『狂気と狂喜』 操舵手ヘボンの受難

 操舵手ヘボンの受難#18  『狂気と狂喜』

 

 アルバレステア級の発着口で、血を流しているニエン少佐を脇に抱えながら現れたレーベ准尉の姿を見た整備兵達は、一体何が起きているのか理解できず、困惑した眼差しを准尉とヘボンに向けていた。

 「…コアテラをお借りしますよぅ」

 しかし、准尉はそんな眼差しを気にすることなく、さっさと奥に鎮座しているコアテラへと歩を進める。
  彼女の脇には少佐が抱えられているし、その片方には銃口よりまだ煙がでている大型拳銃が握られている。
  その様な状況では誰も手出し出来るはずがなかった。

 「少々ハプニングが重なりましたがぁ、まぁ、概ね計画通りと言うことですかねぇ」

 間延びした調子に准尉は言いのけ、まるで脇に抱えてある少佐をピクニックの荷物程度の扱いで、准尉は軽々とコアテラの銃座へと投げ入れた。
  そんな乱暴な扱いに整備兵達は思わず呻き声を漏らし、投げられた少佐自身も銃座の中から呻き声を上げているのがヘボンにも聞こえてくる。

 「さぁ、軍曹。 早く飛び立ちましょうよ。 この娘が少佐の血を嫌がり始めたら飛んでくれませんよ?」

 幾らかコアテラの傍にて躊躇しているヘボンを、心配そうに眺めながら准尉が手を差し出してくる。
  先程、彼女が言ったとおりコアテラの武装は外されており、随分と軽量化されたように見える。
  その姿は精悍な様にも見えたが、内部は今頃、少佐の流す血で汚されているだろう。
  彼女に対してはなんの憎悪もヘボンは感じていないし、寧ろ哀れみすら覚えるが、今は准尉の言うとおりに差し出される手を掴んで、軽々と持ち上げられていく。促されるままに搭乗席へ収まると、操縦桿へ手を這わした。
  ここ連日の激しい戦闘にも耐え、束の間の休息が終わったと思えば、今度は中を血の海にされてしまう。溜まったものではないだろう。
  これではやりきりれないだろうと察するが、ヘボンもその点は同じであり、彼が溜息を吐きながらゆっくりと桿を引き始めると、コアテラも彼の心労を察したかのようにゆっくりと浮遊を始めた。
  搭乗席から見える風景は、動き出したコアテラに衝突させられぬように、グランビア等を急遽脇に寄せようとしている整備兵達に溢れており、時折視界の隅には、先程の通路から現れた憲兵達の姿も見えたが、黒翼隊の指揮官である少佐を人質に取られているとなれば、迂闊に手も出せないのか躊躇しているようである。

 

 コアテラがアルバレステア級の発着口から飛び出た際には、ヘボンは艦内に残してきたミュラー曹長とベルン軍曹の事が脳裏を過ぎった。
  辺りの空は昼間であるために何処までも蒼く美しく、艦からの砲撃も無しに無事に遠ざかっているのだという実感が、暫く気にすることも出来なかった事を想起させたのだ。己は勢いのままに訳も分からずこうして脱出してしまったが、彼らは無事であろうかという念である。
  ヘルマン中尉が彼らを保護して貰うのを願うばかりだが、しかし、そうなってしまうと、彼らはラーバ中佐と敵対する組織へ編入するということである。
  そのような事、彼らの忠義心が許すだろうかとヘボンは思ったが、ふと先日に空賊になろうか等と彼等が宣っていた事を思い出しては、強ち彼らも馴染むのではないかとヘボンは考え直した。

 「軍曹。 暫くは針路をこのままに取ってください、ある程度艦から視認出来なくなったら針路を変えます。 その方が追跡もしにくいでしょうしねぇ…」

 考えが幾らか纏まってきた辺りで、銃座より准尉がヘボンにそう指示を飛ばしてくる。
  彼女は先程に示した激情が嘘のように冷静で、周囲の様子に目を配っている。
  あまりに落ち着いた具合に、ヘボンは飛行訓練をしている時のような落ち着いた雰囲気の錯覚すら覚えたが、それを台無しにしてくれるのは依然として呻いている少佐である。彼女は銃座の隅へ捨てられるように押し込まれ、蹲りながら、恨めしげな目を准尉とヘボンへ向けていた。

