『少佐の休日』 著 mo56
剣呑で憂鬱な気分の中で瞼を薄らと開けると、眼前にクルカとクルカらしき者が舞っていた。
一匹と一人は、器用に脚を捻りながら、お互いにグルグルと回り続け、大きな丸テーブルを演台として、台上の散乱物を装飾品とし、奇怪な踊りを繰り返して、その異様を一人眺めた『レマ・ニエン』は阿呆の様に口を開け、現状を理解しようと閉塞感に犯された脳を懸命に働かせようとしていた。
一体、この目の前の連中は何であるかと問いかける前に、何故に己はこんな場にいるのかと思い出そうとする。
まず、自身は円形状をした部屋の壁脇に備えられたソファの上に寝そべっており、頭は僅かに枕変わりにしていた雑嚢に預けられていた。
視線を丸テーブルの脚へ向けると、空瓶や開け放たれ内容物が床に飛び散っている空き缶に、何かを拭ったものと思われる布切れなどが落ちている。
そして、それらが僅かに床の下から起こる振動によって、横に擦れていく様を見て取って、彼女は自分が何処にいるのか思い出すことが出来た。
(…『レリィグ』だ)
その単語が脳裏を過ぎったと同時に、この微弱な振動の原因が自ずと判る。
『レリィグ』とは様々な点において負担の少ない地上輸送手段の一つであり、航空輸送では詰めないほどの積載物を運搬する多脚生体輸送機である。
その全長は余りにも長いが、全高は地に張り付くように低く、背に載せた荷物を苦しそうに何千本という脚部を懸命に蠢かせては進行する『百足』の様な外観をしている。
彼女はそう思い出しながら、長机に向かっていた視線を反転させ、己の背後に目をやる。
壁には幾つかの円形窓があり、その内手近な物から外の景色を見ることが出来る。
それは現在、己のいる場所がレリィグの背に設営された客車の中であるという事だ。
外の景色から察するに時刻としては明け方らしい。
辺は陽が登り始め、朝焼けを受ける落ち着いた砂塵達の眩しい光に包まれていた。
眼前にて奇怪な踊りが繰り広げられるに至った経緯を、ぼんやりと回想に至るとそれは先日の出来事に起因するに思い当たった。
レリィグに搭乗するに至った経緯である。
ニエンは長いこと休暇を拝領していなかった。
それは本人自身が休みなど望まなかったし、また望むことが出来るような状況でなかったせいもあるが、その不規則な平衡が崩されるように先日に彼女への休暇が決定した。
しかし、当の本人そのような休暇申請が通っていたことなど露知らず。
昨日の明朝に指令室へと出仕した際に、既に己の机の上には荷物が纏められていたのだ。
「…何の悪ふざけだ?」
そう周囲で既に書類の整理に追われていた連中へ、彼女は不満げに問いかけるが、皆一様に肩を竦め私は知らないと返してくる。
暫くの間、彼女は纏められた荷物と睨めっこをしていた。
当初のうちはその荷物の纏められている理由が何故かわからず、数度首を傾げている内に朝から疲れ切っていた脳は不穏な単語を浮かび挙がらせた。
(解任という事か…?)
彼女は声には出さないものの、唇の動きでその言葉を発し、即座に凍り付いた。
この荷物はさっさとこの部隊を去れとの意味であるかと思ったのだ。
本来ならそんな急な考えに至るわけもないが、連日の勤務に疲弊しきっていた頭はすぐに、ネガティブに事態を考えやすく。そして、一度その考えをしっかり脳で捉えてしまうと、悪いことばかり連想してしまうのが人の性ともいえるし、今の彼女は正しくそれであった。
(何故?何故、私が)
そう頭を抱えて机に肘をついて突っ伏したニエンは、困惑した眼差しを荷物へ一点に向けながら小さく呻いた。
自分ほど部隊に貢献している人間はいないと自負していたものの、その影では自負を裏返すように貢献してはいないのかもしれないという不安もあった。
人員の確保と指導については、ニエンの部下に当たるヘルマン中尉がその担当であるが、彼ほど部隊を纏め上げられるかどうかは自分でも自信がなかった。
自分とて彼ほどではないものの実績のある軍人である筈だ。
グランビアを手足の如く軽快に操れる者は黒翼隊の中において一二を争う腕であるし、ダニッヅ大尉達を含め、信任の厚い部下達も囲んでいる。
