操舵手ヘボンの受難#14 『尋問』
「さて、いい加減に布を取ってくれ」
落ち着いた低い声がヘボンの耳に響いてくる。
その声の通りに、今まで視界を覆っていた布を取り払った。
すると、目の前には小綺麗に制服をしっかりと着こなした男が、椅子に腰掛けている。
ヘボンも同じように椅子に座らされ、隣に目をやると小銃を携えた憲兵らしき兵士が鋭い眼差しでこちらを睨んでいる。
動くなと無言でこちらに命令していることがわかる。ヘボンはその場を少し見回した。
特に装飾も無い壁に囲まれ、明らかに通常の船室とは趣が違う尋問室であることが判る。
一つだけしかない扉の前には憲兵らしき兵士が立ち、船室中央には事務机が置かれ、それを挟むようにして椅子が2つあり、その片方にヘボンが座り、向かい合う男がもう片方に腰掛けている。
「なるほど。 確かに特徴的な顔だな。 ヘボン・ワトキンス軍曹? 少々手荒な真似をしてすまないね」
椅子に座りヘボンと対面する男は、朗らかにそう言ったが、まったく状況は平穏なものではなかった。
数刻前にヘボンが操縦するコアテラはアルバレステア級から送られた降伏勧告に了承し、大人しく機体を甲板へ下ろした。
グランビア一機から逃げ切ることは出来なくもないが、巡洋艦の艦砲に狙いを定められているようではどうしようもないと、流石のミュラー曹長も観念したのだ。一体、連中に何をされるのか、下手をすれば即刻銃殺刑に処されるのかと、ヘボンは恐怖に怯えたが、今更逃げ様も無かった。
そして、両手を上げてゆっくりと機体から這い出た時に、ヘボンは絶望した顔で瞳からは涙が溢れ出たが、それでもアルバレステア級の甲板上に現れた武装した乗員達は、遠巻きに火器を構えるだけで一向に此方の3人に近づく事が出来なかった。
「…これは一体どういう事でありましょうか、曹長殿? …もしや、連中、この場で私達を撃ち殺すつもりでありますか?」
恐怖に震える声で、ヘボンはミュラー曹長を見た。
彼はヘボンの隣で動揺に両手を上げていたが、その顔には恐怖を微塵も感じさせぬ随分と落ち着いたもので、その隣のベルン軍曹も全く同じ様子である。しかも、それどころかベルン軍曹に至っては小気味よい微笑すら浮かべている。
「違うだろ? 面を喰らってんだ。てめぇの顔が尋常でない事にな」
随分と落ち着いた表情で、曹長がニタニタと笑いながらヘボンに答える。
「そんな馬鹿な事はないであります。 私達は捕虜であります」
そうヘボンも言い返したが、よくよく涙に滲んだ瞳から己等を包囲する乗員達を見てみると、皆一様に隣の者と顔を見合わせながら、何かヒソヒソと話し合っているようである。何を話しているのかまではわからなかったが、暫くするとヘボン達を包囲する人垣から、憲兵と思わしき男が出てきた。
いや、出てきたというよりは、人垣から押し出された様な調子で、本人は片手に拳銃を握り締めながら歩み寄ってくるが、その手元がガタガタと震えていることが見て取れる。そして、その近寄り方はまるで猛獣に近づく哀れな餌が如く、全身を恐怖に震わしているかのように見えた。
「…貴様等がラーバ中佐一派の者であることはわかっている。 大人しく、抵抗を止めろ!」
憲兵風の男は拳銃を構えながら、ヘボン達から数歩先で歩みを止めてそう叫んだ。
「…抵抗していないであります」
「黙れっ!大人しくするんだぁっ!」
両手を挙げたままヘボンは呆気にとられた様子でそう答えたが、憲兵風の男は半ば悲鳴のような声をあげた。
一体、この男は何がしたいのかとヘボンは男の顔を直視した。
目と目があった瞬間に、憲兵風の男の目が限界まで開き切った。
