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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

ハルシネーション・ハンドシェイク

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dangerousss_shanghai

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「ふぇっふぇっ、『蜃気楼鬼貝故事』という説話は宋の時代に書かれた物が最も古い形のようですな」

 虫やかびを避けるためだろうか、薬臭い部屋だった。
 閉め切られた窓のガラスは青焼けし、アルミサッシもくすんでいる。

「あらすじはこうです。上海にとある唐代貴族の末裔が貧しく暮らしておりました。彼は先祖から受け継いだ玉だけは売り払わず螺鈿細工の宝石箱に入れて大切に扱っていたのです」

 チク、タク、チク、タク。
 柱時計の秒針が時を刻む。

「ある日の夜中、玉の噂を聞いた賊が屋敷に押し入りました。貴族の末裔に戦いの心得はなく、彼に使える従者などもおりませんでした。為す術もなく玉は奪われようとされておりました」

 さら、さら、さら、さら。
 墨を含んだ毛筆が竹紙の上をなぞる。

「ところがそこに救いの手が現れたのです。鎧姿の戦士が突如現れ、一刀の下に賊を切り伏せてしまいました」

 老人の声はしわがれているものの、はっきりと聞き取りやすい。
 このような語りにもずいぶん慣れているように思われた。

「貴族の末裔が礼を述べる間もなく戦士の姿は煙のように消えてしまい、後には宝石箱が残されていました。そこで貴人は玉を入れた宝石箱の精が現れ危機を救ってくれたのだと悟ったのです。と、そんなところです」

 老人は筆を置き、自身が書き上げた文をしげしげと眺めた。
 分厚いレンズの嵌った眼鏡のフレームからは長く伸びた眉毛がはみ出している。

「おお、こんなところにありましたか。これがその宋版の写しですな。ええ、これ自体は後年の複写でしょうが、物語は古い形の物がつづられております」

 目艮竟はその墨も乾いていない紙束を目の前の騎士、クラム・ハードシェルに押し付けた。
 クラムは黙って受け取り、バイザーの切れ目をそれに向ける。
 重ねたせいで墨はすっかりにじんでいる。

 このようなことは初めてではない。
 クラム・ハードシェルはこの奇妙な老人とは出会ったばかりであるが、既に同じようなやり取りを繰り返していた。
 馴れはしたが、この目艮竟という老博士のことをどうにも量りかねている。

 目艮竟は自身が書き上げた資料をあたかも探して見つけたかのように話す。
 それが一種の冗談であるのか、それとも本当にそう思い込んでいるのか。
 目の前で堂々と行うのだからクラムを騙そうというつもりはないのだろうが。

 歴史に詳しいようでいて、話す内容も信じていいものか判断に迷う。
 ただ、それを差し置いても『蜃気楼鬼貝故事』という説話に関する知識は興味深い物だった。

「老師――」

 教えを乞う際はそのように呼びかけることに決めていた。

「――この説話が巷に流れる怪談の原型であるのですか」

 壊れた機械のような、非人間的な声だ。
 目艮竟はその響きの異様さを気にも留めないらしかった。

「クラム殿ご自身の話ですな。ええ、儂はそう考えております。とはいえ違うところも多いですが」

 老人はクラムに預けた紙束を指し示す。

「原典の宝石箱の精というのは名前が付いておりません。格好もこの国の当時の鎧です。そら、挿絵も髭面の男でしょう」

 彼の頭の中ではそれが描かれているのだろう。

「そのクラム・ハードシェルという名前も、西洋の板金鎧という姿も、ここ百年ほどで語られるようになったもののようです。それまでの変化は書き写す際に創作を加える、あるいは削る。単純に書き損じというのもあったでしょうが」

 目艮竟はクラムの兜に目を向けた。目と目を合わせようとしたのかもしれない。
 鎧が空だということは既にこの老人も知っているのだが。

「この百年の怪談は口伝えによるものです。派生ではあっても、それまでの説話とは別物と考えて差し支えない。そう思っていたのですが」

「今は違うと?」

「ふぇっふぇっ、なにせ本人がいるのですからな。古い物語が怪談に作り替えられたと考えるよりは、全く別個の実話だったとするべきでしょう」

「さて」

 クラム・ハードシェルにはそれも断言しかねるように思われた。
 今ここにいる彼自身には、彼がいつからいたのかというはっきりとした記憶がない。
 そして、魔人能力による幻覚でしかないという自覚もある。

 あるいは、怪談が先にあり、その怪談を知った誰かがそのような能力に目覚めたのではないか。そう考えることもできる。

 それから。
 怪談そのものにも不足が一つ。

「話の中でのソレガシがどのような存在か、もう一度お聞きしたい」

「ふぇっふぇっ、まず外見は七色に光る鎧と剣。それから財宝を守って戦う、でしたかな。財宝の在り処を知っているとか。そうそう、原典でいう玉は翡翠のことかと思われますが、今の噂ではダイヤに真珠でしたかな」

 二人同時に壁を向く。並ぶガラスケースの合間、鞘なしの両手剣が立てかけられている。すぐそばの椅子の上には一粒のダイヤも。
 ただのダイヤだ。クラム・ハードシェルにも今はそう見えている。
 輝きに曇りはなく、美しい石なのだとは思う。
 誰にも渡すつもりはない。

 今も絶えず注意を払っている。
 ドアや窓から最も遠い壁際に置き、部屋の入り口からその石への道を遮るようにクラム自身が陣取っている。

 場所もそれなりに都合がよい。
 この寂れた小さい建物は上海市立魔幇博物館という。
 入り口には毛筆でそう書かれた黒ずんだ一枚板がかかっている。

 客足はまるでない。
 館長だという目艮竟が一人静かに過ごしているだけだ。

 清王朝のダイヤは魔幇から奪われ、魔幇は血眼になって探している。みなが知っている事実だ。
 それを求めて魔幇の名を冠する建物を訪れる者がいるとは考え難い。
 上海中を巻き込んでいる騒ぎとは縁遠い場所なのだ。

 そして目艮竟という人物について、クラム・ハードシェルは完全な信頼を置いているわけではないが、同時に警戒する必要も薄いと感じている。

 この老人がクラムのダイヤに興味のある素振りを見せないこと。
 少なくとも清王朝のダイヤとは別物であると認識しているらしいこと。
 彼もこの博物館を戦いの場にすることは望まないであろうこと。
 そういった理屈とは別に、クラム・ハードシェルは目艮竟という人間を不思議と好ましく感じていた。

 なんにせよ既にダイヤをこの場に晒しており、それでどうなるということもなかった。
 少なくとも両者が今すぐ争うということはないように思われた。

「実を言うと、儂はこの説話と怪談と両方のファンなのですよ。クラム殿、お会いできて光栄です」

 そう言われることも初めてではない。
 怪談の通りにダイヤを守ることはできている。
 だが、ダイヤを守ることがクラム・ハードシェルの在り方だろうか。

「貴婦人のことを語る噂はないのですね」

 怪談がクラム・ハードシェルの物語であるのなら、それは看過できない欠落だった。

 上海蟹ランドでの戦いはつい先日のことだ。

『人々よ。ソレガシの行いを通して我が貴婦人の絶美を知るがよい。これなる騎士を遣わした者はいかなる氷肌玉骨であろうかと』

 そう名乗り上げはしたが、上海の人々に貴婦人のことがどれだけ伝わっただろうか。

 旧フランス租界を離れ、広い世界に飛び出して、理解したことがある。

 人々の数はあまりにも多い。
 そしてその誰もが貴婦人のことを知らない。その姿を見せることもできない。
 クラム・ハードシェル自身も再びその姿を見ることがあるか定かではない。

 人々の数はあまりにも多い。
 鎧も剣も壊れざる物だと実感してはいるが。
 クラムの存在を消し去り得る強者がいてもおかしくはない。
 あるいは、ただダイヤを奪い去るだけならば、あの狐面の男にもできただろう。

 クラムが貴婦人の幻を見るダイヤが失われたとしたら。
 クラムに残る物は何もない。ただ、空の甲冑があるだけだ。

 恐ろしいことだと思う。

 貴婦人を見るのはこの世にクラム一人だけだ。
 彼でさえそれができなくなったとしたら。
 この世界には真実の美がないも同然ではないか。

 そうなる前に。
 誰にも見せることはできなくとも。
 せめて貴婦人の美を語り残したい。
 真実の美はあったのだと、世界に伝え残したい。
 今、クラム・ハードシェルが望んでいることはそれだった。

 貴婦人を知る者はクラムだけなのだから、当然彼自身が行うべきことだった。
 そして、ただ言葉で語るだけではきっとその美しさを伝えることをできはしまい。
 貴婦人の美を信じさせるには、クラム自身がなにか偉大なことを成す必要がある。

 この上海に一人な騎士がいる。
 あの騎士が己の全てを捧げる貴婦人とは、どれだけ素晴らしい存在なのだろう。
 そう思わせなければならない。

 そして、クラム自身になにができるかと言えば、騎士として振舞うことだけなのだろう。
 その外見は変えられない。
 いかに中身が伴っていなくとも、騎士以外のなにかになることはできないのだ。
 彼に備わる不確かな知識をもとに騎士らしく見える行動をとる。
 それがこの上海を彷徨うこととなったクラム・ハードシェルの指針である。

