操舵手ヘボンの受難#5 『愚者の空』
なんとかして編隊飛行の態勢を整えた際には、周囲の空は暗黒に包まれつつあった。
先ほどに中佐から何度も指示を受けていた左舷を飛行するロイス少尉のコアテラも、ようやくコツを掴めてきたのか上昇機動が正常に働き始めている。
その様子を眺めながらヘボンは、彼は艦の操縦に慣れていない口だと思った。
艦の操舵という物は何かと鈍重なものであり、先を読んで操舵するのが基本であるが、彼の動きを見るに何かと直接的に動かそうとする意志が見られる。
大方、元々戦闘機乗りの口なのだろう。
「奴め、ようやく慣れてきたな」
その彼の動きをずっと眺めては指示を飛ばしていた中佐も、さも苦労したというような溜息をついている。
「ロイス少尉殿はコアテラに乗られて、長い方なのでありますか?」
「いや、奴は以前、グランミトラに…つまり戦闘機乗りだ。この部隊に回されてしまっては、まともな戦闘機など大尉のバルソナ一機しかなかったからね」
ヘボンの質問に対して、彼女は気疲れしたような調子で答えながら、また溜息を一つ吐くと言葉を紡ぐ。
「そのバルソナもあの青二才が駄目にしてしまったから、我々には機動性に劣る機体しかない。しかも、アイツ自体保身派の回し者だから、戦力として考えたくもないがね」
そう憎々しげに吐き捨てながら、彼女は機体右舷へ視線を流す。
そこにはニベニア准尉のコアテラが飛行している。
彼はそれなりにコアテラの操舵に精通しているのか、指示や注意を散々受けたロイス少尉と対照的に、何も問題なく飛行していた。
「准尉殿の操舵は問題無さそうでありますね」
「彼は元から、旧式艦には精通している口だ。以前は最前線の任務に就いていた。今回の件で一族の伝を頼んで、こちらへ移ってもらったわけさ」
「ベテランと言うわけでありますか?」
「そういうことだ…あの青二才とは天地の差だ」
「しかし、大尉の技量も十二分なものであると私は思いますが?現に戦闘の際も敵機の対空掃射を引き受けてくれた訳でありますし…」
少し誇らしげに准尉の機体を眺める中佐に対して、ヘボンは少々疑問に思った事を口にした。
だが、彼の言葉を聞いた途端に、彼女の調子が苦々しいものに変わるのをヘボンは感じた。不味い事を口にしてしまったかと後悔する前に、彼女は少々語気を荒くしてヘボンへ噛みついていた。
「いやに奴の肩を持つじゃないか、ヘボン君」
「いっ…いえ、私は事実をありのままに…」
「事実か…なるほど。確かに奴の腕は認めざるを得ないな。だが、幾ら技量があったとしても奴は狗だ!保身派共の狗にすぎないんだ!帝国の危機から目を逸らし、己の身しか考えていない。そうさ、奴などあの時に撃墜されていれば良かったんだ!」
彼女はまるでヘボンが、大尉本人であるかのように、もう少し操縦席と銃座の位置が近ければ、彼を蹴りつけてでもしまうかのような剣幕である。
「保身派のくそったれめ!腐敗の元凶共め!」
そう彼女は口汚く叫んだ挙げ句に、ようやく冷静さを取り戻したか、一つ大きな溜息を吐いて、ヘボンに当たり散らしたことを小さく謝罪した。
まさか、今まで冷静そのものであった彼女が、こうも取り乱すとはヘボンは思っていなかった。
この任務に無理矢理に駆り出されて以来、彼女は常に冷静であった。
夜鳥に追われている際も、空母の腹へ飛び込んだ時さえも落ち着き払っていた筈だ。
そう思うと、ヘボンも随分と慣れ慣れしくなったと思いながらも、ついまた疑問を口にしてしまう。
「…中佐殿は大尉殿と何かあったのでありますか?」
そう聞くと、彼女は不意に面を食らったかのように息をのんで、暫く悩み込むような小さい唸り声を発したが、どこか諦めたような調子で口を開いた。
その言葉にはどこか悩みを打ち明ける、苦悩者の色があった。
「…奴とは士官学校での同期なんだ」
一度そう吐き出すと、彼女は止まらなかった。
周囲では依然として二機のコアテラが飛行をしており、訓練中であるのだが、まだ周囲の暗闇は試作兵装を使用するに耐える環境ではないらしく、幾らか時間に余裕があるらしかった。
「元々、奴は帝民出であったが、当時は魅力的に思えたものだよ。あくまで当時だけだけれども」
「…何故、帝民出の大尉が、貴族達の旅団に所属しているのでありますか?」
