操舵手ヘボンの受難#21 『襲撃』
暫くの間、ニールとヘボンはその歪な船体図を眺めながら押し黙っていた。
これから先、この様な珍妙奇天烈な機体で帝都へ飛ばなければならないと思うと、頭が随分と痛む。
小部屋の壁際の窓から差し込む明かりは、既に赤色を帯びており、時刻が既に夕刻を回りだしている事を告げていた。
「…それでだ、ヘボン。 仮に帝都へ辿りつけたとして、お前はその後の事は聞いているのか?」
いい加減に見るのも嫌になったか、船体の図面を胸ポケットへ畳んで仕舞い込んだニールはヘボンを眺めながらそう言った。
確かに彼の言うとおり、ヘボンの意思に関係なく帝都に行くという事にはなっているが、その着いた後はどう動けばいいのかはヘボン自身わからない。
強いて突き詰めれば、ラーバ中佐を探し彼女へあの邪龍について記された書類を渡すと言うことであるが、その後はどうなるのか。
あの中佐の事であるから、書類を渡してからヘボンはお役御免という事にはならないだろうし、大方また何かの揉め事に巻き込まれそうな気が大いにする。
「ただ、書類を渡すようにとヘルマン中尉に命令されただけだ。 その後の事は知らないが、ロクなことにはならないだろう」
「…だろうな。 機体からして、ただの帝都までの飛行するだけの武装じゃぁない。 どうせ、また荒事に巻き込まれるんだろうな…畜生、いっそのことトンズラかまして、空賊にでもなるか?」
「数日前にも誰か同じことを言ったのを聞いたぞ」
ニールの言葉にヘボンは少し口角を釣り上げた。
その様子を見て、ニールはつまらない飛行計画について論議するよりも、ここ数日のヘボンの動向が気になっていたのか、その点について聞いてきた。それに対して、ヘボンは親切に答えてやることにした。
ここ数日の出来事を纏めるだけで、立派な自叙伝が書けてしまいそうな程、面倒事には事欠かなかった。
ニールに見送られてからのトゥラーヤ級と一戦を交えた事に始まり、旧式艦艇を取り揃えた奇妙な艦隊に召集されて、それからの艦隊戦について、そして、ゼイドラに乗り込み不時着してからの逃避行と、『黒翼隊』と言われる辺境諸侯連合のお抱えの戦闘機隊についてなど、話題は事を欠かなかった。
当初の内、ヘボンはぼつぼつと静かに語っていたが、話が長くなるに連れて、例の中佐についての恨みもあってか語り方に熱を帯び始めていた。
そんなヘボンの語りに相槌を適度に打ちながら耳を傾けるニールの顔も、幾らか興奮に熱を帯び始めていた。質の悪い冒険譚ではあるものの、彼を夢中にする点については問題なく、長話は夕陽が落ち、窓辺から差す明かりが弱くなるまで続いた。
「お前の運の悪さには、驚くばかりだな」
ある程度話が、現状へ落ち着くとまとまった煙草の吸殻を灰皿の隅へ寄せながら、ニールは落ち着いた調子にそう言った。
ずっと喋り続けていたヘボンも、暫くはこんな長話をする気など起こらない程に、唇を乾かせながら、長時間向かい合っていたニールから視線を逸らして、リラックスするように窓の外に目を向かわせた。
そこでちょうど小部屋のドアが叩かれる音がし、その音に反応した二人が振り向くと、ドア上部の小窓より、レーベ准尉が顔を出していた。
その表情は穏やかなもので、とても数時間前に実の妹も元上官に対しても発砲した非道さは欠片もない。
「お食事です」
そう微笑みながら彼女は言いながら、小さい金属音を立てながら扉を開き、片手には湯気が立っているスープでも盛られているらしい、小さな皿が二つ乗せられた盆を持っていた。
それをゆっくりと丁寧に小部屋の隅にあった机の上に盆を置き、自身は腰ポケットより丁寧に折りたたまれた紙を取り出しては、二人の前で開いて見せた。
