情や弱さに寄り添うことを知らないし、知ったことかとばかりの姿勢を貫いてくる。
 表面上は優しく接してくれる職場の人間とすらやり取りに難儀する仁杜が対峙するには、たとえ通話越しでも非常に厳しい相手であった。

 早く答えろと迫られても、いやむしろ急かされるほどに仁杜の頭はくらくらしてくる。
 既に脳裏には通話を切って"なかったこと"にする選択肢が現実的なものとして浮かび上がってきてる。
 ことちゃーん、薊美ちゃーん!とわんわん泣きながら助けを求めるサブプランもひょっこり顔を出している。
 どうしよう、どうしよう。大混乱のぼんくらニューロンが解を弾き出すのを、しかしやっぱり〈Iris〉は待ってくれなかった。

『ああ、なるほどね。そういうことか』
「……、……えっ?」
『喫茶店のあいつらの知り合いね、あんた』

 あぅ、と思わず声が漏れた。
 当然、その情けない声は雄弁に正解を物語る。

『ちょうどよかった。来るなら来れば? 私もあの軍人野郎に恨みがあってね。
 うちのサーヴァントも戻ってきたことだし、もう一回揉めるのも悪くないかも。
 そろそろひとつふたつは演者(アクター)どもの首を獲っておきたいと思ってたんだ』
「う、ぁ、あう、ううううう……」
『――はあ。何、あんた。私をおちょくるためにわざわざ連絡してきたの?』

 この時点で、仁杜は手札を隠しながらの攻防とかそういうあれこれを全部諦める羽目になった。
 仁杜はオタクである。少しずつカードを開示しながら心理戦を演じるシチュエーションに憧れがなかったと言えば嘘になる。
 けれど実際やってみてすぐに分かった。悟った。アレは二次元の超絶頭いいイケメンや美少女がやるから成立するのであって、こんな職なし金なし人望なし、テストはだいたい一夜漬けみたいなヒキニートが真似できることではないのだと。

 とはいえ、このまま自分があうあうしていたら〈Iris〉は程なく痺れを切らして通話を切るだろう。
 それだけは避けねばならなかった。小都音や薊美に内緒で決行した手前、自分の勝手で今後のプランをひとつ潰すのは最悪の事態だ。
 だから仁杜は、ごく、と生唾を飲んで覚悟を決めた。
 そして――

「ふ……」
『……ふ?』
「――祓葉ちゃんの、ことなんだけど」

 ――アクセルを、踏み込んだ。

 仁杜は人の心にそこまで敏感ではない。
 むしろ鈍感な方である。そうでないと職場であそこまで好き勝手はできない。
 自分のせいでしわ寄せを食らう同僚の気持ちなんて仁杜にはわからないのだ。
 だから、これは小都音達の話を聞いて彼女なりに見出した勝算に基づく行動だった。
 〈Iris〉は、〈祓葉〉と知人である。殺し合いをしたかと思えば、現れた敵に対しては長年連れ添った相棒のように息を合わせて対処する。

 じゃあ、なんで殺し合いをしていた?
 聖杯戦争の敵同士だから? きっと違う。
 仁杜は魔術師ではない。足を踏み入れた聖杯戦争の世界に対して抱いた率直な印象は"漫画みたいだな"である。

 当たり前みたいに異能力者や、人智を超えた存在がほっつき歩いている。
 自分の傍には強くて頼れる妖しいイケメンがいて、無二の親友もマスターで、更にそこへ仁杜でさえ見惚れそうになるイケ女子まで現れて。
 挙句の果てに舞台の街は災いに見舞われており、そんな世界の中でも別格の祓葉なんて存在まで出てきた。
 あまりにもフィクショナル。あらゆる常識が無視され、因果と因果が結びついて綾模様を描く現実離れの極み。

 常人なら面食らうところであろうが――、天枷仁杜は日々数多の創作物(フィクション)を摂取して日々の癒やしとしてきた"オタク"である。

 よって仁杜は順応する。
 聖杯戦争の不条理に。そして、時を同じくし大切なものを奪われた者達が認識していた"運命"の存在に。
 すべてがフィクションのノリで繰り広げられる異界なら、ハナからそのつもりで考察・推測していけばいい。
 そうして祓葉と〈Iris〉の関係性へ想いを馳せた時、仁杜の脳裏に浮かんだのはこんなビジョンだった。


