操舵手ヘボンの受難#17 『脱出』

操舵手ヘボンの受難#17   『脱出』

 

尋問室のドア前はさながら、地獄の門の様相を呈していた。
右と左へそれぞれエーバ准尉とレーベ准尉が立ち、二人とも同じ様な異形の大型拳銃を構えては、左右の通路へ向けて発砲を繰り返している。
弾が銃口から飛び出す際に、やはり中尉の肩を外すほどの反動が飛び出ているのか、拳銃はまるで釣り上げられた魚の様に跳ね上がる。
しかし、その反動に対してエーバ准尉は己の黒光りするような腕筋で押さえ込み、一方レーベ准尉といえば、その豊満な肉体へ射撃時の反動を分散させているかのように揺らしながら、それを押さえ込んでいる。
そうでもしなければ射撃の際に生じる反動を抑えられないということは、痩せぎすな体躯をしているヘボンでは到底扱うことが出来ないと言うことであった。

 「こうなってしまっては、最早一刻の猶予もならないな。 ワトキンス軍曹」

 そうヘルマン中尉が拳銃を携えながら、話しかけてきた。その表情と声音は至って冷静であり、この様なアクシデントには随分と慣れた物と言ったところで、通路の動向に注意を向けている。

 「これ以上君をこの艦に乗せておくわけにはいかないだろうね。 通路を突破したら、レーベ准尉に付いていってくれ。 艦の発着口までたどり着けたら、コアテラに乗り込んで脱出するんだ。 行き先と指示については准尉に聞くんだ」

 「中尉殿はどうするのでありますか?」

 「私のことは心配しなくてもいい、この場を片付けさえすれば説明は出来る。 だが、君は執拗に少佐に狙われる続けるだろうし、命が幾つあっても足りない。 本当はテスト飛行の際に告げて逃すつもりだったが、そうもいかなくなった…。 あー…」

 そこまで話すと中尉は少し考え込むように黙りこくってしまった。そんな悠長な事をしている場合ではないのだが、中尉は銃声が幾ら鳴り響こうとも、私室で瞑想に静かに耽るかのように考えてから、慌てふためくヘボンの顔を見据えながら口を開いた。

 「ワトキンス軍曹。 表向き上は君がレーベ准尉を脅迫して、脱走を試みたと言うことにしておく」

 その中尉のしたり顔で言ってのけるのに対し、ヘボンは中尉と准尉の方を流れるように見てから

 「無理があります!」

 そう、ヘボンは叫んだ。
  幾らそういう筋書きとは言っても、あの様な体格の立派な相手など、こちらが機関銃を持っていたとしても脅迫出来るようなものとは思えなかった。

 「いや、大丈夫だ。 身長は大体同じだろうし、不意を突いたということにしておくから… 兎に角君はラーバ中佐への忠誠が強すぎたために、我々は説得に失敗し、逆上した君はレーベ准尉を人質にして、艦を飛び出した… そんな、筋書きでいこう」

 銃声が激しく鳴り響く中においても、中尉はまるで夢想家のような心酔した面持ちで言いのけたが、ヘボンの表情は対照的に現実主義者であるがために心痛な面持ちになった。

 「本気なのでありますか?」

 「勿論、嘘は言わないよ。 いいから行きたまえ、幸運を祈る」

 そう中尉はこの場においても微笑みを浮かべながら、そう言い放つとドア付近で必死の攻防を繰り広げているレーベ准尉を呼んだ。
  この騒音の中に置いても彼女の耳は猟犬が如く忠実で、上官の呼び声に素早く応じたばかりか、我々の話していた内容もしっかり聞き取っていたらしく、こちらへ振り向くと同時に手にしていた大型拳銃を傍らに置くと、ヘボンの腕が己の首へ回るようにとわざわざ背を向けてきた。

 「早くしてくださいよぅ…、そろそろエーバ、抑えが効かないと言っていますのでぇ…」

 彼女はそうさも面倒くさそうに間延びした声音で言うと、わざわざヘボンの腕をとって少々嫌そうに己の首へ腕を回させた。
  エーバ准尉の抑えが、こちらへ対する防御の事であるのか、先程言っていた血の気が多い点についてなのかははっきりしなかったが、ヘボンの腕から妙に暖かいレーベ准尉の体温が伝わってくる。少々汗ばんで、湿っている。
  それに対してヘボンはたじろぎもしたが、彼女の力はヘボンの腕力を凌駕する物であり、あっという間にヘボンが彼女を押さえ込んでいるような図が完成した。