 「貴様等、このままで済むと思っているのか…?」

 そう顔を苦痛と憎しみに歪めながら、そう吐いてくる。
  機内で暴れる訳にもいかないので、准尉は彼女を冷たい瞳で見下ろしながら黙っていた。

 「腹に鉛弾を喰らったんだ…。  私だってもう長くない、どうせ死ぬことなど私の部下もわかっている…時期に貴様等に追いついて、思い知らせてくれる…」

 「長くないと言う割には、随分とお元気なようでぇ…もう一発腹か、脚に喰らいますかぁ?」

 延々と呪詛を吐こうとする少佐に対して、准尉は聞き飽きたと言いたいかのように、彼女の視線に合わせてしゃがみ込んでは、その顔に拳銃を突きつけた。

 「人質としての用はもう既にないようなものですからぁ、ここで撃ち殺したって構わないんですがねぇ…。 あぁ、そうそう。 軍曹、少し操縦を変わりましょうかぁ?」

 銃口を鼻先に向けたまま、准尉がこちらを振り向いた。
  思わずヘボンも銃座へ顔を向けると、准尉の顔が一瞬悪魔のように微笑んでいるのが見える。

 「…貴女、先日にワトキンス軍曹を殺ろうとしたそうでぇ…、彼からその報いを受けてみます?」

 准尉の口から出た言葉に、少佐はおろかヘボンすらも唖然とした。

 「准尉殿っ…私はっ…」

 「そう畏まらなくたっていいんですよぅ。 貴方だって、一度銃を向けてきた相手を忘れるほど、物覚えが悪い訳じゃぁないでしょうしぃ…逃げに徹するなら、彼女はお荷物ですからねぇ」

 怯むような声音を捻り出すヘボンに対して、准尉の口調はどこまでも落ち着き、その丸い体躯をしならせながら、操縦桿を一時的に彼の手から離し、すり替えるように大型拳銃をヘボンの手に握らせた。

 「でっ…出来ません! 准尉殿っ…私は操舵手であって銃殺隊では…」

 「そんな事は百も承知ですよぅ。 貴方が優秀な兵士であることも知っていますし…正直な話ただ、私の手で彼女を殺すのは少々忍びない訳ですよ。 仮にも上官…ですからね?」

 准尉は言葉尻を喋るときだけ、少佐の方へ振り向き微笑んだ。ヘボンはこの准尉が如何に、冷酷な性根を持っているのかと戦慄する。
  兵士とはいえ人間であり、殺人狂ではないのだ。
  確かにその様な人間は見てきたこともあるが、少なくとも彼女はその中でも際だつ存在であり、愛想の良い微笑が更にその印象を加速させる。

 「まぁ、こうは言いたくないんですがぁ、軍曹。 命令です、彼女を処刑なさい」

 そんな台詞を准尉はあっけらかんに言い放った。
  拳銃を握る指先が震え、少佐の顔がヘボンの顔に襲いくるかのように鮮明に視界に写る。
  その顔は苦悶や憎悪や恐怖が渾然一体となったもので、大凡形容するには難しく、それ故に鮮明な感情をヘボンに叩きつけてくる。

 「…ワトキンスっ! 貴様だけは…」

 強く噛みつくかのように睨んでくる少佐へ、ヘボンは拳銃を向けた。
  彼女に対し哀れみのような物を感じこそすれ、ヘボンは命令に背くほど情に厚い人間でもない。
  仮にここで彼女の助命をしたとして、今後に何か役に立つようには思えない。
  既に彼女の部下へ手を下しているのであり、拾った命で彼女はヘボンの首を絞めてくるのは明らかであろう。

 「恨まないでほしいであります」

 そう出来る限り准尉の調子を真似るかのように、なるべく平静ぶって口を開くことしかヘボンには出来なかった。
  拳銃の照門と照星は彼女の眉間に合わせられ、顔から冷や汗が吹き出すのを感じる。
  兵士たるものヘボンとて人を殺した事が無い訳がない。
  現に夜鳥等々以前から、ラーヴァナの操舵手として一体どれほどの物を灰に変えたかは思い出せそうにない。
  敵軍事施設だけならば露知らず、時には敵性民掃討の為に集落や街も爆撃した身であり、戦争という言葉でいくら薄めようと列記とした殺人者であることに変わりはない。だからこそ今更、偽善者の様に生命の尊重について述べる資格など己にないことはわかっている。
  だが、無抵抗な相手を目の前にして引き金を引くというのは、気が引けるのも人情の一種なのかもしれない。
  しかし、その迷いを振り切ってヘボンが大きく息を吐き出してから、引き金に指を掛けて引ききろうとした時、唐突に准尉が叫び声を上げた。