 前回の聖杯戦争でたまたま出会い、なし崩し的に共闘を続けていたふたり。
 その旅路は多難だったが、ふたりは二人三脚で寄せ来る脅威を乗り越え進んでいく。
 しかし、そんなジュブナイルは根本からして致命的なまでに歯車をかけ違えていた。
 それに気付いた時には時既に遅し。通じ合ったふたりは引き裂かれ、物語はバッドエンドで幕を閉じる。

 そうしてバッドエンドのその先で巡り合ったふたりは、見るも無残に噛み合わない。
 ひとりは依然地続きの関係をやろうとしていて、けれど裏切られたもうひとりはそうじゃない。
 だから殺意を向けるが、それはそうと共に戦った記憶だけは嘘じゃないから共に戦えば皮肉なほどの連携を発揮できる――。

 "ありそう"な設定を脳内で構築して、それを通話越しの〈Iris〉に当て嵌める。
 もちろんそのすべてを適用することはできないだろうが、だとしても大枠はこうだろうと仮定してアクセルを踏んだ。
 仁杜としてもこれは賭け。的外れだったなら呆れられてもおかしくないし、最悪このまま何も得られずに終わる可能性もある。


 果たして、ニートの浅知恵で投げられた賽はどんな目を出したのか。
 その答えは、他でもない〈Iris〉の反応が雄弁に物語っていた。


『――――』


 息を呑むようなことはしない。
 分かりやすい反応も、してはくれない。
 でも、仁杜が出したその名前を聞いた彼女は確かに数秒沈黙した。
 それをもって仁杜は理解する。自分の推測は恐らく、八割がた正しいと見て相違ない。

 〈Iris/イリス〉は〈祓葉〉に執着している。
 たぶん、自分達が思っているよりもずっと深く。
 少し名前を出されたくらいでも、まんまと面食らってしまうくらいには筋金入りである、と。

『……おまえ――』
「わたし達は、祓葉ちゃんに対抗する手段を探してる。
 理由は、分かるでしょ。そんなチーターのいる環境でまともに戦ってたら、普通じゃどうにもなんないよ」

 仁杜はいろんなゲームをプレイする。
 オンラインゲームにはチーター、と呼ばれる不正行為者の存在が付き物だ。
 仁杜が祓葉なる少女について聞き、抱いた印象はまさにそれである。
 ひとりだけルールの中で戦っていない。こっちが真面目にやるのが馬鹿馬鹿しくなるほど強く、正攻法じゃまず勝てやしない異分子。

 では、ゲームでチーターとマッチしたならどうするのか。
 答えはひとつだ。戦おうとしない。おとなしく勝つのは諦める。だって、意味がないから。
 最初から理(ルール)の外で反則をしている相手に、その内側から抗戦したって勝てるわけがない。
 死ねばいいのにと思いながら適当に試合を消化して、不正行為者とマッチした旨を運営に通報する。これがセオリーである。
 けれどこの聖杯戦争には、参加者各位の訴えを聞いてくれる運営など存在しない。
 というかむしろ、その運営が率先してチートを振り翳しているのだから救いようがない。
 ではどうするか。仁杜が行き着いた答えは、やっぱり"正攻法で戦わない"ということだった。


「ねえ、いーちゃん」


 最初から理を外れている存在に、普通の手段で勝負を挑んでも結果は見えている。
 ならどうするか。普通のゲームじゃ推奨されないやり方だけれど、生憎このゲームに助けてくれる運営はいない。
 不服を訴えたところで反則にお咎めはなく、そいつが世界から追放されることもない。
 つまり身勝手な強者に全力で対抗を試みることに、一定以上の意義と価値が保証されている。
 だからこそ、天枷仁杜はなけなしの知恵を振り絞って〈Iris〉への独断での接触という思い切った行動に出たのだ。


「わたし達と、協力できないかな」


 天枷仁杜は現実を見ない。
 しかし、夢の中でなら少し大胆になれる。



◇◇



 ――わたし達は、祓葉ちゃんに対抗する手段を探してる。
 ――わたし達と、協力できないかな。

 〈NEETY GIRL〉の言葉を聞くイリスの顔は険しかった。
 それもその筈。祓葉の名前は、いつ何時いかなる形であってもイリスの地雷である。
 こればかりは、もはや理屈ではない。狂気とはそういう不条理なものだ。
 であればこそ、顔を合わせたこともない赤の他人にそこを揺さぶられるのは彼女にとって不快以外の何物でもなかった。

「理由がない。なんで私があんたらみたいな雑魚の集まりにわざわざ力添えしてやる必要があるの?」

 不機嫌を隠そうともせず、イリスは通話越しの相手に言う。
 〈NEETY GIRL〉は幸運だった。言葉より先に手が出る直情型の魔女も、流石に電波越しに攻撃を届かせる手段は持ち合わせていない。
 故に会話は途切れず続行される。色好い返事など返ってくる筈もなかったが。

