操舵手ヘボンの受難#3 『血染めの雲』
朝日に照らされながら、ヘボンは中佐の指示の下、コアテラを全速力で、連絡のあった空域へと向かわせる。
その際に何度も本気でコアテラ一機のみで挑むのかと、中佐へと問いかけたが、その度に彼女は全くヘボンの怯える声音を意に返さずに増援が来なければしょうがないと繰り返すのみであった。
ただそれだけ、ヘボンの精神が限界に達した辺りでの
「...後方より、機影。..喜べ、ヘボン君。君の祈りは天に達したぞ、増援だ」
彼女の冷静そのものな言葉には心が奮い立った。
中佐の言葉と共に、ヘボンの耳にも、接近している生体器官独特の音色が伝わってくる。
ただ、この音色に耳を澄ますと、多少明るくなってきていた、ヘボンの顔が再び曇り始める。
そして疑問は徐々に確信へ変わり、コアテラの操縦席からの視界にその増援機が接近し、彼の視線に入ったとき、ヘボンは思わず小さな溜息を漏らし、それを聞いた中佐すら
「私は増援を頼んだ筈だ。決して地獄への道連れを頼んだわけではないぞ?」
そう彼ほどではないものの、落胆の色を声音に込めていた。
「マコラガが2機に、バルソナが1機か...これまた随分と有り難い増援だな。涙が出るよ」
皮肉たっぷりに彼女が通信機越しに喋ると、コアテラの前方を飛行するマコラガのパイロットが応えた。
その声は随分な男の濁声で、とても特徴的であった。
「中佐殿。お言葉ですが、これでも随分とかき集めて発進したわけですから、勘弁してくださいよ」
現在、ヘボンの操るコアテラの前方に2機のマコラガが飛行している。
これが、増援かと思うとヘボンはそれを認めたくなかった。
これから、敵空母へ強襲を仕掛けるというのに、旧型のしかも護衛機であるマコラガと、一応戦闘機ではあるが、これもまた旧式で速度も装甲も心許ないバルソナ一機では、襲撃はおろか、強行偵察もままなるかどうかわからなかった。
しかも、彼女の話では敵部隊には護衛機としてユーフーも複数艦載しているとの話である。物量でも明らかに負けている。
先ほどの興奮が全くのぬか喜びであったと感じているヘボンを後目に、中佐は通信に耳を傾けながら口を開いた。
「その声はミュラーか...となると、もう片方のマコラガはフレッドだな?バルソナは誰が乗っている?カールか?」
「確かに俺の隣を飛んでるのはフレッドですが、バルソナは違いやす、カールの奴は上に出撃を停められちまって...代わりにグレイソン大尉が乗ってますぜ」
そのミュラーと呼んだ男の返答に、彼女は今までの冷静そうな顔を一瞬憎らしそうに歪めると、こちらにまで聞こえるほどの大きな舌打ちをし、今までにないような怒声を放った。
「グレイソンだと?!何故あんなひよっこの青二才を付けた?!ただでさえ主力の戦闘機に...上の連中は何を考えているんだ!」
「さぁ...奴はきっとお目付け役でしょうよ。俺たちがまとめてくたばるところを報告するのが奴の仕事ですぜ」
怒りを露わにする中佐に対して、ミュラーは至って落ち着いた調子であった。
今の通信会話を聞いていたヘボンは、ミュラーの言葉について幾らか疑問を覚えたが、聞けるような雰囲気ではない。
「...通りで通信を切っているわけだ。兄上はどうした?また、停められているのか?」
「いえ、少佐はなんとかなりそうですが...何分、機体が機体ですから、倉庫から引っ張り出すのに苦労している様でしたぜ。ついでに上からの妨害工作もオマケ付きでさ...果たして間に合うかどうか」
「おのれ、保身派共め...仕方ない。我々だけでも作戦は決行する。グレイソンへ通信を繋げ、大方保身派共の回線を使っているはずだ。割り込め」
「伝言はなんと?」
「こちらの指示に従わないのなら、3機で貴様を撃ち落とすと言ってやれ」
彼女がそうミュラーへ伝えると、彼はさも愉快そうな調子で笑いながら、了解の旨を返してきた。
