操舵手ヘボンの受難#9 『夜戦地獄』
「ゼイドラは最高だぜ。 軍曹」
アルバレステア級に、備えられている艦載機の発進口の脇に立ちながらそう誇らしげにミュラー曹長は言った。
そんな彼が見据える先には艦載されているグランピアの後ろにて、その巨体を晒している重戦闘機『ゼイドラ』の勇壮な姿があった。
両翼に備えられた2つの対空機関銃座に加え、機体後尾に備えられた対空砲、そして前部に備えられた榴弾砲。
その凶暴な姿はまさに戦うためだけに作られたという攻撃性を露骨に表現していた。
既にゼイドラの前方にある二機のグランピアにはパイロットが着いたか、忙しく発進準備を整えている。
「マコラガやバルソナみてぇな旧式とは違う。これこそ、戦闘機ってものだ」
その脂ぎった顔に満面の笑みを浮かべながら、曹長はヘボンを見上げている。
それに対して、ヘボンはまさにその通りであるという感想を抱かざる終えなかったが、ただ幾らか疑問を挟まずにはなかった。
「しかし、曹長殿。 我々の中にゼイドラを扱える者がいるのでありますか?」
「何をいってやがる軍曹。 いるわけねぇだろ」
ヘボンの質問に対して、ミュラーはさも当たり前と言った具合に答えた。その回答にヘボンと彼の後ろに立っていたベルン軍曹や他の兵士達は彼と顔を思わず見合わせた。
「まぁ、そう心配するな。俺に任せろ、マコラガより遅い機体なら問題なく俺の勘で飛ばせる」
曹長はそう自信満々に言ってみせるが、幾ら何でもそれは無茶ではないかとヘボンとベルンの二人は声を荒げた。
だが、そんなことどこ吹く風と、曹長はその丸っこい体を動かしながら、機体周りで発進準備を進めている乗組員達を退けつつ、ゼイドラの操縦席へと乗り込もうとしている。
「本当に大丈夫でありますかね?」
「しらねぇ。 だが、あのデブは人にはモテねぇが、生体器官にはモテるらしい。とんだ屑野郎だ、古女房のマコラガを捨てて今度は巨乳女ときたもんだ」
不安の色をありありと浮かべるヘボンに対し、ベルン軍曹は皮肉気な笑みを浮かべながら返したが、その顔にはやはりヘボンと同じような不安な色があり、それは他の者達も同様のようであった。
「何をぼさっとしてやがる。ベルン!てめぇは右舷の銃座だ! 軍曹は後部砲座へ着け!アルミラは砲座だ。そいで、ドミル伍長!お前は左舷の銃座にいけ!」
そう彼らを怒鳴りつけながら、曹長は既に操縦席へ収まろうとしていた。何分時間がないということで致しかたなく、一同は彼にどやしつけられるままに配置へ着く。
ヘボンの担当は後部の対空砲座ということであったが、これは操縦と比べれば専門的な知識が必要な物ではなさそうであり、彼は細い体をぎこちなく砲座のスペースへ滑り込ませると、少々ぎこちない手つきで弾装を確認する。
砲弾はヘボンが腰掛けた射手座の脇の壁から、棚のような空間に数発ほど備えられている。
自動装填装置のお陰でヘボン一人でも発砲を行うことは可能であるが、撃つ事と当てることは別問題であり、それに対してはコアテラ操縦で授かった噴進砲の技術で代用するしかないようである。
だが、砲とは言ってもその内実は大分違うものであり、果たしてヘボンが扱えるかどうかは本人自体甚だ気がかりであった
「本当に動かせるのかよ!曹長!? 発進したと同時に墜落は勘弁だぜ?」
ヘボンが対空砲の点検をするなか、腰の辺りに備え付けられた伝声官からベルンと思われる声が響いている。どうやら操縦席のミュラーへ話しているらしい。
「任せろ! 流石、新型だ!こいつぁマコラガよりケツが軽い」
「処女飛行って訳じゃねぇだろうが、曹長殿に跨られるとはコイツも不幸だな」
「そりゃどういう意味だ?!ドミル!」
