操舵手ヘボンの受難#23 『鬼女神の到来』
悪魔の登場に対して、ヘボンの顔は青褪めた。
確かに彼女が空から落ちる様はこの眼で見たはずであるし、あの体が邪龍の中へ飲み込まれる様だって朧げではあるが見た。
しかし、眼前の光景は今までの記憶を全て否定し、嘲笑うかの如く、ニエン少佐は段上に立ち、こちらを見下ろしている。
だが、この悪魔の出現に対してもそれを上回る程の気力を持った者は何人か存在するらしく、その証明とばかりに一同の端で機関銃を構えていたビル主任が怒号を上げた。
「撃ち殺せっ!!」
彼の命令が響き渡った途端に、ヘボンは長い軍隊暮らしで命令には即座に反応するように体が出来上がっている性に寄るものか、ヘボンは意識するよりも先に得物を構え直した。
狙いなど付ける必要もない近距離であり、大型拳銃を握っていた腕を振り上げるようにして彼女へ大方の狙いを定め、グリップに片手を添える。
すぐさま引き金を引き込むと歪な大型拳銃が唸りを上げ、主任の機関銃が咆哮を放ち、他の二人も追従するように射撃を彼女へ対して加える。
だが、一同が鉛玉を放とうとした瞬間に、少佐は一瞬不敵な笑みを浮かべると、体を素早く捻らせながら高く跳躍し、いとも簡単に照星の先を躱す。
あまりにも化物じみたその動きに一同は息を呑むものの、照準は狭い螺旋階段内を飛ぶ鳥となった彼女を狙う。
銃声が轟、辺りには壁や床に命中した弾が煙を立てるが、鳥を射止める事は出来ず、跳躍した姿勢のまま彼女は一同の背後を取り
「…動くな」
そう激しい銃声が轟いた中でも透き通るような凛とした声で、ヘボンの横に立っていたビル主任を羽交い締めにしては、此方を睨んでいた。
丸々と太った彼の身体にまるで蛇が絡みついたかのように、少佐の腕はその太い首へ当てられている。
「撃つなっ!」
すぐにビル主任は己の窮地を感じ取ると、ヘボン達へ開いて両手を突き出し制止したものの、それを見てとっても、ヘボンとニールはすぐには判断が出来なかった。
しかも、あろう事か今ほどに撃ち尽くした拳銃の弾倉を二人は慣れない手つきで、取り外すと半ば揃ったような動きで腰から予備弾倉を引き抜いて装填してみせる。
「何をしているんだっ!? 撃つなと言ってるだろうが!」
そうビル主任は大きな体を震わしながらそう叫びはしたものの、ヘボンもニールも二人の背後に立っていたレーベ准尉に後頭部を叩かれるまで、主任など関係なしに少佐を撃ち殺すつもりであった。
「…自分もろとも撃てと言ったと思ったであります」
「名誉の戦死ということに出来たんだがな」
准尉に鋭く後頭部を叩かれた二人は、まるで子供の言い訳の様な事を口にしたが、それを見てビル主任は恨めしいような顔をして
「…疫病神共め」
そう苦々しげに彼が小さく吐き捨てる頃には、螺旋階段より下ってきた兵士達により、一同は武装を解除されていた。
リュッカー少尉が閉じ込められた産業塔内部の特殊な昇降機の中から、ようやくの思いで救出されたのは一時間程であった。
その頃には、生体防護服で武装した異様な兵士達を引き連れたニエン少佐の手によって、耳目省職員とヘボン共々第二ポートの上に集められていた。
頭上を見上げれば、この産業塔の天辺にある第一ポートには闇夜の中でも、その存在感を強く保っている漆黒のアルバレステア級が停泊しており、ヘボン達がいる第二ポートの端にはこれもまた黒く染め抜いたドゥルガ強襲揚陸艇が一隻停泊している。
一体何処からこのドゥルガ級が湧いて出たかはわからないが、その背後や上空にて旋回しているグランビア戦闘機達の数から見るに、数時間前よりも黒翼隊は大幅に戦力を増強させたらしい。