それはどうやら航空図らしく、現在自分らが居る六王湖の辺りに赤い点が記され、そこから黒線が引き、幾らかジグザグに軌道を描きながら図の下へ向かい、帝都を終着点としている物であった。
「…食べながらでいいので図を見て頂けますかぁ?」
壁にその図を取り出したピンで貼りつけると、准尉は二人を振り向いたが、既にヘボンとニールは盆に乗せられていたスープに手をつけては、下品な音を立てつつ啜っていた。その様子を見て、准尉は少し眉を潜めはしたものの、小さく溜息を吐きながら少々太い指先で図を指し示す。
「二人共ご存知の通り、我々は今、六王湖にいますが、ここから帝都に向かいます。 日程としては大凡2週間ほどで…まぁ、順調にいけばですが、十中八九追っ手との交戦も有り得るでしょうねぇ…」
「追っ手?」
准尉の説明に、ヘボンはスープを幾らか急いで飲み干しながら懐疑の目を向けた。
それを見て彼女はまた眉を潜めたが、今の彼女は運良く機嫌が良かったのか寛大にそれを許した。
「えぇ、保身派部隊と黒翼隊が我々を追っているでしょうしぃ、無論、邪龍も直接追跡してくるでしょうねぇ。 しかし、それだけではありません。 下手をすれば正規軍にも追われかねないのです」
「それはどういう意味でありますか?」
「…その点については自分の胸に聞くことですねぇ…軍曹。 貴方は脱走罪の容疑がまだ晴れてはいませんしぃ、そちらの中尉については依然として横領罪の容疑ですからねぇ。 憲兵達が貴方達を追っていますし、航行中に拿捕される危険もあるわけです」
「そこは耳目省が匿ってくれるんじゃぁないのか?」
「いえ、あくまで我々は身柄を引き取っただけで、軍と交渉した訳ではありませんしぃ、事態の状況からして悠長にしている訳にもいかないわけですよぅ」
「なんだよ。 また敵が増えたぞ」
准尉の説明に対して、ニールは不満そうに首を小さく横に振った。
帝都まで楽に飛んでいける気はしていなかったが、当初のヘボンの予想よりも自体は遥かに不味いことになっているらしい。
気不味い視線をヘボンがニールへ向けていると、准尉は説明を再開した。
「えぇ、正確に言えば正規軍憲兵と保身派部隊、それに加えて黒翼隊と邪龍の4つから我々は狙われています。 しかし、敵は多いですが、今後は耳目省がサポートしますので大船に乗ったつもりでいてくださいな」
「船を動かすのは俺達だろうが」
准尉は微笑みながらそう言ったものの、ニールは何処までも彼女へ噛み付くつもりなのか憎々しげに睨んでみせる。
その様子を見てヘボンは准尉が起こり出さないものかと狼狽したものの、彼女は至って平静にニールの睨みを受け流す。
「いえ、例の…ツヴァッデの操縦は私共が担当しますので、中尉には輸送艦の艦長としての経験を活かして、運航計画の確認などをお願いします。 …憲兵の網の目をくぐり抜けるのはさぞ得意でしょうし…。 軍曹には相変わらずコアテラを操縦して頂きますがね」
小さく笑いながら、皮肉交じりに不意に准尉は視線をヘボンへ向けてくる。
「ツヴァッデの各種兵装には射手がそれぞれに就きます。 皆、耳目省の構成員で戦闘訓練は受けていますし、それなりの経験もある工作員達ですからぁ…まぁ問題はないでしょう。 銃座担当の他にも、武装構成員が10人ほど乗り込みますので、幾らかの荒事には対処出来るでしょうね」
「…ちょっと待て、一体何人程あの船には乗り込めるんだ?」
「そうですねぇ…ざっと30人迄はなんとかぁ…」
「一小隊丸々収まっちまうのかよ。 戦争が出来るな」
「出来ることなら交戦は控えたいですがぁ、仮になったとしても小規模な部隊相手なら、ツヴァッデの火力で蹴散らせます」
既にスープを全て飲み干したニールが、准尉の説明に舌を巻いている。
