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隔絶魔人都市 上海 第二章ー「欲深き清拳」

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隔絶魔人都市 上海 第二章ー「欲深き清拳」


 グランドスラム。それはスラムにおける頂…
 魔都上海における規格外のスラムだ。此処にいる連中は上海各地に存在している者より上の存在。そう名乗っているだけかもしれないが。
 そんなわけでこのスラム街は気力に満ちた人々が多い。
 遠くから聞こえてくる罵声の応酬は、大方タャイニーズマフィアとガャングの小競り合いだろう。

「…いや上の存在ってそういうことじゃないよな…」
「どしたの海圻、難しい顔して」
「いや、なんでもない。…買い食いするのは構わんが、財布盗られないように気をつけろよ」

 シグリはどうやら闇市で買ってきたと思わしき鴨をつまんでいた。
 ここではスリがとにかく多い。スリの餌として屋台を出しているやつがいるくらいだ。
 厄介なのはとにかく早いこと。確実に気付けはしても、逃げ隠れられてしまうと探すのも一苦労だ。

「うわわ辛っ!!海圻も食べてみてよ」

 シグリが差し出してきた鴨には害意が一切ない。…よくこの闇市で全うに食材を扱っている店を選べたな。
 食材に毒やら針やらが仕込まれていると、作り手の害意を一身に受ける。
それがないということは…ほぼ確定で安全なモノだ。

「うまいな、まさかここらいったいにこんな店があるとは」
「現地人からのお墨付きクラスだ!」
「別に俺は食にうるさいタイプじゃないからあてにするなよ」

 『清海』に入るまでは食うに事欠くような生活をずっと送ってきた俺にとって、胃に落ちることが最重要だった。
 決して美味い不味いの識別ができないというわけではないが、それでも他人より美味いの判定は広いだろう。

「もし、すこし良いだろうか」
「?」

 突然の声に俺とシグリはそろって振り返った。
 声をかけてきたのは丈の長いコートを身にまとった男だった。実際のところそれ以上に目を引くのは白い狐の面だろう。
 この目立つ格好は上海大賽に参加している拳狐と合致している。

「其の鴨は何処で売っていた?」
「あっちの屋台で売ってました!あでもちょっと人いっぱいだし…案内します?」
「いや、方角が分かればそれで良い。その気持ちはありがたく受け取ろう。
 蟹も良いが此処では鴨も逸品と聞く。おぬしが美味そうに食っているのを見て気になってしまってな」

 シグリが示した方向へ足を進める拳狐だったが、くるりと振り返った拳狐の視線が俺へ向けられた。
 面で隠されていてなお内心を見透かされているように感じてしまう。
 そんな俺の心を見破ったかそうでないかは定かではないが…面で隠れていない口元が笑みを浮かべていた。

「なあ、おぬし。(おれ)と同類だろう?
 耐えるのも悪くはないが…其の技が腐るのは惜しい。時には欲に従うのもいいものだ」

 返答しない俺の様子をどう思ったか、拳狐はそのまま俺から視線を外し去っていった。
 見透かされていたのだろう。
 あれだけ上質な闘気を持っている存在が目の前にいて、どうして昂りを抑えきれようか。
 今すぐにでも呼び止めて手合わせ願いたい。格上だからこそ戦い甲斐があるというものだ。

「…分かってる、今の目的はそれじゃない」

 俺たちは任務のためにここにきている。
 優先すべきはそちらだ。先に彼と手合わせしたとて、十全に任務を終えられる可能性は限りなくゼロに近い。

「…海圻、海圻!」
「え、ああ…どうしたんだ?」
「アッチで杏仁豆腐の出店が………任務前なのにちょっと浮かれててゴメンナサイ…」

 途中まで言ったところでシグリはだいぶ落ち込んでしまった。

「いいんだよ、シグリは上海まで観光に来てるんだ。
 楽しめることがあるなら思う存分楽しんだ方がいい。
スラム街で楽しむ、というのもヘンな話だけどな。…まあここをスラム街というかは疑問だが」

 この街には九龍城砦や貧民街と呼ばれるスラム街が存在する。
 そこに比べればここはどちらかといえば栄えている方だ。

「おれが想像してたスラムとは全然違うもんなあ、ここ。
 皆すっごい元気だし、屋台もいっぱいだし」
「その元気をスリ以外に使ってほしいもんだ…」
「こんなに美味しいの作れるんだから屋台街とかでやればいいのにねえ…」
「此処にいるやつらなりの矜持があるんだろうな。
 そろそろ時間だ、行くとするか」

 魔幇からの依頼。俺たちに向けて出してきたこの一件は如何なる意味を持つのか。
 それを確かめに行こう


                    ***


 指定されていた場所はごく普通のつぎはぎでできた家屋だった。ここには履いて捨てるほどある造形だ。
 周囲には人の姿があまり見受けられない…人払いは済ませている、ということだろうか。
 こうも不自然に静かだと、奴らにも警戒されると思うんだがな…
 まあ俺たちのやることに変わりはない。シグリもろとも気で覆い、気配を殺す。
シグリのダイヤモンドが放つ気は抑えきれないが、それでもかなり微弱にはなった。

Hey diddle,diddle…♪

『座標は合ってるわね…それじゃあ任務開始よ。
 細心の注意を払って調査してね』
「了解。シグリ、俺から離れるなよ」

 今回の任務は反抗勢力の鎮圧だ。俺の能力で探査したところ中に人の気配はある。だが、妙に混濁している。
 これをどう見るべきか、十中八九罠であることは確かだ。だが、外から吹き飛ばすのは悪手だろう。反抗勢力がここ以外にいた場合、そいつらにこちらの所在を明かすことになる。
 だがもし、罠だったとして人の気が混濁する罠とはいったいなんだ?
 そして…

               The cat and the fiddle…♪

 先ほどから聞こえる妙な歌は、一体なんだ?
 冷汗が伝う。俺の能力ではなく直感が、危険だと警鐘を鳴らしている。

『海圻、中に危険物の反応はないわ。十数人の音は聞こえるけど、ほぼ動いていないみたい…かなり静かね』

華甲さんの能力で感知しているものは俺と同じらしい。
 問題は静かすぎるというところだ。これだけの気配があってここまで静かなのは死人くらいなのに、反応はすべて生体反応である。
 その疑問に応えるように、ひとりでに目の前の扉が開いた。キィ、と軋む音をたてながらゆっくりと部屋の中をさらけ出す。

「華甲さん、そのことなんだけどな…」

 部屋の中には何もいない。今まで誰かがいたというように、椅子と机が並べられているだけ――

「ッ…!」

 反射的に俺は体を動かしていた。能力ではない。ただ、死線を潜り抜けた俺のカンだ。
 シグリを抱き寄せ、後方へ飛び退る。
 気を隠した俺たちを見つけられる者は、相当探知能力に長けた者だけ…そう思う理性はあった。だが、例外はいついかなる時だって存在する。

「The cow………気付かれたか」

 扉の影から何かが出てきていた。何らかの魔人能力…恐らく影を媒介に移動する類か。
 完全に影から姿を現したそいつは、外見だけで言えば人畜無害そうな優男といった印象だった。
 だが、俺たちへ向けられた殺意は明らかに場慣れしている。
 手にしている短刀は、丁度シグリが立っていた場所に突き立てられていた。