「あぁ、それは奴が…貴族女とくっついたからさ。我が一族より幾らか位の高い貴族にね。一世紀前の貴族社会なら露知らず…今時の貴族への仲間入りは意外と容易なわけさ」
「…振られた訳でありますか?」
「っ!?違う!断じて…違う」
ヘボンの言葉に対し、彼女は腰に備えた拳銃へ手を掛けたが、すぐさま諦めた様な調子で手を逸らした。
「…私が幾ら君を戦友と認めたとしても、言ってはならないことがあるのではないか?ヘボン君」
「失礼しました。中佐殿…ただ純粋な好奇心であります」
「全く…君は、生意気なクルカのような奴だな」
彼女が拳銃に手を掛けた様を見て、あわてて首を竦めるヘボンの様子を見ると、彼女は微笑を浮かべた。
幾らか話すと彼女も大分落ち着いてきたらしく、周囲が漆黒の暗闇へ包まれた際には、普段の通り冷静な彼女が戻ってきていた。
「さぁ、無駄話は終わりにしよう。周囲の具合も良好だ。これなら虫を使えそうだ」
一度、手から離していた通信機を手に取ると、彼女は冷静そのものに友軍機へ指示を飛ばし始めた。
「ラーバから各機へ、編隊飛行はその調子でいい。これより試作兵装の慣熟演習に入る。目標は…」
しかし、彼女がそう言い掛けた際に、強引に通信に割り込んでくる声が響いた。
「警報!各機へ、三時方向に機影を見とむ。機種不明!警戒されたし!」
独特の濁声からして、コアテラの周囲を護衛飛行している曹長のものであろう。
不意に耳に響いた声に少々狼狽する彼女が、慌てて首を横へと向ける様をヘボンは見た。
機影は自分らよりまだ遠方に見えるが、視認が遅れてしまったのは周囲の暗さのせいと、少々無駄話に興じていたせいであろう。
二つの月でさえ今は雲に隠されており、周囲は機体の照明灯の明かりすらなく、朧気な己等の機影を頼りに一定の間隔を保って飛行している次第であった。
「ミュラー。識別信号は?」
「ありません。こちらへ突っ込んできますぜ」
途端に慌ただしくなった通信が、ヘボンの耳に飛び込んでくる。
「ラーバから各機へ、正面を三時方向へ向けろ。場合によっては戦闘に入るぞ、警戒しろ」
「中佐殿!ここは、我が軍の領空内ではないでありますか?戦線からは離れている筈では…?」
「それは勿論だが、何分、この戦況だ。迷い鳥かもしれないが…十中八九、保身派共の…」
そんな慌ただしい通信が僚機から繋がる中においても、遠方に見えた機影は徐々に朧気ながらも、まっすぐにこちらへ接近してくる。
まだ遠方であるというのに、妙な生体エンジン音が聞こえてくる。それはバルソナやマコラガの様な特徴的なものとは随分と違っていた。
そして、機影がどのような形であるかは、周囲の暗さから鮮明な形は確認できそうになかった。
「…スカイバードということは?」
「馬鹿を言うな。あの生体音が聞こえないのか?間違いなく我が軍の機体だ」
「ロイスから中佐へ、接近して確認します」
「やめるんだ!ロイス!」
通信内容から察するに、左舷を飛行していた少尉のコアテラが急に編隊を乱して、接近してくる機影を確認しようと動き始めた。
接近してくる機影はまだ薄暗い空の遠方に確認できるが、それは先程よりその姿を大きくしている。
すかさず彼女が止めにはいるが、間に合いそうにない。
「大丈夫です、中佐!あの生体音は聞いたことがあります。聞き間違う訳がありませんよ。あれは間違いなく私の…」
そう彼は語気を強くする彼女に対して、どことなく誇らしげな声で応対するような調子で通信を寄越したが、その声は突然の銃声にかき消された。
ロイス少尉が友軍機であると認識した機体に、機銃掃射を受けたのだ。
機影の機首から吐き出された鮮やかな弾幕は、一瞬の内にロイス機を激しくなで上げると、暗黒の中においてコアテラの両舷より、一瞬の間を置いて生体器官の内臓物と、兵装の何処かに被弾したか火炎が噴き上がる。
それに伴い機影の形も浮かび上がり、そこから機種が判別される。
機体正面に備え付けられた特徴的な幾多もの穴の数々から、弾幕を吐き出している様から、すぐに機種名は判別できた。
「グランミトラ?!」
機種名を叫びながら、中佐は通信機を離さずにグッと口へ近づけ、叫んでいる。
「保身派共のクソッタレめ!ありゃぁロイスの機体だ!紋章までそのままにしてやがる…」
