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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

【掌の月】(上)

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序幕:【新月】


指挥中心(指令室)、こちら江岸巡逻27号车。状況報告」

『……江岸巡逻27号车、どうぞ。警号』
「警号、三七一八四二。単独」
『位置』
「黄浦江、旧桟橋跡。立入禁止フェンス内。東側ゲート付近」

 黄浦江の護岸を巡回中の警官――江岸巡逻27号车は報告した位置を目でなぞる。
 錆びた立て札に赤い文字。
 严禁入内(立入禁止)と書かれている。
 風でフェンスが鳴る。
 祝典で撒かれた紙吹雪が内側まで吹き込んでいる。

『対象』
「遺体、一。未成年、女子。十代前半程度。身元不明」
『確認済みか』
「確認済み。護岸の段の下で至近確認しました」
『状態』
「衣類の乱れなし。顔面損壊。識別不可。出血あり。量は不明」
『周辺』
「人影なし。目撃者なし。争いの痕跡は確認できず。紙片が多く、足元が荒れています」

『江岸巡逻27号车。月は?』
「新月。雲が低い。星は見えません」
『了解』

 短く間が空く。
 無線の向こうで、紙をめくるような音がして、声が戻る。

『……よし。手順に従え』

「鑑識は?」
『不要』

「写真は?」
『不要。本件、この報告をもって記録とする』
「了解」

「回収は?」
『不要。対象は発見時点で「落水済み、回収不能」との報告に相違ないか?』

 警官は一瞬だけ黙る。

『繰り返す。報告に相違ないな?』

 フェンスの向こうで、紙吹雪がコンクリートから剥がれて、また貼りつく。

「……相違なし」

『周囲を再確認して、完了だけ上げろ』
「了解」

 無線を切る。
 警官はフェンスの内側に入り直し、護岸の段を下りる。ライトは絞ったままにする。

 女子の遺体が護岸の陰にある。
 小柄。衣類は濡れている。靴は片方。所持品は見当たらない。
 顔面は大きく損壊していて、目鼻の位置が分からない。身元は取れない。

 潰れた顔の下に血だまりができていて、その中に栗色の髪が沈んでいる。
 髪は濡れて束になり、紙吹雪がいくつも貼りついている。

 足元には、大量の紙片に混じって黒い革の切れ端のようなものが散らばっている。
 元が何であったのか、この警官には分からない。

 警官は周囲を見回す。
 人影なし。足音なし。上の道路からの視線もない。

 遺体の前腕を掴み、護岸の縁まで引く。
 濡れた衣服がコンクリートを擦る音だけがする。

 縁で腕を離す。遺体がぐったりと岸辺に横たわる。
 その背中を足の裏で押し込んでいく。
 やがて遺体が縁を外れ、ゆっくり転がりながら水に落ちる。短い水音。
 波が一度寄せて、護岸の縁を濡らす。

 紙吹雪が一枚、水の上に出てきて流れていく。
 髪から剥がれた紙片も、あとを追うように落ちていく。

 警官は段を上がり、フェンスの外に出てから無線を入れる。

「指挥中心、江岸巡逻27号车。問題なし」
『受領。現場離脱せよ』
「了解。離脱します」

 フェンスの前の立て札が視界の端に入る。
 严禁入内(立入禁止)

 警官は振り返らずに歩き出す。
 黄浦江の水音だけが聞こえる。



第一幕:【春節】


 あれは、今から十数年前のことだ。
 後に“红虎”と呼ばれる男が、まだ行き場のない怒りだけを抱えた少年だった頃。

 路地の切れ目から覗く高いビルの輪郭が、油煙に霞んでぼやけている。
 いくつかの窓にだけ、ぽつぽつと明かりが灯っていた。

 その冬、屋台街は、いつもより少しだけ騒がしかった。

 油でべたつく路面の向こうに、裸電球に照らされた屋台がずらりと並ぶ。
 鉄板で焼かれる肉の匂い、揚げ油の匂い、安い酒の匂い。
 人いきれの熱気と、鍋から立つ湯気がそれらと混ざって、冷たい夜気を押しのけていた。

 その真ん中を、十二歳の劉炎嵐が歩いていた。

 同い年の連中より、背はだいぶ高い。まだ肩の線は細いが、無駄な肉のない腕や脚には、殴り合いでついた筋肉がうっすら浮いている。
 目つきはきつい。けれど、よく見ればまだあどけなさの残る、整った顔立ちをしていた。

 右の拳には新しい擦り傷。左の肘には浅い切り傷。
 膝には古い痣が残っていて、その上から今日ついたばかりの汚れが重なっている。

「……クソが」

 吐いた息が、うっすら白くなった。
 さっきまでいた裏路地を思い出して、炎嵐は小さく悪態をついた。

 薄汚れた壁の一部が、黒く焦げている。
 ついさっき、炎嵐の体から溢れた炎がつけた跡だ。

 まだこの頃の炎嵐は、血の温度をうまく抑えられなかった。
 なのに、胸の奥でいったん熱が点けば、それに引きずられるように体が勝手に動く。

 殴られたら殴り返す。蹴られたら二倍で返す。
 やっていること自体は、昔からたいして変わらない。

 ただ、当時の炎嵐はまだ子どもで、相手はたいてい大人で、たいてい数が多い。

 こんなことを続けていれば、体がもたないことくらい、分かっている。
 分かっていても、胸のあたりでじりじり何かが燃える。
 拳を出さずにいる方が、よっぽど落ち着かなかった。

 だから、ここ最近の炎嵐の体は、ほとんど常にどこかしら傷を負っている。

「……あいつら、本気で殺す気だったな」

 空を見上げる。

 裸電球の光と煙にかき消されて、細い月のかけらも見えない。

 ぐう、と腹が鳴った。昼から何も食べていない。

 ポケットの中には、しわくちゃの小額紙幣が何枚か。
 串肉を一本と、薄い飲み物を一本――ぎりぎり買えるくらいだ。

「ガキだからって、足元見やがって」

 子どもに回ってくる仕事は、安い配達ばかり。
 それでいて、こちらが子どもだとみると、その報酬も平気で削られる。

 炎嵐は、誰に聞かせるでもなく、ぼそりと毒づいた。

 そのときだった。

 前方の屋台に、小さな行列ができているのが見えた。

 先頭に並んでいるのは、自分よりずっと小さな男の子だ。
 両手で小銭を握りしめて、屋台の鉄板をじっと見上げている。

 そこへ、派手なシャツを着た若い男が、ふらふら近づいてきた。
 タバコをくわえたまま、煙を横に吐き出しながら、列なんてないみたいな顔で、その子どもの前に、ずい、と割り込む。