『突然そこに生体反応が………え、ちょっとなに?!』

 通信機越しに聞こえる爆発音。華甲さんの悲鳴も一緒に聞こえてくる。
 『清海』拠点での戦闘音、それが意味するところは一つだ。

「アンタ、そこにいるだろ。『清海』の海圻…だったか?」
「…」
「魔幇四天王陽堂堂。粛清及びダイヤの回収にきた。
ダイヤの欠片を隠していることは把握済みだ。早く引き渡せ。
仲間の増援には期待するな…魔幇がそちらを潰しに行っている」

 放水路であれだけの大立ち回りを繰り広げたんだ、仕方あるまい。
 魔幇からの依頼というのは建前で、俺たちをここにおびき出すつもりだったのだろう。
 その可能性も考えていた。彼らの動きで、俺たちへの態度がはっきりするからこそこの依頼を受けたのだ。

「結果は大当たり…魔幇は俺たちと敵対する、ってコトだな」

 勿論はいそうですかと引き下がるわけにもいかない。
 こちらの位置もバレている以上、隠れることに力を割くべきじゃないな。

「悪いができない相談だ。例え魔幇だとしても、俺たちの理念の元シグリは渡さない。
 …あんたから、他の人間の気配がする。何処へやった?」

 陽から先ほどと同じ人の気配が放たれている。だが、目の前には陽1人しかいない…
 この男が何かしらの力でそいつらを封じているのであれば、反抗勢力とやらは既に潰されていると考えていいだろう

「アンタに教える義理もない。反抗の意志あり…引き渡すなら処置も軽くなるらしかったが…残念だ」

 陽の掌の上で何かが瞬く。日の光を喰らい、より強い光へ。
 変身は一瞬、止める間もなく陽の姿は変貌していた。
 蘇の時にも見た、ダイヤモンドの欠片による強化外装…彼の場合蘇よりシグリの変化に近しいか。

「…さて。仕事の時間だ」

 陽の姿が掻き消える。先ほども見せていた能力だ。
 恐らく先ほど俺たちを補足したのはダイヤの欠片を所持している者同士が惹かれ合う性質を利用したのだろう。

 Hey diddle,diddle…♪

 聞こえてくる歌は陽の声と同じもの、先ほども聞こえていたことを考えると、歌が能力のトリガーということか。
 彼の狙いはシグリだが、俺も『清海』である以上粛清対象だ。
 どの程度まで彼が影に干渉できるか定かではない。今は影ができる場所を避けるべきだろう。

「そこだッ!」
「っ?!」

 確かに息をのむ音が聞こえた。虚空を打ち砕く軌道にあった肘鉄は、俺の背後に出現した陽によって防がれた。
 気で強化した俺の一撃を受けてなお刀身は刃毀れすらない。業物であることが一目で分かる。

「くっ…」

 陽は深追いすることなく俺から距離を取ろうとする。
 俺の力量を見抜いているからこその離脱、彼は不意打ちによる暗殺を得手とする手練れに違いない。
 インファイトでは俺に分がある。故に、自分の有利な環境で戦うつもりなのだ。
 俺の拳が届くより早く、彼の身体が影の中へと沈んでいく。確実に当てるならば、誘い出す必要がありそうだ。

The cat and the fiddle…♪

 音の志向性はなく、空間そのものに響くような歌声。
 同時に十数人の混濁した気も空間に満ちている。…能力による探知は彼が歌っている間ほぼ封殺されていると言っていい。
 影に潜み影の間を移動するだけの力であればこうはならない。
…相手が魔人である以上確証はないが、よほど突飛な思考の持ち主でなければそのはずだ。
 直感と反射のみで凌ぎ続けるのは無理がある…あまり時間はかけていられないな。

             The cow jumped over the moon…♪

 ただ時間が過ぎていく。焦らす作戦か。確かに有効だ。
 常に精神を張り詰めさせていればパフォーマンスは嫌でも落ちる。

「!」

 シグリの影が揺らめく。ほぼ同時に俺はシグリを抱えて飛びのいていた。
 だが陽は出てこない。影を媒介にした能力だと思っていたが、何かしらの条件があるのだろう。
 ふと、視界の端に陽の姿が映る。影の只中で、じっと殺意に満ちた瞳が俺を見据え――消えた。

「いっ…!?」

 背後に出現する殺気の塊。
 何か鋭いものが当てられている。明らかに俺の体内へ侵入しようとしているソレは、丁度右脇腹付近に当てられていた。
 咄嗟にその凶刃を弾き飛ばそうとしたが、不意に手ごたえがなくなった。
 陽が、背後の壁を蹴って宙返りをしていたのだ。どうやら壁に映った俺の影から出てきていたらしい。誘い出されたのはこちらの方か。

「よくもまあ反応したものだ」

 賞賛とも侮蔑ともつかない声音で、俺たちの頭上を通過する陽。
 その指先で何やら透明な結晶が寄り集まっていた。

「が、あッ…?!」

 突如として頭に響く鋭い衝撃。意志に反して顎が上がる。
 強引に顔を前へ向け、何とか着地する。目の前で水へ飛び込むように陽は影の中へ沈んでいった。

「海圻、大丈夫…?」
「ああ、問題ない。…安心しろ、お前は俺が守る」

 自分に言い聞かせる意味も含めつぶやいた。

「影に潜み唄う秩序の守護者、あんたの仕事を邪魔することにはなるが――
 阻むならば俺の力で打ち砕くまでだ!」


                   ***


 次はどう来るか。何度か打ち合いに持ち込んだが押し切れない歯がゆさがある。
 陽も暗殺特化とはいえ力がないわけではない。

「だが、そろそろ幕引きにしないとな」

 影からの奇襲にも慣れた。無論影を用いない接近戦で緩急をつけてくる可能性もあるが…それはこちらの領分だ。
 背後から感じる殺気、だがまだ弱い。これはおそらくブラフだ。

「四霊、我が身に来れ――」

 練り上げ、巡らせ、気を纏い構える。

「軍撃――『鳳翼陣』」

 向かい来るとわかっているならば、対処は可能だ。
 『鳳翼陣』は
 背後からの牽制を受け流し、横合いからの首を狙った一撃を躱し、放たれたダイヤの礫を拳を以て打ち砕く。
 既に陽は俺の力量を見抜いているころあいだろう。そしてそれは、彼がシグリに手を出さない理由となっている。

「せあッ…!」

 影から影へ移動し続ける陽の動きには規則性がある。
基本的に人の影に移動する場合はその人物が動いていないことが絶対的な条件だ。
故に、影から影へ移動するとしても攻め手となりうる影は絞られてくる。

「ぐッ…?!」

 放った拳が陽によって防がれた。どうやら腕で顔面を守っていたらしい。
 だが俺の力によって強化された一撃を余裕を持って受け止められるほど陽の身体強化性能は高くない。
 それは、今までの闘いで把握済みだ。
 よろめいた陽の身体が影へ沈み始める。十分間に合う速度だ。
 殴ったところで彼が影に沈むのは止められない。であれば、影からどかすのが先決だ。
 踏み込みから襟を掴みそのまま後方へ投げ飛ばす。すぐにでも体勢を整えるだろうが問題はない。
 着地より先に、陽を無力化する。

「おおおッ!」

 気合を迸らせ、跳躍。
 あと数センチで俺の拳が届く。だが、その数センチが届くことはなかった。
 突如として飛来した謎の球体が、陽の身体を跳ね飛ばしたのだ。

「新手か…」

 アレは決して攻撃の意志を持ったものではない。
 陽を俺の攻撃から守るため、横やりが入ったのだ。

「助かった、叩师傅(こうししょう)
「师傅と呼ばれるほどいい先導者ではなかったがね。
 ふむ、流石は『四霊随身』だ。魔幇四天王に対し引けを取らない実力には脱帽する」
「さっきの能力…音に聞く叩頭卿か。まさか、こんなところで隠居していたとはな」

 構えは解かず出方をうかがう。相手は初代魔幇四天王だ、実力も折り紙付きと聞く。
 陽1人でもかなりてこずった俺が、この2人を相手にシグリを守り通すことができるのか…?

