#12 『Black Hearted Soul』
歩哨壕の中は今朝の大雨のせいで酷い有様となっていた。
敷き詰められた草は溶け出した泥によって覆い隠され、その役目を果たしていない。
夕日は先程までの輝きをとうに失っており、視界は暗黒に支配されつつあった。
連邦兵は隣にいる同僚を見やった。
戦闘服に染み付いた汗と雨は下がり行く気温のせいで乾こうとはしていなかった。
『・・・ねぇ、オスカル。』
視線に気づいたのか、その女性兵士はこちらに振り向き囁いた。
『大丈夫か?さっきから震えてる。』
オスカルと呼ばれた兵士は負い紐で吊るしていた小銃を下ろし、同僚の顔を覗き込んだ。
塗りたくられたドーランは汗で溶け、白い肌が暗闇の中で薄く輝いていた。
『このまま第4艦隊が戻らなかったら私達どうなるの・・・?』
女性兵士は呟いた。
声色は弱く、今にも倒れてしまいそうな調子である。
『大丈夫だ。連中が駄目でも、助けはきっと来る。』
その肩に手を置きながらオスカルは彼女に言った。
『・・・帰りたい。死にたくないよ・・・。』
女性兵士は啜り泣きを始めた。
オスカルはその背中をさすり落ち着かせるよう試みる。
『俺が付いてる。心配するな。』
励ましながら、オスカルは自分の胸ポケットをまさぐった。
そして畳まれた一枚の紙を取り出した。
『覚えてるか?新兵訓練の終わりにお前が描いてくれた・・・。』
それを広げ、同僚に見せる。
渓流に釣り糸を投げ込む男と、周りで遊ぶ子供達が軽いタッチで描かれていた。
『国に帰ったら真っ先にここへ行こう。いい所なんだろう?お前の故郷は。』
女性兵士は涙を流しながら頷いた。
『それに・・・、伝えなきゃいけないこともあった。』
オスカルは鉄帽の傾きを直した。
『タリア。勿論すぐにとは言わない。落ち着いたら俺と、俺と・・・』
女性兵士はオスカルに抱きついた。
目からはとめどなく涙が溢れ出る。
その雫は彼女の頬を伝い、オスカルの肩章を濡らした。
『本当に・・・?本当にいいの?』
鉄帽を脱ぎ捨て、オスカルの胸に顔をうずめた。
『当たり前じゃないか。こんなに・・・』
オスカルはタリアの肩越しに人の姿を見た。
歩哨壕の縁にしゃがみ、首を傾げながらこちらを眺めている。
顔にはゴーグルのような何かが装着されており、無数のレンズが赤く淡い光を放っていた。
『あっ・・・』
オスカルの体は動かなかった。
腕の中の同僚は泣きじゃくったまま離れようとはしなかった。
リシェクは小銃を腰だめに構え、銃床を脇で挟み込んだ。
そのまま短連射の要領で一瞬だけ引鉄を引く。
発砲音や閃光は発せられず、遊底の前後する金属音だけが辺りに響いた。
反動すら緩和されているように感じられた。
本当に弾が出たのか疑いたくなったが、その答えは歩哨壕の中で血まみれで倒れている二人分の死体が示していた。
そのまま目の前の藪を掻き分け進んだ。
濡れた草が首を撫で、水滴が下着の中まで流れ込む。
不快感と冷たさに顔をしかめながらも歩き続けた。
やがてやや開けた地形に出た。
巨木の傍に、大きめの天幕が見える。
小銃を前方に指向したまま慎重に歩み寄り、入り口の布を払った。
中には射殺されたと見える連邦兵の死体が4つ転がっており、奥には小銃を携えたダレルとレフラの姿があった。
リシェクのものと同様、二人の銃の先には煙立つ直方体の装置が取り付けられている。
「片付いたか?」
ダレルはリシェクの姿を認めると言った。
「ここらの歩哨は大体な。それにしても、凄いなこれ。・・・あちっ。」
リシェクは自分の小銃に付けられたその装置を指で叩いた。
「・・・壊すなよ。高いって大尉も言ってたろ。」
ダレルは静かに嗜めた。
「分かってるよ。で、その大尉は?」
リシェクは指に息を吹きかけながら言った。
