操舵手ヘボンの受難#25 『傷病兵』
月夜の中を飛びつつ、先程の喧噪がようやく遠のいたかとヘボンが思いかけた矢先、俄に銃座の方が騒がしくなってきた。
僅かに視線を上へ向けると、ニールとベルン軍曹が慌ただしくしている様子が見える。
「…血が止まらねぇぞ、このままじゃ死んじまう」
ニールが狼狽を色濃く表しながら、懸命に包帯代わりに何かしらの布きれを、銃座の上に寝かせたエーバ准尉の腹部へ当て、それをベルトでしっかりと固定している。
しかし、しっかりと固定していようとも、動脈から流れる血の勢いが強いためか、覆った布切れから血が染み出てしまい彼の苦労を無駄にしてしまう。
「なんとかして、塞がないといけないな」
対してベルン軍曹は比較的冷静な調子であったが、それでもニール程ではないにしても狼狽を隠せない様子であった。
先程の産業塔において、死闘を繰り広げたエーバ准尉は、あの不死身の怪物の猛攻を受けながらも、その鍛え上げられた肉体と並々ならぬ精神力で意識を保ってはいたが、操縦席からでも聞こえてくる苦しげな彼女の息遣いが、生命の危機を感じさせた。
現在ヘボンが操縦しているコアテラには、先程の騒ぎの際にベルン軍曹が幾らかの物品を押し込んだ雑嚢を一つ機内に乗せたようであったが、その中身が負傷者を癒やすのに必要最低限の物を納めているとは考えられなかった。
「無理だ、包帯すらねぇんだ。 針も糸も…、仮にあったとしてもアンタ出来るのか?」
しかめっ面で准尉を介抱するニールがベルン軍曹を見上げると、彼は重々しく小さく呻きながら、身を屈めつつ懐からマッチを取り出した。
「塞ぐことだけなら…出来る。 ただ、荒いぞ」
「焼いて塞ぐつもりか?」
軍曹の動きにニールは怪訝な顔をしたが、特に彼のやり方に反対する意思はないらしい。
できる限り、苦痛を減らすと言うよりは此方のためという意味合いが強いが、エーバ准尉の口元へさっとタオルを噛ませ始める。
「お嬢さんには酷だろうが…、今のところこれ以外に方法が無い」
タオルを噛ませられた彼女へ、軍曹は真剣に彼女の目を見つめてそう言った。
エーバ准尉は苦悶の表情を浮かべながらも、半ば意識を失いかけているのか眼の色が点滅するほどの差し迫った状態の中、静かに頷いてみせた。
彼女が暴れないようにニールが彼女の両腕を押さえ込んだが、あの産業塔で不死身の人外と戦い抜いた怪力無双とも言える彼女の暴れぶりを、己が抑えきれるのかは到底無理だと思っていた。
その間にベルン軍曹は傍らに置いていた小銃を素早く手に取るとその場にて、慣れた手付きで分解していく。
ボルトを後退させ固着させると、銃尾から細いロッドを取り出し、それを小銃側面にある固定ピンへと宛がった。
そして、ロットの反対側を強引に押し込むと、固定ピンが外れ小銃が機関部と先台等に分解される。
分解された小銃の部品群の中から銃尾に当たり、本来なら射撃時に胸部に宛がう鉄製のパッドを手に取ると、それとロットを結合させ、ロット部に布切れを何重に巻いてから彼は即席的なコテを作った。
次に雑嚢を引っ張ってきては、中より何かの液体が詰められた瓶を取り出し、その内容物を他の布切れへ振りまいた。
銃座の方から操縦席へ漂ってくる臭いからして、それはどうやらアルコール類であるらしいとヘボンは気付いた。。
「軍曹、コアテラ内は火気厳禁でありますか?」
その際にベルン軍曹は操縦席のヘボンを見下ろしながら、半ば冗談のような声で言ったが、表情は真剣であった。
特にヘボンの返答が無いことを了承と受け取った彼は、アルコールを振りまいた布切れへ擦ったマッチの火を当てて、布を燃やし始めた。
途端に機内の異変を感じ取ったコアテラがヘボンに対して、恐怖と困惑を告げる様な音色を奏で立てたが、それを落ち着かせるために随分と手を焼いた。