「時に『清海』。そこの少年がどういったものであるかは理解しているんだな?」

 叩の視線がまっすぐに俺を見据える。どうやらまず無力化してから、という形ではないらしい。

「ああ。だからこそ、俺たちはこいつと欠片をどうにかして剥離したい」
「成程。おんしがそう思っていたとして…首魁がそう考えているとは思うか?」
「ガングートが…?当たり前だろう。
…万が一ダイヤを独占するような輩に成り下がるのであれば俺が止めてみせる」

 『清海』はガングートの理念の下に集った魔人や非魔人の集団だ。
 無関係の人間を守り、秩序と平和を維持する。この思いを美しいと思ったからこそ俺たちは集った。
 故に、その道から外れるのであればリーダーであろうと全力で止める。
 例えそれが俺を拾い招き入れてくれた恩義に反することになったとしてもだ。

「成程。おんしの覚悟は分かった。だがな、儂も魔幇に忠誠を誓った身だ。
 おんしの手元にあるダイヤの欠片が私利私欲の侭に弄ばれる可能性も否定できん」
「話し合いで解決できるとは元々考えてないさ。
 …2人に増えたとて、俺のすべきことは変わらない」

 手練れ二人を相手取る。それがどれだけ難しいかは、よく知っている。
 しかも今回は魔幇の四天王と元四天王…俺1人でどうにかなる相手ではないことは重々承知の上だ。
 だが、こちらとしても引くわけにもいかない。シグリを守り通す。それが俺の役目だ。




 何処か、このスラムでは日常茶飯事な土煙が天高く立ち上った。
 ただそれだけであるならば気にも留めぬ些事に過ぎない。だが、そこから放たれる力には、己が箸を置くに足りる理由があった。

「……あれだけの力を持つ者を隣に置けば目を付けられるのも必然よ。
 欲に身を堕とさぬ理由もそこにありそうではあるがな」
「お兄さん、いきなりどうしたノネ」
「いやなに、少しばかり興味深いものが見えただけだ」

 私欲の侭拳を振るうのではなく、何かを守るため。
 彼が戦うということはあの2人に危険が迫っていることの証左だ。

「退屈しのぎに美味い肴を満喫するのも悪くはない、が…
 強者がいるならば、一戦交えたいものだ」
「ふっふんウチの鴨は美味いでショそうでしょう!宣伝してくれてもいいのヨ」
「屋台街でも通用する味であった。
 さて、己も赴くとしよう。こんなにも近くで斯様な拳気を放っていては誘っているようなものだぞ」
「ウチはココでテッペンとったるってキメてるから屋台街には構えないサ。
 あい、丁度ありがとうねェ」

 行先は決まった。ここで彼らを失うのは惜しい、状況次第では助太刀とするか。

「――己が先に見つけたのだ、魔幇なぞに掠め取られてはたまらぬ」


                 ***


 陽の奇襲、そして高速機動で俺を追い詰める叩の準然たる技。
 攻めに転じることはできず、俺の身体に傷が増えていく。
傷で済んでいるのは能力のおかげだが、一瞬でも気を抜けばあの世行きだ。

「おんしに恨みはないが、ケジメはつけんとな」

 一瞬にして伸びた首が、俺の防御を打ち崩す。よろめく俺の目の前に叩の拳が迫っていた。
 直撃、次いで襲い来る鈍痛と息苦しさ。体が意志に反し飛んでいる。
 気による防御が薄くなっていたのもあるが、肺が潰れたと錯覚するほどの衝撃は俺の力を容易く奪い取った。

「くはッ…あッぐぅ…」

 脚に力が入らない。…分かっている、10秒でも休めれば気の巡りを調整し経戦能力の復活は可能だ。
 だが、彼らは10秒待ってくれるほど甘くないしこと戦いにおいて10秒の停止は敗北と同じだ。
影へと沈み込む陽の姿が視界に映る。 あと1秒もたたぬうちに俺の首へ刃が通される。
速く動けと念じても脚は俺のものではないように動かない。

「シグリ…」

 俺が守ると言っておきながらこのザマか…!
 情けない、だがその代価としてシグリが殺されるのは、ダメだ。俺の所為でシグリが傷つくことは――

「海圻、ダメーーーッ!」

 それは流星のように空を覆った。放たれた無数の糸は俺以外のすべてを縛り上げている。
 さっきのシグリでは動きを止めることもできなかったはずが、今は完全に彼らの動きを封じ込めることに成功している。

「海圻はおれが守るから…おれだって、守られてばかりじゃいられないんだ!」

 煌々とダイヤの翼が輝いた。
 それと呼応するように陽の強化外装がくすんでいく。

「ッ…だから、力を貸せ!願いを叶えてくれるモノの欠片ならそれくらい――」

 シグリの絶叫が途切れた。攻撃を受けたわけではない。だが、先ほどまでの激情は何処にもなく、どこか虚ろな視線で俺たちを見下ろしている。
 シグリの唇が動く。ぞっとするほどに感情が削ぎ落された、この世のものとは思えない声。
 その宣告がグランドスラムに響き渡った。

「地に満ちよ、地を従わせよ。支配の理のもと、供与の理の吸収を。
 ――『統星指令(アストラル・ドミニオン)』」

 シグリの言葉に呼応するように、陽の強化外装が崩れ落ちていく。
 蘇の時とは違う、炭化していくが如き様相は異様なものであった。

「ッ…!」

 陽の表情が苦悶に歪む。その胸から何かが飛び出ようと先端をのぞかせていた。
 トランプのスートをかたどったような透明な結晶、ダイヤの欠片が陽から摘出されようとしている。
 抗うように腕を動かす陽だったが、抵抗も空しく完全にダイヤの欠片が摘出された。
 落下することもなくダイヤの欠片はシグリのもとへと向かっていき、その胸の中へと吸収されていく。

「……あれ、おれは…ああ、やれたんだ…海圻を、守って――」

 浮いていたシグリの身体から力が抜けていく。

「シグリ!」

 シグリが稼いでくれた時間のおかげで俺の身体も少しは動いてくれる。
 一息のもとに跳躍、そのままシグリを抱え日向へ着地する。

「シグリッ…!おい、大丈夫か!?」
「ん…海圻…大丈夫…ちょっと頑張りすぎたのかも」

 かろうじて開いていたシグリの瞼が閉じる。だが、静かな寝息は聞こえている以上死んではいない。
 生の気もなくなっていない…恐らく、急激な能力の行使による一時の休眠だろう。
 だが、さっきの能力は今までのシグリには見られなかったモノだ。ダイヤの摘出が、シグリには可能なのか…?