確か黒翼隊は中隊規模の部隊名であったと、ヘルマン中尉から聞いていたが、これでは2個大隊程の戦力はある。
そして、その恐ろしいまでの戦力を見せつける事とは対照的に、ヘボン達は何処までも無力に武装を解除され腕を縛られては拘束され、第二ポートの上に転がされていた
猿轡や目隠しなどは施されていなかったが、この様な状況では寧ろ目隠しを願い出たいほどであり、それだけ視界に広がる光景は惨たらしい物であった。
彼等はまず手始めに、数時間前まで産業塔上部にて抗戦していた職員達を細かく特定すると、その職員らを一人一人連行してはポートの端へ横一列に整列させ、彼等に対し一斉に射撃を加えてから、それを塔より突き落としていった。
そんな光景は塔の周囲を飛ぶグランビア達と、困惑したかのように入り乱れる憲兵隊の物と思われる艦艇達にも、確認されているだろうが、連中はそれを見せつけるかのように敢行している様子である。
まだ塔の中より連れ出された職員達は十数人程残っているが、彼らの運命は風前の灯であり、ヘボン達も同様である。
「…これ以上手を出すなという、見せしめだろうな」
その凄惨な様子を見つめながら、苦々しそうにビル主任は吐き捨てた。
彼はヘボンの隣で拘束されており、ビル主任の隣にはレーベ准尉も拘束されている。
彼女の豊満な体を縛るロープを見ていると、ヘボンは何処となく肉屋に吊るしてあるようなハムを連想したが、そんな呑気な事を考えている場合ではない。
ただ、場が凄惨であればあるほど、ヘボンの脳は現実逃避じみた考えばかりが浮かぶ。
「先程も言っただろうが…我々は捕虜として扱われない。 そもそも耳目省の戦闘部隊と言う物が非公式であるから、上層部も他も表向き上は関知しないし、したくないだろうな」
「だからと言って、殺すのでありますか…?」
「連中にとってみればこれは前夜祭の様な物だ。 何せ、これから帝国貴族達…つまり帝国の中枢へ戦争を仕掛けるのだから、我々の様な厄介な尖兵は排除するという意志の表れだろう…派手な宣伝だ」
ビル主任の苦々しく吐き捨てる言葉を聞きながら、ヘボンは自分達の命が長くないということを知らされた。
現実逃避に流れたがる脳ではあったが、既に思想の上でも逃げ場はなかった。
「…ヘルマン中尉は…どうなったのでありますか? 准尉殿…?」
不意に現実的に状況を理解しようとした脳の中で、あのアルバレステア級から自分を逃がす算段を打ってくれたヘルマン中尉の事が思い浮かんだ。
あの脱出する間際に、ヘボンとレーベ准尉はニエン少佐に、此方の手の内を読まれてしまったが、あの場は准尉が少佐を撃ったことによって事なきを得たと思っていた。
しかし、その少佐が現場に復帰したということは、何を意味するか。
「私が知るわけないでしょう? まぁ、少佐がここに居るという時点で生きてはいないでしょうねぇ…」
怯えるように声音で問いかけるヘボンに対し、准尉は何処までも落ち着いてはいるが、暗い調子にそう答えた。
言葉の内には出なかったが、あの脱出劇に文字通り手痛い代償を払って加担した彼女の妹であるエーバ准尉とて、無事には済んでいない事は明白だろう。
「…死にたくない」
「俺だってそうさ、巫山戯てやがるぜ。 畜生」
そう弱々しくヘボンが呻くと、彼の左隣で拘束されているニールも呻く。
少し彼の横顔を覗いてみると、青褪めた色であるものの、その絶望した眼は閉じられることなく懸命に最後の景色を目に焼き付けるかのように眼は蠢いていた。
「兎に角、ヘボン。 お前と一緒に死ぬのだけは御免だ。 地獄までついてこられちまっちゃ、あっちでも酷い目に遭いそうだからな」