「大体私には、あんたを信用する理由もない。
 あんたが喫茶店の雑魚どものどっちと、はたまた両方と組んでるのかは知らないけど。
 あいつらと繋がってるんだったら、さっきあったことは知ってるでしょ?
 私は祓葉と組んで、あんたの仲間達と戦った。その最中に私は傷も負わされてる。
 そもそも交渉役にあの場にいなかったあんたを使ってるって点も気に食わないね。信用されようっていう気概が微塵も感じられない」
『あっ……うぅ、それは、その』
「何よ。ほら、下手くそなりにそれらしい言い訳でもしてみたら?」
『あのふたりに、お話まだ通してなくてぇ……』
「あ……?」

 相手の答えに思わず愕然とする。
 なんだそれは。言い訳にしても下手すぎる。
 下手すぎて、逆に嘘らしさを感じない。
 〈NEETY GIRL〉が喫茶店のあの二主従の両方と組んでいるという大きすぎる情報のインパクトも薄れるほどの衝撃だった。
 頭の痛くなるものを覚えながら、イリスは眉根を寄せつつ確認していた。

「……何。同盟組んでるのに、そいつらに何も相談しないで私にコンタクト取りに来たってわけ?」
『あ、うん……はい。そうなります』
「なんで。アホなの?」
『えぇっと、正直に言ったら絶対あれこれ話し合いになると思って。
 いーちゃん、まどろっこしいのとか待たされるのとか絶対嫌いでしょ? だから思い切ってかけてみたんだけど……』

 その点は否定できない。
 加えて先ほどそれなりに痛い目を見せられた相手がそこにいると知ったなら、イリスは交渉など早々に打ち切っていただろう。
 そういう意味では、〈NEETY GIRL〉の選択は正しかった。
 しかしあまりに向こう見ず。浅慮も甚だしく、呆れるほどにセオリーから外れている。
 そんな不合理に対して、イリスはあまり強くない。今も昔も、こう成り果ててさえも、彼女は根本的には真面目な人間だから。

 ――そうだ。
 "あの女"と過ごした日々も、思えばずっとこんな感じだった。
 一挙一動のすべてが予測を超えてくる。楪の家で事前に叩き込まれた想定が何の役にも立たないくらいしっちゃかめっちゃかな戦況でも、神寂祓葉はずっと楽しそうに笑い、迫る逆境にわくわくしながら順応していた。
 自分の手を引きながら。一寸先も見えないような未知に、晴れ晴れとした顔で駆けていくのだ。
 重なる。重ねてはならないと分かっているのに、重なってしまう。
 自然と顔が更に歪んだ。数時間前に無機質なチャットで交わしたやり取りが否が応にも脳裏をよぎる。

『あと、これがいーちゃんにも悪い話じゃないって理由はもう一個あって』
「……、……」
『あ、ええっとね。怒らないで聞いてほしいんだけど』
「早く言えって。怒ってるか怒ってないかで言ったらもうとっくに怒ってるから」
『ひ、ひぃん……怖いよぉ……』

 こいつが曲がりなりにも同盟なんてものに一枚噛めてる理由が分からない。
 イリスは苛立ちが多分を占める呆れを抱きながら、指先でこめかみを叩いた。
 とはいえただ呆れ、相手は馬鹿なのだからと思考停止しているわけではない。
 確かに聖杯戦争は数奇な偶然や運命の温床だが、だからこそそれが本当に不確かな理由で招かれた事象なのかを推測する必要は大いにある。
 そのことをイリスは前回、文字通り身をもって学んできた。

 少なくともあの時、あの場で――"鍛冶師のセイバー"と"騎兵隊のライダー"、及びそのマスターふたりの間に面識がある風には見えなかった。
 赤の他人同士が自分と祓葉という脅威を前に、なし崩し的に手を組んで共闘しているような様子だったと記憶している。
 "この"聖杯戦争の恐ろしさを理解した彼ら彼女らが撤退後に同盟を結んだとするなら、それは理解できる。

 だがそこに何故〈NEETY GIRL〉が絡んでくるのか。
 事前にもう組み終えていた? それとも……

(……私とあいつみたいに、元からの知り合いだったって可能性もあるな)