そして、暫くの沈黙の後、我々の頭上を飛んでいたバルソナが大慌てで降下し、機首を回頭させコアテラの後方へ張り付いた。
「通じたらしいな。ミュラー、グレイソンへ先陣を勤めろと伝言しろ。敵機を発見次第突っ込んでもらう。拒否するようなら即座に撃墜すると言え」
「了解でさ、中佐殿。あっし等はどうすれば?」
「グレイソンを囮にして、お前とフレッドには敵強襲艇をやってもらう...旧型とはいえ戦線を突破してきたような奴らだ。抜かるな」
「了解...中佐殿は?」
「囮と強襲艇をそちらが引きつけたら、下方から空母へ接近し艦載機を抑える。一機でもユーフーを減らさなければ全滅は必至だ」
彼女はそう指示を伝え終えると、少し溜息を付きながら、自身の下で操縦桿を握るヘボンを見据えながら
「兄上程ではないにしろ、こちらには優秀な操舵手がいる...先ほども通信で言ったが、ヘボン軍曹だ」
「夜鳥を撃ち落とした奴ですな?これが済んだら顔を是非、拝ませて頂きてぇですな」
「それはあまり勧めたくないな」
幾らか興味がありそうなミュラーの言葉を、彼女は愉快そうに一蹴すると、意味ありげな視線をヘボンへ向けるのであった。
暫くの間、無謀な一団は飛行を続けた。
ヘボンはその間、何度も敵部隊がとっくに何処か遠くの空域へ逃げ込んでいることを祈ったが、運命は至って残酷であり、巨大な機影が前方2時方向に遠く見えてしまっていた。
「居たな。ミュラー。グレイソンへ突撃しろと伝えろ。奴の目標はあくまで空母だ。対空防御を一手に引き寄せてもらう」
「了解.......。中佐殿?グレイソンの野郎、突撃するのはいいが、一言中佐殿に伝言があるそうですぜ?」
「なんだ?」
「『くたばれ!雌狐!』...だそうで」
「いいだろう。生還できたら、真正面で言ってもらおうじゃないか」
ミュラーの通信を鼻で笑いながら、中佐は愉快そうに銃座へしがみつくような姿勢をとって、今までの薄ら笑いを浮かべていた顔を引き締めた。
「よし、始めるぞ。諸君、連邦の犬共に我が領空へ踏み入ったツケを払わせてやるぞ」
そう覚悟を決めたような彼女の言葉に、ヘボンも思わず操縦桿を握る腕に力を込めた。
ここまで来てしまったからには、もう後戻りもできない。彼も彼なりに覚悟を決めて、深々と息を吸い込んだ。
一団の正面に確認できる連邦の空母は、その手前に浮いている巨大な雲によって、全体を把握することは叶わず、せいぜいその艦尾を目視できる程度であったが、それでもその巨大な機影の機種は容易に判断できた。
「やはりトゥラーヤ級か…。下方に艦載機を発進させるための、フックがあるはずだ。空母とは言え対空銃座及び砲台は強力だが、フックのある下部は火力が薄くなる。ヘボン君、正面の雲へ突っ込め、隙を見てフックを抑える」
「しかし、中佐殿…護衛機が見当たりませんが…」
「なに構うことはない。護衛機達はミュラー達が引き受けてくれる。私達は空母のみに集中していればいい」
そう何も問題はないとでも言いたいような調子で、ヘボンを宥めながら、彼女は正面に大きく広がる雲へ目を凝らしている。
その脇へ目をやれば、指示通りに雲の端から覗いている空母の艦尾へ張り付こうとグレイソンのバルソナが、あの戦闘機独特の歪なエンジン音を立てながら大きく旋回し、突進しており、その背後からミュラーとフレッドのマコラガが続いている。
機体の後方から飛行機雲が浮かび、青空に対し鮮やかな絵筆で描かれたような光景を眺めながら、敵空母の周囲に護衛機が確認できないことにヘボンは不安を募らせたが、既に戦闘の歯車は止まりそうにない。
そして、その歯車が一気に回転を始めたかのように、雲の向こうで散発的に銃声が鳴り響き始め、すかさず通信が入ってくる。
それはミュラーの声であるが、随分と切迫した色がある
「ミュラーから中佐へ…回り込んだ辺りでパノラマノラと会敵!雲の影に隠れてやがった!グレイソンは抜けて、トゥラーヤに切り込みました!」