「不意打ちが何度も通用すると思うなよ」
「チッ…」

 俺がシグリを抱えている間に背後から迫ってきていた陽の刃を躱し、頭上から落ちてくる叩の頭を蹴り飛ばす。
 拘束はシグリが気を失ったことで解けてしまった…状況は決して好転したわけじゃない。
 陽からダイヤの力が抜けたことを考えればプラスかもしれないが、俺も経戦可能になったとはいえダメージを受けていないわけじゃない。

「さて…先の戦闘で儂らとおんしの勝敗は見えたものと思うがね。
 それでもまだ足掻くか?」
「当たり前だ。あんたらこそ随分余裕じゃないか。
 足元を掬われるなよ?俺はあきらめが悪いからな」

 言葉の応酬は自分への鼓舞であり、相手への挑発だ。

「成程。では、望み通り――」
「そうはさせんよ。獲物を横から掠め取るとは魔幇も汚くなったものだな?」

 突如俺たちの会話に割って入る男の声。
 音もなく俺の隣へ姿を現したのは、先刻であったばかりの拳狐であった。

「おんしは…上海大賽参加者の拳狐か。これはまた、面倒だ」
「如何にも。フッ、よくぞ吠えたものよ。やはりここで手折られるには惜しい。おぬしに助太刀しよう、海圻」
「助かる。…けどな、俺はあんたの獲物になった覚えはないぞ拳狐」
「であればそれ相応の姿を見せてみろ。
 それだけの生傷をもらいながら言われては説得力に欠ける」

 仰る通りだ、まったく。
 だが味方としてはこの上なく頼もしい、存分にその力を借りるとしよう。


                  ***


 陽が影に沈んでいく。ほぼ同時に叩の頭が俺目掛けて飛来する。
 まずは俺から始末する魂胆か…正しい判断だ。
 だが、正しいからこそそれは読まれやすい一手となる。
 頭をアンカーに飛来する叩の蹴りを両腕で防ぎ、影った場所から距離を置いた。

「せァッ!」

 着地と同時に叩へ拳を叩きつける。体重移動から最速で攻撃に移ったが流石は元魔幇四天王、余裕を持った防御が俺を阻む。
 だがこちらもシグリのおかげで幾分の余裕はある。
 打ち合いには持ち込まず、常に防御を優先していれば対処は可能だ。

「『四霊随身』とまで謳われたおんしがこうも及び腰でよいのか?」
「もともと俺がつけたわけじゃないしな。
 精神的同様で揺さぶりをかけようとは、あんたたちも焦ってるのが見て取れるぞ」

 お互いの拳が交差する。クロスカウンターの形でお互いの頬を拳が抉った。
 だが叩の頭部は頑健極まりなく、さしたるダメージにはなっていないだろう。
 無論俺とて無策に喰らったわけではない。顔面に集中させた気による防御が、叩の攻撃を阻んでいる。

「拳狐!」
「応とも」

 バックステップで距離を取った俺の目の前に拳狐が降り立った。
 俺は背後に迫っていた陽を迎え撃つ。短刀を構え這うように襲い来るその軌道は真っ直ぐに俺を狙っている。
 姿勢が低いため丁度顎の下がった陽に蹴りを放つ。当たれば御の字、だが本来の目的はそうではない。

「ッ…Hey diddle,diddle――」

 後方へ飛び退いた陽の脚が影に触れ、沈んでいく。ここから俺たちに対し有効打を与えられる直近の影は少ない。
 なにせ、俺たちは常に日向を陣取り戦っている。
 自然と陽が這い出して来る影は限られてくるのだ。

               The cat and the fiddle…♪

 遠すぎる影に出現すれば標的の確認、再び影へ潜入する時間、全てが隙となる。
 それだけの隙ができれば十分だ。
 注視していた影の一つが盛り上がる。次の瞬間影から陽と大量のヒトガタがあふれ出してきた。

「何ッ…?!」

 あふれ出してきたヒトガタは空を舞っている。先ほどから陽が発していた十数人の気配と一致している…どうやら、彼の力が反抗勢力とやらをまとめていたようだ。
 いわゆるなんでも入れられる万能倉庫のような役割も彼の能力は有しているらしい。
 そして彼らは目くらましであり、武器でもあるのだろう。大人があの高さから落下すればそれだけでも十分な威力の凶器となる。
 そしてあの高さから落下すれば無事では済まない。まだ息がある以上助けられるのなら助けたい、が…今の俺にそんな余裕はない。

「――海圻、大丈夫」

 眠っていたはずのシグリの声が聞こえた。
 透明な糸が空を覆う。天蓋のように編みこまれた糸は空へ打ち上げられた反抗勢力たちをまとめ上げた。
 この糸はシグリのものだ、ダイヤに力を使わされた反動が大きかったはずだが、今まさに空に糸を放ってかれらを救っている。
 この隙を無駄にはできない。俺は影から出てきていた陽のもとへ一息で急接近する。
 歌が能力発動のトリガーであるのならば、まずはその歌を潰す。

「はぁッ!」

 狙うは喉元、掻き斬ることはできずとも、一時的に潰すことならできよう。
 俺の攻撃を縫うように短刀が俺を襲う。だが攻めの気が薄い攻撃で止まる事はない。

「ぐぅッ…?!」

 短刀による防御を弾いた上で俺の拳が陽の心窩を抉る。がくんと不自然に止まった陽の喉へ全力の掌底を叩き込んだ。
 間一髪で陽は首を反らしたがそれでも首に俺の攻撃が届く。
 彼も魔人である以上この程度では死なないだろうが、気は失ってくれるはずだ。

「ぁ――」

 ぐらりと傾く陽の身体を、のびてきた透明な糸が包み込む。

「ほんとは一生動けないようにした方がいいのかもだけど…おれ、それは嫌だからさ」
「…いや、シグリはその感覚を捨てちゃいけないさ」

 ものの数秒で陽は繭のような形へ変貌していた。いくら魔人とはいえこれを解くのは厳しいだろう。

「大丈夫か、休んでなくて」
「海圻と、拳狐さんが戦ってるのにおれだけ寝てるなんてできないからさ。
 ちょっとは動けるようになったから手伝わせて」
「それでは合わせるか、海圻」

 拳狐が俺の隣に跳んでくる。息は切らしていないが、叩との戦闘に苦戦している様子だ。

「できる限りあんたに合わせるよ。
 自由に動いてくれ。俺に合わせたらあんたの出力が低くなる」
「ではそうさせてもらおうか」

 お互いに目を見るまでもなく気配で動きを察知する。
 叩の脚がわずかに動いた。俺と拳狐も同時に動き出す。

「2人の事は…おれが、守るから」

 俺たちの背後から糸が伸びる。シグリの糸が周囲一帯を囲んでいく。
 叩をここに閉じ込めておくつもりか、だが奴がそれにのっかるとも思えない。どうにかして誘導する必要がありそうだ。

