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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

【掌の月】(中)

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断章:海月


 舟山諸島の北の浜では、春先になると、白い海月が砂の上に並ぶのだそうだ。
 黄浦江を下った水と、長江河口の流れが、いったんあのあたりで緩むからだと、漁師たちは言う。

 白い海月は、日が昇る前に見るとよくわかるらしい。
 潮が引いたあとの浜に、丸いものがいくつも置かれている。
 近づくと、どれも冷たく、ぶよぶよしていて、どこから触っていいか分からない。

 木片や藁束に張りついているものもある。
 細い紐のようなものが砂に伸びていて、そこだけ湿り方が違うこともある。
 四つほど同じ方向に突き出しているのを見て、「足が生えた海月だ」と笑った者もいたそうだ。

 浜は狭く、夜は暗い。
 雲が低く、月も星も出ない晩が多い。
 波だけが一定の間隔で浜を叩き、潮騒が夜通し続く。
 人影はない。ここは、漁の浜ではあっても、夜歩きの浜ではない。

 黄浦江の濁り。
 長江河口の流れ。
 沖へ出る潮と、沿岸を撫でる風。
 島の老人たちは、それらを指で辿って見せるが、辿ったところで何かが変わるわけでもない。
 海は、流して、運んで、忘れるだけだ、と。

 だから、白い海月も、どこから来たのか決めようがない。
 川かもしれないし、港かもしれない。
 ただ、そういう時季になると、いくつか並ぶ。
 数える者も、その数を覚えている者もいない。

 潮が何度か引いたあと、嵐が来る年もある。
 風が砂をさらい、波が浜を覆い、境目を消してしまう夜だ。
 そういう夜には、白い海月も、いったん全部、海に戻る。

 そして、その春の終わりごろ。

 舟山諸島からおよそ六百キロ離れた済州島の北の海で、
 身元不明の少女の遺体がひとつ、網にかかって引き上げられた、と言う。



第二幕:【Deal’s a deal.】


 カウンターの奥で、古い液晶テレビが無音でニュースを流していた。

 百年節特番。テロップだけが忙しく動く。
 《清王朝のダイヤは红虎の右拳に》《鉄山彦斎、前代未聞の敗北》──そんな文字が画面を横切る。

 白髪黒羽は、テレビには目もくれず、グラスの縁を指でなぞっていた。

 氷の音だけが、やけに大きく響くバーだった。
 外の喧騒は、分厚い扉の向こうでくぐもっている。ランタンの赤だけが、床の上でゆっくり揺れている。

 扉の蝶番が、きい、と鳴った。

 黒羽はグラスから指を離す。
 顔は動かさない。ただ、鏡越しに入口を見る。

 入ってきた男は、一発で分かった。

 赤いシャツに、でかい肩。
 眉間に皺を寄せたまま、カウンターへまっすぐ歩いてきて、二つ隣のスツールに腰を下ろす。

「白酒。ストレートで」

 低い声。
 マスターが無言でボトルを取る。

 黒羽は、席をひとつずらして隣に座った。

「よう、红虎」

 男の横顔が、ちらりとこちらを見る。

「……日本の万事屋さん、でいいか」

「好きに呼びな。フルネームでなきゃ、だいたい許すよ」

 かは、と短く笑って、黒羽は自分のグラスを軽く持ち上げた。

 ここにいるって情報を流したのは、今日の昼だ。
 その少し前に、『红虎が日本の万事屋を探している』という噂を耳にしていた。

 『红虎がアタシを探してたら、今夜はここだって回しといてくれ』──
 メモを預けた連中が、ちゃんと仕事をしたらしい。

 カウンターに白酒のグラスが置かれる。
 男は礼も言わずに一口あおり、喉を焼きながら、ようやく正面から黒羽を見る。

「俺の相棒──情報屋から、お前のことを聞いた」

 唐突な切り出しだった。

「『日本から来た凄腕の“解決屋”がいる』ってな。行方不明の娘を見つけて保護してるとか、派手な噂付きで」

「……ああ。世界二位の探偵様の、後始末だ」

 黒羽はグラスをひと口だけあおった。

「で、日本の“万事屋”に、何の用だい。红虎」

「一つ。頼みがある」

 男はグラスを見たまま答えた。

「十何年前、この街の屋台で皿洗いしてたガキがいる」

「ふうん」

「春節の夜に、一緒に通りを歩く約束をしたが……。
 それきり、姿を消した」

 黒羽は、氷をかちりと鳴らした。

「ガキって、女の子かい」

「ああ」

「おいおい、そいつを今さら探してどうする気だ? 告白でもするつもりか」

「バカ言え」

 即答だった。グラスの縁に白酒がわずかに跳ねる。

「当時から、この辺は人攫いが多かった。気にはなってたが、行方を追うツテもなかった」

 男はジャケットの内ポケットから、一枚の写真を出す。

「一昨日な。その情報屋が、ある映像を俺に見せてくれた。
 『ホェンちゃんの昔話に出てきた子と、特徴ほぼ一致なんだよねえ』ってな」

 テーブルの木目の上を写真が滑る。黒羽は指先で押さえた。

「その映像から切り出した一枚だ。
 十何年も経ってるのに、背格好も、立ち振る舞いも、何一つ変わっちゃいねえ」

 夜の屋台街。濡れた石畳の上に、提灯の赤がまだらに落ちている。
 片手にレジ袋。くすんだ青緑のジャケットに、ミモレ丈のスカート。

 揺れる栗色の髪が、光に照らされていた。
 裾の影のあたりで、細い何かの先がちらりと覗いているようにも見えた。

「……十何年前にガキなら、今ごろ立派な大人のはずだがね。
 まさか、幽霊探しに協力しろってわけじゃないだろう? それとも映像そのものが、红虎を誘い出すフェイクか」