「夜鳥はどうした?」
「まだ視認できませんが、ハッチが開き始めてやがる!それと、もう一機いるはずのパノラマノラは視認できず!」
「了解、フレッド機と共に引き付けろ。こちらは雲に入る」
通信を一旦終えると、中佐は足元のヘボンを見やりながら、ミュラーと同じように切迫した声で叫び立てる
「一旦、夜鳥を収容しているらしい。ヘボン君。一刻の猶予もならない…全速で雲を抜けるぞ」
それを聞きながら操縦桿を強く引き、コアテラは巨大な雲の中へと吸い込まれるように入っていく。中佐に指示されるまでもなく照明は既に消しておいた。
雲の中は一寸先も正確に視認することはできないが、それでも銃座へ立つ中佐は必死に目を凝らしながら雲の先を睨みつけ、機体へ体を押し付けて、押し寄せる強風を耐え忍んでいる。
その間にも矢継ぎ早にミュラー機からの通信が耳に入っており、彼女は受信機を耳に強く押し付けている。
「敵機炎上を確認!雲の中へ逃げ込みやがった!要警戒されたし!」
「了解した。ヘボン君、上昇しろ。ただし、まだ雲から出るな、炎上しているのなら、ガスに引火して爆発するはずだ。巻き込まれるな」
その指示に応えると、直様操縦桿を引き上げてコアテラを上昇させる。
昨晩にユーフーとやりあった際の動きと同じであるが、一度輸送艦で補給作業をした甲斐もあってか、コアテラは素直にその生体エンジンを唸らせて浮き上がる。すると、いきなり彼女は雲の中に何かを見て取ったか、これもまた補充を済ませてある38連機銃へ素早くしがみつくと、こちらに対して何も言わないまま掃射を開始した。
途端にヘボンの耳に騒がしい銃声が鳴り響き、その音に対して強い興奮と緊張を感じながら、彼は操縦桿に縋るように身を屈める。
その屈めた視線の先に映ったのは掃射される曳光弾の光が薄暗い雲の中で、激しく妖しく輝きながら放射状を描いて飛んでゆき、何かに命中したような炸裂光であった。
そして、それを見てとった瞬間に再び大きい光が広がり、雲の中にて全体に稲妻が走ったかのような閃光が広がる。
その閃光の元が何であるかどうかということは、すかさず掃射を終えた中佐が通信機へ叫ぶ声で分かった。
「…ラーバから、各機。敵パノラマノラ一機に掃射を加え、撃墜を確認した。先程に視認できなかった奴だろう。雲の中に潜んでいたようだ。時期に雲を抜ける、状況を報告せよ」
「ミュラーから中佐へ、トゥラーヤ級の両舷下部が完全に開き切るのを視認!直ぐに夜鳥共が巣立っちまいます!グレイソンの奴はまだ頑張ってますが、フレッド機は機尾に損傷、戦闘継続は困難ですぜ」
彼女の声の後から聞こえてきたミュラーの声からは悲痛なものがあり、その言葉の内には直ぐにでも撤退行動に移りたいとの色が垣間見えるが、彼女はそれを意にも留めずに返事をする。
「各機。こちらはまもなく雲より出る。対空砲火を上部へ集中させろ。その隙に下方より接近し、艦載機を抑える。それまで持ちこたえろ」
力強い声で通信機越しに彼女は激励を浴びせながら、不意に自身の腰に備えてあった将校用のホルスターから自動拳銃を引き抜くと、慣れた手つきで弾倉を引き抜き残弾の確認を始めた。
そのさまを脇目に見ていたヘボンは少し疑問を顔に浮かべると、それを見てとってか彼女は意味ありげな笑みを彼に返してくる。
「何をしているのですか?中佐殿?」
「見てわからないかい?白兵戦の用意さ。移乗攻撃が連邦だけの、お家芸だけでないことを教育してやる」
まるで休日の遠出を楽しみにしている子供の様な調子で、彼女は弾倉の確認を終えると腰のホルスターへ自動拳銃を差し戻した。
その一連の動きを見て、今更ヘボンが彼女に対してどうこう言う気力など湧かなかったが、唯一聞いておきたかった事は己も共に白兵戦を行わなければならないのかということだけであった。
雲を抜けた際には、既にミュラーの戦況報告は必要なかった。
