ダンゲロスSS上海
ハイディング・ハードネステン
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「ひいっ、ひいっ! なんなんだよ! なんなんだアイツは!」
荒い呼吸、あるいは悲鳴を漏らしながら駆ける人影。
小柄な男――少年――いや、小悪党。そう言い現わすのが相応だろう。
赤地に金糸で刺繍した龍虎図柄のシャツ。ダークブラウンのティアドロップサングラス。サイドを剃り上げたマンバンヘア。
小柄な男――少年――いや、小悪党。そう言い現わすのが相応だろう。
赤地に金糸で刺繍した龍虎図柄のシャツ。ダークブラウンのティアドロップサングラス。サイドを剃り上げたマンバンヘア。
威嚇的に粋がった装いも、幼さの残る顔も、汗と泥にまみれている。
足がもつれ、よろけ、不規則な足音が響く。
黴臭く、仄暗い、薄汚いタイル張りの細い廊下だ。
足がもつれ、よろけ、不規則な足音が響く。
黴臭く、仄暗い、薄汚いタイル張りの細い廊下だ。
その重苦しい大気を震わせるモノはもう一つ。
ぐわん。ぐわん。があん。があん。
異様な音だ。
金属を打ち鳴らしたような響きではあるが、銅鑼の溌剌さや梵鐘の荘厳さとは比ぶべくもない。
どこか陰鬱な、沈んだ音である。
その音が近づく。
ソレは確実に距離を詰めていた。
金属を打ち鳴らしたような響きではあるが、銅鑼の溌剌さや梵鐘の荘厳さとは比ぶべくもない。
どこか陰鬱な、沈んだ音である。
その音が近づく。
ソレは確実に距離を詰めていた。
「畜生っ! クソッ! ……やってやる! やってやるぞ!」
小悪党の淀んだ瞳が奮い立つ。
強者に靡き弱者を嬲って生きてきた破落戸である。
勇気はないがこらえ性もない。
なまじ腕っぷしの強さがあるだけにプライドは肥大している。
走るうちにアドレナリンが回り、いつしか恐怖が麻痺していた。
強者に靡き弱者を嬲って生きてきた破落戸である。
勇気はないがこらえ性もない。
なまじ腕っぷしの強さがあるだけにプライドは肥大している。
走るうちにアドレナリンが回り、いつしか恐怖が麻痺していた。
今や彼の内にあるのは怒りだ。
敵がいる。自分を傷つけようとしたモノ、自分を怯えさせたモノ、自分を逃走せしめたモノが。
屈辱に燃えている。
あるいは、狂気に染められていたのかもしれない。
敵がいる。自分を傷つけようとしたモノ、自分を怯えさせたモノ、自分を逃走せしめたモノが。
屈辱に燃えている。
あるいは、狂気に染められていたのかもしれない。
「哈ッ!」
気合と共に振り返り、足元のガラクタを蹴り飛ばす。
ガラス瓶である。
さて、この小悪党は魔人である。
ただ蹴っただけなら古びたガラス瓶は粉々に砕け散っていただろう。
しかしそうはならず。ガラス瓶は勢いよく、真っすぐに飛んで行く。
器用に力加減をしたか。
そうではない。
ガラス瓶である。
さて、この小悪党は魔人である。
ただ蹴っただけなら古びたガラス瓶は粉々に砕け散っていただろう。
しかしそうはならず。ガラス瓶は勢いよく、真っすぐに飛んで行く。
器用に力加減をしたか。
そうではない。
魔人能力『大玉大王』。
所有物に――手が届く物は当然自分の好きにして構わないのだと認識している――任意のボールとしての性質を与える力。
ガラス瓶は回転の掛かったゴムボールの如く、空気抵抗をまるで感じさせない軌道を描く。
所有物に――手が届く物は当然自分の好きにして構わないのだと認識している――任意のボールとしての性質を与える力。
ガラス瓶は回転の掛かったゴムボールの如く、空気抵抗をまるで感じさせない軌道を描く。
そして衝突。
瞬間、小悪党が思い描いたのは巨大な黒鉄。
今や姿を見ることも稀な解体工事用の鉄球である。
投影される重量は五トンを超える。
その数値以上、彼にとっては破壊の具現であった。
付与できるボールの性質は彼がその目で見た経験があるものに限る。
今や姿を見ることも稀な解体工事用の鉄球である。
投影される重量は五トンを超える。
その数値以上、彼にとっては破壊の具現であった。
付与できるボールの性質は彼がその目で見た経験があるものに限る。
物心つく前、金も力も欠いていた親にかき抱かれていた頃。
