操舵手ヘボンの受難#16 『双子』
夢のうちにあって、その時のみ以前にその場に自身が存在していたのだと思い出す時はあるが、今がまさにソレであった。
ヘボンは長い肉腫から成る通路を歩いていた。
前の夢は誰かの声に導かれるままにその歩を進めたが、今回ばかりは道連れの様な同伴者が己の隣に立っていた。
その者の身の丈はヘボンよりも随分と小さく、一見して子供であると思われたが、その者の全身には何か黒い靄が掛かっており、細かい部分を見ることは出来なかった。それでも、ヘボンに対してその妙な者は彼を慕っているのか、ヘボンの腕にしがみつくようにして彼が歩くと、それに付いてきた。
「…君は誰なんだ?」
そうその妙な物体にヘボンは問いかけるが、子供の形をしたソレは黒い霞をまるで肉体の一部かのように小刻みに震わせて答えるのみであった。
「言いたくないなら、いいよ」
どうやら言葉も通じていないらしいので、そうヘボンは一蹴して、歩き続ける。
左右の壁は肉腫で構成されており、太い血管が張り巡らされ、動脈でもあるのか不気味なまでに膨張と収縮を繰り返している。
そして、肉腫の間にはどういう経緯でそれが生み出されたかも検討が付かないが、拳程の目玉が浮き出ており、その黒い眼がじっとヘボンと連れを凝視していた。あまりに浮世離れした光景にヘボンは途方もない虚無感を覚えたが、だが、あまりに惨たらしい光景故にこれは夢であると言う自制心が働き、発狂したくなるような心持ちを抑える事が出来た。
その奇妙な散歩は随分と長く続いた。
ヘボンの歩幅では子供のような者はどうやら苦しい事に気付くと、ヘボンはゆっくりと歩幅を狭めながら、周囲の状況を見回しながら歩く。
幾ら異形な光景であっても、何度も見ていれば幾らか慣れてしまうのか、ゆっくりと歩いているうちにヘボンは奇妙な道連れとの間に親密な何かを覚えた。
時にステップを踏み、子供を持ち上げては振り回す。
その度に歓声を上げるかのように子供を覆う黒い霞は震え、気づけば二人は通路の奥へ向かって共に愉快に走り出している始末であった。
何処までも走って行き、何処が行き止まりなのか、それを探っているような夢であった。
「起きろよ。 軍曹」
しかし、夢の目覚めは唐突であった。
不意に頭上にここ数日で聴き慣れたミュラー曹長の声が響き渡った途端に、ヘボンの瞼は開かれ、視界の先には船室の寝台脇で立っている曹長と、窓辺で煙草を吹かしているベルン軍曹が居た。
「ほれ、お前の番だ。 行ってこい」
曹長はそう言いながら、ドアの方を指差した。
そちらへ目をやると、ドアの先に憲兵が一人厳格そうに立っている。
どうやら尋問室へと連行してくれるようだが、曹長の口振りから、自分達への尋問は既に終わっているらしく、朝食が盛られていたのだと思われた食器類は空になって、ドア脇に置いてあった。
わざわざ寝ている自分を起こさずに自分の分の食事も食べてくれるとは、随分と親切だと皮肉に思いながら、ヘボンは飛行服を脱ぎ、シャツとカーゴパンツの装いで顔を船室脇に備えてある水で少し洗ってから、徐に憲兵の後に続いた。本来ならこんな剣呑とした動きであれば、一喝でもされると思ったが、ドアに立っている憲兵はヘボンの顔を見るのは初めてであったのか、とても親切に横槍も入れずに背筋を震わせ、歯をカチカチと音を立てつつ待っていてくれた。
「それでは、行ってまいります! 曹長!」
船室を出る際にヘボンは一度、曹長へ挨拶をしてから、ベルン軍曹へ視線を回した。
ただの尋問には過ぎないが、昨日の一件もあり、無事に船室に戻れるかは疑問であった。
