あんなに好天だった極地は、今や終末のような大吹雪に覆い隠されてしまった。視界は1メートルとないかもしれない。
この中進むのは流石に危険すぎるため、皆暇を持て余している。
「3日、経ちましたね」
隣でトゥリがぼそりと呟く。何もできない今、我々にできるのは各々がしたいことをすることだけだ。
働いているのはピエニとマッダ兄弟ぐらいだろう。彼らも彼らでしたいことをしているだけなのかもしれないが。
「そうか……もうそんなに時間が経ったか……」
軽くため息をつき、伸びをしながら椅子から立ち上がる。
ずっとこの先の日程と我慢比べをしていたら体が訛ってしまいそうだ。関節から小気味よい音が聞こえてくる。
「トゥリ、お前も少しは休んだらどうだ?3日間ずっと付きっきりじゃないか」
「余計なお世話です。私のことは私が決めます」
「しかしだな……」
「心配いりません。隊長は隊長のしたいことをすればいいじゃないですか」
「……分かった。だが無理だけはするなよ」
トゥリはどこか不機嫌そうだ。何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。
これ以上彼女の機嫌が悪化する前にそそくさと部屋を出た。命惜しけりゃ触らず逃げよ、だったか。ミーラが前に言ってた格言だ。
とはいえ、どこへ行こうか全く決めていない。広いとはいえ建物一つ分、行ける場所など限られているのだが、どこに行ったものかと広間の一番上で思案してると、
「どうか、した?」
「っ!?」
驚く前に本能で振り向いた結果、バランスを崩した私の体は手すりを乗り越え広間の真上に躍り出てしまった。
しまったと思ったのもつかの間、私の右手に冷たい感触があることに気が付く。その感触だけが、私を重力から救っていた。
足がぶらりと揺れる感覚が恐ろしかったが、その声の主を思い出した瞬間に羞恥心が恐怖を塗りつぶしてしまった。
「……おっちょこちょい」
見上げれば、女性らしい細いシルエットの腕の先に、少し呆れた笑みを浮かべたピエニの顔が見えた。
全くもって、この娘の悪戯は命にかかわることばかりだ。いい加減にしてくれないだろうかと頭をよぎるが、これが彼女なのだから強く言い出すことが出来ない。なんとも情けないことだ。
「ピエニ……頼むからこういうことはやめてくれないかい? こんなことで怪我なんて御免だ」
地に足がついたことに安堵しつつ何とかその思いを言葉にすると、ピエニは悪戯っぽく笑った。
もう少し抑えてくれれば十分に魅力的になる女性なのだが、どうやら直す気はないらしい。何も言うことなく、彼女は彼女の持ち場へと戻って行ってしまった。
やれやれと肩をすくめ、また奇襲を受ける前に広間へと降りる。
広間には、上から見たときには誰もいないと思っていたのだが、どうやら死角に入っていただけのようだ。
テーブルに座る女性とその反対側に座っている男性が目に入った。防寒具を脇に置き、何やら話しているようだ。
「ミーラにジャスタじゃないか。何をしてるんだ?」
その2人に声をかける。話を邪魔されて不機嫌そうな顔を向けたジャスタだったが、私の顔を見た途端に笑顔になる。
しかもその笑顔は悪意のこもったものだったので、嫌な予感がこれでもかと背筋を這いずり回ってきた。無意識に足を一歩下げてしまう。
「あらぁ、これは女性に驚かされた挙句落ちそうになり原因に助けられた隊長様じゃないですかぁ」
「……見ていたのか?」
「もちろんですともぉ~。あんな大声出せば、耳を塞いでいても聞こえてしまいますわぁ~」
あからさまに挑発してくるジャスタは、私の周りをグルグルと回っている。彼女らのクルカもどこか馬鹿にしたような顔で嘲笑している気さえしてきた。
いや、彼らは元々こんな顔だ。ということは最初から馬鹿にしているという事だ。
私の周囲を一緒になって周り、ブーツに頭突きをかましてくる。クルカにここまでの仕打ちを受けていると考えたら流石に腹正しくなってきた。