「映像の出どころは“電梟”のお墨付きだ。うちの情報屋はそういうヘマはしねえ」

 男は短く息を吐く。

「ふーん、もしかして、いい仲かい?」

 黒羽は写真から顔を上げ、くすりと笑う。

「まぁな」

 男は黒羽から顔をそむけて、グラスをあおいだ。

 ひとつ大きく息を吐いて、また黒羽に向き直る。

「……でだ」

 写真に映る少女を、指先で軽く叩く。

「実際、俺が見ても、本物としか思えなかった」

 黒羽はもう一度、写真に視線を落とす。

「あいつ、海の向こうに行くって言ってた」

「海の向こう?」

「日本に家族がいるらしい。
 血はつながってねえらしいがな」

 男は白酒をもう一口あおる。

「なのに、十何年ぶりに、何も変わっちゃいねえ姿で、この街をうろついてる」

 黒羽は、指先の下の写真をもう一度見下ろした。

「日本にも手がかりがありそうだってわけかい」

「お前なら、そっちにもツテがあるだろ」

「さあね」

 黒羽はグラスを軽く傾けた。

「アタシのツテなんて、世界二位の探偵くらいのもんさ」

 氷を揺らし、グラスを一口あおる。

「──さあ」

 空いた手で写真を裏返す。

「ここからは、交渉の時間だよ」

「金なら出す。言い値でかまわない」

「金の話じゃないさ」

 黒羽の視線が、ゆっくりと男の右拳に落ちる。

「清王朝のダイヤは红虎の右拳に宿ってる、って噂。
 あれ、ただの宣伝文句じゃないんだろ?」

 男は何も言わない。代わりに、節くれだった右手をカウンターの上に置いた。

 黒羽は口の端を上げる。

「その右拳のもの、出産祝いにくれよ」

 カウンターに、短い沈黙が落ちる。
 男の目が、わずかに細くなる。

「……出産祝い?」

「さっき話した世界二位の探偵は、友人でね。今は身重らしい。
 珍しい石のひとつくらい、持って帰ってやりたいのさ」

 黒羽は肩をすくめる。

「百年節の記念品ってことでさ。どうだい、最強の男さん」

 男は顔を大きくしかめて腕を組む。
 何度か頭をひねったあと、目の前のグラスを一気にあおる。

「……本当は、“指輪”にして贈るつもりだったんだがなあ」

 短く息を吐いて、カウンターの向こうのマスターに顎をしゃくる。

 無言で、白酒がもう一杯注ぎ足された。

 男は新しく満たされたグラスを一瞥する。

「譲ってもいいが、お前のものになるかは保証しない」

 それだけ言って、口をつけた。

 黒羽は、ほんの少しだけ口角を上げた。

「いいね。そのくらい曰くがあった方が、“清王朝のダイヤ”って感じだ」

 グラスの底で、溶けかけた氷がひとつ崩れる。

 黒羽の言葉に、男は曖昧に鼻を鳴らした。

 しばらく白酒の中を覗き込んでいたが、やがて何かを振り払うみたいに視線を上げる。

「明日から俺は九龍城砦に顔出す。上海覇者のジジイと、少し話をつけてこなきゃならん」

 無法の巨大スラムの名を、さらりと言ってのける。

「だから万事屋。
 俺は現場には出られねえ。代わりに、うちの情報屋がバックアップする」

 男はグラスから指を離し、黒羽に視線を向ける。

 製氷機の低い唸りと、氷がぶつかる音が、ぽちゃんと遅れて響く。

 黒羽はしばらく黙って、男の口から続きがこぼれるのを待った。

 普通なら、この辺で「ただし」がつく。
 見つけるだけじゃなく連れ戻せとか、期限を切るとか、
 途中で依頼を放棄したときのペナルティをねじ込むとか──
 ゴールポストをじわじわ動かす条件が、どこかに挟まる。

 だが、目の前の男は、それを一切足してこない。

「……ここまで話を進めといて何だけどさ、アタシみたいな偽物(ド三流)にまかせるとか、正気かい?」

 黒羽は写真をひらひらと振る。

本物(超一流)は、今ごろお腹の子のキックを数えてるよ。
 そいつの育児が終わるのを待つ方が、賢明ってもんじゃないのかい?」

「それはいったい何年後の話だ?」

 男は、短く言った。

「もう待たせた。これ以上はいい。
 それにな──俺は、相棒の眼を疑ったことはねえ。
 相棒がお前を本物(凄腕)と評したなら、俺はそれを信じるだけだ」

 黒羽は少しだけ目を細めた。

「……条件は、さっきので成立ってことでいいんだね」

 彼女は男の右拳を見る。

「その映像に映ったガキを見つける。生きてるにせよ、そうじゃないにせよ、“何があったか”を突き止める。
 その報告が終わったら──その右拳のそれを、一度アタシに譲る」

「ああ」

 男は席を立つ前みたいに、ゆっくり頷いた。

「譲ることは約束する。
 だが、言った通り、こいつが、お前の手に残るかどうかは──」

「上等」

 黒羽は、自分のグラスを持ち上げた。
 男も黙って、手元の白酒を少しだけ持ち上げる。

「Deal’s a deal.」

 黒羽がそっと腕を伸ばし、二人のグラスの縁を軽く当てる。
 ちいさな音がして、その瞬間、バーの扉がまたきいと鳴った。

 外の喧騒が、細い隙間から一息ぶんだけ流れ込む。

 この夜をどこから数えればいいのか、黒羽にもまだ分からない。
 ただ、何かの始まりには、ちょうどいい静けさだった。


 ◇ ◇ ◇


 ──話は、红虎が日本の万事屋と杯を合わせる三日前にさかのぼる。

 上海駅近くの雑居ビルの地下は、湿気とタバコの匂いがむっとこもっていた。

 古いゲームセンター。ネオン管は半分死んでいる。
 最新機種は一番奥に二、三台。手前のほとんどは、いつからあるのか分からない筐体ばかりだ。

 その列から外れるように、入り口からも見えにくい隅っこに、一台だけぽつんと置かれている。

 王双葉は、その目立たない筐体の前に立っていた。

 >《KURAMA NODE 07》

 英字タイトルの下に、場違いな日本語サブタイトルがついていた。

 >《しにがみ ちゃん の ぼうけん》

 丸っこいフォントで、でかでかと印字されている。

 双葉は、筐体の側面に貼られたプレートに目を細めた。
 “SHIMOYAMA ELECTRONICS CO., LTD.”という聞いたことのない社名と、かすれた製造番号が押してあるだけだ。