その顔は恐怖に支配され、まるで地獄を目の前で見ているかのようであり、次の瞬間には奇声とも悲鳴とも付かぬ声を上げて人垣へ走り去ってしまった。
「こりゃ、見てて面白いが、埒が明きやしねぇ。 おい、軍曹。 顔を覆え、自分で」
ミュラー曹長がそう横で笑いながら、布切れを差し出してきた。
ヘボンは何やらわからぬままに、自分で自分の顔を覆い隠した。
すると、視界は塞がれたものの、ようやく人垣が自分達に近づいて、武装解除をするように促す声が聞こえてくる。
声の主は先程の憲兵では無いようだが、何処か遠くで彼の泣き叫ぶ声が聞こえてくる気がした。
そして、自分で目隠しをしたままヘボンは誰かに付いてくるように促され、一旦手元に手錠を掛けられながら連行されたのである。
「さて、そう強張る必要はない。 別に私は…あぁ、先に名乗るのを忘れていたな。 私はアンドレアス・ヘルマン中尉…まぁ、君に対する尋問を担当する事になった。 何分、君の事には興味が尽きない。 ちょっとしたファンとも言えるね」
朗らかにヘボンに話しかけてくるヘルマン中尉は、痩せ型の中年男性であり、髪はミュラー曹長と比べればまだ豊富であったが、少々乏しい点は否めなかった。何かと優しげな雰囲気を漂わせているが、飴と鞭を使いこなすのが尋問を担当する者の技術であり、胡散臭い感じもするが、少なくともヘボンの顔を直視して泣き出さない点だけは遥かに好感触であった。
「あぁ…中尉殿。 私はその…脱走罪で、銃殺刑に処されるのでありましょうか…?」
ヘボンは自身の太腿を強く掴みながら、食い入る様に中尉の顔を見た。
すると彼は朗らかな調子を崩さずに、大袈裟に首を横に振った。
「何を言っているのだ? 君の活動の何処が軍事法廷に立つべき責任を課す必要があるというんだね? 寧ろ、君は被害者だ。 全ての元凶はあのラーバ中佐の性だろう?」
ヘルマン中尉はそうヘボンを励ますかのように笑うと、懐から煙草を取り出して、一本こちらにも勧めてきた。この様な状況下では断る理由もあるわけがなく、二人で同じように紫煙を吐き出すまでは中尉は口を開かなかった。そして、お互いに少し落ち着いたのを見てとってから、少し熱っぽくその口を開き始めた。
「…ヘボン・ワトキンス軍曹。 第3艦隊直下の夜間爆撃特別小隊配属のラーヴァナ級の操舵手として活躍。 ヒグラート渓谷を抜けての強行夜間爆撃作戦に従軍、及び、アーキル前線基地に対して多大なる損害を与えた栄えある経験から、部隊においては人望も高いと…まぁ、この書類にはそう記してあるがね。 間違いはないかい?」
中尉は椅子と椅子の間に置かれた事務机の上に数枚置かれた書類の一つを読み上げながら、ヘボンを見てきた。
「人望が高いであるかは別として、所属と従軍作戦についてはその通りであります」
「…よろしい。 とは言っても、重要なのは、ここ数日の君の戦果の数々だ。 半ば一週間前には前線を突破して侵入してきたアーキル連中の攻勢をたった一機で、しかも旧式駆強襲艇コアテラのみでねじ伏せたと書類にあるが、これは真実かね?」
一旦煙草を事務机の隅に置いてあった灰皿に置きながら、中尉はヘボンの顔を覗き込んできた。朗らかな顔をしておきながら、彼は中々肝が据わっているらしく、甲板の憲兵みたく名状しがたき恐怖に負けることはなかった。
「いえ、私はラーバ中佐の指示のもとに、迎撃戦闘機ユーフーと交戦し、これを撃墜。 翌日にミュラー曹長・フレッド准尉・グレイソン大尉と共に共同作戦に就き、軽空母トゥラーヤ級及び、快速強襲艦 パノラマノラと交戦、此等を撃墜しましたのは事実でありますが…攻勢をねじ伏せたなどと言うことについては、小官にはわかりかねます」