 「それでは、中尉。 暫くお別れですねぇ…」

 「准尉。 くれぐれも、彼を宜しく頼む。 彼は…一種の希望だ。 なんとしてでも、中佐の元へ帰らせてやってくれ。 軍曹にはあの娘を止める術が…」

 中尉が少し言葉を詰まらせた瞬間に、尋問室のドアへ向けられる銃声が一層激しくなり、飛び交っていた銃弾が数発ほど、ドアの縁へ命中し破片が粉塵と共に舞い上がる。

 「さぁ、時間がない。 ワトキンス軍曹、人質犯らしく何か喚きたてたまえ」

 「いきなり、そんな事を言われても無理であります…」

 中尉はこちらを真剣な眼差しで見据えるが、対照的にヘボンは口を阿呆の如く開けたまま、叫ぶ事はおろか、悲鳴すら出せないほどに喉は縮こまってしまっている。その様子を見て、レーベ准尉が深く溜息を吐いた。
  そして、なにか考えがあるのか、不意に中尉の手にしていた拳銃を拝借し

 「なら、既成事実を作るまでですねぇ…エーバっ!」

 ドアの先で必死に応戦している准尉を呼びかけ、彼女が咄嗟にこちらへ振り向くと

 「貴女の利き手はどっちでしたっけぇ…?」

 そうこの様な場にしては随分と間の抜けた調子にそう問いかけ、問われたエーバ准尉は一瞬戸惑ったような色を顔に浮かべたが、すぐさま右手だと腕を振って答えた。

 「そうですかぁ…どうもぅ…」

 返事を聞いて彼女はそう頷くと、エーバ准尉を躊躇なく撃った。

 乾いた銃声と彼女の体から伝わる振動に、ヘボンは大きく怯んだ。
  撃たれたエーバ准尉は呻き声を上げながら、壁を背にして蹲ってしまう。
  どうやら、彼女の利き手ではない左手へ鉛玉をぶち込んだらしく、エーバ准尉は左手を抑えながら、何が起きたかわからないと言った表情でこちらを見上げた。

 「さぁ…軍曹。この拳銃をしっかり持って、私の頭へ突きつけていてくださいねぇ…あぁ、安全装置は外しておいてください。 掛かっていると演出が足りないのでぇ…」

 蹲るエーバ准尉とは対照的に彼女は至って平静な顔をしながら、撃ったばかりのまだ銃口から煙が昇る拳銃をヘボンの掌へ押し込み握らせた。
  そして、ヘボンは何が何だか解らぬうちに、とにかく拳銃を言われるがまま握りこんだのを確認すると、平静な模様は何処へいったか、レーベ准尉は耳を劈くほどの金切り声を上げた。

 「助けてっ…!」

 そう叫びながらヘボンを背中に抱えさせるようにして、彼女は尋問室前の通路へと飛び出した。
  ヘボンは必死に彼女へ振り落とされまいとしがみつき、傍から見ればヘボンが彼女を押さえ込んでいるように見えなくもない。
  ヘボンの視界は尋問室から通路へと変わり、彼女の肩ごしから見える風景は絶望的なものであった。
  左の通路からは拳銃を構え、通路に何処から運び込んだかも解らぬ資材を遮蔽物としている兵士が3人程確認できるし、親切に暴れる人質を演じてくれる彼女が体を振り回すと、右の通路から同じように拳銃を構えている兵士が二人ほど確認できた。
  そして、彼等は皆一様に何が起きたのか理解できないのかのように、目を丸くしているが、この現状をよく理解出来ていないのはヘボンも同様である。

 「軍曹がエーバ准尉を撃ちましたっ…」

 准尉がそう喚き立てると、二人を取り囲む兵士達も混乱を強くさせ呆然と立ち尽くしてしまう。そして、その周囲の状況を素早く読み取って、彼女はヘボンに対して目配せを送ってくる。今度こそ何か言えと目で言っている。
  それに対して、ヘボンも切羽詰まった気持ちで半ば自暴自棄に、素っ頓狂な叫び声を上げた。今までにこれほどの声を出した事は無いと思えるような声量で叫び立てた。