 スマホでぱぱっと検索してみる。
 ヒットしない。

「……はいアウト」

 双葉はプレートから目を離し、カウンターのほうへ視線を送った。

「すみませーん」

 暇そうにスマホをいじっていた店員が、だるそうに顔を上げる。

「この台ってさあ、どこから仕入れたんすか?」

「え?」

 店員は KURAMA NODE 07 のほうを見る。
 しばらく目を細めてから、首をかしげた。

「ああ、それっすか。
 オレが入ったときにはもうありましたね。前の店長のころから、ずっと」

「前の店長って、いつごろの?」

「さあ……十年? もうちょい?
 とりあえずオレ、生まれてからずっとあるやつです、多分」

 言いながら、店員は肩をすくめる。

「インカムも出てないですけど、撤去にも金かかるんで、そのままっすよ」

「ふーん……」

 双葉は軽く相づちを打ち、また筐体に向き直った。

 ボタンの印字はほとんど消え、レバーのゴムもひびだらけだ。
 ブラウン管の隅も少し焼けている。
 ──この年代物が、いまだに普通に遊べること自体が、ちょっと気味が悪い。

「……これさ」

 モニターに映ったタイトルロゴ《KURAMA NODE 07》を見上げながら、ぽつりとつぶやく。

「絶対まともな出どころじゃないやつなんですけど」

 白衣の裾を片手で押さえながら、双葉は財布からコインを取り出した。

 横スクロール式の2Dアクション。
 画面の中では、茶色い髪の小さなドットキャラが、木の枝みたいな足場をぴょんぴょん飛び移っている。
 背中のあたりに黒い点がいくつか飛び出している。
 じっと凝視して、ようやく、それが翼と尻尾を表現しているのがわかった。

「えーと……この子が“しにがみちゃん”、かな」

 小さく呟き、スタートボタンを押す。

 ゲームは容赦がない仕様だった。
 足場は狭く、敵は硬く、当たり判定は妙にシビアだ。

「う、うわっ……ジャンプ短っ……ちょ、落ちる落ちる落ちる……ひっ」

 ドットの少女が崖から落ちるたびに、肩に余計な力が入る。
 指先がじわじわ汗ばんでいく。

 こうして双葉が、この台の前に立っているのにも、少しばかりいきさつがある。

 ローカルの映画フォーラムで、地元・上海を舞台にした古いホラー映画の感想を、
 だらだらと追いかけていた夜のことだ。

 エンディング直前の「ゲームセンターの場面」だけ、やけに掘り返されていた。

 >《最後のアーケードのシーンで出てくる横スクのゲーム、あれ何?》
 >《ロゴ見えるけど検索しても出てこない》

 >《あの横スク、子どもの頃に遊んだけど難易度おかしいよ》
 >《ジャンプ短いのに足場が狭すぎる。普通の客からコインを吸い取る気ないだろってレベル》

 そんな書き込みがいくつも流れていく。
 面白半分で辿っていくと、誰かがキャプチャして貼った静止画があった。

 画面右上、ぼやけたロゴマーク。

 >《KURAMA NODE 07》

 双葉は、その英字を見た瞬間、マウスを握り直した。

 ロゴ付きの静止画は、妙に本物っぽく見えた。
 なのに、書き込みのほとんどは「友達が見た」みたいな又聞きばかりだ。

 そのバランスの悪さが、“電梟”としての悪い癖をくすぐった。

 気づけば双葉は、映画のワンシーンをキャプチャして、そこに映り込んだ階段の角度や天井の配管の太さ、
 ログの断片や地図アプリの情報──
 そういうものを、暇つぶしがてらに、ちまちまと突き合わせていった。

(……上海駅近くの雑居ビルの地下、って線が一番濃厚じゃん?)

 そうあたりをつけてから、実際に足を運んでみたのが──

 今、双葉が立っている、この店だ。

「……はい、はい、はい、そこジャンプぅ……っ」

 画面の中の“死神ちゃん”が、崖の縁からフェイント気味に飛び、
 天狗の投げた火の玉をギリギリでかわす。

 ラスボスの天狗は、ドットのくせに容赦がなかった。
 大振りの攻撃は避けやすいが、細かい羽根攻撃と突風が、プレイヤーの操作をじわじわ乱し続ける。

 一定時間ごとに片目が光り、画面を横切る細い光線が、さっきまでいた足場を正確になぎ払う。
 どれだけ高い足場に逃げても、天狗は空中に見えない段差でもあるかのように、同じ目線の高さまで歩いて追いかけてきた。