 だが、一人の騎士にできることはたかが知れている。
 剣を振るってなにかを斬り、鎧の体を張ってなにかを守る。
 せめて正しい目的のための戦いであればいいのだが。

「クラム殿」

 なにか察したように目艮竟はクラムの目を見た。
 眼球はなくとも、そこに目があるべきだと彼が思う場所を。

「儂と同盟を結ぶというお話の返事を聞かせて頂けますかな」

 穏やかな声だった。
 答えを催促するというのでも、企みの中に誘い込むという風でもない。
 そういう道もありはすると、ただ選択肢を示すだけの言葉だった。

 魔幇について、クラム・ハードシェルはほとんどなにも知りはしない。

 ダイヤにまつわる騒動の元凶。
 ダイヤを狙う不届き者のうち、何人かの背後にいた怪しからん結社。
 上海蟹ランドにおいては、敵であり、敵の敵でもあった。
 身をもって知ったことはその程度である。

 目艮竟はあたかも真っ当な組織であるかのように語る。
 少なくとも本来はそうだったのだという。
 今ではなく、かつての理想を語っている。

 正気の者なら、老人の言葉を鵜吞みにはしないだろう。

 しかし。

「上海の全ての人々のために」

 目艮竟は細い枯れ枝のような手を差し伸べた。

「その言葉が真実である限りは」

 クラム・ハードシェルはその手を取った。
 人間とそのように触れあうのは、そういえばそれが初めてのことだと、ふとそんなことを考えた。

 護幇同盟、とでも言うべきだろうか。
 秋から冬へと移り変わる季節。
 窓の外では冷たい風が吹いていた。
 その時、確かに二人の手は結ばれていたのだ。


「直接会って話がしたい、か」

 毛の少ない熊のような男が大きな顎に大きな手を添えて呟いた。
 張三と名乗る男である。

 情報収集のために目艮竟に接触を図ろうとした矢先のことである。
 機先を制するかのように、かの老人から書状が届いたのだ。

 久しく顔を合わせていないが古い馴染みの一人である。
 油断ならない武道家ではあるが暴力を好む徒ではない。
 とはいえ、魔幇四天王に数えられる幹部だ。
 林希美、カリー・魔幣。張三に刺客を放った結果、魔幇は有用な人材を失うこととなった。

 もはや互いに不可侵を貫くことはできない。
 戦いは避けられないのだろう。
 目艮竟に与えられた裁量の大きさによってはいくらか言葉を交わす余地もあるだろうか。

「行くのは決まったことでしょ」

 林希美はきっぱりと言い切った。だが、その瞳は揺れている。
 魔幇の強大さを知る故の不安と恐怖、それ以上に再び知己と戦うことになる張三への気遣いのためだ。

 心の強い若者だ。あえて表に出しはしないが張三はこの小さな同盟相手のことを大いに心強く思っている。

 彼女の祖国、日本の武道においては心技体の三要素が肝要とされる。

 心は目を見張るものがある。
 魔幇に戻るのではなく立ち向かう道を選んだこと。戦いの際に見せる勇敢さと冷静さ。張三から武を学ぼうとする勤勉さを持ちながらも、日々の食を大いに楽しむことも欠かさない。共に過ごしたのはほんの数日であるが、美点ばかりが思い浮かぶ。

 技は見どころがある。
 殺手としての蓄積が悪い方に傾くこともない。能力と共に引き出される本能の動きとは全く別の精緻な武。わずかながらに身に付き始めている。惜しむらくは時間が足りない。
 否が応でも百年節の最後には魔幇との決着がつく。魔幇の支配を揺るがすという目的を考えれば、『麒麟の涙』を手に入れたことを示すに最も適しているのがその時だからだ。その時までに『麒麟の涙』はどうなっていることか。なんにせよ彼女の武がそれまでに完成することはあるまい。

 体は見るに堪えない、というほどでもないが悲惨である。
 大いに食べて鍛えてはいるが、それですぐに肉が付くものでもない。
 なにより土台となる骨が小さく、細く、薄く、脆い。
 責めを負うべきは組織である。彼女に人間らしい生活をさせるつもりがなかったどころか、生存すらも求めていない使い捨ての駒として扱っていたのだ。
 今、人としての命があるだけでも行幸だ。しかし戦士としては無視できない欠落を抱えているのも事実である。

 一対一の人間としてではなく、目的を達するための同盟として、『破幇同盟』は対等な関係ではない。
 林希美の戦う理由や決意を軽んじるわけではない。
 しかし事実として、張三にはより長く深い因縁と大きく強い力がある。
 同盟に誘ったのも張三からだ。その道に引き込んだ責任というものもあろう。

 張三は人生の先達として大いに先輩風を吹かせることにした。

「ああ、そうだ。かえって好都合かもしれん。訪ねても留守だったってことがなくなるからな」

 そんな軽口を叩いて数刻の後。

 会合場所として指定された魔人武器工房通りには宝山区の屋台街とは別種の熱気が充満していた。

 威勢がいいというよりは落ち着きがなく、活気があるというよりは病的な躁。
 通りの表では解決屋かマフィアかも定かではない荒くれ者たちと、彼らを相手に店を営む猛者たちの怒号、呼吸、汗。
 裏からは職人の仕事唄と鉄が鉄を打つ鍜治場の音が絶え間なく。
 そういった熱気が湯気のように立ち昇り、夏が戻ったかと思うほどにむさくるしい。

 目艮竟の本拠地である魔幇博物館はこの通りの外れにある。
 地の利は敵にあるかと言えば必ずしもそうではない。

 張三も日頃から足を運び懇意にしている店がある。
 鉄の武器を扱っているが張三が買うのは物ではない。
 通りを訪れる者の中に変わった者はいないか、近隣で変わったことがないか、魔幇博物館と目艮竟に動きはないか。
 そのような噂話を買っている。

 店主の心情がどちらかといえば目艮竟に寄っていること、目艮竟にも張三の情報を伝えているであろうことは織り込んでいる。
 直接顔を合わせることはなかったが、その店を通じて互いの行動は確認しあってきた。
 数十年来、水面下での行いはともかく、互いに明確な敵対行動を行うことはなかった。
 話を聞く限り人柄が変わった風でもない。
 昔を懐かしむ気分にはならない。
 他意なく口をついた言葉は。

「あいつ、老けたな」

 通りの一角を不自然に人が避けていた。
 空白の中心に立つのは二人。
 実った稲穂のように背の曲がった老人と奇妙な色彩の騎士。

 近隣に暮らす者はみな、その老人が誰かを知っている。
 小さな子供の頃、上海と魔幇の歴史を伝える彼の布袋戯を見た。
 入場料を取らない博物館は暇を潰すのに良い場所だった。
 近頃は随分と客が減ったという。
 子供の近寄らないような通りを作ったことを、みな心のどこかで悔いている。
 子供の頃は尊敬を、今となっては後ろめたさを胸に、その男の号を呼ぶ。

「――『魔幇博士』目艮竟」

 話がしたいなどと書いておきながら。
 ぶわり。白衣と眼鏡が風に舞う。
 そこにはもう枯れ木のような老人はいない。
 すじ雲のような眉が逆立ち、覇気の籠った双眸が挑戦者を射抜く。

 大きい。
 真っ直ぐに伸びた背。手には大太刀。
 なによりも、蓋世の気迫が途方もなく大きい。

「――『钢铁构架』張三」

 十全に備えた戦士に油断はない。
 鉄棍の構えは自然体だ。
 攻めることも守ることもできる。
 鉄棍を他の武器に変えることも、武器を手放し無手で戦うこともできる。
 蓄積された功夫には無限とも思える深みがある。

「――『飢鬼』林希美」

 彼女もまた鉄棍を持つ。
 遥かな高みにいる相手と向き合うことは何度繰り返しても恐ろしい。
 だが彼女は一人ではない。
 相棒の力を最大化するため堅実に自分の役目を果たす。
 相棒に頼り切りでいたくないから自分の限界を超える。
 彼女の二面性はどちらも前を向いている。

「我が名はクラム・ハードシェル。いと美しき貴婦人の名誉に適う戦いを誓う」

 奇怪な騎士がそのような文言を唱えた。
 余人にはその心を伺い知れぬ。
 ただ抜き身の両手剣が彼の性質を物語る。
 鏡の如く平らかでありながら針の先よりも鋭利な剣。
 現代にそぐわぬ怪異とも言えるか。

「クラム・ハードシェル。騎士の噂は聞いたことがあるが、組織に入ったのかい?」

「いや、故あって助力しているだけのこと。ソレガシも貴君のことは聞いている。正気だそうだな」

 不可解な言葉。
 張三は片眉を上げる。
 だが既に問答の段ではない。

「これこそは戚継光が振るいし苗刀! 歴史の重みを知るがいい!」

 雄たけびを上げる老人と無言の騎士がそれぞれの得物を掲げ、揃った歩調で張三に迫る。
 速い。

 目艮竟の能力は張三にも既知。「越老越好」は能力者の半径1メートル以内のあらゆる存在をその古さに応じて強化する。
 至近距離では敵にも恩恵を与えかねない力ではあるが、刃渡り1メートルを優に超える苗刀は相手を強化範囲に入れないまま攻撃することが可能だ。

