「本当に信じられません」
「今回ばかりは、まったくもって同意見」
あえなくトイレから出たところを捕まって、仁杜は今居間で正座させられていた。
二の句が継げない、といった様子でそのちんまりした情けない姿を見る薊美と、頭痛持ちのようにこめかみを押さえて目を伏せた小都音。
だがこの反応は真っ当、それどころか穏当とすら言えるものだ。
何しろ彼女達は仁杜が独断でやった交渉によって、これから全員死地に引き出されることが確定したのだから。
どうやら、早い段階から話は聞かれていたらしい。
トイレにしては遅い仁杜の様子を見に行った小都音が、彼女が〈Iris〉――推定"イリス"に連絡を取っていることに気付いた。
それを止めなかったのは、此処まで話が進んでいるならもう止めても無駄……それどころか止めた方が事態の悪化を招きかねないと判断したからだ。もちろん小都音は仁杜と違って相談ができるので、薊美にもその旨意見交換を済ませている。
白黒の魔女、"イリス"との会談。
祓葉打倒を見据える上で、彼女をよく知り、そしてそれに執着する少女を利用する。
判断としては悪くないし、実際仁杜とイリスが本当に知り合いなら有用な択だと小都音も思う。
だが問題は。相手の声が聞こえなくても分かるほど、仁杜が魔女の地雷を踏みに踏み、逆鱗を撫でに撫でていたっぽいことだ。
嫌な予感を覚えつつ仁杜から聞き出した通話の内容には、小都音も薊美も絶句した。
祓葉と並ぶ脅威である〈蝗害〉と、仁杜のキャスター・ロキによる直接対決。
ロキが飛蝗どもを抑えることを前提とした、時限爆弾付きの会談。
ロキが敗走すればその瞬間、〈蝗害〉の本丸を引き連れたイリスが殺しにかかってくるという破滅的な条件。
勝手に自分達の命をチップにされたようなものだ。これで涼しい顔ができる人間は、そうそういないだろう。
「高天さん」
「……言わんとすることは予想つくけど、何?」
「事の次第によっては私、此処で降りますよ。正直付き合いきれません」
「だよね……」
薊美を薄情だと責める気には、到底なれなかった。
自分が彼女の立場だったとしても、きっと同じことを言う筈だ。
予想できなかった。まさかあのにーとちゃんが、こんな大胆な行動を取るなんて。
当の本人は薊美の発言に身体をびくつかせ、おどおどと縮こまっている。
「クソニート、お前いい加減にしろよ。ケツ拭かされるのはお前以外の全員なんだぞ」
トバルカインも辟易した様子で、苛立たしげに仁杜を見つめていた。
彼女も彼女で、一線を越えたら相当苛烈な質なのを小都音は知っている。
仁杜と生き抜くことを決めた小都音にとっては、生きた心地のしない空間だった。
しかし、一方。腕組みをしながら、どこか見直したように仁杜を見ている大男の姿もあって。
「私は彼女の行動を評価するがね。どの道、前進なくして状況の好転はないのだ。
時に戦場では、熟慮よりも短慮こそが解となるものだ。
私が彼女だったとしても同じ行動を取っただろうさ。そういう意味では、なかなか悪くない一手だと思うが?」
「そりゃあなたはそうでしょうね、ライダー」
無謀、強硬、勇猛果敢を地で行く騎兵隊の主。
豪放磊落を地で行くカスター将軍にとっては、約束されてしまった鉄火場も臨むところであるらしい。
呆れたようにため息をつく薊美に、されどカスターは言う。
「では逆に、他に取れる選択肢が我々にあったかな?