泣き叫ぶ両親を歯牙にもかけず、老朽化したマンションにその大腕を振るうクレーン車。
脳裏に焼き付いたその光景が、彼の人生における最初の思い出だった。
泣き叫ぶ両親を歯牙にもかけず、老朽化したマンションにその大腕を振るうクレーン車。
脳裏に焼き付いたその光景が、彼の人生における最初の思い出だった。
今、その力を振るうのは己である。
弱者だと嘲笑わられることは二度とない。
あってはならない。
弱者だと嘲笑わられることは二度とない。
あってはならない。
直撃。刹那の後に能力解除。古びた建造物を必要以上に傷つければ自身も倒壊に巻き込まれかねない。
幾人もの敵手を屠った戦法である。今更タイミングを見誤ることはない。
幾人もの敵手を屠った戦法である。今更タイミングを見誤ることはない。
「クソがっ!」
直撃、していたはずなのだ。確かに見届けた。
ガラス瓶はソレを廊下の奥へと押し返した。
再び彼我の間に距離を得た。
それだけだ。
ガラス瓶はソレを廊下の奥へと押し返した。
再び彼我の間に距離を得た。
それだけだ。
小悪党はソレについて噂だけは聞いていた。
聞いていたからこそ、この廃墟に乗り込んだのだ。
もっとも、多様に語られるその怪談を、自身にとって都合のいいように切り取って解釈していたのだが。
聞いていたからこそ、この廃墟に乗り込んだのだ。
もっとも、多様に語られるその怪談を、自身にとって都合のいいように切り取って解釈していたのだが。
ソレは海の向こうから来たのだという。
七色に輝く剣と鎧を持つのだという。
煌びやかなダイヤや真珠、様々な宝の隠し場所を知るのだという。
宝を探す者の前に立ちはだかり、決闘を挑むのだという。
百年前からそのようなことを続ける亡霊なのだという。
七色に輝く剣と鎧を持つのだという。
煌びやかなダイヤや真珠、様々な宝の隠し場所を知るのだという。
宝を探す者の前に立ちはだかり、決闘を挑むのだという。
百年前からそのようなことを続ける亡霊なのだという。
騎士の物語ではなく財宝の伝説だと思っていた。
ソレは宝を手に入れるための障害、いや、自身の武勇伝に花を添える脇役に過ぎないのだと。
ソレは宝を手に入れるための障害、いや、自身の武勇伝に花を添える脇役に過ぎないのだと。
現実はどうだ。
現実はどうだ、だと?
あんなものが現実であるものか。
あっていいはずがない。
あんなものが現実であるものか。
あっていいはずがない。
一度は目を背けて逃げ出したその姿を睨みつける。
全身を覆う板金鎧。両手剣。
時代錯誤の装甲には傷一つない。
そんなことは些事だ。
その纏う気配のおぞましさはなんだ。
虹色の光などとは決して呼ぶまい。
時代錯誤の装甲には傷一つない。
そんなことは些事だ。
その纏う気配のおぞましさはなんだ。
虹色の光などとは決して呼ぶまい。
例えるならば。
油条屋台の傍ら、生臭い水たまりに浮かぶ油膜。
雨季、道路脇の排水溝、なめくじが這った跡のぬらつき。
色彩が揺らぐ。
万色の奇形。
怪光が目を苛む。
油条屋台の傍ら、生臭い水たまりに浮かぶ油膜。
雨季、道路脇の排水溝、なめくじが這った跡のぬらつき。
色彩が揺らぐ。
万色の奇形。
怪光が目を苛む。
なにが亡霊。こんなモノが生きた時代などあってたまるか。
ソレは異物だ。
陰陽の坩堝たる上海にあってなお、現実であるべきでないモノ。
ソレは異物だ。
陰陽の坩堝たる上海にあってなお、現実であるべきでないモノ。
立ち尽くす間に騎士が迫る。
ゆっくりと、一歩ずつ。
不格好な音を鳴らしながら。
ゆっくりと、一歩ずつ。
不格好な音を鳴らしながら。
「貴君」
声がした。
古いラジオのような、嫌にざらついた響き。
違和感はあるが、はっきりと人の用いる言語として認識できた。
小悪党は不快感と恐怖が膨らむのを感じた。闘志がしぼむのも。
肌が泡立つ。
古いラジオのような、嫌にざらついた響き。
違和感はあるが、はっきりと人の用いる言語として認識できた。
小悪党は不快感と恐怖が膨らむのを感じた。闘志がしぼむのも。
肌が泡立つ。
まだ距離は十分に開いている。
その声に耳を傾けず一息に走り去ってしまえば、何事もなかったように元の暮らしに戻れるはずだ。
