操舵手ヘボンの受難#12 『朝焼けに飛ぶ』
岩場の上をベルン軍曹の先導の下に、ヘボンとミュラー曹長が駆ける。
先程3人の頭上を通過していったグランビアを見てからというもの、曹長は何かに追われるかのような勢いで、慌てながら先導するベルンを急かした。
あの炎上する艦船から放たれる光に朧げに照らし出されたグランビアは、その船体を漆黒に塗染めてあり、側面には何かの紋章が刻み込まれていた。
あれも保身派連中の持ち物であろうかと、ヘボンは暗闇を疾駆する内に彼に聞いたが、返ってくるものといえば肥満体特有の苦しそうな喘ぎのみであった。
だが、その回答についてよりも先に、一旦先導していたベルン軍曹が立ち止まって、こちらに静かに歩み寄ると二人を見ながら口を開いた。
「…見つけた。 ガルエ級だ」
彼はそう言い終えると、少し先の岩場の向こうを指差し、その方向にはその巨体を地に伏せさせたガルエ級が、周囲の炎上する光に照らし出されている。
そのガルエ級は遠目ではあるが、間違いなく見覚えのある艦であるとヘボンは思った。
あの、壮絶なる空中戦を繰り広げる前に、ヘボンがコアテラを降ろした艦である。
発着設備の為に甲板の砲台を撤去しており、その為幾らか改修を加えた特徴的なその姿は忘れられなかった。
しかし、コアテラを降ろした際と比べると、あの雲にこの艦も相当な痛手を被ったのか、帝国の象徴とも言える朱色はどこかしこも黒焦げており、墜落した際の衝撃か、艦の下部にあたる二つの生体器官部分が地面に突き刺さったとも弾けたとも言えるような凄惨な具合に横たわり、ガルエ級は斜めった姿勢に倒れている。
「大分派手にやられたじゃねぇか。 艦載機は確認できるか?」
岩場の影より艦の様子を遠巻きに眺めながら、曹長がベルン軍曹に問いかける。
それに対して、ベルンは暫く注意深くガルエ級を観察してから、少しの間を置いて答えた。
「両舷のマコラガは確認できねぇ。 あの戦闘の際にありったけの艦載機を飛ばしただろうからな。 だが、空中戦には不向きの無用の長物がしっかり、甲板に残ってるぜ」
その答えに反応してヘボンと曹長が目を細めながら甲板を確認すると、斜めった甲板から落ちまいと必死にしがみつこうとしているような様で、あの幾多の死線をくぐり抜けたコアテラが残っていた。
「どっかの誰かと違って、空中戦であれが必要とは思わなかったんだろう。 最高だ」
皮肉っぽく曹長が言うと、もう先導もいらないと曹長自ら先頭に立って、ガルエ級に向かい走り始める。
先程の息切れを起こしていた者とは思えぬ程に、曹長は軽快に闇を切りながら走り、その後ろにベルンとヘボンが続いた。
遠くから銃声が未だに聞こえているが、それは此方に向けてのモノではないようであったし、仮にそうだとしても、やっと見つけた脱出の手段を前にして回れ右をするような余裕は彼等にはなかった。
ガルエ級の斜めった甲板へは、折れ曲がった生体器官を足がかりにしてなんとか登った。
その際に何者からの襲撃も無かったが、内部の肉が溢れ出している生体器官を踏みながら甲板へ登る行為はさほど気分の良い物とは言えなかった。
厚い造りの軍靴を履いていても、そのブヨブヨとした肉の感触はしっかりと体へ伝わり、体の内から気力を奪い去ろうとするが、それでも3人は懸命に生存への希望を持って甲板へ登り終えた。
斜めった甲板上には、至る所に激しい爆発に襲われた箇所が見受けられ、中には艦の内部が覗けるほどの大きさの物もある。
そんな損傷箇所を一つの足場として甲板に備えられた手摺に捕まりながら、3人はやっとの思いでコアテラまでたどり着いた。
機体はまるで不屈の精神を持っているかのように、甲板端に固定されていた一本のワイヤーによって半ば吊り下げられる様な形でそこにあった。
その姿を見た時、ヘボンの胸中に言い知れぬ物が湧いてくる。
内地の基地からここまで数日間ではあるが、下手をすれば一生分の修羅場をなんとかくぐり抜けた、最早相棒とも言えるような機体がこうして残っていた事に、深い感動を覚えたのである。