その傍らに少尉の後を慌てて追って、グランミトラの機銃掃射を見て取ると、すかさず態勢を整えるために反転姿勢を取ったマコラガから曹長の通信が入ってくる。
「間違いないか?ミュラー?」
「確かにこの目で見ました!」
中佐が彼へ確認をすると、彼女は歯軋りを立てながら敵機を睨みつける。
元戦闘機乗りであったロイス少尉が、長らく乗ること叶わなかった愛機と確認した時、一体どれ程の高揚感に見舞われたであろうか。
そして、その愛機に掃射を受けた際には何処までの絶望を味わっただろうか。
その様な事を瞬間的に脳裏へ過ぎらせる彼女は、闇夜に再び紛れる敵機に対し、怒りを露わにしながら通信機を強く握り締めた。
「…奴は私達だけで仕留める。ミュラー、ニベニアを護衛しつつ前線基地へ撤退しろ」
「しかし、中佐!幾らなんでも無茶ですぜ。俺が…」
突然に指示を飛ばし始める彼女の言葉に、曹長が思わず反論を口にしようとしたが、それを強引に跳ね除けながら彼女は矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「話を聞け!保身派共の刺客がグランミトラ一機の訳がないだろう?間違いなく、奴は斥候だ。即ち後続の部隊が来る筈だ。早急に物資を纏めて脱出の準備を整えろ。それから、兄上に連絡だ。暗号でいい、どうせ盗聴されているだろうが…」
「…了解。連絡はなんと?」
「『クルカの餌が足りなくなった』それだけでいい」
彼女が通信を終えると、曹長と准尉は直様機体を反転させて、我々が飛び立った前線基地の方へ飛び去っていく。
それを操縦席から眺めるヘボンは、彼女の蛮勇がまた始まってしまったと口には出さないものの、体は慄きを露わにしていた。
全く以て、彼女の狂人ぶりには呆れかえる物があるが、それにここまで追従させられてしまっている己も同類であろうかと、彼はここに来て慄きを露にしている体を、自嘲気味に笑うことによってなんとか震えを押さえ込もうとした。
そして、その行為が伝染したかどうかは不明であるが、ふと視線を銃座の彼女へ走らせると、ちょうど彼女もヘボンを見下ろしているところであった
「さて、ヘボン君。改めて演習の続きといこうか?なに、目標が少し抵抗して動くだけだ。こっちの方がやり甲斐があっていいだろう?」
少々愉快そうに言いのける彼女を見上げると、自嘲気味な笑いは何処かへ消え去っていた。
こちらへ接近してくるグランミトラは、闇夜にその姿を隠しつつも、炎上しながら堕ちていく少尉のコアテラの発する凄まじい光に照らされている。
それを中佐は銃座より目を細めて睨みつけながら、通信機を耳に押し当て手元は送信機の調整に躍起になっていた。
「中佐、マーカーを…」
「まだ、あの距離では駄目だ。もっと引き付けなければ…それに確認しておきたい事もあるしね」
焦燥を顔にありありと浮かべながら問いかけるヘボンに対して、彼女はただ接近してくる敵機にだけ視線を注いでいた。
その表情には何かを待ち焦がれているような色があることを、ヘボンは感じ取り始めた。
「一体何を確認するのでありますか?」
「…あのグランミトラのパイロットの事さ。わざわざロイス少尉の持ち物であった機体まで持ち出して、夜襲を掛けてくるような奴…まぁ、一人しか思い浮かばないけどね」
そう答えながら、中佐は特にヘボンに回避指示すらも出さない。
彼にとっては敵機の搭乗者が誰であろうと、どうでもいいことなのであるが、彼女にとってはそれがあまりに重要なことであるらしい。
現に敵機との距離が恐ろしく縮まってきた今となっても、彼女は何かしらの操舵指示をヘボンに与えることはなかった。
その間に闇夜であってもその機影が鮮明に視認できる程まで、敵機は接近してくる。
これではただ死を待っているだけだと、彼は叫びたくて仕方なかったが、彼女に声をかけて機嫌を損ねれば、敵機の機銃掃射よりも先に彼女の拳銃の方がヘボンに向けて発砲されそうであったので、彼は必死に口を噤んでいた。
そして、彼が大人しく恐怖を押さえ込んで黙っていたのが幸いしたか、彼女は通信機越しに静かに問いかけ始めた
「…聞こえるか、グレイソン大尉?私だ、ラーバだ。まさか、ロイスの機体を受領してくるとはね。あれは本部の命令か?それとも、君自身の意思か?どうせ、撃ち落とすつもりなら、冥土の土産に答えて欲しいが?」