そう思い込もうとした。
その声に耳を傾けず一息に走り去ってしまえば、何事もなかったように元の暮らしに戻れるはずだ。
そう思い込もうとした。
「もう逃げぬのか。出て行くならばそれ以上は追わぬが」
騎士は人間のようにそう言った。
まるで感情のこもっていない声色である。
文字通りに捉えるならば、情けをかけているとも取れるが。
まるで感情のこもっていない声色である。
文字通りに捉えるならば、情けをかけているとも取れるが。
しかし、小悪党はその裏に隠された意味を感じずにはいられなかった。侮り。見下し。
騎士の両手剣は抜き身ではあるが右の手で提げているだけ。構えてすらいない。
深読み。狐疑。被害妄想。兜の下で嘲笑っているなどと。
それはある種の幻覚であっただろうか。
騎士の両手剣は抜き身ではあるが右の手で提げているだけ。構えてすらいない。
深読み。狐疑。被害妄想。兜の下で嘲笑っているなどと。
それはある種の幻覚であっただろうか。
消えかけていた怒りが沸騰する。
雄たけびを上げながら、小悪党は反射的に殴りかかっていた。
雄たけびを上げながら、小悪党は反射的に殴りかかっていた。
「ソレガシは構わぬが」
小悪党が踏み込むと見たその一瞬、騎士は右手首を返す。
長大な刃が斜め後ろを向く。その逆、柄は身の前に。
同時、左手が柄尻を掴む。
色彩が揺らめく。色だけが。
長大な刃が斜め後ろを向く。その逆、柄は身の前に。
同時、左手が柄尻を掴む。
色彩が揺らめく。色だけが。
甲冑姿の姿勢は小動もせず、剣もただの剣として。
妖物めいた光とは裏腹に、そこには何の不思議も仕掛けもなかった。
小悪党が間合いに入った瞬間、放たれたのはただただ実直な斬撃だった。
右下から、左上。遠心力を活かして振り抜く。
両手剣の基礎。
速度、力、間合い、全てが教科書通りの動き。
結果は明白である。
妖物めいた光とは裏腹に、そこには何の不思議も仕掛けもなかった。
小悪党が間合いに入った瞬間、放たれたのはただただ実直な斬撃だった。
右下から、左上。遠心力を活かして振り抜く。
両手剣の基礎。
速度、力、間合い、全てが教科書通りの動き。
結果は明白である。
小悪党は呻き、転げ回った。
刎ね飛ばされた腕は血飛沫を散らして床を汚した。
騎士は無言のまま剣を上段に構えた。介錯のためであろう。
刎ね飛ばされた腕は血飛沫を散らして床を汚した。
騎士は無言のまま剣を上段に構えた。介錯のためであろう。
「ま、待ってくれ!」
上擦った叫び。
痛みは時に勇気を挫くが、恐怖もまた痛みを塗り潰すことがある。
騎士は言葉を返さず、しかし動きを止めた。
痛みは時に勇気を挫くが、恐怖もまた痛みを塗り潰すことがある。
騎士は言葉を返さず、しかし動きを止めた。
「お、俺には兄弟がいるんだ! 寝たきりの弟が家で待ってる! 死ぬわけにはいかねえ! それに、お前だって、俺を殺したらただじゃ済まねえ! 兄貴は俺よりずっと強いんだぜ!」
半狂乱で出まかせを口にした。
同情を引きたいのか、脅しをかけたいのか。思慮も意図も欠如している。
だが、どういうわけだろうか、騎士はそのたわ言を聞き届けたようだった。
構えが解かれ、剣がゆっくりと降ろされる。
小悪党は力を振り絞って立ち上がった。
血を流し過ぎている。傷口を無事な手で押さえたが、それで塞がるものでもない。
同情を引きたいのか、脅しをかけたいのか。思慮も意図も欠如している。
だが、どういうわけだろうか、騎士はそのたわ言を聞き届けたようだった。
構えが解かれ、剣がゆっくりと降ろされる。
小悪党は力を振り絞って立ち上がった。
血を流し過ぎている。傷口を無事な手で押さえたが、それで塞がるものでもない。
「お、覚えてろ!」
捨て台詞を残し、ふらつく足取りで駆けだした。
振り向きはしない。
奇妙な足音はもはや追ってこないようだった。
振り向きはしない。
奇妙な足音はもはや追ってこないようだった。
復讐してやる! 俺を舐めやがって!
馬鹿が、騙されやがった! 俺に家族なんていねえ!
魔幇にも伝えてやるぞ! ダイヤの守り人の噂は本当だ!
馬鹿が、騙されやがった! 俺に家族なんていねえ!