目を走らせれば、どれほどの惨状であるかすぐにわかる。
明るく陽光に照らされる雲の傍を飛行する巨大なトゥラーヤ級は、上方を飛び交う2機のマコラガとバルソナに対して、激しい対空射撃を加えているが、一向にその成果を挙げられそうになかった。
だが、フレッド機は機尾に損傷を受けながらも、なんとか浮遊しているといった具合で雲の中へ退避しようとしているところであった。
生体器官から銃槍より溢れる血が、どこまでも痛々しい。
「正面だけを見ろ、ヘボン君。このまま下降して開放されている両舷へ接近する」
「…接近してからは?」
「敵艦内へ進入し着陸せよ。丁度開ききった両舷が、コアテラが割り込むのにちょうど良さそうだしね…」
既に彼女の独り言にも似た指示に対して、目をひん剥いて何か口をパクパクとさせているヘボンの様子すら見ずに、中佐はただ正面だけを見据え、こちらへ向き始めた曳光弾の嵐の中を突き進むのみであった。
その嵐の中を必死で掻い潜りながら、徐々にトゥラーヤ級へ接近していき、その巨体がまざまざとヘボンの瞳に映る。
雲から抜け出た場所が敵空母の下方になっていた事が幸いし、上方で対空砲火を掻い潜っている味方ほどの苦労はなかった。
だが、中佐の言う一人で、もしくは二人で移乗攻撃など聞いたこともない。
しかし、この中佐なら己で言ったことは何があろうと実行したがる類の人間であるということは、基地から強引に連れられた際から強く感じていたことであり、今更彼女を止められる訳もなかった。
そう思案している内に、コアテラはトゥラーヤ級の下部へと接近していた。
中佐の言うとおり、無謀とも言えるような形でT字型のコアテラを両脇に広がった両舷の隙間へ滑り込ませていく。
それと同時に強い衝撃が機体とヘボンを襲い、彼は体を必死に衝撃に耐えようと座席に沈み込ませたが、それでも尚、彼女は平然とした面持ちで銃座にて堂々と立っていた。
既に、ヘボンの目には開ききった両舷の奥にて発艦作業を行っている敵兵士達の姿が目視できたし、その兵士達の狼狽ぶりもよくわかった。
正面に見える開ききった両舷の先にある、艦載機に指示を飛ばすためにあるのであろう指揮所からも慌てふためく士官達の姿が見える。
「よし。上手くいったな…。君は、指揮所側面の対空銃座を破壊しろ。全弾…撃ち尽くせ」
満足げに微笑む中佐がそう呟いた瞬間、彼女は勢いよく搭載された38連機銃の引き金を引き込んだ。目標は艦載機及び、艦内にて発艦作業を行っている敵兵士。
動く者は全て撃てとの事のようだ。
途端にヘボンの目の前に地獄絵図が広がる。
元々、対地用の弾薬を用いる重機関銃を、人間に対して使用するのだ。
命中した者がどうなるかなど、ヘボンもよく知っている。
耳に轟く爆音と、視界に刻み込まれる曳光弾の輝きが、凄惨たるこの場を残酷に彩る。
そんな光景を半ば現実離れしたような感覚に陥りながらも、彼女に指示されたとおり、慌てふためく指揮所側面に備え付けられた銃座へ、噴進砲の照準を素早く合わせた。
不安定な飛行時と比べ、今は皮肉にも敵の両舷に支えられた形で固定されているような状況のコアテラならば、狙いは付けやすかった。
既に激しい銃声の中で、射撃を加え続けている彼女へ砲撃する旨を叫ぶのも無駄であろうと、ヘボンは慣れた手つきで噴進砲の安全装置を外し、ようやく己の職務を思い出したのか、押取り刀に銃身をこちらへ向け始めた銃座へ照準する。
そして、すかさず発射桿を躊躇いなく強く引いた。
曳光弾に彩られる下を噴進砲から放たれる黒煙が合わさっていく。
それに合わせて轟音と銃声と悲鳴と何かが千切れる音が重なり、正面の銃座が弾け飛ぶ様がヘボンの目に有りありと浮かび上がり、銃座横の指揮所からも誘爆したか、いくつかの窓が派手な爆炎を噴出し共に弾けた。
その様子を眺めながら、咄嗟に自身の上で機銃を撃ち続けている中佐へ目が行くと、彼女は雲の中で見せた面持ちで銃火の先を見据えていた。決して目を逸らすことはなかった。
