操舵手ヘボンの受難#26 『オイルスモウ』
「話をしようじゃないか、ヘボン」
クルカマンはそう落ち着いた調子に、ヘボンを見やりながら何処にあるのかわからない口を開くような仕草をして見せた。
「君は何度となく、尋常ならざる・・・時に人智を越えた危機さえも乗り越え、こうして生きている。 正直、驚嘆に値する」
彼は尊敬するような呆れるようなどっちつかずな調子に言いながら、指の無い腕をクルクルと回してみせた。
周囲には依然として、エレン伍長達の踊りと奇妙な民謡めいたリズムが響いている。
時折そのリズムに併せて肩を揺らしている戦友の姿もチラホラと見えたが、ここが夢の中であるためかその姿は朧である。
しかし、そうとわかっていても、クルカマンの姿はあまりに鮮明で、これが現実での光景のように錯覚させた。
これは自身の見ている夢の中の風景であると、そうヘボンは先程から自覚しているのだが、それでも此方へ訴えてくるクルカマンの声と歌はしっかりと彼の聴覚に刻まれる。
「君に施し続けた呪いと、そして、君自身に備わっている力が全ての事象をねじ曲げ、そして導いているんだ・・・」
クルカマンの声音は尊大ではあったが、優しくヘボンに語りかけてくる。
何処かラーバ中佐の話し方に似ているような気がしたが、クルカマンの声は男性特有の低いものにこの時は聞こえた。
「なんにしろ、踊り手と歌い手達はしっかりとその任を果たしてくれている・・・、私は嬉しい」
そう満足げに勝手にクルカマンは頷くと、じっとヘボンを眺めてきた。
どうやら此方の返答を待っているらしい、その仕草にヘボンは狼狽えながらも疑問を口にした。
「何を言っているのか、私にはさっぱりわからないよ。 私は疲れているんだ・・・凄く、寝ているときぐらい黙っていてくれ。 君は私の妄想の産物でしかないんだろう?」
正直な話、ヘボンにとってこんな悪夢はもう沢山だった。
ここ数日、安心して眠れる時など全くといって良いほど無かった。
眠れば、必ずといっていいほどこのクルカマンや、訳のわからない風景や存在に出くわすのである。
それに加え、起きれば現実の修羅場と地獄がこれでもかと言うほど待ち構えている。
もう、自分の精神は崩壊寸前なのではないかと、強い危機感を持ち始めている。
だが、ヘボンの疑問を聞くとクルカマンは特に顔色も・・・表情という概念が彼に存在すればの話であるが、ごく落ち着いた調子に言った。
「いいや、それは違うんだ。 ヘボン。 私は決して君の妄想ではない、しっかりと自我と思想を持った存在であり、それ以前に私はれっきとした人間だ。 この姿は仮の姿でしか無いのだ」
「いや、それ自体が私の妄想に違いないんだ。 小さい頃に怪奇小説を読み過ぎたせいに違いない。 その記憶が歪んで現れているんだ、そうだろう?」
クルカマンの言葉に対し、ヘボンは大げさに両手を差し出しながら、もう沢山だという意思表示をして見せ、顔をそらしたがクルカマンは此方の様子にへこたれずに言葉を紡いでくる。
「確かにそう考えるのも無理は無いが、事実は違う。 ヘボン、君だって現実でこの様な事象は少なくとも一度は経験した筈だ。 邪龍に襲われたとき、精神を浸食され掛けただろう? あの時だって、私が君の前に現れ、止めなかったら・・・、いや仮に私がいなくてもなんとかなったかもしれないな・・・なにしろ、君はエレンが認めた男だ」
取り留めもない問答を続けていると、不意にクルカマンの口から出た名に、ヘボンは逸らしていた顔を激しく食いついたようにクルカマンの顔を凝視した。
何故、クルカマンの口から『エレン伍長』の名前が出たのかが、幾ら夢とはいえ気掛かりに感じられた。
そして、そのヘボンの様子を見て取ったクルカマンは、少し間を置いてから話し始める。