 「軍曹! 三時方向!」

 操縦席に移った彼女はそう叫び、思わずヘボンも拳銃を下げてそちらの方向を見た瞬間、彼は言葉にならない声を漏らした。
  三時方向の雲群の向こうに、雲海の内より浮上した巨大で歪んだ巨影が確認できたからである。

 「准尉、あれは…」

 やっと口から出たマトモな言葉に、蹲っていた少佐も体を捩りながら銃座よりその巨影を見た。

 「先の戦闘から何処に行ったか、補足出来ませんでしたが…追ってきていたとはねぇ…軍曹。 あれが、『邪龍』です」

 准尉の若干引き攣った声が、ヘボンの耳に遠く響いた。

 

 その姿は先日の夜に見たときより遙かに鮮明な物であった。
  距離はまだ大分あったが、あの強烈な形は幾らか離れていても記憶にこびりつくほどの衝撃がある。
  突如として雲海の内より浮上してきた姿は、確かに巨大な龍の登場を彷彿とさせる。
  確かにシヴァ級を改修した物と言われれば納得できる形をしているが、それは改修という言葉では収まりきらないほどの改造が施されていた。
  全体的に邪龍の全体にはタールを塗りたくったような黒い液体が覆っており、それが時折マグマの様に蠢いている。そして、そのマグマの間に浮かぶ小島のように点々と対空砲台や対空銃座が設置されているのが確認できるが、その数というのも通常のシヴァ級よりざっと対空砲座が艦下部に6門、対空機銃座は巨大な側面に片側だけで12門、上部にも5門程遥かに多く設置されているのが確認できる。
  そして、シヴァ級の最大の特徴ともいえる9門の450cm対都市噴進榴弾砲はそのマグマの様な物に覆われては、まるで人間の口の様に苦しそうに蠢いている様が見える。
  艦下部側面には異様な膨らみを持っており、その壁には幾つかの小窓が見え、膨らみからは棘の様に煙突が無数に生え出ている。
  帝国兵器などが幾らグロテスクと言われようが、ここまで恐ろしい外観をしたものは見たことがない。
  生体器官を用いていようとも、あれでは全体が既に意志を持った奇怪な怪物の様にも見えるし、なによりそんな印象を与えるのが、マグマの様な物より、血管の様な盛り上がりとその節々から目玉の様な球体が浮かんでいる事だ。
  決して装飾などではなく、機能しているのであろうその眼球達は何かを探して周囲を見ようと蠢いていた。

 「あれが…邪龍」

 ヘボンはそう呟く事しかできなかった。
  既に少佐の事など忘れ、視線は邪龍から逸らす事が出来ないでいた。

 「…軍曹、発見される前に空域を離脱しましょう。 長く見ていると気をやられますからぁ…」

 准尉がそう操縦席から声を掛けてくるが、ヘボンの意識は邪龍に乗っ取られたかのように、視線は動かない。

 「…見たかっ! 反逆者共めっ、あれこそ我が栄光たる戦列を率い、腐敗した帝国を正す真の救済者の姿だっ!!」

 不意に素っ頓狂な叫び声を挙げたのは少佐であった。
  彼女はいつの間にか縁にもたれ掛かるようにして立ち上がり、顔に不敵な笑みを浮かべながら、ヘボンを見ていた。
  そして、ヘボンが依然として邪龍から目を離せない状態であるまま、その傍らで狂人しか出せぬような高らかで、調子の狂った笑い声を上げる。

 「どう足掻こうと、我らを止める事は出来ないっ。 黒き翼に包まれ、貴様等も龍の生け贄になるがいいっ!」

 彼女の表情は先ほどより、遥かに常軌を逸したものに変わっていた。
  既に苦悶も憎しみも恐怖もその顔には無く、どこまでも冷静な表情で口調だけは高ぶったままに叫び続ける。

 「龍が私を呼んでいる! 今こそ、龍の翼になる時が来たのだっ!」

 彼女はそう叫び続けながら、銃座の縁へしがみついた。
  先ほどまで蹲る事しか出来なかった状態であった筈なのに、まるで何かに操られているような様子である。

 「軍曹っ! その女を早く黙らせるんですっ…引っ張られています…」

 准尉の叫び声がヘボンの耳を突くが、彼の体は邪龍と狂喜している少佐を前にして微動だにしない。
  コアテラを操縦する准尉はなんとかして、この空域から遠ざかろうと機体を旋回させようとするが、一体何が起きているのか機体は吸い寄せられるかのように、邪龍へと進路を取ってしまっていた。