 画面の右上で「×3」の文字が点滅している。
 残りコンティニュー回数だ。

「だからさあ、当たり判定キツすぎなんだってば……!」

 双葉は、スティックから一度手を離して、深く息を吐いた。

 ラスボスの天狗が、また画面外に飛び上がる。
 その直前でポーズをかける。

「……はい、一回冷静になろうね、わたし」

 ぶつぶつ言いながら、パーカーのポケットを探る。
 指先に硬いケースの感触が当たった。

 小さなハードケースを取り出し、ぱちんと開ける。
 中には、細いフレームの眼鏡。

「コンタクトでドット判定は、さすがに無理ゲーなんだよね……」

 双葉は片目をつぶり、そっとコンタクトを外す。
 ティッシュで包んでから、筐体の端に置き、代わりに眼鏡をかけた。

 レンズ越しに画面を見直す。

「よし。あと2クレでパターン割る。割りたい。割らせて」

 レンズを指で押し上げる。
 さっきまで眠そうだった目つきが、わずかに変わる。

 背後で、別の筐体の爆音と歓声が上がる。
 だが双葉は振り向かない。スティックとボタンの位置を握り直す。

「……ラスボスさんよ、この“電梟”をなめんなよ?」

 小さく宣言して、再スタートのボタンを叩いた。

 その後、二回コンティニューを繰り返し、ようやく天狗の体力ゲージがゼロに近づく。

 最後の一撃。
 ドット絵の少女が、山頂の鳥居を蹴って跳び上がる。
 小さな体当たりが、天狗の面を貫いた瞬間──

 画面が、ばちんと真っ黒になった。
 さっきまで鳴っていた効果音も、BGMも全部消える。

「ぎゃあああ!」

 双葉は思わず筐体にしがみついた。
 ブラウン管の奥で、ざざ、とノイズが走る。

 しばらくして我に返り、そっと手を離して画面を見下ろす。

「……ん?」

 黒い画面の真ん中に、小さな白い点が浮かんでいるのがわかった。

 それがじわじわと広がり、映像になった。

 双葉は筐体から手を放して、画面をじっと見つめる。

 夜の屋台街。
 見慣れた上海の光景だ。

 双葉は、思わず息を呑んだ。

 カメラは、誰かの肩越しの位置にある。
 ピントは甘い。揺れもある。いわゆる“盗み撮り”のそれだ。

 女の子が夜道を歩いている。

 濡れた石畳。
 赤い提灯。
 その間を、くすんだ青緑のジャケットと紺色のスカートがすり抜けていく。

 栗色の髪。
 整った顔立ち。
 片手にレジ袋。

「……マジ、か」

 双葉は、反射的にスマホを取り出した。
 画面をそのまま録画しはじめる。

 映像は数分続いた。
 屋台街。雑居ビルの階段。掲示板の前。安ホテルの看板。
 どれも、見おぼえのある上海のロケーション。

 最後に、鞍馬山の登山口の看板が、一瞬だけ映る。

 上海のはずなのに、いきなり京都に投げ込まれたみたいな違和感を覚える。

 画面がフェードアウトし、「INSERT COIN」の文字が戻る。

「……? ホェンちゃんの昔話に出てきた子と、特徴、似てね?」

 ぽつりと呟く。

 双葉は、しばらくその場から動けなかった。

 ゲームセンターの蛍光灯の白さだけが、急に現実味を帯びる。

 試しにもう一度コインを入れ、天狗戦の手前まで急いで進めてみる。
 だが、どれだけ天狗を削っても、さっきの映像は出なかった。


 翌朝。
 双葉は、録画した映像と、筐体から抜いた生データを持って、事務所に向かった。


 ◇ ◇ ◇


 あのバーの夜から、ひと晩あけたころ。


 外灘から少し離れた安ホテルの一室で、白髪黒羽はまだ明かりを落とさずにいた。

 長期滞在者向けの小さな部屋だが、丸テーブルと電源があれば、黒羽には十分だ。

 部屋の隅には、細いベッドがある。
 薄いカーテンが引かれ、その向こうで、小柄な人影が丸くなって寝息を立てていた。

 日ノ御子 神楽。
 三年前に誘拐され、上海へと連れ去られた少女。

 世界二位の探偵が、産休前に片づけきれず、最後まで手放せなかった案件。
 その“答え”が、今はこの部屋の隅で、安い掛布団を胸までかぶっている。

 黒羽は、そちらに一度だけ目をやった。
 髪だけが、枕から少しはみ出している。ゆるいウェーブの黒髪だ。

 さっきまで軽く熱を出していた。
 今はようやく落ち着いている。

 薬を飲ませる前、安いコップの底に、黒羽は指先でそっと触れていた。

 【落ち着く】

 そんなイメージをひと刷毛、貼りつけておいた。
 水そのものが変わるわけじゃない。ただ、目を覚まして喉を潤したときに、ほんの少しだけ肩の力が抜けやすくなるように。

 もう空になったコップをベッド脇の台から片づけて、黒羽は丸テーブルへ引き返した。

 ノートパソコンの画面には、王双葉の顔が映っている。
 白衣のまま、机に肘をついている。

《──ってわけでさあ。クリアした瞬間に、これ》

 双葉の声と一緒に、別ウィンドウでさっきの屋台街の動画がリピートされる。

《CG合成じゃなくて、ガチ実写っすね》
《解像度も、古いスマホ動画よりちょいマシくらい》

「で、加工は?」

 黒羽が問うと、双葉はモニタの向こうで軽く首をかしげる。

《ざっくり全部チェックしたけど、合成じゃないっす》
《光の回り方も影の付き方も、作り物特有のノイズは見当たらない》

 淡々とした口調だが、双葉の目の下には、きっちりクマができていた。

「……徹夜で、お疲れさん。よくここまで洗ったじゃないか」

《そ、それな……途中から意地になってきちゃってさあ》
《でも、やる価値はあったっしょ? ホェンちゃんの昔話の子、ほぼこの子で確定だし》

 映像の中の少女が、掲示板の前で立ち止まる。
 紙を一枚一枚、真面目に読むような仕草を見せる。