 というか現状、理屈を求めるならそれが最も合理的だ。
 チャット越しでも分かるダメ人間の〈NEETY GIRL〉と、聖杯戦争に呼ばれる以前から縁のある気の毒な誰か。
 そんな人物が何の因果か、あの喫茶店で戦った主従のどちらかにいたとしたらすんなり話が通る。
 自分と祓葉のように。いや、喩えとしては赤坂亜切とレミュリン・ウェルブレイシス・スタールを例に出した方が適切かもしれない。

『えっとね、間違ってたらごめんなんだけど。
 いーちゃんのサーヴァントって、たぶん〈蝗害〉だよね』
「……なんでそう思うの?」
『もう隠す意味もなさそうだから言っちゃうけど……その、わたしと一緒にいる子たちが話してたんだ。
 いーちゃんと祓葉ちゃんのどっちかが蝗害だろうって。
 人目を気にせず暴れ回れるくらい自信いっぱいなマスターなら、〈蝗害〉のマスターの人物像とも一致するって』

 考察するイリスをよそに、電話越しの声は相変わらずおどおどと。
 けれどその割にはやけに淀みなく、すらすらと自分の考えを伝えてくる。
 自信があるのか、ないのか。今ひとつ掴みどころのないその在り様に改めて苛立ちが湧いた。

 だが。

『でもさ、祓葉ちゃんってたぶんこれの"黒幕"でしょ?』
「……、……」
『黒幕のサーヴァントがバッタって、なんかあんまりピンと来なくて。
 それに聞いた感じ、祓葉ちゃんって頭いい方って感じしないっていうか……むしろ逆って感じ、というか。
 白昼堂々喜んでドンパチやらかしちゃうようなタイプが世界を造って人集めてー、懐中時計配ってー、っていうのはどうもイメージと違う気がするんだよね。あと』
「あと?」
『どう考えてもいーちゃん向きじゃん、雑に街ごと襲ってねじ伏せちゃう脳筋サーヴァント』
「はっ倒すぞ」

 反射的にリアクションする一方で、楪依里朱は――現状に対する認識を改め、危機意識へ上方修正を加えていた。

 こいつ。
 思ったより、馬鹿ではない。
 いや馬鹿ではあるのだろうけど、人格と能力が一致していないとでも言うべきか。

 〈NEETY GIRL〉の推測は、此処まですべて当たっていた。
 神寂祓葉は黒幕だが、とんでもない馬鹿だ。大それた野望やその下準備などコツコツやれる人間では絶対にない。
 〈蝗害〉のライダー・シストセルカも馬鹿だ。これは食うことと現代文化にかぶれること以外何にも関心がない。
 そして楪依里朱は、まさしく彼の軍勢を従えるマスターである。感情で動くイリスと欲望で動く飛蝗は、言わずもがな最高の相性を誇っている。

『で、本題はここからなんだけど……。
 昨日の夜から今現在まで、〈蝗害〉の進行が遅くなってるって話を聞いてさ。
 もちろんこれからはローラーじゃなくて戦力を集中させての各個撃破に切り替えた、とも考えられるけど、わたしはそうじゃないんじゃないのかなあって思ってて』

 鋭い。
 単に馬鹿の直感と片付けてしまえばそれまでだが、発想の鋭利さと的確さが異様だった。
 知識だとかセオリーとかではなく、目の前にある状況の陥穽を見抜く発想力。
 それだけを破茶滅茶に研ぎ澄ませて臨まれているような、そんな感覚をイリスは抱いた。

『あ、ほ、ほんと怒らないでね?
 えっと――その理由ってさ、〈蝗害〉くんを祓葉ちゃんにぶつけて、負けちゃって……結構ダメージ負っちゃったから、とかだったりする?』

 ほら、見たことか。
 終いにはこれだ。

『ネットで調べたんだけど、一時間くらい前にナントカって病院が急に〈蝗害〉に襲われたってニュースを見たんだ。
 これも、祓葉ちゃんと戦って減ったリソースを回収しようとしてやったことだと思えば筋が通るなぁって。
 ……あ、でもだったら病院より駅とか襲った方がいいか……。
 う、ううん、病院にいーちゃんの敵がいたから一石二鳥を狙ったとか? そんな感じで、なんかちょっと掠ってないかなあ……』

 なんだ――この女。
 電話越しなのが今だけは幸いした。
 イリスは、さっきまでの苛立ちが嘘のように顔を強張らせていた。

 相手が既知の手段で戦ってくるなら、イリスはそれを恐れない。
 イリスには神でも喰らう軍勢(レギオン)と、太陽を知っているアドバンテージがある。
 たとえ相手が神でも悪魔でも、あの無邪気な極星に比べればただの障害物でしかない。
 策士など先に語った理屈で事足りる。一切鏖殺、何の支障もありはしない。