魔幇にも伝えてやるぞ! ダイヤの守り人の噂は本当だ!
掠れた息を漏らす小悪党には声を発する余力はなく、ただ心の内で喚き続けた。
それが意識を保つことにも繋がった。
しかし、それは果たして幸か不幸か。
それが意識を保つことにも繋がった。
しかし、それは果たして幸か不幸か。
*
翌日のことである。
旧フランス租界と呼ばれる一帯がある。
名所の多い上海の中でも独特の美しさを誇る土地である。
プラタナスの並木。歴史香る洋風建築。芸術的なモニュメント。
若者が立ち寄る小洒落た商店。富裕層が暮らす住宅街。
近代と現代が入り混じり、西洋の空気の中に中華の息吹が溶け込んでいる。
名所の多い上海の中でも独特の美しさを誇る土地である。
プラタナスの並木。歴史香る洋風建築。芸術的なモニュメント。
若者が立ち寄る小洒落た商店。富裕層が暮らす住宅街。
近代と現代が入り混じり、西洋の空気の中に中華の息吹が溶け込んでいる。
大きな利益を生み出す土地と建物と稼業が数多ある、夢の溢れる街である。
表からも裏からも利権を求める者たちが集う、野望渦巻く街である。
表からも裏からも利権を求める者たちが集う、野望渦巻く街である。
この頃は特に裏の界隈が騒がしい。
ごく普通の市民の顔をしている人々の中にはそちら側に通じる者もいるのだろう。
あるいはそのような者が隣人であることにただ慣れたのかもしれない。
そうでない者もいる。
晴れやかな街、日の当たる世界の住人たち。
彼らは青ざめた顔でその場所から足早に立ち去った。
ごく普通の市民の顔をしている人々の中にはそちら側に通じる者もいるのだろう。
あるいはそのような者が隣人であることにただ慣れたのかもしれない。
そうでない者もいる。
晴れやかな街、日の当たる世界の住人たち。
彼らは青ざめた顔でその場所から足早に立ち去った。
本来は治安の良さで知られた旧フランス租界の一角である。
そこに、傷だらけの死体が晒されている。
そこに、傷だらけの死体が晒されている。
首と胴とは繋がっている。片腕は欠けている。しかしそれが致命傷となったわけではなさそうだった。
全身に青あざが浮かび、爪ははがされ、歯も抜かれている。拷問の末の死であろうと思われた。それがなにか重大な情報を得るために行われたか、単に残虐な強者の気まぐれのために行われたかは道行く人々が知る由もない。
全身に青あざが浮かび、爪ははがされ、歯も抜かれている。拷問の末の死であろうと思われた。それがなにか重大な情報を得るために行われたか、単に残虐な強者の気まぐれのために行われたかは道行く人々が知る由もない。
直立し無事な腕でどこかをを指差す妙に気取った姿勢で固定されている。
赤地に金糸で刺繍した龍虎図柄のシャツ。ダークブラウンのティアドロップサングラス。そういった付属物は綺麗に汚れを落とされ、穴や傷も修復されている。
その死体には、上海武侠立像、と達筆に記された紙きれが貼り付けられていた。
赤地に金糸で刺繍した龍虎図柄のシャツ。ダークブラウンのティアドロップサングラス。そういった付属物は綺麗に汚れを落とされ、穴や傷も修復されている。
その死体には、上海武侠立像、と達筆に記された紙きれが貼り付けられていた。
それに対して目を伏せるような善良さを持たぬ人々はこらえ切れず失笑し、あるいは大っぴらに嘲笑した。
何の感情もこめず、ただ見つめる者もいる。
死体の指差す先の彼。
何の感情もこめず、ただ見つめる者もいる。
死体の指差す先の彼。
表裏を巻き込む利権争いの果て、建造物の正式な所有者が不明となることが何度かあった。
そういう場合も通常は手に入れたもの勝ち、力のある誰かが実効支配を成立させるのが習いである。
そう上手くはいかないこともある。
当然、ある勢力に敵対する別の勢力は多種多様な妨害をする。
どういうわけかその時々に邪魔する側ばかりが成果を上げて、未だにどこにも掌握されない建物がほんのわずかに存在する。
そういう場合も通常は手に入れたもの勝ち、力のある誰かが実効支配を成立させるのが習いである。
そう上手くはいかないこともある。
当然、ある勢力に敵対する別の勢力は多種多様な妨害をする。
どういうわけかその時々に邪魔する側ばかりが成果を上げて、未だにどこにも掌握されない建物がほんのわずかに存在する。
彼が住み着いている廃墟もそうだった。
非現実的な色彩の鎧。
古びたカーテンの隙間から窓を覗いていた。