 男の腕が子どもにぶつかった。

 子どもはよろめいて一歩下がりかけるが、手の中の小銭を落とすまいと、慌てて足を止める。
 口をへの字に結んでいるが、何も言えない。

「これ、アンタんところの串だよな?」

 男は黒く焦げた串を、店主の目の前に突きつけた。

 店主は、ちらりとそれに視線を向けただけで、何も言わない。
 しっしっと手を振って、黙々と次の串を焼き続ける。

 男が、台の脚を蹴った。

 台には鉄板のほかに、小さなコンロと、大きな中華鍋。
 中には揚げ物用の油がたっぷり入っている。

 炎嵐は、足を止めた。

 視線をずらすと、子どもの指の白さと、小銭を握りしめた手の震えが目に入る。
 胸の中のじりじりが、一段強くなった。

 男が、店主の胸ぐらをつかむ。

「おい、金返せって言ってんだよ」

 周りの大人たちは、見て見ぬふりをして距離をとった。

「客にこんなもん食わせるつもりか?」

 さっき並んでいた子どもは、まだ小銭を握ったまま、その場で固まっている。

 炎嵐は息を吐き、屋台へ向かって歩き出した。
 男の背中が、すぐ目の前に来た。

「オイ」

 背後から声をかけられた男が、振り返る。

「なんだガキ」

「……見苦しい真似すんな」

 言いながら、炎嵐は男の手首をはじいた。
 細い指に似合わない、驚くほど強い力で。

「てめえ、誰に口きいて――」

 男の拳が、炎嵐の顔面に迫る。

 心臓がどくんと跳ねる。皮膚の下がじわっと熱くなる。

 店主が止めようと手を伸ばすのが見えた。
 けれど、炎嵐の拳は、そのどちらよりも速かった。

 次の瞬間、ぐ、と男の胸に拳がめり込んでいた。
 ぱち、と小さな火花が散る。

 男のシャツの胸元が、一瞬だけ炎を吹いた。

 殴られた衝撃で、男は吹っ飛び、その背中が台にぶつかる。
 鉄の脚がきしんで、コンロごと台が傾いた。

 中華鍋が激しく揺れ、そのまま宙に跳ね上がる。
 熱い油が空中に弧を描き、重たい塊になって落ちてくる。

 次の瞬間、ぬるりとした重さが、炎嵐の肩から頭にかかった。

「っ……!」

 触れた瞬間、皮膚がきゅっと縮むような痛みが走る。
 熱い、と言葉になる前に、その感覚ごと、体の奥からせり上がってきた別の熱に押し流された。

 全身を巡る血液の温度が、瞬時に跳ね上がる。
 肌を伝う油の熱は、あっという間に、炎嵐にとってはぬるま湯みたいな温度に変わった。

 同時に、耳元で「ボッ」と何かがはじける。
 頭のてっぺんまで、一気に炎が噴き上がった。

 肩から流れ落ちる油の一部が、その熱をまとい、視界の端で橙色に弾ける。

 足元に視線を落とすと、はねた油のほとんどは、屋台の前の地面にぶちまけられていた。
 じゅうじゅうと白い煙を上げるだけで、そちらには火はついていない。

 燃えているのは、炎嵐のほうだ。

 皮膚の下で煮え立っていた血の熱が、油の熱から身を守る反動で、一気に外側へ噴き出した――そんな感じだった。

「火だ!」「子どもが、燃えた!」

 誰かの叫びが、すぐそばで上がる。
 炎嵐は反射的に離れようと後ずさるが、その結果、さらに火を散らした。

 はねた油と炎が、屋台の布の垂れ幕と、ぶら下がった紙の飾りに移る。
 一瞬遅れて、乾いた布がじり、と音を立てて黒い斑点のような染みを広げていく。

「……マズ」

 炎嵐は顔をしかめた。

 自分を包む炎と、胸の中で暴れている熱が、同じものみたいに思えた。

「水!」「早く水!」

 誰かが叫ぶ。だが、誰もすぐには動けない。

 炎嵐は、屋台の奥に視線を走らせた。そこに水桶がある。
 けれど、この状態で屋台の内側に飛び込めば、どこまで燃え広がるか分からない。

 しまった、と頭のどこかが冷静に告げる。

 周りには子ども連れもいる。
 このまま火が燃え広がれば、無関係な人まで巻き込む。

 気づけば、あの男は姿を消していた。

 さっきまで男が立っていた場所には、踏み潰された吸い殻だけが転がっている。
 熱気が周囲にぶわりと広がった。

 心臓が跳ねるたび、視界の端が少し白くなる。
 皮膚の下で、血がぐつぐつ煮立っているように熱い。

 時間だけが、先へ進んでいく。

「邪魔だ、下がれ!」

 自分で叫んだ声が、やけに遠く聞こえる。

 そのとき。

「動かないで」

 すぐ後ろから、澄んだ高い声がした。

 次の瞬間、冷たいものが頭からまとめて叩きつけられる。

 ばしゃん、と大きな水音。
 同時に液体が瞬時に蒸発する音。

 炎嵐は前につんのめりそうになった。
 垂れ幕と、燃えかけた紙飾りにも、一気に水がかかる。

 服の上で炎がしぼみ、皮膚の表面の熱も一段、落ちる。

 油が飛んだ地面にも、水がざっとかかる。
 白い煙だけがもう一度ふわりと上がって、それきり火の色はどこにも残らなかった。

 炎は、驚くほどあっさり消えた。

 熱の抜けた空気の中で、自分の息だけがやけに大きく聞こえる。
 額から首筋へ伝う水の冷たさを意識しながら、炎嵐は顔を上げた。

 燃えかけていた垂れ幕の前に、一人の少女が立っていた。

 大きなバケツを、両手で支えている。
 腕から落ちる水滴が、石畳の上で小さな水たまりをつくっていた。

 歳は、炎嵐とそう変わらないように見える。
 血の気の薄い色白の肌をしていて、屋台の熱気のせいか、うっすらと頬に赤みが差していた。
 目鼻立ちはすっと整っていて、裸電球の下でも、瞳だけがはっきりと光って見えた。
 濡れた栗色の髪が、肩のあたりで張りついている。

 少女は、炎嵐の方をじっと見た。

「ごめん。ちょっと冷たかった?」

 口調は穏やかだが、どこか年上みたいな落ち着きがある。

 炎嵐は、言葉がすぐに出てこなかった。

「……いや。まあ。助かったけどよ」

 右手の甲をぎゅっと握ると、じんじんした痛みが遅れてやってくる。
 少女は、その手をちらりと見て、ほんの少しだけ眉をひそめた。

「傷だらけだね、その手」

「……は?」

「あの裏の路地で、大人と揉めてたでしょ」

 少女は、炎嵐の拳に視線を落とす。

「水汲みに行くとき通ったら、壁が一枚まるごと黒くなってた。血も、ちょっとだけ落ちてて……あれも、たぶんあなた」

「……だからなんだよ」

「そういうこと、よくあるのかなって」

「まぁな」

 炎嵐が答えると、少女は炎嵐の顔をまじまじと見た。

「ふーん」

 そこで一度だけまばたきをしたところで、近くの屋台の奥から野太い声が飛んだ。

「おい(ファ)! 皿洗いの水、全部ぶっかけんじゃねえ! まだ洗い終わってないだろ!」

「ごめーん、あとで汲んでくるー!」

 少女――華は、バケツを抱え直しながら、屋台の奥に向かって返事をした。
 その返し方が、怒鳴られ慣れている子のそれだ。

 背中を伝う水の冷たさを、炎嵐はそこでようやく意識する。
 何か言おうと口を開きかけたところで、先に少女が言った。

「さっきさ。油こぼれたとき」

「……あ?」

「もっと、ばたばた慌てるのかと思った。けど、じっと動かず待ってたよね?」

「……だから?」

「喧嘩っ早いのかと思ったら、周りの人のことも、ちゃんと考えてるんだなって」

 炎嵐は、少しだけ目をそらした。

「別に。ああするのが、あの場じゃ当然だろ」

「そう。当然だよね」

 そう言って、華はふっと笑った。
 その笑い方は、歳は近いはずなのに、ずっと大人びて見えた。

「さっきから見てたけど」

「……いつからだよ」

「空、見上げてたでしょ」

「……ヒマかよ、お前」

「水汲みに行く途中だよ。野良猫みたいな顔してたから、ちょっと気になって」

 悪気のなさそうな声だった。
 炎嵐は、半分呆れて、半分だけおかしくなった。

「野良猫みたいな顔ってなんだよ」

「そのまま。手を伸ばしたら、シャーって引っ掻いてきそうな顔」

「……ムカつく大人しかいねえからな」

 炎嵐は、日中、大人と揉めた裏路地の方を、短くあごでしゃくった。

「殴られて黙ってるほど、お利口じゃねえんだわ」

「そっか」

 華は、それ以上何も言わなかった。ただ、炎嵐の拳をもう一度見た。

「痛い?」

 華は慎重に、炎嵐の手を取る。
 炎嵐の熱を帯びた体には、その手は氷みたいに冷たく感じた。

「……慣れてる」

「慣れてても、あとで手当てした方がいいよ。跡になるから」

「……だから、大したことねえ。口うるさい大人みたいなこと言うんだな?」

「どうだろ。お皿洗いしてる分、あなたよりずっとお姉さんかもね」

 屋台の奥から、また声が飛ぶ。

「華ー! 皿! 山だぞ!」

「はーい!」

 華は返事をしてから、もう一度炎嵐の方を見た。
 裸電球の明かりの下で、濡れた髪の先から水がぽた、ぽた、と落ちている。

 その滴をなんとなく目で追いながら、炎嵐は口を開いた。

「……そういや、お前、見ない顔だな。ここで働いてんのか?」

「少し前からね」

 華はバケツを持ち直して、屋台の奥をちらりと見やる。

「このお店、今の時期だけなの。
 春節のあいだくらいまで」

「じゃあ、ひと月ちょっとか」

「うん。だから、わたしがここにいるのも、たぶんそれくらい」

「そっか。じゃあ、またな」

 そう言って、炎嵐は背を向けて歩き出した。
 数歩進んでから、なんとなく振り返る。

 彼女はバケツを片手に、屋台の奥へ消えるところだった。
 濡れたスカートの裾が、裸電球の下で少し重そうに揺れる。

 炎嵐は、その背中をしばらく見送っていた。

(華、ね)

 さっき屋台の親父が呼んだ名前を、心の中で一度だけなぞる。
 わざわざ「名前は?」と聞くほどのことでもない気がした。屋台の手伝いなら、またすぐ会えるだろう。

 胸の奥が、まだじりじり熱い。
 背中に残った水の冷たさと、そのアンバランスさだけが、妙にいつまでも消えなかった。


  *


 次の晩も、炎嵐は屋台街にいた。

 昨日と同じ通りを抜ける。
 騒ぎを起こした串屋の前で足を止めた。

 中華鍋には、また油がたっぷり張られている。
 親父は何事もなかったみたいな顔で串を揚げていて、客にぶっきらぼうに声をかけていた。

 あの派手シャツの男の姿は、どこにもない。

 串屋から少し離れたところに、(うつわ)と小皿を山のように積んだ屋台が一つある。

 鉄鍋で麺を炒める音と、スープをすくう音。
 肉よりもスープの匂いが強い、麺屋の屋台だ。

 その奥、細い通路の突き当たりに、小さな流し台が見えた。

 そこで、華が盆を抱えていた。

 両手に、油で縁の黒くなった陶器皿を何枚も重ねている。
 客の空いた皿を回収してきたところらしい。

 栗色の髪は、今日は後ろでひとつにまとめられていた。
 白いシャツの袖を肘までまくり上げていて、袖口は洗剤の泡で濡れている。

 炎嵐は、気づけばそちらへ足を向けていた。

「……いたな」

 ぼそっとこぼした声が届いたのか、華が顔を上げる。

「あ」

 目が合う。

「昨日の、野良猫」

「……誰が野良猫だ、誰が」

 思わず噛みつくように返してから、炎嵐は流し台から少し離れた場所で足を止めた。
 華は、盆を抱えたままこちらを見上げている。瞳の中で、裸電球の光が細かく瞬いていた。

「じゃあ、なんて呼べばいい?」

「あーっと……」

 言葉がつかえる。

 華は、少しだけ首をかしげてから口を開いた。

「……劉炎嵐(リュウ・ホェンラン)?」

「……なんで知ってんだよ」

「あなたのこと、周りが話してたから」

「……チッ」

 炎嵐の頭に、これまで何度も向けられてきた大人たちの怯えたような目つきが一瞬よみがえる。
 どうせ「危ない」とか「関わるな」とか、そんな話だろう――そう思ったところで。