自分の頭上か若しくは腹の中で火を焚かれるのでは堪らない。
彼女はすぐにやめさせろと言う具合に泣き喚き、それと同調するようにエーバ准尉の苦悶が機内に響いた。
ベルン軍曹が焼いた布の炎でコテを熱し、それを腹部の傷口へ押しつけているらしい。
肉の焼ける臭いが銃座から漂ってくる。
それはあまりにも長い時間に思え、まるで自分が傷口に焼きコテを当てられて、処置されているような気分であり、治療というようよりは拷問に近い何かであった。
肉と布を焼いている黒煙が銃座から、空に漂い煙と雲が同化しようとしているが、それも虚しく風に吹き消されていく様子が、銃座を見やるヘボンの視界へ入ってくる。
それを見て感じ嗅ぎながら、ヘボンはコアテラを宥めさせようと、操縦桿へ微細な揺れを加える。
それは母親がぐずる赤子をあやすような要領で、生体器官に対し操縦手が冷静さを促す行為であり、駆強襲艇であろうと、戦艦であろうと、大まかなやり方は変わらない。
この生体器官を落ち着かせる技術習得は、生体機乗り達の初歩中の初歩であることをヘボンは朧気に思い出していた。
何度も彼女には無茶をさせてきただけあり、今回のグズりは相当な物に感じられた。
張り詰めすぎた緊張の糸が、いい加減に切れてしまったのだろう。
御陰で機内は大きく揺れたし、少女が泣き喚くように乗員を幾らか揺さぶった。
それとは対照的に大女の苦悶はごくごく小さい物に思えた。
「これ以上は無理だ。 着陸させる」
そうヘボンが疲労しきった声で呻いたとき、誰もそれを止めさせようとはしなかった。
依然として二つの月は頭上に高く上っていて、一同をあからさまにまでに照らしていた。
数刻前に別れたミュラー曹長には西に飛べとしか言われず、あれから何時間経っても彼は合流することが出来なかった。
それが何を意味するのかは、皆わかっていたが誰も口にしなかった。
連邦側の船ならば着陸させる環境について、大いに難儀するものであろうが、生体器官機はその点について兎に角、人が地べたに座るようにさほど尻を痛めない場であればそれでいい。
グランビア戦闘機などではまた都合が違うが、少なくともコアテラは徐々に高度を下げ、荒々しいまでの地面が見えても、呻き声一つ漏らさず、逆に早く降ろしてくれと求めているようであった。
六王湖地方から西に飛んだ事により、前線付近の地方によく見られる荒野ではなく、ある程度背の低い草が生えている草原地帯が月明かりに照らされているのが、操縦席より確認できた。
そのまま、ゆっくりと機体を降ろすと、コアテラは下部の生体器官部を折り曲げ、半ば草原の上に蹲るようにして生体音を小さくし始めた。
先に銃座に居たベルン軍曹とニールがエーバ准尉を担いで、バランスの悪くなった銃座よりは草の上がマシだと判断してか、徐にコアテラの草場へ寝かせている。続いてヘボンが操縦席から身を乗り出した。
コアテラはしっかりと休むまで、もう動きたくないと駄々を捏ねるようにして停止し、その様子は泣き疲れた子供が不貞寝をする具合によく似ている。
「…准尉の様子は?」
コアテラから這い出して、草原の上の二人に歩み寄ったヘボンがそう聞くと、横になっている准尉の傍らで突っ立っている二人が此方を振り向いた。二人とも疲労を隠しきれない様子であったが、それを取り繕うか、有り有りと顔に浮かべるかの違いだけであった。
「傷は塞げたが、あくまで応急処置だ。 今度は塞いだ際の火傷をどうにかしないといけねぇ」
疲労困憊といった具合に呻きながらそう言うニールは、懐を弄ると煙草を口に咥えた。
その様子を横で頷いたベルン軍曹の顔から見るに、現状はそれ以上でもそれ以下でもないらしい。