確かに黒翼隊は現段階では、保有するグランビア戦闘機の数も少ない中隊規模ではあるが、辺境貴族連合の上層部と掛け合い、近日中にドゥルガ強襲揚陸邸2隻に含め、アルバレステア級巡洋艦も受領しうる成果へ漕ぎ着けたのは自分の功績だ。
そこまで忠を尽くし、新しき帝国の夜明けを飾る先陣を切る黒翼隊に尽くした自分が何故切り捨てられるのか到底理解できなかった。
気付けば、ニエンは机に突っ伏した姿勢のまま泣いていた。
できる限り声を殺し嗚咽するつもりではあったが、感情の制御が利かなくなっては駄々っ子の様に泣き叫び始めていた。
あまりの彼女の様子に周囲の部下達は戦々恐々とし、普段は部下達に対して怒り狂う姿ばかり見ていた者達はまるで鬼の涙でも見るような気持ちであった。
「…少佐殿、何してるんですかぁ?」
不意に泣き叫ぶニエンの脇から間延びした声が掛けられた。
思わず机に伏せていた顔を少し上げて、声の方を見ると、恰幅の良い女性士官が手に百科事典並の厚さを持った書類を抱えて立っている。ヘルマン中尉の部下であるレーベ准尉だ。
彼女はさも心配そうな表情で此方を見下ろしていたが、その表情の裏に自分を冷笑しているのだニエンは思った。
以前から、この女には何処か侮られている気配を感じていたが、ついにそれを表に出してきたかと、ニエンは傷心に浸る傷口を、急遽侮辱されたのだという勝手な推測による怒りの炎で塞ぎ止めると、顔面を赤く腫らしながらも噛みつくように准尉を強く睨み付けた。
「…貴様の差し金だな、准尉」
「何を言ってるんです?」
ニエンの睨みに対して、レーベは飄々とした様子に返したが、その程度で引き下がる彼女ではない。
その飄々とした准尉の顔へぐっと近寄ると、目で射殺すかの様な迫力で彼女へ詰め寄った。
「この荷物の事に決まっているだろう?! 私に黒翼隊を去れとの事だろうがっ」
「えぇ、去ってもいいですが、帰ってきてくださいね?」
強く興奮していたせいか、唾が准尉の顔に幾らか飛んだが、それに対しても彼女は顔色一つ変えずに飄々とした調子で唾を拭うと、手に持っていた書類をニエンの机の上に丁寧に置いた。
その様子を見て、ニエンはいよいよ怒り狂う。
今の准尉の言葉の内に何か変な物を感じたが、細かい推測よりも先に感情で動くのが彼女である。 准尉の太い首襟を掴んでは、そのまま絞め殺してしまうかのような剣幕で迫る。
「…いい加減に離して頂けないですかねぇ。 少佐殿が休まれる間の書類整理を私が受け持つことになりましたのでぇ、早く退いて貰わないといつまで経っても、手を付けることが出来ないんですよぅ…」
しかし、首襟を掴まれようとも怯む様子すら見せず、まるで幼子を突き放すか母親の様に、准尉が鬱陶しそうに口にした言葉に、頭に血が上ったニエンでも幾らかの理解がいい加減に追いついてきた。
「…何を言っているんだ?」
「それはこっちの台詞なんですがねぇ…」
やっと血の気が引いてくると、ニエンは阿呆のように口を開けて准尉を見ていた。
彼女も呆れたような顔をすると、首襟を掴んでいる彼女の腕をいとも簡単に振り払ってから、机の上に置いた書類群の一番上にあった紙を一枚取って、ニエンへ差し出してきた。
「あぁ…本当に通達されてなかったんですねぇ…。 休暇届けですよ、少佐殿。 日頃の激務を察しての事だそうですがぁ…」
困ったような表情を浮かべる准尉であるが、それと同じぐらいに困ったのはニエンも同様であった。ようやく、自分の質の悪すぎる早合点であると気付いたのである。
そうとわかれば、今までの烈火の如き怒りが、逆に絶対凍土の如く冷め切ってくる。
赤く腫らした顔からは血の気が引き、准尉を一点に見つめていた瞳が泳ぎ始める。
やり場の無い気持ちに、ニエンは少々後退りながら力無く俯いてしまった。
その数十分後にしっかりと確認を取ってから、部下達への挨拶も軽く済ませ、強い羞恥心から半ば逃げるように、ニエンは荷物を纏めた背嚢を軽々と担ぎつつ、アルバレステア級を降りていた。
一般的な女性からすれば軽々と担ぐには苦しい重量であったが、歴戦の女軍人には苦でも無い。
しかし、問題はそんな事では無い。
藪から棒に飛び出してきた2週間ほどの長い休暇を貰ったものの、その消化の仕方について彼女は全く考えたことが無かった。