 華は濡れた手の甲で前髪を押さえながら、そのまま続けた。
「昨日、順番を割り込まれた子どもがね」

 その手を下ろすとき、まとめた髪の先から水がぽたり、と落ちた。

「子ども?」

「“炎嵐兄ちゃんが、悪いやつをぶっ飛ばしてくれた”って」

 炎嵐は、しばらく口を開けたまま、微笑む華の顔を見ていた。
 耳のあたりが、じわっと熱くなる。

「……ガキが大げさに言ってんだろ」

 そう吐き捨てて、炎嵐はもう一度小さく舌打ちし、視線をそらした。

 華は、それ以上は何も言わず、盆を脇に置いて、重ねた皿を一枚ずつ流しに移した。
 蛇口から細い水を出し、洗剤を足す。泡が指の間でふくらんで、またしぼんだ。

「……昨日は、ありがとな」

 気づけば、その言葉が口をついて出ていた。

「何が?」

「……分かるだろ。俺、燃えてたし」

「うん。よく燃えてた」

 あっさりした返事だった。
 からかっている風でもないのに、妙に引っかかる言い方だった。

「火、怖くないのかよ」

「皿洗い中だったからね。ちょうど今みたいに」

 炎嵐は華の手元に視線を落とす。
 その手は、冷たい水に長く触れていたせいか、指の節まで赤くなっていた。

「それに、あのままだと、おじさんも困っただろうし」

「……雇い主の心配かよ」

「うん。屋台が燃えたら、明日からごはんが食べられない」

 炎嵐は、麺屋の方へちらりと目をやった。
 スープの湯気と油の匂い。鍋を振る親父の横顔。
 客は途切れることなく続いている。

 食べ終わった皿が、あっという間に積み上がっていく。
 その代金のうち、どれだけが目の前の少女の手元に来るのか。

「大人にムカつかねえのか」

「ムカつく、かなぁ」

 華は少し考えるように首を傾げてから、肩をすくめた。

「でも、恩もあるから」

「……恩?」

 華は一度、泡だらけの手を止めた。

「親がいないわたしを、ここで働かせてくれてる、とか」

 自分で口にしてから、華は少しだけ笑った。

「言うほど大げさな話じゃないよ。ただ、そういう巡り合わせもあるってだけ」

 炎嵐は、なぜかすぐには言い返せなかった。

 代わりに、流しの隣に積み上がった皿の山を見た。

「その皿、全部洗うのか」

「うん。夜のあいだ、ずっと」

「……手、足りてねえだろ」

「慣れるとそうでもないよ」

 華は、泡のついた手で髪をかかえそうになり、途中であきらめてまた皿に戻した。

「ヒマなら、あっちのテーブル片づけてきて」

 あまりにも自然に言われて、炎嵐は一拍置いてから眉をひそめた。

「なんで俺が」

「さっき“ありがとな”って言ってた」

「それとこれとは――」

「ここに来たのも、そういうことでしょ?」

 華は真顔で言った。
 冗談めかした調子ではなく、本当にそう思っているような声音だった。

「いやかな?」

「……チッ」

 炎嵐は舌打ちして、空になったうつわが積まれているテーブルに向かった。

 客が使い終えた筷子(はし)や小皿が、雑に置きっぱなしになっている。

 片手で器を何枚か重ね、もう片方の手で筷子(はし)をまとめる。
 こういうことをするためにここへ来たわけじゃない――そう思いながらも、手は止まらなかった。

「全部持てる?」

「なめんな。これくらい楽勝だ」

 炎嵐が器を山のように抱えて戻ると、華は目を細めた。

「さすが男の子だね」

「ガキ扱いすんな」

「うんうん。さすが炎嵐くんだね」

 呼び捨てでもなく、妙に距離のある敬称でもない呼び方だった。
 炎嵐は、その響きに、うまく言えないこそばゆさを覚えた。

「……お前は?」

「わたし?」

「名前、なんだ?」

「華」

「それは知ってる。でも、あだ名だろ?」

「あだ名?」

 華は、少しだけ首をかしげた。

「華でいいよ」

 それきり、洗い物に戻った。名前の話は、それで終わりということらしい。

 炎嵐は、持ってきた皿を流し台の横に積み上げながら、鼻を鳴らした。

「……勝手だな」

「そう?」

「そうだろ。こっちだけ名前知られてて、自分はちゃんと名乗らねえとかよ」

「でも、炎嵐くんも、まだ自分から名乗ってくれてないよ」

 華は、くすっと笑って、泡だらけの手で皿の裏をこすった。

「だから、もういいんじゃない?」

「何がだよ」

「わたしは“華”で、
 あなたは“炎嵐くん”。それで」

 炎嵐は返事に詰まった。
 代わりに、流しの水面で揺れる泡をじっと見た。

 屋台の表では、誰かがビールの栓を抜く音がする。
 中華鍋をあおる金属音と、客の笑い声が重なる。

 その音を聞きながら、炎嵐は話題を切るように口を開いた。

「……皿、あとどれくらいある」

「分け合えば、日をまたぐ前には終わるよ」

「はあ?」

「さっき“楽勝だ”って言ってた」

 華は、涼しい顔で言う。

「口に出したことは、ちゃんと守った方が格好いいよ」

「説教クセえな」

「お姉さんだからね」

 言いながら、華は肩をすくめて見せた。
 その仕草は、やっぱりどこか本当に大人びて見えた。

 炎嵐は、もう一度だけ小さく舌打ちをしてから、空いたテーブルに向かって歩き出した。

 夜市の真ん中で、野良猫みたいな少年と皿洗いの少女が、黙々と仕事を分け合うだけだ。
 それだけのはずなのに、炎嵐の胸のあたりは、ずっとざわざわしていた。

 落ち着かないまま。
 けれど、その場を離れる理由も、やっぱり見つからなかった。


 *


 何往復かして、空いた器はひと通り流しのそばに集まった。

 華は、泡だらけになった手をいったん水で流し、袖で軽くぬぐう。
 それから、屋台の親父に声をかけた。

「おじさん、今日のまかない、半分こしてもいい?」

「ああ? そいつとか」

 親父は一瞬だけ炎嵐を値踏みするように見て、すぐに鼻を鳴らした。

「好きにしろ」

「りょーかい」

 華は、肩をすくめて笑った。

 鉄鍋の火が少し弱められ、端に寄せてあった麺と具材が、ちゃっちゃっと小さな器に分けられていく。
 スープを張って、刻みネギをぱらりと散らすと、湯気に混ざって焦げた油の匂いが立ちのぼった。

「はい、どうぞ」

 華が、両手でひとつ差し出す。

「……お前のだろ」

「わたしにはちょっと多いんだもん。それに、二人で食べたほうがおいしいでしょ?」

「……飯おごってもらうために来たわけじゃねえんだけどな」

「いいじゃん。さっき、けっこう働いてもらっちゃったし」

 炎嵐は、しばらく器を見つめていたが、結局、受け取った。
 麺は少し伸びかけているが、育ち盛りの腹には関係なかった。

 華が、通路の端に裏返したビールケースを二つ並べて置く。
 簡易の椅子代わりだ。

「座って食べなよ。立ってると、こぼすよ」

「子ども扱いすんなって」

 言いながらも、炎嵐はケースに腰を下ろした。
 華も少し離れて、もう一つのケースに腰をかける。足元には、さっきまで皿を洗っていた流し台がある。

 屋台の表側から、客の笑い声がとぎれとぎれに届く。
 通路に遮られて、ここだけ少し音が遠い。

「……うめえな」

 ひと口すすると、素直に声が出た。

「よかった」

 華は、自分の器に筷子(はし)を入れながら言う。

「今日、何も食べてなかったでしょ」

「……気づいてたのかよ」

「気づくよ。さっきから、お腹ずっと鳴ってたもん」

「マジかよ」

 炎嵐は、思わず腹を押さえた。

「殴り合いばっかりしてると、そうなるんだよ」

「そういう仕事しか回ってこねえんだわ、この辺じゃ」

「殴るのも、お仕事?」

「ムカつく奴が多すぎるだけだ」

 筷子(はし)を止めて、炎嵐はぼそりとこぼす。

「ガキだと思って金ごまかすやつとかさ。
 鉄砲玉にしようと騙してくるやつとか。
 攫って金に換えようとするやつとか」

「昨日の人みたいな」

「ああいうのなんて、言いたかねえけど、まだマシなほうだ」

 スープの表面に浮かんだ油を、筷子(はし)先で適当に散らす。
 小さな渦ができて、すぐにちぎれて消えた。

「見て見ぬふりとか、ありえねえだろ。
 だから、見つけたらぶん殴る。
 それだけだ」

「ふうん」

 華は、器のふちに筷子(はし)を揃えて置き、少しだけ炎嵐の横顔を眺めた。

「……そういうの見るとさ」

「なんだよ」

「じっとしてられないんだ?」

「……さあな」

 炎嵐は、わざとらしく鼻を鳴らして、麺をすすった。

 しばらく、二人とも黙って麺をすする音だけが続く。
 炎嵐は器だけを見つめていて、華はふっと視線を空に向けた。

 路地の切れ目から見える空は、さっきと同じようにぼやけている。
 煙と明かりにかき消されて、星も月もどこにいるのか分からなかった。

「……怒ってるとさ」

 ぽつりと、華が言う。

「お腹、空くよね」

「……は?」

「たくさん動くからかな。
 それとも、頭の中までカッカするからかな」

 炎嵐は、返事の代わりに、麺をもう一口すすった。

 さっきまでむかむかしていた胸のあたりは、まだ完全には落ち着かない。
 けれど、熱いスープが喉を通る感覚と、隣で皿洗いの少女がずるずる麺をすする音が、その熱を少しずつ散らしていく。

 器の底が見えたころになって、ようやく、華がこちらを見ているのに気づいた。

「……これでチャラだね」

 華が言った。

「お皿洗い、手伝ってもらったぶん」

「何言ってんだ?」

 炎嵐は目を細める。

「借りだの恩だの、気にしなくていいよ。
 わたしには、何も返さなくていいから」

 あっさりした言い方だった。

「……勝手に決めんな」

 炎嵐は、空になった器を手の中で一度くるりと回した。

「返すもんは、ちゃんと返す」

「……じゃあ、まあ、そのうちね」

 華はそう言って立ち上がると、空いた器をひょいと取り上げた。

「ここから先は、わたし一人でできるから。
 炎嵐くんは、もう帰りなよ。いつもなら、とっくに寝てる時間でしょ?」

 ぴしゃりとしたその言い方には、有無を言わせない調子があった。
 負けじと睨み返そうとして、そのまっすぐな視線から、つい目をそらす。

「……うるせえな」

 文句を言いながらも、炎嵐は立ち上がった。
 まかないまで分けてもらっておいて、いつまでも意地になって居座るのも、どこか違う気がした。

「……わかったよ」

「遅くまで付き合わせちゃって、ごめんね」

 華が、皿を抱えたまま小さく頭を下げる。
 炎嵐は、それを見ないふりをして背中を向けた。

「じゃあな」

 短くそう残して、屋台から離れていく。

 通路の奥で、また水の出る音がした。
 屋台街の夜はまだ、しつこく続いていた。


 *


 それから、何日かが過ぎた。

 昼間の路地は、夜とは別の顔をしている。
 屋台の骨組みだけが畳まれて壁際に寄せられ、代わりに配達用のバイクや、出前の籠を下げた自転車が行き来していた。

 炎嵐は、そのあいだを荷物を抱えて歩いていた。

 今日の仕事は、雑居ビルのあいだを行ったり来たりする配達だ。
 階段を何往復も上り下りした脚が、少しだけ重い。

「……遠回りだな」

 そうこぼしてから、自分が最短ルートから一本ずれた通りを歩いていることに気づく。
 夜になると屋台街になる場所だ。

 昼のあいだは、鉄パイプの骨組みだけが、折りたたまれたまま連なっている。
 華が皿洗いに使う流し台も、布でざっと覆われていた。

 誰もいない骨組みの間を、早足で抜ける。
 ただの通り抜けだ、と自分に言い聞かせながら。

 配達を終えて荷物を返し、報酬を受け取るころには、空はもう暗くなりかけていた。
 裸電球が一つずつ点き始め、鉄パイプの骨組みは、すぐに見慣れた屋台の形に戻っていく。

 油の匂いと、肉を焼く匂いと、安い酒の匂いが、通りにじわじわ広がっていく。

 気づけば、炎嵐はまた麺屋の方へ足を向けていた。

 鉄鍋の音が、さっきよりもはっきり届く。スープの湯気も上がり始めている。
 その奥の細い通路の突き当たりで、白いシャツの袖をまくった華が、いつもと同じように皿を抱えている。