「見てないか?おかしいな、やけに時間が・・・」
天幕の外から草を踏む音が微かに聞こえた。
3人は一斉に入り口へ銃を向ける。
布を掻き分け入ってきたのはユーゲンであった。
その右手には機関から煙を上げている消音拳銃が握られている。
左手で一人の連邦下士官の襟を掴み、引き摺ってきたようである。
そのままそれを作業机の脚にもたれ掛けさせた。
下士官の口からは涎がとめどなく流れ出ており、その瞳はまるで焦点が合っていなかった。
「うわっ・・・、何したんだよ?」
その様を見たリシェクが尋ねた。
「小便してた所にな、こいつを腰にぶち込んでやった。」
ユーゲンは外套のポケットから注射器を取り出した。
鎮痛・鎮静作用のある軍用麻酔であった。
やがて拳銃を下士官の額に突きつけた。
『あー、言ってることが分かるか?これから質問することに偽り無く答えろ。』
その顔を覗き込みながらユーゲンは連邦語で言った。
『ひひっ・・・、あんた可愛いなぁ・・・。ふひっ。』
下士官は瞼をヒク付かせながら呟いた。
「大尉・・・。分量が多すぎたんじゃ・・・?」
レフラが小声で言った。
ユーゲンはそれには答えず、下士官の頬を軽く叩いた。
『しっかりしろ・・・、何の為に生かしたと思ってる。・・・いいか、よく聞け。この大隊には24歩兵連隊からの増援がいたはずだ。連中の警戒範囲はどの辺りだ?』
下士官に聞き取れるよう配慮してか、単語ごとに強調しながらユーゲンは尋ねた。
『にじゅう・・・よん?俺は43歳だよぉ。・・・ひひひっ。』
ユーゲンは溜息をつくと下士官の額を銃口で突いた。
『北から流れてきた酔っ払い共の連隊のことだ・・・!さっさと言え。』
『・・・あんまり叩かないでくれよん。俺も地図見たくらいだから詳しくは分からんのよ。ごめんね・・・。』
ユーゲンはその目にあからさまな苛立ちの色を浮かべると、再び下士官の襟を掴んだ。
そのまま天幕の外へと引き摺っていく。
40m程進むと、小高い崖の下に広大な盆地が広がっているのが見えた。
その中央――ここから2km程先に、大破し横たわる航空母艦の姿があった。
それを取り囲むようにして大量の天幕や車両が群れを成している。
『んー?酒呑みたちはあの辺にはいないよ、確か。・・・西の外れじゃなかったかなぁ、ねぇ?』
下士官は空ろな目でそれらを眺めるとユーゲンに言った。
『私に聞くな。本当にそこにいるんだろうな?』
下士官は少し考えるような素振りを見せた。
『・・・うん、間違いない!酔って暴れるから向こうに集めて歩哨させてたはずだ!』
そして涎を飛ばしながら言った。
「参ったな・・・。ここと真逆じゃねぇか。」
リシェクが暗視眼鏡のずれを直しながら呟いた。
「狙撃組に今のを伝えろ。準備ができたら行くぞ。」
ユーゲンは下士官の襟を放しダレルに命じた。
『ねぇねぇ!何か御褒美はないの?』
仰向けに倒れていた下士官が唐突に言った。
『あぁ、あるぞ。ほれ。』
ユーゲンは屈み、ポケットから注射器を取り出した。
そのまま針を下士官の首に突き刺し、親指でバルブを開いた。
途端に下士官は白目を剥いたまま動かなくなった。
「03。おい、カイ。まだできんのか?」
ダレルが無電に言った。
『いや、着いたんだけどもね。マイヤーが生体照準眼の使い方を・・・・分かった?・・・いや分かったらしい。03配置完了。』
受話器からはカイの間の抜けた高い声が聞こえる。
「02了・・・。まったく。」
ダレルは受話器をサスペンダーの釣り環に掛けた。
そのまま4人は盆地を迂回するように南西へと歩き始めた。
月は雲に隠れ、一寸先すらロクに見えない状況であった。
傭兵達は生体暗視眼鏡によってそれぞれの視界を確保していたが、ユーゲンは裸眼で辺りを把握しているようである。