 が。それが未知であるなら、さしもの魔女も思わず足を止める。
 楪依里朱はノクト・サムスタンプを知っている。
 あれこそまさに策士の極み。認めるのは癪だが、英霊だろうと彼の悪辣に勝るとなれば至難だろうと確信していた。
 その筈の彼女が今、かの契約魔術師に比べれば年季も知識も遥かに劣るであろう怠惰の化身(ニート)に戦慄している。
 これは一体、いかなる異常だ。

 相手がノクトや蛇杖堂でも、同じような読みは繰り出せるかもしれない。
 だが今通話越しに相対している女は、どう考えても彼らに比べて格落ちの役者なのだ。
 厳かな最高学府の教授が難解な数式について語るなら理解もできる。
 けれど玩具の車できゃっきゃと遊んでいる幼児が同じことをしたら、それには得体の知れない不気味さを覚えるだろう。
 イリスが今感じているのは、それと同種の得体の知れなさだった。

『い、いーちゃん? あ、あぅ、やっぱり怒った?』

 ――ちっ、と舌打ちをする。
 相手に聞こえるとか聞こえないとかはお構いなしだ。

 自分の変わらない月並みさに嫌気が差す。
 狂気に侵され、すべての狂気をねじ伏せ、星を落とすと決めておいて何だこの体たらくはと自分に憤慨する。
 その上でイリスは、ぶっきらぼうな声色で〈NEETY GIRL〉へ言った。

「……で? 私にとって悪い話じゃないって言い草の理由は?」
『う。うぅー……それ、はぁ……』

 吃りと沈黙の理由は問うまでもなく察せた。
 この女は、人に怒られることに対する耐性が極端に低いのだ。
 だからこんな大事な話を――冗談でなく互いの今後を懸けた会談の最中にさえ、それを理由に発言を葛藤している。

「そうやってウダウダされるのが一番ムカつくのよね、私に言わせれば」
『あ、あっ、はい! 言う言う、すぐ言います! えぇ、っと……』

 そしてイリスにも、彼女が何を言おうとし逡巡しているのかは察しが付いた。
 イリスは思春期の中にいる。情緒は不安定で、その感情は些細な事象で乱高下を繰り返している。
 そんな女(じぶん)にとって最大の地雷で、傍目にもそれが理解できてしまう事柄。
 となるとその答えは、もはやひとつを除いて他にはない。脳裏をあのムカつく能天気面が過ぎった。


『いーちゃん、ひとりじゃ祓葉ちゃんに勝てないんじゃないかな、って思って――』



◇◇



 ――殺気、というものを、天枷仁杜は生まれて初めて感じた。
 更に言うなら、それが通話越しにも伝わるものだと初めて知った。
 言わなきゃいけない、けれど言うかどうかすごく悩んだ事の核心。自分が挑もうとしている交渉の肝。
 それを伝えた瞬間、全身の毛が逆立つほどの冷たい殺意が"沈黙"という形を取って仁杜の鼓膜を突き抜けていた。

「……、……」

 怖い。
 怖い、すごく。
 今すぐ通話を切りたい。
 手は震えていたし、歯は気を抜くと愉快な演奏を鳴らし出しそうだ。
 そこで仁杜は、今まで〈Iris〉と交わしてきたチャットや狩りの記憶を思い出してなんとか耐えた。

 大丈夫、大丈夫。この子もわたしと同じ人間なんだし、何ならたぶんわたしより年下だ。
 鳴り物入りで実装された新モンスターの凶悪ハメ技で昇天させられた時のキレ散らかしぶりを思い出せ。
 キッズ相手に臆してたら――いちおう――お姉さんなわたしの立つ瀬がないよがんばれふんばれ天枷仁杜……

 意味もなくこくこく頷きながら、応答を待つこと十秒と少し。
 逃げ出したくなるほど鋭い沈黙が、ようやく終わりを迎えた。


『――で?』


 こんなに怖い一文字ってこの世にあるのだろうか。
 いやでも、改めて確信を持てたこともある。
 〈Iris〉にとって、"祓葉"は最大の地雷で、逆鱗だ。
 やっぱりこの少女は、小都音達が相対した〈太陽〉にどうしようもなく執着している。

 アニメや映画で腐るほど見てきた、爆弾解除のシーンが脳裏に浮かんだ。
 赤の線か青の線か、二者択一。択を誤れば即座にドカン、すべてが終わる。
 自然と冷や汗が首筋を伝う。ひとつも間違えられない、そんな状況は引きこもりのニートが直面するには過酷が過ぎた。