それ以前にここは保身派の艦内であり、複雑な己の立場を考え直してみれば、敵の陣中にて惰眠を貪ったということである。
「…おぅ。 あの女には気を付けろよ」
多少引きつった顔をするヘボンに対し、曹長は静かに見据えながら見送った。
憲兵に先導される通路は、常に乗員達が激しく行き交いを繰り返していたが、ヘボンの近くをすり抜ける際には必ずと言っていいまでに、視線を合わさず、できる限り壁に己の体を擦りつけるようにして通り過ぎていった。
既に空の上とあっては逃げる手段もないと思ってか、ヘボンには手錠を施されておらず、足枷も同様に無かった。
「憲兵殿。 今回の尋問の担当は、ヘルマン中尉でありますか?」
ふと、ヘボンは3歩程前を歩く憲兵へ聞いたが、その言葉が耳に入ると憲兵は体を一瞬大きく震わせながら、ヘボンの方へ振り返りはしないものの、できる限り厳格な調子を取り繕うとしているように大きく咳払いをしたものの、返事はしなかった。
憲兵はまだ若い男で、見たところ20歳にも成らないまだ幼げな色を残していた。
何処か数年前の入隊したての時期をヘボンは少し思い出したが、少なくとも彼ほど厳格な兵士では無かった事を記憶していた。
そして、そのまま憲兵に通された尋問室は、昨日と同じ部屋であり、断りを入れてから憲兵が戸を開けると、ヘルマン中尉が椅子に腰掛けて待っていた。
「やぁ、ワトキンス軍曹。 ご苦労様」
中尉はそう昨日と変わらぬ朗らかな顔でヘボンを迎え入れると、憲兵の労を労ってから彼を退出させてから、ヘボンへ向き直った。
「食事の方は満足してくれたかな? この艦の食事は中々の物だよ。 以前に帝都艦隊に所属していた頃を、思い出すほどの腕前だ」
「夕食の方は確かに満足いたしましたが、朝食は曹長に食べられていたであります」
「だろうな。 彼はそういう奴だ」
ヘボンの返答に愉快そうな笑みを返しながら、中尉は彼に座るように促した。
そして、ヘボンが慎重に座るのを見届けると、朗らかな調子のままゆったりと口を開いた。
「さて、昨日は災難だったね。 少佐の方には手を出さないように後で厳命しておいたが、守ってくれるかどうか…」
「中尉の命令が少佐に通用するのでありますか?」
「あぁ…少しはね。 地上なら無理だろうが、艦の中ならば人望と人脈が物を言うんだ。 この艦の艦長が私の親友である限りは…少なくとも彼女は君に手は出せないだろう。 安心していたまえ」
中尉はヘボンを安心させるかのように微笑んだ。
果たしてあの少佐にどれだけ意見が効くのか、ヘボンはわからなかったが、それでも何も無いよりは随分と有難い処置に思える。
「あの時言ったように、君の身柄は暫く預けさせて貰うが…、それより聞いておきたいことがある。 君は我々に協力する意思はあるかい?」
中尉はそう朗らかな調子を崩さずに、静かにヘボンの顔を見据えていた。
「ワトキンス軍曹。 君が、時期に除隊する身であることは勿論私も知っている。 …しかしだ。 今、君が置かれている状況では、除隊は絶望的と考えて欲しい。 私としても心苦しい事を言うが、君は協力する他ないんだ」
「いえ! 中尉殿! 是非、協力させて頂きます!」
そう言いのけた中尉に対して、ヘボンは即座に返答した。
躊躇する事情など最早無かった。
そもそも、ヘボン自身にとって、保身派や皇帝派などと言うことは至極どうでもいいことであり、曹長達がなんと言おうと、ここで協力を拒めば少佐の件も含めて長生きが出来ないことは目に見えていたし、そもそもラーバ中佐が散々口を酸っぱくして宣い続けた思想にもヘボンは全く興味がなかった。