何処となく楽しそうな声を出すミュラーに対し、ベルンとともに対空銃座に就いたドミル伍長がからかっている。
妙に賑やかな雰囲気にヘボンは、彼らが長く戦場に身を置いただけの事はあると感心していた。
つい、先ほどまで血塗れになりながら、このアルバレステア級を制圧し、その間に何人も仲間を失い、感傷に浸る間もなく、また出撃をしなければならないというのに、彼らはまるでこれからパーティーでも始めるかのように陽気である。
それは過剰な戦闘興奮が成せる事と言うよりは、この調子自体が日常であるというような風であった。
「第2班から通信は入ってるか?」
「あぁ、既に突入部隊の再編成は完了したらしい。 後は支援部隊の俺らの動きを待つのみだと」
「支援つったって、そこの砲座にいる化け物みてぇに艦に突っ込むってのはねぇだろうな?」
「安心しろよ。 んなキチガイじみた真似はしねぇ。 新しい突入口をフレイア級の横っ腹に榴弾砲で空けてやるだけさ」
会話を耳にしながら、ふと自分のことを言われてしまったと気付いたヘボンは前方の銃座を見やると、こちらを見ながら下品な笑みを浮かべているドミル伍長と呼ばれていた男が目に入った。
中背中肉の体格で、髪を短く頭の後ろでまとめており、顔面には古傷が幾つか確認できる。
見るからに狡猾そうな雰囲気を漂わせている男であったが、この部隊の連中といえば大体皆そのような感じであったので、特に珍しい気すらヘボンには起きなくなっていたが
「気をつけろよ?軍曹 ドミルの野郎、お前が好きらしいぜ?」
と言う伝声管より伝わるベルンの言葉に、彼の下品な笑みの意味を察したヘボンは表情を凍り付かせた。
「黙ってろ!ベルン!俺はイカレた野郎が好きなんだよ。 …変な気はおこさねぇでくれよ?軍曹。 俺もベルンもアンタの事は好いてんだ。 何せ、中佐殿の恩人だからな」
そう言いながら、ドミル伍長の顔が急に朗らかな物に変わった。しかし、それでもその表情の意味がゲスな物に思えるヘボンは依然として凍り付いたままである。
「アンタがいなけりゃ、俺達はこうして飛べてすらいねぇ。 中佐が死んじまったら、俺達はまとめて絞首台や銃殺送りだ。 本当に中佐だけで出撃させられちまった時にゃ皆…」
「おい!お喋りはそこまでだ!野郎共! 宴会を始めるぞ!」
ドミル伍長がどこか切なげに言葉を紡ごうとした時、それをミュラー曹長の怒鳴り声がかき消した。
その怒声と共に生体器官が独特の唸り声を上げ始める。
発進用意をしているようであるが、その唸り声は何処と無く悲鳴にも似ていた。
「目標はフレイア級!護衛機は他の味方のオンボロ共が引きつける。 対空砲火に注意しろ」
「フレイア級内のクーデターはどうなった?」
「んなもん、とっくのとんまに片付けられちまったさ。 保身派の屑共め、同志を見せしめにケビック少佐も含めてぶっ殺して制御を取り戻しやがった」
「保身派の豚めっ!」
「そうさっ!宴のご馳走は奴らの肉であげてやるのさ」
そうさも憎たらしそうに叫び声を上げながら、一同を乗せたゼイドラは前方のグランピア2機が発進するのを待って、ようやく艦の発着口より飛び出した。
コアテラやラーヴァナとは全く違う加速に、ヘボンは少々戸惑ったが、これこそ戦闘機であるのだと自分に言い聞かせながら、周りに広がる夜空を注視した。
既にアルバレステア級に乗り込む前から戦闘は始まっており、辺は味方の物か、敵の物かもわからぬ曳光弾の群れと壮絶な爆音が飛び交っている。
時々雲の隙間より敵か味方の艦の姿を伺うことが出来るが、艦群に陣形など固まった形は無く、何れも距離を恐ろしく詰め、まるでもつれ合った糸の様に奇妙な軌道を描きつつ砲撃と回避行動を繰り返している。
