Angels Cry log.14

#14  『Rebirth』


扉の格子から吹き込んでくる生暖かい風が長く伸びた髪を撫でる。

それに運ばれたとてつもない悪臭が、照明のない狭い部屋に立ち込めた。
男は寝台から立ち上がり、壁に据え付けられた簡易的な便器に歩こうとした。
途端に足首に固定された拘束具と、それに繋がった鎖が大きな音を立てる。

「・・・貴様、何のつもりだ?」

格子の向こうから若い憲兵がこちらを睨む。
その顔には焦りと恐怖が滲み出ていた。
男は黙って再び寝台に腰掛けた。

空が見えない。
この事実は囚われの男の心を少しずつ、だが確実に蝕んでいた。

男は寝台の下に散らばっていた記録用紙を一枚拾った。
それを手の中で弄び始める。
やがて紙は直角三角形の翼を持った飛行機械の様な姿を成していった。

男は完成した作品の細部を指で整えると、それを格子の方へと放った。
鉄の棒の隙間を巧みに擦り抜け、それは廊下へと飛んでいく。
途端に扉の前にいた若い憲兵は情けない悲鳴を上げた。
やや間があって、格子から小銃の銃身がこちらへ突き出される。

「この化け物め・・・!これは何だ!?」

憲兵は上擦った甲高い声で怒鳴った。
男は黙って銃身の先の消炎制退器を眺めている。

「・・・止してくれ。彼が死んだら僕の首が飛ぶじゃないか。」

廊下から落ち着き払った、どこか知性を感じさせる声が聞こえた。
憲兵は小銃を格子から抜き、不動の姿勢をとったようである。

堅牢な錠前が外される音が響き、分厚い扉が開いた。
見慣れない型の制服を着込んだ背の高い将校が入り口に立っていた。
皺一つ無い上衣の襟には金槌と試験管を模しているのであろう、これもまた見たことの無い金色の徽章が輝いている。

「ユーリ・アルセン・ボロディン君、だね?」

将校は眼鏡の奥の瞳を僅かに輝かせながら言った。

「僕はアンリ・ブロンコ。少尉で、一応操縦士だ。君と同じだよ。」

ユーリと呼ばれた男は将校の襟を見つめながら何も答えなかった。

「ん、これかい?確かに少々胡散臭い所属だが・・・、まぁ気にしないでくれ。」

ブロンコと名乗った将校は、話しながらユーリの拘束具の鍵穴に金属片を差し込んだ。
足首を固めていた鉄の重りは床に落ちると鈍い金属音を立てた。

「細かい事はここを出てから話そう。長いこと捕まってたんだ。気が滅入っているだろう?」

ブロンコは入り口へと歩きながら、ユーリについてくるよう促した。

20日ぶりの太陽光はユーリの目を刺激した。
しかし上層の大気には煤煙が混じり、あたかも立ち込める霧の様に光を幾らか遮っていた為、ものの数分で彼は視界を取り戻した。

茶褐色の大地から、錆の塊のような異様な構造物が大量に突き出しているのが見えた。
上空ではそれぞれの生体音を轟かせながら、艦船や航空機が飛び回っている。

帝都北部、軍や省庁の『産業塔』が立ち並ぶ行政区。
そのうち1棟の上層にある収容所から出た後、頂上に整備された発着場にユーリは導かれた。

「どうだい、皇国から来た君にとっては地獄のような景色じゃないか?」

自分も下界を眺めながら、ブロンコは眺望を睨むユーリに言った。
二人が体を預けている柵は錆と金属疲労によって頼りなく軋んでいた。

「・・・そろそろ何か喋ったらどうだ?帝国語に堪能なことくらい見れば分かる。」

ブロンコは欠伸をしながら言った。

「・・・俺に何をさせたい?」

ユーリは低く静かな声で彼に尋ねた。

「まぁ、詳細は君の意思を把握しないことには言えないが、きっと気に入ってくれる。簡単に言えば試作の飛行機の操縦と研究だ。」

ユーリは黙って話に耳を傾けていたが、操縦という単語に対しその顔に僅かな反応を示した。

「・・・決まりだな。技術省へようこそ。」

ブロンコは満足そうに微笑みながら言った。


帝都郊外の上空300m程を、一隻のフレイア級軽巡空艦がゆっくりと航行していた。
艦橋後方の生体機関に後付されたように、艦載機用の格納庫と小さな飛行甲板が備えられている。
艦尾には紺色の細長い軍艦旗が翻っており、描かれていた紋章はブロンコの襟元の徽章と同じものだった。