しかし、視線を中佐へ向けていた際に何か強い衝撃を感じた。
それは彼女も同じく感じたらしく、素早く視線を周囲に這わすと、異変を確認したか、こちらへ怒鳴り込んでくる。
「…左舷生体器官に被弾した!出血してるぞ!下の銃座はもういい、応急処置でいいから上がれ!援護する!」
そう言うやいなや、阿呆の様に口を開けていたヘボンの肩を掴むと、無理矢理に彼女は彼を銃座脇の生体器官上部へと押し上げると、機銃での掃射を再開した。女性にいとも容易く持ち上げられるほどヘボンの痩せぎすさは深刻なものがあったが、今はその軽い体へ必死に力を込めて、強風が吹きつける左舷上部へと乗り移り、押し上げられた際に掴まされた応急処置用の鎮静剤を握り締め、被弾箇所へ這い寄って行く。
「落ち着け!軽傷だ!」
そう言葉も通じない訳であるが、ヘボンは必死にコアテラを宥めすかしつつ銃槍箇所を見つけると、そこへ鎮静剤注射と止血用の資材を宛行う。
まだ、敵の使用した銃弾が小口径の物であったのが助かった。
軽機関銃辺りの弾を喰らえば、その激しく肉を抉る威力に臓腑を撒き散らしていたところであろう。
「大丈夫だ。すぐに良くなる…すぐに…」
そうまるで呪文の様にヘボンは繰り返しながら、応急処置を続けるが、その際においても自身の耳には空気を裂く流れ弾の音が伝わって来る。
全く恐ろしい状況に、肝っ玉が冷えるのを感じたが、なんとしてもコアテラの応急処置を終えねば帰ることも敵わない。ただ、そう考えると今更自分は一体何処に帰れるのだろうかと、ヘボンは場に似つかわしくない自嘲的な笑みを浮かべた。
「中佐!済みまし…」
なんとか一時的ではあるが、応急処置を終えたヘボンが叫ぼうとすると、コアテラの銃槍箇所へ向けていた視界の隅に誰かの爪先が写りこんだ。
一瞬誰であろうと間抜けにもヘボンが顔を上げようとした瞬間、強い衝撃が彼の顔面を襲い、そのまま大きくコアテラの左舷を転がり、その際にようやく現実離れしていた意識は鋭く現実へ引き戻され、我ながら誰であろうなどと疑問に思うとは馬鹿げていると即座に思った。
ここには中佐と己以外、敵しかいないのだ。
面を上げた時に真っ先に目に映ったのは、自身へ真っ直ぐに向けられた銃口と、それを構える連邦の制服をしっかりと着込んだ、まだヘボンよりも若そうな青年兵士であった。
どうやら、中佐が機銃掃射をしている際に隙を見て、機体の背後へ迂回し登ってきたらしい。
一体、どうしてその様な蛮勇をすることになったかは見当もつかないが、こちらとしても他人のことはとやかく言えなかった。
そして、その勇敢な兵士は若く力に満ちた顔を憎悪に歪めながら、ヘボンを見下ろしていた。
不意に中佐はどうなったかとヘボンが視線を素早く横の銃座へ向けると、コアテラの銃座に寄りかかって、力無くうつ伏せになっている彼女の姿が見えた。
「貴様ッ!!」
その姿を見た途端に、兵士と比べれば貧弱そのものであるヘボンの肉体に闘志の様なモノが沸き立ち、気付けば蹲った姿勢のままに兵士が向けてきていた銃へ掴みかかっていた。
怒号と叫び声を上げながら、銃口を己に向けられぬように取っ組み合いとなる。
だが、所詮は力に組み伏せられ、最初の勢いは何処かに消え失せ、取っ組み合いの数秒後には再びコアテラの左舷上部に叩き伏せられてしまった。
そして、再び向けられた銃口は威嚇ではなく、正確にヘボンの脇腹を銃声と共に撃ち抜いた。撃たれた衝撃に軽い身体が吹き飛ばされ、ヘボンの体は左舷の端にまで転がり、滑った体が機体から転がり落ちようとしている。
凄まじい興奮作用により、まだ痛覚が鈍っており激痛とまでは感じていないが、それでも撃たれた実感からか想像絶する痛みに、ヘボンは絶叫しながら、咄嗟に左舷端に薄らと開けてある排熱孔へ細い指をなんとか滑り込ませ落ちまいと必死に指に力を込めるが、その間にこちらへトドメを刺そうと、銃をもう一度構え直した兵士の姿が見えた。
