操舵手ヘボンの受難#8 『決闘』

操舵手ヘボンの受難#8 『決闘』

 

暫くの間、通路は長い沈黙に包まれていた。
後少しで艦橋に到達できるというのに、誰しも動くことができないでいた。
全てはあの通路の真ん中に居座る、肉塊のせいである。
動く者に対しては容赦なく銃撃を加える、その怪物は常にこちらの動向に目を配っており、最早突撃はおろか、後退さえも許してくれそうになかった。

「化け物が…」

そうヘボンの隣で、中佐は苦々しそうに歯軋りをしている。
壁際よりそっと頭を出そうものなら、西瓜の様に呆気なく弾け飛ぶであろう。

「中佐。生体式防護服というのは…?」

「…我が帝国の技術の粋を結集して拵えた防御装置さ。ただ、その中でも大分質の悪い代物だよ」

「奴には弾が利かないのでありますか?」

「利かないどころか、あの肉が全て弾や破片を吸収してしまう。文字通り肉壁ってところだね」

ヘボンが明らかに狼狽した色で彼女に問いかけると、彼女はふと苦々しい顔を少し緩めながら、普段の調子を取り戻そうとするがの如く微笑んで見せた。
それはこちらの緊張を和らげようとの事に見えたが、幾ら彼女が微笑もうと事態は好転しそうにない。
通路の側壁にはそれぞれ隙間があり、それぞれの隙間より兵士達が各険しい表情を浮かべながら、中佐に対して指示を請うように顔を向けている。
それを見て取ると、彼女は素早く腕を動かし、敵に悟られぬようにサインを出し始める。
その傍ら、彼女は空いている片手を腰に差していた長剣へ伸ばし、柄をしっかりと握り込んだ。
サインを出し終えると、それぞれの隙間に身を隠している兵士達はこちらに対して力強く頷いている。
どうやら作戦は決まったらしい。
ヘボンには何が何だかわからなかったが、不意に彼女がこちらを振り向いて小声で話しかけてきた。

「…確かに奴に銃撃は利かない。だが、その程度のことなら既に対策は出来ている。射撃では仕留められないが、一斉に射撃を喰らわせれば奴の動きを止める事はできる。その間に近づいて…斬る」

「斬る?斬るとは…?」

「銃撃の衝撃を防げるとはいえ、その組織ごと鋭利な刃物で切断すれば関係ないさ…そこでだ、ヘボン君」

彼女は得意げにそう言いながら、ヘボンを見据えながら、腰に下げていた長剣とは別の軍用短剣を引き抜くと、彼に差し出してきた。
これだけで、彼女が何をヘボンに望んでいるのか、彼はこの数日の間で嫌なまでに理解出来るようになっていた。
だが、理解はできても、それを承諾することはまた別のことである。