 「殺してっ…その女を早く殺してっ…」

 そう准尉の最早泣き声にも近くなった声が、ヘボンへ掛けられるが、彼は一向に動けない。
  それどころか、意識が混濁としてきて、視界が暗くなってきた寸前に邪龍の方へ目がいき、そして気付いた。
  あの黒いマグマから蠢いている目玉が、全てヘボンへ向いていた。
  まるで全てを見透かし、己の内部を食らい尽くさんとする錯覚を覚えながら、ヘボンは体から力が抜けていくのを感じる。
  しかし、必死に意識の紐をつなぎ止めようと、少佐と同じように銃座の縁へしがみついて、ヘボンは歯を食いしばる。

 

 「……そこに、いるのね?」

 不意に何処からか声が聞こえた。
  准尉の物ではないし、少佐の物でもない。
  その声はヘボンの頭へ直接話してくるのか、混濁してはいるもののハッキリと彼の頭へと響いてくる。
  幼げな調子のある声だが、男か女かすら判別出来ず、とっさにヘボンはこの声がいつか聞いたことがあると思った。
  一体いつ聞いた声なのかは思い出せないが、うっすらとそんな直感がする。

 「…もっと、近くに来て」

 声は再びヘボンの脳内に響いた。
  その声は優しく甘く彼を誘惑している節があった。
  そのような気配を感じ取った時、脳内の何処かで警鐘が鳴っているような気がするが、かといってこの声を振り払う事は困難だった。

 「…早く、逢いたい」

 声は徐々に大きくなってくる。
  それは抵抗する意志すらも挫くように甘美に響き、ヘボンは銃座の縁から顔だけを出して邪龍を見てしまった。
  相変わらず不気味でグロテスクであるが、何か懐かしい気さえ覚えてしまう。
  視界の隅では依然として狂喜している少佐が縁に立ち、両手を振り上げては『ミーレインペリウム』と、何かの呪文の様に小刻みに震えながら詠唱を繰り返している。
  コアテラの片翼から邪龍を見ているが、翼が一種の道筋の様に思え、ヘボンは銃座の縁から立ち上がって、その道を辿り邪龍の元へ行きたいような錯覚に襲われた。
  強風が吹き荒び、体を支える物がなければ銃座を飛び出した瞬間に吹き飛ばされる事は目に見えているのだが、それでも危機意識などが欠如しているかの様に、ゆっくりとヘボンの体は動き始めてしまった。銃座の縁に手を掛け、ぐっと体を持ち上げようとしてしまう。
  自殺行為であることはわかっている。
  しかし、それでも導かれるようにヘボンの体は動く、准尉が何かを叫んでいるようだが、その内容は既にヘボンには聞き取れなかった。

 

 「…行くんじゃないっ!」

 ヘボンが縁を乗り越えようとした時であった。
  脳内を揺さぶるような鋭い叫び声が響き、目の前のコアテラの片翼に何者かが現れた。その何者かが鋭い叫び声を放って、ヘボンを押し留めた。
  一体何者かと混濁した意識の中でヘボンが目を凝らすと、その者についてヘボンはよく知っていた。

 「クルカマンッ!!」

 ヘボンは彼の事をよく知っていた。
  と言うよりは、思っていると言った方が正しい。
  何かと困った状態や、ややこしい事象が起こると、彼はヘボンの脳内に駆けつけ、暫しの間、全く意味のないことをして過ごしては彼の脳内から去っていく存在である。一体、何故彼がこうもハッキリと姿を具現化させて、己の前に現れるのか、ヘボンは混濁した意識から徐々に鮮明に理解した。

 つまり、今はややこしい状況なのである。

  「行っては駄目だ! 戻ってこられなくなるっ!」

  「でも、クルカマン! 私は行かなくてはならないんだっ! アレが私を呼んでいる!」

 彼の制止を振り切ろうと、ヘボンは縁を乗り越えようと躍起になった。
  だがそれを阻止すべく、クルカマンは彼に対しエルボーを素早く繰り出し、ヘボンを銃座の足場へ転倒させた。