"極星"へ無策に迫ったところで犬死にだ。まどろっこしいのは好かないが、私も戦力差というものは弁える。
どう考えても現状、我々は手詰まりだった。なら今だけは先住民(かれら)のなりふり構わない姿勢を見習うべきだろう。
それに――簡単なことだ。キャスターが〈蝗害〉を引き受けている間に、私とセイバーで魔女を叩いて黙らせる手もあるのではないか?」
「そりゃ無理だろ」
カスターの意見も、実際もっともではあった。
"祓葉"の脅威を受けてこの同盟は結成されたが、では具体的に今後どうしていくのかというビジョンには乏しかった。
その点、今回
天枷仁杜が取り付けてきた話はある意味では渡りに船。
もしも魔女と〈蝗害〉を利用できれば対祓葉への備えにできるのはもちろん、他の主従達にも大きなアドバンテージを確保できる。
ただひとつ、純粋に"強すぎる"魔女とその軍勢を事実上押し破らなければならないという高すぎるハードルを除けばだが。
「あのイリスとかいうガキ、短腹だが頭は回るし機転は利く。
私らに袋叩き(フクロ)にされるリスクが考え付かねえ馬鹿には思えねえよ。
なのに自分からこんな話を提案して来たってこたぁ、ンな浅知恵は織り込み済みで言ってるってことだろ」
「……むぅ。確かにそれは一理あるな。何を隠そう不肖このカスターも、彼女の奸計で一度死にかけている」
「だろ。つまりそこのバカニートが取り付けてきた話は、どう転んでも私らにとってキツすぎる山なんだ」
トバルカインの話に対しては、カスターも異論はなかった。
そう。"祓葉"のデタラメな強さに隠れてはいるが、そもそもあのイリスという魔術師も大概おかしいのだ。
はっきり言って、一介のマスターにしては強すぎる。
生半なサーヴァントであれば力押しで打ち破れるのではないかと思う程度には、アレは異常な実力を有していた。
その上で、そこに〈蝗害〉が加わるならばそれはもうまさに鬼に金棒。
この聖杯戦争に列席している主従のほぼすべて、蝗害の魔女の圧倒的武力には為す術なく蹴散らされるだろう。
無論それは、小都音と薊美の主従も例外ではない。これを正面突破できると考えるほど楽観的になれるなら、ただの馬鹿だ。
「……あ、あの、薊美ちゃん。それにみんなも」
空気は最悪。
一触即発と言ってもいいムード。
そこで遠慮がちに片手を挙げて発言したのは、事もあろうにこの状況を招いた張本人だった。
「……なんですか?」
薊美が少し眉を動かす。
小都音は、黙ってなさいこの馬鹿……と頭を抱えたくなった。
仁杜は人付き合いに慣れていない。いや、慣れとかそういう次元じゃない。
此処で彼女が発言することによって状況が好転するとは到底思えなかった。
そして実際、彼女が口にした言葉は火消しどころか油を注ぐようなもので――。
「だ、大丈夫だと……思うよ? だって、ロキくんが勝つし……」
そう、この話は極めて絶望的で破滅的だ。
蝗害の魔女には隙がない。
カスターの勇気で貫くには強すぎる。
トバルカインの殺陣で滅ぼすには多すぎる。
故に必然、誰もがこうしてお通夜のような反応を見せていたのだが。
ひとつだけ――光明は残されていた。
「……言われてますけど、どうなんですか?」
そう、それこそは天枷仁杜のサーヴァント。
常に笑みを絶やさず、飄々と事を見守っている黒スーツの優男。
その真名は既に明かされている。英霊達はもちろん、薊美も小都音も当然のように知っている。
それほどまでに有名な名前だ。どちらかというと、悪い意味で。
「んー? あ、俺に言ってる? ごめんごめん、聞いてなかったわ」
「ふざけてます?」
「怒んないでよ、君はもうちょっと遊びってもんを覚えた方がいいな」
――
伊原薊美は、基本的にどういう人種に対しても免疫がある。
カスターのように、ナチュラルに前時代的な野蛮さをさらけ出してくる手合いもそうだし。
小都音の危惧に反して、ウルトラ社不の仁杜にも比較的すぐに適応してみせた。
もっとも薊美にとってそれは、褒められるにも値しない"当然のこと"でしかない。
舞台の上ではあらゆる役を演じ、あらゆる役と関わり、物語を織り成すのだ。
たかだか生の人間程度にいちいち気圧されていたら、茨の王子は務まらない。
仮に件のイリスと対面したとしても、薊美はすぐさまあの癇癪持ちめいた気性の荒さに適応してのけることだろう。
そんな彼女がこの場で唯一、その"当たり前"を適用できていない人物がいる。
それこそがこの男。"ロキ"――北欧神話のトリックスター、悪童の王たる青年だった。
「そう肩肘張って生きててもつまんないし疲れるでしょ。
一体誰に気遣ってるのか知らないけど、歳相応に笑って泣いて、髪くるくる手遊びしてた方が可愛いと思うけどな」
薊美は覚えている。
舞台に上がる人間は、俗人よりも他人の視線に敏くなるものだ。