「…中佐。私に白兵戦は無理であります」

「無理でもやるんだ。君と私が一番、奴まで距離が近い」

「え…援護するであります!」

「その散弾銃でかい?馬鹿を言っちゃいけないよ。私ごと撃ち殺すつもりか?」

悲鳴にも似た弁明をするヘボンに対して、彼女はどこまでも優しく友人に話しかけるような調子で、酷な事を吐き続ける。

「諦めたまえ、ヘボン君。仮に無惨に死ぬとしても、私という道連れがいることは光栄の至りではないかね?」

「…地獄までついてきて欲しくないであります」

そう戦闘に対する高揚で顔色に徐々に凶暴な色を差し始める彼女に対して、ヘボンは悲しい皮肉を吐く事しかできなかった。
その様子を彼女は愉快そうに受け取りながら、彼の手にしっかりと短剣を握らせ、散弾銃を背負わせると、周囲の見方に顔を向け、片手を高く振りあげ、顔つきを決然としたものへと変えると腕を力強く振り下ろした。
途端に合図の通り、一斉の壁際から兵士達の銃火が轟く。
小銃から拳銃に、フレッド伍長の例の小型榴弾銃まで一斉に火を吹いた。
そのあまりにも歪な大合唱は、ヘボンの肝を大いに冷やしたが、その最中でも彼女は彼を勇気づけるかのように手を力強く握っていた。
そして、一時の間を置いて、その握っていた手がぐいっと彼を引っ張った。
通路のど真ん中にヘボンは引きずり出され、既に抜刀した中佐に引かれながら、身を低くして敵へ向けて突進する。
頭上では掠める弾が風の如く鳴り、榴弾が命中した事によって、敵の生体式防護服の肉片を焼いたか、肉の焼ける臭いが鼻孔を突いた。
その肉を切り裂かんが如く、彼女が長剣を横に振り被り、ヘボンは彼女の小さい背に隠れるようにして短剣を小脇に抱え込んで、刺突の構えをとった。
敵の姿は榴弾によって起きた煙によって見えなかったが、大体の位置は把握できる為、その方へ向かって中佐は人ならず者があげるような雄叫びを上げて横凪ぎに剣を振った。
だが、煙の中より肉を裂く音はせず、代わりに何か鉄に鉄がぶつかった様な音が響く。
妙な手応えに危機感を覚えた彼女は、一旦そこから飛び退いて、剣を構え直した。
彼女が構え直した際に援護射撃は止み、彼女とヘボンの目の前には一寸先も見えぬ程の煙が立ちふさがっていた。
しかし、その煙は布を切り裂く様に振り払われた。
振り払われた煙の隙間から、不気味な肉塊が姿を現した。だが、その姿は先ほどより幾らか変わっていた。
先程まで装備していたはずの軽機関銃を打ち捨てて、その腫瘍で膨れ上がった手には、不釣り合いなまでに洗練された彫刻の施された立派な長剣が握られていたのである。
長剣の剣先はこちらへ向けられており、肉塊は中段の構えを取ってこちらを見据えている。
その姿に半ば呆気を取られながらも、彼女はもう一歩下がりつつ剣を構えつつ、唸るような声を出した。
その声には驚愕の色が込められているようであった。

「…まさか、貴方自身が防護服を着込んで出てくるとは思わなかったな、その肉塊を纏うことの意味を知っているのですか?…アウフレヒト卿」

その中佐の言葉に、彼女の後ろでまだ身を低くしていたヘボンは驚愕を隠せずに、彼女を見上げた。
指令官たる敵方の卿自身が打って出てくるとは、あまりにも荒唐無稽に思えた。だが、それを言えば彼女自身、中佐階級でありながら、先陣をきっているのだからお互い様にも思える。

「勿論だ。ラーバ家の娘よ。何せ、泥棒が相手だ。艦まで盗まれてはたまらぬよ」

肉塊はくぐもった声を響かせながら、肉の隙間より覗き出ているゴーグルを蠢かした。
その不気味なまでの視線はしっかりと、彼女へ宛てがわれており、レンズの奥にあるであろう瞳には人ならざる者の色が混じっているようであった。

「泥棒とは言いがかりだ。元を正せば、この艦は我ら一族の所有物である。即刻返上を願いたい」

その彼女の言葉に対して、肉塊は身を震わして怒りを露わにした。グロテスクに蠢く肉片からは力を込めた反動なのか、吸収された弾丸がポツポツと排出されて、通路の床に音を立てて落ちた。

「ホザくな! 何が一族だ! 貴様の一族など、血統も血も繋がらぬ犯罪者の集まりではないか!? 貴族と名乗ることすらおこがましい!」

「アウフレヒト卿。貴公と正当なる帝国貴族の成り立ちについて、この場で議論するつもりはない。即刻、武器を捨て投降願いたい」

肉塊の怒声に、彼女はどこまでも冷静に受け答える。

「既にこの艦は我々の同志達の手によって、艦橋以外は制圧し、貴公の部隊も既に壊滅した。これ以上の流血はお互いに無益だ」

「黙れ! 小娘がっ! 貴様の指図は受けぬ、貴様等の企み通りにはさせぬ! 我が領土、人民は諸侯たる物の所有物であり、自由であるべきなのだ! 決して、皇帝の物ではない! 例え、この肉体を失おうとも、我が魂は諸侯達へ引き継がれる! 長き失われた誇りを我らは取り戻すのだ!」