 その危険性、戦い方は林希美にも共有している。

 張三の鉄棍が緞帳のように薄く広がり、クラムと目艮竟の間に割って入った。
 即席の壁沿いに破幇同盟が駆ける。

 張三はクラムの側、林希美は目艮竟の前に。

 張三目掛け輝く剣が振るわれる。
 鉄棍は壁に変えたまま、掌で剣の腹を打つ。
 流れた刃は鉄の壁を容易く裂いた。

 裂け目の向こう側。
 林希美の構えは防御を重視した型だ。
 釣り竿を操るような気軽さで目艮竟の手元が動く。
 そのわずかな動きが苗刀の切っ先に流麗な変化を生む。
 斬撃の軌道が変わり、すり抜けるように鉄棍を避けた。

「くッ!」

 回避のために身を捻ったのか、鋭い痛みに身をよじったのか、林希美自身にも判別がつかない。
 彼女の頬から赤い血が迸った。
 刃が迫ると見るや逃げに転じてなお躱しきれない。
 受け止めることに固執すればあるいは致命傷となっていたか。

 武道家としての目艮竟について、加齢も加味してカリー・魔幣には及ばないというのが張三の見立てであった。
 しかしその魔人能力「越老越好」は年経た物により大きな力を与える。
 張三が直接見知った往日の目艮竟は武器の古さを頼みとしていたが、今や使い手自身が百年余りの歴史を負っている。

 林希美だけでは勝てない。
 戦う前からそのように認識を共有していた。
 目艮竟が一人であり長物の武器を持っていたならば、張三が主体となり鉄棍を変化させ遠い間合いから抗する算段であった。

 ではこの現状は破幇同盟にとって予期せぬ不利であったのだろうか?
 そうではない。
 目艮竟に与力があった場合、その敵手は張三が受け持つと取り決めていた。
 魔幇四天王と同格以上の者が現れるとは考えにくい。
 手早く片付ければ二対一の戦いに持ち込むことができる。
 もしそうできないほど楽な相手でなかったとして、未知の強敵と戦う危険はやはり張三が負うべきだ。

 今の林希美であれば、目艮竟を相手に勝てずとも時間を稼ぐことはできる。
 そして長く重ねた時を強みとする目艮竟に対し、短期的な時間の経過は林希美に味方する。
 そう判断してのことだ。

 しかし。
 クラム・ハードシェル。
 楽な相手ではない、どころではない。

 張三はつかず離れずの距離を保ち、鉄棍でじりじりと責め立てる。
 先ほど壁に変えたものとは別、投げナイフの形にして持ち込んでいたスペアの鉄棍、その一つ。

 騎士は防御の構えを取らない。
 鉄棍を受け、押されることで立ち位置をずらされ、しかし素振りの鍛錬でもあるかのように型を崩すことはない。

 剣閃が煌めく。
 奇妙な剣だ。
 剣気はなく、殺気はなく、悪意はなく、敵意はなく。
 ただ心なき機械のように、触れる物の全てを切り裂く。

 無念無想。そう呼ばれるものとは異なるのかもしれないが。
 脅威であることには変わりない。

 四人の戦いが始まってすぐ、通りの野次馬は喚きながら逃げて行った。
 無関係な人間が残っていれば騎士も巻き込もうとはしなかっただろうか。
 少なくとも、命のない物体には遠慮するつもりはないらしい。

 張三は打ち合いながらも通りの真ん中から立ち並ぶ店の側に寄った。
 大した意味をなさない。
 店先を支える柱、棚に並ぶ武器、業物なまくらの区別なく、クラムの剣の前ではなんの障害にもならない。
 取り回しの悪さというものをまるで感じさせない。
 技術ですり抜けるのではない。
 無造作に両断する。

 一軒、また一軒と店が崩れる。
 投げナイフにした鉄棍をばら撒くまでもなく、そこらの店が並べていた武器が地面に散らばっている。
 張三が日頃から少しずつ武器屋に売りつけていた物も混ざっている。
 不意を打って能力を応用し檻を作ることはできる。
 剣を封じなければそれも無意味だ。

 細かな打撃を重ねることもまた無益だろう。
 クラム・ハードシェルの鎧が空であることを張三は既に知っている。

 関節を固め、鉄棍を枷とする。
 それが妥当ではあるだろう。
 空の鎧と言えど、その構造、その形を支える力の流れは人体と大差ないはずだ。
 己の功夫が通用する相手だ。
 林希美のことを思えば、早く仕掛けることに越したことはない。

 だが。
 間合いが遠い。

 剣に手を触れればいなすことはできる。
 そこから体を崩す流れも作れるはずだ。
 しかし最初の一閃以降、わずかに触れ合わない牽制の斬撃ばかりが続いている。

 鉄棍の打撃は真正面から受け止めている。
 しかし先端を触腕に変えて伸ばせば、間合いに入った瞬間、その部位が切り飛ばされる。
 速く、目が良い。それだけではあるまい。

 事実は明白だ。
 張三が林希美に目艮竟の力を説いたように、目艮竟はクラム・ハードシェルに張三の技を教えた。
 そしてクラム・ハードシェルは一人で張三を相手取れる。
 そのように信頼されている。

 さらに言うなら。
 クラム・ハードシェルの戦い方はさながら林希美のように時間稼ぎを主眼としている。
 林希美が自身の飢えを待つ一方で、クラム・ハードシェルは張三の衰えを望んでいる。
 生身の肉体を持たない騎士には疲労も空腹もない。
 持久力、耐久力、自身の強みを押し付けてすり潰そうとしている。

「貴君、先ほども聞いたが」

 唐突に、騎士が語り掛ける。
 集中力さえ削りに来たか。
 張三は答えぬ。

「魔幇を潰そうというのだろう。正気だな」

 答えぬ、わけにはいかぬ。

「ああ、そうだ。組織は歪んで変わっちまった。あいつが一番わかってることだろうが!」

 激情に駆られてなお鉄棍捌きが乱れることはない。
 剣との応酬の中、張三の脳裏に在りし日の光景が思い浮かんだ。


 少しずつ組織の在り方が変わっているのではないか。
 この頃はそのような疑念が胸の中に渦巻いていた。

 当初、同じ理想の下に集った仲間たちは互いに顔を見知った仲だった。
 一つの円のように、中心となる者はいたがそこに上下の区別はなかった。

 今は違う。
 いつの間にか顔も名も知らない構成員が増えている。
 彼らがどのような人柄で、どんな思いを抱えて組織の輪に入ったのかもわからない。

 輪ではなく塔のような格差を感じることもある。
 張三が見下されることはないが、変に見上げられるのも居心地が悪い。
 幹部などという要らない肩書まで与えられてしまった。

 もはや組織の全貌というものが張三にはわからなくなっていた。

 だが、組織の規模や構造よりも気にかかることがある。
 元より無謀な夢、理想を掲げた組織である。
 理解を示さない者、ついていけない者もいるだろう。
 それがわかっているから無理に人を誘うようなことはしない。
 そして、残念なことではあるが、やむにやまれぬ事情で組織を離れる者がいるのも仕方のない事なのだろう。

 問題は組織を抜けようとした者に苛烈な制裁が行われたという噂の流れたことだった。

 真偽はわからない。
 誰それがそんな目に合わされたと聞いても知らない名前だ。新入りの一人だっただろうか。
 そいつの方がただ抜けるだけでなく、組織に対してひどい裏切りを企てたのだという話もあった。
 ならば仕方のない事か。
 本当にそうだろうか?

 根も葉もない噂であればいい。
 そんなことを思う。

「小張、お前はどうする」

 目艮竟にそう問われた。
 幼馴染の一人で、同い年にもかかわらず、数日生まれが早いだけで兄貴面をしている男だ。いつだってわずかでも古い方が良いのだと嘯いている。
 知識の深さには一目置いているものの、しかしひょろりと長く頼りない体つきは到底尊敬する気になれない。
 自分とこの男との間に上下の区別があるとは全く思えないのだ。

 目艮竟もこれで多少は鍛えているからガキの頃よりましになってはいるのだが。
 争いが嫌いな目艮竟でさえそのようにしなければならない。
 ひどい時代なのだと思う。

「どうするってなにをだよ」

「この先の組織のことだ。自分で考えなくちゃならん」

 目艮竟は訳知り顔でそう言った。

「そうは言うがな。舵取りは头目(ボス)に任せてるだろ」

「それをこれからも続けるかって話だ。头目(ボス)のことは信じてるがな、なにぶん昔とは勝手も違う。受け持ちの部署のことくらい自分で決めんと头目(ボス)の負担も大きいだろうよ。これからはな、头目(ボス)の言いなりになっているようじゃ駄目なんだよ」

 そのような会話だったと思う。
 ずっと昔の、何気ないやり取りだ。
 細部は朧気である。

 ただ、あの時に目艮竟が語ったことは、头目(ボス)への裏切りなど意味していなかったはずだ。

 それからすぐ、目艮竟の脳髄に『蟲』が入れられたのだと聞いた。
 もう、魔幇(こんなところ)にはいられないのだと思った。


「組織は潰す。俺たち『破幇同盟』が潰して見せるさ。お前さんはどうして組織の味方をする? 噂じゃあ財宝を守ってるって話だな。賊の側に付けば狙われないって算段か? 言っておくがあの組織はそんなに甘い場所じゃない。組み込まれたらお前さんの大事なものまで差し出すことになるだろうさ」