そう矢継ぎ早に問いかける彼女に対し、向かってくるグランミトラは唸り声を上げながら、既に機銃の有効射程へ侵入しているというのに、敵機はあえて攻撃を加えずにコアテラの脇を通り過ぎた。
「中佐、大尉殿が何故?!」
彼女の問いに、額に滲む脂汗を拭くこともできずに、激しく狼狽した調子でヘボンが銃座にいる彼女を見上げ叫んだ。しかし、彼女はその問いに答えることもなく、脇をすり抜けながら旋回している敵機を睨みつけたままである。
「答えろ!グレイソン!それともなにか、それが貴様のやり方か?!」
彼女は通信機へ怒声を浴びせながら、小銃を強く握り締めた。
そして、暫くの間奇妙な沈黙が流れた。
敵機は旋回しながら、機首を再びこちらへ向けたのだが、以前として掃射は行わずに、しかも速度を下げながらゆっくりと接近してくる。
搭乗席より、その様子を見つめるヘボンにとって、その光景はまるで死刑執行を待つ囚人の様な気分であり、今まさに己の首へ死に神の鎌が当たっているような、状況である。
必死の彼女の呼びかけに対して、敵機は無為にコアテラの周囲を飛び続けたが、やがて諦めたかのように、敵機のパイロットからと思わしき声が二人の耳へ響いてきた。
それは若い男の声であり、その調子は彼女と同じように悲痛な色があった。
「…ラーバ中佐。いや、ツェツェ。勝負はついた。降伏してくれ」
悲痛なその声はどうも馴れ馴れしい色を含めながら、彼女へ呼びかけている。
ヘボンはその言葉を受け取った彼女を、思わず搭乗席より見上げたが、彼女の顔には様々な感情が入り交じったような色が浮かんでいる。
「…これ以上抵抗しても無駄だよ。既に君たちの反乱行為には調べがついている、時期に本部より鎮圧部隊が送られる事になっているんだ。今、投降すれば君の命までは…」
「黙れ!狗がっ…」
通信機より響く、グレイソン大尉と思わしき声に対して、彼女は怒声を持って答えた。
そのやりとりを聞きながら、ヘボンはすぐさま彼女へ彼の言うとおり投降を勧めたいところであったが、今までの彼女の気性から鑑みるに、下手に促せばすぐこの場にて銃殺されてしまいそうに思えたので、それはやめることにした。
その間に、彼女は一層激しく通信機越しに彼へ噛みついている。
「魂まで、腐った保身派共に売り渡したようだな。見損なったぞ」
「…君に見損なわれようと、僕には関係のない話だ。ツェツェ。今更、皇帝へ忠誠を示してなんになるんだ?…何も無いじゃないか。代わりに多大な犠牲ばかり僕たちは払い続けたじゃないか。もう、これ以上…」
「その為に、国を見捨てるのか?御託はいい加減にしてほしいな」
「…わかった。正直に言う。上層部は君の人望と人脈を必要としているんだ。何しろ、皇帝派連中の急先鋒である君をこちらへ向かい入れられれば、旅団をより強力にすることができる」
大尉の言葉に対して、彼女は暫く通信機越しに苦々しい表情を浮かべていた。
大尉と彼女の関係が以前に士官学校において同期とはいえ、どの程度のものであるかは、ヘボンの皆目検討も付かない領域ではあるが、彼女の沈痛な表情こそがそれを物語っているように思える。
「…グレイソン。奥方は元気か?」
暫しの沈黙の後で、彼女の口から飛び出た言葉は意外なものであった。
「…あぁ。帝都で、子供と居る」
その言葉に対し、大尉は幾らか面を食らったように、少々上擦った声を上げたが、彼の言葉を聞くと、彼女は満足げなため息を吐いて、言葉を紡いだ。
「そうか…。君の戦死報告がちゃんと届くといいな」
既にそれ以上の言葉はいらなかった。
彼女のその言葉こそ、降伏勧告に対して、拒否の表れであり、そして、抵抗の意志を示すものであった。
通信機越しに彼の舌打ちが聞こえたように思えた瞬間、幾らか距離を置いて、遠方で旋回を続けていた、グランミトラが機首をこちらへ向け始めていた。
「ヘボン君。いつでも発射できるな?」
「はい。マーキングさえできれば…」
「よろしい…奴がこちらへ掃射を加えるギリギリの時まで引き寄せるぞ。私の合図と共に機体を下降させたまえ、そこに照明弾を打ち込む。そうしたら、発射しろ」
彼女は早口にそうヘボンに告げると、銃座にて手摺に小銃を固定させ、迫ってくるグランミトラへ照準し始めた。