その蠢く目がヘボンを見たとき、彼は少しだけ口角を釣り上げては無理に笑ってみせる。
そんなやり取りをしていると、ポートの端に立っていた一団が此方へ近づいて来るのがわかる。
それはまるで幽鬼の様な一団であり、どす黒い生体防護服の肉塊に覆われ、頭部からは二つのゴーグルと思わしきレンズが飛び出ては、照明に照らされてはいるものの、それでも薄暗いポートの上にて獲物を探しているような怪物と言った印象を受ける。
そして、その一団の先頭に悠然と立ち、不敵な笑みを浮かべているニエン少佐を見ると、まるで彼女が邪教の司祭の様にすら見える。
少佐は生体防護服の一団と同じようなどす黒い色をしたマントを羽織、あれほど長かった髪は何があったのか短く切り揃えて、その上に軍帽をしっかりと被っていて、御蔭でその表情は薄暗い中でも明瞭に見える。
燃えるような憎悪を狂気的な喜びで押し込めたその表情は、常に薄ら笑いを浮かべるような調子で、堂々とヘボンの前に立った時も微塵も揺らぐことはなかった。
「…貴様は何度も私の顔に泥を塗った…。 いや、私だけではない。 我が部下を殺め、栄光ある黒翼隊の翼を剥ごうとした大罪人だ」
彼女はヘボンを見下ろしながら、何処までも冷酷ではあるものの、興奮を帯びた声でそう厳粛に言い放った。
その口ぶりは死刑執行人と言うよりは、刑を告げる裁判長のようであるが、裁判長と執行人を同時に行うとは彼女にとっては役得であろうと、ずれた考えが浮かんだ。
そう思ったと同時に、彼女は腰に指してあるホルスターから拳銃をゆっくりと引き抜き、撃鉄を引き上げた。
アルバレステア級の船室でヘボンの頭部に押し付けてきた拳銃と同じものであると、ヘボンは阿呆の様に口を開きながら、ぼんやりと眺めていた。
「だが、最期に聞くべき事がある」
銃口を目の前に当てられながら、少佐はヘボンの目を見ていた。
今まで何故かヘボンの顔を直視して数々の者が慄くなり、なんなりしていたが、少佐はあの狂人たる中佐と同じ具合に冷め切った眼差しを崩さなかった。
「…『証』を何処に隠した?」
不意に聞き慣れぬ単語が耳に入り、ヘボンの視線は銃口から少佐の顔へと上がる。
「お前はヘルマン中尉から、アレを託された筈だ。 奴は最期まで、お前に託したと言った」
少佐の言葉を脇で聞いた准尉が一瞬体を大きく震わす姿が、横目にヘボンには見えた。
「…中尉を殺したのでありますか?」
彼女の言葉から、ヘボンの脳裏にはつい数時間前に強く自身を激励したヘルマン中尉の顔が浮かんだ。
(…ちょっとしたファンとも言えるね)
そう朗らかに笑って言った彼の顔が脳裏を過り、それと同時にヘボンの体内で何かが蠢く気配を感じる。
ヘルマン中尉と見知ってからたった数時間ほどしか経っていない、戦場では古い仲である友人達も一瞬の内で失ってしまうが、中尉に対する認識が新しいだけにヘボンの脳に残っている彼は少々印象が濃く、それに比例した喪失感がある。
だが、そう感じた瞬間に硬い物でヘボンは顔を強かに殴られた。
「質問はこっちがしている…。 手短に答えろ」
ヘボンを殴った物は少佐が握っている拳銃であった。
拳銃を握り締めながら、少佐は再び銃口をヘボンの眉間へ合わせ、その表情には少々苛立ちが表れている。
「私は存じ上げないであります…、少佐殿」
その苛立ちに対して、ヘボンは己に対する冷酷な殺人者に対しても、長い軍隊時代で染み付いた悲しき性か敬語を扱う。
しかし、その態度が一層彼女を苛立たせたらしく、拳銃で殴った次には蹴りが顔面に飛んできた。