 黒羽は、別ウィンドウで止めたフレームを拡大した。
 栗色の髪。青緑のジャケット。ミモレ丈のスカート。

「……この映像、撮ったやつのツラは分かんないのかい」

《画角的に、完全に“肩越し盗撮”なんだよねえ》
《撮った本人までは、さすがに追えないっす。少なくとも、普通の配信やPR用じゃない》

 双葉が軽く肩をすくめる。

《映ってる看板とか、店の入れ替わりは、現行の店舗データと一致してるんすよ》
《……“あそこ”を除けば、ね》

「“あそこ”?」

《ラストに一瞬だけ映る、登山口の看板》

 双葉が、動画の最後のフレームを拡大した。
 夜の闇の中、フラッシュに照らされた木の板。

 白い板に、でかでかと書かれた文字。

《鞍馬山へ ようこそ》

「……“鞍馬山”ねぇ」

 黒羽は、マグカップを指でとん、と叩いた。

「てぇことは、映像そのものは京都まで飛んでる、って解釈でいいのかい」

《それがさあ……そこまでは言い切れないんすよね》

 双葉が、別ウィンドウの静止画を呼び出す。

《バスの型式も、ナンバーのレイアウトも、全部&ruby(こっち){上海側}の規格》
《フロントガラスの路線表示も、“浦東新区”とかでさ。どう見ても京都の路線じゃない》

「ほう。鞍馬山はいつ上海に丸ごと買われたんだ?」

 黒羽は、画面の端の《鞍馬山》の文字をじっと眺めた。

「“鞍馬山”っていやあ、京都だろうが」

《そこが一番キモいとこで》

 双葉は、少し真顔になる。

《こっちで地図も不動産データも一通り洗ったけど、上海側には該当ロケーションゼロ》
《看板のデザインもフォントも、どこの業者か特定できない。画像検索かけても、ヒットなし》

 双葉は、モニタ越しに肩をすくめた。

《……そこだけ、“どの地図にも載ってない場所”っすね》

「……厄介な話だ」

 黒羽は、マグカップの縁をひと撫でした。

 【話しやすい】

 そのイメージを、そのままカップに貼りつける。
 酔わせるほどでもない。ほんの少し、舌が回りやすくなるだけ。
 面倒な話に踏み込む前に、こうやって相手の肩の力を抜く──昔からの悪癖みたいなもの。

「で、この“幽霊動画”を見つけてきたのが、红虎の相棒の情報屋──」

 黒羽はカップを持ち上げ、わざと一口すする仕草をしてみせた。
 画面の向こうで、双葉の視線が、ちらりとその動きを追う。

「……アンタだってわけだ」

《は、はい。わたくしめでございます》

 双葉は、妙にかしこまった口調で胸に手を当てる。

「アンタは、この子がその昔話に出てきた屋台のガキと、ほぼ同一人物だと」

《身長・髪色・歩き方・服の趣味》
《ホェンちゃんから聞き取った内容、ぜんぶ照らし合わせて、限りなくクロに近いグレーっすね》

《十年以上経ってるのに、全然老けてないのが、どう考えても厄ネタっすけど》

「厄ネタを、アタシに回してくるかねぇ、あんたら最強コンビは」

 黒羽は、椅子の背にもたれかかった。
 天井の安っぽい照明が、白髪と黒髪を半々に照らす。

「まったく、アンタらは微笑ましいよ」

《急になんっすか?》

「だってアンタにとってもアイツは“いい人”なんだろ?」

《はあああ?》

 がたんと椅子の倒れる音。
 画面の向こうで双葉が椅子を起こしている。

《か、からかわないでくださいよ……
 こっちまで変に意識するじゃないっすか》

 双葉は頬を赤くしながら、わざとらしく咳払いをひとつして座り直す。

 黒羽は、マグカップの縁をもう一度指でとん、と叩いた。

「……だけど、アンタも物好きだねぇ」

 そのまま縁をぐるりとなぞり、ぬるくなった中身を一口だけあおる。
 飲み下してから、わざとらしく続けた。

「自分の“いい人”がさ。
 少年時代に入れ込んでた女のケツを、いまだに追っかけてんのに──
 よくまあ素直に協力する気になるじゃないの」

 言い終わると、双葉の顔つきがすっと変わった。

《……それ、どういう意味っすか》

 眉間にしわを寄せ、画面の向こうから睨みつけてくる。

《ホェンちゃんは、そういう方向に器用じゃないっすよ》
《ずっと「むかつく」まんまで、今も怒り続けてるだけっす》

 声が一段低くなる。

《ただ、まっすぐなだけって、
 分かってるから万事屋さんも受けたんじゃないっすか?》

「ほう。“昔の女”じゃなくて、“昔の怒り”ときたか」

《もしさあ、ほんとにあのとき攫われてて、ずっとひどい目に遭ってるんだとしたら》
《気づいといて何もしないほうが、よっぽどタチ悪いじゃないっすか》

「でも、いい気分はしねえだろ」

《そういうのは、あと五年分くらい貯めといて、まとめて悩みますわ》
《今は、“何が起きてるか確かめる”ほうが、優先順位上っす》

 自分で言いながら、双葉はそこで一度だけ言葉を切る。

《……それにさ》
《ホェンちゃんが、こんな昔話を私にしてきてるって時点でさ》
《ここスルーさせたら、一生後悔しそうじゃん。そっちのほうが、見ててしんどいっすよ》

「なるほどねぇ」

 黒羽は、マグカップを手前に少し引き寄せた。

「一緒に昔の女のケツを追ってやってるんじゃなくて──
 “同じ怒り”を、一緒に背負ってやってる、ってわけだ」

《……まあ、そんな感じっす》

 双葉は、ばつが悪そうに目をそらす。

「そりゃあ、この最強コンビが長持ちするわけだ」

 黒羽は、半分からかうように、半分だけ感心したように言った。

 恋だの嫉妬だのをこじらせて、しょうもない理由で味方の足を引っ張る人間を、黒羽はいくらでも見てきた。
 少なくとも、今の受け答えを見るかぎり、この情報屋はその手合いじゃない。