彼女にとって休みなど、一日数時間の睡眠で事が足りていたし、黒翼隊の職務こそ自身に与えられた人生を賭けるべく壮大な任務であると思っていただけに、その職務から解放されることなど思いもよらなかったのだ。
「…どうしたものか」
飛び立っていくアルバレステア級を遠目に眺めながら、彼女は呆然と呟いた。
自身と同じように休暇を与えられた者は他におらず、現在彼女は荒野の上にたった一人である。
ここは前線から幾らか離れた地点にある、輸送車両が度々立ち寄る駅の様な物であり、時間通りであればあと数十分後に目の前を輸送車両群が通過する筈である。
とりあえずはその車両に便乗し、休暇の間は西方にある自身の故郷に戻ろうという考えだけは、先程のドタバタしている間に浮かんだが、それから先は何も考えつかなかった。
大変不幸な事に、彼女は休み方を知らなかったのである。
だが、思いつく限りの時間の潰し方については考えていた。
しかし、それはどちらかといえば悪い類いの物で、酒に頼るという物であった。
艦を降りる前に酒保にて、食料と多めに酒を買い、吸いもしないくせに葉巻まで買ってはそれを雑嚢に仕舞い込んでいた。
やがて、長い列を成し、激しい砂埃を巻き上げながら地平線の彼方より這ってきたレリィグの一両へ彼女は舞うように飛び乗ると、幅広い側面外殻を移動しながら先頭車両まで行くと、運転手に輸送目的書を見せて確認を取ってから、彼女は先頭車両に近い客車に案内された。
レリィグと一言にいっても、その長い胴体の上に乗っている櫓の種類は幅広く、巨大な貨物コンテナに始まり、対空銃座まである。
その内には客室や食堂も含まれているが、それらにも下士官用と上級将校用と区切りがあり、ニエンが飛び乗ったレリィグにはそのどちらも備えられている高級なレリィグの類いであった。
立ち並ぶ櫓同士を繋ぐ移動通路は内部ではなく、外部の吹き曝しに設置されており、食堂まで用が無ければ内部にいる人間達は滅多に出てこない。
迂闊に出れば強風と砂嵐に目をやられてしまう事は必然であり、その点についてはニエンもよく知っていたため、案内された上級将校用の客車より出るつもりは毛頭無かった。
客車の内部は円形状の一室であり、中央には丸い巨大なテーブルとそれを囲むようにして革張りのソファがある。
壁には丸い窓が幾つか備えられ、そこから代わり映えもしない外の砂嵐が広がっている。
上級将校用に高価に造られた部屋は、幾分かニエンの心情を慰めもしたが、彼女以外の同乗者は居らず、壁に掛かった豪華な刺繍の施された帝国紋章がただ虚しく輝いている。
腰を掛けてみれば、体重の軽いニエンでも深く腰が沈み込み、柔らかい皮と内容物が馴れ馴れしく彼女の体を包み込むほどであった。
その部屋の隣には寝室と思わしき、部屋もあるが、わざわざそこまで移動して中を見るほど、ニエンに気力は残っていなかった。
自分は暫くこのソファの上で過ごすのだという、怠惰な決意を胸に、彼女は腰を深くソファへと落としていく。
そして、雑嚢の中より先程買い込んだ酒瓶を幾つか取り出すと、部屋の壁に備えられていた幾つかのグラスから最も質素な形をした物を選んで、丸テーブルの上に置く。
軍人は質素倹約に勤めるべきと昔教え込んだ教官達の顔が、ふと質素なグラスを眺めていると彼女の胸中に去来したが、彼らが口で言うのとは対照的に、常に装飾の限りを尽くした軍服に身を包んでいる矛盾を、薄ら寒く見ていた頃を思い出す。
それと比べて、今の自分はこの部屋で過ごす点を除けば、全く質素である。
ニエン羽織っている外套は何処までも黒く染め抜かれ、正規の将校達が翻らせている朱色の外套より安っぽい。
階級は立派な少佐であるものの、その実はなんとも貧相な装いだと、ニエンは部屋の装飾の豪華さと己の貧相さに自嘲するような笑みを浮かべながら、自身と同じような質素なグラスへ酒を軽く注いで、不釣り合いな光景を肴に酒を煽った。
だが、それがそもそもの間違いであった。
何か物も食べずに、ただ漠然と揺れるレリィグの上で酒を煽ることがどれだけ無謀な事かまで、ニエンは考えが及ばなかった。