その艦橋基部にある船室、会議に使われるのであろう部屋にユーリは座らされていた。
昨日のうちに、伸びていた黒髪は短く切り揃えられ、垢と血で汚れていた囚人服は真新しい制服に変わっていた。

「・・・『天に至る術』ねぇ。君の国の掟は厳しいな。」

テーブルを挟み、向かいに座っていたブロンコは図版に束ねた書類に筆記をしながら呟いた。

この時点でユーリは「自分が皇国内でも航空適正に恵まれた一族の出身であること」、「その才を買われ、『スペルヴィア』なる戦闘機の開発に参加したこと」、そして何より「試験飛行の際に好奇心から限界高度を目指し、『掟』により国を追放されたこと」を語り終えていた。

「・・・俺は自分の欲求を抑えられなかった。あの機体は素晴らしかった。あたかも自分が鳥にでもなったような感覚だ。」

ユーリはテーブルの染みを眺めながら、無表情に言った。

「分かるよ、飛行機乗りなら皆そうだ。むしろ、技術の進歩を妨げるような君の国の思想が理解できない・・・。『人の子は太陽を突いてはならぬ』、か・・・。どうかしてる。」

ブロンコは感情の篭った声で言いながら頷いた。

「皇国を侮蔑しないでくれ・・・。俺の故郷はどうもしてない。イカレてるのは俺なんだ。」

それに対しユーリは低く唸るように反論した。
その瞳は僅かな怒りと悲しみに揺れていた。

「・・・じゃあどうしたいんだ?今更そこには戻れまい。そろそろ前を向け。もう1年も放浪してたんだろう?」

ブロンコは静かに、しかし若干の冷酷さを含んだ声色で相手を諭した。
向かいに座った眼光の鋭い男は一瞬あからさまな戸惑いをその顔に浮かべたが、やがて決心したように目を伏せた。

「・・・一応聞いておきたいんだが、その時はどの位まで上がれたんだ?」

ブロンコは尋ねた。
先程の冷たさはもう表れてはいなかった。

「8500だ。・・・同じ機体でも、俺以外の奴では無理だっただろう。」

ユーリは静かだが、どこか誇らしげなものを湛えた声で答えた。

「・・・いいだろう。新しい相方を紹介する。」


ユーリは格納庫へと連れられた。
廊下の天井や壁を這い回る生体機関関連の配管や、甲板で走り回る機械に身を包んだクルカたち。
それら全てが彼にとって新鮮な事象であり、技術者としての精神を大きく刺激した。

しかし何より、格納庫にてその巨体を晒す歪な戦闘機は例えようのない荘厳な印象を彼に与えた。
傍に駐機されたグランビアと比べると二回りほども大きい。
皇国軍における教育では、敵の兵力、装備、戦術等を細かく叩き込まれた。
しかし何れの講義においても、今目の前に佇むこの機に関する説明は無かった。

格納庫にいた一人の技師がユーリとブロンコに歩み寄り、話し始めた。

「『グランダルヴァ』だ。君は知らないだろうな。昨年の暮れに8機のみ作られた中の一つだ。」

流線型の胴体の左右には折れ曲がった短い翼が備えられており、その端に一つずつ、これもまた既存のデザインには当て嵌まらない攻撃的な外観の生体機関が設けられている。
胴体の後部には、半ば其れと一体化するようにして載せられた巨大な機関がその分厚い装甲を鈍く輝かせていた。