「──さて。世界二位の探偵様には、幽霊動画と解析ログ一式、さっき投げといた」

《え、もう投げたんすか?》

 双葉が、モニタに身を乗り出す。

「こういう“案件”に心当たりあるかどうか──」

 言いかけたところで、ノートパソコンが小さく鳴った。
 別の通話の着信だ。

「……ほら来た」

《うわ、タイミングどんぴしゃ……》
《じゃ、いったん離席して待機してるっす》

 双葉の姿が小さくなり、別ウィンドウに、見慣れた顔が現れた。

 世界二位の探偵。
 電話越しでも、どこか芝居がかった口調は変わらない。

『Bonsoir、我が親友(モナミ)。上海の空の下でも、元気そうじゃあないか』

「ボンソワだか何だか知らねえけどさ。産休入っても、その芝居がかった喋りは治んないんだな」

『職業病でね。で、そちらは“妖怪ハンター”にでも転職したのかと思っていたところだが』

「残念ながら、まだ一匹も狩っちゃいねえよ。人探しをもう一件、引き受けただけだ」

 黒羽は肩をすくめた。

「産休中に悪いな。昔かかわってた案件で、関係してそうなものはあるか」

『君から送られてきた映像と、電梟嬢の解析ログは拝見したよ』

 探偵は、そこで少し声を落とした。

『細かいところまでは断定できないが、ひとつだけ、気味の悪い符合がある』

「聞かせな」

『五十年前、日本の港町に、中国から品物を仕入れていた個人貿易商の夫婦がいてね。
 借金を抱えて、ある日ふっと姿を消した』

 黒羽は、思わず背筋を伸ばした。

『つい最近、その家の跡地から、少女の白骨がひとつ見つかった。
 それが本当に彼らの「娘」かどうかは、今も分からない』

 画面の向こうで、探偵が古い写真を持ち上げる。
 白黒のスナップ。
 港町の雑貨屋の前で、三人が並んでいる。

 男と女は、妙な具合に滲んでいる。劣化か、光の具合か、それとも別の何かか。
 ただ、真ん中の少女だけ、顔立ちがはっきり残っていた。

『写真を送っておく。
 その映像を見たとき、この少女の顔がふと頭をよぎってね』

 黒羽は、受信した画像を開いて眉をひそめた。

『これ一枚では心もとないかい?』

「……いや、十分だ」

 黒羽は、写真の少女と映像の少女を見比べる。
 はっきりとは言い切れないが、整った顔立ちは確かによく似ている。

『解剖医の見立てでは、死亡時期は少なくとも数十年前だ。
 “青春映画のような奇跡の再会”──なんて、ロマンティックな話じゃない』

 探偵は、大げさに肩をすくめて見せる。

『そして、ひとつだけ言えるのはね』

 そこでひと呼吸置き、声を和らげた。

『私が君にまかせた女の子は、ちゃんとした“生きた人間”だ。そこは安心したまえ』

「心配の仕方がおかしいんだよ、いつも」

 黒羽は、鼻で笑った。

「──ま、話は分かった。手間を取らせたな」

『いや、胎教にはちょうどいい、読み聞かせだったよ』

「そりゃ結構」

 通話が切れ、画面にまた双葉の顔が戻ってくる。

《どうっすか。世界二位サイドから、何か出ました?》

「五十年くらい前に借金抱えて蒸発した夫婦と、その娘らしき白骨の話がひとつ」

《ひえ……》

「それと、アタシが“偽物つかまされてないか(オカルトに本気で乗っかってないか)”心配だってさ」

《いや、動画の子は実在してるっすよ!?》
《周辺の監視カメラにも映ってたから、そこは保証しますって!》

 双葉が、画面の向こうで慌てて手を振る。

 黒羽は、その様子を見て、少しだけ口元をゆるめた。

「──で、とりあえず分かったのは一つだ」

 丸テーブルの上、ノートパソコンの隣に置かれたマグカップの縁を、黒羽は指で軽く叩く。

「この映像の女の子──ゲームにあやかって“死神ちゃん”とするが、こいつはただのゲームキャラクターじゃない。
 上海のどこかに今いて、この街のどこかを彷徨ってる」

《……何か、策があるんすね》

「まあね」

 黒羽は椅子から立ち上がる。

「KURAMA NODE 07のクリア映像と、周辺の監視カメラ映像。
 あれを頼りに、タイムスタンプを遡るみたいに辿っていけばいい」

《うわ……めっちゃ古典的っすね……》

「そういう、めんどいのを引き受ける商売さ、万事屋ってのは」

 電気スタンドのスイッチを落とす前に、黒羽はもう一度、カーテンの向こうを見た。

 掛布団が胸のあたりまでずり落ちている。
 黒羽は、何も言わずに端をつまみ、肩まで戻してやる。

 神楽は気づく様子もなく、浅い寝息を続けていた。


 *


 翌朝。

 まず足を向けたのは、貧民街の雑居ビル一階にある解決屋向けの掲示板だった。

 一階は、昼間から飲める安い酒場だ。
 その脇の細い通路を抜けると、錆びた鉄板に紙を貼り付けただけの掲示板がある。

 紙と古いテープの跡で、ごちゃごちゃしていた。

 黒羽は、その前に立っていた。

《……あったっす》

 頭上でホバリングしている小型ドローンが、レーザーポインタで一点を照らす。
 双葉の声が、イヤホン越しに落ちてくる。

鞍馬山山頂付近に「名前のないもの」がいる。
それに名前を与え、その効力を観測せよ。
報酬:清王朝のダイヤ

 依頼文の下に、誰かが後から書き足した一文がある。

依頼主の都合により中止。

「……依頼主の“都合”ねぇ」

 黒羽は、書き足された一文を指でなぞる。