「・・・エレンは我が部族の内で、傑出した踊り手だ。 あの娘は、このパルエに伝わる古い記憶を余すこと無く踊りに表現出来る。 ヘボン、君はあの娘の踊りをよく見ていただろう? しっかりとその眼にそれを焼き付けた筈だ。 ・・・いくら送信装置が幾ら優れていても、受信装置が疎かでは、情報が正確に伝わる事はない。 だが、君は優れた感受性を備えた男だ。 自覚は無いだろうがね・・・、エレンとて、あの踊りにどんな意味があるかは深くは知らない。 私とて全容を把握できないでいる。 所詮、人一人に詰め込める情報量は決められている・・・、だが、それが肉体や脳を離れ、外部の何かに依存し引き出せるようになり、初めて詰め込める情報量は飛躍的に増加するんだ。 あの踊りは所謂、その大量の情報を伝えるべく暗号化された物なんだ・・・、人知れず、未来永劫語り継がねばならぬ歴史をな」
クルカマンは尊大な調子を更に上乗せするかのように、長ったらしくそして熱っぽく、ヘボンに語りかけてくる。
その仕草はあまりに人間らしく、徐々にヘボンはクルカマンの話を無視できなくなってきた。
「歴史?」
「そうだ。 長いこの惑星の歴史だ。 我々の社会が形成される遙か昔にある、何かの歴史だ。 ・・・だが、これは口や文字で伝える事は出来ない。 先程も言ったとおり、人一人の情報量は決められている。 それを大幅に超える情報は、身の破滅しか招かない。 だから、踊り手と歌い手は、暗号化を施してそれを伝える。 いつか、それを引き出せる者を求めてな」
「何を言っているのか、全くわからないよ」
「別に理解する必要はない、ただ君の記憶の何処かに残しておく必要はある。 君が意識できない意識の深層にな。 その暗号は伝わる度に呪いとして、顔に出てくる。 帝国人特有の顔の認識票は本当に便利なものだ。 我ら部族の受信装置としてここまで優れた物はない程だ。 それを媒体として暗号を刷り込めるし、それを壊そうとする物には恐怖心を与える様に仕組まれている・・・、つまり君が不細工な理由がソレだ」
「どさくさに紛れて酷い事を言うなよ。 クルカマン」
「いや、事実。 君の顔を見て今まで恐れ戦いた者達を、君は覚えているはずだ。 あの呪いは、君に少しでも敵意や警戒心を抱く者へ、それを何倍にもして伝えさせる。 その御陰で命を救われた事もある筈だ・・・。 随分と色々話してしまったが、そろそろ疲れただろう?」
ある程度クルカマンは語ると、一つ何処にあるのか判然としない口から溜息を付いて見せて、さも疲れたかのようにテーブル代わりにしていた木箱の上に頬杖をついた。
「あぁ、疲れた。 この話はやめにしたいよ」
「そうだな、私も小難しい話は嫌いだ。 ヘボン、君とは夢で何度となく話しているが、世間話の方が気が休まるというものだ。 ・・・帝都に帰りたいと思うか?」
「里帰りと言うわけには行かないよ。 今は色々と追われているけど、中佐の事など関係なしに家が恋しいし、それが駄目なら原隊に帰りたい」
「そうだろうな。 君には是非無事に生きていて欲しい。 ・・・フライミート屋、あの話が一番興味深いんだ。 君に言われたとおり、この前辺境都市へ出掛けてみたが、生憎お目に掛かる事が出来なかった。 本当にあるのか?」
「巡業している店を探すのは、確かに難しい。 けど、周期的に必ず月に何度か都市に来ていると思うけれど・・・」
「そうか、粘り強さが必要なのだな・・・。 あと、オイルスモウについてだが、あれは大変素晴らしい物だな。 あれだけは出先で見ることが出来た」
「フライミート屋じゃなく、そっちを見れるとは妙だな。 一体何処を彷徨いていたんだ?」
急に尊大な調子が崩れはてると、ヘボンもクルカマン同様に頬杖をつきながら、クルカマンと世間話をしていた。
クルカマンとは妙な意識の内において長い付き合いの様に感じられる。
彼の言うとおり信用すれば、この巫山戯た姿は仮の姿で実態は人間であるという。
しかし、そうなるとすると何故、他人様の夢にこうもしゃしゃり出てこれるのかは謎であるが、今更疑問に思うにはヘボンは長いこと、この素顔も知らぬ相手と話し続けていた。
彼奴は自身の夢に現れるせいか、時としてヘボンの知っている情報を頼りに何か探ったりしている節が幾つか見られる。