 「動くな! 動くと、この豚を殺す!! 私は中佐の元へ戻る! 誰も手出しはするな! 私はラーバ中佐の元へ戻るんだ!」

 中尉に吹き込まれた通りに心中思ってもいないことをヘボンは喚いた。
  本当なら、誰があんな狂人の下へ帰るものかと思う。
  だが、ここにいてもむざむざ陰湿に殺されるだけと言うなら、座して待つ訳にもいかない。
  しかし、レーベ准尉に対する前者の豚という単語は正直な話、少し本心ではあった。

 「道を開けろっ! 退け、退くんだっ!」

 口からありったけの声と唾を吐き出しながら、しっかりと拳銃を准尉の頭へと押し付ける。指は常に引き金へ掛かっているが、何かの勢いで引いてしまうのではないかと心配になるほどに、指先は興奮と恐怖に震えていた。
  ヘボンを取り囲む兵士達の目標が、准尉も含めているのなら人質など関係なしに、二人共撃ち殺される処であったろう。
  しかし、彼等は体を強ばらせながらも、拳銃をその場にゆっくりと置いて、壁へ体を預けるようにしてその場を退いた。

 どうやら、エーバ准尉と彼らが銃撃戦を展開したのは、通路にてヘボンの身柄を引き渡せと彼らが命じたところ、エーバ准尉が引き下がって先に拳銃を抜いたのが原因であることを、ヘボンはそれから随分後になって知ったが、混乱しきった状況では仔細まで知る由は無かった。

 

 既にレーベ准尉の首へヘボンの腕が回ることはなく、二人は少し距離を空けながら、艦内通路をひた走っていた。
  彼女はヘボンの数歩先を走りながら、迷路のように入り組んでいる艦内の通路を右へ左へ上へ下へと縦横無尽に走り回る。
  大の男でさえ、こんな風に振り回されれば根を上げるようなペースでも、准尉はまるでちょっとした休日にダンス教室にでも通うかのような身軽さで、階段を駆け上がる。
  まだ多数の乗員達には銃撃戦と人質の仔細が伝達されていないのか、通路ですれ違う整備兵や兵士達は、ヘボンとレーベ准尉が走りすぎる様を不思議な面持ちで見送った。
  これがヘボン一人であるのなら、捕虜の脱走と言うことにもなり、誰か騒ぎもするだろうが、体躯のしっかりとした准尉が同伴していれば、この走っている様は何かの訓練なのだろうと少々無茶な解釈も彼らにはまかり通っていた。

 「…しかし、豚というのはぁ心外ですねぇ…」

 長く続く通路を走りながら、准尉はそう息も切らした様子も無くごくごく軽くそう言った。
  彼女の体躯の何処からその様な身軽さが捻り出されるのか、ヘボンには理解出来なかったが、あまりにも理解出来ないことが多いので彼の思考は半ば停止している。

 「じゃぁっ…どう言えばっ…よかったで…ありますかっ…」

 元々内地の兵士であり、そもそも歩兵でもないヘボンにとってこの走りは辛かった。
  さも悔しそうに呟く准尉に対し、そう言い訳をするにはするが、これ以上口を開けば、空気が足りなくなって、走り慣れていない体はその場で倒れてしまうような気がした。

 「そうですねぇ…婦人とかぁ…女性士官とかぁ。 考えれば色々出てくると思いますがねぇ…」

 「あんな場で、考える余裕などないでありますっ…」

 「じゃぁ、今度は頑張ってくださいねぇ…」

 そう准尉は少し微笑んで此方を向くが、次などあってたまるかとヘボンは犬のように息を荒くしながら答えるのみであった。
  通路を走るたびに壁際に備えられている、伝声管のパイプが振動で揺れている。
  捕虜が脱走を試みている事が、伝えられているのだろう。
  最早、一刻の猶予も無さそうであり、振動で震えるパイプと同じようにヘボンも背筋を震わせながら一心に准尉の後ろを走り続けた。
  そして、長く薄暗い洞窟めいた通路を走りきった先に、ようやく出口という光明に近いアルバレステア級の発着口が見え始めた。
  すると彼女はその場で立ち止まり、息を切らしているヘボンへ歩み寄った。
  その顔には何処か疲れきっている軍曹をあざ笑うかのような色と、先程の豚と呼んだことを恨んでいるのか、卑屈そうな色が浮かんでいた。

 「…軍曹、それじゃぁ少し人の多いところに出るのでぇ、また首に手を回してくださいなぁ…。 コアテラは発着口の奥にあります。 勿論、武装はテスト飛行の為に外してありますがぁ…銃座には辛うじて、中尉の御意向で対空機銃を一丁だけ備えさせてあります。 後は長時間・長距離の飛行になりますから、それ相応の装備も積んであります」