その死体が彼へのメッセージなのだと理解する。
非現実的な色彩の鎧。
古びたカーテンの隙間から窓を覗いていた。
その死体が彼へのメッセージなのだと理解する。
警告、いや、宣戦布告であろう。
次に向かうのはこんな役立たずではない、と。
次に向かうのはこんな役立たずではない、と。
彼は兜のバイザーを上げた。狭い視界が開け、その光景がよりはっきりと見えた。
なぜそうなるのか、彼にもわからぬ。
それ以上なにかの動作を示すことなくカーテンを閉める。
罅が入った壁掛け鏡に向き合えば。
曇り、ぼやけてはいるが辛うじて姿を確かめることはできる。
なぜそうなるのか、彼にもわからぬ。
それ以上なにかの動作を示すことなくカーテンを閉める。
罅が入った壁掛け鏡に向き合えば。
曇り、ぼやけてはいるが辛うじて姿を確かめることはできる。
そこに眼球はない。人体という物がない。
バイザーを再び下ろし、上げる。やはり視界は変化する。
今更驚きはしない。
鏡に映る兜の内側、底知れない暗闇が広がる、などということもない。
当たり前に鋼板の裏側が映るだけである。底の浅いがらんどうだ。色だけが妙にどぎつい。
バイザーを再び下ろし、上げる。やはり視界は変化する。
今更驚きはしない。
鏡に映る兜の内側、底知れない暗闇が広がる、などということもない。
当たり前に鋼板の裏側が映るだけである。底の浅いがらんどうだ。色だけが妙にどぎつい。
この空虚な騎士が何者なのか、なぜそのような姿を取っているのか、彼自身にもわからない。
クラム・ハードシェル。
そう名乗ることもある。ふと頭に浮かんだ名だ。真実その名の持ち主だという保証はない。
自身について思考することはある。
我思う、故に我有りという。
我というべきモノは、確かに有るのだろう。
それは鎧ではないのだと思う。
板金鎧、両手剣。それらと一体ではあるのだとしても、総体としてはそれらを纏う何者かであるはずだ。
クラム・ハードシェル。
そう名乗ることもある。ふと頭に浮かんだ名だ。真実その名の持ち主だという保証はない。
自身について思考することはある。
我思う、故に我有りという。
我というべきモノは、確かに有るのだろう。
それは鎧ではないのだと思う。
板金鎧、両手剣。それらと一体ではあるのだとしても、総体としてはそれらを纏う何者かであるはずだ。
あるいは人間の成れの果てなのかもしれぬ。
根拠は薄弱である。
今の自身が存在したという最初の記憶、その瞬間から人のように二本足で立ち、人の用いる言語で思考し、人に関する知識を持っていた。それだけである。
まず、記憶というものが怪しい。それが具体的にどれだけ前のことだったか、全くもってあやふやである。
そもそも記憶や思考をするはずの脳という器官もない。少なくとも、物理的には。
根拠は薄弱である。
今の自身が存在したという最初の記憶、その瞬間から人のように二本足で立ち、人の用いる言語で思考し、人に関する知識を持っていた。それだけである。
まず、記憶というものが怪しい。それが具体的にどれだけ前のことだったか、全くもってあやふやである。
そもそも記憶や思考をするはずの脳という器官もない。少なくとも、物理的には。
無根拠に確信していることもある。
自身は幻覚なのだ。その認識がある。
この身は認識を現実にする力で成り立っている。
自身は幻覚なのだ。その認識がある。
この身は認識を現実にする力で成り立っている。
しかし誰が見ている幻覚だというのか。
ソレガシという幻覚を、幻覚であるソレガシが見ている。
そのような思考も浮かぶ。
言葉遊びだ。要領を得ない。
ソレガシという幻覚を、幻覚であるソレガシが見ている。
そのような思考も浮かぶ。
言葉遊びだ。要領を得ない。
もう一つ、客観的かつ常識的に考えて間違いないと断言できることがある。
クラム・ハードシェルは狂っている。
クラム・ハードシェルは狂っている。
建付けの悪いドアを開いて廊下に出る。
壁はひどく傷ついていた。侵入者たちの狼藉と彼自身の失態によるものだ。
彼の剣は石材であっても斬れるのだ。次はもっと慎重に立ち回らなければ。
思考しつつ建物の奥へと進む。
最奥の部屋。
艶めく木製のドアは傷ついてはいるが、今も丹念に磨かれているのがわかる。
無論クラム・ハードシェルがそうしたのだ。彼の他には誰もいない。
彼は恭しくドアをノックした。
返事は返らない。
壁はひどく傷ついていた。侵入者たちの狼藉と彼自身の失態によるものだ。