 構えていた叩も俺たちを無力化するべく迫ってくる。
 彼の力によって飛来する首は、一種の飛び道具だ。だが、彼自身がその首へ一瞬で近づけるため飛び道具でありながら近接戦をおろそかにしない完成度となっている。
 故に頭突きのみを防いで安堵することはできないのだ。

「くっ…」

 いつ本体が襲ってくるか、頭による攻撃をいなし防ぎながら距離を縮めていく。
 近接戦に持ち込めれば俺と拳狐なら叩を抑えられるはずだ。
 視界の端で拳狐が宙を舞っていた。どうやらあの長棍を発射台に自らを打ち上げていたらしい。
 それに気づいた叩の首が拳狐迎撃に放たれる。今だ、重心移動によるエネルギーをすべて推進力に変え、一瞬で叩のもとへたどり着く。
 だが叩の頭はなくともその体は別個に攻撃を仕掛けてくる。
 鳩尾を押しつぶすボディアッパーを避け、顔面を打ち砕く正拳突きを腕で何とか受け止めた。ここまで近づければ後はやることは一つだ。
 叩の腕が引き戻される前に腕を取り、襟を掴んでこちら側へ引き寄せる。
 体勢の崩れたタイミングで脚を刈り自らの体重を乗せて俺もろとも叩の身体を押し倒した。

「よくやった、鎮圧成功だな」

 俺のそばに長棍で叩の頭を押さえつけた拳狐が降り立った。
 どうやら空中でだいぶ戦闘を繰り広げていたらしい、叩の顔に少しばかりの傷がついている。

「何のこれしき、この程度の拘束で儂は止まらんよ」
「だろうな、だからこうして一時的にでも動きを止めたんだ」

 拳狐が叩の頭から長棍をどかす。一瞬で体と首が元通りになったが、既に俺たちはそこにいない。
 俺も拳狐も上空へと退避している。

「シグリ、今だ!」
「任せて!」

 急速に収縮していくダイヤの糸が、叩の身体を縛り上げる。
 一瞬にしてそこには巨大なダイヤの繭が出来上がっていた。

                  ***


 殺しておいた方が後々のため…とは思ったものの、今はココから離れるのが先決。
 幸い目覚めたシグリが糸で繭のように彼らを縛ってくれたので当分出てこないだろう。
 シグリの糸は俺でも切るのに苦戦する程度には頑丈だ。

「…助けてくれたのはありがたいけどなんであんたまでいるんだよ」
「いやなに。己はおぬしに興味があるからついてきているだけのこと」

 興味、ね。この武人のことだ、手合わせ願いたいというところが本音だろう。
 俺より強いくせに嫌味な奴…悪い気はしないが。

「魔幇に喧嘩を売ることになるとは思わなんだ、これでしばらく退屈することはなかろうよ。
 して海圻。己と手合わせ願えないかな?」
「やらん。俺は不必要な戦いはしない主義だ」

 申し出としてはこれ以上なくありがたい。格上との手合わせなど、早々得られる機会ではない。
 だが、今の俺にとって優先事項は己の欲を満たすことではない。

「ふむ。おぬしは己と戦う理由がない、ということか。
 その身を闘争への欲望で焦がしながらも耐え抜こうとするおぬしの覚悟は見事なものよ」
「そりゃどうも。あんたに認めてもらえるなら俺の覚悟も報われるさ」
「過分な評価だとは思うが、いただくとしよう。
 とはいえ、な。己はあきらめたわけではないぞ?」

 神速、文字通り目にもとまらぬ拳が迫りくる。
 それに対応できたのは単に俺が拳狐の行動を予測できたからだ。
褒めておきながら全くと言っていいほどに闘気を隠そうとしていない。舐められたものだがそこは問題ではない。
問題は俺ではなくその拳がシグリへ向かっていたことだ。

「――何をしている」

 一撃を受け止めた掌に熱がともる。
 この男は、自信の欲を満たすためであれば無抵抗の一般人にさえ手を上げるというのか。

「あれだけ拳気を隠していなかったのだ、おぬしが受け止めるように仕向けたまでのこと」
「あんたが思うより俺が弱かったらどうするつもりだったんだ」
「その時は寸止めとするさ。動かすも止めるも身体である以上御して見せるとも。
 ああだが…そこな少年を狙う、というのは嘘ではないぞ?」
「ッ…!」

 一瞬にして練り上げた気を全身に循環させる。
 明確に拳狐は俺に対し敵であることを宣言してきたのだ。

「ダイヤの欠片…本物とは違うがダイヤを持っていることの何よりの証左だ。
 己はソレを狙いに来る強者と見えることもできる上に、少年を守ることもできよう」
「俺には出来ねえって言いたいわけか。確かに、さっきの醜態を見たら誰だってそう思うだろうな。
 俺は、シグリ1人守るどころか守られることになった軟弱者だ」
「海圻、それは違うよ…おれは、海圻に守られてばっかなのはいやだし、お互いに守り合える方がいいよ…!」

 震える脚で俺の隣に立とうとするシグリ。
先ほど自分に拳を振りかざした相手に対してもこうして面と向かえる芯の強さは、彼の強さだ。

「…ありがとな、シグリ。けど、これはそういう問題じゃない。
 要は俺がシグリを守り通すには実力が足りてない。そういうことだ。
 それは純然たる事実で、覆ることはない」

 だが、俺はシグリを守り通すと決めたのだ。この役目を誰かに掠め取られるのは我慢ならない。
 途中で投げ出すのは、俺の…『清海』の理念に反する。
 エゴだとも。これはシグリを危険にさらしてでも守り抜きたいと願う俺のエゴだ。

「だけど、俺はシグリを守る。そう決めたからには最後までやり通させてもらうぞ。
 もう二度とあんな無様は晒さない。
 …そういってもあんたは引かないんだろうな。だから――」

 拳狐に倣い、俺も構えを取る。

「俺の拳で、俺の力であんたを納得させる。文句はないだろ?」
「大きく出たな。…おぬしの力が己にどれだけ通用するか、試してみるといい。
 最も、通用しなければ己は少年をさらっていくだけだがな」
「通用しないなんてことはない。例え首だけになろうがあんたの喉笛に食らいついてやるからな」

 格上との戦い。胸躍る拳と拳の激突。無論その愉しみが消えたわけではない。
 だが、今の俺はそれ以上に大きな使命のもとに拳を振るう。
 力を振るうのであれば誰が為であれ。俺は己が欲望よりも理想を選ぼう。その理想に押し潰されるとしても、そこから這い出して見せよう。


                  ***


「男を見せるときだぜ――海圻」

 己を鼓舞するようにつぶやいた。
 靴が乾いた大地と擦れる音、どちらが先ということもなく俺と拳狐は激突した。
 だが攻撃速度は当然拳狐の方が速い。加速を得た拳が俺の頬を掠める。
 それだけで顔面が吹き飛びかねない一撃だが、俺とて武人の端くれだ。衝撃を逃すための動きくらいは心得ている。
 追撃とばかりに俺の顔面へ再び拳が迫る。この尋常ならざる速さは脅威だが、軌道は素直だ。

 左腕で軌道を反らし、直撃を避ける。びりびりと痺れるような衝撃は俺の意識がトんでいない何よりの証拠だ。
 容赦なく胸を貫くが如き蹴りが放たれる。
 スウェーで躱しつつ、お返しとばかりに拳狐へアッパーカットを見舞った。
 当然のように両の腕が防御を固め防いでくる。
 攻守ともに隙が無い、とはまさにこういうやつのことを言うのだろう。