 准尉はそう口早に説明しながら、ヘボンに己の体へ腕を掛けるように言ってきた。
  早速、次の機会がきてしまったと朧げに思いながら、彼女の首へ手を回し、拳銃を突きつける。人様に銃を向けるということはさほど気持ちの良いものではなく、出来ることなら湿った彼女の体から離れたい気持ちも強くあったが、今はそういう訳にもいかなかった。

 「なんとかして、機体に乗り込めたら、すぐさま発進してください。 艦から離れれば、人質は用を成さないでしょう…艦内では中尉の手が回っても、空は少佐の物ですのでぇ…」

 首へ手を回すと、准尉はゆっくりと発着口へ向かって歩きだした。
  半ばヘボンがおぶられているような姿勢に後ろからは見えるだろうが、正面からなら一応、凶悪な人質犯の外見は保てそうであった。

 「…何処へ飛べばいいのでありますか?」

 「それは艦から飛び立てたら説明します。 今だけを集中していてくださいなぁ…えぇ、あと御腰の銃を前の方に出しておいてください」

 首元で准尉へ問いかけると、彼女は冷たい口調でそう言いのけながら、ヘボンにホルスターを前へ回すように指示をしてくる。
  不意の戦闘に備えて、人質を取っているような姿勢でおいても、准尉自身が拳銃を手に取れるようにする為らしい。
  ヘボンとしてはこの腰にぶら下げた大型拳銃は、彼が使うには手が余る代物であったし、何より先程の射撃する様を見た限り、確かに中尉の肩を外すほどの反動があることは知っていた。
  言われた通りに素早くズボンをずり下げようとするホルスターを前にずらしていくと、不意に准尉の肩越しに見える発着口の入口に影が立っているのが見えた。発着口から漏れる明かりが逆光となって、その人物が誰であるかはわからない。
  だが、准尉を人質に取っているような様を見ても、声一つあげない。
  それどころかゆっくりと此方へ歩み寄ってくる。
  影は片手に拳銃を携えているようであり、ヘボンはその拳銃と影のシルエットに記憶があった。
  ヘボンは執念深い質ではなかったが、少なくとも一度でもこちらに明確な殺意を向けてくるような相手を忘れる訳が無い。

 「…ニエン少佐」

 そうヘボンの瞬間的に脳裏に浮かんだ言葉を呟いたのは、准尉であった。

 「何処に行くんだ? 准尉。 捕虜を連れて」

 その言葉と共に影が揺らめいたと思うと、通路天井に吊り下げられた照明により、彼女の姿がはっきりと浮かび上がり、銀髪は残酷なまでに鮮やかだ。
  褐色の肌は照明の光を帯びると白く輝くように見え、一瞬だけであるが、ヘボンはラーバ中佐がそこに立っているような錯覚すら覚えた。
  だが、レマ・ニエン少佐の容貌から中佐に似ていると判断するのは、錯覚とはいえ無理がある。
  しかし、それでも彼女が中佐に似ているように思わせるのは、その瞳に宿した狂人みたく歯車など外すどころか、粉々に叩き割ったような猛々しい眼差しにあった。

 「少佐殿っ…私は…」

 「黙れ、役者としては最悪な部類だな。 お前もその屑野郎も」

 ヘボンの腕を首に回らせた姿勢にて准尉は釈明しようとしたが、それを少佐は吐き捨てるように一蹴すると拳銃を容赦なく構えた。

 「初めから、中尉がお前を庇い立てすることは目に見えていた。 …我が黒翼隊の教官であろうが、その直属の部下であろうが無かろうが関係無い。 同志を亡き者にした男を栄光ある戦列に加えようなどと、言語道断だ。 例え上層部が許そうとも、私が許さん」

 彼女はそう口上を垂れると狙いを、しっかりと此方へ合わせてきた。
  この様な状況下に置いても、平静な准尉の顔とは対照的に、その顔は烈火の如く猛り、小さく歯軋りすら聞こえてくる。
  現在、ヘボンの拳銃はレーベ准尉の大きい頭部にくっついたままで、僅かにでも動かせば少佐は容赦なく撃ってくるだろう。
  八方塞がりな状況に、ヘボンの顔は恐怖に歪んだ。ここ連日歪んでばかりいるために、そろそろ顔の筋肉が麻痺してしまいそうな具合である。