彼の剣は石材であっても斬れるのだ。次はもっと慎重に立ち回らなければ。
思考しつつ建物の奥へと進む。
最奥の部屋。
艶めく木製のドアは傷ついてはいるが、今も丹念に磨かれているのがわかる。
無論クラム・ハードシェルがそうしたのだ。彼の他には誰もいない。
彼は恭しくドアをノックした。
返事は返らない。
「失礼仕ります」
なるべく音を立てぬようそっと開き、その場に跪いた。
「我が貴婦人、恐れ多くも御身の周りを騒がせることになるやもしれませぬ」
「あるいは御身を別の場所に移し召される必要もあるやもしれませぬ」
返事はない。
彼が語り掛けているはずの相手がいない。
正気の者がその部屋の光景を見れば、そうだ。
彼が語り掛けているはずの相手がいない。
正気の者がその部屋の光景を見れば、そうだ。
ドアから最も遠い壁際、形を保っている骨董品の椅子の上。
一粒のダイヤが無造作に置かれていた。
一粒のダイヤが無造作に置かれていた。
クラム・ハードシェルが見ている世界はそうではない。
そこに座るのは一人の貴婦人だ。
そこに座るのは一人の貴婦人だ。
線の細い美女。清代中期式の満州服を着て、扇形の豪奢な頭飾りを被っている。
いかにも貴人らしい冷淡な微笑を浮かべている。
その全てが透き通っている。
透過する光は複雑に反射し、柔らかな白い輝きと、華やかな五色の煌めきを放つ。
いかにも貴人らしい冷淡な微笑を浮かべている。
その全てが透き通っている。
透過する光は複雑に反射し、柔らかな白い輝きと、華やかな五色の煌めきを放つ。
出会った時と場所は覚えていない。
記憶が信頼できないのとは別に、一目見た瞬間、貴婦人の周囲になにがあったかとか、彼がなにをしようとしていたとか、そういう状況が全て思考の内から吹き飛んでしまったのを覚えている。
ただ途方もない歓喜だけを感じていた。
美しい。
ただ美しいということだけが、この世で最も尊いことのように思われた。
記憶が信頼できないのとは別に、一目見た瞬間、貴婦人の周囲になにがあったかとか、彼がなにをしようとしていたとか、そういう状況が全て思考の内から吹き飛んでしまったのを覚えている。
ただ途方もない歓喜だけを感じていた。
美しい。
ただ美しいということだけが、この世で最も尊いことのように思われた。
そして、いつの間にか騎士としての自分を貴婦人に捧げる日々を過ごしていた。
初めの頃とは貴婦人の部屋の様相も変わっている。
クラム・ハードシェルは廃墟で集められる精一杯の布帛などで部屋を飾り、不器用な手で床や壁の埃を払い、家具も他の部屋から無事なものを吟味して持ちより、なんとか見れるように設えた。
そういうことをする時、貴婦人は都合よく姿を消している。
初めの頃とは貴婦人の部屋の様相も変わっている。
クラム・ハードシェルは廃墟で集められる精一杯の布帛などで部屋を飾り、不器用な手で床や壁の埃を払い、家具も他の部屋から無事なものを吟味して持ちより、なんとか見れるように設えた。
そういうことをする時、貴婦人は都合よく姿を消している。
いつかの昔、貴婦人が座っていたはずの場所に覚えのないダイヤを見つけた時、クラム・ハードシェルは驚くでもなく得心していた。
全身がダイヤの女、あるいは人間の女と同じ形と大きさのダイヤなどあるはずがないのだ。
ダイヤはいくら検分してもただのダイヤである。
そこにクラム・ハードシェルを魅了するような力はない。
つまり、ダイヤの存在が何らかのきっかけではあったのかもしれないが、結局はクラム・ハードシェルが独りで勝手に幻覚を見ているのだ。
全身がダイヤの女、あるいは人間の女と同じ形と大きさのダイヤなどあるはずがないのだ。
ダイヤはいくら検分してもただのダイヤである。
そこにクラム・ハードシェルを魅了するような力はない。
つまり、ダイヤの存在が何らかのきっかけではあったのかもしれないが、結局はクラム・ハードシェルが独りで勝手に幻覚を見ているのだ。
静かな納得の後、クラム・ハードシェルのがらんどうの胸の内に三つの感情が沸き上がった。
一つ、貴婦人が、真実の美というものが現実には存在しない、その事実こそが間違いであるべきなのだ、という憤り。
二つ、貴婦人の姿を見知る者、そこに貴婦人が存在するのだと知っている者はこの世に自分だけなのだ、という使命感。
三つ、それらの想いの激しさに対するほんのわずかな驚き。自身にはどうやら心があると言っていいらしい。そういう発見があった。