 距離は離れたまま、鉄棍をぴたりと突き付ける。
 張三は揺るがない。
 騎士もまた、剣を止めて言葉を返した。

「故あって助力していると言った。魔幇ではなく目艮竟殿にだ。貴君には彼の思いがわかるのではないか」

「さてな」

 目艮竟の思いなど、今や知る由もない。『蟲』を入れられてなお組織への忠誠が残っているのだろうか。
 一人で組織から逃げた張三を恨んでいるのだろうか。
 それとも、もしかしたら、組織を離れた張三が、組織を潰すためについに立ち上がったことを、内心では喜んでいるのだろうか。

 少なくとも、今、目艮竟は魔幇四天王としてここに立っている。
 ならば立ち向かう外ない。
『蟲』を取り出した結果、カリー・魔幣のように意識不明になるのだとしても、この戦いは止められない。
 長い準備の時を経て、今、立ち上がったのはこの騒乱が好機だからというだけではない。

 林希美と出会った。
 噂だけでなく、組織が食い物にしている人物と出会ってしまった。
 一人の友のために立ち止まることはできないのだ。

「目艮竟殿は、『古ければ古いほどよい』のだと言った」

 騎士は語る。
 壊れたラジオのような、感情の読みにくい声色だ。

「ソレガシは貴君の選択が誤りだとは思わぬよ。話を聞いた限りでは逃げたとも違うようだ。戦うために待ち続け、備え続けていたのだろう。そういう手段もあるのだろう」

 騎士は語る。
 それが心からの言葉なのか、張三に知る術はない。

「だが目的には賛同できぬ。貴君は正気だ。ソレガシ達とは視座が違う」

 狂気の騎士は語り続ける。

「古く歪んだものを壊すべきではない。正しい姿に立ち返らせるべきだ。実現が不可能だとしても、理想が正しい物であるならソレガシは理想の側に立つ。目艮竟殿は古き理想の魔幇を取り戻そうというのだ。……実在しないもののために戦うことが貴君には理解できないだろうか? 目艮竟殿とソレガシだけではできないことも、貴君の力があれば違うのではないか?」

 古き、良き、正しき、理想。
 魔幇を潰すのではなく立て直す。
 目艮竟と共に?
 その言葉が張三にはひどく甘く、空虚な響きに思えた。

 よく知る姿よりも随分と老けたあの男。
 枯れ枝のような細い手が差し伸べられ、丸太のように太い手が握り返す。
 しなやかな枝は頼りなく見えても決して折れることはない。
 そのような情景を思い浮かべることはできる。

「俺たちは確かに理想を持っていた。でもな、間違えていたのは俺が組織を離れるよりもずっと前から。夢が現実になった最初の瞬間からどこか歪みがあったんじゃないか。今はそう思っている」

 目の前の敵を倒す。
 そして、早く林希美に加勢しなければならない。
 黒錆色の鉄壁の向こうで今も相棒が戦っている。

 目艮竟と握手を交わす。

 そのような光景は、もはや幻影の中にしかない。

 総身に力を入れ直す。

 瞬間、クラム・ハードシェルの背後。
 鉄の壁が弾け飛ぶのを見た。


「さあ、どうした! 功夫を見せよ!」

 目艮竟は叫びながらも責め立てる。
 林希美には無駄な声を出す余裕はない。
 時間を稼げばやがて『飢鬼』が発動する、あるいは張三が加勢に来る。
 戦術としてはそれが正しい。

 だが、好機を掴むにはただ待てばいいというものではない。
 幸運が訪れていない時には、幸運を最大化する仕込みをする。
 それもまた張三に教わったことだ。

『飢鬼』が発動しても強化された身体能力だけでは目艮竟に及ばない。やはり活路は破調にある。
 今は戦いのテンポを遅くするべきだ。
 張三のような技術があればそういうこともできただろうが。

 振るわれる苗刀の速さに対して、幾つもの意図を込めた動作で牽制するということはできない。
 思考も反射も間に合わない。
 対応できているのが不思議なくらいだ。

 避けるしかなかった初撃と違い、苗刀を鉄棍で受け止めることができている。
 遊ばれているのか。
 向こうにも林希美を生かしたままにしておきたい意図があるのか。
 例えば、張三が合流した際に人質に取るのだとか。
 張三と完全に敵対することを避けているのだとか。

 林希美にはわからない。
 わからないなりに現状に対応する。

 張三が用いる守りの構えは全ての攻撃を防ぐ無限の分岐を内包しているのだという。
 あくまでも、実際の防御行動をとる準備段階として、派生先が多いというだけの話だ。

 構えから一度動き出せばほとんどの可能性は消える。
 だがそれでいいのだ。
 いかなる可能性を秘めていても、それ自体が現実に影響を与えることはない。
 戦いは取捨選択だ。
 不要な選択肢を捨て、有用な動作に集中する。
 それを互いに行えば、するべきこともできることも自ずと絞られる。

 今、まさに、苗刀の切っ先を鉄棍で受け止めたこの瞬間。
 先ほどから繰り返している、互いの武器が接する瞬間。
 選択肢は絞られる。

 即ち、押すか、引くか。
『越老越好』の力場から出た切っ先には鉄棍を切断する力はない。
 わずかに食い込み、互いの武器をほんの一瞬拘束する。

 押されれば引き、引くようなら押す。
 その選択肢を見極め、一瞬の拘束を引き延ばす。

 戦いのテンポを遅くする。
 それが確かにできている。
 組織の殺手であった頃にはできなかった精緻な戦い。
 ほんのわずかではあるが、張三から教わった技が自分の中に生きている。
 それがたまらなく誇らしかった。

 また一合、打ち合わせ――。

 瞬間、苗刀の切っ先が砕けた。
 戚継光の物というのが真実かは定かではない。
 だが、古い武器には違いがなかった。
 手入れはされていたらしいが寿命というものはある。

 これもまた好機。
 林希美に余裕はない。
 余裕はないが強いて声を出すことにした。

「目艮竟! 『麒麟の涙』について聞きたい!」

 砕けたのは力場の外に出ていた切っ先だけだ。
 元より長刀、凶器としてはまだ十分使用に耐えうる。
 間合いに踏み込む好機ではない。
 ただ、不慮の出来事で目艮竟の心がわずかに揺らいだ可能性はある。

 故に呼びかけ。
 素直に話すとも、手を止めるとも期待しない。
 しかし相手に余計な思考をさせることはできるかもしれない。
 答えは果たして。

「ああ、僕もだ」

 全く不意に、知らない声が響いた。
 轟音と共に鉄壁が弾けた。


「いや、『麒麟の涙』そのものは別にいいんだ。探さなくても直に戻ってくるだろうから」

 どこからともなくやってくる。
 足音立てて、やってくる。

 実際のところ、徒歩だったろうか。
 接近には誰も気づかなかった。

「この騒ぎを起こした奴を知りたい。つまりダイヤを盗んだ奴と、ダイヤに懸賞を懸けた奴」

 通りを舗装する煉瓦タイルが砕け散り、灰色の土煙が撒きあがっている。

「カリー・魔幣が欠片を持っていたそうだね。彼女が盗んだということかな。欠片を誰かに託したそうだね。協力者がいたのかな」

 穏やかな、ただ穏やかであるだけの声だった。
 凪の海。吠える獣もいない夜。
 呼びかけはすれど訴えず。問いかけはすれど責め立てない。
 そのような声だった。

「そこのキミ、なにか知らないかい」

 土煙が晴れるより早く、劇的な反応を示したのは二人。

 目艮竟は半壊の苗刀を放り捨て長揖の礼で迎えた。

 張三は顔をこわばらせながらもその声を振り払うかのように、クラム・ハードシェルに突進した。

 クラム・ハードシェルは動けない。
 来訪者に注意を向けた一瞬の内にその腕を張三に捕まれた。

 林希美は動けない。
 ■■■■は現れただけだ。
 脚に力を込めて踏み込むまでもなく、ただ現れただけで地を震わせた、そのバカみたいに強大な気配に呑まれている。

 時間が鈍化したような光景だった。
 張三と彼が掴むクラム・ハードシェルだけがひどく緩慢な動きをしている。
 その他の全てが静止している。

 外見だけを見れば騎士は自ら膝を屈したようでもあった。
 力を込める。その力は腕を背に回し、脚を曲げて座り込む、そのような形を取るように流れる。
 瞬く間に鉄の枷をはめられた。
 手枷足枷に留まらず、全身の関節が抑え込まれている。

 土煙が晴れる。
 張三は最早騎士には目もくれず、一匹のガキに向き合った。
 飢鬼のすぐそばに立つ餓鬼。
 見ようによっては子供が二人。
 そうでないことを知っている。

 本当にそうだろうか?