拘束されていても、いなくてもヘボンには抗う術がないだけに、その蹴りの勢いは凄まじく、彼の細く頼りない体はポートの上に無様に転がり、なんとかして縛られた体で起き上がろうとすると、今度は強い力で銃口が額へ突きつけられる。
「ならば、レーベ准尉に聞こう。 どうせ、お前は使いっぱしりだ」
ヘボンを押さえつけながら、少佐は准尉を睨んだ。
それに対し、彼女の大きな体がゆっくりと此方へ向けられる。
その様子をヘボンも押さえつけられながら横目に見たが、彼は今までの准尉に対する認識を改めさせる必要がある程に、その変化ぶりに動けないなりに狼狽した。
先程は横目に大きく震える様が見えたが、その哀愁を彼女は押し殺すことが出来ず、目尻には薄らと光る物を見せていた。
「…少佐。 殺されると解っていて、みすみす白状する程、私達が愚かであるとお思いですかぁ?」
彼女は小さく泣きそうな気配を見せながらも、その言葉は強く少佐へ向けられていた。
確かにヘボンにとって『証』等と預かり知らぬ事ではあるが、生きながらえる為には一応知っているような体裁を保たねばならない。
だが、その准尉の言葉を少佐は鼻で笑って一蹴した。
「解っていないようだな、准尉。 これは私なりの慈悲と言うものだ。 貴様等が死んでも『証』について聞き出す手筈は整えてある。 『死人に口なし』と言った諺は私には通用しない…」
「…脳に直接問いかけると…? 随分と邪龍と仲良くなった様子でぇ…」
不敵に笑う少佐に対し、准尉も負けじと皮肉げに呟いてみせる。
「…あのお方の手を煩わせたくはない。 だからこそ、貴様等がここで大人しく白状すれば、わざわざ死体まで弄る必要は無くなるわけだ。 私は尊厳を持って死を与える者だ」
「人殺しには違いありませんよ、外道」
准尉の言い放った言葉に対して、少佐は不敵な笑いを打ち消して、その顔を憎悪に歪めてはヘボンに突き付けていた銃口を素早く准尉へ向けると、間髪を容れずに引き金を引く。
乾いた発砲音が響き渡り、准尉の短い茶髪の一部が吹き飛んだ。
しかし、それでも准尉は全く怯まずに少佐を睨んだままであった。
「怒りましたか? 図星でしょう? でも、意外ですねぇ…大方、人としての血は既に邪龍に抜かれきって、もう赤い血など一滴もないのでしょう? 人を辞めたら、神にでも成れるとでも?」
強く少佐を睨みながら、准尉は歯止めが利かなくなったかのように彼女を罵倒し始めた。
ヘボンはその様子を唖然と見ながらも、准尉の口から放たれる激しい少佐へ対する罵倒こそ、その裏を返せばヘルマン中尉への忠誠の証明であるのだと感じ取った。
「どの様な尊大な思想を抱いて、人を殺めようとその事実が薄まることはないのですからねぇ…。 中尉は何度も貴女へ忠告した筈です…禁忌に触れずとも、没落した栄光を取り戻すことは出来ると、しかし、貴女は最も安直な愚策を選択した。 違いますかぁ? 違わないですよねぇ? 堂々とあの時死んでいれば、それこそ尊厳は保てたでしょう…それが、醜く人外と成ってもそれにしがみついておきながら、尊厳について宣うとは恐れ入りますねぇ…えぇ、ほんとにぃ…」
准尉の長々とした罵倒を聞きながら、少佐は苦虫を噛み潰すかのような顔でそれを聞いていた。
彼女が喋っている間に少佐は何度も銃口を准尉に向けて発砲しようとしていたが、彼女の言葉の端々に漂う真実味の様な不気味な色と直面すると指が動かないようであった。
「黙れ…貴様に何が…」
そう呻くように言葉を漏らすのが彼女の精一杯であり、少佐の狼狽え様に周囲を取り囲む不気味な装いの兵士ですらも動けないでいるようであった。
まるでこの場が准尉の独壇場であるかのように、周囲は静まり返り、ポートに停泊している漆黒に染め抜いてあるドゥルガ級の生体音すら遠い物に聞こえる。