横になっている准尉は依然として苦悶の表情のまま、目を堅く瞑っては腹部の激しい火傷の激痛に耐えるようにして歯を食いしばっていた。
「医療設備のしっかりとしたとこに預けなきゃ、二日すりゃ死ぬぜ。 こいつ」
ニールは准尉を見下ろしながら、あまりにも不躾にであるが、正直な事を言うしか無かった。
「六王湖には戻れない。 かといって、下手に街や基地に寄れる訳でもない…」
そうベルン軍曹がヘボンとニールへ目を交互に向けながら、言ってみせるが、その様なことは言われないでもわかってはいる。
ただ、こうでも言ってくれない限りは全てを忘れたいと思ってしまっている。
「とんだお姫様だぜ。 どうせなら、もっと美人が良かったがな。 そうすりゃもう少し奮闘も出来るってもんだが…」
一度不躾な事を宣うと、中々歯止めが利かないのか、ニールは未だに呻いている准尉を見下ろしながら疲労と落胆が居り混ざった溜息を吐いた。
「何を言ってる? 別嬪だろう? 防護服を着込んだ敵を何人も相手取れる女が、そうざらに居ると思うか?」
「…ヘボンの話を聞く分には、ゴロゴロいそうだがな」
冗談交じりに言ってのける軍曹に対し、ニールはちらりとヘボンを見ながら肩を竦め苦笑した。
「しかし、なんでまた西に飛べなんて言ったんだ? 言われたとおりに飛んだ、お前もお前だぞ、ヘボン」
ある程度、気が収まるとニールはヘボンの方を向いて問い質してきた。
確かに彼の言うとおりであるが、場合が場合であっただけに特に意味などは無かった。
元から航路について計画するのは、問い質してくるニールの方であったはずだし、それ以前にその航路に沿って飛ぶための船も人材も失ってしまってはどうしようもない。
「…それはこっちの事情なんだ」
困り果てた二人に助け船を出してきたのは、ベルン軍曹であった。
「西の…、つまりリューリア地方の辺りには少しツテがある。 ミュラーはそのツテを頼れと言ったんだ」
「ツテってなんだ? そもそも、あの俺達を助けに入ったグランピアの奴は何者なんだ?」
ベルン軍曹の回答を聞くと、より一層混迷を強くさせてしまったか、ニールが怪訝に彼へ聞いていく。
彼の言うとおりミュラー曹長が何者であるかは、ヘボンの方としてもここ数日で幾らかその内容が纏まってきたように思えていたが、それ以前にこの目の前にいるベルン軍曹自体も謎が多い男であると思える。
「『弐の月』と言っていただろう? ピンと来ないか?」
ベルンはさも肝心な事言ったような顔をして見せたが、ヘボンとニールは阿呆のような顔をするだけであった。
しかし、意外な事にその単語に反応したのは、この中で最も返事がしにくいであろう者であるエーバ准尉であった。
「…昔、ヘルマン中尉が所属していた部隊名か?」
彼女は依然として苦しげな表情であったものの、少し寝返りを打って一同を見上げていた。
あれほどの深手と荒々しい応急処置の直後でも口が利けるとは、やはりお姫様というよりは化け物と形容した方が正しいかもしれない。
「中尉から聞いた…。 グランビア編成部隊の場繋ぎに、マコラガとグランヴィナスに駆って、最前線で戦果を挙げ続けた…伝説の…」
彼女はそう途切れ途切れに言葉を紡いでいるが、それを眺めるヘボンにとっては彼女こそが生ける伝説になりつつあるほどのタフさに思えてきた。
「そうだ。 憎たらしい話だが、ミュラーの野郎。 そこでブイブイ言わせてたらしい」
「あのミュラー曹長が?」
「そう、あの豚曹長がだ」
今度はベルンが肩を竦めて見せた。
暫くの間3人はコアテラの機嫌が良くならないかと、特に考えもなしに周囲をグルグルと回るだけ回ったりもしたが、やがて今晩中にはどうにもならない事だけはハッキリした。