ただでさえ、これがアーキルとの戦闘であるのなら、敵と味方の区別など簡単に判別できるのだが、お互いに同じ軍であり使用している機体群も似通っているのであれば、混戦を極める。
唯一の区別の助けといえば、己らの周りを飛び交っている連中だけは味方であるという漠然とした意識だけであり、まるで戯れるかの混ざり入れ乱れるような様に、必死の攻防を行っている様はこれが本当に戦闘であるのかという疑問すら抱かせた。
ゼイドラが夜空に放り出された瞬間に、そのまま降下するのではないかと一抹の不安も感じていたが、ミュラー曹長は確かにゼイドラを上昇させる特によって己の技量を証明していた。
先程まで喧しいまでに喋っていた連中も、機体が夜空に身を投げた途端に沈黙して、ヘボンと同じように周囲の状況に目を配っている。
ゼイドラの周りには、味方であろうマコラガが2機駆けつけて、護衛にと側面に張り付くように飛んでいる。
ただでさえ戦力が心許ない艦隊である為に、戦闘機であるとは言えその火力には目の見張る装備を整えてあるゼイドラを、出来る限り守り切ろうと言った意志の表れであることは明白であったが、旧式戦闘機が何機護衛につこうとも、敵艦隊の備える新型が襲い掛かって来た場合に対処できるかは検討もつかなかった。
幾らかの漂う巨大な雲の間隙を突いて、ゼイドラはその巨躯に似合わぬ速度で飛行しながら、曳光弾の群れを掻い潜っていく。
その度に護衛機である側面に付いたマコラガも回避行動を試みるが、運が悪かったのか技量が足りなかったのか、目標のフレイア級が目視出来る間に既に一機が撃墜されてしまっていた。
元より装甲もへったくれもない生体器官を剥き出しにした造りの旧式戦闘機である。
曳光弾が少々掠っただけでも重傷は免れず、その戦闘機はヘボンの目の前で臓腑を夜空に飲み込ませるかのように四散していった。
それに対して、次は我が身かとヘボンは恐怖を募らせたが、依然として他の連中は軽口も呻きも漏らさずに周辺へ注意を払っている。
そして、フレイア級の姿がヘボンの座る砲座からも、なんとか目視出来るようになった頃には、もう一機護衛に就いていたマコラガも気付かぬうちに逃げたか撃墜されたか姿が見えなくなっていた。
「結局、俺等だけになっちまったぞ。 2班の連中はどうした? 味方は何処だ?」
伝声管よりベルン軍曹の不安げな声が漏れている。
彼の言葉通り、夜空の向こうにゆっくりと飛行しているフレイア級の姿がおぼろげに確認できる。その周囲には護衛機の姿は確認できないが、代わりにその護衛機を引きつけてくれるはずの味方の機体すら確認できない。
フレイア級はまだゼイドラの姿を確認していないのか、こちらに対して対空射撃を加えてくることはなかったが、幾ら辺りが暗闇に包まれていようと、視認されるのは時間の問題と思えた。
「…大鍋より、皿へ。 テーブルに乗った。 これから蓋を開ける」
不安そうなベルンの声を他所に、操縦手のミュラーが落ち着き払った声で通信機に話している。言葉の流れから察するに、これからフレイア級に攻撃を仕掛けるとの連絡であるようだが、何分単語の選択が滑稽にすら思えた。
だが、それでも意味すら伝わればそれで良いわけであり、滑稽な言葉とは裏腹に事態は逼迫している。
「…了解。 蓋を開けてから、盛る。 それまで持ちこたえろ」
曹長の通信に対して、少しの間を置いて受信機から男の冷静な声が返ってきたが、それに対して彼は苛立ったような調子で返答する
「持ちこたえろとはどういう事だ? 護衛と対空射を引き受ける味方は何処か?」
「言葉通りの意味だ。 襲撃機は艦船護衛に出払っているし、突入部隊の装備では護衛機と渡り合うのは不可能だ。 急遽増援をそちらに回しているが、たどり着く頃には目標に逃げられてしまう」