それに加え、彼女の買ってきた安酒は、形だけは高級ワインを似せたような造りの物であったが、所詮、安酒は安酒であって、舌先に伝う液体は味わいもへったくれも無く苦く、香りも香料を用いたと言うよりは、この酒こそ香料そのものであると言った具合に顔を背けたくなるほど強く嫌らしい。
色だけは似せているが、その内容と言えば下劣さを極め、あくまで酔いたいだけの兵士達へ向けられたアルコール飲料であることが有り有りと感じられる。
そんな物を口内に留めておきたいわけも無く、さっさと胃へ流し込んでしまうのが悪酔いを加速させる。
気付けば彼女はたった2杯程飲んだだけで、背中全体をソファに預けていた。
気分は高揚するどころか、限界知らずに落ち込んでいき、何処かで己をあざ笑うかのような幻聴さえ聞こえてくるような気配さえ感じられる。
そして、そんな不気味な気配を体の奥より感じ始めたとき、体は力無くソファの上に横たえていた。
しかも、今度は無理矢理流し込んだ酒が胃で拒否されたのか、上へとこみ上げてくる。
これは非常に不味い事態だと頭では理解してはいるが、体はこれといった動きを成せるほど力は残って居らず、ニエンはただただ不快感を顔に表しながらソファの上でのたうち回る事しかできなかった。
このままでは気管がこみ上げてきた物で圧迫され、窒息してしまう。
慌ててそれを吐こうとはするが、大分酒の回った体は自由が利かず、ただただ苦しい。
(ここが、私の墓場と言うのか)
脳裏には終末感溢れる言葉ばかりが浮かび、なんとかそれを振り払おうと指を口内へと導こうとするが、力の入らぬ腕ではそれも上手くいかない。
そして、いよいよ苦しくなってきたところで、ニエンの視界に死に神以外の者が入ってきた。
「ギュンバ。 あたい等と同じ輩がいるだわよ?」
その珍客はソファで蹲るニエンをテーブルの上より見下ろして、その傍らにいるお化けとも言えるような大きさをしたクルカへ振り向いて言った。
一体、いつの間にこの部屋に入ってきたのか、気配すら感じられなかった。
しかし、今はそんなこと些細な問題であり、ニエンは空嘔吐きによって、苦しげな呻き声を上げて、なんとか喉へこみ上げてくる物を吐き出そうと躍起になる。
「それ、助けておやりよ。 ギュンバ」
そのニエンの様子を見下ろしていた珍客が、傍らのクルカを促すと、そいつはクルカらしくない随分と低い音色で『びゅおい』と呻くように鳴いた。
そして、次にはテーブルの上からドタンと音を立ててジャンプし、巨大な胴体を鋭くニエンの腹へ落下してきた。
あまりの衝撃に、気管に詰まっていた物が一気に押し出され、下劣な音を立てながら、ニエンは丸テーブルの足達へ肥料をやるような要領で吐瀉物を撒き散らした。
「間一髪だったわね。 ご同輩」
そう、噎せ返ったり吐き出したりを繰り返すニエンを依然として見下ろしながら、珍客は小さな体をソファの上へ落とすと、ニエンの傍らに立って、ニンマリと笑っては優しく背中を摩った。
「ギュンバが居なかったら、窒息死してたわよ? 忍び込んだ客室でおっちぬ輩なんて、笑い話にもならないわ」
そう言いながら、背中をある程度摩って、ニエンが落ち着くと、珍客は彼女の脇に座った。 ニエンは苦しげだった気分がようやく優れていく事に安堵しながらも、この者とクルカは何者であるかと怪訝な顔で見上げた。
今ほど自分へ落下してきたクルカは、また身軽に飛び跳ねると珍客の横へ着地し、まるで動くぬいぐるみかのように珍客へ寄り添っては、また低い声で『びゅい」と鳴いた。
そして、その妙なクルカに寄り添われている珍客も、随分と奇妙な外見をしていた。
包んでいる衣服は、帝国軍兵士のソレであるのだが、衣服はあまりにも小さく仕立てられていて、少し巨大な着せ替え人形の様にすら見える程、珍客の体躯は小さく、下手をすれば妙なクルカの方が珍客よりも大きいかもしれない。
軍帽を頭にちょこんと乗せるように被っているが、そこからは顎の辺りまで伸びた黒髪が綺麗に切り揃えられている。
どうみても上級将校の客室に入るような身分には見えなかったが、そもそも同じ人間であるかすら怪しい。
下手をすると、自分は既に死んでいてあの世の風景でも見ているのかとニエンは一瞬思ったほどで、するとこの珍妙なコンビは悪魔か死に神か何かであるはずである。