兎に角、今は生き残る事が最優先であり、生きてさえいれば、故郷に戻る事もエレン伍長にも再び会うことが出来ると今は信じるしかなかった。
「…まぁ、そうだろう。 …いや、この様な場で、こんな選択を迫る方が冷酷というものだ」
ヘルマン中尉は少し目を伏せながら、机の引き出しより数枚の書類を取り出してはヘボンに手渡した。それを手に取って、素早くヘボンは書類に目を通す。
だが、幾ら目を通したところで事態は変わらないだろう。
「さて、早速だが…」
中尉はそうヘボンが書類を読み耽る中、そう言葉を切ると静かにドアの方を向くと、入ってこいと誰かに呼びかけた。
その言葉に答えて、尋問室のドアが開くとそこには二人の兵士が立っていた。
「…部下のミーヴァンス姉妹だ。 二人共階級は准尉に当たるが、まぁこの艦の中においては別に気にすることはない。 わからない事があれば、彼女らに聞きたまえ」
中尉はそう入ってきた二人の女性兵士を紹介したが、ヘボンは思わず手にしていた書類を取り落とすほどの衝撃を受けた。
勿論、絶世の美女が目の前に現れたということではないし、仮に現れたとしても、女難の相が出続けているヘボン自身はどの様な異性に対しても警戒を示す。だが、それ以上に警戒を示す必要があるようにこのミーヴァンス姉妹の姿は異様であった。
「レーベ・ミーヴァンス准尉です。 今後共、宜しくお願いしますねぇ…。 軍曹」
先に姉妹の片割れがそうヘボンに少々間延びした声音で挨拶をしてきたが、ヘボンは強い狼狽を顕にし、幾らか仰け反りつつもなんとか彼女と握手を交わした。彼女の身長はヘボンと同じ程であったが、随分と体格が立派であり、異性に対してこう表現する事が如何に無礼であるかは認識していても、彼女の容姿を形容する為には『大鍋』と表す他に無かった。丸っこい愛想の良い顔は少しだけ小麦色に焼け、短めの茶髪がふんわりとその頭に乗っていて少しばかり軍帽がそれを覆っているが、鍋掴み程の厚みがある。
だが、それ以上に驚くべきことは握手を求めた腕は軽くヘボンの腕よりも一回りは大きく、ヘボンは圧倒されながらも、なんとか上官に対する礼儀は忘れずに敬礼を返した。
しかし、問題はレーベ准尉ではなく、またその片割れの方であった。
「…エーバ准尉だ」
そう名乗った彼女は、レーベ准尉と比べ随分と愛想の悪い顔でヘボンを見下ろしながら、口を開いた。彼女はヘボンよりも身長が頭一つ分大きく、体格は恐ろしくガッチリとしたもので、昨日ヘボンを襲ってきたニエン少佐よりもその凶暴そうな外見にヘボンは戦慄を覚えた。レーベ准尉と同じく彼女の腕もヘボンより一回り太いが、それは鍛え上げられた筋肉に寄るもので、彼女がその気になればヘボン如き、棒切れみたくへし折る事が可能に思われる。レーベ准尉が小麦色の肌をしている点と比べると、エーバ准尉の顔はまるで小麦を油で揚げた様に黒かった。
髪は手入れが行き届いていないのか、玉蜀黍の毛みたくボサボサと垂れ、茶髪ではあったがそれが下地なのか汚れなのか検討も付かない。
本当にレーベ准尉と姉妹なのか疑いたくなる程の違いであったが、姉妹は申し訳程度の灰色をした眼の色だけでそれを証明しようとしていたが、どう足掻いても他人の様にしかヘボンには思えなかった。
「二人共長い事、戦闘を経験したベテランだ。 辺境部隊の二流か三流連中が集まっているような黒翼隊だが、彼女達だけは別格だよ」
中尉は椅子に腰掛けながら誇らしげに言うと、尋問室中央に備えてあった机の引き出しより、拳銃のような物を取り出し、それを上に乗せた。
「さて、エーバ。 君は通路を見張っていてくれ。 レーベは休んでいなさい。 私はワトキンス軍曹と大事な話があるんだ」