「・・・とは言ってもこいつは特別製でね。他の7機とは全くの別物と言ってもいい。我々が徹底的な改修を施した。」

技師はユーリに対し、操縦席の傍にあるタラップを登るよう促した。
決して筋肉質ではないが、軍人として無駄を削ぎ落とされたユーリの腕がその体を上へと持ち上げていく。
シートに背中を預けると、彼は操縦席のレイアウトを眺めた。

両脚の間にある操縦桿や左手で操作するのであろうスロットルレバーは慣れ親しんだ操作系統と似たようなものであったが、正面に密集した計器の形態や配置、足元にある大量のペダルの役割は全く理解できなかった。

「分かる訳ないだろうね・・・。当然だ。」

自らもタラップを登り、操縦席の脇から覗いていた技師が言った。

「だがこいつなら、そんな事を考えずとも飛ばすことが出来る。」

技師は操縦席外郭の内側にあった何らかの装置から一本のケーブルを手に取った。
その先には短い針が3本程突き出しているのが見えた。

「少し痛むぞ。我慢してくれ。」

技師はユーリの襟足を薬剤が含まれた布で拭くと、ケーブルの先をそこに差し込んだ。

激痛と共に、意識を失いかねない程の圧倒的な量の何かが彼の脳に流れ込む。
視界が闇に覆われ、悲鳴にも似た高い波長が鼓膜の内側で響き渡っていた。

どれほどそうしていたのであろうか、彼は再び目を開き自身の感覚の変化に唖然とした。

何をどうすればこの戦闘機が相応の反応を返すのか、その全てが直感的に分かるのである。
3つの生体機関の状態も、思考のどこかで完璧に把握出来ているのを感じた。
さながら自分の中枢神経が戦闘機の一部となったような感覚である。

『・・・飛ばせる。』

彼は誰にともなく皇国語で呟いた。
それを耳にした技師は口元をにやつかせた。

「君を選んで正解だった。・・・早速はじめよう。」

彼はベルトから吊っていた飛行帽とマスクをユーリに手渡した。
操縦士がそれらを調節し終えたのを確認すると、技師はマスクの先から垂れていた管を操縦席のシートの脇にあるボンベに繋いだ。

グランダルヴァの密閉式の風防を閉じ、技師はタラップから下りた。
やがて飛行服を身に着け終えたブロンコに歩み寄る。

「・・・主任技師。幾ら何でも無茶ではありませんか?」

困惑を含んだ調子でブロンコは技師に囁いた。

「今出来なければいつやっても同じだ。・・・妙な動きを見せたら操縦席を撃て。決して後ろの機関には当てるな。」

何の感情も篭められていない声で技師は言った。

「・・・了解。」

ブロンコは自分のグランビアへと向かった。

傍らの戦闘機が格納庫の床から浮上し、その着陸脚を翼に畳むのをユーリは風防の内側から眺めていた。
滑走が必要ないということは聞いていたが、その安定した淀みない動きを間近で見ると祖国とこの国の技術体系の根本的な違いに驚かされる。そのままグランビアは飛行甲板すれすれを高速で飛びながら発艦していった。

誘導士官が正面からこちらへ合図している。
掲げられた2本の棒の意味はユーリには分からなかったが、先程のグランビアの様子から察するに浮上を許可しているのであろう。

ユーリは脳に流れてくる感覚的な情報の通り、左端のペダルを軽く踏みながらスロットルを少しずつ開いた。
彼自身が今何を動かしているかを把握しているわけではないが、体は淀みなく操縦系統を操っていた。
機体が50cm程浮き上がり、経路上から甲板要員が退去していくのが見えた。

左の誘導士官が、右手の棒を大きく振り下ろした。

彼が何かを考えるまでもなく、左手は自然とスロットルレバーを前へと押し出した。
同時に足はペダルを思い切り踏み込んでいる。

急激な圧力が体を襲ったが、苦しさは全く感じなかった。
無意識のうちに背筋は彼の姿勢を前へと傾け、肺はゆっくりと中の空気を吐き出していた。

二度と感じることは出来ないと思っていたこの浮遊感。
空が風防からの視界を支配する歓び。
祖国のそれよりも色は鮮やかではなかったが、それでも自分が空を飛んでいることに変わりはなかった。