だからこそ覚えている。
この部屋に来て、ロキが最初に自分を見た時の反応を。
値踏みするように、まず一瞥して。
それから、視線を外した。
まるで、ごくありきたりなモノを見たように。
宝石と称して売られている、ガラスの玉を見たように。
「まあ、覚えておきます。それで、どうなんですか」
これが単なる侮蔑なら、抱く感情は他にあったかもしれない。
が、薊美には。女王であり、王子である彼女には、もっと一段深いところまで見えた。
わずか一瞬の値踏みで、自分という人間のすべてを見透かされたと。
その上で興味無しと判断されたことが、分かったのだ。
それを見る目のない男の愚かしさと一笑に付すことができない辺り、やはり彼女はどこまでも真面目だった。
「まあ、厳しいだろうね」
そんな薊美の心中など知る由もなく、否。
知った上で構うことなく、トリックスターは答える。
「俺も全貌を知ってるわけじゃないけど、アレはまさしく害虫だよ。
どこかの誰かがルール違反をやらかしまくったせいで紛れ込んだ、本来なら這い出てくる筈のないバグさ。
全軍で結集されたら北欧(ウチ)の主神でも難儀するんじゃない? 神も人も葉の一枚も、知ったことかと同じ論理で食い尽くす。そういう生き物だから、この世の誰もアレに有利は取れないよ」
その論評は他人事のような調子だったが、物言いが客観的だからこその無視できない説得力を有していた。
希望的なものではまったくない。むしろ、ただ絶望を深めるだけの言葉が紡がれていく。
おろおろしている仁杜と、余計に表情を硬くするその他の面子。
「まさかこんな遊びに全力投球はしてこないだろうが、それでも死ぬほど難儀な相手なことに変わりはないかな。
ていうかなんであんなのが居て未だに都市機能が続いてるのか疑問だよ。奴さんがその気になればとっくにこんな儀式終盤だろうにね」
「なるほど、よく分かりました。――高天さん」
薊美が頷いて、小都音を見やる。
小都音もそれに、小さく頷いた。
その意味は一目瞭然だ。この勝負には乗れない。今からでも違う方向へ舵を切り直そうと、そういう方向でふたりの意見は一致していた。
だが。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。訊いといて勝手に切り上げんのは無粋だろ」
そんな流れを、青年は薄笑いを浮かべたまま断ち切ってくる。
「勝てないんでしょう? だったら別な方策を考えるだけです。責めるつもりもありませんよ、そもそもが馬鹿げた話なので」
「俺は一言も、勝てないなんて言ってないけど?」
「……、意味がわからないんですけど」
薊美の発言は至ってもっとも。
自分で厳しいと言っておきながら、さも薊美の方が間違っているみたいに発言を翻す。
賽の目を振り直したような主張の転換は、傍若無人も甚だしく。
「オーディンのジジイでも難儀するって話をしただけさ。
でも俺はアイツより巧いからな。うん、俺ならたぶん勝てるよ」
しかしだからこそ、単なる放言と切り捨てられない奇妙な説得力を帯びていた。
「ていうか負ける理由がない。断言するが、今回最強の英霊は俺だ」
おどけるステージマジシャンのように両手を広げ、腰を曲げてみせる、ロキ。
そのふざけ切った口調とは裏腹の、この泡立つような熱は何なのか。
薊美も――そして小都音も、どこかこれに既視感のようなものを覚える。
「だってにーとちゃんが信じてる。なら、俺はいつだってベストコンディションさ」
ああ、そうか。
と、ふたりの女は同時に気付いた。
英霊達は恐らく気付いていないだろう。
彼らはまだ、その"華"を見つけられていないから。
けれど、彼女らは違う。
伊原薊美は、初対面でそれを見た。
高天小都音は、流星雨の下でそれを見た。
ふたりの女は、知っている。
ぼんくらの華を、ぼんやりと佇む月を、知っている。
だからこそ、ふたりだけは、既視感(デジャヴ)の答えに至ることができた。
「だろ、にーとちゃん」
「……うんっ!」
ああ。
こいつは――月に、魅入られているのか。
◇◇
「――実際、どう思いますか」
伊原薊美の問いかけに、高天小都音は眉を寄せた。
当然である。小都音としては、今まさに薊美に対してどうフォローしようかと考えを巡らせていたところだったからだ。
「なんとかなると思います? これ」
「……どうだろうね」
考えが間に合わず、小都音はありきたりな答えを返してしまう。
にーとちゃんの馬鹿、と内心で悪態をついた。
すると薊美は煮え切らない答えに、快でも不快でもなく。
彼女が予想していた話の流れとはまったく違う言葉を投げかけてきた。
「じゃあ、少し質問を変えるんですけど」
「……うん?」
「あのお姉さん……にーとさんって、ほんとにただのニートなんですか?」