「わかるとでも? えぇ、わかっています。 何せ黒翼隊の真の指揮官は中尉をおいて他にはありませんでしたからねぇ…、貴女はあくまでお飾りに過ぎません。 喩え禁忌を用いて部隊を掌握しようとも、心ある兵士が追従する筈もありません…。 ここにいる貴女の子飼いである兵士達とて、その忠誠心が如何な物か…。 少なくとも中尉の意思を継ごうとする者は直ぐ傍に居ることでしょう」
少佐の呻きの言葉尻を取って、そう演説を言い切った准尉の瞳に、既に薄らと光る物はなく、決然とした意思のみが闇の中で輝くかのように、少佐を刺していた。
「…我が栄光ある戦列に、裏切り者がいるとほざくのか? 馬鹿な、貴様の妄言など当てになるものか、我が部隊の結束は硬く…」
准尉の言葉に対して、少佐はそれを一蹴しようとしたが、それを言い終える前に一団の背後で凄まじい爆裂音が轟いた。
拘束された者も拘束させた者も、一様にその音の方向へ振り向く。
ヘボンも思わず首だけを動かして、そちらを見ようとすると、視界の脇に入る准尉は音の方を確認もせずに不敵に笑ってみせた。
爆裂音の発生源は第二ポートに停泊しているドゥルガ級の横腹で、音と共にそこぶち抜いて火炎と臓腑がそこから飛び出していた。
一同が驚愕した眼をその一点へ向けると、ドゥルガ級の横腹から這い出してくる人影が確認できる。
それが何者であるか確認しようと、黒翼隊に掌握された産業塔のサーチライトの一つが素早く動いて照明を当てる。
その光に照らし出された者は、大凡人らしい形をしていなかった。
一部は人であると思われる部分を残しているが、人で言う左手と下半身の部分に膨張した何かの影があり、ヘボン達のいる距離からはしっかりと見ることはできない。
「…別に裏切り者がいるとは言っていません…。 ただ、元より中尉に忠を尽くす兵士が居ると言ったまでの事ですよぅ…」
一同はその者が誰か分からなかったが、准尉だけはそれを知っているかのような口ぶりで拘束された姿勢のままに、少佐へ話しかける。
その言葉に対して少佐の視線が准尉へ向けられるが、彼女の顔には今までに見せたことのないような強い焦りの様な物が見て取れた。
「貴女の事ですから…妹は生かしておいたのでしょう? 確かに妹は愚鈍で扱いやすい娘ですからぁ…、喩え中尉を殺しても、貴女のさぞ立派な思想を吹き込めば追従する姿勢を見せたのでしょうし…。 もし、貴女と私の立場が逆であれば、殺しておいたでしょうねぇ…、例え、血を分けた姉妹であろうと…。 少佐、貴女は間違いばかりを引き起こしますが、今のところ妹を生かしておいた点がその最もな間違いです…」
准尉はしたり顔でそう言いのけると、甲高い声で笑った。
それは勝利を確信したそれであり、その笑い声に答えるようにドゥルガ級の脇腹から現れた者が雄叫びを上げるのをヘボンは聞いた。
その雄叫びが収まった時、少佐は理性を取り戻したかのように手を強く横へ払うと、それが指示となっているのか生体防護服に身を包んだ一団が、迅速にポートの上で広がり一斉に手にした火器を雄叫びを上げた者へと向けた。
だが、その様な動きに怯むことなく、雄叫びを上げた者は此方へ猛然と走り寄ってくる。
距離が近づくにつれて、その者が誰であるかしっかりとわかった。
ヘボンにとってあれ程、印象の強かった人物を忘れる筈もない。
「エーバ准尉っ!?」
ヘボンが頭だけを上げた姿勢でそう彼女の名を叫んだ時、少し離れた位置にいる彼女の顔が少しだけニヤ付いたように見えた。
彼女は自身の左腕と右足の部分に大きく腫れ上がった腫瘍を持っているように見えたが、それは生体防護服の一部であることに距離が近づくにつれわかった。