 だがこちらとて当たる前提で動くほどお花畑じゃない。
 吹き飛ばされた拳狐まで一気に踏み込み、インファイトを押し付けてやる。
 打ち合いにもつれ込むのは得策ではない、拳狐の一撃は重く鋭い。気による防御の脆い部位を容易く撃ち抜くだろう。
 既に先の戦闘が尾を引く俺には、一撃ダウンだって有り得なくはない。
 故に超接近戦に持ち込んで拳狐の動きを縛りつつ、こちらのペースへ持ち込む!
 あまりにも無謀、前のめりな俺の攻め手に拳狐の受けが揺らいだ。
 無論この手の力押しなど彼は幾度となく経験し軽くあしらってきたはずだ。
 それでも引きはがせないのは単純に俺の能力ゆえだろう。

「ぜあッ!」

 気合を入れた一撃が唸りを上げて拳狐へ直撃する。
 完全に入ったと思ったが不自然に俺の拳の侵入を拳狐の身体が阻んでいる。
 どうやら直撃寸前で即座に防御を固めたようだ。

「ぐっ」

 とは言え気による強化と体重を乗せた一撃はいくらかのダメージを与えたようだ。
 数歩の後退と同時に俺の追撃を潰す長棍が袖から飛び出してくる。
 深追いは禁物だ、顔面を撃ち抜く一撃を後退し躱した。お互いに距離が開く。俺に殴られた箇所を手で払いながら拳狐がその口元に笑みを浮かべた。

「おぬしの型は実に渾沌としているな。今の一撃は悪くなかった、己に合わせ戦い方を変えるとは、憎い真似をする…」

 やはり見抜くか。拳狐の言う通り、俺は気で拳狐を探査し、掌握し、自らの戦闘を彼に合わせた。
 いうなれば対拳狐特化戦闘技能…同格、若しくは格下であれば能力を使わずとも戦い方を変えることはできる。
 だが、この底知れない男を相手にするならば只の変化では意味がない。
 より精密に、対拳狐だけを考え作り出したもう1人の俺といってもいい。調整(チューニング)より再造(リビルド)といったほうが近いだろう。

「だが、心身の伴わぬ急ごしらえであるならば…己に勝てる道理はないぞ?」
「承知の上だ」

 もうさっきの闘い方では拳狐に対応される。故に基礎に立ち返り、俺の闘い方で打倒するのだ。
 ある程度拳狐の動きは把握した。あとはそれを俺の闘いに織り込むだけだ。
 できるかどうかは問題ではない。
 シグリを守り抜くと決めたのだから、俺は全力を以てそれを為す。

「だからこっからは俺の今までを全部あんたにぶつけるよ」
「面白い、見せてみろ。おぬしの全部とやらを」

 話し終えるが先か否か、地を蹴り拳狐に接近する。
 迎える拳狐の構えは古風なもの、だが、その完成度は彼から放たれる気が物語っている。
 その姿は一種の芸術だ、その比喩もまた間違いではないのだろう。
 俺たちは武芸者だ。俺たちが織り成す武は芸術に違いない。
 何より、芸は楽しむものだ。俺も拳狐も、今の状況を楽しんでいるのは間違いないだろう。

 踏み込みから一息に勁を通し拳狐へ掌底を打ち込む。
 だが俺の攻撃をそう簡単に通してくれる拳狐ではない。俺の腕を取り足を払う一撃が攻撃を阻む。
 策もなく受ければその一撃で俺の攻め手は潰れるだろう。
 ぐるりと回る視界、拳狐に俺は投げられているらしい。だが、想定内だ。
 両手を地につけ腕力のみで跳びあがり、地上にいる拳狐へ牽制の気弾を放つ。当然避けられているが構わない、俺にとっての本分は近接格闘だ。

 着地と同時に拳狐が迫ってくる。能力によらずともその速度はかなりのものだ、恐らく俺の数倍は速い。
 俺との距離が縮まった途端拳狐の攻撃が加速する。能力を用いた高速の攻撃と用いない攻撃を織り交ぜた連撃はお互いの隙をカバーし合う妙手だ。
 速度が速いだけの力では自分の認識が追い付かず振り回されてしまう。
それをここまで完璧に御する彼の力は、幾千幾億と繰り返した基礎訓練に裏打ちされているのだろう。
脚を後ろに引き、片足で立つさまは鶴の如く優雅ではあれどそこから撃ちだされる攻撃ほどに苛烈なものはそうあるまい。

 顔面を狙う一撃を腕でブロックし、俺も反撃の一手を繰り出す。
 この速度の攻撃をいなすには俺がこの速度に慣れなければならない。だが、それは一朝一夕で身につくものではないことを俺はよく知っている。
 先ずは横面を抉る鉤突き、上体を反らして避けたところで鳩尾を狙った正拳突きを放つ。
 だが拳狐は片足のみで器用に飛び退いた。やはり避けてくるか。
 こちらも次の一手は撃っている。踏み込みから体重を乗せての肘打ち、防ぐは容易いが生半可なものであれば打ち崩す。
 しかし防御を崩すつもりだった一撃はいなされ、返す刀で俺の右脇腹にカウンターが飛んでくる。
 受けるわけにもいかず脚でブロックしたところに俺の胸目掛けて長棍がうち放たれた。
 能力による加速を利用した一撃が俺の胸を撃つが、まだ浅い。
 それでも肺の中から空気を絞り出されてしまいそうな圧力に歯を食いしばってこらえた。
 動きの鈍った俺の顎を掬い上げるような軌道の拳をダッキングで躱し、拳狐のコートへ手を掛けた。
 恐らく誘導されていたのだろう。

「がッ…!?」

 顎から脳天まで貫くような衝撃に、俺の上体が反り返る。明らかな攻撃を受けたことだけは分かる。
 強引に頭を戻す途中で、上がった拳狐の爪先が見えた。恐らく、引いていた片足が俺の顎を蹴り上げたのだ。
 当然この程度で止まってくれるワケもなく、何とか前を向くことができた俺の視界に拳狐が迫っていた。シグリが何か叫んでいるが全く聞こえない。
 ――間に合わない。反射的に俺はガードを上げ顎を守った。

 肉を抉り内臓まで響く鈍重な衝撃。背中から衝撃が抜けることはない。
 拳狐の一撃は完全に、余すところなく俺の身体へすべての力を送り込んだ。

「ご――があッ……」

 吹き飛ばされた方がまだマシだった。おかげで俺の身体は今もなお拳狐の前で無様に隙をさらしている。
 酸素が行き届かない脳を必死に働かせこの窮地を脱する方法を模索する。
 ガードの隙間から拳狐の腕が引かれる様子が見て取れた。
 まずい、今の状態でもう一発でもまともに貰えば今度こそ立てなくなる。
 だが満足に動くこともできない俺に取れる一手は――

「ぐっ…」

 真っ直ぐに俺の心窩を射抜く一撃を両の腕が受け止める。
 防ぎながら攻撃の威力を体を動かす推進力へ、宙を舞った俺の身体は姿勢制御も碌にできず地面へ叩きつけられた。
 だがあのままサンドバッグになるより幾分マシだ。今はどうにかして再び戦うための力を取り戻す。
 倒れながらも全身を調べ上げる。体内の臓器は正常、呼吸に乱れはあるものの回復は可能だ。