「えっ……?」
藪から棒の問いに、小都音は虚を突かれる。
その反応に、薊美は少しだけ息づいた。
それは、"やっぱりな"という風にも。"本当に?"という風にも、見える仕草だった。
「あの人、ちょっと似てません?」
「似てる、って……何に」
「"祓葉"に、です」
高天小都音は、流星雨の夜を経験するまでそれに気付けなかった。
いやこの場合、それを見出だせなかった、というべきなのかもしれない。
何故なら彼女はどうしようもないほどに凡人だ。
才能はないが、努力をする根気だけは人並み以上にある。
だからこそ人より多く努力を積んで、なんとか才人達と同じ位置に立っているだけの存在なのだ。
けれど、伊原薊美は違う。
薊美には最初から才能があった。
芸を愛する父親が、原石を見たような顔で褒めそやすくらいには。
彼女自身それを疑わず、"その道"にごく自然に歩み出せてしまうくらいには。
演者とは読んで字の如く演じるモノだ。
人へ魅せる者だからこそ、人に見られることを意識する。
その観察眼は余人のそれとは比にならない。
彼ら彼女らは、良く見られることにこの世のいかなる職業よりも腐心する。
良く見られるためには、見る側の能力と価値を見出すことが必要不可欠。
演者の道の天才たる薊美は、何の努力もなしに最初からその能力を最鋭化させていた。
最初は、ただ漠然とした違和感。
けれど今は、もう少しそれが進んでいる。
既に薊美は"太陽"を知っているから。
同じ――星のような女の輝きに、疑いを抱くことができた。
「そうかな。私は、あんまりそうは思わないけど」
「本当ですか?」
「うん。ていうかぜんぜん違うと思う。
にーとちゃん、見ての通りぼんくらだよ。だらしなくて、ダメダメで、無責任で興味ないことには無関心。
まあアレでも、やる時はびっくりするようなことしてくれるんだけどさ」
一方で、小都音の意見も理解はできる。
薊美も、仁杜が本当に祓葉のような光を持つ人間だったならもっと心は荒れていただろう。
茨の王子は、女王は、王冠を戴く者は、自分より輝き誇る太陽を許せない。
その点、あの天枷仁杜という女に対して祓葉に対し抱いたような激情は込み上げなかった。
あえて言うならばそう、他人の空似。
絶対に同じ存在ではないのだが、どこか似ている。
そんな印象と感想が、薊美が現在仁杜に抱いている感情のすべてだった。
太陽のように、眩しくはない。
誰にでも分かるほど、輝いてはいない。
だがもし、穏やかな夜空を見上げるくらいの心の余裕と感性があるのなら。
事故のように偶然、見つけてしまう。認めてしまう、ような。
そんな――――月の、ような。
敵視するには朧気で。
かと言って無視もしきれない。
そういう、言葉にし難い何かを……薊美は仁杜に垣間見始めていた。
◇◇
切り時だ。
誰がどう見ても、途中下車の頃合いはここしかない。
薊美の脳は、実に合理的にそんな結論を弾き出していた。
これ以上進めば、自分は戻れなくなる。
北欧の悪童王と〈蝗害〉の正面対決という混沌に身を投じねばならなくなる。
そう分かっているのに、一方でどこか葛藤する自分もいることが理解し難い。
(――ライダー)
(おや。意見を仰ぐのが私でいいのかな、令嬢(マスター)?)
(一応相棒でしょ。話し相手くらいにはなってよ)
(それもそうだ。ではひとつ、内緒話に興じようか。自堕落(ギーク)な彼女を反面教師にして、小声でね)
薊美は、恐らく同年代の誰よりも人生を効率化している。
自分の目指す道を如何に効率的に歩めるか、進めるか、上り詰められるか。
彼女はそのすべてを綿密な計算と、経験で築いた審美眼に基づいて決定する。
自分をよく見せる。一方で、必要ならば他人など躊躇なく踏み潰して先に行く。
適度なら娯楽にも親しむ。が、決してその領分が本分を侵すことは許さない。
自堕落の対極、ストイックそのものの歩み。まさしく茨の如し、尊い者の歩みだ。
そんな薊美は当然、ハイリスクハイリターンなどというギャンブルは必ず避けて通る。
何故なら、意味がないからだ。
普通にやっていても順当に成功する能力があるのだから、一発逆転のチャンスなどに飛びつく理由がそもそもない。
そういうものに縋る手合いはそもそもからして薊美に踏み潰されるだけの林檎、その中でもいっとう見る価値のない愚図だ。
その人生哲学に照らし合わせて言うのなら、蝗害の魔女との会談というイベントは考えるまでもなく避けるべき凶事に他ならなかった。
(……とはいえ、言わんとすることは分かるとも。
君は私に似ているが、こと物の選択においては正反対だからな。
私はたとえ進路に大河があったとしても、わずかでも勝算があるなら躊躇なく泳いで越える。
しかし君は、地図を開いてどう回り道をするかを考える。違うかな?)