その後、このまま野営するほかないと判断し、3人は手分けをして機内に使える物が無いかと漁り始める。
先程の酷い混乱ぶりの中で持ち出せた物は少なく、医療品はもとよりエーバ准尉の為にほぼ消耗していたし、食料についても心許なく、何より武器が無いのが一番頼りなかった。
正確にはベルン軍曹が小銃を一丁携えはしていたが、せいぜいその程度である。
こんな状況で追っ手に発見されたら一溜まりも無いと、一同はまずコアテラをなんとかして偽装しようと手を付けることにした。
とは言っても、擬装用の布すらコアテラには積まれておらず、せいぜい周囲の草原から拾ってきたような丈の長い草や、土などをそれらしく被せる程度が精一杯であった。
「こんなもんで連中の目を誤魔化せるかな」
「無いよりはマシだ。 それに大型艦を隠そうって訳じゃない、コアテラ程度の駆強襲艇一隻ぐらい見逃す筈さ」
船の偽装については前線勤務経験のありそうなベルン軍曹が率先して指示を出していたが、途中からニールがその任を入れ替わって二人に指示していた。
あくどく物資を帝国中に横流ししてきただけあって、憲兵隊からの目から隠す点についてはニールの右に出る者は無いように思えた。
「だが、『ラーヂ』共には発見されるかもな」
しかし、コアテラをある程度偽装し終えると、ニールは少し苦しげな表情を浮かべながら、それを見ていた。
聞き慣れない単語にヘボンが質問するような顔を向けると、彼は煙草を口に咥え、火を点けて紫煙を闇夜に吹き付けてから此方を見て口を開いた。
「内地の基地に居たんじゃ、そんな知らないだろうがな。 平たく言えば、リューリア地方を根城にしている馬賊達の事さ。 お前もアーキル領には、地上から生体機を撃ち落とすっていう部族の話を聞いた事があるだろ? ラーヂはその帝国版だ。 元は大戦初期に滅ばされた小国の末裔らしいが、細かい事はしらん」
「其奴らが襲ってくると?」
「あぁ、質の悪いことに連中、少しは頭が良いんだ。 わざわざ空を飛んでる機体を落とそうなんてしない。 時には徒党を組んで停泊している小規模な基地や空港へ襲撃を掛けてくるんだ。 物資を運んでる時は気を揉んだもんさ、なんせ俺の場合は正規軍の援護や紫煙が受けられるルートは飛ばねぇからな…」
ニールはそう自嘲気味に笑うと煙草をふかしながら、両手をズボンのポケットに突っ込んで少し空を眺めた。
「しかも、アーキルの連中は機体をばらしちまうそうだが、こっちの連中はばらさねぇで辺境貴族に裏で売り捌いちまうんだ」
「どういうことだ?」
「そのままの意味さ。 機体の乗組員はその場で殺しちまうんだが、辺境貴族の内には私兵の編成や、本国からの補給を受けられないんで、機体の頭数を揃えるのに年中苦労してる、だから連中から裏で買ったりするんだ。 アーキルの部族はスカイバード信仰がどうこう五月蠅いがラーヂは俗っぽいだけに厄介なのさ」
そうニールは恐ろしい事を語りながら、煙草を吸い終えると地面に捨てて火を踏み消した。 その顔には相変わらず自嘲気味な色があるが、その傍らに明白な怯えの色があった。
「あの軍曹がどれだけ腕が立つか知らねぇが、小銃一丁で防げるほどラーヂは甘くねぇぞ。 一度に二三十人で畳み掛けてくるからな。 しかも、辺境貴族から代金の代わりに正規軍装備も横流しされてるから、武装も侮れねぇ」
「機関銃まであるのか?」
「そんな程度じゃねぇ。 流石に飛行艇までは持っちゃいねぇが、昔ダックの榴弾砲を引っ張っていたのを見たことがある」
「一大勢力じゃないか…」
「だな。 装備が充実してくると、集落や街に総攻撃を掛けて略奪する事もあるそうだ」
顔を青くするヘボンの調子だけが、ニールを慰めている様に見えた。