だが、その機体の外傷の具合はトゥラーヤ級と一戦を交えた時よりも手酷いもので、両舷や機体下部にあたる生体器官から幾らかの出血及び、銃創の様な物が見受けられる。
甲板で炸裂したのであろう爆発の被害を幾らか被ったらしく、実際に操縦桿を握り、内部の様子を調べない限りは飛び立つことが出来るかどうかは見当もつかなかった。
「軍曹。 お前はコアテラの具合を見とけ、こんな土壇場で小娘がヘソを曲げて飛ばねぇときたら適わねぇからな! 機嫌をとっとけよ!」
だが、それでもこの場はこの機体に頼るしかないと、曹長がそう指示を飛ばしながら、甲板にへばりつくコアテラの搭乗口へと、ヘボンの軽く頼りない体を強引に押し上げては、操縦席へ繋がる機体上部に備えられた銃座へと彼を押し込んだ。
「ベルン、てめぇは俺と一緒に来て、艦内の生存者を探すぞ。 役に立つ奴が幾らか残ってるかもしれねぇ」
ヘボンが中へ収まったことを確認すると、曹長はベルン軍曹を連れて、艦内へと手摺を伝いながら慎重に進んでいく。
意外とコアテラの内部は、外の損傷と比べれば、ほぼヘボンが操縦していた際と特に変わりは無く、計器類に異常が見られるような事も浮かばせない限りはまだわからないが、一見したところは問題がなさそうであったので、ヘボンは胸をなで下ろした。
何時間も自身の尻を落としていた操縦席にゆったりと腰を下ろしながら、ヘボンは深い溜息を吐いた。
「…戻ってきたよ」
そう機体に言い聞かせるように、操縦桿を労わるように撫でやってから、実際に彼女がしっかりと働いてくれるかどうか具合を見ることにした。
武装については、先程外傷を確認した時に目を走らせたので覚えている。
どうやら、コアテラを一旦甲板に下ろしてから、ヘボンがシュトラヴァルカ級に乗り込んでから幾らかの換装を行ったらしい。
グレイソン大尉が操るグランミトラを相手にした際に使用した『夜虫弾』と言われる珍妙な兵器は、片舷に備えられたままであったが、そのまた片舷には38連発機銃が一門装備されている。
しかし、『夜中弾』はその重量から、ほかの武装を下ろす外無いと、先日中佐が述べていた通り、本来ならばあと五門はあるはずの機銃は装備されておらず、おまけに噴進砲については言わずもがな外されていた。
随分と中途半端な換装の仕方があったものだと、ヘボンは呆れた。
機動性を確保する為ならば、夜中弾は外し、機銃を三門にすれば幾らかの速度は保てるが、現状では重量がある割に火力が心許ない。
それ以前に夜虫弾の弾倉であるあの黒い長方形の筒に弾薬が込められているのかすら、確認もできない。
たった一人か3人では武装の換装はおろか、ちゃんとした整備も行えないため、ヘボンは精々この機体を担当した整備兵達が仕事熱心であることを祈るばかりであった。ただ、幸運な事と言えば、ヘボンが機体の起動プロセスを始めると、彼女は全くヘソを曲げる事もなく素直にソレに従ってくれたことであった。
生体器官を持つ帝国兵器と他国の主な兵器との大きな違いは、それが生き物であるという点である。
感情がある為に、時には戦闘や飛行を拒む個体も多々にある。
その原因は生体液を適切に与えなかった整備士の場合もあるし、過度に機体を苦しめるような飛行指示を出す操縦手にも起因する。
その他にも様々な要因はあるであろうが、大まかに言ってしまえば主にこの二つであり、ヘボンが操縦しようとしているこの機体は、まさにその飛行及び戦闘を拒む個体のストレス原因に対して完璧なまでに当てはまっていた。
夜鳥を相手にした際にも、その空域にたどりつく為に長時間の飛行を強制し、その後のトゥラーヤ級に対して大立周りをした際にも、お世辞にも休息らしい休息も与えられなかった。
そもそも、機体特有の動きすらさせなかった。