不思議そうな面持ちのまま、ニエンが珍客を眺めていると、不意に彼女はこっちを向いて
「ねぇ、命の恩人に感謝の一言すらないの?」
そう見るからに不機嫌そうな顔をして、そう言った。
その不機嫌そうな顔も何処か体躯に不釣り合いな程に、端正な物であり正しく人形のような不気味さすら感じたが、不機嫌そうな色合いは生々しいまでに人間らしかった。
「…ありがとう、助かった…」
そして、その珍客に諭されるままに、ニエンは小さく会釈しながら汚れた口元を拭うべく、まだ不自由な腕を動かそうとすると、彼女の言葉に満足した様子の珍客が腰に下げているポーチから布きれを取り出して勧めてきた。
「いいの、吐き出す輩には慣れてるから。 それにしても、中々アンタふてぶてしいのね。 ここはお偉いさんの客室よ? そんな場で暢気に酒なんて煽って…」
受け取った布きれで口元をニエンが拭う傍ら、珍客は足をバタバタさせながらテーブルの足下へ降りると、ポーチから今度は膨らんだ紙袋を取り出し、その袋の中身を吐瀉物へかけ始めた。
その袋の中身は粉状の物であり、幾らか優れてきた嗅覚から察するに、それは大鋸屑らしく、吐瀉物の水分を吸収して膨らむとそれを靴で素早く丁寧に紙袋へ押し込んで、異臭が強く漂う前にその紙袋を窓から外へ投げ捨てた。
「これで安心っ。 証拠は跡形も無く消し去ったわよ!」
窓を閉じると珍客は無い胸を張り上げながら、今度はポーチから霧吹きの付いた小瓶を取り出すと、吐瀉物があった場所へ吹きかける。
完全に異臭が消えた訳では無いが、気になるほどではなくなった。
「改めて感謝しなさいよね。 ここまでしてやる事なんて滅多にないんだから」
そう珍客は誇らしげに言いながら、またニエンの脇へちょこんと座ると隣で寝転がり始めたクルカを撫でている。
しかし、その様子を眺めていたニエンは、またもや何か頭の中で幾つかの言葉が引っかかっていた。数時間前に早合点で失敗した経験を活かし、今度は少し熟慮してから口を開いた。
「…君は一体、何者だ?」
「アンタの命の恩人よ」
こちらの問いに対して、珍客はそう軽くいなすとまたもやポーチの中をまさぐっては、水筒を取り出し蓋を開けては中身をクルカと分け合いながら飲み始める。
「それはわかっているが、君の官姓名を聞いているんだ」
「何それ? まるで、お偉いさんみたいな口の訊き方ね」
全く此方の質問など意に介さないかのような態度に、ニエンは少々苛立ちを覚えたが、流石に窒息の危機を救ってくれた相手に対し喚き散らすほど無礼ではないと弁えていた。
できる限り平静を装いながら、ニエンはできる限り謙った態度で接しようと
「少なくとも、君の言うとおり、私はそのお偉いさんだと思うんだがね」
そう話しかけると、珍客は口に含んでいた水を少し吹き出すと、腹を抱えて笑い出し始めた。文字で見ることはあるが、本当に腹を抱えて笑うような者など見たことは無いが、少なくとも珍客はその表現に叶うほどの様子を見せた
「何それ?!傑作っ! どうせ、アンタなんかアタイと同じ一兵卒か、なんかなんでしょう?」
「…何故、そう思うんだ?」
珍客の笑い転げる姿に、ニエンの額に青筋が浮かび始めた。
こんな侮辱を受けるのは初めてだ。
佐官たる己を一兵卒等と同列に笑うとは、例え命の恩人と言えども腹立たしい。
「だってっ、そんなボロっちぃ黒外套なんて、尉官連中が着てる訳ないし、佐官なんて言ったら、あーた。 もっとマシな物着てるわよ。 もっと、マシな嘘でもつきなさいよ」
珍客は腹を抱えながら、大きなクルカを肘立てにしては嘲る視線をニエンへ向けながら、笑いすぎて苦しいのか、瞳には愉快そうに涙すら浮かべている。
「君は人を見る目がないようだな」
暴虐無人な様子を見ながら、ニエンは外套を珍客の前で脱いで見せた。
黒い外套は確かにボロとも思えるかもしれないが、それを脱ぎ払うと、帝国貴族達にも引けを取らないほどの質素ではあるものの、立派な金刺繍が彩られた軍服が露わになった。
派手な装飾ではないが、少なくともこの珍客が一体誰と話をしているかぐらいは理解させることが出来るだろう。