「…平行線ですな。アウフレヒト卿。ならば、この場にて帝国の為に死んで頂くしかありませんな」

文字通り血肉沸き上がる演説を打つ卿に対し、彼女は冷たく言い放った。
その言葉を合図として、両者はまるで申し合わせたかのように一歩引いて、剣を構える。

「皆、下がっていろ。誰も手を出してはならない」

彼女がそう言い放つと、通路脇に隠れ、隙を伺っていた兵士達が一斉に銃を下ろして両者を見守る。
その光景は今まで血を派手に流し、足下には敵と味方の死体が転がって凄惨な場と化している中においても、随分と神聖なものであるとヘボンは感じた。
そう呆気をとられている間に、隙間より兵士達が出てきて、中佐の後ろに整然と並んだ。

「貴族連中伝統の決闘の動きだ」

そうヘボンの後ろで誰かが彼に声を掛けた。
ハッとして彼が振り向くとそこには、ミュラー曹長が立っていた。
アウフレヒト卿の纏う肉塊と似たような体格ではあったが、少なくとも彼は人間であった。

「随分と暢気な事をするのでありますな」

「俺達には理解できなくとも、連中には通ずる物があるのさ。寧ろ、こうでもしないと、奴の部隊連中に最後まで抵抗される」

「しかし、中佐が負けてしまったら、我々はどうなるのでありますか?」

「その時はその時だ。決闘の勝敗はお互いの生死で決められるから、中佐が死ねば、俺達はあの肉塊に殺されるしかねぇ」

この期に及んでも、曹長は皮肉そうに言って捨てた。
あれ程までに激しかった戦場の熱が急に冷めて、場は恐ろしいまでに静かになっていた。

 

彼女と肉塊は対峙しつつ、それぞれに剣を構え睨み合っている。
彼女は中段に構えて、肉塊は上段に大きく振り被り、何か動作をする度に肉塊の節々からグロテスクな音が鳴る。
暫くの間、二人は固まったかのように動かないでいたが、艦の外より響く砲撃音が死闘の幕開けと言わんばかりに響き渡ると、意を決したように二人の決闘者は躍動した。
生体式防護服に対しては、鋭利な刃物を用いることが有効であるということであるが、それでも通常の人体よりも相手は文字通り肉厚となっており、そんな相手に対しては生半可に斬り付けるだけでは致命傷を与えることは困難だった。
しかし、不利なこちらとは逆に、相手は彼女の皮膚を簡単に力任せに切り裂くことが可能であり、その様な卿にとって有利すぎる点が彼を決闘というような古びた概念を形にさせたのだろう。
それもあってか卿は悠然と長剣を振りかぶった姿勢で彼女に距離を詰めて、一気にそれを振り下ろすことによって決着を付けようとした。
しかし、生体式防護服の短所も全く無いわけではなく、その動きは大分洗練されたものではあったが、防護服の重量によって幾らか緩慢になっており、中佐はその動きを見逃さずに上段より振り下ろされる剣の動きを見てとり、横に飛び退いて肉塊の側面を突こうとした。
だが、相手も歴戦の強者と言ったところか、こちらの出方について読んでいたらしく、動きは緩慢であるものの最小限の動きで、彼女の突きを致命傷にはならないであろう脇腹に敢えて突かせておき、これを受け流した。

「甘いぞ。 ラーバ家の娘よ、これでは豚さえ殺せぬぞ」

くぐもった笑い声を肉塊の中より漏らしつつ、卿は剣を構え直しつつ一旦彼女から距離をとった。
彼女の手にする長剣の切っ先によって、空けられた脇腹の傷口より赤い血が漏れ出していたが、数秒の後に塞がってしまい。それは明らかに卿自身の体には傷一つ付けられていないことを意味した。

「私は肉屋ではないのだから、別にいいだろう?アウフレヒト卿。 少なくとも貴公は豚以下の性根であるのだから、屠殺する以上には手古摺りそうだ」

彼女も卿と同じように笑い声をあげながらそう言い放ちつつ、仕切り直しと言わんばかりに間合いを取った。
この彼女の挑発に対して、卿はまたくぐもった笑い声を上げて返したが、その二人の様子を見守るヘボンは妙な心持ちになる。