本来ならば、コアテラは編隊を組み、一定の速度を保ちながらゆったりと攻撃行動に移るべきして製造された物であり、決してここ数日にあったような、戦闘機紛いの激しい旋回機動や戦闘に耐えられるようには設計されていないのである。
それにも増して、ガルエ級の甲板に下ろされてからも、苦労は耐えなかったであろう。
その証拠が外装に受けた損傷の数々である。
これほど機体を酷使した経験など無いヘボンにとって、どう彼女を勞ってやればいいのか考えもつかなかった。
彼が操舵手を務めていたラーヴァナ級はこんな激しい戦闘に晒されたことがなく、そもそもそんな激しい戦闘に晒されれば生き残れる艦ではなかった。
とは言っても、コアテラもそんな激しい戦闘に身を置けるような船ではない。
人間に例えるとするならば、過度の疲労に加え、負傷を被り、甲板から落ちまいと必死にしがみついている様な物であり、どれだけ壮絶な状態であるかどうかがわかるだろう。
それでも、彼女はヘボンの期待に添えるように、カラ元気とも言えるような生体音を小さく響かせながら彼に応えるのである。
その健気な響きを耳にすると、ヘボンの瞳に涙が浮かんだ。
己と同じように彼女は訳のわからぬまま死地へ送り込まれても尚、こうして生き残るべく声を上げているのである。
それを思うとヘボンの内に先程よりも気持ちが強くなる。
なんとしてでも、彼女と共に生き延びなければならないと、そう胸の内に強くヘボンは誓った。
「軍曹、飛べそうか?」
ふと、頭上から声が響いた為、慌てて頭を上に向けると、背負っていた雑嚢を機体内へ押し込もうとしている曹長の姿が見え、彼の背後にベルン軍曹も立っている。
「幾らか損傷を受けてはいますが、普通に飛ぶことは可能です。 ただ、戦闘となると保証はできないであります」
「浮けるだけで十分だ。 急いでくれ」
ヘボンの言葉に対して、曹長は幾らか顔に明るい色を浮かべた。
彼としてもやはり、傷だらけのコアテラの様子を見て不安に思っていたのだろう。
「曹長。 艦内に生存者は居たのでありますか?」
計器類を確認しながら、ヘボンは脇目に彼を見た。
自身がコアテラの具合を診ている間、それなりの長い時間が経っていた。
銃座から見える外の景色は、周囲で炎上している光を合わせても、徐々に白く霞みがかり始めている様子から見て夜明けは近いらしい。
曹長はヘボンの言葉に対して、雑嚢をしっかりと銃座の隅へ押しやって、飛行の際に落ちぬように備え付けの拘束具で固定してから、操縦席を見下ろしつつ口を開いた。
「居た事には居たが…連中はここに残るそうだ」
「…脱出手段が無いからでありますか?」
曹長の重たい口振りに、ヘボンも少々顔を曇らせながら言う。
ガルエ級を運用するに当って必要な乗員は約八十名であるが、艦内にどれほどの乗員が生き残っているかはわからない。
だが、仮に生き残っていても、頑張って3名程しか乗れないコアテラでは脱出は到底不可能であろう。しかし、ヘボンの思った事とはまた別の事があるのだという意図が曹長の顔からにじみ出ていた。
「いや、違う。 負傷者や死傷者もそれなりの数だが、意外とこの艦はまだ飛べるらしい。 死んじまったのは前部の生体器官で、後部に無理を掛ければ辛うじて飛行することは出来ると、艦橋に居た連中は言ってた」
「…では、何故?」
「逃げ切れねぇからに決まってるからさ。 さっきも見たろう? あの黒いグランビアだ。 速度も武装もお粗末なガルエ級一隻じゃぁ、アイツに簡単に叩き落とされちまう。 それよか、駆逐艦を飛ばすよりもコアテラをこっそり一機飛ばしたほうが、発見されにくいだろうっていう賭けだよ」
重々しくそう言うと、曹長は懐から煙草を取り出し、箱から一本取り出したところでまた口を開いた。
「だとしても、そんなら先に何人か先を争ってコアテラを飛ばしてたろうって話しだったんだが、残念な事に乗員の内でコイツを飛ばせる奴がいなかったってオチさ。 何分旧式も良い所だからな、それに中佐直属の俺達だ。 投降したって長生きはできねぇ、それならまだ戦って死ぬと中で喚いてやがった。 …中佐の演説熱に当てられやがったな」