『やるじゃないか・・・。君と機体の親和性をもっと確かめたい。僕の後ろを付いてきてくれ。』

ヘッドセットよりブロンコの声が聞こえてきた。
同時に、照準機の硝子板の中に彼のグランビアが姿を現す。

大きな螺旋を描くように、それは左に横転を始めた。

彼がその機動を真似ようと思考を始めた時、腕と脚は既に動き始めていた。
前を行くグランビアの背面はレティクルの中央に捉えられたまま、機体は完璧にその動きに追従していた。

その後ブロンコは急激な旋回や火線を回避する為の戦闘機動を演じたが、ユーリとグランダルヴァは一切の遅れや歪みを発生させることなくその後ろに喰い付いた。

自らの鼓動が速くなり、自分が興奮状態にあることを認識した。
生体機関に感覚を集中させると、それらもまた自分と同様にこの飛行に関して無上の喜びを感じていることが分かった。

無電からはブロンコの荒い息遣いと小さな唸り声が聞こえてくる。
それに対してユーリは戦闘機動に対しても全くの苦痛や圧迫感を感じていないことに驚いていた。
視力は増幅されており、前を飛ぶ機体の垂直尾翼の僅かな挙動さえ認識できた。

やがて彼はグランビアへの追従に退屈さを感じ始めた。
戦闘機も同じであるようで、「二人」は有り余った意欲を持て余しつつあった。

唐突に彼は操縦桿を引いた。
ある程度の角度を維持しながら、グランダルヴァは見る見る高度を上げていく。

『おい・・・!?戻れユーリ!何を考えてる!』

ブロンコの困惑に満ちた怒鳴り声が聞こえたが、もはやそのような事はどうでもよかった。
上層を覆っていた巨大な雲に入ったところで機体が揺れ始める。
戦闘機は最良の解決策を絶え間なく彼の脳に与えた為、特に影響されることなく上昇は続けられた。
やがて進行方向が明るくなっていく。

眩く輝く太陽が正面に姿を現した。
一瞬だけ戸惑いが脳裏をよぎったが、それは戦闘機から流れてくる喜びに満ちた興奮によってすぐに掻き消された。

ユーリは子供のように歓声を上げた。
雑音を放つヘッドセットは既にかなぐり捨てられていた。
彼の声に感応するように、機関は出力を上げた。
逆光の下、戦闘機の機関はさなが竜の翼の如くその体を進ませ続けた。


月日は矢のような勢いで、かつ紆余曲折を辿りながら流れていく。

それから2年の間に、技術省は幾つもの試作機の性能把握、及び操縦者の技能慣熟の為その多くを実戦に派遣する方針を固めていた。
ユーリも例外ではなかった。
グランダルヴァと共に、幾度となくヒグラート渓谷上空戦に駆り出された。
そこで培われた操縦技術や空戦知識、そして何より彼と戦闘機との信頼関係はこの上なく強固なものとなっていた。
彼とその直衛のグランビア5機で構成された飛行小隊は、現在の技術省管理の部隊の中では最も豊富に経験を蓄積しつつあった。

その日、分艦隊毎に回ってくる哨戒飛行を終えたブロンコは戦闘指揮所に呼び出された。
普段通りの不快な微笑みを浮かべながら忙しなく歩き回る主任技師の他、軽巡の艦長が長机の椅子に座っていた。
後者の顔は深刻そのものであり、その手元には大量の付箋紙で見出しを付けられた文書が広げられていた。

「・・・不味い事になった。」

艦長はブロンコの姿を認めると、疲れ切った声で口を開いた。

「何も問題は無いだろう!臆病にも程がある。これだから情報隊上がりは・・・。」

それを耳にした主任技師は艦長を睨みつけながら言った。
その声色には好奇心と興奮が感じられた。

「・・・一体どういった案件でしょう?」

ようやくブロンコが尋ねると、艦長は文書の一枚を彼に渡した。

「メル=パゼル戦線に異動が決まった。上は連中との戦闘ノウハウを欲しがってる・・・。」

艦長は頭を搔きながら言った。
ブロンコは特に驚きはしなかった。
寧ろ、最近膠着しつつあるこのヒグラートの戦場から士気旺盛な自分の部隊を動かせることに安堵と喜びを感じつつあった。