「…前口上とは打って変わって、愉快に殺し合うのでありますな」

「別に中佐と卿は初対面というわけでもねぇ。 寧ろ貴族同士ってもんは普段から交流がそれなりにあるもんだ。 しかも、血の気の多いあの二人なら尚更だ」

二人の様子を見ながら、ヘボンが思ったままに呟くと、彼の隣に立っていた曹長が何処か懐かしむような調子で彼に答えた。

「つい前に、お前と中佐が撃墜したグレイソンの奴と一緒さ。 中佐の友人…と言っていいのかわからねぇが、そういう連中は大概保身派の所属なのさ」

曹長はさぞ当たり前かのようにそう言ったが、ヘボンにはその言葉に衝撃を覚えた。
衝撃と共にあの大尉と戦闘に突入する前に、彼女が言っていた言葉を思い出した。
彼女は大尉と随分親しい間柄であるかのような事を言っておいて、数分後にはその友人を業火の元に焼き払ったのである。
これが何を意味するのか、ヘボンはその時は己の身を心配することに精一杯であり、今も勿論そうなのであるが、激しい戦闘へ対する興奮が決闘を見守ることによって幾らか冷め始めた今になって、それが深く心を揺さぶり始める。

「防護服に頼らねば、小娘一人殺せないのか! 私はまだ生きているぞ」

間合いを取って剣を今度は横に構え、彼女は言葉とは裏腹に嬉々とした様子で卿に叫んだ。それに対して、卿はまたもやくぐもった笑い声を出しながら、その挑発すら受け止めるかのように、彼女と同じように剣を横に構えた。
あまりにグロテスクな卿の容貌と、周囲の凄惨なる血の海を除けば、その光景はまるで稽古に勤しむ同輩同士のやり取りの様にも見えた。

「私には理解出来ないであります」

その凄惨な現実と対照的にやり取りされる人間的な言葉の応酬に、ヘボンはただただ見守ることしかできなかった。

「出来る訳ねぇさ。 俺だってわからねぇし、別にわかりたくもねぇ。 お互い敵の癖して、ああも笑い合いながら殺し逢えるもんかね」

曹長はそう何処か悲しげに言いながら、ヘボンと同じように決闘の行く末を見守った。
これは、中佐と卿のみが許された時間と空間であり、ヘボン達は立ち入ることを許されないような、一種の聖域の様な神聖ささえあった。

「まぁ、邪魔なんてしたくもねぇが。 今は生憎時間がない訳だ。 おい、ベルンとアルミラでいいから、こっちに来い。 そろそろ始末を付けねぇといけねぇ」

曹長はそうさも面倒くさそうに言うと、後ろに居た名前を言った兵士を呼び出して、彼らを近付けると何か小声で指示を出す。
その指示を受け取ると彼らは、決闘に浸っている二人には悟られぬように曹長の大柄な体を影にして、腰より軍用短剣を静かに引き抜いた。
それを彼の横で見て取ったヘボンは怪訝そうに曹長を見つめた。

「…曹長? これは一体…」

「勘違いするなよ、軍曹? 俺達が勝手にやるんじゃぁねぇ。 全ては中佐殿の指示によるものだ」

これが何を意味するのかわからないヘボンに対し、曹長はとても悲しそうに呻くように言った。

「これ以上時間は掛けてられねぇ。 軍曹、お前もその短剣で手伝え。 中佐より合図があったら俺達と一緒に卿を刺す」

「しかし、曹長。 あれは決闘なのでは?」

「馬鹿言え。 今時あんな、古臭ぇ事するかよ。 あれは全部、中佐がわざわざ卿に対しての葬式を挙げてやってるようなモンだ。 古馴染の…決闘儀礼の教師である卿に対してのだな」