 ■■■■の素性は誰にも知られておらず、多くの者が正体を知りたがっている。
 いつかどこかで魔幇四天王の中でも最も魔謎に包まれた魔秘密主義者は「ブラックボックスの中身はなんだろな?」と嘯いた。
 ■の中身は誰も知らない。

 本人ですら何をどれだけ覚えているというのだろう。
 長い永いながい年月で擦り減って躰かたちだけはととのえて。
 記憶も何も虚ろなままで上海を徘徊する■■■■となっても尚。
 記憶や思考をするはずの脳という器官に『蟲』は巣食っておらず無事である。少なくとも、物理的には。

 目艮竟はうわ言のように呟いた。

「『魔幇』に王の資格なしとして、『麒麟の涙』は砕け散ったのです。誰が盗んだ物でもありませぬ」

 安っぽいアニメの服を着ておもちゃのようなアクセサリーやベルトをつけた童女。
 ■■■■は、そんなおびえるような万年生きる亀のような老人に対して、驚くほどやさしい雰囲気を向ける。

 穏やかな目。
 全ての命が泥のように眠る夜を押し固めたような。
 光がなく。
 何も返さない目。

「何、本当に計算外だな。魔幇そのものに原因があるのかな?」

「そもそも『麒麟の涙』自体が役目を終えた物です。今となっては博物館に飾るべき遺物に過ぎません。欠片を持つ者が争ったところでまたすぐに砕け散るだけでしょう」

「話を逸らしていないかな?」

「順序が逆なのです。麒麟が王を選ぶのではなく、仁君の治める世でしか麒麟は生きられないというだけのこと。なればこそ麒麟は涙だけを残して去ったのです」

「今、欠片を持っているのは誰だい」

 餓鬼のすぐそばの飢鬼は立っていない。
 そこにいるというだけで、ひどく消耗している。
 ひどく腹が減っていく。
 本能が体を突き動かす。

「うう」

 強者には従わねばならぬ。
 本能の命じるまま跪いている。
 そして、獣のように啼いた。

「キミが盗んだのかな」

「カリー・魔幣から、受け取った。夢の、中で」

 息も絶え絶えに飢鬼は呻く。

「カリー・魔幣。彼女が欠片を持っていたそうだね。でも、それは誰だったかな? 夢の中の人だったかな?」

 チャイナマフィア『魔幇(まほう)』の前身と言われている宗教団体『魔幣(まへい)』の頃からの幹部、カレー部門所属。カレー部門というが構成員は彼女だけである。とあるカレー屋の裏のゴミ捨て場を縄張りにしてたスラムのガキからの成り上がりで学もないし理性もないし知性もないし人間性もないし乳もないし尻もないし色気もない。金曜日はカレーの日と言って金曜日にしか働かないが別に年がら年中カレーを食べている。

 本当にそうだろうか?

 誰かの義姉だった用な気もするし、魔幣(マルシェ)印の『嘉隷奴匆抗夫(カレー・ド・スコープ)』を実働部隊に配給していたような気もする。
 どちらかが幻覚だったのだろう。
 あるいはどちらも幻覚だったのだろう。

「キミは知ってるかい」

 その目を向けられて、張三は答えることができない。
 彼も大概老けないのだが、彼女はかつてとまるで変わらない。少なくとも、外見だけは。

 数十年来、直接顔を合わせることはなかったが、その行状については噂を聞いている。

 魔都、上海の端。
 魔外れに存在する魔スラム街。
 魔空き地に積まれた魔土管の上で子供たちと遊んでいるのだという。
 子供たちの輪の中にいつの間にか入りこんでいるのだという。
 ヒーローに憧れる子供たちの夢を笑わず肯定するのだという。
 百年近く前からそのようなことを続けるガキなのだという。

 誰かと遊んだはずなのだけど、それが誰だか思い出せない。
 上海にはそんな怪談がある。

「キミは誰だったかな」

 そのガキは張三を見てそう言った。
 かつて一緒に遊んだ気もするし、そうでない気もする。
 桃三李四を心得た張三李四。
 少なくとも今、『怪人』でないのなら。
 戦うべき相手ではない。

「キミは誰だったかな」

 そのガキは目艮竟を見てそう言った。
 かつて一緒に遊んだ気もするし、そうでない気もする。
 (さからう)(おわる)
 ひどく不吉な名前だと揶揄われていたような気もする。
 少なくとも今、『怪人』ではないのだとしても。
 ■■■■に逆らう裏切り者であるのなら。

「張三殿」

 バカみたいに強大な気配を意に介さない風に。
 クラム・ハードシェルは呼びかけた。

「あの者は誰だろうか。貴君の味方か。目艮竟殿の敵か」

「果成いっぽ」

 張三は簡潔にそれだけ答えた。
 今の彼女について、噂でしか知らない。
 少なくとも、『魔坊童婦』の号と共に知られる名前だけは変わっていないようではあるが。

「キミは誰だったかな」

 そのガキは、クラム・ハードシェルを見た。
 かつて一緒に遊んだわけはないが。
 よく知っている姿だという気もする。
『蜃気楼鬼貝故事』という説話を原型とした物語。
 誰が話したことだったろう。
 とっくに擦り減った虚ろな記憶。
 今は思い出せそうな気がする。

 本当に、思い出していいことだろうか?

 果成いっぽは目を逸らし、目艮竟に目を向ける。
 その目には確かな殺意を宿している。

「張三殿」

 クラム・ハードシェルは再び呼びかけた。
 まるで感情の読み取れない声だ。
 それでも理想を信じているのか。
 張三が目艮竟を助けるという理想を。

 音が聴こえる。
 何故聞こえてくるかに意味はない。
『ヒーロー』が『怪人』に勝つときには勝利のBGMが鳴り響く。それはもはや常識。
 それも幻覚なのだろうか。

「張三殿」

 大男は、果成いっぽに立ち向かうことはなく、クラム・ハードシェルの拘束を解くこともなく。

 高く高く飛んだ果成いっぽの。
 ただただ実直な『まっすぐ』な蹴りが。

 炸裂し、爆発する。
 本当にあった出来事だ。幻覚ではない。
『ヒーロー』に蹴られた『怪人』は爆発四散する。それはもはや常識。

 目艮竟が爆炎と白煙に咽ぶ。

 蹴りを受けたのは、熊のような膂力で投げ込まれたクラム・ハードシェル。

 白煙が晴れる。
 おもちゃのホログラフィー仕様の魔人ライダーカードのようでいて安っぽくはない光を放つ不壊の騎士。
 鉄枷だけが跡形もない。

 果成いっぽの脳髄で『何か』が疼く。
『蟲』が入っているわけもないのに。


【私はね!なりたいんだ!■■■!】
 本当に俺たちがガキだった頃。

【この国に!私たちが暮らせるように!!】
 憧れていた『ヒーロー』は。

【あの■■■■みたいな、皆の拠り所になれる―――】
 安っぽい服に描かれたアニメのキャラクターではなかったはずだ。

【『ヒーロー』に!!】
 テレビなんてなくもないおおよそ百年前のことだもの。

 魔都、上海の端。
 魔外れに存在する魔スラム街。

 上海には古くからの掟がある。

「魔人たちの問題は、魔人たちで解決する」

「『普通』の人間がお前たちの面倒を見ることはない」

 しかしこの街の半分は彼らのもの。
 ならば上海全てを巻き込む問題には魔人たちも力を尽くすべきだ。

 そのような言い分がまかり通る動乱の時代。
 魔人たちを食い物にする社会の中で、立ち上がり戦う者が現れる少し前。

 押し込められた自治区の中。

 三男坊には兄が二人。
 血を分けた兄と杯を交わした義兄。
 そんな関係が結ばれる少し前。

 戦いを知らないガキだった頃。
 年の離れた兄や、そこに寄り添う女とは別に、共に遊ぶ友がいた。

 遊びの題材はいくつもあるが、一番人気は決まっている。
 魔人からも外れた『怪人』をやっつける『ヒーロー』の真似事。

『ヒーロー』は自治区で有名な解決屋だったり、布袋戯で演じられる歴史上の人物だったり、子供の一人が好んでいた説話の戦士だったりした。

 少しだけ年長の女の子はいつも『怪人』の役を請け負ってくれていた。
 お前たちはちゃんと『ヒーロー』をやるんだよ、と笑いながら。

 ある日のことだ。

 説話だとか、昔話だとか、歴史だとかが好きな、ひょろ長い体つきの男の子が、自分たちでヒーローを考えたいと言った。
 仲間もみんな乗り気だった。

 みな好き勝手に設定をつけ足し、理想はどんどん膨れ上がる。
 口に出すだけで書き留めることもなく。
 形ある物として残ることはなかったけれど。

 怪人に負けない強さが欲しい。 / 何をされても傷つかない。
 見た目はとてもかっこいい。 / ピカピカ光る鎧を纏う。
 どうせならお金持ちがいい。 / 財宝の在り処を知っている。
 食べ物も分けてくれたらいいな。 / 彼自身は何も食べない。

 名前はどうしようか。

 大人たちが話してたんだけどさ。
 魔幇ってのがあるらしいぜ。

 魔人が助け合う幇って意味の名前だよ。
 上海では昔から何度も作られてるんだ。

 それじゃあ、ヒーローの名前は。

 ■■■■!