ニエンの軍服と階級章を見た途端、珍客は一瞬驚いたような顔をして見せたが、すぐに
「…たまげたわ。 アンタ、それ何処から盗んできたのよ?」
そう感嘆の息を漏らしたが、ニエンを将校だと珍客は認識せず、あくまで佐官階級の軍服を盗んで、着ている者と認識を改めたらしい。
「盗んでなどいない。 拝領した物だ」
「盗人は皆、そう言うの」
あまりにこの珍客の理解力が乏しい事に、ニエンは呆れかえってしまった。
何処をどう受け取れば、そこまで身勝手な結論に達するのか理解できなかった。
ここまで来ると、もう此方がどう説明してもこの珍客は理解出来ないだろうと、ニエンは軍人に成ってからといもの、随分と忘れていた『諦める』という手段を取らざる負えなかった。
「…わかった。 君がそう思うなら、もうそれでいい。 兎に角、名を聞いておこう」
「何よ、偉そうに。 先にアンタが名乗るってのが筋ってもんでしょう?」
深く溜息をついたニエンに向かって、珍客は何処までも尊大に構えながら、大きなクルカを枕にして、仰向けになりながら此方を眺めている。
「ニエンだ。 レマ・ニエン少佐…」
「アンタが少佐なら、アタイは大佐に成れるわね。 まぁそんな事、どうでもいいわ。 筋を通す奴は好きよ? アタイは『エレン』って言うの、それでこっちが『ギュンバ』よ」
何処までもニエンを小馬鹿にしたような様子で、珍客はそう名乗ると、枕にしていたクルカを撫でてやり、それに反応してギュンバと言う名のクルカがまた低く鳴いた。
正式に官姓名を名乗ったなら、後で憲兵に突きだしてやる所であったが、生憎エレンという名前だけでは何もわからない。
しかも、よくよくこの珍客を観察してみると、階級章のある辺りをしっかりと上から布で二重に覆って縫い付けてあるではないか。
なんとも珍妙な相手に、ニエンは不思議な感情を抱きながら、別の問いかけをしてみた。
「…君は何故ここに入ってきたんだ?」
「妙な事を聞くのね。 ここが空いてたからに決まっているじゃない。 アンタもそうだから潜り込んだんでしょ?」
エレンはさも当然のように言ってのけ、それに追従するようにギュンバまでこっくりと大きな頭を頷かせている。
「後部車両なんてクルカ小屋より酷いんだから、あんな処に居たらどうにかなっちゃうわ」
「…憲兵に見咎められないのか?」
「そんな事あるわけないじゃない!」
ニエンの問いかけに対して、エレンは救いようのない馬鹿を見るような顔を見せたが、すぐにふっと笑うと少し丁寧に言い直した。
「まぁ、確かに憲兵に見つかると五月蠅いわよ。 高級将校の客室に雑兵が屯してたらね。 けど、考えてもご覧なさいよ、外は凄い砂嵐だし、いちいち待機している車両から真面目に全室を見に回る憲兵がいると思う? 下手をすれば簡単に砂嵐に巻き込まれて行方不明になっちゃうの」
「よくそんな危険を犯す気になるな」
「アンタもそうやって入ったんでしょう? それより、何かいい方法でもあるっていうの?」
エレンは少しニエンを問い詰める様な表情で顔を見てくる。
それを見てニエンは、また自身の階級を名乗ろうとしたが、それではまた小馬鹿にされてしまうと咄嗟に気付き、開き掛けた口を噤んでから、わざとらしく
「…将校に成りきる事だな」
そうしたり顔で言ってみると、エレンは感嘆の息を漏らして
「成る程、賢いわね」
改めてニエンの軍服をまじまじと眺めながら、そう納得したように頷いた。
もう、このまま彼女には自分が『少佐の振りをしている偽物』と言うことにしておこうとニエンは肝に銘じた。
そうすれば妙な諍いを生むこともなく、円滑に時間を潰すことが出来ると考えた。
下手な事を言わなければ、この異様に体躯の小さいエレンと、異様に図体の大きいクルカのギュンバは悪い者ではない事が暫くすればわかった。
どうすれば佐官階級の者の様に振る舞えるのかと、エレンは執拗にニエンに話を求めてくる。それに対して、此方は実際のところ本物の少佐であるのだから、そのままに話せばいいし、時に虚構も織り交ぜれば愉快な話にもなる。
ここまで、自身は口巧者な女であったかと疑うほどに、ニエンはエレンに対し色々と話した。
これ程まで他人と愉快に喋ったのも何年ぶりかと、彼女は思った。