「―おぬしが少年を守りたいと望む思いは理解できる。認めよう。
 だが思いだけで打倒できるほど魔幇も少年を狙う悪意も甘くはない」

 地を踏む靴音がシグリへと向かっていく。脚の力だけではまだ立ち上がれず腕に力を込めたがまだ俺の体重を支えるには至らない。
 拳狐の脚が視界に映る。俺に止めを刺す…わけではないようだ。俺に対し向けられている気はさほどのものではない。
 既に俺の事を見極めたと言いたいのだろうか。俺は取るに足らないと、俺の全機能に既に興味はないと。
 いいだろう、お前が俺から目を離すならば。お前の眼をこちらに向けさせてやる。

「待て――」
「…」

 息を荒げて、しかし同時に呼吸を整えながら。損傷は気の巡りで補強した。
 あとはこの体内に残る痛覚のみが俺の行動を妨げているだけだ。

「何、勝った気になってるんだ…ッ……俺は…
 俺はまだ立ってる。あんたの相手は俺だろう…まだ終わりじゃない…!」


                 ***


 己の前に1匹の拳士がいる。息も絶え絶えに、しかし確実に回復しながら己をにらみつけている。
 先の一撃で己はその闘志を折るべく全力の拳を見舞った。
 血反吐一つなく耐えたことは賞賛に値するが、既に己を打倒しうるだけの力は残っていまい。

「己が手を出さなかったからこそその口が利けることを知らぬわけではあるまい?
 勝敗は決した、今のおぬしでは己を倒すには至らん」
「じゃあ…なんで俺に止めを刺さなかった。油断か?ハンデのつもりか?それとも俺に反撃されると思ったか?
 ――いやこの際なんでもいい、俺が立っている以上シグリに手は出させない。言っただろう、俺は例え首だけになってもあんたに食らいつく」

 海圻に止めを刺さなかったのは己の矜持ゆえだ。
 地に伏した者を甚振るなど己の求める闘争にほど遠い。
 だが立ち上がるならば話は別だ、己の前に立つのであればそれは凌駕すべき相手であり、覇を競う敵同士となろう。

「…まあ、そんなことはどうでもいいんだ。こうして俺が立っていてあんたが目の前にいる。なら、やることは一つだろ」
「威勢がいいのは結構だが…がっかりさせてくれるなよ?」

 あれだけの一撃を受けてなお戦意を失わず、彼我の戦力差を理解していながらも己が拳を下ろさず。
 実に面白い。少々見くびっていたのやもしれぬ。
 これもまた『成長』か。このわずかな時間の中で彼の戦力は増強された。
 であれば己の想像を越えるのも詮無きことか。

 ざり、と海圻の脚が地と擦れる。
 直後爆発的な速度を以て己へ急接近してきた。確かにその威容は四霊を伴ったものと言われるのも納得のいくものだ。
 踏み込みから腰の捻り、重心を落とす姿勢…どれをとっても武人として彼が上澄みであることを証明する完成度。

「おおおッ!」

 雄叫びと共に拳が振るわれる。その気迫は先ほどよりもその場にいるだけで圧倒されてしまうほどだ。
 ――だからこそ、惜しいかな。
 その速度も力強さも、己の一撃を受ける以前より格段に鈍い。

「ぐうッ…!」

 これこの通り、隙をつくだけの牽制程度でも効いている。
 本来彼の気による防壁がなされているのであればこの程度の損傷は気にも留めぬはずだ。
 だが今はそれすら綻び彼の強靭な肉体は易々と己の拳の侵入を許している。
 歯を食いしばりながらも耐え抜くは見事と言えるが、耐えるだけでは只の砂袋と変わらない。

 だがあれほどの啖呵を切ったのだ、この程度で止まる男とも思えん。
 己の攻勢に防御を固める海圻の瞳には未だ燃え盛る闘志がある。
 消えてはいないのだ。己に勝つ手段がまだあると、そう宣言するように。

「なれば、やることは一つよな」

 近距離での連撃を仕掛ける海圻の攻撃をいなし、反撃の拳を横面に叩きつける。
 弱体化した海圻の体幹では耐え抜くことは難しかろう。事実、衝撃に押し負け後ずさる様は今にも倒れてしまいそうなほどだ。
 それでもなお両の脚が折れぬのは彼の頑強さ、そして日々の鍛錬の成果だ。
 ならば己は全力でそれに応えよう。手負いであろうと本気を出さぬは相手への侮辱だ。

 顎を狙った拳は、交差された海圻の腕が阻む。
 だが防御を上げている以上胴の守りが薄くなるは道理、心窩を抉るように長棍を撃ちだす。
 己の力により加速した長棍は確かな手応えを手元へ伝えてくる。上げられた腕の隙間から垣間見えた海圻の表情が苦悶に歪んでいた。
 声を上げぬのは良い心がけだ。それは攻撃に耐える余裕があることの表れでもある。
 だがそれでも動きの鈍りは何より正直だ、先ほどから海圻の攻撃から重みが失われつつある。
 もっと楽しみたかったところだが仕方あるまい。そろそろ明確な隙ができる頃合い、攻め落とすか。
 海圻の蹴りを受け止め、返しの一撃を側頭部へ叩きつける。
 脳を揺らすはずの一撃は防がれたが、体勢は大きく崩れた。このまま押し切るとしよう。
為逸速的一息(いっそくがためのいっそく)』による高速の拳とただ技による速さを伴った一撃。海圻は己との戦いの中で両者を別個に打てば慣れなど関係なく対処してきた。
 己の拳を真っ向から受けこうも耐え抜いた相手などあやつ程度のものだろう。
 一手。力による速き拳を海圻は防ぎ切った。だが万全ではない体勢で攻撃を防いだ故に明確な隙が生まれる。
 二手。力によらぬ迅き拳を海圻はその身で受け止めた。肉を抉り臓腑を揺らす一撃に、海圻の背が折れる。能力を使っていないとは言え己の全力だ、ただで受けられるものではない。

「海圻……!」

 背中越しにシグリの悲痛な叫び声が聞こえる。彼は海圻になついているようであったし引きはがすは忍びない…だが、己に負けるようではこの街に巣食う悪意から彼を守ることはできぬ。
 悲鳴に呼応するように歯を食いしばりながら、折れる膝を懸命に支える海圻が己を見据えた。
 未だ倒れぬその不撓不屈ぶりに敬意を表するべきだろう。
 踏み込みから重心移動の力を腕から拳まで、一息に通し海圻の顔面に叩き込んだ。

「ぐッ…!」

 渾身の一撃だった。確かに勁を余すところなく通したはずだ。
 だが、海圻は己の拳の圧力に負け倒れることはなく抗っていた。

「あんたなら、来てくれると思ってたよ」

 己の拳を直に受けて絶対に斃れぬという覚悟。それを成し遂げる肉体への信頼。
 それは己が鍛錬と努力に対する絶対的な自信の表れだ。

「四霊、我が身に来れ――」

 海圻が己の腕を取る。一体どこにそんな力が残っていたのか、己の身体が強く引っ張られた。
 視界の端で海圻の拳が引き絞られている。
 避ける?いや、今は拘束されている身故にそれは難しい。振りほどこうにも海圻の指が己の腕に絡まっている。

「絶技――『応竜撃』!」

そもそも振りほどく余裕も時間もない。海圻の拳は己の腕をつかんだ瞬間には既に打ち出す形となっていた。
一撃のもとにやられてやるつもりはない、だが…
その構えは二連撃だろう?