「お前、■■■■なのか?」

 ガキらしい言葉づかいでガキが問う。

 それはまるで『ヒーロー』のようで、だとしたら、あの時語った理想が現実になったと言うのだろうか。
『ヒーロー』に憧れた誰かが本物になれたというのだろうか。

『怪人』を倒す爆炎から無傷で現れ、誰かを守るために立ちはだかる。

 それはまるで『ヒーロー』のようで、だとしたら、それと戦う自分はいったい何に『成って』『果てちまった』のだろう。

「生憎だがソレガシには確かな記憶がない。■■■■という名も聞き覚えはない」

 魔人能力で成り立っている幻覚なのだという確信はある。

「何をされても傷つかない。ピカピカ光る鎧を纏う。財宝の在り処を知っている。お前自身は何も食べない。それがお前なんだろう?」

 確かに当てはまってはいる。
 しかし看過できない欠落がある。

 果成いっぽの話す言葉は、あるいは騎士の真実に迫るものではあるのかもしれない。

 しかしそれが彼にとってなんだというのだろう。

 なんのためにうまれたかは知らずとも。
 なにをしていきるのかはとうに自分で決めている。

 生きている、そう言えるのかはわからないが。

「ソレガシの名はクラム・ハードシェル。美しき貴婦人にこの身を捧げる者」

 クラム・ハードシェルの正体とは、貴婦人を守る騎士だ。
 それ以外の何者でもない。
 そうであると彼自身が決めた事実である。

 果成いっぽは何故だか泣きそうな顔をした。
 もはや言葉は出なかった。

 そんなのはあんまりじゃないか。
 本物のヒーローなのだと言ってくれ。
 ヒーローならば、助けてくれると言ってくれ。
 俺には用意できなかったハッピーエンドを与えてくれるのだと言ってくれ。
 歪んじまった俺たちも正しい道に戻れるのだと。

 そうでないなら、お前は偽物で。
 俺が■■■■になるしかないんだ。

 ■■■■は地を駆ける。
 高く高く飛んで蹴りを繰り出すことはなく。
 拳を実直にまっすぐに突き出して。

 たとえ相手が決して形を変えることがない不壊の鎧だとしても。
 また来週が訪れるまで空の星へと変えられる。
 相手を傷つけることはなく、ただ勝利するだけの拳。

『ヒーロー』とは『怪人』を倒す者ではなく、食い物を分け与えてくれる人のことではないだろうか。

 果成いっぽは絶叫する。
 ■■■■(魔幇マン)になり切って。

■■■■■(モーパンチ)!」

 しかし、果成いっぽにいかなる正義が宿ろうとも。
 彼女の力は怪力乱『神』の域にある。

 地を駆けるだけで地が割れる。
 叫びを上げれば空が裂ける。
 拳を振るえば、誰も傷つけないなどあり得ない。

 巻き込むつもりはなかった子供のような女が視界の隅で崩れ落ちる。
 それに駆け寄った大男の体にも、飛び散る瓦礫が無数の傷を作っていた。
 自身は『怪人』ですらない『怪物』なのだと思い知らされる。
 不壊の騎士もきっと、来週になっても帰っては来れない所まで吹き飛ばされるのだ。
 俺が消し飛ばしてしまうのだ。

 そんな絶望を纏う拳を。
 騎士の手が掴む。

 握手のように?
 いいや、先ほど張三がクラム・ハードシェルにして見せたように。

 めきめきと軋む音がする。
 クラム・ハードシェルが傷つかない幻覚だというなら、その音こそが幻覚だろうか。
 クラム・ハードシェルの未熟な化勁が、果成いっぽの力を無秩序に散らし、上海全土が悲鳴をあげているのだろうか。

 軽い空の鎧の足が宙に浮いた。
 嵐に吹かれる旗のように騎士の体がぐらぐらと揺れる。
 それでも、拳を掴む手を離すことはなく。
 もう片手で剣を地に突き立て、耐える。
 長い永いながい年月とも思える一瞬が過ぎる。
 やがて騎士は元通りに地に足をつけた。

 果成いっぽもまたその場に崩れ落ちた。
 体ではなく心の中で、大切な何かが崩れ落ちた。

 たった一撃の拳の余波で、クラム・ハードシェルを除いて、その場の誰しもが限界に達していた。

 しかし、結果だけを見れば。
 辛うじて死者が出ることもなく。
 戦いは終わりだ。

――そんなハッピーエンドを許さない者がいる。

「後は任せましたぞ」

 目艮竟が呟いた。

 脳髄で『蟲』が疼く。


 ドク、ドク、ドク、ドク。
 老人の心臓が鼓動を刻む。

 ついに待ち望んだ時が来たのだ。

 血潮巡る脳髄の中、一匹の『蟲』が歓喜に震えた。

 この男の身中に巣食ってどれほどの時が経っただろう。
 余りにも長い時をただ雌伏して過ごしていた。
『蟲』には『蟲』の務めがある。
 徒に苛めばいいというものではない。

 古き『蟲』にとって、目艮竟の头目(ボス)に対する忠誠が薄いというのは自身が存在する前提である。
 忠誠が薄くとも組織にとっては利用価値があるからこそ『蟲』入りとなるのだ。

 目艮竟が内心で何を企もうと、表立って反抗を試みない限りは『蟲』が力を振るう理由は不足している。
 だが果成いっぽが敵と見なしたのなら、それは『蟲』が動くには十分な理由だ。
 あの方の手を煩わせるまでもなく、この『蟲』が目艮竟を真に魔幇の一員として生まれ変わらせて御覧に入れよう。

 意気揚々と身を躍らせたが、そうは上手くいかなかった。
『越老越好』。厄介な能力だ。
 古さに応じて力が増す。速度が増す。
 その神髄は強度の増幅だ。
 力場の中では新しい物は決して古い物を傷つけられない。
 それほどの強化幅がある。
 口惜しいが能力を行使している間、この老人に影響を与えることはできなかった。

 今は違う。あのお方の戦いの結果、能力を維持することもできなくなった。
 こうなれば支配は容易いことだ。
 そして再び能力を使わせる。
 なあに、限界を超えて動かすことなど、それもまた容易い事よ。


 立ち上がった目艮竟に対し、クラム・ハードシェルをは剣を向けた。
 何が起こったかは理解している。
 そうなる可能性はあらかじめ伝えられていた。

 戦うのか。
 張三が目で問いかける。

「盃は交わさずともソレガシは同盟を結んだのだ。彼の望みは叶えたい」

『蟲』に支配された者の望み。
 愉快な想像はできない。

 闘気溢れる目艮竟は地面に散らばる武器の中から一対を選び拾い上げた。
 三日月と地平線が組み合わさったような形状。
 彼に意識が残っていれば董海川が用いた鶏爪鴛鴦鉞だと嬉々として語ったことだろう。
 それが事実かは問題ではない。
 重要なのはこれが拳の延長に刃を生やすような、至近距離で使う武器だということだ。

 クラム・ハードシェルが振るう剣を目艮竟がいなす。
 騎士は異様な手応えを感じた。
 剣の切っ先だけが『越老越好』の力場に入ったことによる影響。
 速さを増した剣に振り回されるような感覚。

 強化とは言え意図しないもの。
 それも全身ではなくごく一部だけ。
 武術の歯車が狂う。

 これは、不味いか。

 目艮竟にクラム・ハードシェルを打倒する手段はない。
 しかしクラム・ハードシェルが大きな隙を晒せば未だ身動きできぬ張三に狙いを切り替えるはずだ。

 目艮竟に張三を殺させるわけにはいかない。
 それは誰もが望んでいない。

 やはり、斬る。
 そうするしかないのだろうか。
 そも『越老越好』の護りには騎士の刃も通るかわからぬが。
 斬れるとしたら。
 斬ってよいのか。

 クラム・ハードシェルの中に一抹の迷いが生まれていた。
 彼は自分の心に戸惑った。
 旧フランス租界を後にしてからの日々の中で、自身の何かが変質していることを感じていた。
 その精神の動きは、戦いの中では一瞬の隙となった。

 目艮竟が高く高く跳躍し、クラム・ハードシェルを飛び越え、張三へ躍りかかる。
 張三はまだ動くことができない。
 クラム・ハードシェルを除いて、その場の誰しもが限界に達していた。

 本当に、限界だったのだけれど。

 ぎん、と甲高い音が響く。

 鉄棍が鶏爪鴛鴦鉞を受け止めている。

 空腹状態から、戦闘によって肉体を酷使し、さらにエネルギーを費やした状態。
 エネルギーが切れれば身動き一つできなくなる。
 限界と呼ばれる領域で彼女は動く。
 この数日、大いに食を楽しみ肉体に貯えたはずのエネルギーが、恐ろしい速度で費やされていくのがわかる。
『飢鬼』を発動してなお、『越老越好』により強化された目艮竟と比べれば、非力で遅い。
 この一撃を防ぐことができたのは偶然の産物だ。
 動かないはずの者が動いた、それが破調となりフェイントとして機能したに過ぎない。

 それでも、張三を守るのは彼女なのだ。
『飢鬼』林希美こそが『破幇同盟』を締結した協力者にして張三の食べ歩き仲間なのだから。

 本能が体を突き動かす。『飢鬼』とはそういう状態なのだと考えていた。そうではないのだと今ならわかる。
 今、この体を突き動かすものが。
 動物的な本能でしかないのなら、先ほど果成いっぽにそうしたように、強者に相対すれば服従か逃走を選んでいたはずだ。
 無秩序な破壊衝動でしかないのなら、力を振るう相手を選ぶことはなく、誰かを守るために戦うことなどできないはずだ。

 今、この体を動かしているもの。
 それはやはり自分自身だ。
 身体の速度に意識は追いついていない。
 しかしそこには自身の生きた積み重ねがある。
 思考なき反射の中に、張三の何百分の一か、積み上げた功夫が技巧を宿す。
 重ねた修練が体に染みこみ、それが自身にとってごく自然な動作となる。
 無意識が武術の形を成す。