玉蜀黍から垂れる毛の様になっていた前髪は後ろへ束ねられ、火炎と爆煙の中から覗く顔には殺意と形容しようのない怒りを宿した目を爛々と輝かせている。
周囲の散開した生体防護服を身につけた幽鬼達は、彼女を取り囲もうと広がったが、その包囲が完成するよりも先に、彼女の勢いの方が優っていた。
まずは正面にいる兵士へ、エーバ准尉は飛びかかると、左腕で兵士を殴りつける。
本来なら衝撃に対しても、防御性能のある筈の防護服がまるで粘土の様に歪むと、その反対の部分から炸裂音と共に兵士の胸部が弾けた。
一体何をすればその様な事が出来るのか、わからなかったが、確かに目の前で兵士の胸部が弾け飛んだのは事実である。
それを見て、装甲兵達はある程度の狼狽ぶりを見せ、その隙へ付け入るように兵士の胸を弾き飛ばした左腕を、その惨たらしく原型を止めていない肉塊から引き抜くと、エーバ准尉は手近な敵へと殴り掛かっていく。
まるで鬼神の様な姿に、ヘボンの心の内ではまた鬼女達の順位付けが急速に入れ替わるような気配を感じたが
「ヘボン、今のうちだ。 逃げるぞ」
その目まぐるしい更新頻度とは別に、ニールの声が彼の耳に入ってきた。
ニールも拘束されたままの姿勢であったが、スクムシの様な這う姿勢でこの場からできる限り離れようとしている。
「逃げるといっても、何処に?」
「そんなことはどうでもいい、巻き込まれたくない」
ヘボンの問いを吐き捨てるように一蹴し、彼は第二ポートから産業塔の内部へ繋がる通路へ向かって這おうとしている。
確かに彼の言うとおりであると、ヘボンもニールに倣うように這いながらその場から離れようとする。
脇目に背後の様子を見れば、エーバ准尉が正に化物の様な力で装甲兵達と死闘を繰り広げている。先程にレーベ准尉が少佐の事を人外と罵ったが、これではもうどっちがどっちであるかわかったものではない。
少なくともヘボンの周りにいる人物達は、総じて頭の螺子が大なり小なり外れまくっていると言うことはわかった。
「お前達、何処へ行くんだっ!」
だが、二人がそうして這って離れようとすると、背後より怒声を浴びせられ思わず身が縮こまる。
「中へ逃げてどうする、ここを飛び立たなきゃ逃げきれんぞ」
しかし、そう怒声を浴びせかけてきたのは少佐や装甲兵などではなく、ビル主任であった。彼は何故かヘボンとニールを見下ろすように立っており、腕や脚への拘束は外れていた。
一体どうしたのかと、二人が呆然と彼を見上げると、ビル主任はその答えとばかりに右手に煌く何かを見せ付けた。
それはコートの袖口より飛び出した小さい刃物であり、どうやら仕込み刀の一種であるらしい。
「こういう場面を想定しておけないほど、耳目省は無能の集まりじゃないぞ」
彼はそうくぐもった声で小さく笑いながら、這う姿勢の二人に跨っては慣れた手つきで手枷と足枷を切り取っていく。
隠し持った武器については前にミュラー曹長が、股間に小型拳銃を隠していた事があったが、ビル主任の手際はそれよりも遥かに上品で格好が良かった。
「飛び立つと言っても、機体は何処でありますか?」
「安心しろ、手はある。 時間を稼ぐんだ」
彼はそう言いながら、足元近くに転がってきた小銃を手に取った。
今のエーバ准尉の大暴れの巻き添えを喰らった兵士達が落としたものであるらしく、ヘボンがポートの周囲を見回すと、第二ポートは地獄絵図と化していた。
エーバ准尉が依然として生体防護服を着込んだ兵士達と死闘を繰り広げているのは相変わらずであるが、それだけではない。