一つ、貴婦人が、真実の美というものが現実には存在しない、その事実こそが間違いであるべきなのだ、という憤り。
二つ、貴婦人の姿を見知る者、そこに貴婦人が存在するのだと知っている者はこの世に自分だけなのだ、という使命感。
三つ、それらの想いの激しさに対するほんのわずかな驚き。自身にはどうやら心があると言っていいらしい。そういう発見があった。
クラム・ハードシェルは自身が幻覚を見ているのだと理解している。
クラム・ハードシェル自身が幻覚なのだとも認識している。
時折考えることがある。
クラム・ハードシェルは幻覚で、彼にとって至上の存在である貴婦人も幻覚だ。
それ以外の世界の全てもまた彼の見る夢ではないとどうして言えるだろうか。
存在すること。それだけのことにすら、本当はなんの保証もない。
クラム・ハードシェル自身が幻覚なのだとも認識している。
時折考えることがある。
クラム・ハードシェルは幻覚で、彼にとって至上の存在である貴婦人も幻覚だ。
それ以外の世界の全てもまた彼の見る夢ではないとどうして言えるだろうか。
存在すること。それだけのことにすら、本当はなんの保証もない。
それでも、彼の鈍い感覚で感知できる全てに対して、彼は真実そこにあるように振舞っていた。
クラム・ハードシェルにはクラム・ハードシェルの世界が見え、聞こえ、嗅げ、触れることができるのだから。
そういう振る舞いをする自身のことを狂っているのだと思う。
狂っているべきなのだ、とも思う。
だからどう、ということもない。彼にとってはそれが事実というだけである。
クラム・ハードシェルにはクラム・ハードシェルの世界が見え、聞こえ、嗅げ、触れることができるのだから。
そういう振る舞いをする自身のことを狂っているのだと思う。
狂っているべきなのだ、とも思う。
だからどう、ということもない。彼にとってはそれが事実というだけである。
彼はあくまでも冷静に、彼が認識している世界の中でするべきことを考える。
上海にはダイヤを狙う者たちがいる。
清王朝のダイヤ、それが上海で最も価値ある宝の名だ。本物のダイヤ所持者以外のみんながその在り処を探している。
上海にはダイヤを狙う者たちがいる。
清王朝のダイヤ、それが上海で最も価値ある宝の名だ。本物のダイヤ所持者以外のみんながその在り処を探している。
クラム・ハードシェルの戦いがその争奪戦と交わったのはごく最近のことである。
以前からクラム・ハードシェルを襲う者はいた。しかし彼らは「騎士の亡霊がなんらかの財宝を持っている」という程度の認識でいたはずだ。
今は違う。
真贋不明のダイヤの一つをクラム・ハードシェルが守っている。どうやらそういう噂が広がっているらしい。
混沌だ。
不必要に規模の大きな争いに巻き込まれつつある。
やはり居場所を移すべきか。
しかしどこへ、そしてどのように。
以前からクラム・ハードシェルを襲う者はいた。しかし彼らは「騎士の亡霊がなんらかの財宝を持っている」という程度の認識でいたはずだ。
今は違う。
真贋不明のダイヤの一つをクラム・ハードシェルが守っている。どうやらそういう噂が広がっているらしい。
混沌だ。
不必要に規模の大きな争いに巻き込まれつつある。
やはり居場所を移すべきか。
しかしどこへ、そしてどのように。
貴婦人の手を引いて上海の街を渡る。そういうことは考えられない。
手を触れるなど恐れ多い。
この厳つい籠手では触れるだけで傷つけてしまうのではないかとも思う。
それに比べれば些細なことだが、そもそも幻覚である貴婦人を物理的に動かすことができるのかという疑問もある。
クラム・ハードシェルとは違い、言葉を発したり動き回ることのない、ただ目に映るだけの幻覚なのだ。
手を触れるなど恐れ多い。
この厳つい籠手では触れるだけで傷つけてしまうのではないかとも思う。
それに比べれば些細なことだが、そもそも幻覚である貴婦人を物理的に動かすことができるのかという疑問もある。
クラム・ハードシェルとは違い、言葉を発したり動き回ることのない、ただ目に映るだけの幻覚なのだ。
ただのダイヤであれば問題なく持ち運べはする。
だがクラム・ハードシェルも自身の意思で幻覚を見ているわけではない。
貴婦人とダイヤ、部屋の中に鎮座するのがどちらか、ドアを開けるまでは彼にもわからないし、それを選べるわけでもない。
彼の心情としては、ダイヤはあまり見たくない。