 無念無想。そう呼ばれるものとは異なるのだろう。
 戦闘速度に置いて行かれる程度の、朧げな思考も消えてはいない。
 目艮竟の『越老越好』を打ち破り、痛打を与える方法を。
 この老人の体さえ掴むことができれば。

 しかし、どうしようもなく。
 目艮竟は強者なのだ。
 肉体の速度が追いつかない。

 林希美だけでは勝てない。
 戦う前からそのように認識を共有していた。

 目艮竟の長い腕がしなり、劈掛拳の劈を振り下ろす。

「――『鉄杵』、解除」

 そうすることだけは、できた。
 立ち上がることはできないが。

 鶏爪鴛鴦鉞が鉄棍へと戻った。
 日頃から少しずつ武器屋に売りつけていた物だった。
 武器の種類をそれとしたのは、目艮竟が好んで用いると知っていたからだ。
 実際に彼がそれを手にするのは、万に一つの可能性だと思っていたけれど。

 手の内で伸びた黒鉄が杖の如く地をつき、半端な高さで劈を止めた。
 幅広い刃のままであれば、それでも林希美を叩き斬っていたかもしれないが。
 細い鉄棍は彼女の髪をわずかに掠めただけだった。

 静止した目艮竟に林希美は手を伸ばす。
 だが、足りない。
 それでもまだ、目艮竟の速さが上回る。

 飛び下がる目艮竟の背に、何か固い物がぶつかった。

 剣を手放した騎士がその体を捕まえた。

 かつての自分なら斬り殺すことを躊躇わなかったはずだ。
 それが良いことか、正しいことか、クラム・ハードシェルには判断がつかない。
 そもそも正しいとはなんだ。 

『古く歪んだものを壊すべきではない。正しい姿に立ち返らせるべきだ』

 張三には偉そうに目艮竟の受け売りを語ったが。
 真実の善、真実の正義、そういったものに出会ったことはない。

 結局のところ、クラム・ハードシェルに理解できるもの、信じられるものは真実の美だけなのだ。

 真実の美。それならばこの目で見たことがある。
 美しさとはただそこにあるだけのものだ。
 何も訴えず、何も導かない。
 正しさを押し付けることはなく、役に立つということはない。
 ただ、見た者の胸を打つ。
 それを守りたいと思う。
 貴婦人が彼に言葉を掛けることはなく、何かを望むこともない。
 それ故にその身を捧げられる。

 空っぽの騎士に正しいことはわからない。
 だから、美しいと思うことをすることにした。

 彼はその幻影を信じている。
 それが実現できるかは知らぬ。
 だが、目艮竟と張三が再び手を取ることがあれば、その光景はきっと美しいはずだ。

「張三殿――」

 名を呼ばれたとて、できることは何もない。
『蟲』をどうにかしなければ目艮竟に自由はなく、『蟲』をどうにかしても目艮竟は目を覚まさないのではないか。カリー・魔幣がそうだったように。

「――『張一族の秘伝』の用意はあるか」


 張三とクラム・ハードシェルが初めて顔を合わせたのはつい数刻前のことである。
 目艮竟からの書状を届けに来たのが他ならぬこの騎士であった。

「面くらい見せたらどうだい」

 あるいは名の知れた使い手が仮装したものか。
 そう疑いをかける張三に、騎士は兜のバイザーを上げて見せた。

 そこに人の体はない。
 底の浅いがらんどうだ。

 布に包んだダイヤさえ魔幇博物館の収蔵庫に置いて来ていた。
 そうするだけの信用はあった。
 目艮竟は美しいことの何たるかを知っている。

「興味本位で聞くのだが――」

 さすがに意外だったらしく呆気にとられた様子の張三に、クラムは一つの問いを投げかけた。

「――『張一族の秘伝』とはなにか」

 そういうものがあるのだと、どこかで聞き知ったらしかった。


 その状況は誰にとっても全く予想外のものだった。
 そうなることを意図した者はただの一人もいなかった。

 クラム・ハードシェルの疑問は言葉通りに興味本位のものだった。
 それがそこにあるということを、今の今まで知らなかった。

 張三はそれがなんであるかを知っている。
 戦いの役に立つようなものではないと、彼が一番よく知っている。
 それを持ち込んだのは万に一つの可能性のためだ。

 もし、本当に万が一、久しぶりの再会をして、戦いになることがなかったとしたら。
 手土産の一つもなければ格好がつかない。
 それだけの理由で持ち込んだ。

「――『鉄杵』、解除」

 林希美の服の隙間からそれが落ちた。
 身を守る腹巻に変えてつけさせていた鉄棍と、その中にしまっていた保温容器。
 中身は三蒸臭でもないしカレーでもない。

「それをどうするっていうんだよ」

 張三の疑問に答える者は。

「食い物だろ。分けてやろうよ」

 聞き覚えのある声がした。

小張(張ちゃん)小目(目ちゃん)、よくがんばったね」

 誰よりも激しく戦って、誰よりも早く擦り切れた。
 その目には光がなく、記憶も何も虚ろなまま。
 どうして今、立ち上がって、そんな言葉を吐いているのか、彼女自身もわかっていない。

「俺も、もうちょっとだけ恰好つけてもいいかな?」

 騎士の体が振り払われる。
 ただ一度受けただけの張三の技の真似事。
 いつまでも通用するものではない。

 入れ替わるように近づいた女は。
 張三の義兄さえ大姐姐(ねえさん)と呼ぶ、この場にいる誰よりも少しだけ年長の女の子は。
 目艮竟の限界を超えた暴力も、『越老越好』の力場も、なにも、物ともせずに。
 いとも容易く押さえ込む。
 傷つけることなく、とはいかないが。

 入れ替わるように離れた騎士は。
 地面に転がる密閉容器に手を伸ばした。

「ソレガシには不要の物ではあるが」

 蓋に不器用な手をかける。

「人間に関して一般的な知識はある」

 まだ十分に暖かい。
 透き通ったスープの中で、白く厚い皮がぷるぷると揺れる。

「食い物は命を繋ぐのだろう」

 躊躇うことなく、騎士は老人の口にそれを流し込んだ。
 目艮竟の意識が残っていれば、瞠目して語ったことだろう。

 張一族の秘伝。

 歴史的事実とは言い切れず、あるいは伝説、俗説の類だろうか。
 後漢時代の名医、張仲景が凍傷で苦しむ人々のために作った寒膠耳湯がその料理の起源であるという。

 即ち、水餃(シュイジャオ)
 日本では水餃子、そう呼ばれる物だ。


 ドク、ドク、ドク、ドク。
 老人の心臓が鼓動を刻む。

 血潮巡る脳髄の中、一匹の『蟲』が煩わし気に震えた。

 目艮竟の力を引き出してやっているというのに、張三一人殺すのに思いの外手間がかかっている。

 それだけでも不愉快ではあるが、鬱陶しいモノが邪魔をする。
 取るに足らぬ免疫細胞ども。
 昔からなにかとちょっかいをかけてきた屑どもだ。

 生意気なことに目艮竟の一部ではあるから、『越老越好』を使う間は連中も多少力が強くなる。
 だが程度の差はあれ強化を受けるのはこちらも同じこと。
 雑魚どもを叩き潰すことはできなくなるが、こちらが痛手を負うこともない。
 そもそもの力の差というものがある。

 だというのに。

 その好酸球たちに心があれば、熱く滾っていただろう。

 敵は巨大だ。
 人から見れば指先より小さな虫であろうと、細胞から見れば強大極まる悪竜だ。

 だがそれでも。
 我らがいかに小さくとも、目艮竟であることに違いない。
『越老越好』の加護があれば、より古き我らに負けはない。

 しかし打ち勝つこともできなかった。
 これまでも機を得るたびに果敢に戦い、しかしこの泰山の如き敵を動かすことすら叶わなかった。

 だが、今日はなにかが違う。
 不思議な力が湧いてくるのだ。

 よもや先ほど口にした水餃子のおかげか?
 浮かんだ思い付きを鼻で笑う。

 所詮はただの食い物よ。
 いかに滋養に溢れようと薬味の力などたかが知れている。

 張一族の秘伝などと大仰にふかしても、これは飢えを救うだけのものだ。
 虫下しの秘薬などでは断じてない。

 そうだ、ただの食い物でしかない。

 だがそれでも。
 美味かった。

 奴の水餃子を食べたのは、何時ぶりのことだろうか。
 我ら細胞の一つ一つに不思議な力が湧いてくる。

 いや、不思議ではないか。
 美味い飯を楽しんだのだ。
 全身に力が湧いてくる。
 そこに何の不思議があるものか。

 今日こそは目に物見せてやる。
 我ら小さな細胞なれど。
 紛れもなく『魔幇博士』目艮竟なのだ。

 誇り高きその名の意味を知れ。
 我こそは(おわり)(さからう)者なれば。
 号も持たぬ虫けら如きに負けるものかよ。

 ……などということは。
 単細胞の一つ一つがそのように猛っていたなどということは。
 ただの幻覚であるのだろうけど。


「彼の身の内のことは彼自身の生命力に任せるとしよう」

 クラム・ハードシェルは呑気とも思える様子でそんなことをほざいた。

「これ以上、俺が押さえたら殺してしまう」

 果成いっぽは虚ろに呟いて目艮竟の体を手放した。

 目艮竟の動きの質が変わっている。
 限界の領域で暴れ狂うことに変わりはないが、どこか焦りのようなものが感じ取れる。
 果成いっぽに掴まれた部位には一目でそれとわかる痣が残っている。