そう低く悲しげな一笑を付け足して、曹長は煙草を咥えるとマッチで火を付け、一息に深く吸うと紫煙を霞がった空へ向けて吐き出した。
「俺達が空域を離脱できるように、最大限に支援してやると言ってはくれたが、どれほどのもんか…」
その様子をぼんやりと眺めながら、ベルン軍曹が銃座からガルエ級の艦橋を見やった。
ヘボンには一体、中で詳しく何があったかはわからないが、それでも悲痛過ぎるまでの戦意鼓舞が仕切りに叫ばれていたのだろうと言うことは、ベルン軍曹とミュラー曹長の顔面にこびり付いている、汗ではない唾の様な水分から見て察せられた。
しかし、その様に他人の面を眺めていては良い気分もしない。
早速、煙草を一通り吸うと曹長がこちらへ顔を向けてきたので、ヘボンは慌てて耳だけをそちらに向かせて視線は計器に移した。
「だがまぁ、軍曹。 わざわざ脱出のお膳立てまでしてもらって、しかも、もう一つ良いニュースがある」
「何でありますか?」
「俺達の当初のプランと言っちゃなんだが、アーキルに高飛びして空賊になろうっていう話は無くなった」
「じゃぁ、山賊になるのでありますか?」
「ちげぇよ、馬鹿。 そうじゃねぇ、中佐が生きてることがわかったんだ」
曹長が少々呆れながら口にした言葉に、ヘボンは一瞬己が山賊になる姿を夢想した風景を、完全に破壊される程の衝撃を受けた。
思わず口を阿呆の様に開き切り、曹長へ顔を向けると、一段と面妖なヘボンの顔に一瞬、彼は絶句したが、すぐに事の詳細を話してくれた。
「艦内に残っている連中に聞いたところ、俺達がフレイア級に対しての突入部隊を支援する為に、艦から飛び出た後に、中佐達は保身派艦隊と交戦を続けている味方の旧式連中の支援に動いたそうだ。 あのガルエ級はそれに途中で合流してから追随して動いた。 そして、例のシヴァ級からは最も遠い位置に行けたらしい。 その後、例の妙な雲の勢いを見るや、味方どころか保身派も一旦戦闘を中止して、退避行動に出たらしいが、大半が間に合わなかった。
だが、中佐が指揮したアルバレステア級は、速度と位置を活かして、これがどうやら逃げ果せたらしい」
「…らしいとは?」
「知っての通り、ガルエ級は鈍重だからよ。 途中で見失ったそうだ。 それでも、墜落する姿もした姿も誰も確認していないし、通信を探るところによると、各艦の艦長へ向けて『帝都へ引き返し、再起を図る』と打電して寄越してきたから、多分生きている」
その言葉に、ヘボンは機体が動いた際に感じた感動程ではなかったが、それに近い昂ぶりを感じた。少なくとも、まだ国内に残れる理由だけは落ち着いた訳である。先程まで、半ば信じかけていた国外へ逃げ延び、空賊として生きるなどと言う途方も無い目的よりも、まだ中佐が生きているとの朗報は幾らか明確な形を持っていた。
「わかったら、早く飛ばすんだ。 夜が明けちまったら、すぐに見つかっちまうぞ」
曹長は煙草を遠くへ投げ捨てると、そうヘボンを急かした。
言われるがまま計器を弄るヘボンの指先に生気が漲り始めていた。今はなんとしても中佐の下へ行く為に、飛ばなくてはならない。
例え、困難に満ちていようとも、まだ生き残るべき理由が疲れきった精神を揺り動かし、またそれに答えるかの如く、コアテラは生体音を徐々にハッキリとした物へと変化させていった。
「いいか、軍曹。 出来る限り、相手方に大きい動きをして悟られねぇように、甲板から飛んでからガルエ級も続いて浮上する。 その後は脇目も振らずに朝焼けに向かって飛べ、最大限に日光を利用しろ。 ある程度、敵の追跡について見当を付けたら、反転して帝都へ向けて飛ぶ」
「帝都まで機体が持つでありますか?」
「それは神頼みだな」
操縦席に腰掛け、操縦桿を握るヘボンの耳元で、ミュラー曹長が仕切りに飛行計画を念押しする。だが、飛行計画と言う程大層なプランでもなかった。