前線や内地にもそれなりに賊が出没する経験はヘボンにもあったが、この地域に巣くっている連中は、そんな集まりとは比べものにならないらしい。
命からがら産業塔から逃げ出してきたというのに、地獄の先にはまた地獄しかないらしい。
「兎に角、コアテラが飛べない以上はどうしようもねぇから、今は休むしかないな。 せいぜい、飛べるようになるまでに襲われねぇように祈るしかねぇ」
そうニールに促され、ヘボンは肩を落としながら、地面に降りているコアテラへ背を預けながらその場に座り込んだ。
ベルン軍曹は先程から、周囲の状況を確認してくると小銃を肩に提げて草原の中を歩いていってしまっている。
今、コアテラの脇には座り込むヘボンの隣に、雑嚢を枕代わりにして寝ているエーバ准尉がいる。
ニールはあれだけ語ってから怖くなったのか、コアテラの銃座へ引っ込んだが、怖いのはヘボンも同様であり、寧ろ事情を今知った分遙かに彼より恐怖を感じていた。
その恐怖を少しでも和らげようと、懐にしまい込んでいた煙草を取り出し、少々震えている指先で煙草を口に咥えようとしたとき、突然彼の腕が誰かに掴まれた。
思わず体を跳ねさせるようにしてそちらを見ると、寝ていた筈のエーバ准尉が苦々しい顔をしながら、上半身を起こしてこっちを睨んでいた。
「傷病兵の横で煙草を吸うつもりか?」
彼女はそう腕に力を込めて握ってきたので、ヘボンは指先から煙草を取り落とした。
「も…申し訳ないでありますっ!」
仮にもと言ってはなんであるが、彼女の方がヘボンよりも階級が上であるため、今までろくに気に留めていなかったが、軍隊規律の突然な復活にヘボンは怯むように煙草を拾うと素早くポケットへ押し込んだ。
「アタシの前でそんな物を出すんじゃない、煙草は嫌いなんだよ」
彼女は力無くヘボンの隣に座り直すと、幾らか項垂れた。
幾らか元気が無いような様子であるが、寧ろあれほどの負傷と荒治療が交差してからまだ数時間ほどでのこの回復具合は異常とも言える。
「失礼したであります、准尉殿…」
ヘボンが彼女の顔色を伺うように、再度謝罪を口にすると、エーバ准尉は彼と視線を合わすわけでも無く、ただじっと地面を見つめた。
そこに数刻前には産業塔の第二ポートにて暴れ回った彼女の面影はなく、ただ痛みと疲労に打ちひしがれる女性の姿があった。
それでも、ヘボンよりも遙かに鍛え上げられた体と、その立派な体躯から漂う雰囲気はどこまでも彼女が頑丈そうな事を彼に感じさせた。
「わかってくれればいいのさ。 ただ、煙草を見ると…中尉と姉さんが…」
彼女は少し言葉に暖かみを以てヘボンへ言ったが、疲弊した調子は崩れなかった。
思えば第二ポートにて、彼女は異常とも怒りに身を任せ暴れ回った。
その怒りの鉄拳は防護服兵を貫き、あの不死身の少佐すら一時は打ち倒せるほどだった。
それが今では悲しみに潰されそうな少女のような趣すらある。
きっと、自身の姉であるレーベ准尉を彼女はとても慕っていたに違いない。
そうでもなければ、非常時とはいえ自身へ発砲してくるような姉の事など、思い出したくも無いだろう。
彼女の片腕には依然として、アルバレステア級の艦内にて実の姉によって受けた銃創を巻いた物であろう包帯が残っていた。
「准尉殿…」
ヘボンは彼女へ同情の様に呻いたが、エーバ准尉はそれに対して沈黙で答える。
しかし、ふと此方を流し目で彼女が見たと思えば、エーバ准尉は眉を潜めながら不思議そうな顔でヘボンを見た。
「…妙だな。 お前が随分と人間らしい顔に見える」
不意に随分と失礼な事を言うと、ヘボンは内心思ったが、眉を潜めたままエーバ准尉は此方をまじまじと見つめている。
「尋問室で会った際には、まるで悪魔の様な顔をしているように見えたものだけど…変だな」