中尉はそうヘボンを招くと、エーバ准尉に指示を飛ばした。
それに対して無言で頷いて彼女は返すと、素早くドアへ出て行き、すると直様通路の方から誰かが足早に遠ざかっていく音が聞こえてくる。
どうやら、彼女が憲兵を追い払ったらしいが、あの外見では突然出くわしただけでも裸足で逃げ出すほどの威力はあるだろう。
そして、ヘボンが通路のちょっとした騒ぎから、テーブルの上に目をやると、そこに置かれた拳銃に目がいった。
帝国製の拳銃である事は確かだが、将校などが携帯している様な代物と比べて、その拳銃は随分と大きい造りであり、昨日ミュラー曹長が隠し持っていた小型拳銃の2.3倍はありそうな物である。重さもそれなりにある事が予想されるが、特異なのはその外見である。
まるで小銃の機関部を丸ごと切り抜いて、そこに拳銃のグリップを溶接しただけのような形状は今まで見たことが無かった。
「…この銃を君に渡しておく。 君はもう既に捕虜ではない。 私の立派な部下だし、栄光ある黒翼隊所属のテストパイロットだ。 これはちょっとした祝いの品だと思ってくれ。 …昨日言った様に、君にはコアテラの性能試験を受けてもらう。 なに、難しい事はしない。 ここの空域をただ飛行して、速度や運動性が、平均的なコアテラとどの様に違うのか測定するだけだ」
「それはわかりましたが、…テストパイロットが武装する必要はあるのでありますか?」
「それは大いにある。 少佐の方には釘を刺しておいたが、艦内で不穏な動きがあるんだ。 自衛の為にその拳銃を渡しておくが…拳銃を用いた事はあるかい?」
「訓練で多少は…」
中尉は彼にその拳銃と形容するには随分と大きい物を、引き出しからその銃用のホルスターと思わしき革切れを取り出すと、拳銃をそれに押し込んでからヘボンへ差し出した。それを覚束無い手先でなんとかヘボンは受け取ると、ホルスターの脇穴へとベルトを通して身に付けたが、あまりに銃が重く、ズボンがズレ落ちそうな不安がした。
「実戦で使った事は?」
「いえ…これより、小さい物なら一二度はありますが、こんな大きい物は初めてであります」
その問いに対して、ヘボンがズボンを必死にずり上げる様を見て、中尉は少し心配そうな面持ちでそれを見守ったが、それが落ち着くと口を開いた。
「その銃も六王湖の研究機関で開発製造した物でね。 この艦は半ば実験部隊の色が強いんだ。 そいつは反動が馬鹿に大きいが、扱い慣れれば上手く扱えば相当な威力を発揮出来る筈だ」
「…皆、この様な銃を携帯しているのでありますか?」
「いや、そこのミーヴァンス姉妹だけだ。 私はどうも手荒な物は苦手でね、試験射撃に付き合ったら肩の関節が外れた」
中尉の返答にヘボンは呆気に取られたような顔をする。
反動の強い銃なら訓練なり、実戦で経験したことはあるが、肩の関節が外れる程の威力の拳銃とは如何な物かと思ったが、確かに今ヘボンの背後で静かに煙草を吸い始めたレーベ准尉と通路で番犬が如く見張っているのであろうエーバ准尉の体格からすれば、上手く扱えるのかもしれない。
「中尉はヤワですからねぇ…仕方ないですよぅ」
ふと、背後から紫煙を吐き出しながら、准尉が会話に混ざった。
彼女は中尉と同じように朗らかな笑みを浮かべながら、自身の腰に下げてある同じ型の銃を指差した。不思議と彼女の体型では大型な銃でも、それが通常の大きさと何ら変わって見えないような錯覚を感じる。
「本当の処は、中尉の物なんですがねぇ、ソレ。 官品ですよ、官品」
紫煙を天井へ吐き出しながら、彼女は少し意地悪げに笑うと中尉はバツが悪そうに、少し額を掻いては困った様な素振りをしてみせる。