(よく分かってるね。うん、私ならそうするかな)
(ならば此度のことも、私に問うまでもなく君の中では答えが出ている筈だ。
にも関わらずこうして殊勝に声をかけてきたということは……その聡明な脳細胞は今、少なからず当惑の中にあるものと察する)
一方で、
ジョージ・アームストロング・カスターという英霊はそれの真逆。
リスクを恐れず、その先にある栄光(リターン)を求めて笑いながら駆け抜けられる魔人。
彼が英霊としては凡夫の部類であることは、薊美も既に分かっている。
故に、彼女の哲学とは矛盾しない。カスター・ダッシュは彼だけの専売特許であって薊美にできる芸当ではないし、真似たいとも思えない。
(あのキャスターは、私に言わせれば悪魔の類だ)
なのに今、わざわざこうして意見を仰いでいる理由はまさしく彼の言う通り。
不合理な葛藤が、合理の算盤で弾き出した当然の結論に待ったをかけているのだ。
すなわち、此処で降りる判断が本当に正しいのか。
それで、いいのか――そんなことで、太陽を落とせるのかと。
薊美の中の黒い激情が、明確に否を唱えている。
(人心を誑かし、弄び、魔道に堕落させる。
神を信じて戦う私には、決して肯定することのできない悪徳だ。彼はそれが形を結んで顕れたような存在だ)
(……、……)
(だがそれだけに、君が奴の態度に何かを見出したというのなら――きっとそこには、大いなる意味がある。
悪魔とは人の隣人だ。奴らは誰より人を知り、その心を見透かしている。狡知にはそれなりの理由があるというわけだ)
……つまり自分は、奴の冷笑を思いの外引きずっているということか。
カスターから受けた指摘に、薊美は小さく拳を握っていた。
それは彼女にとって、茨の王子にとって受け入れ難い事実だ。
妬み嫉みなら聞き流せばいい。的外れな批評など耳に入れてやる価値もない。
そうして生きてきた自分が、大なり小なりあんなぽっと出の男の仕草ひとつにこうまで心を乱されている。
そう自覚するのはすなわち、常勝無敗の女王たる己に陥穽があると認めるようなもの。
高貴なる自尊心を生き様そのものとして来た者にとってそれは、ある種の自己否定にも等しい意味を持つ。
太陽を落とすと豪語しておいて。
たかだか蝗の群れに、恐れをなすのか。
不合理この上ない糾弾が理性の深淵から吠え立てる。
〈現代の脱出王〉の不敵な微笑を思い出した。
光剣を携えて笑う、忌まわしき極星を思い出した。
そして最後に、原風景。父の優しい手の感触を、思い出した。
「……あ、あの……。薊美ちゃん、その……」
思考を切ったのは、こうして柄にもなく自問などする羽目になった元凶の女だった。
視線を向ければ、そこにはただでさえ小さい身体をおどおど縮こまらせて、上目遣いで見つめる女の姿。
話によると小都音と同い年らしいが、どうしてもそうは見えない。
何だったら年下にさえ見えるし、そう考えた方が実情よりずっと自然に思えるくらいだ。
「お、怒ってる……よね。えっと、そのぅ……。さっきはご、ごめんなさい……」
仁杜はぺこ、と小さく頭を下げる。
恐らく干支の半分くらいは歳が離れているだろうに、年下にこうまで平身低頭になれるのは凄いと思う。
これで毒気を抜かれるほど薊美は寛容ではなかったが、しかし此処でこの生物に不機嫌を突きつけたところで何にもならない。
それこそ無益な行為だ。既に〈蝗害〉との対峙は決定事項となっている以上、過ぎたことに感情をぶつけるのは薊美の生き方に反する。
無論思うところは未だにあるのだったが、それを包み隠しつつ、かと言って間違っても調子に乗らせないように――。
少し疲れたような顔を作って、しょうがない人だ……という風に小さく息づく。そういう顔を、薊美は演じることにした。
「別に怒ってませんよ。流石に、びっくりはしましたけど」
「ほ、ほんと? よかったぁ……。ことちゃんに謝って来いってめちゃくちゃどやされて……もうぜんっぜん生きた心地しなくてぇ……」
「今のところは言わない方がいいですね。自発的に謝りに来たことにしておいた方が得ですよ」
「あっ。えへへ……」
「お姉さんが今までどういう風に生きてきたのか、この何十分かでよく分かりました」
ただの昼行灯かと思えば、時々嘘みたいに人を振り回す。
根本的に気が弱いくせに妙なところでふてぶてしく、余計なことを言う。
人間として好感の持てる箇所が見た目くらいしかない、妖怪じみた社会不適合者。
なのに、改めて見るとやはり――どこか、華々しい。
「で、でも、あの、安心していいよほんとに!