                   ***


 応竜撃。俺の師が教えた技の中で最大級の破壊力を持つ攻撃であり、同時に諸刃の剣でもある一手。
 初撃が捕まえた拳狐の顎を突きあげる。衝撃のあまり腕から手が離れるが構わない。これで意識が飛んでくれたら楽だが、そうはいかないだろう。
 なにせ、俺はまともな一発を拳狐に当てていない。

「ああああっ!」

 今の目標は拳狐の鎮圧、だが殺す気で行かねば勝てる相手ではない。
 俺の腕力のみで拳狐の首を刈るは可能か、いや、それは無理だ。そんな殺意に見え透いた技は対処される。

「なら――」

 『四霊随身』による全力の自己強化、さらに額へ集中させていた気を右拳へ全て持っていく。
 この一撃で呼吸を乱す――できうる限りの酸素供給を断つのだ。
 踏み込みから捻りを加え力を一身に右拳へ通す。トン、と拳狐の胸に俺の右拳が触れた。
 そのまま一息に力を解き放つ!

「ッが…!?」

 この戦いを始めて以来やっと拳狐から驚愕の声音が聞こえた。
 渾身の一撃が拳狐の身体を吹き飛ばす。まだ彼のように無駄なくすべての威力を相手にぶつけることはできていないが、それでも十分な威力のはずだ。
 全く、俺の攻撃をいくらでもいなして見せるとは…本来であれば万回戦って一回勝てるかといったところだろう。
 だが、例え一万分の一だとしてもその一を今に持ってくる事ができればいい。
 そのための一点特化の防御であり誘導だ。

「はあ…ッ…く…」

 全身を限界稼働させたうえで放つ一撃は、使用者の肉体にも影響を及ぼす。
 実のところ『四霊随身』によりそのデメリットは本来あってないに等しい。
 だが、俺の身体は今満身創痍だ。

「ぐ、がはッ…!」

 全身の血液が沸き立つように熱い。逆流してきた血液を飲み込むこともできず吐き出した。
 正直、もう一歩だって動けるかわからない。
 けれど、これで拳狐を納得させられたかは…分からない。こんな一か八かの賭けに近しい動きで、彼を倒したと何より俺は胸を張って言えない。

「なる、ほど――これは、一本取られたか」

 地面に倒れながらも呵呵と笑う拳狐。そのままのそりと起き上がり、服に着いた土ぼこりを払うさまは平常時とあまり変わらない。
 だが、確かに口の端には朱がついている。

「己にこのような手傷を負わせた相手は久しいぞ、海圻」
「…ンなぴんぴんして褒められたって嬉しくないぞ」
「何、これでもかなり呼吸が阻害されている。喋ることはできようが暫く全力で戦うのは難しかろうな。
 して、おぬしも己が倒れているのに見過ごしたが…情けか?」
「あのなあ…俺、あんたにボコボコにされた上にさっきのでだいぶ力持ってかれたんだよ。
 情けない話だけどな。…これであんたに勝った、なんて言えないさ」
「ならば、諦めるか?少年を己に引き渡すか?」
「まさか。俺の決意は揺るがない」

 暫しの沈黙。最初に静寂を破ったのは、拳狐の笑い声だった。

「…なんだよ」
「いや失敬…ふむ、おぬしらは2人で一つといったところか。
 おぬしが気付いているかは知らぬが、先刻少年がおぬしの名を呼んだ時、明らかにおぬしの力が強まった。
 おぬしは守る者がいるからこそ強くなれるし、強く在れるのだろう」

 俺は戦いが好きだ。この拳を他者と交えること、それは俺にとって何物にも代えがたい悦楽だ。
 けれど同時に、誰かを守ることもそれ以上に好きらしい。思えば、俺の能力の発露は最初に被検体の仲間を見たときだったか。

「おぬしから少年を抜き取ってしまえばそこに残るのは砂袋と同類のものになろうよ。
 それではつまらん」

 さらっとシグリと会う前の俺はサンドバックだっつってないかこいつ。

「そこな少年と共に過ごし別れ、再び相まみえるときまでに己を楽しませる強さを持っていてくれることを期待しよう。
 『四霊随身』の海圻。いつか再び手合わせしようぞ」
「強者との手合わせは願ったりだからな…俺も、俺の力を磨いてあんたに再戦を申し込むよ」

 すべて、この上海をめぐる騒動が終わった後に。
 再び会えるのであれば全力で戦いたいものだ。


                   ***


「で、だよ」
「海圻~焼けたよ~食べられる?」
「お前やっぱ順応速いよな…食えるけど自分のペースで食うからそのままにしといてくれ」
「そのままにしていては冷めるぞ、この手の美食は熱いうちが命だ」
「な、ん、で、俺たちとあんたが一緒に飯食ってんだよ…」

 あの戦いの後、俺は暫く気の巡りを整え体力の回復に努めた。
 動ける程度に回復したころには既に夕飯時であり、シグリがだいぶ空腹でしわしわになっていたので飯屋に来たのだがついでに拳狐も一緒についてきていた。
 俺としたことが尾行に気付かないとは…

「おぬしらを追ってきたのは一つ理由あっての事よ。
 ――海圻、おぬしらの首魁についてだ」
「…ガングートについて、か。なんだ、あんたガングートのこと知ってるのか」
「一応、な…あの男は、あまりにも重荷を背負っている。
 破裂する前におぬしらでよく話し合うといい」

 そりゃあ、ガングートの理念はかなり重くのしかかるものだろう。
 だからこそ彼は『清海』という組織を立ち上げ、1人ではできないことを仲間に頼ることにしたのだ。

「…肝に銘じておく。もう少し、気を付けてみるさ」
「しかしあの男もなかなかの手練れとみた、上海にはかくも逸材が眠っているとは…予想通りではあるが実に素晴らしい。
 懸念があるとすれば…あやつに近しい空気を纏っていることか」

 あやつって誰なのだろうか。…あんまりプライベートなことには突っ込まないほうがいいだろう。

「拳狐さんの言うあやつって誰なんです?」

 本当にシグリはぐいぐい行くな…

「旧友だ。小さな考えの違いから別れてしまったがね。
 強者を求めるものであったがゆえにこの上海で会えるかもと踏んでいたがなかなか姿が見えぬ」

 哀愁を感じさせる声音で、手にした盃を揺らす拳狐。
 空を見上げればそこには満月、絶好の月見酒日和だ。
 上海の宴もいいよ大詰め。10日間の祭りも終わり、遂にはフィナーレを迎える。
 俺たちに待ち受ける結末はいかなものか。…シグリを元に戻してやれるか。今は只それが心配だ。
 その心配を飲み下すように、俺もまた酒を呷る。
 熱い酒精が喉を焼いた。…たまにはこうして拳を交えた相手と酒を交わすのも悪くはない。
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