《……鞍馬山案件は、これ一枚だけっすね》

 双葉が、少し声を潜めて言う。

 黒羽は、掲示板全体をざっと見渡した。

 雑多な依頼の中に、“死神ちゃん”が残したと思われるものは、他にない。

「……よし。ギルド本体のほうも当たるか」

 掲示板のある雑居ビルから、路地を二つ抜けた先に、解決屋ギルドの窓口の一つがある。

 入口は目立たない。
 古い看板に、消えかかった字でギルドの名前が残っているだけだ。

 狭いカウンター。壁一面のカードラック。
 カウンターの奥で、眠そうな受付が書類をめくっていた。

 ドローンのカメラが、ゆっくりと室内をなめる。

「すみませーん」

 黒羽がカウンターの前に立つと、受付の男が、露骨に面倒くさそうな顔でこちらを見た。

「何? 依頼なら紙、そこに書いて」

「依頼じゃないよ。照会」

「照会?」

「茶色の髪で、十代前半くらいの女の子を探してる」

 男が眉をひそめる。

「そういうのは警察か、もっと別の“店”に行ってくれよ」

 “店”のところだけ、わずかに声色が変わった。
 どういう種類の店を想定しているか、言外に知れている。

《うわ……一発でソッチだと思われたっす……》

 双葉が、イヤホンの向こうで小さく引きつる。

 黒羽は、カウンターの上に置かれた小さな卓上ベルに指を触れた。

 【早く済ませたい】

 銀色の丸い表面に、イメージを貼りつける。

「最近登録した解決屋の中に、そういうのがいないかどうか。確認だけだよ」

 そう言いつつ、指先でベルを軽く押した。

 チン、と高い音が鳴る。
 受付の男の指が、うるさそうにベルの縁を押さえた。

 指が縁に触れた瞬間、眉間の皺が、ほんの少しだけ深くなる。

 黒羽は、ポケットから名刺を出して滑らせた。
 名刺には、白髪黒羽の名前と「万事屋」の肩書き、日本の住所が印刷されている。

「こっちは別口の依頼で動いてる。ギルドに喧嘩売りに来たわけじゃない」

 受付は、名刺と黒羽とを見比べ、ため息をひとつついたあと、端末をこちら側に引き寄せた。

 ベルに載せたイメージが、小さく効いている。
 男はもう一度だけため息をついて、それきり素直にカタカタとキーを叩き始めた。

 しばらくカタカタとキーを叩いたあと、男が画面を覗き込んで眉を上げた。

「……一件だけ、引っかかったな」

《マジっすか》

 ドローンが、わずかに前に寄る。

「ただし、登録だけ。ギルド経由で仕事は一件も受けてない」

「名前は?」

「“しにがみ”。多分、日本語だな」

 受付が、そう言って鼻で笑う。

「字も“死ぬ神”のほう。ふざけた通り名つけるガキは、たまにいる」

「ああ。ひねりも何もねえな」

 黒羽は、目を細めた。
 あのゲームと同じ名前。

「住所は?」

「安宿の一室。ええと……“南市招待所”」

 男が、プリンタから出した細長い紙切れを破り取り、カウンター越しに差し出す。

「本人がそこに寝泊まりしてたかまでは知らない。登録のときに書いてった連絡先だ」

「十分だよ。ありがとさん」

 黒羽は紙をつまみ上げる。

 ベルの上から指を離した。
 受付の男は、そこでようやく「……ったく、朝からめんどくせえ」と小さく呟き、次の書類へ視線を落とした。

 ギルドを出ると、廊下の空気が少しひんやりしていた。

《……今の、やっぱ能力っすよね?》

 路地を抜ける途中で、双葉がこそこそと聞いてくる。

《マインドトリック系の、アレっすか?》

「そんな立派なもんじゃないよ」

 黒羽は、肩をすくめた。

「物にイメージを貼ると、それに触ったときの気分が、ちょっとだけそっちに寄る。
 それだけだ」

 本当は「見るだけでも効く」という肝心なところは、あえて口にしない。
 事実、抽象的なイメージなら、今言った程度の効果しか出ない。

 本気でイメージを具体化した場合については──
 こういう場面で親切にべらべら説明するほど、黒羽も気前よくはない。

《それだけで、だいぶズルいっすけどね……》

「ズルいくらいじゃないと、万事屋なんてめんどうばかりしょい込む仕事なんか続けられねえんだ」

 黒羽は、紙切れを指先でひらひらさせた。

「で、“南市招待所”だ。住所が出たってことは──」

《あ、それなんすけど》

 双葉が、すぐさまかぶせる。

《今のうちにこっちでも当たっとこうと思って、“南市招待所”検索かけたんすよ》

「早いね。で?」

《まず、地図上には“南市招待所”って名前の宿、存在しないっす》

 黒羽は足を止めた。

「……名前が変わったとかじゃなくて?」

《古い営業許可のデータだと、十年前までは確かに“南市招待所”って招待所があったみたいっすけど》
《そのあと廃業。今は同じ住所に、全然別の会社名が乗ってるっすね》

「潰れた宿の名前を、わざわざ住所欄に書いてたってわけだ」

《っぽいっす。跡地まわりの監視カメラも少し当たったんですけど》
《ここ一カ月分くらいのログに、“しにがみ”っぽい子は映ってないっす》

「とはいえ、嘘ってのはよ、まっさらな空から落ちてくるもんじゃない」

 黒羽は、小さく笑った。

《ですね。
 地図でいうと、黄浦路のこっち側、屋台街のブロックがいちばん近いっす》

「だったら、そっちを当たったほうが早い」

 黒羽は、紙切れをくしゃっと折ってポケットにしまった。

《ちょうど、“KURAMA映像”の最初のカットの場所とも重なるっすね》