中尉の質問に対して、ヘボンは冷静にありのままの事を報告するが、撃墜という単語を使う度に中尉の体が少々強張るのが見えた。
そして、一旦ヘボンの話を聞き終えると、中尉はまた灰皿に置いてあった煙草を指に挟んで一度深く吸い込んでから、紫煙を吐いてこちらを見た。
その顔には先程までの朗らかな色は消えて、代わりに強い興奮を示しているかのような熱を発する顔があった。
「やはり、中佐の嘘か。 君は知らないだろうが、公式の報告書には迎撃戦闘機ユーフーが一機どころか、小隊規模であったと記されているし、トゥラーヤ級に至ってはこれに加えてコンスタンティン級駆逐艦2隻まで含まれていたが、流石に無かったか…いや、そうだとしても恐ろしい戦果だ」
中尉は少々顔を赤くしながら、何処か満足げにそう言った。
以前にも中佐が何かと事を大きく言いたがる癖があると、ミュラー曹長には聞いたが、まさかそこまで話が大きくなっているとは、ヘボン自身全く知らない事であった。あまりの大戦果に当事者とはいえ、面を喰らってしまったヘボンに対し、中尉は話を続ける。
「その後については言うまでもないが、我々の部隊と中佐の一派は幾度か交戦を繰り返したが、その際にも君は、その卓越した技術で急場を凌いでいる。 出撃記録から考察するに、少なくともグランミトラ艦載戦闘機に、数刻前には我が部隊のグランビア艦載戦闘機も撃墜されている。 全て、君の仕業と言う訳だ」
「しかし、撃墜しろと指示を下されたのは、ラーバ中佐殿とミュラー曹長です。 私の意思で実行したのではありません。 命令に従ったまでのことです!」
ヘボンはその点について追求が迫ると、慈悲を求めるかのような声を喉奥より捻り出した。
実際、あの時は致し方なかったとは言え、大まかに言えば友軍機を攻撃し、しかも撃墜までしてしまったのである。
幾ら、様々な事情が絡み合っていたとは言え、大局的に見れば重罪は免れない行為であった。
「勿論、それはわかっている。 兵士は命令に忠実な事が大原則だ。 しかし、撃墜したのは君自身の技術と…あのコアテラだ。 正直な話、誰も中佐の報告などを信じるつもりはなかった。 彼女の誇大報告はいつものことだからだ。 だが、それに追従するだけの事実を有している君は、あまりに異質だ。 先程だって、追撃してくるグランビア艦載戦闘機から逃れ、翻弄したとの報告を君が撃墜したグランビアの僚機操縦手から報告を受けている。 …君は本当に人間なのか?」
前に同じ事をミュラー曹長にも言われた気がするが、ヘルマン中尉の顔には嘲る様な色もなく、ただ純粋に好奇心から言っている節が見受けられた。
「私だって軍隊で長い間、飯を食ってきた身だ。 一時は帝都艦隊にて戦闘機部隊に所属していた事もある。 だが、今まで見てきた多くの兵士達の中で、君が色々な意味でトップクラスの操縦手だ」
「はぁ…しかし、小官は今まで夜間戦しか経験したことがありませんので、些かわかりかねます」
「まぁ…そうだろうな。 才に恵まれるものは中々、己の才を自覚出来ないモノだ」
ヘルマン中尉はそうしみじみと何処か何かを回想するかのように少し視線を逸らしながら、そう言いながら小さく苦笑して、再びこちらを見た。
「君と同乗していたミュラー曹長も然りだ。 以前に私は彼と帝都艦隊に所属して共にスコアを競い合ったことがある仲なんだよ」
「…ミュラー曹長が?」
中尉の言葉に思わずヘボンは聞き返してしまった。
確かに曹長が卓越した操縦手であることはヘボンも認めるが、中尉の話が事実ならば、彼は帝都艦隊の戦闘機部隊に所属していた事になる。