「失礼ですが艦長・・・。その指令に何の・・・」

控えめではあるが、自信の篭った声で話し始めたブロンコの姿を主任技師は満足そうに眺めていた。

「君達は連中を分かっていない。奴らは頭数こそ無いが、一匹毎の質は連邦とは比べ物にならん・・・。」

艦長はブロンコの言葉を遮るように言った。
その後彼は長いこと俯いていたが、やがてブロンコの表情と生体照準眼の如く睨んでくる技師の無言の圧力に負け、書類を纏め直した。

「・・・3日後だ。いいか、一つ言っておく。死ねばノウハウも糞も無くなる。絶対に、何があっても生き残ることを考えろ。」

彼はブロンコの顔を見返すことも無く言うと、戦闘指揮所を出て行った。


左を飛んでいた3機のグランミトラが徐々に高度を下げ、やがて風防の視界から姿を消した。
ユーリは増幅された知覚域により操縦席の外郭に隠れた地物であっても、発せられる生体信号や反射波を頼りに大凡の位置を把握することができた。そのまま3機が海面を這うようにして高速で進むのを認識する。

ユーリにとって海上での飛行は始めての経験であった。
前方の彼方では、ほぼ同じ色をした空と海が溶け合うようにして真っ直ぐな水平線を形成している。

発艦の際はその見慣れない景色に戸惑っていたグランダルヴァの機関であったが、20分も飛ぶうちにやがてそれを楽しみ始めているのが分かった。それはユーリにも伝わり、戦闘を前にしているとは思えない憩いのような一時を彼らは味わっていた。

『綺麗なものを見るのは久しぶりじゃないか?』

無電からブロンコの声が発せられる。
後上方を飛ぶ彼のグランビアや他の4機の僚機は2年の間に改修が繰り返され、グランダルヴァには遠く及ばないもののその支援に於いては十分すぎるほどの性能を得るに至っていた。

「湖なら故郷で何度も見たが、・・・これは初めてだ。」

目を細めながら、ユーリは海面の輝きを眺めていた。
南東からの太陽光を滑らかなクルカの肌のように流動的に、かつ壮麗に反射しているその様は思わず厭世的になりかねない程の美しさを放っていた。


唐突に、先行していた3機のグランミトラの辺りから甲高い生体信号が一瞬だけ発せられる。
やがてその方向からの感覚的な反応が全て沈黙した。

『なっ・・・護衛が喰われた!』

アーウェンという名の操縦士の困惑した声がヘッドセットに響く。
ユーリは機首を下げ、その視界を確保した。

5km程先に、縦長の広い範囲に散らばる大量の金属片と肉塊が確認できた。
周辺の海水は機関の血によって赤黒く染められている。

さらにその先1km程を、半ば水面を翼の端で切るように低空で旋回している2つの機影があった。
その蒼く無機質な様は、戦闘機とは思えない程に優雅で洗練されていた。
両翼の内燃機関とプロペラはその大柄な機体を力強く推進させている。