そんな彼女の表情には、憂いも憎しみもなく、ただただ、落ち着き払っていた。
まるで、全てが吹っ切れたかのような調子である。
しかし、彼女の表情とは対照的に、ヘボンは狼狽を隠すことができないでいる。
これは、あくまで死に逝く者の最後の悪足掻きと言ってもいい行動であった。
グランミトラの機銃掃射を回避できるような、運動性能などコアテラは本来持ち合わせてなどいない。
元々、戦闘機とやり合うための艦などでは断じてないわけである。
今までが幸運の連続であっただけで、今回ばかりは巧くいくような気配が全く感じられなかった。
「中佐殿…」
そう弱々しく、ヘボンは彼女へ声を掛けるが、返答が返ってくることはなかった。
そして、その間にもグランミトラは正面より突進してくる。
今度はコアテラの脇をすり抜ける代わりに、あの機首に備えられた無数の銃口から地獄の火炎を吐き出すことであろう。
「中佐殿っ…」
しかし、それでもヘボンはもう一度彼女へ声を掛けた。
何か喋っていなければ、気が狂ってしまいそうだった。
眼前のグランミトラは、より一層その距離を縮めてくる。速度の点についてはコアテラとさほど変わらない為、マコラガのような物と比べれば、遅く感じられる。
だが、それだからこそ、恐怖が長引くものであった。
「中佐殿っ!」
そして、三度目にヘボンが彼女へ悲鳴にも似た声を出したところで、ようやく彼女はヘボンに対して怒号を上げた。
「下げろっ!!」
その声に対して、ヘボンは自暴自棄になったかのように、機体を下降させようと操縦桿を一気に押し込んだ。
急下降を行うために、体に浮遊するような感覚が襲い。
眼前には、グランミトラから放たれる曳航弾の群が見えるような気がした。
だが、その曳航弾の群は機体から上部へ大きく逸れる様がヘボンには確かに見ることができた。
果たして何故回避できたのかは、ヘボンの技術がよかったのか、大尉が威嚇射撃を加えようとしたのかはわからない。だが、とにかくコアテラは無傷の形で急激な下降を行えたことだけは事実であった。
そして、続けて曳航弾の群を櫂潜るかのように、一筋の猛烈な光を放つ照明弾が射出される様が見えた。
それを見て取ると、ヘボンもすかさず、夜虫弾を発射しようと別の桿を引ききった。
即座にコアテラ両舷下部に備えてあった筒が開き、中から何か黒い無数の物体が飛び出すのを見た。
その黒い物体達はすぐさま曳航弾よりも強力な光を放つ、照明弾へ追従したかと思うと、照明弾よりも激しい閃光を放ちながら、物体のそれぞれが小規模の爆発を繰り返すのである。
その光景はあまりにも幻想的であり、一瞬ヘボンはその光景に口を唖然と空けて見つめていたが、その光景は幻想的なものから凄惨なものへとすぐに変わった。闇夜を斬り裂くかのように飛ぶ照明弾は、グランミトラがコアテラの上方をすり抜けようとした際に、その機体下部に命中し、それに続いた無数の爆発を繰り返す群がグランミトラへ突っ込んでいく。
一溜まりもないだろう。
機体下部より激しい爆発と炎上を広げながら、大尉のグランミトラは断末魔のもがきを繰り返しながら、コアテラの後方へ飛び去りながらも、徐々にその高度を下げ始めた。
時期にコクピットにも火の手が回る。
脱出など出来よう筈もないだろう。
「…燃えろ」
その光景を銃座より冷たく見据えながら、彼女が吐き捨てる様子をヘボンは見た。
役目を終えた小銃を傍らに投げ捨てるように置いて、直立した姿勢で炎上する大尉の機体を見つめていた。
あまりの炎上ぶりに周囲はまるで昼間であると錯覚させるほどに、明るくなっており、その明かりに照らされる彼女の瞳には何やら光る物が滲んでいる様が見えた。
「中佐殿…」
力無くヘボンは彼女へ声を掛けると、彼女は視線を炎上するグランミトラから離さずに、彼を制した。
「何も言うな、ヘボン君。何れはこうなる定めだったんだ。国を捨てようとした愚か者には、お似合いの火葬と言ったところさ」
そう彼女は憎々しげに言いのけようとしたが、言葉の最後の方は少々声音が震えていた。
二人はそれから、飛び去ろうとするグランミトラが、激しく爆散するまで静かに眺めていた。
そして、その最後の輝きを眺め終えると、中佐の小さい嗚咽がヘボンに聞こえた気がした。