「……よっ」

 声をかけたつもりが、自分でも聞き取れないくらい小さかった。

 それでも、華は気づいたらしい。
 振り向いて、少しだけ目を丸くした。

「あ、今日も来た」

「毎日、飯は食うだろ」

「そっか。じゃあ今日もお皿あるよ」

「誰が皿洗いに来たって言った」

「炎嵐くんのお腹、さっきから『お腹すいた』って鳴ってる」

「鳴ってねえ」

「……まかない、気に入ってくれてるんだね」

「……味はまあ、悪くねえ」

 華は、盆をひとつ脇に置き、流し台の横をあごで示した。

「じゃあ、今日もテーブル片づけ、お願いしていい?」

「聞けよ、人の話を」

「聞いてるよ。“悪くねえ”って」

 華はあっさりそう言って、空いた皿の山に向き直る。
 蛇口をひねると、細い水が、かすかな金属音を立てて流れ始めた。

「ほら、さっきのお客さん。うつわ置きっぱなし」

 視線の先では、麺の汁を少しだけ残した器と、油のついた小皿が、雑に積まれたままになっている。

「……チッ」

「全部ひとりでやると、腕がだるくなるんだよね。
 怒ってるとこ悪いけど、そこは“お姉さん”に優しくして?」

「どこがだよ」

 自分よりずっと小柄な女の子が、お姉さんづらしてみせる。
 鼻で笑いながらも、足はもうテーブルへ向かっていた。

 客が使い終えた筷子(はし)や小皿が、今日も容赦なく置きっぱなしだ。
 片手で器を何枚か重ね、もう片方の手で使い捨ての筷子(はし)をまとめる。

 山のように抱えて戻ると、華が目を細めた。

「わあ、力持ち」

「なめんな」

「でも、わたしもそれくらいなら持てるよ?」

 華は、自分の細い腕をちらっと見せる。

「は? マジかよ」

「あはは、信じた?」

 冗談だよと言いたげに、肩をすくめた。

 そんな他愛ないやり取りを挟みながら、皿が一枚、また一枚と、流しの横に積まれていく。

「今日も喧嘩してきた?」

 泡を立てながら、華がふいに聞いた。

「……まあな」

「ムカつく大人?」

「子ども攫おうとした。本当の両親が迎えに来たって騙して」

「ひどいね」

「だから、話つけてきた」

「話、ね」

 華は、洗った皿を立てかけながら、少しだけ口の端を上げる。

「手、出してないといいけど」

「出さねえわけねえだろ」

「……だよね。じゃあ、ごはん多めにしなきゃ」

「……話聞いてんのかよ」

「聞いてるよ。いっぱい動いた日は、いっぱい食べないと損でしょ」

 そこで華は、すっと話を切った。
 泡のついた指先で蛇口をひねり、水かさをほんの少し上げる。

「ほら。早く片づけて。
 今日のまかない、ちょっといいやつだから」

「……釣られねえぞ」

「スープ、いつもよりうまくできたって。さっきからおじさん、自慢してた」

 炎嵐は、器の山を抱え直した。
 胸のあたりに残っていたいら立ちは、消えきることはない。

 それでも、夜ごと同じような話をしているうちに、そのいら立ちは少しずつ形を持ち始める。
 何に、どこまで腹を立てているのか。
 自分の言葉で並べてみた分だけ、「殴るべきもの」と「そうじゃないもの」の線が、前よりはっきりしていった。

 そんな夜が、いつのまにか二晩、三晩と重なった。

 昼は配達のついでに、わざと一本だけ遠回りしてこの通りを抜ける。
 夜は仕事が終わると、なんとなく足が麺屋の裏口の方へ向かう。

 気づいたときには、それが炎嵐にとって「いつもの一日」の流れになっていた。


 *


 そうやって日が過ぎていった、ある晩のことだった。

 その日は、夜遅くまで雨が降り続いた。

 開いている屋台はまばらだったが、その中で、あの麺屋にも、いつものように裸電球の明かりが灯っていた。

 客の数は目に見えて少ない。
 ビニールシートの屋根を雨粒が叩き、薄い光がにじんでいる。

 路地の入口から、ずぶ濡れの少年がひとり歩いてきた。
 Tシャツは濡れて肩から胸まで濃い色に変わり、髪は額に張りついている。

「……さみい」

 炎嵐は、水のたまった石畳をにらみつけながら、小さく呻いた。

 配達の帰りにバイクの後ろへ乗せてもらったところまではよかった。
 客先を一軒はしごするごとに雨足が強くなり、最後の一軒を出るころには、本降りになっていた。

 裸電球の光の中に、雨の筋が斜めに浮かび上がる。
 屋台のあいだから立ちのぼる湯気も、いつもより滲んでいる。

 麺屋の前まで来ると、奥の通路から誰かがこちらを振り向いた。

「……わっ。びしょびしょ」

 華だった。

 腕まくりしたシャツの袖口まで濡れているが、本人はあまり気にした様子もない。
 手近にかかっていたタオルを一枚つかむと、そのまま炎嵐の顔めがけて放ってきた。

「はい、キャッチ」

「うおっ」

 顔にふわりと布がかぶさる。

「何すんだよ」

「頭、拭きなよ。風邪引いちゃうよ」

「そんなもん引くかよ」

「風邪の方が逃げ出しちゃいそうだもんね」

 言いながら、華はくすっと笑った。

 炎嵐はぶつぶつ言いながらも、タオルをつかんで頭をごしごしこすった。
 冷えた耳のあたりに、布のざらつきと、少しだけ洗剤の匂いが残る。

「今日は、客少ねえな」

「こんな大降りだからね」

 流し台の横は、いつになくすっきりしていた。
 いつもなら崩れそうなほど皿が積み上がっている場所だ。
 裸電球の明かりに、洗い流した泡の欠片が、ぼんやりと光っていた。