「目視!速いぞ、散解しろ。」

ユーリの言葉に淀みなく反応し、僚機たちは互いに大きく距離を開けていく。

左上方、太陽の辺りから接近する何かを感じた。
数発の機銃弾が風防を掠める。
反射的にユーリは素早く機体を右に横転させた。

一瞬前まで自分達がいた空間を、1機の戦闘機が高速で通過していった。
先程視認した2機と同じ型であった。

『・・・喰らった!はらわたが出て・・・』

榴弾砲の弾に引火したのであろう、右にいたザドクという同僚のグランビアの機首が爆散した。
結合部が失われ、大量の金属塊と共に両翼が吹き飛ぶのが見えた。

その爆煙をかいくぐる様にして飛び去っていく敵機の背面を、ユーリは照準機の中に捉えた。
そのまま機体を加速させる。

このようなことは今まで一度たりとも無かった。
レティクルの中で同じ大きさを保ったまま、敵機との距離が一向に縮まらないのである。

生体機関の動揺が脳に伝わってくる。
視界の片隅では、僚機たちが下にいる2機へと慌てたように向かっていくのが確認できた。

ユーリは鼓動を安定させる為、片目を閉じ大きく息を吐いた。
そのまま戦闘機と自分の知覚域を完全に一体化させる。

両翼の生体機関との同調を必死に図ろうとしている胴体の主機関に、彼は神経を集中させた。
その乱れた精神の波長を優しく語りかけることによって安定させる。
そして半ば無理やり翼の機関との神経接続を中断させた。

同調に使われていた血流が不要になり、主機関は爆発的にその出力を上昇させた。
姿勢制御が困難になるという代償を伴うが、生み出された加速力はそれを補って余りあった。
何重にも補強された風防の結合部が軋み、硝子板の中の敵影が拡大していく。

400m程まで接近したところで、完全に油断しつつあったその搭乗者の座る操縦席の後部装甲に光像の中心を重ねた。
操縦桿の中指に当たるところにある引鉄をゆっくりと引く。

両翼の付け根に搭載された対艦機関砲がとてつもない振動と共に対空榴弾を吐き出した。
空薬莢が装甲の中で転がる連続した金属音と、嗅覚を麻痺させかねないほどの刺激臭が発せられた。

貫くべき垂直尾翼はその敵機には無かった。
感応信管によって飛散した大量の破片が、直接操縦席や胴体に大きな穴を穿つ。
爆発は伴わず、その機体は機首を右下方に向け煙の尾を引きながら堕ちていった。
先程までユーリの知覚域にあった敵操縦士の心臓の鼓動は消えていた。

両翼に感覚を繋ぎ直し、彼はグランダルヴァを旋回させた。
速度が乗っていたせいで普段よりも旋回半径が大きくなる。

既に2機の僚機は姿を消しており、ブロンコとアーウェンの機のみが確認できた。
行方を捜し辺りを走査するが、その答えは水面から突き出していた幾つもの残骸と浮いている血が物語っていた。

ブロンコたちは目の前で旋回を続ける敵機に喰らい付くのに躍起になっており、残りの一機の存在を完全に失念しているようだった。
それが自分の後下方から真っ直ぐに向かってくることにユーリは気付き、素早く機首を真下に向けた。

先程受けた奇襲から、ユーリとグランダルヴァはその対処を学習していた。
そのまま機体を左右に捻りながら高度を下げていく。
海面が上下左右の風防の視界を大方占めた所で、彼は操縦桿を引き寄せた。

敵弾がすぐ傍で着弾したことによる水柱の群れの中をグランダルヴァは進んでいく。
大量の海水が風防に飛散し、その鮮明な視界を汚す。
射撃は間隙無く続けられ、やがて数発の機銃弾が左翼に弾痕を穿ち始めた。

ある程度の被弾には慣れていた為、戦闘機は特に慌てることも無くユーリの思考そのままに飛行を続けてくれた。
若干の横転を混ぜながら水平方向に機体を滑らせていく。

残弾を気にし始めたのか、後方からの銃撃の頻度が収まってきた。
しかしその分精度は上がり、グランダルヴァの胴体上部に後付された簡易循環器が炎と共に吹き飛んだ。

ユーリは唐突に機関の出力を限界まで下げた。
そのまま徐々に機首を上に向けていく。
高度が上がることは無く、やがてグランダルヴァはある程度の進行方向を保ったまま完全に後方を向いた。

この時ばかりはユーリ、戦闘機共に明確な苦しみをその体に伴った。
不快極まりない浮遊感が脊髄を走り、体がベルトによって無理やり緩衝板に押し付けられる。
血が血管の中を逆流し、思考力は大幅に低下した。

赤黒くなりゆく視界の中で、こちらへ真っ直ぐに向かってくる双発機の姿を認めた。
とてつもない相対速度で接近する其れを睨みつけながら、ユーリは人差し指の引鉄を思い切り引いた。