平然と准尉は説明を続けるものの、彼女が言う交戦は避けると言う物言いとは裏腹に、ツヴァッデに搭乗する構成員と武装の内容は明らかに交戦を強く意識しているものであった。
確かにそれだけのサポートがあるのは心強い物ではあるが、何しろ追ってくる相手はあの邪龍であり、果たしてこの戦力でも追いつかれた際に逃げ切れるのかは怪しい。
「准尉殿。 邪龍と遭遇してしまった場合の対処法などはあるのでありますか?」
その点についてヘボンが質問すると、准尉はそれに答えるように壁に貼り付けた航空図の一部を指差した。
現在血である六王湖より随分と南下し、リューリア地方の辺りを示している。
「実際のところ現状ではまず敵いませんからぁ、邪龍と会敵した場合には全力で逃げる他ありませんねぇ…。 先程の様に逃げ切れるかどうかは運頼みですがねぇ… ただ、逃げるにしても我々一小隊だけでは心許ないので、支援を頼るべく『ヨダ地区』へ回ります。 ここを治める貴族達は皇帝派でありますし、戦力も侮れない物があります。 保身派と敵対している我々に対して幾らかの支援をするとの話は付いていますのでぇ…」
「耳目省が交渉したのでありますか?」
「いえ、その点についてはラーバ中佐との連絡を通して根回しした次第です…。 敗戦の将とはいえ、彼女の人脈は豊富ですねぇ…こちらが軍曹を連れている事も告げると、快諾してくれましたよぅ」
准尉は少し誇らしげに中佐の事を語りながら、少し話に疲れたのか一旦大きく息を吐くと、また視線をヘボンへ向けてくる。
そこには何処か尊敬するような、また呆れるような色が混在していた。
「皇帝派の貴族間では軍曹の話題で持ち切りって事です…。 ラーバ中佐の新たな片腕で武勲を馳せる軍人として…。 まぁ、貴方はそんな自覚ないでしょうがぁ、あの中佐が言いふらしている訳でぇ…」
准尉はそう言ってのけるものの、ヘボンとしては中佐の片腕になったという自覚は全くないし、仮に中佐本人に頼まれても願い下げである。
だが、准尉の発言について気になったことがあった。
彼女は今、ヨダ地区の貴族たちに対して中佐からの連絡を通してと言ったが、つまり最近に連絡を取ったということである。
「…中佐と連絡を取ったのでありますか?」
「えぇ、彼女は軍曹の事をよろしくと…随分と気に入られているようですねぇ…」
ヘボンの言葉に准尉はそう答えたが、彼は複雑な心境になった。
何故そこまでして中佐が自分を買っているのか、わからなかったからだ。
正直な話、もっと別の部下に頼みようでもあると思うのだが、中佐はヘボンが邪龍についての書類を持ってくることを待っているらしい。
ヘボンよりも信任の厚いであろうミュラー曹長に任せても良かったと思うが、彼はあのアルバレステア級の騒ぎの後どうなったのか不明であるし、一緒に居たベルン軍曹も同様に不明である。
一体、中佐は自分に何を求めているのか、彼女の真意はわかりそうにない。
その後は准尉の航路と状況についての説明が続いた。
ヨダ地区で支援を受けた後は、進路を帝都へ向けて直進するらしい。
どの程度の支援かはわからないが、それさえ済めば迂闊に保身派部隊も追撃することは困難との見解であった。
そもそも邪龍の書類をこちらが所持していて、それを帝都に運ぼうとしている事自体は保身派の方には知らされていないらしい。
あくまでアルバレステア級からのヘボンの脱走行為自体はそのままに伝えられているようだし、ヘルマン中尉は保身派閥内である程度の信用があるらしく、彼が邪龍の情報を流した事についてはまだ上層部には感知されていないとの話である。
その点については耳目省との兼任であるレーベ准尉の手腕と言ったところか、事はそれなりに秘密裏に進んでいるらしい。