「そっちは? 仕事」

「……まあ。ぬれ損」

「ぬれ損?」

「雨ん中走り回っても、もらえる金は変わらねえってことだよ」

「ふうん」

 華は、少しだけ肩をすくめた。

「じゃあ、一杯食べて帰りなよ。雨の日のほうが、あったかいもの、おいしいし」

「……食うだけ食わせて帰らせようとしてねえか」

「気のせい」

 華は、手近なビニール椅子をひとつ引き寄せて置いた。

「座ってて。もらってくるから。
 読みが外れちゃってさ、多めに仕込んじゃったみたいなんだよね」

「俺、手伝わなくていいのかよ」

「今日はお休み。そういう日もあるの」

 そう言い残して、華は表の鍋のほうへ駆けていった。
 ビニール屋根を叩く雨音と、麺を炒める音が混ざって、通路の奥まで響いてくる。

 炎嵐は、渡されたタオルを首にかけたまま、しばらく突っ立っていた。
 濡れた服が肌に張りついて重い。動くと、中で冷たい水がずれる感触がする。

 ほどなくして、華が戻ってきた。

「おまたせ」

 両手で抱えた器から、麺とスープの匂いが立ちのぼっている。

「はい」

 炎嵐の前に、そっと差し出される。

「……お前のは?」

「わたしは、もう食べたから」

「いつだよ」

「ちょっと前。暇なときに、ちゃちゃっと」

 華はそう言って、口元だけで笑った。

「……ふうん」

 炎嵐は器を見下ろした。
 麺はまだコシが残っていて、湯気もしっかり立っている。

「本当に食ったのかよ」

「本当だってば。こう見えて食いしん坊だからね」

 華は、少し得意げに鼻を鳴らした。

「ほら。冷めないうちに」

「……」

 納得しきれないまま、炎嵐は器を引き寄せた。

 麺をひと口すすった。
 熱が、さっきまで冷えていた喉のあたりを一気に通り抜けていく。

「……やっぱ、うめえな」

「日によって、ちょっと変えてるんだって」

「ん?」

「今日は脂、多め。寒いから」

 華は、まるで自分が作ったみたいな顔をした。

「あの親父とは、そういう話もするのか?」

「たまにね」

 はぐらかすみたいな笑い方だった。
 炎嵐は、もう一口すする。

 通路の入口で、ビニールシート越しの雨音が、まとまった塊みたいに響いている。
 表からは、客の声も鍋の鳴る音も、今日はあまり聞こえてこない。

「……家は?」

 麺を飲み込みながら、炎嵐はふと口を開いた。

「家?」

「こんな日は、普通、さっさと帰るだろ」

「ああ」

 華は、ビニール屋根の外に指を伸ばした。
 指先に、冷たい水が何滴か当たる。

「家ってほどの場所、ないから」

「は?」

「橋の下とか、ビルの軒下とか」

 淡々とした言い方だった。

「この辺じゃ、珍しくもないでしょ?」

「……家出ってわけじゃなさそうだな」

「お父さんと、お母さんはいるよ。血は繋がってないけど」

 華は、手持ち無沙汰なのか、足をぶらぶらさせる。
 靴の先に当たった水が、ぴちゃぴちゃと跳ねた。

「でも、今は、遠くにいる」

「遠くって、どこだよ」

「海の向こう」

「……はっきり言えよ」

「日本」

「……日本?」

「仕事でね。前は行ったり来たりだったけど、今はずっと向こう。
 わたしも、そのうち、また戻ると思う」

 炎嵐は、器の中の麺をいったん持ち上げてから、また沈めた。

「いつ」

「さあ。春節が終わるころ、かなあ」

「……マジかよ」

 華は、流し台の横に立てかけてあったバケツを、つま先で軽く押した。

「ほら、最初に言ったでしょ。
 “ここにいるのは、たぶんそれくらい”って」

 華は、口元だけ少し笑って、炎嵐を見た。

「ちょっとは残念がってくれる?」

 裸電球の光が、瞳の表面で小さく揺れている。

「でも、ずっとそうしてきたから」

「どういう意味だよ」

「同じ場所には、あんまり長くいないってこと」

 華は、言葉を探すみたいに、少し間を置いた。

「ここでごはん作って、お皿洗って、“ありがとう”って言われて……
 でも、しばらくすると、誰もわたしのこと、覚えてない」

「そんなわけないだろ」

「そうだね」

 華は、うなずいた。

「でも、わたしには、それくらいがちょうどいいの」

 華は、流しの水面をちらりと見てから、ビニールの屋根の向こうに視線を投げた。

「どの街もさ、“はじめて観光でちょっと寄っただけ”って思っとくの。
 観光客、っていうかさ」

「……は?」

「そう思っとけば、またどっかで会えるかなーとか、
 いちいち期待しないで済むでしょ」

「……なんでだよ」

「うーん」

 華は首をかしげてから、ほんの少しだけ笑った。

「長くいるとさ」

 雨音の方をちらりと見る。

「借りが増えるから」

「借り?」

「ほら。お仕事分けてもらったり、お話し聞いてもらったり、ごはんを一緒に食べたり」

「それ、お前がやってんだろ」

「そう?」

「そうだろ」

 思わず、強めの声が出た。

「……貸しつくってんのは、そっちだろ」

「じゃあ」

 華はほんの一瞬だけ目を細めてから、肩をすくめる。

「おあいこ、ってことで」

 それきり、話を切るみたいに流しに向き直る。
 空いたボウルをひとつ手に取って、底のぬめりを指でなぞった。

「ほら。早く食べないと伸びる」

「……分かってる」

 炎嵐は、器の中を見た。
 さっきより湯気は少ないが、スープはまだ温かい。

 麺を口に運びながら、さっき華が言った「同じ場所には長くいない」という言い回しだけが、耳の奥に残った。

「……いつ、行くか決まったら言えよ」

 器の底が見えかけたところで、炎嵐はぽつりと言った。

「なんで?」

「その前に借りを、返す」

「何の」

「全部だよ」

「ふうん」

 華は振り向きもせず、相づちを打つ。

「じゃあ、困るね」

「は?」

「だって、返し終わったらさ。
 返すまでのことなんて、すっかり忘れちゃうんじゃない?」

 炎嵐は、返す言葉をなくした。
 ビニールシートの向こうで、雨音が強くなったり弱くなったりしている。

「……よく分かんねえこと言うな、お前」

「そう?」

「そうだろ」

「でも、炎嵐くんも似たようなもんだよ」

 華は、そこでようやく振り向いた。

「見て見ぬふりしたら、楽なのに」

「……」

 炎嵐は、器の中のスープを見つめた。
 油の輪が、雨だれみたいに細かく揺れている。

「そういう性分なんだよ」

「うん。格好いいと思う」

 華は、それ以上何も言わなかった。

 炎嵐は、残りのスープを飲み干した。
 腹の内側が、ようやく温まってくる。

「……ごちそうさん」

「はい、どーいたしまして」

 空になった器を受け取って、華は流しの脇に置く。

「じゃあ、今日は本当に帰って」

 言い方はきっぱりしているのに、華は一度だけ視線を足元に落とした。

「見ての通り、今日は客足も遠いから」

 炎嵐はしばらく黙っていたが、最後には、肩を落として華に背を向ける。

「……分かったよ」

「滑るから、気をつけてね」

「ガキ扱いすんなっての」

 そう吐き捨てて、炎嵐はビニール屋根の外に出た。
 雨粒が、首筋に、ぱらぱらと落ちてきた。


 *


 あの雨の夜から、もう一週間以上たっていた。

 屋台街の通りには、昼のうちに細い紐が何本も渡されていた。
 その紐から、まだ灯りの入っていない紙灯籠がぶら下がっている。
 赤や黄の丸い提灯に混じって、金魚や龍の絵が描かれた、短冊みたいに細長い灯籠も揺れていた。

 夜になった今、その下を人が行き交っていた。

「ほら、もうすぐだよ」

 皿を抱えた華が、通路の奥からあごで頭上を指した。

「城隍廟の廟会でね。今日から、この通りも準備が始まったんだって」

「……ふうん」

 炎嵐は、通路の入り口から見える灯籠を一度だけ見上げた。
 まだ暗い紙の輪郭だけが、裸電球の光を受けて、ぶらぶら揺れている。

「本番は、春節からだってさ。
 除夕の夜中、城隍廟で鐘が鳴るころには、たぶん歩けないよ」

 華は、皿を流しに沈めながら言った。

「三日後。明日あたりから、試しにちょっと灯り入るかもね」

「どうでもいい」

 炎嵐は、別のテーブルから空き皿をまとめて持ってきて、どさっと置いた。

「これで終わりか?」

「ううん、まだ出るよ。今日は人、多いから」

 華は手を止めずに答えた。
 指先の泡が、水面で小さく割れる。

「春節始まるとさ」

「ん?」

「この通り、きっと混むよ。灯籠ぜんぶ点いて、小さい屋台も増える」

「小さい屋台?」

「おもちゃとか、アクセサリーとか。くじ引きとかさ」

 炎嵐は、ふん、と鼻を鳴らした。

「……ガキ相手のボッタくり屋だろ、どうせ」

「夢のないこと言うね」

 華は、くすっと笑う。

「でも、わたし、ああいうの見るの好き」

「なんでだよ」

「魔法みたいじゃない?」

「魔法?」

「何でもないガラクタがさ、その夜だけ、すごい“宝物”みたいに見えるでしょ」

「……宝物ねえ」

 炎嵐は、鼻を鳴らした。

「見てるぶんには、そりゃ悪くねえけどよ。
 春節の夜に街なんか歩いてると、ろくなことねえんだよな」

「ろくなこと?」

「ガキから金巻き上げるやつ。酒に酔って暴れるやつ。
 灯籠見てるだけでも、だいたい誰かが肩ぶつけてきてケンカ売ってくる」

 炎嵐は、足元の石畳をつま先で軽く蹴った。

「あはは」

 華は、どこか困ったように小さく笑う。

「冗談じゃねえぞ」

「まあ、そういうこともあるんだろうけど」

 華は蛇口をひねって、指先の泡を落とした。

「たまには、輪投げの景品見たりとかさ。
 そういうの、ないとさ」

「……見てるだけで、何がおもしれえんだよ」

「何も」

 華は笑った。

「でも、案外あとで思い出すよ」

 炎嵐は、洗い終えた皿の列を眺めた。

 白い皿の縁に、よく見ると小さな欠けがいくつもある。
 毎日客に雑に扱われ、ぶつかって、少しずつ増えた傷だ。

「……廟会、いつまでだろうね」

「あ? 一か月ちょっとだろ」

「そんなに?」

 華は、皿を布で拭きながら、目を丸くする。

「そんなもんだろ」

「長いね」

 華は、拭き終えた皿を重ねながらうつむく。

「なら、ここにも、たくさんお客さん来ると思うよ」

「仕事、増えるじゃねえか」

「うん。だから、がんばろうね」

 華は拭き終えた皿をきゅっと揃えた。

「勝手に巻き込むなよ」

「まかない、きっと豪華だよ」

「誰がまかない目当てだよ」

 炎嵐は、わざとらしく鼻を鳴らした。

「ふふ。違うの?」

 華は、炎嵐の顔は見ずに言った。

「じゃあ、その代わりに、炎嵐くんにも“魔法”見せてあげようかな」

「はあ?」

 華は、流しから半歩だけ通りのほうへ出た。
 頭上を渡る細い紐に、指先でそっと触れる。

 まだ灯りの入っていない紙灯籠が、その拍子にかすかに揺れた。

「廟会のいちばん最初の夜」

 華は、紙の影を見上げたまま言った。

「灯りがぜんぶ灯る頃」

 そう続けてから、くるりと炎嵐のほうへ向き直る。

「ちょっとだけお休みもらうからさ。
 通りの端、いっしょに歩こうよ」

「なんでだよ」

「なんでって」

 華は、少しだけ考えるふりをしてから言った。

「わたし、屋台の裏からしかこの通り見たことないんだよね」

 炎嵐は口を開きかけて、そのまま閉じた。

「いつも、この流しからちょっと見えるくらい」

 華は、通りの入口のほうへ、ちらりと視線を送った。

「……別に、一人で抜け出せばいいだろ」

「一人でぶらぶらしても、あんまりおもしろくないじゃん」

「それに」

 華は、水面に浮かんだ泡を、指先で軽くつついた。

「炎嵐くん、春節にあまり良い思い出なさそうだからさ」

 丸い泡が一つ、はじけて消える。

「だから、これからは“良い思い出”にしてみない?」

「なんだそれ」

 炎嵐は、通りの先にぶらさがる灯籠をもう一度見上げた。

「わたしが輪投げ見たいだけだから。
 炎嵐くんは、横歩いててくれればいいよ」

「忙しいだろ、お前」

「だから、“最初の夜だけ”って言ってる」

 華は、流しの縁に掛けてあった布巾を、指先でくしゃりと握り直した。
 しぼり切れていなかった水が、一滴だけ、足元の排水溝に落ちる。

「……考える」

 炎嵐は、少し考えてから、そう言った。

「うん」

 華は、満足そうにうなずく。

「じゃ、決まり」

「勝手に決めんな」

「さっき“考える”って言った」

「うるせえ」

 炎嵐は、わざとらしく舌打ちした。

 通路の奥から、麺をすする音と、客の笑い声が流れてくる。
 屋台の上の紙灯籠が、風もないのに、かすかに揺れた気がした。


 *


 翌晩、春節まで、あと二日になった。

 昼のうちに、頭上の紙灯籠の点検をしていたらしい。
 通りの真ん中あたりの列だけ、試しに灯りが入っている。
 赤や黄の丸い提灯に混じって、金魚や龍の絵が描かれた細長い灯籠も、ところどころだけ明かりを持って揺れていた。

 屋台街の入口には、普段より少し多いくらいの人がいる。
 春節の買い出し帰りらしい家族連れや、早めに酔いの回った中年たち。
 ポケットに手を突っ込んだ若い連中や、妙にきれいな靴の男たちも、立ち止まって頭上の灯籠を見上げていた。

「……本番前から、これか」

 炎嵐は、その人混みの少し手前で立ち止まった。

 いつもなら、そのまま屋台の間を縫って、麺屋の裏まで歩いていく時間だ。
 けれど今は、別の場所に向かわなきゃいけない。

「おう、小子(坊主)。時間通りだな」

 声をかけてきたのは、昼間から配達の仕事を斡旋してくれる中年男だった。
 今日は、汚れの少ないシャツにジャケットまで着ている。

「今日のは、いつもの荷運びじゃねえぞ」

 男は、屋台街の通りとは反対側に首をしゃくった。

「昼にも話したろ」

「……子どもが攫われてるってやつだよな」

 昼にその話を聞いたとき、引き受けること自体はもう決めていた。
 ガキを狙うような連中は、昔からいちばん殴り慣れている。

「そう。とあるお偉いさんのガキも、それで怯えててな」

 男は煙草をくわえ、火をつけた。

「本人のほうは今、別の場所に匿ってる。こっちはダミーだ」

「ダミー」

「似たような部屋を、何か所か用意してあるんだとよ。どこか一つでも犯人が食いついてくれりゃいい」

 煙を横に吐き出しながら、男は肩をすくめる。

「二晩だけ時間稼ぎすりゃ、そのあいだに本命のほうで根こそぎ潰す算段だ」

「……で、その“部屋”には、誰がいんだよ」

 ダミーというからには、空というわけにもいかないだろう。

 男は一瞬だけ言葉を飲み込み、煙草の灰を指で弾き落とした。
 そして、煙草を指に挟み直してから、

「お前だよ」

 とだけ、あっさり告げた。

「“ガキが一人いる部屋”に見せときゃ、それだけで餌になる」

「……は?」

「偽情報はこっちで流す。中に入ってくる奴がいたら、逃がすな」

 男は、煙草をくわえた口の端だけで笑った。

「金は、いつもの十倍だ」

 十倍――炎嵐は、拳を握り直した。

「これは、ちゃんとした仕事だ。小子(坊主)みてえなガキに回ってくるのは、そうそうねえぞ」

 男は、炎嵐の肩を軽く叩く。

「二晩、無事に乗り切れたら、晴れて“大人の仲間入り”だ。
 これまでガキだからってピンはねされてただろうが、これからは、むしろ跳ね上がるかもしれねえ。分かるか?」