その曹長の言葉に、ヘボンの表情は引き吊った。
それを横目に眺めながら、曹長は言葉を続ける。

「幾ら生体式防護服が強力だろうと、既に卿の部隊は壊滅だ。今更一人だけ生き残っていたって、艦は制御できねぇ。 それに、あんな体全体を覆うように防護服を着用してちゃ、卿の命も長かねぇ。 ありゃぁ、できる限り使用時間を短くして、さっさと専門家に外して貰わねぇと、体が蝕まれちまうんだ」

「何故、そんな物をわざわざ…」

「そりゃぁ卿の立場の問題と、中佐の出方を読みすぎちまった故だな。 卿は保身派の武闘派だ、卿自身が先頭に立たない限り、臆病者な他の連中はついていきやしねぇ。幾ら頭数がいたってな… それに加えて、中佐のやり方は狂ってるからよ。 間違いなく己の艦に乗り込んでくることはわかっていた。 もう、数も理屈も関係ねぇ、面子の問題になってた訳だ」

「面子の問題などで、命を投げ出せるのですか?」

「まだ面子がどうこういってられるうちはいいさ。 お前にいたっては、メンツも何も関係なしに、簡単に投げ出さなきゃいけねぇんだから同情するぜ」

表情を引きつらせたまま曹長に問いかけるヘボンに対し、彼は皮肉そうに笑いながら視線をしっかりと二人へ向けた。
それはお膳立てされた葬式が、間も無く終わることを意味していた。

 

今度は中佐の方から、卿へ向かって突進していく。
剣を横薙ぎに払うと踏んだ卿は、その中佐の動きに対して振り払われるも先に間合いを詰めて、その軍帽を被った頭を叩き斬らんばかりに剣を振り下ろそうとする。
だが、彼女はその振り下ろしに対して、横に飛び退いて避けるのではなく、また剣で受け止めようともしなかった。
彼女は剣が振り下ろされようとした瞬間に、身軽にその体躯を躍らせ、卿の巨躯を飛び越えた。彼女の小柄な体が卿の背後を取った瞬間、彼女は素早く卿へ組み付いた。既に己の得物では、卿の肉体を切り裂くことは不可能となっていた。
防護服に対して、突きと斬り付けることを繰り返した末に、長剣の刃は血糊や肉片で既に剣として用を成しえなかった。
その為、彼女自身としては誠に不本意ながら、己で卿に対して決着を付けることを諦め、ただ必死に卿の動きを止めるべく、剣を棒のように扱って彼の動きを背後から組み付いて封じ

「…殺れっ!!」

そう感極まったような叫び声を、喉の奥より捻り出したのである。

 

その彼女の声に呼応し、ヘボンの周りに居た兵士達が、一斉に動きの封じられた卿へ向かって突進する。
各々軍用短剣の刃先を真っ直ぐに卿の胸へと狙いを定め、それに突っ込んだ勢いを乗せていく。その波の様な殺意の群れに、ヘボンも身を任せ、何が何やらわからぬままに先程に彼女に手渡された短剣を突き出していた。
卿は一斉に突き刺される瞬間に何かを叫ぼうとしたが、それは一同の怒号にかき消されていた。
生体式防護服の肉は無感情な弾丸を防ぐことはできたが、明確な殺意と肉体的な勢いを伴った多数の刺突を防ぎきることは出来なかった。
ヘボンの手元には何か少々固い肉を切り裂くような感触が伝わり、それに続いて腕を生暖かい血液が包んだ。
卿の身体には軍用短剣だけでなく、小銃の先に装着された銃剣も混じっていた。
曹長はごく数人で卿を仕留めようとしたが、いざ、実際に卿を突き刺した時、その刺客の人数は7人程に増えていた。
皆一様に、何かを押し殺したような表情をして、ただ得物を握る手に力を込め続けた。
それは卿であった肉塊が完全に動かなくなるまで続いた。
そして、ようやく一同が腕に込めていた力を抜くと、卿を押さえ込んでいた彼女がこちら側へ回り込んで、艦橋前の壁に寄りかからせるようにして、卿の死骸を置いた。
肉塊は腹部から胸部に掛けて短剣や銃剣が突き刺されたままで、その姿は何処か墓標に似ているようにすら思えた。