ロキくんはね、すっごく強いの! ぜったい負けたりなんてしないから!」
「お姉さんは、ロキさんの戦ってる姿を見たことあるんですか?」
「え。……それは、ない、けど」
「そんなことだろうと思ってました。引きこもりのにーとちゃんが戦うために外に出るとかするわけないし」
「う、うぐぐぐ……。で、でも、ロキくんってすっごいイケメンだし……」
「なるほど、〈蝗害〉が全部メスのバッタだったらいいですね」
北欧の悪童王は何故、このぼんくらに惚れ込んだのだろう。
高天小都音は何故、これと付き合い続けているのだろう。
命まで懸けるほどの女なのか、これが。
薊美には分からない。なのに何故か、分からなくてはいけない気がするのはどうしたことだろう。
太陽と。
月。
似て非なるものを、似て非なるからこそ解さねばならない気がするのだ。
この不可解を不明のままにしておいたら、自分は一生空に手など届かないような。
地上の王子は、そんな理解の及ばない予感に苛まれていた。
その身、恒星の資格者には未だ果てしなく遠い。
月の神秘はなく、悪魔の可能性に及ばず、救済になど興味は持てず、天翼の慈愛も持ち得ない。
それが伊原薊美という女。人間基準の、トップランカー。誉れも高く咲き誇る、綺麗で残酷な茨の華。
"これで十分だ"と妥協することができないのが、彼女の孕んでしまった病巣だ。
ごく月並みな〈はじまり〉に導かれ、幼心のままに自ら作り上げた不世出の天才というかたち。
――〈茨の王子〉は、頂点でなくてはならない。
――〈茨の女王〉は、極点でなくてはならない。
――二番手に甘んじることに、意味などない。
――だって、それでは。
――それでは。
――あの人は、きっと褒めてくれない。
自然と、手が髪に伸びている。
くる、くると、いつものように弄んで。
「薊美ちゃん、それ癖なの?」
そこでふと、仁杜がそれを指摘してきた。
言われて気付く。癖なのは分かっていたけど、別に意識してやってるわけではない。
「なんか、かわいいね」
にへー、と、笑って言う仁杜。
褒められて嬉しいポイントなどではないので、「そうですか」と軽く流したが。
ひとつ、この何気ないやり取りを通じてうっすらと言語化できたことがあった。
(ああ、そっか。この人)
いつだって一事が万事。
ガワはいいのに、中身は変人通り越して奇人の域。
そのくせ、いざ動いたらやけに鋭く、無駄がない。
そして他人に好意を伝える時も、いつも通りに臆面がない。
(なんか、漫画のキャラクターみたいなんだ)
そんな在り方は、夢(フィクション)の世界の住人に似ている。
昔、やけに懐いてきた後輩から押し付けるみたいに貸された漫画。
結局返す前に相手が寄ってこなくなってしまい、今も借りたきりになっている本のことを、薊美はなんとなく思い出していた。
◇◇
北欧神話に悪名高きロキ。
トリックスターの王は、その顔から笑みを絶やさない。
彼は誑かす者。弄び、相手の間抜け面を指差して嗤う者。
雷神を転ばし、大神を騙し、悪童さえ掌で踊らせたウートガルザの王。
そして今は、月光の守り人。彼は慌てふためく女達を、馬鹿どもがと嘲っていた。
そう、どだい役者が違うのだ。
お前達はただ仰ぎ見ていればいい。
振り回され、右往左往していればそれで良し。
それこそが身の程というものなのだから、ロキは彼女達に何も期待していない。
天枷仁杜が、"イリス"との通話を行い。
自分と〈蝗害〉のマッチアップを前提とした会談を取ってきたと知った時は、思わず口端が歪んだ。
小都音にできたか。薊美にできたか。いいや、できなかったと断言する。
ロキの愛しの月光は、太陽のようにすべてを見境なく灼くのではなく。
ほんの時々、暗闇の中でふわりと輝く。ただそれだけで、目の前の現実を夢のように塗り替える。
それが彼女に必要なことであるのなら。
月の女神に、不可能は存在しない。
ロキは故に感服し、賞賛し、喝采した。