通信機から聞こえてくる男の声は何処までも冷静であった。
それに対して曹長は通信を一旦切りながら、諦めたように深く溜息を吐く。
「聞いた通りだ。 フレイア級の後部より接敵し、艦橋付近の上部に穴を空けるぞ」
「曹長!それは駄目だ!蜂の巣にされちまうよ!」
ミュラーの言葉に対してベルン軍曹が、ここに来て泣き叫ぶような声を伝声管越しにあげた。だが、その悲痛な叫びを聞いても曹長の顔は通信と同じように冷静であった。
「この距離で正確に一発でぶち抜けるなら問題ねぇが、生憎それは無理な相談だ。 どうしても距離を詰める必要がある。 しょうがねぇだろうがよ」
彼はそう一蹴すると、自身の下で砲手に就いているアルミラに砲弾の装填について問いただしている。どうやら、確認が出来次第すぐにでも突入するようであった。
「軍曹。 てめぇも後部砲の弾をよく見とけよ? 初弾を外したら走り抜けざまに、てめぇに撃ち込んでもらうからな」
「そんな心配はいらないよ。 曹長、一発で終わらせるさ」
伝声管からヘボンに対して確認するミュラーの声に混じって、彼の濁声と比べれば幾らかは透き通るような調子の声が聞こえてくる。
喋るのは初めて聞いたが、アルミラの声であろう。
さも自信のありそうであるが、その言葉に対して曹長は鼻を鳴らして嘲った。
「その一発で味方の砲陣地を吹っ飛ばした間抜けはどこの誰だったか?」
「あれは陰謀だ。 俺のせいじゃない。 全てアーキルが悪いんだ」
弁明というよりは皮肉にも似たような色でアルミラが返している。
どうやら、このゼイドラに乗り込んだ者はヘボンを除いて、重罪人しかいないようであった。
「まぁいい。 俺達を吹っ飛ばすんじゃぁねぇぞ?」
そう念押しをするように曹長が呻くと、機体が加速を始める。
夜空を切り裂きながら、重戦闘機が唸り声を上げながら突進する。
銃座に砲座も備え、その重量はコアテラを大分上回っている筈であるが、それでもゼイドラは軽快に飛んでいる。
「200まで近づけ! それまで撃つなよ!」
そう曹長が叫び声を上げる中、ヘボンは前方にあるフレイア級が朧げな物から、しっかりとした質量を持って目の前に広がっていく様を、ただただ呆然と眺めていた。側面に備えられた対空砲座及び銃座は、こちらの接近を見て、一斉に砲口をこちらへ向け始めた様が夜空とは言え月明かりに照らされながら確認できる。明確なる殺意がこちらへ向けられた瞬間であった。
「自殺行為だ! 反転しろ!」
その際に誰かが叫んでいるようであったが、無論、曹長が機首を動かすことはなかった。
寧ろ、接近している状態で相手に対して的を大きくしてしまうような反転軌道は自滅行為とも言える。だが、それ以前にこちらから接近しているのだから、自滅行為である点はさほど変わらない。
ヘボンの周りで空気を切り裂くような音が、防風ガラス越しに伝わってくる。
機体の周りを銃弾が通り過ぎているのだと思った。
この音が違う音色を持った時、我々は死ぬのである。
正面へ目をやると、ゼイドラの両翼にある二つの対空銃座が懸命に前方へ向かって射撃を加えている。こちらの銃座から放たれる発射炎と向かってくる曳光弾の凄まじい光は、ヘボンの視界を強く刺激し、ただ彼を現実離れした異常な興奮へと誘うのである。
「撃て! 早く撃ってしまえ!」
また誰かの叫び声が聞こえた。
先程まで皆の会話は聞いていたのだから、ヘボンは誰の声であるか判別できると思っていたが、その悲痛なまでの狂気じみた調子であっては、誰の声なのか全くわからなかったし、おおよそ常軌を逸した声で聞くに耐えるものでもなかった。