帝都艦隊の戦闘機部隊と言えば、『稲妻部隊』にも負けず劣らずの名を轟かせるエリート集団ではないか。
とてもではないが、あの愉快に肥え太っている髪の無い男がそんな上品な前身があるとは信じられなかった。
「そうだ。 もう随分と昔の話だ。 共にマコラガ護衛戦闘機やグランヴィナス艦載戦闘機に跨り暴れまわったものだよ。 当時は今のようにグランヴィナスがグラン『ピア』などと嘲られる事もなかった。 あれこそ、帝国が誇る傑作戦闘機であると私は今でも思っている」
中尉は本来ヘボンに対して、尋問をする筈であるのだが、そんな事関係なしに昔話を語り始めた。
職務に忠実ではないと思ったが、そんな事を指摘できる権利などヘボンに無かった。
「私は常に敵機に喰らいつく事に徹していたが、ミュラーは…敵機を甚振る事を何よりも好んだ。 奴は正真正銘のサディストだよ。 敵の心情をいとも容易く弄び、そして、簡単に敵機を突き放すと絶望の淵に叩き落として殺す。 そして、執念深くて、不時着した敵機の操縦手近くまで降下していって、わざわざ止めまで刺していくんだ。 …ミュラーがまともに空戦を行えば、誰も奴には適わなかっただろうね。 私は奴が遊んでいただけ真面目にしたから、奴よりは少しだけスコアが上だったんだ」
「…しかし、曹長は自分で野戦畑の人間だと言っていましたが…」
「…奴がそう言ったのか? 確かにそれは嘘じゃないが、それは中佐の元で働くようになる前からだ。 帝国に対する背信行為を働く前のな」
「背信行為?」
「あぁ…いや、それは本人から聞いたほうが早いだろう。 なに、我々は君を罰しようだなんて考えてはいない。 寧ろ、この艦に下りてきたことを感謝したいぐらいだ。 君とベルン・シュタリット軍曹、それとボリス・ミュラー…曹長だが、勿論手厚く保護する。 尋問は一先ずこれで終わりだ。 君達の為に一室用意した。 そこで寛いでいたまえ、一応捕虜なのだから、待機していてくれ。 次の尋問の際は事前に通達する」
そう中尉は何処か満足気な顔で、ヘボンに退室を促してきた。
降伏を受け入れたこちらは捕虜だというのに、何がどうなっているのかヘボンは理解出来なかった。
彼等は保身派で、ヘボン達はその保身派と交戦していた筈ではなかったのか、まだ中佐の命令と拉致で連れ去られてきた己ならともかく、直属の兵士として活動していた曹長と軍曹まで手厚く保護すると言っている。
これが一体何を意味するのか、ヘボンは頭を酷く悩ましたが、それでも今は大人しくこの指示に従うしかなかった。
憲兵に従い尋問室を後にし、通された部屋は将校用に宛てがわれた船室の様であった。
一等船室と言ったところか、ラーヴァナ級に詰めていた時の仮眠用に使っていた多層の寝床が縦に連なった粗末な部屋とは次元が違う。
ヘルマン中尉は手厚く保護するなどと言ったが、どうやら質の悪い冗談ではなかったらしい。
「よぉ、軍曹。 長かったな」
そうヘボンが船室の高級さに狼狽していると、船室の窓辺に煙草を咥えて、ミュラー曹長が立っていた。隣にはベルン軍曹が壁際に備えられた寝台に腰を下ろしながら、少々神経質そうに指先を膝に遊ばせている。
「曹長…これは、驚きました。 てっきり、重営倉入りかと思っていたであります」
「若しくは、甲板から突き落とされるかだな。 連中随分と、俺達を買っているらしい」
率直な感想を口にするヘボンを見ながら、曹長はベルン軍曹と同じように寝床に腰を掛けると、お前はそこの椅子にでも座れとヘボンを促してくる。
戸口の脇にあった事務椅子は安楽椅子の様にとても柔らかく出来ており、ヘボンの軽い体でも深く尻が沈むほどであった。