自分が虫螻の王という最悪の厄災と殺し合わされることなど、微塵も気には留めていない。
(――ま、俺もそろそろここらで威厳ってモノを見せておかないとな。後ろで彼氏面してるだけってのも味気ないだろ)
"この"ロキは、夢見るモノの味方である。
現実から目を逸らせば逸らすほど、彼の者の霧は力を増す。
巨人でありながら大神の兄弟になり、アースガルズへ入った悪童では勝てぬ相手でも。
神、人、獣、世界そのものさえも騙して嗤うウートガルザの王であれば、話は違う。
彼にはそもそも、純粋な武力を比べ合って競うつもりなど欠片もないのだから。
「信頼されてるみたいなんでね。此処らでひとつ、スパダリの面目躍如と行こうじゃないの」
◇◇
怒りを通り越して、思考は大空のようにクリアだった。
逆鱗に触れた報いは必ず受けさせる。
そう、より多くの死と流血による贖いをこそ、白黒の魔女は求めていた。
「時間、さっき言った通りだけど。間に合うのよね?」
「おう。病院でちっと腹ごしらえもできたしな、問題ねえだろ」
思いがけない事態であることは否定しない。
〈NEETY GIRL〉の言うことなので鵜呑みにはできないが、あの言い草からするに、相応以上の英霊を引いているのは事実なのだろう。
吹っ掛けたのはイリスからだったが、だからこそ油断は毛ほどもしていない。
完全復活を果たしたシストセルカとはいえ、何らかの手で一泡吹かされる可能性は十分にある。
それこそ
蛇杖堂寂句がちょっとした備えで〈蝗害〉の侵攻を撃退したように、暴食の軍勢も無敵ではないのだ。
だがそれでも。やることと、取る選択肢は一切不変だった。
「良かったね。立て続けに食いでのある獲物なんじゃない?」
「悪くねえな。食後のデザートも付いて来んだろ? 至れり尽くせりだぜ、楽しみすぎて一曲弾きたくなってきた」
すなわち進軍。
何も隠さない、包まない。
無限の軍勢を引き連れて、轢き潰す。
敵が神であろうと、人であろうと、獣であろうと、世界であろうと。
夢幻であろうと、地平の暴風はそのすべてを喰らい尽くすのだから。
上機嫌に口笛を吹くシストセルカの隣を歩きながら、イリスは先の腹立たしい会話を振り返る。
ゲームで関わっていた時と同じだ。ただのニートの癖に、やたらとあれこれ世話を焼いてくる。
まるで姉か何かのようにわたわたと忙しない様は見ているだけでやきもきしてくる。
まして今回は、白黒の魔女の絶対に触れてはならない部分を土足で踏み荒らした。
よって裁定は決まった。
アレの信じるモノを蹂躙し、すべてを奪う。
あちらは自分と交渉などできると考えているようだが、そうはならないと確信している。
(私に、もう、"友達"は要らない)
――踏み潰してやる。
魔女の殺意は月光へ。
暴食の軍勢は、代々木公園へ。
◇◇
【中野区・マンション(仁杜の部屋)/一日目・夕方(日没直前)】
【高天 小都音】
[状態]:健康、祓葉戦の精神的動揺(持ち直してきた)、頭痛
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:トバルカイン謹製のナイフ
[所持金]:数万円。口座の中身は年齢不相応に潤沢。がんばって働いたからね。
[思考・状況]
基本方針:生き残る。……にーとちゃんと二人で。
0:何やってんだこの馬鹿
1:伊原薊美たちと共闘。とりあえず穏便に収まってよかった。
2:ロキに対してはとても複雑。いつか悪い男に引っかかるかもとは思ってたけどさあ……
3:アレ(祓葉)はマジでヤバかった……けど、神様には見えなかった。
[備考]
※“特異点の卵”である天枷仁杜に長年触れ続けてきたことで、他の“特異点”に対する極めて強い耐性を持っています。
【セイバー(トバルカイン)】
[状態]:疲労(小)
[装備]:トバルカイン謹製の刃物(総数不明)
[道具]:
[所持金]:数千円(おこづかい)
[思考・状況]
基本方針:まあ、適当に。
0:え、マジでやんのかこれ……?