その合間にもフレイア級の側面が近付いて来る。
迫り来る恐怖にヘボンは打ちのめされそうになったが、今は己の出来ることが何もない。
だが、恐怖に対して何も出来ることがないということは、恐怖感を一層強くするものであった。
ヘボンの耳には銃声と爆音と怒声と、戦場に溢れる音が一斉に濁流の如くに流れ込んできている。その全てが無機質な物に思えてくるが、全てが生を持って己の聴力を、果ては思考さえも犯し尽くさんとしていた。
ただ、その果てしない暴力への一区切りと言わんばかりに、ゼイドラ前部の榴弾砲が轟いた。
途端に目の前を閃光が放たれ、爆音と共にフレイア級の上部面が吹っ飛んだ。
それに続いて、ゼイドラがまた加速する。直様飛び抜け様としているのだ。
「見たかよ! 畜生! 俺は天才だ!」
そんな叫び声が伝声管から伝わってくる、十中八九アルミラの誇り高い叫びだった。
フレイア級の上部を飛び抜ける際に、ヘボンは砲座よりその様を眺めた。
夜空の中でもその砲撃を加えた部分は激しい爆炎を上げている。
「大鍋より、皿へ! 天井をぶち抜いた! 繰り返す、天井をぶち抜いた!」
そう歓喜の叫びを上げながら曹長が通信を飛ばしている。
だが、通信機から返信は返ってこない。
それに対して彼は不審そうに何度も報告を繰り返したが、それでも通信機は黙りこくったままであった。
明らかに様子がおかしいことを曹長は感じていたが、そのことよりも今は生き延びなければならない。フレイア級の上部を打ち抜いたとは言え、艦が沈黙した訳ではないのだ。
「通信装置がイカレタか?曹長」
「んな訳あるか、なんだか不味いぜ」
「これ以上に不味い状況なんてあるかよ!」
乗員達はそう叫びながらやり取りし、徐々にフレイア級から遠ざかろうとしながら、各銃座はなんとかして生き延びようと激しい射撃を飛び去りながら加える。
ヘボンもそれに倣って、対空砲を慣れない手付きで発砲する。
狙いなど付けている暇はなかった。
発射桿を素早く引いては、排莢と自動装填を確認しながら、兎に角後方へ砲弾を吐き出し続ける。今の彼にとって照準器など邪魔な飾りでしかなかった。
こちらへ向かって飛んでくる対空射撃の嵐は、さほど正確なものではなく見当違いな方向へ飛び去っていく。
ただ、まぐれ当たりと言うものもあり、運悪く被弾せぬようにゼイドラはその巨体に似合わぬ繊細な軌道で夜空に姿を浮かび上がらした。
上方へ飛ぶのかと思えば、下方へ急降下を繰り返し、縦横無尽に対空射撃を躱していく。
それは見る者にとっては鮮やかであり曲芸飛行のような色まであったが、その機体の乗組員たちにとっては溜まったものではない。
この時ほど生体器官の成せる化物じみた機動性と運動性を呪った事はなかった。
景色は目まぐるしいまでに変化している。
ふと対空射撃の発射炎に煌くフレイア級を視界に捉えたと思えば、一瞬にして夜空に浮かぶ二つの月に風景がすり替わると言った具合である。
コアテラやラーヴァナを扱うような、ゆったりとした感覚とは天と地ほどの差がある。
「いつまでサーカスを続けるつもりだ!? 曹長! 幼気な女を俺達のゲロ塗れにするつもりか!?」
曹長の自由奔放な操縦技術に目を回したベルン軍曹が叫んだ。
全く以て彼と同意見だったヘボンは、同意と同時に吐瀉物を防風ガラスに放っていた。
美しいまでの夜空に浮かぶ二つの月をガラス越しに汚く犯していた。
だが、その二つの月の合間に、ヘボンは己の吐瀉物では決してない物体を見た。
月明かりに照らされたソレは、距離も遠く朧げではあるものの、雲とは違う飛行物体であることを如実に証明している。
「曹長! 10時方向上方に機影! 随分とデカイ!」