機首の3門の機関銃より発せられた強烈な銃口炎が、霞みつつあった彼の視界を完全に奪った。
それでも直感的に、その射線が真っ直ぐに敵の鼻面に伸びていきやがて交わるのを認めた。

風防が粉砕され、大量の硝子片がメル=パゼル人操縦士の顔面に飛散した。
その内鋭利な形を形成した一つが、とっさに閉じた其の左目の瞼を貫き頭蓋骨の中に入った。

意識を失いかねないほどの苦痛に対し雄叫びを上げながら、彼は前方の大型機に機首を向け直し左手で何らかの桿を握り込んだ。

左翼に吊られていた黒い塊が、投射されるようにして前方へと飛んだ。
やがて双発機はその右翼を海面に接触させ、回転を伴い分解しながらその上を滑っていく。

ユーリは敵が死ぬ間際に放ったその60kg爆弾の存在を認識できなかった。
水面を跳ねながら接近したそれは、遅延式信管によってグランダルヴァの真下で炸裂した。

戦闘機はその操作をユーリの意思から逸脱させ、機体を急激に横転させた。
一瞬前まで操縦席のあった空間を強烈な爆風と大量の金属片が襲う。
そこには今、グランダルヴァの巨大な主機関があった。
装甲が剥ぎ取られ、無防備になった肉に破片が突き刺さる。

ユーリの全身の皮膚に痺れるような激痛が走った。
同時に、たった今まで同化していた戦闘機の意識が彼の思考から消える。

やがて呼吸と視界が正常に戻ると、彼は右を見やった。
ブロンコとアーウェンのグランビアが敵の追撃を止めこちらへ引き返してくるのが見えた。
弾切れか戦意喪失か、その敵機は離脱したまま戻ってくることは無かった。

感覚的な支援を失ったユーリは、無機質な反応しか示さなくなった操縦桿を倒し機体を水平にした。
猛烈な喪失感が彼の心を揺さぶる。
祖国を追放されたあの瞬間よりも辛い何かが彼の脳の中で蠢いていた。


血に塗れた3機の戦闘機がフレイアの飛行甲板に降り立った。
アーウェン機の左翼の着陸脚は甲板に触れるや否や、損傷により真二つに折れてしまった。

それぞれの操縦席のタラップから、汗に濡れた飛行服を纏った操縦士たちが降りてくる。
皆死人の様な顔をしており、ブロンコに至っては足を甲板に付けた時点で倒れ込んでしまった。

大勢の整備員や技術省職員が駆け寄ってくる。
彼らは憔悴した操縦士たちには目もくれず、穴だらけのグランダルヴァへと群がった。

ユーリはその様を遠巻きに眺めていた。
虚無感と悲しみに満ちたその碧い瞳は、もはや生きる事への意欲を完全に失っているような様であった。

突然、人垣の奥から小さな悲鳴が上がった。
グランダルヴァの胴体下の辺りに、整備員達が殺到する。
数人が生体機関の割れた装甲の間に潜り込み、そこから何かを引っ張り出そうとしていた。

ユーリも人混みを掻き分け愛機へ走る。

新たに数枚の装甲板が作業用重機によって引き剥がされた。
主機関の真っ赤な気嚢部が露になり、甲板に大量の血液が滴り落ちる。

「生体機関が子を?・・・馬鹿な。」

「違う、顔をよく見ろ。あの時の披験体だ。」

「ありえない・・・。四肢は切り落とされていたはずだろう。」

「成長しているのか・・・?当時はまだ15かそこらだった。」

整備員達の動揺に満ちた話し声が耳に入る。
ユーリは前を塞いでいた大柄な職員を無理やり押しのけた。

血溜まりの中に、一人の裸の女が仰向けに横たわっていた。

非常に長く伸びた髪は垂らせば腰までは来るであろう。
その淡い金色は機関の血と交じり合い、超俗的な色合いを放っていた。

 

 

最終更新:2017年03月25日 04:12