要するに飛んだ余り物をヘボンは押し付けられたという事である。
「兎に角だ。 ワトキンス軍曹、今から2時間後に早速だが周辺の空域を飛んで貰う。 コアテラは艦の発着口にてしっかり整備されてある。 操縦手は勿論君だが、一応監視と報告を兼ねてレーベ准尉と同乗してもらう。 それとだ…」
少し言葉を切ってから中尉は真剣な面持ちで、彼を見据えながら、今度は引き出しより封筒を取り出した。何枚も書類が収められているのか、それなりの厚みがあった。
「この封筒を機体に乗せて置いてくれ。 決して、紛失しないように頼む」
「これは…飛行テストの結果を記入する書類でありますか?」
封筒を受け取ると、書類以外に何か硬い物が幾つか入っているのか、ヘボンの掌に硬い感触が伝わる。ただ飛行の状況を記入するのであれば、こうも折行った書類の数はいらないと思い、ヘボンは妙に思ったが、その不審な思いへ対する答えはすぐに彼の口から飛び出てきた。
「いや、違う。 ワトキンス軍曹、君はこれを持ってラーバ中佐の元へ戻るんだ」
中尉はそうさり気なく言いのけたが、保身派部隊へ所属している中尉の口から、それに増して、今己を保身派部隊に配属させたと言うのに、それらを全てひっくり返すような発言にヘボンは言葉が出てこなかった。
あまりの衝撃にヘボンの脳内でクルカマンがまた踊り始めて、思考を停止させようと躍起になっているが、この場限りは自制を強めなんとか踏みとどまった。
「…中尉殿、仰っている意味がよくわかりませんが」
そうやっとの事でヘボンは口を開くと、助けを求めるように隣に立っていたレーベ准尉を見る。
彼女なら中尉の発言に対してなんらかの反応を示すと思ったのだ。
しかし、彼女はただ静かに煙草を吸いながら、何もおかしな事は無いと言わんばかりの顔でヘボンを見つめ返すと、静かに中尉の方へ向き直るように促してきた。
「確かに出鱈目な事を言っているとは思うが、君を私の部下として引き入れたのはその為なんだよ。 ワトキンス軍曹」
中尉は落ち着いた調子のまま、ヘボンを落ち着かせるように気を使ってか、一本煙草を勧めてきた。
それに応じるがまま、震える指先で受け取ると准尉が隣から火を付けてくれた。
一応上官に対してその様な事をしてもらい、ヘボンは恥じ入ったが、彼女は別に何も気にしていないかのように、また己の口にくわえている煙草を吹かした。
「…ミュラーにも事を話しておくが、まずは君から告げておこう。 正直に言うと、私はこの第13特殊空域旅団の活動が成功するとは鼻から思ってないし、仮に成功するとしても協力するつもりはない。 こうして、活動に参加して黒翼隊の教官となっているのはただ単に辺境貴族達の意向に寄るもので、私の意思ではない。 もし、この活動が成功したとすれば、それは帝国の破滅を意味する事なんだ。 ワトキンス軍曹」
ヘボンが煙草を吸う傍らで、中尉は彼の目をしっかりと見つめながら、言葉を紡いでいる。あまりにも急な状況の変化には何度もヘボンは直面してきたが、少なくともミュラー曹長の述べていた中佐の事に関して比べるとまだ衝撃が弱いように思えた。
「幾ら辺境貴族達が力を付けようと、それはアーキルに抵抗する程にはならない。 彼等には属国や中央も含め纏めていく力は得られないんだ。 確かに、六王湖で行われている新兵器開発には目を見張るものがあるが、それだけだ。 幾ら強力な武力を要していようが、それを的確に扱うことが出来ないでいる。 …あの『邪龍』が良い例だ。 あれは力を持ちすぎた兵器で、人が使うべき代物ではない。 ワトキンス軍曹、君も見たことがあるだろう。 二日前に中佐に向けた追撃艦隊と、彼女の率いる旧式艦隊が激突した時、君もあの『邪龍』の姿を見たはずだ」