口から吐瀉物の残りを伝声管に入れてしまいながら、ヘボンは叫び声をあげて報告する。
その声を聞いて対空銃座に就いていたベルンもその方向を見上げた。
「月明かりの反射でよく見えねぇ!? 味方か!」
「戦艦級の援護なんて聞いてねぇぞ! 保身派の艦に決まってる!」
口々に叫び始める乗員達の声が伝声管を伝わって砲座内に響き渡り、その強い振動は管にこびり付こうとしていた吐瀉物を押し戻すほどの勢いがあった。
「ヘボン! もっとよく見ろ! 艦種はなんだ?!」
最もゼイドラの後尾に当たり視界を確保できるヘボンに対して、曹長が怒声を上げる。
その声に答えて、ヘボンは己の吐き出した吐瀉物を袖で拭き取りながら、異臭がするガラスへ顔を押し付けた。
あまりの汚さと汚臭に顔を背けたくなったが、その艦種を確かに判別した時、ヘボンは別の意味で顔をガラスから引き剥がしたくなった。
二つの月明かりを両面から浴びながら、浮遊するその艦は縦に長く、遠くからでもその巨大さがわかる。だが、その巨大さを助長するかのように、艦の全体は風船の様な膨らみに覆われている。
当初、その異形の姿から全くその艦が何かわからなかったが、ヘボンの脳裏に浮かび上がる名があった。
「…シヴァだ!シヴァ級がいます!」
ヘボンは必死に伝声管にそう叫んだ。
その声を聞いて、面を食らったような調子で曹長の怒声が返ってきた。
「寝言は寝て言え! ヘボン! んな訳があるか! なんでそんな物がこの空域にいるんだ! もっとよく見ろ!」
「見ています! あれは間違いなくシヴァです! ただ、通常のシヴァより数段気持ち悪い見た目ですが!」
ありのままの事実をヘボンは叫び返す。
月の合間を飛んでいる艦は間違いなく『シヴァ級』であった。
帝国が周辺国及び、勢力をその圧倒的な火力によって征服してきた。
一種の帝国の強大さを象徴しているとも言える艦である。
ただ、何故、対地目標に対してのみ有効であろう艦が、この空域に存在するのか想像がつかない。そして、何故あの様なグロテスクな機影をしているのかもわからなかった。
そんなヘボンの報告を聞き終えると、曹長は怒りにも似たような激しい呻きを漏らした。
「そんな訳があるか! そんな訳がねぇっ!…あるはずがねぇ!」
彼は精一杯の否定を口にしたが、その言葉の裏にはこの事実を認めざる負えないと言った色が確かにあった。それに対してどうしても認めたくないと言った調子だ。
暫くの間、曹長は黙っていた。
だが、実際その沈黙は短い物であったかもしれない。
それでも彼の沈黙は長く一同には感じられた。
そして、その沈黙を破るように、曹長は口を開いた。
「クソッタレが!やっと通信が通じねぇ訳がわかった! 全部仕組まれていやがったんだ! 俺達は嵌められたぞ!」
まるで発狂したような声を曹長は捻り出した。
「これより、全力で空域を離脱する!」
「何を言ってるんだ!?曹長! 突入部隊はどうするんだ?!」
「そんなもんは二度とこねぇ! さっさとトンズラしねぇとこの娘と心中だ!」
曹長の急な発言に対して、ドミル伍長が噛み付いたが、それを振り払うかのように曹長は機体を一気に急降下させる。
その際に起きる重力の変わり具合にヘボンは体が浮き上がり、汚物だらけのガラスに顔面がへばりついた。最悪な気分ではあったが、それにも増して最悪な状況である。
「空域を離脱するなんて正気じゃねぇ! 銃殺刑になっちまうよ!」
「馬鹿が! 誰が俺達を銃殺に出来る?! 上官だってもう、この空域にはいねぇ!」
「なんでそんなことがわかるんだ!?」
「…生き残れたら、教えてやる。 今は兎に角、堕ちねぇ事を祈ってろ! ヘボン! シヴァから目を離すなよ! 直ぐにでも仕掛けてくるぞ!」