しかし、私の堪忍袋が切れる前に今回はちゃんと助け船が来た。
「ジャスタ、メルラにリベンジしようと汚い奇襲戦仕掛けて見事に完敗したのはどこの誰だっけ? 話をよく聞いていなかったんだが」
「なっ!?」
さっきまでの笑顔が一瞬で消え、彼女の取り巻きがビクリと固まった。ミーラはその様子を見て笑うことも無く、悪気の無い無表情を繕って言葉を続ける。最高の嫌味だ。
「ほら、誰だっけ。交代で眠ってるメルラの部屋にこっそり忍び込んで起きる前に大量のクルカと一緒に奇襲しようとしたらその前にスクムシに全て繭にされて逆に奇襲され」
「わーっ! 言うなー! それ以上言わないで―!」
自分が標的になった途端に余裕を失いミーラの口を塞ごうとするジャスタの陰から、静かにこの場から離れろとジャスタに見えないよう指示してくる。
彼の親切を無駄にする必要はないと静かに階段を上った。私と彼らの位置からして指揮室へと戻るほかない。
結局私は指揮室へと戻る羽目になった。先程よりも騒がしくなった広間から、まだ不穏な空気の残る指揮室へと。少し気が重くなった。
「あら、お帰りなさい隊長。早かったですね」
「ああ、外に意地の悪い女性たちが居てね」
「一体誰のことです?」
「まあ、誰でも同じことさ。ああいうのは好きじゃない」
私の言葉からトゥリはなんとなく察したようだ。ご愁傷さま、とでも言いたげな表情の後に少し微笑んでくれる。
隊員の中で一番常識的なのはきっと彼女だろう。その点で今はなんとか不味い状況から脱することが出来た。もしほかの女性だったら、と一瞬考えたが、どれもまともな想像が出来ないので止めた。
「何か変わったことはあったか?」
「いいえ、何も。外は真っ白、変わることなく吹雪いています」
「そうか……いつまで続くんだろうな」
「そうですね……早く収まってほしいものです」
言葉が続かない。なんとなく気まずくなった空気を換えようと蓄音機のスイッチを入れようとした瞬間。
小さい電子音が鳴り、通信が入ってきたことを知らせてきた。トゥリが通信機を持ち上げる。
「こちら指揮室、どうしました?」
『何か……来る。多い、左側から』
トゥリの顔が強張り、不穏さが緊張と混ざり合った。ピエニの声だ。一体何事だろうか。
彼女の言葉を聴き窓の外を睨むが、私の眼にはただただ白い、それだけの世界しか見えない。
だが、生粋の狩人、その血を継ぐ彼女には何か見えたのだろう。感覚に置いて彼女ほど信頼できるものは無い。
「何がいるのか分かりますか?」
『分からない。けど、生き物』
「生き物? 数はどれくらい?」
『……少なくとも、60。だいたい陸、でも空にも』
「60!?」
生物、恐らくは原生生物の群れが我々を囲っている。
私もこの辺に住む動物はいくつか知っているが、ここまで大きな群れを作る生物は聞いたことも見たこともない。
群れたとしてもせいぜい10頭程が限界だ。何とも言えない悪寒が背筋を流れる。トゥリから通信機を奪い取り、手元のスイッチを車内全体に切り替える。
「総員、第1種警戒態勢! 急げ!」
急がなければ、そんな思いが心と頭を支配する。生物相手ではグラン・パルエズの装甲はびくともしないだろうが、それとは違う、まるで心の内を見られているかのような恐怖が私の思考を停止させていた。
ビビリだと笑われても仕方ないだろうが、本当に余裕がなくなっていたのだ。それほどに悪寒が私の身体に纏わりついていたのだ。
1分としないうちに全員が戦闘位置に着いた。隣に立つトゥリが私に視線を投げかける。
「一体なぜ警戒態勢を? 確かにとても巨大な群れですが、危険はなさそうですよ」
「万が一というものがある。それに、何か嫌な予感がするんだ」
「それは、どうして?」
疑問の表情で見つめる彼女に拙く理由を話し出す。