ただ、邪龍の情報について流出の危険性を把握されていようといまいと、邪龍がヘボンを追っていることは確かであり、それに付随して黒翼隊の手も迫っている事は確かであった。
何せ黒翼隊の指揮官であるニエン少佐を誘拐した訳であり、実際のところはその途上で殺害したようなものであるが、黒翼隊の方としてはそれを認知しているとは思えない。
指揮官自身が人望に厚い人物であったために、邪龍と同じように血眼でヘボン達を追ってくるだろうとの准尉の解説に、ヘボンは背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
「…まだ若いのに、私の周りは敵だらけって事か」
「いいじゃないか、退屈しないで済むぞ」
どう考えても好調とは言えない状況に対して呻くように吐き捨てるヘボンに対し、ニールは皮肉げにそう言葉を添えた。
准尉は説明をあらかた終えると、小部屋を後にした。
この産業塔を翌日には飛び立つということを最後に付け加え、今のうちにしっかりと静養しておけとの事だった。
そう准尉が立ち去る頃には辺は夜の帳が落ち、小部屋の窓からは時折サーチライトの光線が闇夜を切り裂きながら遠くで動いている様が見える。
「なぁ、ヘボン。 さっさと寝ちまえよ。 休めるのは今のうちだけだ」
窓辺に立つヘボンに対して、ニールが背後より少し心配そうに声を掛けてくるが
「…馬鹿言え。 お前がベッドを占領しているから、私が寝れないんじゃないか」
そうヘボンは正直に彼へ苦情を言った。
そもそも小部屋のベッドは一つだけであったし、何故ニールをまだ部屋に残しておくのかも疑問だった。准尉も説明が終われば彼を連れて部屋から一旦出て行くのではないかとヘボンは思っていたのだが、完全に当てが外れてしまった。
しかし、どちらにしろヘボンは寝る気にはなれない。
ここ数日間、寝る度に奇妙な夢ばかりを見て、彼の精神は消耗し始めていた。
そのことを裏付けするかのように数刻前のクルカマンの登場が、明らかに神経疲労のなし得る自体であるとヘボンは思っていた。
心配事やストレスばかりが心や脳を圧迫し、あのような夢を見せているのだと、自分なりにそう結論付けてはいるが、幾らそう結論づけても疲れが取れる訳でもない。
「わかった、退くよ。 それにしても、ヘボン。 さっきの話だが…」
困っているヘボンの様子を見ると、肩を竦めながらニールは腰を下ろしていた寝床より立ち上がると、ヘボンの脇に歩み寄り顔を見た。
「どの話だ? 多すぎてわからないよ」
「まぁ確かにそうだが…あぁ、クルカマンの事だ」
少々困惑するヘボンに対し、ニールは巫山戯た単語を真剣な顔で吐き出した。
「それがどうしたんだ。 私がイカれ始めてる証拠だよ。 あの野郎、性懲りもなく目の前でダンスを踊るんだ」
精神病患者が言い出すような具合にヘボンが吐露するも、ニールはそれを笑い飛ばすわけでも、心配そうに見るわけでもなく、冷静な面持ちで口を開いた。
「いや、そうじゃない。 お前、そのクルカマンってやらの存在を何処で聞いたんだ?」
「何処って…内地に居た頃、ヘレン伍長に散々吹き込まれたんだ。 容姿なり、何をするなり色々教えられたんだ」
「…いや、それはおかしいだろ。 そりゃ、確かに彼女はクルカ共としょっちゅう戯れてはいたが、そんな訳の分からない化物の話なんて聞いた事がない」
ニールの真面目にそして何処か声音の奥に冷たい恐怖を隠し持っているような調子に、ヘボンは彼の顔を見た。
「仮にエレン伍長がそんな話を吹き込んだからといって、何故お前がこんな時にそれを思い出して、しかもソイツが一人歩きしてお前に助言を施す? そりゃぁ妄想や幻覚に囚われる奴なんて俺だって何人も見てきたが、お前の口ぶりじゃソイツは自我を持っていて、お前に自制を促してくるだと? 普通は逆じゃないか? もっと命令的な物だと思うが…」