「連中。 一体何を考えているのでしょう? 私達は彼等にとって敵ではなかったのでありますか?」
「まぁ、そりゃ勿論なんだが、殺すよりも幾らか俺達を利用したいらしいな」
椅子に深く腰を落としながら、ヘボンは曹長の言葉に耳を傾けた。
「何しろ、たかだか旧式のコアテラであそこまで馬鹿やったんだ。 誰だって少しは操縦手と機体に興味が湧くし、何しろ帝都貴族や軍を敵に回そうってんだから、使える物はなんでも取っておきたいんだろう。 例え、敵対する中佐の部下でもな。 連中、俺達を簡単に懐柔出来ると思ってやがる」
「…」
曹長の言葉にふとヘボンの脳裏に、ヘルマン中尉の先程言っていた言葉が思い起こされる。確かに原隊には戻れそうにはないが、まだ保身派の方で保護されていた方がマシなのかもしれないと考えてしまうのだ。
そもそも、ヘボンは何か政治信条があって中佐に付き合った訳でもなければ、正式な命令で事に加わった訳でもない。
ヘルマン中尉の言葉を借りるなら、己は全く以て『被害者』に違いないのである。
死線をくぐり抜け、どうすれば原隊に戻れるかばかり考えていたが、あのゼイドラ内にて話してくれた、さほど内容のわからなかったミュラー曹長の小難しい話から考えるに、自分は今恐ろしく厄介な事に巻き込まれてしまったのだと今更になって痛感する。
もう、原隊に復帰する事は事実上不可能なのかもしれない。
ともすれば、手厚く保護するとまだ口約束ではあるが、その口約束すらたった数分後には破棄して地獄へ叩き込んでくる中佐を敢えて探すよりは、中尉の言葉に乗っかった方が遥かに得であるかのように思えてしまうのだ。
だが、こちらの思惑を読み取ったか、曹長が鋭くヘボンを睨んだ。
「おい、軍曹。 今てめぇ妙な事考えたろ?」
「いえ! そんな事はないであります!」
「嘘を言うな。 顔に出てるぜ」
思わず、ヘボンが怯むと、その様子を見て曹長は下品な笑みを浮かべながら、寝台近くにあった台の上から掌ほどの大きさの酒瓶を取った。
どうやら、船室に備えられている物らしいが、銘柄から見るにお安い配給品や一般兵士が入手できる酒保物品とはこれも次元が違う代物らしい。
「...それでも、当初の空賊になろうだのと言った計画よか、遥かに良くなった訳だ。 それとまずは首と胴がくっついてる事を祝して、まずは一献だ」
そう言いながら、曹長はこれまた船室備え付けのグラスを手にすると、それを机に並べ酒を注ぐ。グラスを鼻先に近づけると、豊潤なアルコール臭が鼻腔へ入ってくる。
あまりに甘美な香りに体から力が抜けていくような錯覚さえ覚えるが、何かの薬物の性ということではなく、単純に緊張と興奮の連続から解放された故の安堵の為であった。
「しかし、曹長。 我々はこれから一体…」
ふと酒を煽ろうとした際に、ヘボンは曹長を眺めながらそう言いかけたが、すると突然彼はヘボンに対して今までにない鋭い睨みを利かせた。
その様に思わず怯むと、曹長はグラスを片手に、窓辺に置いてあった煙草缶を掴むとヘボンに手渡してきた。
「まぁ、その話は後にしろ。 今は楽しめよ」
そう口では言うが、目は笑っていなかった。
曹長は煙草缶の蓋を指でトンと叩いてから、ヘボンに渡すと己はそっぽを向いてしまった。
彼が何を言いたいのかヘボンには小首を傾げる思いであったが、何故か曹長が煙草缶の蓋へ注意を向けさせた点が気になって、煙草缶の蓋を取ると、脇目にそれを見たが一瞬ヘボンの体が強く強ばった。
煙草缶の裏には小さく文字が書かれていた。
ミュラー曹長が書き込んだモノと思われるが、小さく丁寧に箇条書きで書かれている。
『俺達は監視・盗聴をされている。 下手に中佐の事を口に出すと、即刻処理される』