 「正気を保つんだ! ヘボン! 君にはやらねばならないことがある筈だ!」

 「正気であったら、君は現れない筈じゃぁないのか?!」

 ヘボンは強かに打った体を押さえながら、クルカマンの言葉に噛みついていた。
  正常な意識であるなら、彼は現れるはずがないとヘボンは自覚している。
  彼は一種の妄想の産物であり、それ以上の存在ではない筈だ。

 「そんな事は知ったことではない。 私は君の危機意識が具現化したようなものであり、君に冷静さを語り掛ける者だ」

 クルカマンの発言の意味がヘボンにはよくわからなかったが、彼が言うとおり縁を乗り越える事が危険であることは、今になってやっとヘボンは思い知った。

 「アレに近付いてはならない。 あれは人外の意志の内から現世へやってきた物だ。 それに、君はこの子を捨てて、あの様な物へついていくつもりか?」

 クルカマンがその表情が読みとれなさそうな、形容しがたい表情で言い放つと、彼の足下に黒い靄の様な物体が現れ出た。
  その姿を見て幾らか正気の様な狂気を見いだしたヘボンの脳裏に、それが誰であるか回答が過ぎった。
  あの黒い靄の様な物体はヘボンの夢に出現し、共に仲良く歩きステップを踏んだ存在であった。
 得体が知れず不気味ではあるが、その存在は仄かに暖かく、何故か親友に会った時の様な名状しがたい幸福感が胸中から湧いてくる。
  それを思い出すと、ヘボンの意識はより鮮明な物へとなっていった。

 「…ありがとう! クルカマン!」

 そうヘボンが叫んだ時、彼の意識は完全に現世へ帰ってきていた。

 

 「さっきから何を言ってるんですかっ…軍曹っ」

 意識が戻ったヘボンの耳に、今度こそはちゃんと内容が聞き取れる准尉の声が響いてきた。
  ヘボンの視線は依然として邪龍へ向けられていたが、先程の様な脳内へ呼びかけてくる声は響かなかった。それに加え、不気味な邪龍の姿に対しても最早、不思議な感情は抱かない。
  彼は狂気の末に正気を見出したかのように、准尉を力強く見やると、拳銃を改めて少佐へと構えた。
  拳銃を向けられながらも、彼女は先程と同じように譫語と妄言を繰り返しながら叫び、その体は既に銃座の縁を乗り越え、コアテラの片翼へと飛び乗っていた。
  そんなことをすれば、強風に吹き飛ばされるのが必定であるはずが、自然法則すらあざ笑うかのように、両腕を水平に伸ばし、両足をまっすぐ伸ばしながら立っている。

  「龍の翼になる時が来たのだ。 ワトキンスっ…貴様は何れ、必ずや葬…」

  そう狂人と化して叫びだした彼女が言い終えぬ内に、ヘボンは引き金を引いた。
  それ以上の御託は既に聞きたくないとばかりに、乾いた銃声が彼女の言葉を打ち消し、発射と同時に巻き起こった反動は、あまりの強さに腕を粉々に砕くのではないかと思うほどの衝撃だったが、何とかしてそれを押さえ込んだ。
  そして、放たれた銃弾は寸分違わず、少佐の胸へ着弾し、真っ赤な点を彩る。
  その衝撃で彼女の体は空中に舞い上がり、やっと自然法則に従うつもりになったか、そのまま真っ逆さまに落下していくのが見えた。
  ヘボンは銃座の縁より下を見下ろすと、少佐の体が小さい点となっていくのがわかる。
  こうして見ると、まるで宙を舞う羽毛の様に落ちていく彼女の体は、最後には邪龍を覆う黒いマグマの様な物の中へ飲み込まれていった。
  その時になって、どうやら気付かぬ内にそんな距離まで機体が邪龍へ接近してしまっていた事に気付いたヘボンは、素早く操縦席へ降りると、准尉が何か喚く事すら気に留めずに、操縦桿をひったくっては機体を素早く反転させる。
  操縦桿から伝わる奇妙な感触は、正気に戻ったヘボンを歓迎しているかのように滑らかであり、コアテラは彼の動きに答えるように大きく風を切った。
  無我夢中で邪龍から離れようと、早馬に鞭をくれるような勢いで加速を繰り返す。

  既に邪龍に見られているような気配は感じられず、また追ってくるような気配も無かったが、それは釣り人が寛大に魚を逃がしてやるような物に何処か似ているようにヘボンには思えた。

最終更新:2017年01月18日 19:12