『だったらおまえ、どうすんのよ?』

 〈Iris〉の声は、むしろさっきまでより冷静に聞こえた。
 苛立ちを露わにすることもなく、感情的に当たってくることもない。
 真冬の外気のように澄んでいて、だからこその刺すような冷たさを孕んでいる。
 彼女らしくないこの落ち着きが、どんな怒声よりも恐ろしく思えるのはきっと気のせいじゃない。

『あいつに歯牙にもかけられなかった雑魚二匹と、木偶二つと、話もまともに出来ないクズが集まって』

 英霊二騎とマスターふたりという、本来なら成り立つ筈もない交戦。
 それを成り立たせたことを、白黒の魔女は誇りもしない。
 "祓葉"が味方にいるなら勝って当然だと信じているから、この癇癪めいた台詞にすら微塵の揺れも生まれないのだ。

『いったい私に何を与えられるっていうの? ねえ』

 そしてその物言いは、先ほど仁杜が投げかけた指摘が当たっていると証明してもいた。
 祓葉という最強の味方がいたとはいえ、マスター同士での対英霊戦線などという超人技を成立させたタッグの右翼。
 そんな彼女をして、祓葉には届かないのだと。
 依然極星の輝きは宙の彼方に揺蕩っているのだと、そう知らせていた。

 だってそうじゃなかったら、そもそもこんな風に値踏みする必要がない。
 たとえ舐めた相手をこき下ろすための舌鋒だったとしても、〈Iris〉の言葉には仁杜でさえ分かる自棄が滲んでいたから。
 仁杜は聳え立つ巨峰の大きさに唇を噛みながら、されど同時にこう思う。


 ああ、よかった。
 それならまだ、してあげられることはある。
 わたしが、わたしのために、わたしたちのために。

 いーちゃんに見せられる手札は一枚だけ、残ってる。


「あるよ」


 いつの間にか手は汗ばんでいた。
 気を抜くと端末を落としてしまいそうだ。
 力を込め直して、すぅ、と息を吸って。
 天枷仁杜は、自分が持つ唯一にして最強の切り札を魔女へ提示した。


「わたしのサーヴァントが――いる」



◇◇



「……ふ」

 〈NEETY GIRL〉がいつになく真剣な声で伝えてきた"売り"に、イリスは失笑するしかなかった。

「論外だよ、馬鹿。
 分かってないなら教えてやるよ。そっちはもうとっくに間に合ってる」

 サーヴァント。
 サーヴァントと来たか、よりによって。
 想像できる答えの中で、それが一番論外だ。
 何故ならイリスは既に、ひとつの究極と言っていい英霊を従えている。
 その上で虫螻の王は、神寂祓葉に一度敗走を喫しているのだ。
 総軍を束ねてぶつけたわけでこそないが、せめてそれに匹敵するだけの逸材を持って来られなければ話にもならない。

 ソルジャー・ブルーの将官では役者が足りない。
 原初の刀鍛冶では無限の蝗を殺し切れない。
 もしあの場に飛蝗の軍勢がいたなら、祓葉が光剣を解放するまでもなくごく順当な見応えもない蹂躙が繰り広げられていたことだろう。

「雑魚がどれだけ増えたところで、太陽には届きゃしないんだ」

 自傷行為じみた悪態に、イリスの顔が改めて歪んだ。
 そう、まさにそれは自傷であり、自虐である。
 誰もが、太陽に近付こうと試みては失敗してきた。
 誰ひとり、神寂祓葉に勝てなどしないのだ。
 そしてその"誰も"には、例外でなく自分も含まれている。
 そのことを、楪依里朱は理解していた。
 誰よりも一緒にいたのだ。なのにそれを分からないわけがない。

 祓葉を殺す。
 魂も、過去も、未来も、すべて燃やし尽くしてでも。
 たとえこの身が、一条の流星に変わって消え果てるとしても。
 そう誓っていても、彼女はどこかで矛盾している。

 祓葉を誰より憎んでいると同時に、誰より焦がれている。
 その輝きを邪悪と断ずる一方で、誰よりそれを求めている。
 故に、〈未練〉。元より不安定だった魔女の心は今や、螺旋のように捻れ狂っている。
 だからこその支離滅裂。手首を切って血を搾るように吐いた言葉へ、悩みを知らないニートが応えた。