ベルン軍曹は銃座に立ち、手摺にワイヤーを掛けて、落下防止の為に体を固定している。
手には小銃を携え、その小銃の先端部には、あのグランミトラを撃墜した際に中佐が使用した照明弾を発射するための円筒形の筒が装着されている。
どうやら、有事の際にはまたそれを扱うらしい。だが、空は未だに暗いが、夜明けは近いらしく、徐々に霞始めている。
この様な状況で果たして、問題なくあの妙な兵器が動作するのかはわからなかったが、あの夜に見たグランミトラを一撃で破壊するあの火力はどうしても、追われる者の切り札として保持していたかった。コアテラが浮上する際、合図などは必要なかった。
外装に負った傷のせいで、上昇速度はあまりにも緩慢としたモノであり、それは内地の基地から飛びだった時と比べてとても遅遅としている。
この瞬間を敵に狙われでもすれば一溜まりもない。
対空兵器については夜虫弾があるが、これは相当な距離まで近づいてマーキングをしない限り全く意味がない。平行的な目標を狙う位置に付けられた機銃では尚更である。
その為、コアテラがゆっくりとその甲板に這いつくばる姿勢から、飛行姿勢であるT字形になるまでの間、3人は一言も声を上げず、コアテラの具合を見守っていた。
生体器官が低い唸り声を上げて、徐々に甲板から少しずつ浮き始める。
銃座に立つベルン軍曹は只管に、警戒強い目を鋭く霞がかった夜空に這わして、ミュラー曹長は銃座と操縦席の狭いスペースの中に、己の丸っこい体をなんとか押し込めながら、息を殺して事の成り行きを祈っている。
そして、そのコアテラを操るヘボンの耳には周囲の環境音や、生体音ではなく、操縦者のみが聞こえる『声』が響き出していた。
それはノイズの様なものであり、凡我々の知る声というには大分かけ離れている。
肉体的に感じられるモノではなく、精神に直接訴えるような歌にも似たソレは、ヘボンの体内を巡る血液の様に熱く脳内に目まぐるしく入ってくのだ。
この感覚はラーヴァナを操舵していた際にも感じていた。
これは長い間操舵手に携わり、機体に愛された者のみが聞こえる声であり、言葉で幾ら説明しても本質的な事はそれを扱う者だけにしかわからない。
そして、声はノイズの様な振動を集中させ、ヘボンの意識に確かにこう語りかけてくる。
『生き延びたい』
と、その必死な叫びはヘボンのみならずコアテラに乗る3人が共有する意識そのものであり、ヘボンにはベルン軍曹とミュラー曹長の内情について詳しいことは知らないが、このコアテラの奏でる声こそが3人をある意味で一体化させるような効果を齎すのである。
「敵機だ!」
その為、唐突なベルン軍曹の叫び声にも二人は冷静に応対する事ができた。
コアテラは既に甲板から浮上していたが、まだ飛行速度を上がりきっておらず、今はまさに格好の的であった。
それでも、ヘボンの額に冷や汗が流れる事はない。
己の任務はコアテラを飛ばすことであり、不意の緊張や興奮で操縦桿へ妙な動きを与えてはならない。
緊張やましてや恐怖が操縦桿から、生体器官に伝われば、彼女はすぐに萎縮してしまう。今、この場で萎縮させてはいけないのだ。
どの様な状況であろうと全力を出し切って飛んで貰わない限り、死地を脱する事など不可能だからである。
「5時と7時の方向から2機来る! 機種はグランビアだ! 畜生、例の黒塗りだぞ!」
ベルン軍曹が怒号と共に、小銃を構えた。
この状態で敵機とやりあえる武装など、彼の手に携えた小銃しかなかったのである。
「撃つな! 高度を取れりゃこっちのもんだ! 引き寄せれば、降伏勧告ぐらいはしてくれるかもしれねぇ」
そうベルン軍曹が構えた小銃を素早く押さえ込みながら、曹長が徐々にこちらへ接近してくるグランビアへ目を見張る。
その際にもヘボンは機体を上昇させる作業に取り組むが、その傍ら耳にはしっかりとグランビアから発せられる低く空気を切り裂くような音が響いてくる。
そして、それに続いて、耳を劈く様な発砲音が鳴り響いた。