ビル主任と同じような手を使って拘束から逃れでた職員達が、各々に手近にある得物を手にして黒翼隊の兵士達に対して殴り掛かるなり、撃ち掛かるなりしていた。
敵味方入り乱れた白兵戦に第二ポートは大混乱に陥り始めた。
ヘボンも彼らに倣って、近くに手頃な得物でも落ちていないかと探ったが、それらしい物はなく、今はただニールと共に武装しているビル主任の背後に隠れるようにして、ポート内を右往左往する。
顔面のすぐ脇を流れ弾が掠め、耳には怒声と叫び声が交差して入ってくる。
殺意と狂気のみが場を支配し、ヘボンの精神は何処までも削れていった。
しかし、それでも視線を上空へ向ければ、相変わらず産業塔の周囲を飛び回っているグランビアや憲兵部隊の艦艇が見え、まるでそれ等が自分達の殺し合いを観戦しているコロシアムの観客の様にすら思える。
「主任っ! 増援はっ?!」
不意に入り乱れた声の内から、此方を名指しする声が響き、呼ばれた主任と同じようにそちらを見たヘボンとニールの前にレーベ准尉が走り寄ってくる様が見えた。
彼女は身軽に戦場を駆けながら、転がった誰かの死体を飛び越え、横から突き掛かられる白刃を躱しながら此方へ近付いてきた。
右手には何処からか拾ってきたか、小銃を握り締め、片手にはこれまた拾ったのか軍刀を下げている。
「時期に来る。 持ち堪えろっ」
そんな彼女へ対して、冷静に声をビル主任は返事をする。
ただ、二人の言う増援とは何かヘボンとニールには検討が付かない。
憲兵隊も黒翼隊に睨まれているのでは、手の出しようも無いと先程言ったのは主任ではなかっただろうか。
「レーベ、この二人をなんとしても護りきるんだ。 ドゥルガ級の所へ行け、あそこが一番降りやすい」
しかし、ヘボン達の疑問を入れる余地すら開けずに、主任は准尉へ指示を飛ばす。
その指示を受け取った彼女は素早く、ヘボンとニールの前へ立つと、ついてくるように促しながら走り始めた。
混乱しきった場の唯一存在する理性に縋るかのように、二人は身を低くして流れ弾に当たらぬように祈りながら、彼女の大きい体へ追従する。
追従する傍ら、彼らの背後でビル主任が小銃を乱射している様をチラリとヘボンは見たが、今は他人の心配をしている場合ではないと視線を前に戻し、准尉の頼もしい背中へ張り付くようにして駆ける。
敵と味方が入り乱れる中、3人が素早く脇腹を吹き飛ばされたドゥルガ級へ近寄ると、先程の爆発でバランスを崩しポートに倒れ込んでいるドゥルガ級の傍らに数人の人影が立っているのが見えた。
それが味方であるのか、敵であるのかは薄暗い光と、時折周囲を狂ったように動き回るサーチライトの照明の反射で判別が付かなかったが、彼等はドゥルガ級の傍らで即席の障害物をドゥルガ級内部より運び出したと思われる資材などで構築し、それを遮蔽物として応戦を繰り広げている。
「レーベ准尉っ! こっちだ!」
その敵か味方かも判然としない集まりの中から、不意に近づいた此方へ鋭い声が掛けられた。何処か聞き覚えのある声にヘボンは瞬時にその声の主が誰であるか理解すると、自然と名前が喉から絞り出ていた。
「ベルン軍曹っ!」
そうヘボンが声を出すと、遮蔽物の上よりガッシリとした体躯のベルン軍曹が高く手を振っている様がハッキリと見える。
その声に引き寄せられるように、3人が素早く遮蔽物の中へ飛び込むと、即席陣地の中にはここ数日で随分と世話になっているベルン軍曹と、他数名の見知らぬ兵士達が慎重に障害物から銃を突き出してはポートへ向かって発砲を繰り返していた。
「ご無事でっ! 軍曹は本当に悪運が強いですな」
3人を向かい入れたベルンは場に似合わぬ、さも嬉しそうな顔でヘボンの肩を強く叩いた。