何が何やらわからぬ状態だが、ヘボンは曹長に指示された通り、防風ガラスに張り付いては視線を月の合間に飛ぶ奇妙なシヴァ級へ合わせる。
シヴァ級はまるで空中に浮かぶオブジェの様に大人しくしていたのだが、その大人しい雰囲気を唐突に覆した。
その都市を壊滅できるほどの九連対地砲が、一体何に対して照準したのか分からないが、不気味に蠢くと、同時に静止した。
「曹長! 発砲するつもりです!」
「くそがっ! 間に合わねぇ…」
ヘボンの報告に対し、曹長はまるで全てを悟ったかのように脱力しきった声を出した。
一体、彼の言葉が何を意味しているのかヘボンはわからなかったが、視線は依然としてシヴァ級を捉えている。
そして、そのシヴァ級の砲から何かが漂い始めた。
それは発射した後の排熱煙かと思ったが、勿論まだシヴァ級は何も砲撃してはいない。
だが、漂い始めた排熱煙のようなものは余りにも膨大な量であり、シヴァ級の周りに巨大な雲を作り出し始めている。
しかし、それはただの雲ではなかった。
月明かりに照らされも尚、その雲はドス黒かった。
その雲が尋常でない速度で膨張を続け、数秒後にはシヴァ級を覆い隠してしまう程に膨れ上がってしまった。
異様な光景に、ヘボンは報告も忘れて、とり憑かれたかのように見入っていた。
操縦手である曹長以外の乗組員達も、唖然として黒々として何処までも膨らみ続ける雲を見ていた。
その間にも膨張を続ける雲は、こちらに近付いて来る。
ゼイドラは全速力で、雲と対空射撃を続けているフレイア級より遠ざかろうとしているのだが、帝国の誇る重戦闘機をもってしても雲の速度は異常なまでに早く、先程まで霞むような位置にあったシヴァ級から放出された雲の群れはゼイドラの周囲を漂い始めていた。
「一体何が起こってやがる!?」
伝声管から発狂したようなドミル伍長の声が聞こえてくる。
皆、機体が果てしない闇に飲み込まれるような感覚を覚え始め、一種の恐慌状態に陥ろうとしていた。
だが、そんな中でも唯一事情を知っていそうな態度を示した曹長のみが、冷静に機体を動かしている。
必死にゼイドラへ追い縋ろうとする雲を振り払おうとしているが、逃れられそうになかった。
ヘボンは後部砲座の周囲に漂い始めた雲を見ながら、脇目に先程までこちらに対して対空射撃を加えていたフレイア級が、その雲に全体が包まれつつあるのを確認した。
何か、ヘボンは咄嗟に身に迫る危険を感じた。
それは本能が告げているものであることは理解できたが、今更どうしようもない状況であり、為すすべもない。
そして、その危険を形にしたかのように、不意に下方から爆音が轟いた。
慌てて、その方向へ目をやると、ヘボンの瞳に先程、雲に全体を覆われてしまったフレイア級が各所から激しい炎を吹き出しながら、炎上している様が映った。まるで断末魔の様にフレイア級は生体器官を捩りながら、暴れている様であったが次の瞬間に激しい閃光と爆音を周囲に放ちながら爆散した。
とても現実の光景には思えず、ヘボンは言葉が出なかった。
だが、それが現実であると彼に非情にも教えるかの様に、周囲を漂っていた雲が獲物を見つけた捕食者の様にゼイドラを包み込んだ。
伝声管からは悲痛な乗組員達の呻き声が響いてくる。
「中佐…」
ヘボンはそう呟いた。
彼の脳裏にはここ数日の間、最も彼の傍にいたというよりは、この雲と同じようにへばりついていたと言っていい女性である、中佐の顔が思い浮かんでいた。
その表情はこんな状況にあっても、自身を励ますようなしっかりとした目つきをしていた。
次にヘボンが何かを口に開こうとしたとき、彼の目の前を激しい閃光が襲った。
強い光とは対照的に、その瞬間に彼の意識は暗黒に包まれた。