思えば、勤務している際は常に先々の事で苛立っていて、口を開いたかと思えば怒声と叱責に声を張り立ててばかりではなかったか。
神経は常に苛立ち、やり場の無い怒りだけを発してはいなかったか。
全く以て奇妙な場で、奇妙な者に会いながらも、不思議とニエンは心の平安を見いだしたような気がした。
普段はただ苛つく存在にしか見えないクルカも、この時ばかりは場を和ませる存在にすら思える。
しかし、それはこのギュンバと言う名のクルカが他のクルカとは明らかに違う印象を与えてくることにあった。
まず、その体躯は通常のクルカの何倍もあり、下手をすれば赤子を一呑みに出来そうな程大きい。
落ち着くどころか、逆に不安になってくるような外見であるのに対し、それでもこのギュンバが場を和ませているような雰囲気を醸し出しているのは、その低い鳴き声にあった。
ギュンバはみだりに鳴く事はせず、必ず此方が何かを言ったり、問いかけたりした際にのみ鳴く、まるで人間の様に返事をするのだ。
そして、常に腹を空かして辺りの物を飲み込もうとするクルカの習性に反して、ギュンバは無闇に飲み込もうとしない。必ず食べれる物だけを口に確実に運んでいる。
察するに相当頭が良いのかと思い、エレンと話す傍らニエンはギュンバに餌代わりに少し雑嚢から取り出した食料を投げていたが、その際に間違えて吸いもしない葉巻も投げてしまった。
咄嗟にそれを取ろうとしたが、その時ニエンはあることに気付いた。
ギュンバは目の前に吐き出された葉巻を見ると、それを口に咥えたが飲み込まなかった。
それどころか、口に咥えたままエレンの方へ這い寄り、葉巻を彼女へ差し出し、まるで火を点けてくれと頼むように低く『ビュヤ゛』と鳴いたのである。
その様子に思わず呆気を取られているニエンを余所にエレンは、ギュンバの差し出してきた葉巻を手に取り床に置いた。
「ギュンバ、貴方にあげるためにニエンは投げて寄越したんじゃないの。 手違いよ」
そう言いながら、丁寧にニエンへ葉巻を返してきた。
「そいつは葉巻を吸うのか?」
「クルカが煙草を吸うわけないじゃない。 まぁ、ギュンバは知らないけどね」
ニエンの問いに対して、エレンはまるでギュンバがクルカとは別の生き物の様に言いのけた。
「でも、ギュンバは賢いわ。 私より沢山物を知っているし、思いやりもあるの。 あまりにも賢いものだから、一度、昇格試験の筆記問題をギュンバに面白半分に解かせたの。 そしたら筆をしっかり握って、皆の前で文字を書くのだから驚いちゃったわ」
エレンは愉快そうにケラケラ笑いながら言った。
それを聞いてニエンは面白い法螺話だと、同じように笑ったが、エレンは愉快な調子を崩さないままこう続けた。
「結構、数のある問題だったのだけれどね。 全部正解してたのよ。 それを見た皆が、ギュンバを褒めてね。 わざわざ識別番号まで偽装して、名義的には内の部隊の兵長に仕立て上げちゃったのよ」
法螺話とは適当な処でオチを付けるからこそ面白いものであるが、少なくともそのオチはあまりに上手くない類の物だとニエンは思った。
しかし、彼女はその話を笑いながら言ったが、話の何処にも嘘と言う単語を用いはしなかった。
そして、そのまま長い会話を続けていく中、窓から見える風景に夜の帳が下りて、依然として激しい砂嵐の音だけが窓を叩き続けていた。
その音に二人と一匹がふと気を回した時、何を思ったかエレンが身軽に丸テーブルの上に飛び乗った。それに続いてギュンバも飛び乗る。
「…私ね。 夜になると必ず、することがあるのよ」
そう彼女は唐突に言った。
何処か悪戯っぽい無邪気な笑みを浮かべているものの、彼女の顔には真剣そうな面持ちをあえて拭うかのような奇妙な色があった。
「踊るの。 いや、慰問団がする様な物ではないわ。 どちらかと言えば祈祷の一種ね」
「…祈祷?」
急に聞き慣れない単語が飛び出してきたために、ニエンはキョトンとした調子に彼女を見たが、それに対してニエンは微笑みを返した。
「そう、祈祷よ。 内の部隊の奴等は皆、夜になるとヒグラートを越えて、アーキルへ爆弾を落としに行くのよ。 夜とは行っても、無事に済むわけなんか無いわ、毎度出撃する度に何隻も落とされるし、生きて帰れるかどうかなんて、ほとんど運よ」