 炎嵐は、屋台街のほうを一度だけ振り返った。
 麺屋の看板があるはずの方向を、一瞬だけ目で追ってみるが、屋台の影に紛れて、どれがそうなのか分からなかった。

「……分かる」

「いいか、絶対に一人も逃がすな。殺してでも止めろ」

 男はそう言って、炎嵐に錆びかけた鍵を手渡す。

 “殺す”という言い方に、炎嵐はほんの少しだけ目を細めた。

「……気絶させときゃいいんだろ」

「相手は、俺やお前みてえな魔人かもしれねえ。
 死にたくなきゃ――ま、あとは自分で考えな。分かったな?」

 男はそう言い残して、ひらひらと手を振って歩き去った。

 炎嵐は、ビルのほうへ向き直った。

 外壁のタイルはところどころ剥がれ、階段の踊り場には苔が生えている。
 三階まで上がると、廊下の端に、古い鉄扉が一枚だけぽつんとあった。

 鍵穴に、さっき渡された鍵を差し込んで回す。
 中をのぞくと、暗い部屋には、簡単なベッドと古い机がひとつあるだけだった。
 机の上にも、棚にも、食い物になりそうなものは何もない。

「……飲まず食わずかよ」

 呟きながらも、炎嵐は部屋の中をぐるりと見てから、扉を閉めた。

 部屋の窓から外を見ると、遠くのほうに、細い光の筋がいくつか浮かんでいた。
 試しに灯りを入れた紙灯籠か、店の看板かは、ここからじゃ判然としない。

 耳を澄ますと、ときどき人の話し声が風に押し流されて届く。
 笑い声というほどははっきりせず、屋台を片づける音や、どこかのクラクションにまぎれて、すぐに途切れた。

 これまでの仕事の報酬なんて、ポケットの中でしわくちゃになる札が何枚かだ。
 それが今日は、その十倍――とあの男は言った。

 飯と寝床で消える額じゃない。
 屋台街で一通り食って回っても、まだ余る。

 ――返し終わったらさ。

 雨の日に聞いた華の言葉が、不意に頭の中でよみがえる。

 ――返すまでのことなんて、すっかり忘れちゃうんじゃない?

 思い返すと、どうにもムカつく。

 華がなぜ、あんな言い方をしたのかは分からなかった。
 ただ、借りを返し終わっても、あいつの手元に何か一つくらい「形のあるもん」が残っていれば、“忘れる”なんて言葉は出てこない――そんな気がした。

(……まあ、まずは二晩だ。約束は三日目だ)

 炎嵐は、拳を軽く握り直した。
 今日明日くらい、顔を出さなくても文句は言わないだろ――自分にそう言い聞かせて、扉のそばに立つ。

 屋台を片づける声や、どこかで荷物を運ぶ足音だけが、
 ひびの入った窓ガラス越しに、ところどころ途切れながら届いていた。

 春節前の最初の夜は、そうして静かに終わった。


 *


 二晩をその部屋でやり過ごしたあとの朝だった。

 喉の奥が、砂を詰められたみたいに乾いていた。

 息を吸い込んだ瞬間、現実に引き戻される。
 どれくらい眠っていたのか、自分でも分からない。

 天井には、白い塗装のはげた茶色い染みがにじんでいる。
 紙灯籠か街灯の色がまざったような、薄く黄ばんだ筋になって、部屋のすみに斜めに伸びている。

 しばらく、その天井をぼんやりと見ていた。

 上体を起こそうとした瞬間、肺の奥がきゅっと縮む。
 左胸あたりに、焼けた鉄を押しつけられたみたいな痛みが走った。

「……っ」

 床に片手をつき、短く息を吐く。
 呼吸のたびに、胸の内側に、小さな石が引っかかっているような違和感が残った。

 Tシャツの襟元をつまんで、ぐいと引き下ろす。

 布地には、黒い焦げ跡。
 そのまわりを、乾いた血が輪を描くようにこびりついている。

 指先でそっとなぞる。
 皮膚の下に、鈍い痛みが走った。肋骨の上の肉だけを、横に薄く削がれたような感覚だった。

 壁に手をついて、ゆっくりと上体を起こす。

 床は冷たい。立ち上がった途端、頭が一度だけぐらりと揺れた。

 部屋の中には、人間が三人、倒れていた。

 扉の前にひとり。壁際にひとり。部屋の真ん中に、もうひとり。
 どれも動かない。うつ伏せのやつもいれば、仰向けのまま目を閉じているやつもいる。

 扉の近く、伸びた腕の先に、黒い拳銃が転がっていた。
 壁には、弾がめり込んだ跡がいくつか残っている。

 三人とも胸のあたりが、かすかに上下している。息はある。
 拳を握りかけて、途中でほどいた。
 こんなふうに転がったままなのを見るかぎり、まともに動ける状態ではない。

 銃の位置と弾痕の角度を、ぼんやり目で追っていく。
 何が起こったのか思い出そうとした瞬間、頭の奥に痛みが走った。


 ◇ ◇ ◇


 二日目の夜――

 扉の前に立っていた。
 外の廊下から、足音が二人ぶん、ゆっくりと近づいてくる。

 ドアノブが、一度だけ静かに回された。
 金属のこすれる短い音。そこでぴたりと止まる。

 短い間。扉の向こうの気配が、薄く張りつめた。

 次の瞬間、扉の真ん中あたりに、衝撃が打ち込まれた。

 鉄の扉が、低くうなるような音を立ててたわむ。
 間をおかず、もう一撃。固定がもたず、金属がちぎれる音がして、鉄扉は斜めに折れ、そのまま内側へ倒れ込んだ。

 足元で、金属と床がぶつかる鈍い音がする。
 冷たい廊下の空気が、一気に部屋の中に流れ込んでくる。

 倒れた扉の向こうに、影が二つ。

 ひとりは、肩幅の広い大男。
 もうひとりは、その後ろで様子をうかがう小男。

 二人は、一度だけ顔を見合わせた。
 決めていたみたいに、大男のほうがこちらに突っ込んでくる。

 太い腕。首がそのまま肩にくっついたみたいな体つき。
 足を一歩踏み出すごとに、床が低く鳴った。

 小男は、廊下の薄闇から動かない。
 腰のあたりに手をやり、拳銃を抜くのが見えた。

 炎嵐は、倒れた扉をまたいで近づいてきた大男の胸ぐらをつかみ、そのまま内側の壁に叩きつけた。

 ぶつかった衝撃が、自分の腕まで跳ね返ってくる。壁にひびが走り、粉がぱらぱらと床に落ちた。

 大男は、壁にめり込みながらもすぐに反撃してきた。
 でかい手が、炎嵐の首をつかみにくる。

 手首を払う。肘を折りにいく。
 動きは鈍いが、一発一発が重い。外した拳が床を叩き、ひびが広がる。

 炎嵐はそれを払い、常にその巨体を廊下の側に向けておいた。
 扉のほうから伸びてくる銃の射線を、こいつの体で切っておきたかった。

 大男の脇腹に膝を入れる。
 息が短く漏れ、でかい体が一瞬だけ折れた。

 そのとき。

 頭の上のほうで、かすかな擦れる音がした。

 視界の端、壁と天井の境目から、人の腕がぬるりと突き出す。
 二の腕から先だけが、空中にぶら下がっていた。

 その腕の先の刃が、まっすぐ炎嵐の首筋を狙っていた。
 冷たい光が、喉の高さでちらりと光る。

 振り向きざま、炎嵐はその刃ごと、伸びてくる腕をつかんだ。

 首筋の皮膚を、切っ先がかすめる。血が流れるほどではない、紙一枚ぶんの距離。
 つかんだ部分から、炎嵐の血がぽたぽたとしたたり落ちる。

 壁から生えたみたいな薄い顔が、一瞬だけ露になった。輪郭のあいまいな細い男。目だけが、はっきりしている。

 炎嵐は、そのまま後ろへと体をひねった。
 刃を握った手首を軸にして、壁の中に沈みかけている腕を、ありったけの力で引きずり出す。

 細い体が、壁から半分、ぐいっと抜けた。
 壁と体の境目が、無理やり裂かれるみたいに歪む。

 そのまま床に叩きつける。
 息の抜ける音に、短い悲鳴がまじった。

 床に転がった細身の男の手から、刃物が滑り落ちる。
 炎嵐はそれを足で遠ざけた。

 意識が一瞬、そちらに向く。
 その隙に、射線の盾にしていた大男の体が、わずかにずれた。

 廊下の小さな影が、ちょうどその隙間から覗く。
 距離を取ったまま、男は一歩だけ中に踏み込む。

 腕だけをまっすぐ炎嵐に向けていた。

 銃口は、炎嵐の胸の真ん中を、迷いなく捉えている。
 その線が、心臓にまっすぐ伸びてくるのが分かる。

 撃たれる、と思うより先に、体の中の血が、溶けた鉄みたいに一気に沸き立つ。

 廊下の男の指が引き金を引く動きが、やけに緩慢に見えた。

 バチ、と小さな光がはじけるのと同時に、炎嵐は上半身をひねった。
 心臓の位置から、ぎりぎりで射線から外すように。

 それでも、完全には避けきれない。

 左胸の外側あたりに、焼けた鉄を押しつけられたみたいな痛みが走った。
 肋骨の上の肉を、横からえぐられた感触が残る。肺の奥の空気が、一度に絞り出される。呼吸が詰まる。

 全身の筋肉が、一気にこわばる。
 一拍遅れて、熱い血がシャツの内側で、じわじわと広がっていくのが分かる。

 それでも、体の芯の熱は、さらに跳ね上がっていく。
 皮膚の下を駆け上がる熱が、傷口の鋭い痛みをすぐに溶かしていく。

 大男が、続けざまに炎嵐の肩をつかもうとした。
 炎嵐は、その腕を逆に掴み直し、胸ごと引き寄せる。

 視界の端で、小男の顔が、わずかに強張るのが見えた。

 炎嵐は、大男の鳩尾に、至近距離で一発、拳を叩き込む。

 当たった瞬間、内側の柔らかいものが潰れる鈍い手応えがあった。
 焼けた匂いといっしょに、布と皮膚がきゅっと縮む感触が伝わってくる。
 水気の多い何かを割るみたいに、拳が手首のあたりまでするすると沈んでいった。