貴婦人のいない部屋、ただの宝石を見るたびに、自身が正気に戻ってしまったのではないか、再び貴婦人の姿を見ることができるだろうかとたまらなく不安になる。
だがクラム・ハードシェルも自身の意思で幻覚を見ているわけではない。
貴婦人とダイヤ、部屋の中に鎮座するのがどちらか、ドアを開けるまでは彼にもわからないし、それを選べるわけでもない。
彼の心情としては、ダイヤはあまり見たくない。
貴婦人のいない部屋、ただの宝石を見るたびに、自身が正気に戻ってしまったのではないか、再び貴婦人の姿を見ることができるだろうかとたまらなく不安になる。
これまでにこの住処を襲ってきた刺客のことを思い返す。
マフィア。解決屋。有象無象の破落戸。
それぞれが別の思惑を持ち、しかしある程度の情報を共有していた。
さらにはそれらの背後にちらつく魔幇という組織。
あの死体を晒した勢力、敵意を向ける者たちについて、こちらはほとんど何も知らずにいる。
マフィア。解決屋。有象無象の破落戸。
それぞれが別の思惑を持ち、しかしある程度の情報を共有していた。
さらにはそれらの背後にちらつく魔幇という組織。
あの死体を晒した勢力、敵意を向ける者たちについて、こちらはほとんど何も知らずにいる。
そう遠くない内に、戦いはより激しいものとなる。
ろくな情報はないが、そんな予感がした。
ろくな情報はないが、そんな予感がした。
「ダイヤか。あの者たちは何故そうも求めるのか」
ダイヤが欲しいか。自身にそう問うのならば答えは決まっている。
上海中が血眼になって探している石のことなら、違う。それを求めてはいない。
貴婦人のことなら、そうだ。だがその身柄のことではない。
分不相応な望みがある。
叶うならば、なにかお言葉を一つかけて下さることがあれば。
そして、望んでいると認めることも恐れ多いが、もう一つ。
しかし自身の心を自身に隠すことはできない。
愛しているのだと伝えたい。そして、その心が自分に向けられることがあるのなら。
上海中が血眼になって探している石のことなら、違う。それを求めてはいない。
貴婦人のことなら、そうだ。だがその身柄のことではない。
分不相応な望みがある。
叶うならば、なにかお言葉を一つかけて下さることがあれば。
そして、望んでいると認めることも恐れ多いが、もう一つ。
しかし自身の心を自身に隠すことはできない。
愛しているのだと伝えたい。そして、その心が自分に向けられることがあるのなら。
それがあり得ないことだと知っている。
貴婦人の言葉、心。
それらが騎士に向けられることはない。
それ以前の問題である。
言葉を紡ぐ小さな口、涼やかな顔の下に秘められた心、そんなものはそもそも存在しないのだから。
貴婦人の言葉、心。
それらが騎士に向けられることはない。
それ以前の問題である。
言葉を紡ぐ小さな口、涼やかな顔の下に秘められた心、そんなものはそもそも存在しないのだから。
結局のところ、クラム・ハードシェルはほとんど何も持ってはいない。
新たに何かを手に入れることも、得た物を所持し続けることも彼には難しいだろう。
彼の手の中にある物は、不壊の板金鎧と両手剣。彼自身の一部であるそれらを数に入れないのなら。
所有物は一つだけ。
由来不明のダイヤが一粒。
彼にとっては幻覚のよすがであるという、それだけがダイヤの価値だった。
新たに何かを手に入れることも、得た物を所持し続けることも彼には難しいだろう。
彼の手の中にある物は、不壊の板金鎧と両手剣。彼自身の一部であるそれらを数に入れないのなら。
所有物は一つだけ。
由来不明のダイヤが一粒。
彼にとっては幻覚のよすがであるという、それだけがダイヤの価値だった。
*
さて、これがこの物語の序章である。
ここで一段落とする前に、語り部として三つだけ、どうしても付け加えておきたいことがある。
一つ。読者の皆様におかれましては、私が語ることを是非とも信じていただきたい。
二つ。この物語は本当にあった出来事だ。幻覚ではない。
最後に、これが最も重要なことなのだが。
ここで一段落とする前に、語り部として三つだけ、どうしても付け加えておきたいことがある。
一つ。読者の皆様におかれましては、私が語ることを是非とも信じていただきたい。
二つ。この物語は本当にあった出来事だ。幻覚ではない。
最後に、これが最も重要なことなのだが。
これは一人の騎士が至上の宝を手に入れるまでの物語だ。