「ベルン軍曹こそ、よく…」
「自分は幸運でした。 数時間前に軍曹が艦を脱出した騒ぎの隙を突いて、曹長と共に脱出しまして、その後はエーバ准尉を頼りにこのドゥルガ級へ潜り込みまして.…」
ヘボンの呆れるような感動するような顔をよそに、はにかんだ笑みを見せながらベルンは遮蔽物を壁として背を預け屈みながら、小銃の弾倉へ素早く弾を込めている。
「ミュラー曹長も一緒に?」
「えぇ、しかし途中で見失ったであります! あの豚野郎っ!」
ヘボンの問いに、ベルン軍曹は罵声を交えながら、遮蔽物から身を乗り出してポートへ射撃を加えながら返答する。
その猛々しい彼の様子を見ながら、ヘボンは即席陣地内に篭っている他の兵士達の姿が目に入った。
数日前から着込んでいるのであろう、帝国軍の戦闘服に身を包んだベルン軍曹は言わずもがなであるが、彼の隣に居る兵士は黒翼隊の物である黒く染め抜いた制服を着込み、またその隣には、先ほどのドサクサでいち早くこの即席陣地へ合流したのか耳目省職員と思われる私服姿の者までいる。
かと思えば、アルバレステア級内で見た、通常の乗組員であろう作業着を着ている者もいれば、帝国軍の正式な軍服を着た将校各と思われる士官もいる。
陣地外でも敵味方入り乱れているというのに、この陣地内でも彼らの所属はバラバラであり、一体彼らが何者であるのかヘボンは混乱してしまう。
だが、それに答えるように一旦陣地内で身を低くするレーベ准尉が此方へ話してきた。
「彼等はヘルマン中尉の部下達です…。 正式な黒翼隊士官もいれば、アルバレステア級の乗組員の者もいます。 中尉は綿密に彼らに根回しをして、この様な事態が発生した時の行動を通達していました…」
准尉はそう悲しげに言いながら、手にした小銃を構え直すと、ベルン軍曹と同じようにポートへ向かって射撃を始める。
得物の無いヘボンとニールはその様子を呆然と、身を低くして眺めていたが、不意に此方に向けられる視線の気配を感じて、そちらを振り向いた。
即席陣地内の端にて身を小さくしながら、ヘボンを見ている若い男がいた。
何処かで見たことがあると思ったとき、すぐに彼が数時間前に艦内にて、ヘボンを尋問室へ案内した若い兵士であることがわかった。
彼もヘルマン中尉を慕っていたのか、その顔には言いようもない憂いを帯びている。
中尉を失った事実から立ち直れないのか、実戦が初めてなのか彼は恐怖に震えるように小銃を握り締めたまま固まっていた。
それを見ると、ヘボンは彼へ小銃を渡すように促した。
一瞬、若い兵士は躊躇う様子を見せたが、ヘボンの顔を強く見つめ返すと、小銃を手渡してくれた。
「おい、ヘボン。 じっとしていろ、変な事するなよ」
その動きを見て、小銃を握ったヘボンをニールが傍らから止めようとしたが、ヘボンは彼の制止を振り切って、小銃機関部のボルトを後退させ、素早く前へ押し出しながら弾倉から薬室へ弾を入れ込んだ。
「このままじっとしていられるもんか、私は兵士なんだ」
そう自分にも言い聞かせるようにニールに強く答えながら、ヘボンは小銃を遮蔽物越しに出来る限り頭を出さないようにして乗り出した。
先程、中尉が殺された事実を感じ取ったとき、体内で蠢いた何かが形を持ってヘボンを動かし始めていた。
戦場にて感情に流されることが、どれほど愚かで危ういことは長い従軍経験でわかってはいることだが、その自制心を押し切るまでに、中尉の遺した断片の何かがヘボンを突き動かした。
過剰な興奮が恐怖を打ちのめし、彼の闘争本能を揺り動かす。
斑模様の様に織り交ざった兵士達の中で、様々な色が輝き、その内の一つにヘボンも成ろうとしていた。