「ニール、お前はいつから精神医になったんだ」
ニールの矢継ぎ早な質問に、ヘボンは舌を巻いた。
しかし、確かに彼の言うとおり、クルカマンが一体何者であるかヘボンは深く考えはしなかった。ただ、あれはヘボン自身の妄想の産物で、自分は強いストレスの連続で統合失調症の様な妄想に悩まされているだけだと思ったが、ニールの言葉を聞いている内に疑問が幾つも湧いて出てくる。
「…ヘボン。 よく思い出してみろ、ソレを何処で聞いたんだ…?」
頭を悩ますヘボンへ、ニールは強くそう問うてくる。
彼の言葉から、ヘボンは自身の記憶の深部にメスが切り込まれていくのを感じる。
何か忘れていたような、下手をすればヘボン自身、今まで関知していなかったような事が起きていたのかもしれない。
暫くの間、ヘボンは長い思索に耽った。
何か大事な事を見落としているのかもしれない。
今まで多くの事が立て続けに起こり続けた上に、目を逸らしてきたような事象があるのではないかと考えた。
だが、その思索は不意に鳴り響いた爆音によって中止せざるおえなくなった。
ヘボンとニールが居る小部屋より遥か上層の方から、その爆音は轟いた。
咄嗟に窓辺に立っていた二人は長く戦場に身を置いた経験から、窓辺に立っているのは危険と判断し、すぐさま身を低くする。
「…アーキルか?」
「馬鹿言うなよ。 六王湖は帝国の重要拠点だし、前線からも離れてるんだ」
「じゃぁなんだって言うんだ?」
ヘボンの言葉をニールは一蹴したが、実のところ二人はこの爆音が何を意味するのか、薄々わかっていた。
だが、事実を見定めるまでは下手な事は言いたくない。
仮に予想が当たっていても、悲しい答え合わせは後にしたかった。
ヘボンの質問を一蹴したついでに、ニールは身を低くしたまま窓辺から少し頭を出して、周囲の様子を偵察する。
彼とて長い間、空の上で任務を行ってきただけに視力は劣ってはいない。
だが、それ故に彼の視力はその事実を正確に目にしてしまった。
「…おい、ヘボン。 さっきの話で聞いたが、その辺境貴族共のお抱えの部隊だのなんだの言っていたが…それはなんて言った?」
窓の外へ静かに視線を向かわせながら、ニールは何処か一点を見つめたままヘボンへ聞いてきた。
「…『黒翼隊』だが、それがどうした?」
「あぁ、そうだったな。 それで、その部隊機のエンブレムとか色はわかるか?」
ニールの質問にヘボンは唖然としていた。
ここまで聞かれれば、塔の外に何が飛んでいるのか見当は付いた。
しかし、付きはするものの、答えたくない内容だった。
「…『稲妻部隊』みたいに機体を黒く塗ってある…おい、まさか」
「そのまさかだ。 連中、早速お迎えに来てくれたぜ」
顔を恐怖に青くさせるヘボンと同じように、ニールも顔を青ざめさせながら此方へ振り向いていた。
追われる危険については准尉の説明から重々承知していたが、まだアルバレステア級を脱走してから一日も経っていない内に連中がやってくるとは思っていなかった。
どうやら今の爆音は黒翼隊の襲撃に寄るものらしく、恐怖と好奇心に駆り立てられ、ニールと同じくヘボンも窓辺から少し頭を出して外の様子を眺めると、六王湖の闇夜の中を蠢く巨大な郡影が遠方の空に確認できた。
六王湖の各基地から警報が喧しく鳴り響いており、サーチライトが一斉にその闇夜に蠢く巨大な影を鮮明に照らし出す。
それは紛れもなく、数時間前にヘボンが脱走したアルバレステア級であり、艦の周囲には黒塗りのグランビアが独特の生体音を奏でながら飛行している。
そして、今の砲撃の主であるらしいグランビア一機が、二人の覗いている窓辺の直ぐ傍を下方から上昇していく様が見えた。