闇の中で幾つもの暗視眼鏡の光が揺らぐ様は死者の魂を連想させた。
「大尉・・・。本当にこれで『学者』は殺せるんですか?」
レフラは右腰に吊るした擲弾を触りながら、前を歩くユーゲンに囁いた。
「旧兵器を殺した実績もあるらしいから持ってきたが・・・私も分からん。その為の2段構えだろう?」
ユーゲンは狙撃組のいるであろう方向を示しながら言った。
「確かにそうですが・・・。奴は現れるんでしょうか?」
ダレルが呟いた。
「ホフマンはクズだが、勘は良かった。これでも4年の付き合いだからな。」
ユーゲンは事も無げに言った。
「よくそいつを殺せたな、おい・・・。」
リシェクが周りに聞こえないよう小声で言った。
突然、遠方で1発の銃声が轟いた。
4人は素早く姿勢を低くした。
盆地を見やると、連邦兵達のものであろう曳光弾の明るい線が彼方にある巨木の辺りに集中していた。
遅れて連続した発砲音が傭兵達にも届く。
リシェクは小高い堆土の上に屈むと、左手で暗視眼鏡側面のダイアルを回した。
可視光が増幅され、像が30倍まで拡大される。
崖の上で、火線に補足されないよう匍匐する数人の兵士の姿が認められた。
「俺達と同じ装備だ。ありゃあ・・・。」
「2課だ。糞ッ。」
傍らのユーゲンが苦々しげに呟いた。
「帰るぞ。仕事は中断だ。見つかる前に撤退する。」
そして3人に言った。
唐突に、ダレルがリシェクとユーゲンを地面に突き倒した。
一瞬前まで二人のいた空間を、大量の機銃弾が切り裂いていく。
数発がダレルの胸と太股を貫いた。
生い茂る木々の向こうに、幾つもの発砲炎が見えた。
レフラは倒れたダレルの足首を掴み、岩陰に引き摺った。
ユーゲンとリシェクも付近にあった立ち木の陰に素早く滑り込む。
木々の皮が銃弾によって剥がされ、香ばしい匂いと共に粉塵が辺りに舞い散った。
ユーゲンは右手と拳銃だけを暴露させ、敵方に向け発砲を始めた。
軽機関銃を射撃したまま、一人の連邦兵が倒れるのが見えた。
放たれた銃弾が夜空へと昇っていく。
レフラは小銃から消音器を外し、弾帯の金具から擲弾をむしり取った。
そのまま銃口に安定管を被せると、弾倉を外しポケットに入れていた空包を薬室に入れた。
上半身を岩の上から出し、床尾板をしっかりと右肩に押し付ける。
引鉄を引くと強烈な反動により体が大きく揺さぶられた。
そのまま後ろへと倒れる。
放たれた擲弾は一人の連邦兵が掩蔽していた巨木に命中した。
幹に大穴が開き、兵士の体に神経毒を内包した金属片が幾つも突き刺さる。
破片は周囲にも飛散し、5人ほどの連邦兵を即死させた。
倒れた巨木を踏み潰しながら、一両のデーヴァがゆっくりと向かってくるのが見えた。
やがて停止し、履帯を軋ませながら車体の正面をこちらへ向ける。
75mm砲の砲身は、レフラとダレルの隠れている岩へと指向された。
「走れっ!そこから出ろ・・・」
リシェクの怒鳴り声を掻き消すように、デーヴァの車体が轟音と共に左へ吹き飛んだ。
側面の装甲は大きくへこみ、開口部からは搭乗員の血が噴き出していた。
そのまま傍らにいた兵士達を潰しながら転がり、やがて大きな爆発を起こした。
その炎に照らされるように、木々の向こうに一つの人影が浮かび上がった。
連邦の将校用の外套を羽織っているようである。
しかしその前は大きく開けられており、有機的な曲線を基調とする甲冑のような外骨格が覗いていた。
「ようやく出てきたな。しかしまぁ、間が悪い。」
ユーゲンが無表情に呟いた。
しかしそれ以上に、こちらへ歩いてくる『学者』の顔は感情の読み取れない仮面のような様であった。
雲の切れ間から二つの月が顔を出した。
両新月に近かった為、月光はほとんど発せられていなかった。