「思い人でもいるのか?」
「別に、そんなんじゃないわ。 ただ、内の連中は皆、人が良いの。 優しいし、思いやりがまぁそれなりにあるわ、ギュンバと一緒でね。 でも、そんな連中が爆弾を落とすの。 悪人も善人も無いわ、皆仕事でやってんのよ。 仕事で人を焼くの」
急にエレンは窓の外を見据えながら、少し間をとってから、また言葉を紡いだ。
「皆、一緒よ。 誰しも皆一緒なの、誰しも綺麗事のために人を焼くの。 私はその燃える炎をずっと見てきたの。 私の母さんも祖母も曾祖母も見てきたわ。 私はそれを内の連中によく伝えた。 その内の一人は一番伝えやすかったわ。 踊りを見て心でそれを察したの、あんな奴は滅多にいないわ。 だから、私は奴に祈りを…踊りを夜になると捧げるの。 長く長くクルカが育んできた魂と、パルエの過去を細切れにして、奴の裏地に縫い付けるの。 何れ奴も深く知るか、誰かに教えるか…少なくとも私の家系は後者だったわけよ」
「何を言っているんだ?」
いよいよエレンが訳のわからぬ世迷い言を言い出してきたので、ニエンは当惑した眼差しを彼女へ向けた。
その視線を受け取ると、エレンはまた小さく微笑んだ。
「ごめんなさい、たまにあるのよ。 ギュンバが頭の中に入ってくるせいね」
そう彼女は言ったが、余計にニエンの頭を混乱させた。
「いつか、アンタも奴に会うことになるわ。 きっと良い出会いではないでしょうけど、大きくアンタを変えるか、駄目にするかは…まぁ、それこそ運次第ね」
その混乱し、困惑しているニエンへ、また訳のわからぬ言葉を吹き込むと、ニエンの返事を待たぬままに、小さな体躯を身軽に跳ね回らせ始めた。
どうやら、これがエレンの言う『踊り』であるらしいが、その様な形態の舞などニエンは今まで見たことが無かった。
以前に士官学校の図書にて閲覧した、帝国内民族の風習についての書籍の挿絵に、この様な動きを見たような気もするが、それは定かではない。
そして、そんなニエンの困惑を余所にして、エレンは舞う。
テーブルの端に陣取ったギュンバが、例の低い呻き声で間を置きながら、合いの手のようにテーブルの上をヒレで叩いては音頭を取っている。
これと言った楽器も無ければ、洗練された動きもない。
ただ素人が訳のわからぬ事をしていると表せばそれまでであるが、エレンとギュンバの『踊り』というものはその場にある物と景色を、一つのキャンバスと捉え彩るような気配が感じられた。
それを長い時間を掛け呆然と見ていると、瞼が重くなってきた。
様々なことが起こりすぎたせいか、いい加減休むようにと頭が促しているらしく、そのままニエンはソファに横たわるようにして眠ってしまった。
静かなリズムが彼女を暗闇へ誘っていった。
「…あら、朝になっちゃった」
ようやくの事で、昨晩の出来事を思い出し終えたニエンの前で、エレンはやっと外の景色に気付いたかのように、踊りを止めてギュンバと外を眺めた。
「あれから、ずっと踊っていたのか?」
その様子を呆れたようにニエンが問いかけると、彼女は微笑を浮かべ
「そうかもしれないし、そうじゃないかも。 ギュンバと一緒になると時を忘れるのよ」
そう言いのけると、欠伸をするニエンの手を取って急に引っ張り始めた。
何事かと少し驚いた顔をすると、彼女は真剣な面持ちで
「何グズグズしてるのよ、砂嵐が止んじゃったら、巡回の憲兵が来ちゃうわ。 さっさと逃げ出さないと」
相変わらず、ニエンの階級を詐称しているものだと彼女は信じきっているらしく、このままだと捕まってしまうとエレンは急かし始める。
いっそのこと、この場で正直にもう一度話してしまっても良いように思えたが、気付いた時には、ニエンは小さい手と大きな図体のクルカに促されるままにレリィグから飛び降りていた。
(まだ、休みは長いのだから、気にすることはない)
そう何処か肝心なことが抜け落ちた頭で、そんな事を思うと、二人と一匹は朝焼けの荒野を歩き始めていた。
この後、彼女が原隊に復帰するまで1ヶ月程掛かってしまうという結果を、彼女はまだ知る由もない。
最終更新:2017年04月03日 18:14