『……わたしのサーヴァント、強いもん』
「はあ?」
『いーちゃんのより絶対絶対ぜったいイケメンだしスパダリだもん。
 わしゃわしゃ群れてるバッタなんてきゅーってしてどごーん!って瞬殺しちゃうもん!!』

 ……急にどうした、と思った。
 さっきまではおっかなびっくり言葉を並べてる、って感じだったのに。
 まるで癇癪を起こす子どもみたいに甲高い声を荒げてまくし立ててくる。
 温度差。それは心胆まで冷え切り/煮え滾った魔女の虚を突くことに成功していた。

『ろ…………、…………わたしのキャスターは、祓葉ちゃんにだって負けないよ』
「……お前、死にたくて言ってんの?」
『だってホントのことだもん』

 むすっ、という効果音が浮かんでくるような声だった。
 どこで電話してきてるのか知らないが、眉根を寄せて頬を紅潮させ、若干涙目になっている姿が容易に浮かぶ。
 話題が話題だ。毒気を抜かれる、なんてことはイリスにはないものの。
 しかしこの感情に対して素直"すぎる"人物像には、覚えがあった。

 また、重なる――顔も知らない女と、魂まで知り尽くした女のカタチが、脳内で交差する。
 それ自体、イリスにとっては許し難いことではあったが。
 通話越しという状況が、魔女に暴力で解決することを許さない。

「――はっ」

 こんなにもコケにされたのは久しぶりだった。
 他の衛星どもにさえ、此処まで舐められたことは果たしてあったかどうか。
 怒りも一周回ると愉快さすら覚える。気付けばイリスは、相手の言葉を鼻で笑っていた。

「なら、試してみる?」

 〈NEETY GIRL〉が息を呑む気配が伝わってくる。
 どうやら今になってようやく、自分が誰に何を言ったか理解したようだ。
 しかしもう遅い。白黒の魔女は幼稚な激情家。イリスは、挑発には行動で応える。
 今更何をどうしようと、〈NEETY GIRL〉達はもう、魔女の狂気から逃げられない。



◇◇



 ・・
 来た――と、仁杜は思った。
 心臓の鼓動がいっそう早くなる。
 展開だけ見れば、望んでた通りのもの。
 予想を超えていたのは、声だけでも分かる相手の激情。
 もはや狂おしさすら感じさせるその炎は、仁杜がチャット越しに見てきた悪態とは比べ物にならない圧力を纏っていた。

 ひとつでも選択肢を間違えたら必ず死ぬ。
 人の心など分からないニートでさえ、本能でそう理解する。
 〈はじまりの六人〉、狂気の衛星に火を点けるというのはそういうことだ。
 灯ってしまった狂気の熱は、誰かの死でしか鎮められない。

『あんたのサーヴァントが、私の〈蝗害〉と戦えてる間だけ話を聞いてあげる。
 その間はあんたにもその取り巻きどもにも手を出さないと約束するわ。
 そっちが前提を破ってくるってんなら、話は別だけどね』
「……そ、それで……?」
『ただし戦いが終わったら、その足であんた達をひとり残らず皆殺しにする。
 逃げたきゃ逃げてもいいよ。地の果てまででも追いかけて、殺すから』
「――――っ」

 それが冗談でないことは分かる。
 話すだけ話して逃げれば終わり、という単純な話じゃない。
 〈Iris〉は一度殺すと決めた相手を見逃さない。ましてや、自分の聖域(じらい)を軽々しく踏み荒らした冒涜者ならば尚更。

 そして〈蝗害〉は、都市の至るところに偏在している。
 無数の蝗達の目と触覚から身を隠し切ることは、どうやったって不可能だろう。
 失敗すれば全員が死ぬ。仁杜ひとりの犠牲では絶対に済まない。
 薊美も死ぬ。カスターも死ぬ。トバルカインも死ぬ。――小都音も、死ぬ。

 成立するかも分からない交渉の対価としてはあまりに重すぎるリスク。
 されど吐いた唾は呑めず、覆水は盆に返らない。
 仮に此処で臆病風に吹かれて通話を切ったとしても、魔女の〈蝗害〉が敵に回ることは避けられない。
 袋小路だ。天枷仁杜の軽率な独断専行と感情任せの大見得が、その周囲のすべてを危険に曝そうとしている。
 それでも。

「……わかった。それで、いいよ。
 わたしのサーヴァントがちゃんと強かったら、いーちゃんお話聞いてくれるんだよね?」
『そいつが生きてる間はね。別に複数人がかりでもいいけど』
「あ……えっと、一応聞いておきたいことがひとつあって……」