 頭上のドローンが、少し高度を上げた。

「案内は頼んだよ、“電梟”」

《へいへい。ルートと周辺カメラ、こっちで先に洗うっす》

 ドローンが、黒羽の少し前方に出て、屋台街のほうへ滑るように飛んでいく。


 *


 屋台街は、昼前だというのにもう混み始めていた。

 黒羽は、ドローンに示されたルートを追って屋台街の一角まで来ると、
 通りの真ん中ではなく、屋台の裏側の細い通路へ回り込んだ。

 ガスボンベ。折りたたみ椅子。空になった調味料の一斗缶。
 裏側を見たほうが、その店がどれくらい前からここでやってるか、だいたい分かる。

《映像、もう一回出すっすね》

 頭上のドローンから送られてくる映像が、黒羽のスマホ画面に重ねて表示される。
 屋台の影でレジ袋を下げている少女。
 栗色の髪。青緑のジャケット。ミモレ丈のスカート。

「このへんが拠点って線が、一番濃いな」

《屋台街のカメラログでも、その格好で何回か映ってるっす》

 双葉の声を聞きながら、黒羽は通路の途中で足を止めた。
 炭の匂いが濃い、古くからやっていそうな串焼き屋の裏手だ。

「悪いね、少し時間もらえる?」

 通路側に垂らされた、油で黄ばんだビニールの仕切り越しに声をかけると、
 前掛けをした店主が顔を出した。額に油汗がうっすら浮いている。

「おう、どうした。表、席空いてるぞ」

「串を三本、包んでもらえるか。
 焼いてるあいだに、ちょっと聞きたいことがあんだ」

「ほう、忙しいときに、妙なことを」

 店主は苦笑しながら、炭の上に串を並べた。
 脂が落ちて、じゅう、と音が立つ。

「で、なんの話だい」

 黒羽はスマホを取り出し、止めた映像の一コマを見せた。

「この子を探してる。
 栗色の髪で、背はこのくらい。最近、この辺りをうろついてたはずなんだけど」

 店主は画面を覗き込み、目を細める。

「……写真より、実物はもうちょっと痩せてた気はするがな」

「ってことは、見てるわけだ」

「そう突っつくなよ。こっちが身構えるだろ」

 店主は、串をひっくり返しながら肩をすくめた。

「この通りじゃ、前からある飯屋があってな。鍋ひとつで何でも出す店だ」

 店主は、この通りの角のほうを顎でしゃくる。

「親父さん、腕は確かだったよ。味もいいし、常連も多かった。
 痩せた長髪の兄ちゃんがひとり下働きしててな。腰まで伸ばした髪を、いつも変な結び方してた」

「その店で?」

「そうだ。ちょっと前から、その子が皿洗いを手伝うようになってな。
 夜になると、店の端っこで器を洗ってた」

《ドンピシャっすね》

 双葉がよしっと声を上げる。
 黒羽は、スマホを持つ指に少しだけ力を込めた。

「その店の親父に、その子を紹介してもらうってことはできるか?」

 店主はそこで一度、黒羽の顔をじっと見た。
 二、三拍だけ黙ってから、ぽつりと言う。

「もういないよ」

「あ?」

 脂が落ちる音だけが、しばらく続いた。

「ある晩な。店の前の通りが妙にざわついてな。
 明け方には、めちゃくちゃになってた」

 店主はそこで言葉を切り、串をひとつひっくり返した。

「看板は叩き折られてるし、柱は曲がってるし、カウンターも割れてた。
 天幕は引きはがされて骨だけ。中は空っぽ」

 脂がぱちりと弾け、炭の匂いが通路に流れ込む。

「親父さんのほうは、そのあと別の場所で“見つかった”って話だ。
 詳しいとこまでは知らねえがな」

 店主は炭の位置を少しだけずらし、火を落ち着かせた。

《……その店、親父さん、遺体で見つかってるっす》

 双葉が、小さく報告を挟む。

「長髪の兄ちゃんと、その子は?」

「見ちゃいねえ」

 店主は首を振る。

「次の日から、どっちもぱったりだ」

 串を三本、紙袋に包む音がした。

「この街じゃ、そんな話はいくらでもある。
 うちだって、自分の店で手一杯だ。よその店のことを、いちいち気にしてる余裕はない」

 そう言いながらも、店主は紙袋を差し出す前に、もう一度だけ黒羽の顔をじっと見た。

「……あんた、日本人だろ?
 変な連中にだけは、あんまり近づくなよ」

 黒羽は紙袋を受け取る。

「覚えとくよ」

 黒羽は片手を軽く上げて、その場を離れた。

《……今の、全部拾ったっす》

 頭上でドローンが姿勢を変える。

《言ってた角、マップ上ここっすね》

「じゃ、案内は任せる」

 黒羽は、紙包みから串を一本抜く。

《了解っす。前方二十メートルで右折、その先が例の場所っす》

 黒羽は、串をかじりながら、屋台街の雑踏を足早に抜けていく。

 角を曲がると、店主の言った通りの場所があった。

 排水溝と、古い油じみだけが残っている。
 黒羽は、なぞるようにそれらを眺めてから、竹串の先でその場所を示す。

「……ここが、最後の足取りってわけだ」

 屋台一軒ぶんのスペースだけが、通りの中でぽっかり空いていた。

《手がかりは……期待できなそうっすね》

 双葉の気落ちする声が聞こえる。

 黒羽は、串の残りを一気にほおばる。
 歯に挟まった肉を、味も分からないまま飲み込んだ。

「退屈しねえな、ホント」

 頭上でドローンの小さな羽音だけが、回り続けていた。



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