1:めんどくせェけど、やるしかねえんだろ。
2:ヤバそうな奴、気に入らん奴は雑に殺す。ロキ野郎はかなり警戒。
3:あの祓葉は、私が得られなかったものを持っていた。
[備考]
【伊原 薊美】
[状態]:魔力消費(中)、静かな激情と殺意、ロキへの嫌悪、仁杜への違和感
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:騎兵隊の六連装拳銃
[所持金]:学生としてはかなりの余裕がある
[思考・状況]
基本方針:全てを踏み潰してでも、生き残る。
0:乗り続けるか、降りるか。迷うようなことでもないのにな。
1:殺す。絶対に。どんな手を使ってでも。
2:高天小都音たちと共闘。仁杜さん、ホントにおかしな人だ。
3:孤高が嫌いなんだろうか。だとしたら、よくわからない。
4:――"月"、か。
[備考]
※マンションで一人暮らしをしています。裕福な実家からの仕送りもあり、金銭的には相応の余裕があります。
※〈太陽〉を知りました。
※自らの異能を活かすヒントをカスターから授かりました。
【ライダー(ジョージ・アームストロング・カスター)】
[状態]:疲労(中)
[装備]:華美な六連装拳銃、業物のサーベル(トバルカインからもらった。とっても気に入っている)
[道具]:派手なサーベル、ライフル、軍馬(呼べばすぐに来る)
[所持金]:マスターから幾らか貰っている(淑女に金銭面で依存するのは恥ずべきことだが、文化的生活のためには仕方のないことだと開き直っている)
[思考・状況]
基本方針:勝利の栄光を我が手に。
1:神へ挑まねば、我々の道は拓かれない。
2:やはり、“奴ら”も居るなあ。
3:“先住民”か。この国にもいたとはな。
4:やるなあ! 堕落者(ニート)のお嬢さん!!
[備考]
※魔力さえあれば予備の武器や軍馬は呼び出せるようです。
※
シッティング・ブルの存在を確信しました。
【天枷 仁杜】
[状態]:健康、疲労(大。精神的なものなのですぐ収まります)
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:数万円。口座の中にはまだそれなりにある。
[思考・状況]
基本方針:優勝して一生涯不労所得! ……のつもりだったんだけど……。
0:しーんーどーかーっーたー……。……あれ、もしかして本当に大変なのってこれから?
1:ことちゃんには死んでほしくないなあ……
2:薊美ちゃん、イケ女か?
3:ロキくんは勝つでしょ。みんなそんな不安がらなくても。
[備考]
※
楪依里朱(〈Iris〉)とネットゲームを介して繋がっています。
必要があればトークアプリを通じて連絡を取ることが出来ます。
【キャスター(ウートガルザ・ロキ)】
[状態]:健康
[装備]:
[道具]:
[所持金]:なし(幻術を使えば、実質無限だから)
[思考・状況]
基本方針:享楽。にーとちゃんと好き勝手やろう
0:たまにはいいトコ見せちゃうか。
1:にーとちゃん最高! 運命の出会いにマジ感謝
2:小都音に対しては認識厳しめ。にーとちゃんのパートナーはオレみたいな超人じゃなきゃ釣り合わなくねー?
3:薊美に対しては憐憫寄りの感情。普通の女の子に戻ればいいのに。
[備考]
※“特異点”である
神寂祓葉との接触によって、天枷仁杜に何らかの進化が齎される可能性を視野に入れています。
[共通備考]
※神寂祓葉こそが黒幕である可能性に至りました。
※この3組が今後共に行動するのか、あるいは別れて行動するのか、またこれから如何に動くのかは後のリレーにお任せします。
※午後七時を目処に代々木公園で楪依里朱との会談が行われます。
イリスはロキがシストセルカと戦闘している間のみ話に応じ、ロキが倒されればシストセルカを連れてそのまま仁杜達を襲うつもりです。
【渋谷区/一日目・夕方(日没直前)】
【楪依里朱】
[状態]:魔力消費(中)、〈NEETY GIRL〉への殺意、未練
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:数十万円
[思考・状況]
基本方針:優勝する。そして……?
0:〈NEETY GIRL〉の一団に付き合う。見込みがなければ皆殺しにする。
1:祓葉を殺す。
2:一旦情報を整理。蛇杖堂への以後の方針も考える。
[備考]
※天枷仁杜(〈NEETY GIRL〉)とネットゲームを介して繋がっています。
必要があればトークアプリを通じて連絡を取ることが出来るでしょう。
※蛇杖堂記念病院での一連の戦闘についてライダー(シストセルカ)から聞きました。
※今の〈脱出王〉が女性であることを把握しました。
【ライダー(シストセルカ・グレガリア)】
[状態]:完全復活目前、疲労(小)
[装備]:バット(バッタ製)
[道具]:
[所持金]:百万円くらい。遊び人なので、結構持ってる。
[思考・状況]
基本方針:好き放題。金に食事に女に暴力!
0:フルコースに来たみたいだぜ。テンション上がるな~
1:相変わらずヘラってんな、イリス。
2:祓葉にはいずれ借りを返したいが、まあ今は無理だわな。
[備考]
※〈蝗害〉を止めて繁殖にリソースを割くことで、祓葉戦で失った軍勢を急速に補充しています。
あと三十分弱で祓葉と戦闘する前と同等の規模へ回復する見込みです。
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最終更新:2024年12月28日 00:44