「でも、止めないと、あの人自身の体力が持たない」

 本当に限界を超えればそれだけで死ぬ。
 林希美は身体感覚としてそれを理解している。
『越老越好』を攻略する算段はある。
 だが、もう彼女には無理だ。

 その場に倒れ込もうとした林希美を、太く大きな暖かい腕が抱き留めた。

「俺がやる」

 やっとのことで立ち上がった張三がそう宣言した。
 鉄棍は持たず、無手で構える。
 両手をゆるりと前に出す。
 無限の可能性などはなく、ただ一つの意図を持つ構え。
 それで十分だった。

 猛然と襲い掛かる目艮竟を、あまりにもあっさりと捉え、体勢を崩す。
 目艮竟の意識が残っていればそう簡単にはいかなかっただろうが。

越老越好(古ければ古いほどよい)』。

 この戦場で最も大きな恩恵を受けるものは何か。
 人の中では果成いっぽ。
 クラム・ハードシェルは、どうだろう。
 今ここにいる彼がいつこの世に現れたのか、はっきりとしたことはわからない。

 人だけでなく、全ての物の中ならば。
 彼女でも彼でもない。
 この場で最も古い物。
 最初からそこにあったもの。
 わかり切っている。

 目艮竟の体が地面に叩きつけられる。
 煉瓦タイルの舗装の剥がれた、灰色の土。
 黄浦江が運んだ泥と砂、その積み重ねである沖積層。
 土はただ土として、ずっと昔から上海と共にあった。

 目艮竟の体が痙攣する。
 衝撃で脳髄が揺れ、彼自身より少し新しい物がその身の内で潰れていた。
 その異物は少しずつ体内の細胞によって分解され、老廃物として血潮に溶けていくのだろう。

 そして。

 既に語られた一つの事実がある。
『越老越好』が発動している間、『蟲』は目艮竟になんの影響も与えることができていなかった。
 脳髄に巣食う『蟲』が何をせずとも目艮竟の活動に支障はなかった。
 外科的な摘出とは違い、外から脳に触れたわけではないという要因の一つだろうか。

 全身を震わせながら、老人が立ち上がる。
 そうすることが、辛うじてできた。

 クラム・ハードシェルは肩を貸そうと近づいたが、老人は掌を向けて制した。
 騎士には彼に戦う力が残っているとは思えなかった。

 おぼつかない足取りで、目艮竟が張三に向き合った。
 すぐ手を触れられる距離。
 片手を、差し伸べる。

 張三もまた、片手を伸ばす。

 そして、その手がすれ違う。
 目艮竟の体が低く沈む。

 そして。

「儂の勝ちじゃ笨蛋(マヌケェ)!」

「見え見えだ傻缺(アホォ)!」

 目艮竟の振り上げる拳と、張三の打ち下ろす拳が交差する。
 拳が互いの頬を捉え、両者は大の字に倒れ込んだ。
 見ようによっては、馬鹿なガキが二人。

「奇妙だ。期待していた光景ではないが、これはこれで美しく感じる」

 クラム・ハードシェルは不思議そうに呟いた。
 彼だけが笑えるほどに無傷だった。


 旧共同租界跡。
『魔幇』とのしがらみから単に人々が「贫民窟(スラム)」とだけ呼ぶ一帯。
 その一角にある屋台で、私は張三とテーブルを囲んでいた。

 卓上では、屋台で買った小吃に加え、張三が手ずから作った水餃子が並んでいる。

「張三、料理できたんだ」

「まあな、これでも元は餃子部門の幹部だぜ」

「なにそれ」

 そんな部署が組織にあっただろうか。

「昔の組織はな、盗みを働くような魔人がいたとして、そいつを取り込んで悪さをするんじゃないんだよ。そういう奴らが真っ当に働けるように手助けする組織だったんだ。餃子部門は餃子の作り方を教えて店を開けるようにするんだ」

「それは、みかじめ料とか取るんじゃなくて?」

「……まあ、上手いこと儲かったところからは気持ちをな?」

「やっぱり」

「金がなかったからな! だから、今思えば最初から無理があったんだ」

 初陣の後よりはお互いに少しだけ饒舌になっている気がする。
 少し距離が縮んだような。
 友達との喧嘩の締まらない結末に照れ隠しをしているような。
 ふわふわした感じだ。
 白酒の飲みすぎかもしれない。

「じゃあ目艮竟とは組まないの?」

「おう、誰が組むかあんな奴と。あいつはあいつで勝手にやるだろうよ」

 私はその言葉にほっとしていた。
 張三との『破幇同盟』はまだ続く。
 それがじんわりと嬉しかった。

「じゃあ、あの人は? あれで良かったの?」

「どうしようもないだろ。いつの間にかいなくなってたしな」

 果成いっぽと呼ばれていた人。
 名前からしてあの人も日本人。
 張三が妙に日本通なのは彼女の影響なのだろうか。

「まあ、あいつについても必要になったら話すさ」

「必要じゃなきゃ?」

「そりゃあ、お前。ガキの頃の話なんか恥ずかしいに決まってんだろ!」

 張三の赤い顔は酒のせいだということにしておいてやろう。
 私たちはグラスを掲げ大いに笑った。

 秋から冬へと移り変わる季節。
 これから寒い季節が訪れる。
 けれど、冬を越えればまた春が来る。
 それを生きて迎えられると、今はそう思えるのだ。


 魔人武器工房通り。
 そう呼ばれる物騒な街の奥にぽつんと小さな建物が立っている。

 一枚板の看板には毛筆で「上海市立魔幇博物館」と書かれている。

 一階建ての洋風建築で敷地面積はあまり広くない。
 中に入ればホールだとかエントランスだとかいう物はなく、玄関マットと鞋套の箱が置かれた廊下に出る。

 廊下の突き当りまで進めばそこが唯一の展示室だ。
 独特の臭気は、虫よけ、古紙、墨汁、その辺りだろうか。

 照明は薄暗い。展示物の損傷を最低限にするためだろう。

 リノリウムの床はところどころ剥がれ欠けたのか、凹みをガムテープで埋めるような情けない補修をしている。

 部屋の中には上から覗きこむ型の展示ケースが並んでいる。
 四方の壁の内、二面は棚型の展示ケース。壺や仮面が入っているのがわかる。
 一面はケースに入らないような大物が壁にかけられ、方天画戟のような武器の類が鈍い光を放っている。
 もう一面には簡易的な舞台が設えられていて、時折館長が上海と魔幇の歴史を伝える布袋戯を演じている。

 一人のガキはずっとそこに行ってみたいと思っていた。
 おっかない大人がうろうろしている通りが怖くてなかなかその機会がなかった。
 人が少なかったら行ってみよう。そう思って通りをちらりと覗く度に、勇気がくじけて逃げ帰った。

 それでも。
 その日もまた、試しに見に行ったのだ。
 通りは不思議なほどがらんとしていた。

 このガキは与り知らぬことではあるが。
 上海全土を巻き込む騒乱が大詰めを迎えようとしている。
 この段になって武器を新調しようとする間抜けはかえって少ない。

 ガキはこれ幸いと駆けだした。
 道の途中、無残に壊された店が数件あったのが不気味だった。

 入場料を取らない博物館に入り、展示室へ至る廊下の中ほど。
 禁止入内(たちいりきんし)の張り紙が貼られたドアが目についた。
 立ち止まる。
 悪ガキである。

 中に人がいたら怒られるかも。
 小賢しさを発揮して、音を立てぬよう慎重に、ほんのわずかにだけ開いた。

 どきりとした。

 不気味な鎧が跪いている。
 きっとここは展示室に入りきらない物を置く倉庫なのだ。
 この鎧もなにかしら上海の歴史に関わる品に違いない。

 しかし、ただ仕舞っておくだけなのに、なぜそんなポーズを取らせているのだろう。
 部屋の中を確かめたい気持ちも有ったが、結局勇気が出ずに、そっとドアを閉めてしまった。

 頭の中には騎士の姿が残っている。
 どうしても考えを巡らせてしまう。
 そこになにがあったのか、この目で見たわけではないけれど。

 わざわざあの形にしておいたのはそれに相応しい理由があるのだろう。
 あの鎧の正面には、きっとそれだけの価値がある物があったのだ。

 それがなんであるか、想像するには知識が足りない。
 ただ、なんとなく思う。
 そこには美しいものがあったはずだ。

 いつか展示室に飾られることもあるだろうか。
 その時もここに来て、俺もそれを見れたらいいのにな。
 そんな風に考えると胸の奥がどきどきと弾んだ。


 ケラ、ケラ、ケラ、ケラ。
 歌うような笑い声が響く。

 そこがどこかは誰も知らない。
 その正体を誰も知らない。

 头目(ボス)と呼ばれる誰かの義兄も。
 首領と呼ばれるガキでさえ。

 誰に知られることもなく。
 楽しそうに呟いた。

「宝石箱の中の宝は、宝石箱の持ち主の物だ、当然だろう?」

 覚悟しろ、覚悟しろ。

 ハッピーエンドがやってくる。

 これは一人の騎士が至上の宝を手に入れるまでの物語なのだから。

 本当にそうだろうか?
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