 だとしても――


「バッタさんが死んじゃったら、いーちゃんどうするとか決めてる……?」


 〈にーとちゃん〉は夢を見ている。
 今も彼女は非日常という夢の中。
 夢を見ているなら、その信頼は完全無欠。
 決して現実を見ない女に、虚構(うそ)と真実(ほんと)の境界は存在しない。

『――午後七時。代々木公園に来な』

 〈Iris〉は、それを重ねての挑発と受け取った。
 当然だ。そうとしか受け取りようがない。
 それが仁杜なりに、本気で相手を気遣ってした発言だったなんて分かる人間の方が少ないだろう。

『そこで"お話"しようじゃない。遺言くらいは聞いてあげるよ、聞くだけならね』

 長い――
 長い通話が、ようやく終わる。

 〈Iris〉が通信を切断したのだ。
 途端に仁杜の全身に襲いかかるのは、さながら徹夜明けのようなどっしりとした疲労感。

「……はぁぁぁぁぁ……。
 い、一生ぶん喋った気がするよぅ……」

 ただ、気心の知れた(と、仁杜は思っている)相手である以上会社で上司からねちねち悪口(と、仁杜は思っている)言われるよりはマシだった。
 通話でのやり取りだから相手の顔が見えない、というのがまた大きい。
 きっと面と向かって今の話をしていたら、仁杜は途中で泣き出すか逃げ出すかしていた筈だ。
 何はともあれ、らしくないムーブをした割には上手く行った気がする。
 むしろ問題はこの後だ。今の内容を、どうやって小都音達に伝えるか。それが問題である。

「ぜっっっったい怒られるよね…………」

 ダメ人間は怒られの気配には敏感なものである。仁杜も例に漏れずそうだ。
 なんで怒られると分かってヘンなことするんだと言われても、しちゃうんだから仕方ないとしか言いようがない。
 特上の社会不適合者が取る行動に理由を求めるのは無益なことだ。
 早くそれが世界の常識になってほしいものだと、仁杜は常々そう思っている。

 それはさておき、そう、今の話の内容を馬鹿正直に自分の口から伝えたら絶対に大目玉を食らうことは予測できた。
 小都音はまず間違いなく怒るし、薊美に至っては付き合いきれないと帰ってしまうかもしれない。
 そうなったら非常にまずい。いや、兎にも角にも怒られたくない。そっちの方が仁杜の中では大きかった。

「あっ、そうだ! えぇっと……『もしもし、ロキくん?』」
『おー。どしたー? 親愛なるにーとちゃん』
『うへへ~……わたしも愛してるよロキく~ん……、……ってそうじゃなくて。
 あのね、今ちょっといろいろあってさ。詳しくはこれから話すんだけど、知られたら絶対怒られちゃうと思うんだよね……』
『うんうん。まあなんとなく分かってるけど、それで?』
『ロキくんに説明役、おまかせしてもいい? わたしじゃなくてロキくんが話つけてくれました~!みたいな感じで……』
『さっすがにーとちゃん、人に責任おっ被せることに微塵の躊躇いもないね。大好きだぜそういうトコ。――うーん、でもなあ』

 仁杜の頼みに、彼女のサーヴァント――キャスター・ロキが難色を示すなんて滅多にないことだ。
 どうしたんだろう、もしかしてロキくんにも怒られちゃう? と表情を曇らせる仁杜。そんな彼女へ、ロキは言う。

『庇ってやりたいのは山々だけど、今回ばかりはもう手遅れっていうか』
『え? それって、どういう――』
『にーとちゃん、内緒話する時はもうちょっと声抑えた方がいいぜ』

 ……、まさか。
 そう思って、仁杜は目の前の扉を見つめた。
 血の気が引いた顔は引きつっている。
 あんまり夢中になっていたから、扉の向こうから感じる気配に今の今まで気付けなかった。
 鍵はかけていたけれど、此処は高層階なので、窓からひょいと出るとかはできない。
 よって。つまり。逃げ場は、ないのだ。

「あ……あのぅ……」

 恐る恐る、扉の向こうにいるだろう友人に声をかける。
 震えた声で、扉越しでは見えもしない愛想笑いを浮かべて。

「お、お話はロキくんに伝えとくから……わたし、終わるまで此処にいてもいい?」
「ダメに決まってるでしょすぐ出てこいこのクソ馬鹿ニート」

 そんな悪あがきも虚しく。
 この瞬間、仁杜は独断専行の報いを受けさせられることが確定した。



タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2024年12月15日 01:14