ヘボンの居る産業塔の周囲にもサーチライトの光が彷徨きまわり、このグランビアも鮮明に照らし出している。
「ヤバイぞ、ヘボン。 総出でお出迎えだ。 人気者は大変だな」
この状況においてもニールは皮肉を叩くことを忘れなかったが、表情は恐怖に引き攣っている。
「…どうも、こんばんは。 お目覚めですかぁ…?」
当惑しきっている二人の横から、間延びした声が聞こえた。
慌てて二人が振り向くと、ドアの小窓から准尉が覗いている。
「こんな状況で安眠出来る訳ねぇだろ」
「でしょうねぇ。 あぁ、早く出てください。 面倒な事になりましたよぅ」
間延びした調子に噛み付いたニールに対し、言葉の割には落ち着いている准尉が素早くドアを開けた。
ドアの脇に立った彼女の服装は先程の軍服とは打って変わり、朱に染めたチェニックを着て、その下は紺色のカーゴパンツを履いていた。
軍服と比べれば、私服の色合いが強いが、腹に巻いた弾帯と腰に差した例の大型拳銃が非常時であることを証明している。
「黒翼隊に補足されましてねぇ…時期にこの産業塔に乗り込んでくるでしょうね」
「六王湖の警備部隊は何をやってるんだよ?!」
「連中、軍施設が狙われるなら露知らず、耳目省管轄の塔に関してはノータッチなんですよねぇ…。 一応、警告には出るでしょうがぁ、黒翼隊が貴方達の事を伝えれば、今度は憲兵隊と一緒に乗り込んでくるでしょうね」
「くそぅっ…どうするんだっ?」
「まぁ、落ち着いてくださいよぅ。 ただ出立する時間が早くなっただけです…遅かれ早かれ、邪龍に目を付けられている内はこうなる事は予想出来てましたし…」
狼狽える二人を尻目に、准尉はそう呟いてから、背中に背負っていたのか雑嚢を二人へ手渡してきた。
彼女の体格上、正面部が広すぎるために、雑嚢を背負っていることなど一見しただけではわからなかった。
「とりあえず準備してくださいな…塔へ乗り込まれる前に脱出する事は、ほぼ不可能でしょうしねぇ…。 切り抜ける他ありません」
そう言いながら、雑嚢の内を覗くと弾薬と例の大型拳銃が入っているのが見て取れた。
他には飛行服に帝国独自の特徴的な形をした飛行帽が収められている。
「さっさと着替えてくださいなぁ…ここを出たら、すぐにツヴァッデへ乗り込んで貰いますのでぇ…」
そう言いながら准尉は通路の方へ振り向いた。
此方が着替える様は見ないという意思表示であることはわかるが、逼迫した現状においては何処か滑稽にも思える仕草だ。
言われた通りに着慣れた飛行服へと、二人は素早く着替える。
ズボンを下ろす頃には塔の上部より連続した爆発音が響き、ファスナーを上げる頃には何かが巨大な物が衝突したような衝撃と振動が起こり、腰に拳銃を差し、弾丸を込めた頃には銃声が上部から響いていた。
狂気と殺意が明確に上層から、明確に迫ってきていることを二人は肌で感じた。
「…上層では既に抗戦が始まった様ですねぇ…数は此方が劣勢ですしぃ、装備している火器も連中の方が強力でしょうから、突破出来るかどうかぁ…」
支度が済んだ二人を見ると、彼女は少しだけ不安そうな声を漏らしてから、ヘボンとニールを交互に見つめた。
「まぁ、なんとかなるでしょう…策が無いわけでも無いですしぃ…」
そう頼りない事を言ってから、彼女は腰の大型拳銃を慣れた手つきで引き抜くと、両手に構えて二人の先頭に立ち、ゆっくりと螺旋階段を上り始める。
その後方に付く二人は恐怖に身を震わせはしたが、先導する彼女の背中が何処か心強い物にも見えた。
大の男がこうも女性を頼りに思うのも情けない気がしたが、准尉には二人がかりでも適わないことはよく理解していた。
どす黒い何かが螺旋階段の上から迫ってくる気配がした。