「…彼は、アウフレヒト卿は立派な武人だった。 例え、我らの敵であろうとも、その名誉は失われることはない」

そう彼女は言い終えると、一同に顔の正面を見せないようにして艦橋へと向かった。
誰しも、最期に卿が何を言おうとしたか、もしくはそれを聞き逃さなかったであろう彼女に対して、問い掛けられる者はいなかった。

 

艦橋を部隊が制圧すると、艦は中佐の指揮の元に置かれた。
あれほど演説が好きではないかと疑いたくなる彼女であったが、艦橋の中央に立って卿の指示の下に働いていた乗員達を束ねる際には、これといった演説どころか宣言も打たなかった。ただ、その艦橋に戻ってきただけで、乗員達があるべき主の帰還を歓迎するかの如く己の職務を忠実に果たし始めた。
そして、彼女は艦内の状況について報告を求め、次に味方艦隊へ連絡を取る。
その一連の流れはとても手際が良く、事前に乗員達へ蜂起成功後の通達もしっかりなされていたお陰と言えた。
元々ヘボンは不測の事態に備えての操舵手要員ということであったのだが、アルバレステア級の操舵手は別に拘束されている訳でも殺害されたわけでもなく、ただ上官が変わったというだけで依然として普通に操舵を行っていた。
こうなってしまうと、ヘボンはただの木偶の坊が如く、艦橋の端に突っ立って待機していようとしたが、そうは問屋が卸さないとばかりに、彼女が室内の中央より怒号を上げて、移乗攻撃要員を全て集合させた。

「諸君、仕事はこれからだ。 艦を奪取したからといって、諸君の任務は終わらない。寧ろこれからが本番だ。 我らとほぼ同時に艦へ移乗攻撃を行ったキベ大尉の第2班は既に『バリステア級』を制圧、奪取した。 だが、ケビック少佐の第3班は失敗したとの報告が入っている。 少佐は戦死…敵もさる者と言ったところだ。 そのお陰で第3班の目標である『フレイア級』は依然として敵追撃艦隊の持ち物で、その機動性を活かして追撃艦隊の方へ合流しようとしているが、不幸中の幸いといったところか少佐の働きもあり、一時的に艦の制御ができないでいる。 この隙を突いて、まだ奪取してから間もないが、我ら第1班とキベ大尉の第2班を急遽統合編成し、『フレイア級』が我らの囲いを脱する前に叩き、もう一度奪取する」

顔色一つ変えずに中佐はそう流暢に言ってのけたが、ヘボンの顔には苦々しい物が浮かんでしまう。だが、ヘボンよりも付き合いが遥かに長いであろう荒くれ者共は顔色一つ変えずに、直立不動の姿勢をとりながら、彼女の指示に耳を傾けている。

「私はこの艦橋にて指示を飛ばす為に、諸君を率いることはできないが、現場での指揮は合流次第、キベ大尉の下から出される為、それに従えとのことだ。 尚、今から名を呼ばれる者は艦の艦載機へ搭乗して貰い、移乗攻撃班を支援して貰う」

つい先程に己の親しい間柄の人間を殺したと言うのに、彼女に憐憫の様な色は全く無かった。その鉄面皮の様なまでの彼女が、あの夜に嗚咽を上げていたことを見ていたヘボンは全く意外で仕方が無かった。
あまりに意外に思え、直後に彼女に名を呼ばれたことにすら意識が回らなかったほどであった。
だが、それでも命令を聞き逃すような新兵の様な真似は流石にしなかった。

 

「…以上、復唱は必要ないだろう! 各々の成功を祈る!」

そう決然とした彼女の声と共に、一同は再び慌ただしく動き始めた。

それに合わせてヘボンも慌ててそれに続きながら、制圧したばかりの艦橋を後にした。
その際に、卿の遺体が目に入ったが、既にその墓標に目をくれるものは誰もいなかった。
一同の内でも、先程まで話していた兵士達も死体となって、通路内の各所に横たわったままであったが、それすらも誰も構っている暇はなかった。
何があろうとも戦闘の歯車は、暫く止まる事を覚えなかった。

最終更新:2016年09月25日 16:07