『なんとしても、逃亡を図る意図を向こうに悟られるな。 どうせ、こっち側についたって長生きは出来ない。 俺達は殺し過ぎた』
『コアテラについて、連中は興味を持ったらしい。 下手をすれば解体されるだろう』
『今後の事については、この様に文字を受け渡しつつやり取りする。 ここに書かれたこともお前が読み終えたと、判れば消去する。 何か合図をしろ』
その箇条書きに出来る限り然りげ無くヘボンは目を通すと、缶から煙草を一本取り出しては酒を少し煽ってからグラスを置くと、懐からマッチを取り出しては火を点ける。
「…この煙草はなんという銘柄でありますか? 蓋裏を見ても書いてないであります」
紫煙を吐き出しながら、そうわざとらしく問いかけると曹長が小さく笑った。
「内地の出には珍しいだろうな。 貴族用達の代物さ」
曹長はそう言いながら、蓋を受け取りその裏をわざとらしくよく見えるように擦っているが、それで筆跡も消すつもりなのだろう。
蓋を擦り終えると、曹長は自分も一本煙草を摘んでから、煙草缶の蓋を戻してから一服し始めた。
「…ところで、軍曹。 ヘルマン中尉に色々聞かれたそうだな」
事も無げに曹長はそうヘボンに話しかけてきた。
その顔には何処か柔らかい物を感じられたが、中尉の話を信用するとなるとこの柔らかい表情にも何か裏があるように感じられて仕方が無かった。
「えぇ、確かにそうでありますが…何故、それを?」
「俺の担当が話したのさ。 尋問官…と言うより、アイツは拷問官だったがね」
その柔らかそうな表情のまま、拷問官などと物騒な単語が飛び出してくると、ヘボンは思わず曹長の方を見た。
「曹長…何をされたのでありますか?」
「顔を派手にビンタされた」
しかし、曹長はヘボンの心配するような目を他所にニタニタと笑いながら紫煙を蒸した。
「どうやら、俺達が撃墜したグランビアに乗ってた操縦手の上官だったらしい。 そんな奴が、部下をぶっ殺した人間にまともに話を聞くと思うか? ビンタの次は散々に罵倒された後に、拳銃をど頭に突き付けられた」
「よく、殺されなかったでありますな」
「代わりにガルエ級の制圧砲を用いて、叩き落とそうって提案したのはお前って事にしておいた。 時期にここにすっ飛んでくるぞ。 その上官」
さも愉快そうに言ってのける曹長の言葉に思わずヘボンはたじろいだ。
確かにヘルマン中尉の言っていた通り、ミュラー曹長はサディストたる一面がある様に思った。何せ、たじろいだヘボンを見ながら、下衆な笑みを浮かべている。しかも、予言が的中したかのように、急に船室の戸先が騒がしくなった。
きっと監視や盗聴を兼ねて、戸の前で張っていた兵士と押し問答になっているのであろう、激しく言い争う様なやり取りが聞こえ、その内に張っていた兵士が折れたのか扉が激しい音と共に開かれると、そこには尉官制服に身を包んだ長身の女性が立っていた。
その肌は浅黒いまでの強い褐色であり、銀髪を頭の後ろで縛って纏め上げていた。
見るからに数多の戦場をくぐり抜けたかのような、歴戦の強者と言ったような出で立ちである。
「…ヘボン軍曹とはどっちの事だ? ミュラー曹長?」
彼女はそう極々低くドスの利いた声を放ちながら、その瞳を怒りに歪ませている。
両手にはしっかりと拳銃が握り締められており、彼女が何をしたいのかは説明するまでも無いことだろう。
「…顔を背けてる方だ。 好きにしな、但し顔は見るな」
曹長の何気ない一言が、恐ろしく感じられる。
今の言葉は子供を売る親よりも非道い物に思える。
尋常でないまでの殺意をヘボンは感じていた。
そして、それは撃鉄を引き上げる音が殺意の明確な証明であった。