そう彼女は珍しい動物を見るような視線を当ててくるので、そういうアンタこそ変ではないかとヘボンは思った。
暫くの間、彼女はずっとヘボンを眺めては、妙な吐息を漏らすなりしていたが、ある程度すると黙りこくって、やがて何か納得したような顔をした。
「どうやら、お前には何かあるらしいな」
そう言うと、視線を前に戻して再び項垂れた。
一体何を言っているのか、彼女が何を納得したのかヘボンにはわからない。
しかし、それについて問おうとした時には、彼女は目を閉じて眠ってしまっていた。
痛みは依然としてあるのだろうが、それでも随分と安らかな顔で寝息を立て始めている。
そんな妙に落ち着いた彼女の様子を見ていると、ヘボンもこれ以上何か聞こうという気も起きなくなり、自分もコアテラと同じように緊張の糸が断ち切れたのか、意識が遠のくのを感じた。
また夢が始まる。
そう連日に渡り、見続け感じ続け、体に叩き込まれた感覚が、暗黒の意識の内より囁いている。
そして、視界が開けてくると、近頃見る夢の数々は何かと常識外れの光景ばかりに誘われていたが、今回ばかりは現実味のある見たことのある光景だった。
まず最初に感じ取れたのは音であった。
騒がしい音の中に混じって、芯の通った音色が聞こえてくる。
次に視界が開けると、ヘボンは木箱を椅子代わりにして座っていた。
木箱とは内地の基地でよく見られる、物資が詰められている物であり、それを軽く叩いてみると中は空洞なのか、打楽器のような小さい音がする。
それを耳にすると、その木箱を叩く音こそが周囲から聞こえる芯の通った音達の一つであることがわかった。
ヘボンが木箱を見ていた顔を上げると、眼前に踊っている人間達が見えた。
それは見知らぬ人間達ではなく、ヘボンの居た基地の戦友達であった。
リドリー兵長にガドッグ上等兵、そしてその二人の中心にエレン伍長が見えた。
三人はその個性的なまでに小柄な体を大きく見せるかのように、跳んだり跳ねたりしながら舞続け、その三人の中央に置かれた木箱を太鼓の様に叩いてリズムを奏でている、基地のマスコットでもあるクルカの『ギュンバ』がいた。
何故、こんな光景が眼前で繰り広げられているのかと、ヘボンが不思議に思っていると、過去の出来事が思い起こされているのだと、理性的に考えを導き出せた。
これは、基地の酒保場で散々見た光景だ。
あの3人と一匹は夜間爆撃への出撃前や帰投後には、基地内の兵士達を集めてはこんな宴を開くのである。
一体なんの意味があって、しているのかは謎であったが、そもそもこの夢自体が謎である。 ふと周りに視線を向ければ、ヘボンと同じように木箱に座るなり、テントの柱にもたれ掛かるなどなりして、何人かの同僚達が踊りを見ながら、酒を煽っている。
要は盛り上がれればそれでいいのだろう。
誰も宴の余興に口を挟んだりはしなかった。
その踊りは出撃前には戦勝祈願のような意味合いを含めていて、帰投後には生還できた喜びを表す為の踊りであるのだと、皆一様にそう認識していた。
不思議なリズムと踊りは見ている者を不思議と落ち着かせ、何か民謡的な物を語りかけてくる気配さえある。
だが、このヘボンにとっては見慣れた風景の回想であっても、唯一違和感のある存在が自身の隣にいた。
それはヘボンと同じように踊りを眺めていたが、不意に此方の視線に気付くと振り向いて、ヘボンと視線を合わせた。
「良い踊りだ、しっかりと教えを守っている。 彼等は優秀だ、とても…」
そう満足げに言いながらその者はヘボンを見据えた。
「なぁ、ヘボン。 君もそう思うだろ」
尊大な調子を崩さずに、夢の中で奇妙な狼狽を露わにするヘボンの前で、クルカマンはそう楽しそうに口にした。