「……あくまで勝手な想像だが、視界が全く取れない中、危険がないものが近くを通り過ぎるだけであのピエニが報告すると思うか? 恐らく前のヤマシロ―の群れも気づいていたはずなのに、何も言ってはこなかったじゃないか」
「そんなの分からないじゃないですか。本当に見えなかったから報告しなかっただけじゃないんでしょうか」
「それなら確認してみよう」
ピエニ、と通信機に呼びかける。向こうからは返事はない。
「ピエニ、少し前の物資投下の時、ヤマシロ―の群れには気づいていたか?」
『……』
「ピエニ?」
『……来る! 備えて!!』
衝撃。巨大な車体を揺らすほどの衝撃が襲ってきた。足元が揺らぎ、危うく倒れそうになる。
「くっ……クソッ、何が起きた! 誰か報告し……ぐあぁっ!」
「きゃあっ!」
もう一度、さらにもう一度。ぶつかったというよりも押し込まれると形容した方が正しいほどの衝撃がまさに波のように降りかかってくる。揺れに耐えきれずトゥリがへたり込む。
何かが装甲を叩く耳障りな金属音と唸る風に混じって別の声が聞こえる。が、それに耳を尖らせていられる程余裕は余っていない。
『……ちら左舷観測室! 聞こえますか!』
投げっぱなしになっている通信機から、少年とも聞き取れる若い声が聞こえてくる。これほど若い声の持ち主、有り得るのは一人だけだ。
床を這うように通信機の元へ向かい、それに向けて声を上げる。半ば叫ぶようにしなければ掻き消えてしまいそうだ。
「テラコか! どうした!」
『何かは分かりませんが、何かが連続して衝突してきています! もうこちらでは立っていることができません! 最悪、装甲板に穴が開く可能性も! 早く何とかしてください!』
「……クソッ! どうすればいい!」
通信機を握る手を叩きつける。揺れは次第に大きくなり、私も何かに捕まっていないと立っていることができない。
早くどうにかしなければ。だがどうやって?切羽詰まった私には、今の状態をどうにかするほどの余裕も閃きもなかった。隊長としてあってはならない姿だ。
「隊長! おい! ガリア!」
操縦室からの怒号にハッとする。金属の歪む耳障りな音とトゥリの悲鳴の中でもはっきりと聞き取ることができたその声の持ち主は、さっきと同じ大きさで私に声を掛けてくる。
「なあ、あいつら何もんなんだよ! なんで応戦も何もしないんだ!」
ダッハの言葉を聞き、やるべきことを思い出す。私はなぜ警戒態勢を出した?
自らの役目をすっかり忘れていた私は急ぎ通信機を砲塔に繋げる。自らに嫌悪を募らせながら。
「前部砲塔! 威嚇射撃だ! 発射数制限なし!」
相手は生物だ。ならば、驚かせてやればいい。なぜこんな簡単なことが思いつきすらしなかったのか。自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。
『り、了解だ!』
返ってきた声はダモスだった。よく分からないが少し不安になった。
通信から数秒とせずに、連続して砲撃音が響いた。が、一向に突撃が止む気配はない。少し弱くなったかと思ったが、それすら分からないほどに振動は続いている。
4発目の射撃音。振動に変化はないが、少しだけ収まってきたような気がした。射撃は続く。その度に少しずつ音が消えていくような感覚を覚える。そうであってほしいと願うほかない。
先ほどまで感じていた悪寒は純粋な恐怖となっていた。強固な殻に閉じこもっているというのに、まるで雪原に一人立つような恐怖。何かに睨まれている恐怖。
その恐怖が、突っ込んでくるそれからじゃないと分かったのは、暫くの時が経過してからの事だった。
この時はただ、その恐怖が『空から睨みつけられているから』だとは理解することが出来なかったのだ。
………どれだけの時間が経ったのか、まったく分からなくなるほどに時間感覚が滅茶苦茶になっていたが、気が付いた時には振動はまばらになり、そして静寂がゆっくりと戻ってきた。
あの後だと、その静寂すら酷く不気味なものに思えてくる。