ヘボンの顔からサッと血の気が失せていく。
此処まで出鱈目な出来事に巻き込まれながらも、生きようと抗ったというのに、ここでこの上空から撃ち落とされるのかと思うと、恐怖と絶望で指から力が抜けていくのを感じた。
だが、終わりではなかった。
あまりの恐怖に目を閉じようとしたが、その時にこちらへ銃を向ける兵士の背後に誰か立っているのが見えた。
一瞬またコアテラを登ってきた敵かと思ったが、その者が着込んでいる衣服は己と同じ、朱色に染まる帝国飛行服である。
「中佐っ!」
思わず視線をずらしながら叫び声を上げたヘボンに、背後の異常を感じ取った兵士はすかさず振り向いたが、己のすぐ目の前に自動拳銃を手にして立っている彼女に対して、驚愕の声を上げて彼は一瞬立ち尽くしてしまった。
そして、その隙を彼女が見逃すはずもなく、手にした自動拳銃で素早くその驚愕している面へ、鉛玉を数発見舞ってやる様がヘボンの目に強く焼き付いた。
「…危なかったな。ヘボン君。奴に強かに殴られてしまってね…連邦の中にも骨がある奴がいるようだ。うん、感心したよ」
そう彼女は何事も無かったかのように平然と頷きながら、ヘボンを軽々と引き上げ、その感心した相手である青年兵士の亡骸を左舷から勢いよく蹴落とした。 既に彼の顔は親でも判別のつかないほどに無残なものとなっていたが、それでも上空から落下していく内に、その顔が恐怖と断末魔に歪んでいくように、反対に引き上げられていくヘボンには見えた。
「…なんだ?負傷したのか?ヘボン君」
左舷上部へ引き上げられていくうちにも、二人を狙う銃弾が空を切る音を何度か聞いたが、最早そんなこと二人共意に返していなかったし、中佐に至っては声音の調子も先程と全く変わらなかった。
「まぁいい。君は銃座に座っていろ、既に機銃は撃ち尽くしてしまった。艦載機は既に破壊した…後は飛び去るだけだ」
彼女はヘボンを先程まで自分が立っていた銃座へ下ろすと、素早く操縦席へ潜り込んでいく。
銃座に座らされたヘボンは薄らと開いた目で、ぼんやりと周囲へ目を向けた。
あれだけ無茶苦茶に機銃を撃ちまくっただけに、コアテラに搭載されている38連機銃の銃口からは煙が激しく立っており、銃身が熱暴走してしまっていることがわかる。
おまけに先程の被弾した自身の腹部から流れる血と、機体左舷から伝ってくる生体器官の血液が混ざり合い異臭が彼の鼻を突く。
そして、少し先へ目を向けると、この異臭が素晴らしき花の匂いであると錯覚させるほどに、無残な艦内の様子が垣間見え、ヘボンはそれをこれ以上見たくないと上半身を深く倒して、その身を機体へ預けた。
徐々に意識が薄れてくる。
きっと、腹部から血を流し過ぎたのであろう。
そんな風に霞がかった意識の中で、体が浮くような感覚を覚え始めた。
どうやら、機体が挟まっていた空母両舷から離れ出したらしく、力無く視線を上にやると炎上を始めている空母の姿が確認できた。
これは浮いているといるより、降下していると言ったほうが良さそうだ。
確かに下手に上昇して苦し紛れの対空砲火を味わうよりか、こちらのほうが賢明であろう。
先程からしきりに中佐のものと思われる声が聞こえてくるが、何を言っているのかまではよくわからない。
耳までおかしくなってしまったかとヘボンは、手を耳に当てて、気付かぬうちに千切れ飛んでしまったのではないかと錯覚したが、幸い耳はあった。
だが、最もそれを確認した腕は、自身の血で真っ赤に染まっていたが...
何やら中佐が撃沈だの、大戦果だのと叫んでいる姿が目に入るが、ヘボンはそれを力無く目に映す事が精一杯で、徐々にその視界すら暗くなり始めている。 そして、視界が暗転する最後に目に映ったのは、こちらの顔を覗き込み、必死に何かを叫び立てる彼女の顔であった。