 大男の口から、息とも声ともつかない音が漏れる。
 拳を引き抜くと、そのまま、その場でずるりと崩れ落ちた。

 背後から、小男の荒い呼吸が聞こえた。
 振り返ると、震える手で銃口を向けている。

 距離は、せいぜい二、三歩。

 炎嵐は、その間を、一息で詰めた。

 耳の奥に、また短い破裂音が轟く。
 今度は、狙いを定めた一発じゃない。ただ引き金だけを乱暴に引いた音だ。

 炎嵐は、銃を握った手首をねじ上げ、その胸に拳を叩き込んだ。

 胸骨の奥まで届くような手応え。
 男の呼吸が、変な音を立てて途切れる。

 手からこぼれた黒い拳銃が、床で跳ねて足元に転がった。

 部屋の中は、急に静かになった。

 耳の奥では、さっきの銃声の名残みたいな唸りだけが続いている。

 視界の端で、三つの影が床に散らばっているのが見えた。
 大男も、細身の男も、銃を持っていた小男も、どれも動かない。

 そこでようやく、自分の膝が崩れていることに気づく。

 床が近い。

 息を吸おうとしても、うまく入ってこない。
 左胸の奥で、遅れて痛みが噛みついてくる。

 指先から力が抜けていく感覚だけを最後に残して、

 そこで記憶が途切れた。


 ◇ ◇ ◇


 そこまで思い出して、炎嵐はこめかみを一度、指で押さえた。
 左胸の鈍い痛みが、まだ薄く残っている。

 壁を伝いながら、窓のところまで歩いていく。

 足を運ぶたび、ふくらはぎや太ももの筋肉が、鈍く抗議してくる。

 炎嵐は、窓枠に手をついた。

 ガラスの向こうの夜景は、さっきまでの続きみたいに見えた。
 ビルの向こうに、紙灯籠のオレンジがいくつも浮いている。

 ……それほど時間は経っていないはずだ、と思った。

 そう思いかけて、眉がわずかに寄る。

 灯りの列の伸び方が、まるで違っていた。

 記憶では、途中で何度も暗闇が挟まっていたはずだ。
 今は、路地のいちばん奥まで、切れ目なく灯籠の列が続いている。

 城隍廟の門のところには、これまで暗がりだった場所に、
 大きな龍の灯籠がひとつ、ぶら下がっていた。
 門のまわりだけ、他よりひときわ白く明るい。

 胸の奥が、じわりと冷えた。

 ――今日が春節だ。

 ひびの入ったガラス越しに、笑い声と太鼓の音、それに爆竹のはぜる音が、こもった塊みたいになって届く。
 紙灯籠は、見えるかぎりほとんど全部が灯っていた。赤と黄の明かりの下を、人の列が途切れず流れていく。

 窓枠から手を離す。

 周囲を改めて見渡す。

 扉は、内側から破られたまま倒れている。
 誰かが様子を見に来た痕跡もない。

 案件そのものが失敗したのか。
 それとも、襲撃を受けて死んだと思われているのか。

 囮は、囮として、使い捨て。
 そういう扱い方をする街だってことくらい、最初から分かっていたはずだった。
 もし、自分が生きているのを見たら――斡旋屋の連中は、どういう反応をするのだろうか。

 そこまで考えて、やめた。
 考え込んでいる時間はなかった。

 倒れた扉を踏み越えて、外の廊下に出る。
 階段を一段降りるたび、左胸の傷が、短く息を詰まらせる。
 一段ずつ降りるので、やっとだった。

 三階から一階まで降りるあいだ、誰ともすれ違わなかった。
 この古いビル全体が、最初から「空にしてあった」みたいに、静まり返っていた。

 外に出ると、風が刺さるみたいに冷たかった。
 頭上では、紙灯籠の列が、もうしっかりと灯っていた。
 爆竹の煙がまだ薄く残っていて、灯籠の赤がその中でぼやけていた。

 昨夜までの“試し点灯”とは違う。
 通り全体が、赤い膜を一枚かぶせられたみたいに明るい。

 人の数も、前の二晩とは比べものにならなかった。
 親に手を引かれた子ども、屋台の横で酒をあおる大人、
 買い物袋をぶら下げて足早に通り過ぎる誰か。

 声と匂いが、ひと塊になって押し寄せてくる。
 どこかで焼いた肉の匂いがして、油と香辛料が鼻の奥にまとわりついた。
 腹の奥が、きゅっと鳴った。

 あの部屋に入ってから、何も口にしていない。
 水も飲んでいない。

 このまま斡旋屋まで行って、話をつけて、金を受け取って──そんなことをしていたら、明け方になる。

 灯籠を見上げる。

 紙の赤と黄が、風もないのに、かすかに揺れている。
 その向こう、屋台の明かりのあいだに、人影がいくつも重なっていた。

 華の顔が、ふと頭をよぎる。

 十倍の報酬は手元にない。
 今、ポケットにあるのは、くしゃくしゃの紙幣が一枚きりだ。

 ――何でもないガラクタがさ。

 ――すごい“宝物”みたいに見えるでしょ。

 あのときの言葉が、不意によみがえる。

 炎嵐は、小さく息を吐いた。

 斡旋屋とは、あとでケリをつける。
 殴る用事が、ひとつ増えただけだ。

 今は、とりあえず──

 灯籠の列の下の人混みへ、足を向けた。


 *


 炎嵐は、人の流れに逆らわない速さで歩いた。

 屋台街の真ん中は、食い物の匂いと人いきれで、前がろくに見えない。
 通りの端に寄ると、少しだけ空気が軽くなる。そのあたりには、食べ物以外を売る小さな屋台が並んでいた。

 プラスチックの剣、水鉄砲、安っぽい指輪。
 ガチャガチャした色の髪留めに、よく分からないキャラクターの絵がついたキーホルダー。

 炎嵐は、ポケットの中の紙幣を指先でつまんだ。

 一枚きりの、くしゃくしゃになった札だ。
 この一枚で、何が買えるかを考える。

(……飯なら、まあ、そこそこは食える)

 けれど、それは「あとで」の話だ。
 腹のほうは、いったん脇に置く。

 立ち止まると、人の流れが肩にぶつかってくる。
 少しずつ端に寄りながら、一軒ずつざっと目を走らせる。

 そのうちの一つが、目に引っかかった。

 古びた木箱に布を一枚敷き、その上に金属の小物をずらりと並べた屋台だ。
 指輪、ブレスレット、小さなペンダント。どれも、銀色の地金に色付きの石を一つはめただけの、単純なつくり。