「………終わり……ましたか?」
ふらふらと危なげに立ちながらトゥリが囁く。この微かな彼女の声が聞こえるなら、あの出来事は終わったと言えるだろう。通信機が壊れていないかを確かめ、ダイヤルを回す。
「左舷観測室、被害を報告できるか?」
『……こちら左舷観測室。見える範囲では損傷見られず。わずかに凹みがあるが修繕の必要は感じられません。が、一応確認した方がいいと思います』
「分かった。今から人を回すから、そっちで確認作業を行ってくれ」
『了解しました』
「警戒を厳に、な」
一度通信を切り、ダイヤルを回して次につなげる。お前はあっちへ、お前はあれをしろ、そこはどうなっている。その作業を数回行って、やっと一息つくことが出来た。
「……にしても、一体何だったんだ」
「さぁ……今のところは何も分かりません。とにかく、確認班からの報告を待ちましょう」
「そうだな……だが、やはり何か可笑しい」
「何がです?」
「普通、射撃なんかしたら野生動物は逃げようとして方向を変えるはずだ。あれが連邦のダッカーの主砲なら話は別だが、一応あれは12センチ砲だぞ? 空中駆逐艦の主砲サイズの射撃音に反応せずに我々に向かってきた。まるで何かから逃げるように」
「逃げるように……たしかに、それなら多少は説明が付きそうですね」
じゃあ何から、というところでこの問題は行き詰った。何も情報がないために推測しか思いつかず、どうしようもない。
しかし、一つの事実がこのことを嘘ではないと囁いてくる。
「……まだ、嫌な予感がする」
「隊長もですか」
そうなのだ。何かの大群が通り過ぎた後も何かに睨まれているような恐怖を感じている。彼らが逃げていたものだろうか?
しかし、そんなことを言えば余計に不安にさせるだけだと、深呼吸をして落ち着こうとする。私は通信機のダイヤルをピエニのいる第1観測室に回した。
「ピエニ、聞こえるか?」
『……』
「周囲にまだ何か見えるか?」
『………………』
「ピエニ?」
『……分からない。見えるようで、何もいないようで。よく分からない』
「…………そうか、何か分かったら教えてくれ」
通信が切れる。あのピエニにすら分からないとなれば、我々にできることは無いだろう。
「隊長、少し晴れてきていませんか?」
トゥリの言葉に外を見る。確かに視界が広がっている。一番悪化していた時には車体すら微かにしか見えなかったが、今はそれがはっきりと見える。
窓に近づき周囲を見渡してみたが、動くものも目に付くものも何もいなかった。視界もどんどん晴れてきている。
この調子で天候が回復すれば、10分とせずに出発できるだろう。
パルエ歴671年 14月6日
現在、我々は北進を再開、夕闇の雪原をゆっくり走っている。周囲には雪と岩肌しかない。まだ警戒態勢は解除していないが、夕食頃には隊員達を休ませることにしよう。トゥリもそろそろ限界がきそうだ。
あの動物たちは一体何から逃げていたのだろうか。駐屯地に居た時も何回か動物が寄ってきたことがあったが、あそこまで凶暴でもなかったし、必死でもなかった。
あのピエニですら分からないと言ったのだから、よほど危険なものに追われていたのが一番筋の通る可能性だ。それほどまでに危険なもの。嫌な予感しかしない。
この旅路が一気に不安なものになってきた。中断する気はないが、早くこの胸騒ぎを取り除きたいところだ、まったく。
向こう数日、緊急サイクルが適用される。朝晩問わず、いつ襲われても最大限対処できるシフト構成だ。暫く精神にも肉体にもきつい日々が続くだろう。
安全な状態が確保出来たら、少しだけ休息を作ってもいいかもしれない。そのためにも動けるときに進ませておく必要がある。
3日の遅れ、全速力で走らせれば直ぐに取り戻せるだろう。
……しかし、あそこまで混乱してしまったのは全員の命を預かる立場としてかなり不味い。早くこの臆病さは何とかしないと。