幸い、コアテラには命中しなかったというよりは、敢えて外した威嚇射撃であろう。
その発砲を行った操縦手からの通信が、耳に当てていた受信機より聞こえてくる。
声は低く、出来る限り感情を押し殺したような物で、それは長年軍務をこなしてきた者だからこそ成り得るものと言えた。
「発着作業中のコアテラの搭乗員に告ぐ。 直ちに、船体を甲板に下ろせ。 これは警告である、従わない場合は即座に撃墜する」
受信機越しに聞こえる声は死神からの死の宣告とも言えたが、この場限りはヘボンは体に震えを覚えず、まだ冷静に操縦桿を引き続ける。
勿論、上昇の為だ。
「こちら、コアテラの機長を務める、第13特殊空域旅団所属ボリス・ミュラー曹長だ。 その指示に直ちに従うが、そちらの官姓名を先に述べるのが筋というものではないか?」
その際に曹長が通信機をひったくって、普段の乱暴な物言いとは打って変わって紳士的にそう返答した。
大方、上昇までの時間を稼ごうと言う算段である事は、誰の目にも明白であった。
相手方がその算段に気付かない訳がないが、何しろこちらは戦闘機と戦う能力など本来持ち合わせない船であり、ただの逃亡を行おうとしているようにしか見えないとしてもそれは油断にはならないだろう。
その術中に嵌ってくれたかどうかはわからないが、少なくとも相手のパイロットも保身派の貴族筋の人間である為か、曹長の通信に面を食らったかのような暫しの沈黙の後に通信を返してきた。
「…確かに貴官の言う通りだな。 私は 「今だ! ベルン! 高度が上がった! 撃ち殺せ! 軍曹、虫の弾倉を全て空にしろ!」
だが、暫しの間を置いた間にコアテラは少なくとも夜虫弾が発射可能な高度まで上昇することが出来ていたのだ。
グランビアの操縦手が丁寧に寄越してきた通信を、曹長は怒号の下にかき消した。
「恨むなら、礼儀作法を教えた親でも恨めよっ!」
曹長の声に答えて、即座にベルン軍曹が照明弾をグランビア目掛けて発砲する。
その弾道はグランミトラと対峙した時よりも、幾分か距離があったが、それでもそんな障害など問題にしない程、ベルン軍曹の射撃術は巧妙であった。
発砲音が聞こえた拍子に、ヘボンもそれに続いて夜中弾の発射桿を一気に引き切った。
直様、後方のグランビアへ向けて照明弾の放つ眩い光に引き寄せられるように発火動作を始めた虫達が襲い掛かる。
その全体の数はグランミトラの時よりも弾倉が一筒である為に劣るが、狙いだけは正確であった。
「軍曹! 全力で飛べ!」
そんなドサクサに紛れて、曹長が指示を飛ばす。
言われるがまま、ヘボンはコアテラを上昇動作から一転させて、真っ直ぐに進ませる。
一瞬、ガルエ級の艦橋に生体器官の下部が当たるかと思われたが、それはこの機体独自の危機回避能力によって、下部を柔らかく捻る事により回避された。照明弾の閃光と、夜虫弾の奇襲に寄って、後方の様子がわからないヘボンでも、少しの時間は稼げたと判断した。
だが、それは大きな間違いであった。
「何て奴だ! 虫を避けやがった!」
そのベルン軍曹の叫び声にヘボンは耳を疑った。
あの機動性の高いグランミトラでさえ、虫を避けきれずに炎上した筈である。
一体何が起こっているのかヘボンには一瞬理解が出来なかった。
「不味いぞ、奴ぁエースだ」
軍曹が苦虫を噛み締めるような調子で呻いている。
ヘボンは今回こそ冷静そのものであったはずだが、こればかりは些か平静を失いかけていた。
一体どうやって、グランビアが迫り来る虫を避けたかについてヘボンは後で知った事であるが、迫ってきた直前に相手は虫に対して錐揉み状に機体を捻り続ける事でそれに対処したという話であった。
そんな離れ業を寸でにやってのけたという事はどれほどの技量の持ち主であるのか、想像は難くない。
ただ、今ヘボンに出来ることといえば、曹長に指示された通りに全速で、時期に朝焼けが姿を現すであろう空に向けて飛び続ける事だけであった。
背後より死神の呻き声が聞こえてくる気がした。