 箱の隅に、ブローチがいくつか重なっていた。

 丸いの、四角いの、花みたいな形のもの。

 その中に、一つだけ、目に残るやつがあった。

 安物の金具に、透明なガラスが一つはまっている。
 大きさは、親指の先より少し大きいくらい。

 灯籠の光が当たると、中で細い筋みたいな光が、ざらっと散った。

 炎嵐は、なんとなく手を伸ばした。

「お、小兄弟(坊主)。目が高いねえ」

 屋台の向こうで、店主が顔を上げた。
 油でてかてかした中年男だ。口元だけで笑っている。

「それはな、ただのガラスじゃねえぞ」

「……は?」

「清王朝のダイヤモンドって、知ってるか」

 男は、わざとらしく声をひそめる。

「昔の皇帝が持ってた、願いを叶えるだなんだって石よ。
 そういう話、好きな連中には昔から有名でな。
 これこそ、まさにそれってわけ」

「“清王朝のダイヤ”、ねえ」

 炎嵐は、手の中のブローチをひっくり返した。
 裏側の金具は、メッキがところどころ剥げて、鈍い鉄色がのぞいている。

「本物が、こんな夜店のガラクタの山に混じって売れ残ってるわけねえだろ」

「お、口が達者だね」

 男は、肩をすくめて笑った。

 炎嵐は、黙ってブローチを表に返す。

 灯籠の光を受ける角度を変える。
 白っぽい光が、一瞬だけ強く跳ねた。

 華の白いシャツの胸元に、それを留めたところを、ふと想像する。
 あるいは、エプロンの端でもいい。皿洗いのときに邪魔にならなそうな場所を、頭の中で適当に探す。

 誰に渡すつもりかなんて、わざわざ口に出す気はない。

「お? 気に入ったかい。
 小兄弟(坊主)みてえなガキには、手に余るくらいの代物さ」

 男は、値札代わりの紙切れを指でつまみ上げる。

「この石の秘密、知っちまった兄弟には、特別にこの値段で譲ってやろう」

 ちらりと見えた数字は、手の中の札をそのまま出せば、まだ少しだけ釣りが来る額だった。

「願掛け代わりにどうだ。ケンカに勝てますように、とかよ」

「……ケンカは、自分でなんとかする」

「じゃあ、誰かにくれてやるとかよ」

 炎嵐は、紙幣を一枚、ぐしゃっと握ったまま差し出した。

「これで足りるか」

「おう、小兄弟(坊主)。話が早え」

 男はひょいと受け取り、指先で器用に伸ばしてみせる。
 おつりの細かい硬貨を、数枚まとめて炎嵐の手のひらに落とした。

「気をつけろよ。すぐ割れるからな」

「……偽物(ガラクタ)って、自分で言ってんじゃねえか」

 炎嵐が鼻で笑うと、男は肩をすくめた。

「誰が偽物(ガラクタ)だって言ったよ」

 男はそう言いながら、木箱の上に残っているブローチのひとつを指先でこつんと弾く。
 外れかけた留め金が、小さく音を立てて揺れた。

「大事にしてくれる奴のとこ行きゃ、なんだって本物(たからもの)よ」

 炎嵐は、ブローチの留め金を一度だけ確かめた。
 指で押すと、ぱちん、と頼りない音がする。

 炎嵐は、紙灯籠の列をもう一度だけ見上げてから、人混みの奥──麺屋のある方角へ歩き出した。

 人の流れに押されながら通りを進んでいくと、途中で、飴を煮ている小さな屋台が目に入った。
 鍋の縁から、透明な湯気が細く立っている。

 その匂いを吸い込んだ途端、腹の奥が、きゅっと鳴った。

 顔を出さなかった詫びに、糖葫芦(サンザシ飴)でも買っていこうか。
 甘いものを口にすれば、あいつも機嫌をよくするだろう。

小兄弟(兄ちゃん)糖葫芦(サンザシ飴)どうだい。二串でこの値段」

 店主が、鍋の前から声をかけてくる。

「一串でいい」

「おや、ケチくさいこと言うね。“好事成双(対でめでたい)”って言うだろ? 二串買っときな」

 さっき買ったブローチのことが、ふと頭をよぎる。

「一串。紙、もう一枚くれ」

 炎嵐は、ズボンのポケットの底から硬貨をかき集めて、店主に渡した。

 店主は一瞬だけ目をしばたたかせてから、笑った。

「なるほどね。はいよ」

 店主は紙を一枚広げて、糖葫芦(サンザシ飴)を手早く包んだ。
 もう一枚は折り目もつけないまま、炎嵐の手のひらに載せた。

 炎嵐は、その紙の真ん中に、さっき買ったブローチをそっと置いた。
 四隅を折りたたんで小さな包みにし、ズボンの前ポケットのいちばん底に滑り込ませる。

「カリッとしてるうちにな」

 店主はそう言いながら、紙に包んだ糖葫芦(サンザシ飴)をひとつ、炎嵐の手に乗せた。

「ああ」

 指先に、飴のべたつきが、袋ごしに少しだけ伝わってくる。

 紙包みをポケットに押し込みながら、足は自然と麺屋のほうへ向かう。

 紙灯籠の列をたどって進むと、やがて串屋が見えてくる。
 あのとき油鍋をひっくり返した店だ。親父は、相変わらずぶっきらぼうな声で客をあしらっている。

 その少し先に、麺屋があるはずだった。

 炎嵐は、いつもと同じように、屋台の横から裏手をのぞき込んだ。

 ──何も、なかった。

 鉄パイプの骨組みだけが、壁際にぺたんと寄せられている。
 普段なら皿の山と流し台が見えるはずの場所は、がらんとしていて、濡れた跡だけが残っていた。

 床のコンクリートに、四角く色の違う部分がある。
 ついさっきまで屋台が立っていたのだと分かるくらいの、薄い跡。

 冷蔵庫も、鍋も、皿も、何もない。

「……あ?」

 思わず声が漏れた。

 跡地の前に立ち、もう一度奥まで目をこらす。
 見えるのは壁と排水溝と、片隅に積まれた空の樽だけだ。

「おう、小兄弟(兄ちゃん)も、あの麺、気に入ってた口かね」

 後ろから声をかけられて振り向くと、串屋の親父が、コンロの火を弱めながらこっちを見ていた。

「今日、引き払っちまったからな。そこには、もう店はないぞ」

「……今日って、いつだよ」

「朝からだよ」

 親父は、めんどくさそうに眉をひそめる。

「昼前にはもう、骨組みばらしてたかな」

「……皿洗いのガキは?」

「ああ、あの子な」

 親父は、少しだけ目を細めた。

「鍋や皿を箱に詰めてよ、朝から汗だくで動いてたよ。
 それっきりかと思ったら、暗くなってからまたふらっと現れてな。ついさっきまで、そこの端っこに座ってた」

 親父は、炎嵐の横あたりを、顎でしゃくる。

「なんだか今日はよそ行きみたいな格好しててな。灯籠の下でぼんやり通り眺めてて、けっこう目立ってたぜ」

 炎嵐は、思わず、自分の足元に目を落とした。
 ほんの少し前まで誰かが座っていた気配なんて、どこにも残っていない。

「どこ行くって言ってた」

「さあな。遠くに行く、とは言ってたが」

 親父は、そこで初めて、じろりと炎嵐を見た。

「あの子に用があるなら、もっと早く来りゃよかったんじゃねえの」

 炎嵐は、返す言葉を見つけられなかった。

 指先に、紙包みの温度だけが残っている。
 さっきまでありがたかったはずの温かさが、妙に持て余される。

「……そうかよ」

 短くだけ言って、親父から視線を外した。

 屋台のあった場所を一度だけ見てから、通りのほうへ踏み出した。
 気づけば、もう走っていた。

 紙灯籠の列の下を、人と人のあいだを縫うように駆け抜ける。
 すれ違いざまに肩がぶつかるたび、体勢を立て直しながら、通りの端や屋台の影をのぞき込んでは、また蹴り出す。

 灯籠の切れ目ごとに曲がり角を曲がり、向こう側の列も走って見て回る。
 息が荒くなるにつれ、左胸の奥で、さっきの傷がじわじわと熱を持ち始めた。

 それでも足は止まらなかった。
 けれど、どこかの角を曲がったあたりで、肺の奥がきゅっと縮む。

 空気を吸おうとしても、喉のあたりでからまって、うまく入ってこない。
 勢いのまま二、三歩だけ走ってから、糸が切れたみたいに膝が崩れた。

 どこでどれだけ走ったのか、よく分からなかった。
 気がつけばまた、もとの屋台の裏手のあたりに戻ってきていた。

 通りの喧噪だけが、さっきと変わらない調子で続いている。

 膝から崩れた拍子に、前ポケットが大きく開いて、小さな紙包みが石畳の上に転がり出た。
 こつ、と小さな硬い音が跳ねる。

 炎嵐は、息を整えるより先に、それを目で追った。
 糖葫芦(サンザシ飴)をその場に落とし、人に踏まれる前にと、膝立ちのまま手を伸ばし、小さな紙包みを両手で包みこむ。

 紙をひろげると、中からブローチが出てきた。

 明かりにかざしてみる。
 透明だったガラスの表面に、細いひびがいくつも走っていた。

 石畳の上で跳ねたときか、人混みの中でぶつかったときか。

 手首をひねって、光の角度を変える。
 紙灯籠の橙色が、ひびの筋に細く入り込んでいた。

 一瞬だけ、栗色の髪が揺れたように見えて、思わず顔を上げる。
 振り返っても、そこには誰もいない。

「……っ」

 唇の内側を噛む。

 息を一度だけ大きく吸い込んでから、拳で石畳を殴った。

 鈍い痛みがこぶしから腕に上がり、左胸の奥の傷といっしょにじくりと疼いた。

 壊れ物だと、注意されたばかりなのに。

 掌の上のガラスは、ひびだらけで、どう見ても安っぽい飾りだった。
 それでも、手から放り出す気にはなれなかった。

 炎嵐は、指先に力を込めて一度だけ握りしめてから、またそっと開いた。
 ブローチをもう一度、紙に包んでポケットの底に押し戻した。

 足元には、紙に包まれた糖葫芦(サンザシ飴)が一つ、ぽつんと転がっていた。

 それを拾い上げて、通りから一歩だけ外れる。
 少し離れたところから、人の気配が薄くなった屋台街を眺めた。

 さっきまでぎらぎらしていた屋台の明かりは、もうだいぶ落ちている。
 頭上の紙灯籠だけが、通りの端まで、細く一本の線みたいに続いて揺れていた。

 ふと顔を上げる。
 灯籠の列の切れ間から覗く、ビルのあいだの空が、ぽっかりと黒い。
 そこにあるはずの月は見えない。

 紙包みをもう片方の手に持ち替えて、炎嵐は、何となく一口だけかじった。
 飴がぱきりと割れて、歯に貼り付く。
 ほどけた実が、喉の奥へ落ちていく。

 どこにも、華の姿はない。

 それでも、味はちゃんと甘かった。


 *


 あの夜から、ひと月ほどは、仕事の行き帰りに、わざわざ屋台街を通った。

 気がつけば、廟会は終わっていた。
 通りは、拍子抜けするくらい、何事もなかったみたいに元に戻っていた。
 頭上の灯籠は外されて、紐と釘の跡だけが残っている。

 それでも、麺屋があった場所だけは、ずっと空き地のままだった。

 鉄パイプの骨組みも、いつの間にかどこかへ運び出されたらしい。
 壁際には、角の欠けたプラスチックの箱が一つ残っているだけで、その上には、誰かが吸い終えた煙草の箱がぽんと置かれていた。

 炎嵐は、通りかかるたびに足を止めて、路地の奥や、周りの屋台の隙間を見た。
 華の姿は、どこにもなかった。

 何日か経つと、屋台街の周りも歩くようになった。

 配達のついでに、通る路地を一本ずつ変えてみる。
 洗濯物の下がる細い路地、バイクがずらりと並んだ裏道、古いアパートの階段の下。

 どこを歩いても、見覚えのない顔ばかりだった。

 ときどき、道端で煙草を吸っている大人や、店先で暇そうにしているおばちゃんに声をかけた。

「このくらいの背でさ、栗色の髪の子、見なかったか」

 返ってくるのは、首をひねる仕草か、「さあね」の一言がほとんどだった。

 何人目かで、少し違う答えが返ってきた。

「あんたが言ってる子と同じかどうかは知らないけどねえ」

 道の角に小さな雑貨屋を出している年配の女だった。
 腕を組み、遠くの棚でも眺めるみたいに視線を外して、しばらく小さくうなった。

「海の向こうで家族が待ってるって言やあ、昔ここに似たような子がいたよ」

「日本か?」

「そうよ」

 女は、少しだけあごを引いた。

「親だか何だかが貿易で行ったり来たりしててさ。
 でも、その子は川でどうにかなったって聞いたよ。それっきりさ。
 あたしがあんたくらいだった頃の話さね」

 ふう、と短く息を吐く。

「親の姿も、それきり見ちゃいないよ。
 ああいう稼ぎも、とっくに畳んだんだろうねえ」

「……そうかい」

 炎嵐は、それ以上は聞かなかった。

 似たような話を、別の場所でも一度だけ聞いた。
 借金を抱えて夜逃げした家族の話と、川で溺れた子どもの話が、頭の中でごちゃ混ぜになっていった。
 どれも、華とはぴったり重ならなかった。

 やがて、誰かに声をかけて回ること自体が、少しずつ減っていった。

 気づけば、しばらく空き地のままだった跡地に、新しい屋台が出ていた。
 焼きとうもろこしの屋台で、前を通ると、焦げた匂いが鼻をつく。

 ブローチは、いつしか引き出しの奥に入れたままになり、思い出すことも減っていった。

 日々、配達の手伝いをして、ムカつく大人を殴って、少しずつ金を貯めていた。
 ただ、胸の奥にはずっと、小さな引っかかりだけが残っていた。


 *


 十数年が経った。

 屋台街は、あの頃と同じ場所に、まだ残っていた。
 それでも、骨組みも屋台も何度か入れ替わり、道の端には新しい看板も増えていた。

 炎嵐は二十八になっていた。
 背丈も、稼ぐ金も、あの頃とはまるで違う。

 けれど、別の用事でこのあたりを通るたびに、視線だけは、自然とあの場所を探す癖が残っていた。

 皿洗いを手伝ったあの一画。
 ひびの入ったブローチを、ポケットの奥で握りしめていた場所。

 そこに、華が座っていることは、一度もなかった。

 夜、酒の席で、「探している人間がいる」とだけ話したことがある。
 皿洗いを手伝ってまかないを分けてもらったこと。
 子どもの頃に交わした約束のこと。

 そこまで話してから、相手に名前を聞かれて、少しだけ黙った。

 喉まで出かかっていた言葉を、一度飲み込む。

「……華って名乗ってたよ」

 そう言って、グラスの縁を親指でなぞった。

 家に戻ると、ブローチは、相変わらず引き出しの隅にあった。
 ひびの入ったガラスは、引き出しの奥で、ほとんど光を拾うこともない。

 炎嵐は、引き出しをそっと閉めた。

 あの夜の甘さだけは、まだ舌の上に残っている。



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