だが、それは一瞬であった。
中尉の口からあの艦隊戦の終盤に姿を現した不気味なシルエットが、彼の言葉からヘボンの脳裏に連想された瞬間、彼は思わず煙草を口から落とした。
床の上に火の点いた煙草が落ち、慌てて横に居た准尉が拾い上げたが、そんな事気にならないほどにヘボンは衝撃を受けた。
「『邪龍』…。 あのシヴァ級の様な物でありますか!?」
気付けばヘボンは椅子から立ち上がって、中尉を見つめていた。
勿体なさそうにヘボンの落とした煙草の吸い口を拭ってから、また吸い始めた准尉のことなど全く視野に入っていなかった。
「…そうだ。 正式名称はその封筒の中に入っている書類に記載されているが、何分長ったらしいので忘れたよ。 あれも六王湖で開発された物で、全身にとある生体兵器を纏い武装している。 君も見たであろうが、あの黒い雲こそ『邪龍』の積載兵器の一種だ」
「しかし、あの雲は…保身派の艦船まで、飲み込んだであります」
「そうだ。 あれは一度放たれれば、敵も味方も見境が無い。 周辺の浮遊物体は全て叩き落とす様、設計された殲滅兵器だ」
中尉は淡々と言葉を紡いだが、ヘボンはただ呆気に取られたように口を開いていた。
全てが予想外の内容であった。敵味方も関係なく、破壊し尽くす兵器など絵空事だと思っていたが、だがあの艦隊戦を経験してからはそうは思えなかったし、ヘボンの脳裏には、あの時黒い雲に飲み込まれていくフレイア級の姿が浮かんでいた。
「だが、それだけではない。 本来なら、『邪龍』を用いずとも、中佐の艦隊を潰すことは可能だった。 問題はアウフレヒト卿…」
何処か聞き覚えのある人名が、中尉の口から出た時だった。
不意に通路の方から耳を劈く様な激しい発砲音が鳴り響いたのだ。
思わず音の方へ身構えるヘボンに対し、長年軍務に就いていた経験からか中尉は、素早く引き出しより拳銃を取り出すと、右手に構えて尋問室のドアへと狙いを定めている。中尉の手に握られていた拳銃は、将校達が好んで使う系統の拳銃であったが、最初からそれがあったのなら、ソレを自分に寄越してはくれなかったのかとヘボンは少し内心毒付いた。
そして、中尉がドアへ狙いを定めた瞬間に、音を立てて誰かが勢い良く飛び込んできた。
それはあの体格からして見紛う訳の無いエーバ准尉であり、彼女は銃口から煙が立ち上っている例の大型拳銃を片手に挙げながら部屋へ入ってきた。
「少佐の子飼い連中です! 右奥に二人、左奥に三人、包囲されました!」
彼女は鋭くそう叫び声を上げて報告すると、獣の様に素早く身を踊らせて、ドアの脇壁を遮蔽にして立ち、通路の方へ拳銃を覗かせては数発程、牽制に発砲を繰り返した。
「…中尉の釘さしは、手緩かったようですねぇ」
煙草を床へ乱暴に踏み消しながら、レーベ准尉が皮肉ったような声を出した。
だが、呑気な声とは裏腹に、太く腕は俊敏に動き、腰から例の大型拳銃を抜き放つと上部のレバーを引き込んで装填を確認している。
「やはり、少佐にはエーバを行かせるべきだったかな?」
「妹は駄目ですよぅ。 …すぐ殺しちゃいますもん」
何処か困ったような調子で額を掻く中尉は、拳銃の装填数などを確認しながら壁脇へいつの間にか移動していたレーベ准尉へ話しかけ、それに対して彼女は肩を竦めて答えた。
今のレーベ准尉の発言で、あの野獣の様なエーバ准尉が彼女の妹であることがわかったヘボンであったが、そんな情報など今は何の役にも立たないし、多分今後も役に立つことはないだろう。
尋問室の次に今度は、処刑室へ送り込まれた様な気分だった。