 「貴様を機体へ近付けさせはしない、ここで死んでもらう。 准尉、貴様は撃ち殺すには惜しい人材ではあるが、生憎…我が部隊には豚は必要としていない」

 怒りを浮かべたまま少佐は引き金を引こうとした。
  
  だが、銃声よりも先に准尉が耳を劈く程の金切り声を上げて、力いっぱいにヘボンを振り払った。
  あまりの音に一瞬ヘボンも少佐もたじろいだが、その隙に准尉は先程指示した通りに腰前に回していたホルスターから、例の大型拳銃を素早く引き抜いた。

 「…煩いっ!」

 そして、そのまま腰だめに構えると狙いもつけずに引き金を引く。
  大型拳銃は彼女の激しい動きと比例するかのように暴れまわり、銃声は彼女の金切り声に負けじと通路で凄まじい銃声が続けて鳴り響いた。
  あまりの勢いにヘボンは呆然となってそれを見る事しかできなかったが、銃声が止むと二人の前に立っていた少佐は、エーバ准尉よりも大分酷い様で通路の床の上に蹲っていた。恐らく、腹か足に弾を喰らったらしく、蹲った姿勢で顔だけを此方に向けている。
  床へ血が滴り、異臭がヘボンと准尉の鼻腔を突いたが、この匂いにはそろそろ慣れを迎えている。
  蹲る前と同じく怒りを顕にしていたが、それに苦悶も付け加えられていた。

 「…軍曹。 女性に対しての侮辱ってものは死に値するんです…えぇ、特に豚だなんて…ねぇ?」

 ヘボンへそう気楽に准尉は言葉を掛けながら、ゆったりと蹲る彼女へ歩み寄ると、少佐の顔へ鋭い蹴りを見舞ってから、レーベ准尉はヘボンの方を見た。
  少佐の顔の歯か骨かが砕ける音を聞きながら、ヘボンはまじまじと准尉の顔を見た。
  彼女の顔には先ほどと同じように冷静な色があり、怒りの色など何処にも無いように見えた。

 「確かに失礼でありますな。 准尉殿は優雅なご婦人であります」

 「…この場で何を言っても、皮肉ですがぁ…まぁ、いいでしょう。 私は心が広いんです…えぇ」

 引き攣る顔をしたヘボンの口から出た言葉に准尉は、言葉の割には愛想の良い笑顔で答えつつ、失神してしまっている少佐を軽く脇へ抱き抱えた。

 「今度こそ本当に人質犯ですねぇ…。 黒翼隊教官の部下より、黒翼隊指揮官を人質にした方が、具合が良いでしょうしぃ…」

 軽く笑うと、ヘボンから奪い取った大型拳銃をしっかりと気絶している彼女へ突きつけ、ゆっくりと歩き始める准尉の姿は何処となく鬼神的な物をヘボンに連想させた。少佐に対しても一瞬、ラーバ中佐の面影というか雰囲気を感じはしたが、何事にも上には上がいるもので、此方の准尉もヘボンの知る女傑達の内に文句無しに付け加えられるような気がした。

 「…しかし、准尉殿。 人質とは言え、コアテラにわざわざ負傷した少佐も乗せるのでありますか?」

 脇に少佐を抱えながら、彼女の流す血で通路を汚し始めた准尉へヘボンは問いかけた。
  先日はベルン軍曹とミュラー曹長までコアテラには乗り込んだが、人質ではあるものの負傷しているであろう彼女までコアテラに詰め込み長距離を逃げ切るのは些か無理があるように思えた。

 「いえ、彼女はある程度逃げ切ったら、何処かに捨てますよぅ。 その方が追っ手も弱体化するでしょうしぃ…」

 問いかけに対して、准尉は至って冷静に答えた。
  間延びして落ち着いた調子であるだけに、内容が物騒であると恐怖すら感じる。

 「中尉からはなんとしてでも、帝都の中佐までぇ…軍曹を送り届けろということですからぁ…命令とあれば、なんでもするのが兵士の義務ってものですよぅ…」

 准尉はそう卑屈な薄ら笑いを残して、通路を歩んでいく。
  ヘボンはその後ろから後方へ警戒をしつつ、今のところ自分の記憶から探るに一番恐ろしい女とは准尉ではなかろうかと、ある程度順位を更新する必要があるように思われた。

最終更新:2017年01月09日 16:40