話題に出たフライミート屋とは人工肉を油で揚げ、香辛料を塗した食べ物を扱う露店の事であるが、帝都にも数軒ほどあるのをヘボンは知っている。
それなりにポピュラーである物と思っていたが、クルカマンは知らないらしい。
だが後者の『オイルスモウ』に至っては、知る人ぞ知ると言った具合の競技である。
簡単に説明するとすれば、泥とも潤滑油とも判別付かない液体を全身に塗りたくった女性同士がリング上でレスリングを繰り広げる競技であり、辛うじて合法な物ではあるが、以前に内地で見た広報誌においては昨今、法令で禁止されるのでは無いかという記事も見たことがある。 あまりに不謹慎で背徳的過ぎるとの話が貴族達の間で出ているとの事であったが、実際の処は金のある貴族達の賭博場であるところが皮肉が利いている。
「いや、本当にあれは素晴らしい競技だ。 美しき素肌を泥と油で隠しているのだが、体と体がぶつかり合う度に、それが飛び散り僅かに素肌が露わになり、それが輝いて見える・・・」
気付けばクルカマンは熱っぽい調子でそう言いながら、随分と楽しそうにオイルスモウの感想について語り始めていた。
それどころか、話題が完全にオイルスモウにすり替わっており、先程の呪術がどうとか歴史がどうこうとの話は何処かに置いてかれていた。
しかし、ヘボンとしても小難しい話より、俗な話の方が気が休まる。
目が覚めれば、また現実離れしたような地獄と対面する訳なのだから、夢の時ばかりは楽しい話をしていたい。
そのまま、ヘボンはクルカマンと延々と低俗には違いないが、男性的に夢に溢れる話題に始終していく内に気が遠くなっていった。
ヘボンが目を覚ましたとき、眼前から威勢の良い声が響いていた。
その声に思わず、眠りに落ちる前にニールが言っていた『ラーヂ』という馬賊か、それとも黒翼隊か憲兵にでも発見されたのかと思い、ヘボンは慌ててその場で飛び起きたが、眼前に広がる光景はそのどれ等でも無かった。
ヘボンの眼前には何故か、腰を低くしてお互いに取っ組み合っているニールとエーバ准尉が見えた。
一瞬、というよりは少し長い間ヘボンは固まって、その珍妙な光景を見ていると、ヘボンの視線に気付いたニールが此方を振り向いた。
しかし、それが隙となったのか、彼は准尉にさっと横に投げられてしまった。
ヘボンは慌てて投げられて草原の上に転がったニールへ駆け寄ると、彼はヘボンの手も借りずに衣服に付着した草や土を払いながら立ち上がり、こう言った。
「おぅ、ヘボン。 俺は決めたぞ、あの准尉のマネージャーになる。 そいで、オイルスモウの賭けで一儲けしてやる」
遂に度重なる心労によってニールは頭がおかしくなってしまったのだと、ヘボンは思った。 呆れかえったヘボンは声には出さないが、ニールに対し、救いようのない愚か者を見るような表情を向けたが、ニールは依然としておかしな様子を崩さない。
「大丈夫だ、大丈夫。 決して頭がいかれた訳じゃぁない。 これは至極真っ当な決断だ」
「どう真っ当だって言うんだ?」
「ヘボン・・・お前こそ、どうかしてるぜ? 考えても見ろ、もう俺達は二進も三進もいかない状態じゃないか。 耳目省の支援は無くなっちまったし、帝都に行くために十分な装備すらない。 憲兵隊に追われてるし、それになんだ・・・あの真っ黒な・・・」
「黒翼隊?」
「そう、それだ。 あの真っ黒けな化け物共にも追われてるんだ。 おまけに偵察に出た軍曹も戻ってきやしねぇ。 これはもう駄目だ。 機体を捨てて、近くの集落にでも逃げ込もう」
「ベルン軍曹が?」
ニールは大きく腕を上げるようなジェスチャーを交え、自分の理屈が如何に正当であるかをヘボンに説明しようとしていた。
だが、ニールがいくら、この朝焼けが差し始めた草原の上で壮大な話を宣ろうと、大分無茶があるような話にしかヘボンには思えなかった。
ベルン軍曹が戻ってこない点については、何か訳があるのだろうと考えたかったが、既に自分がコアテラの傍らで寝入ってしまってから、今の時刻までそれなりの時間が経過していたし、何しろそれについて考えるよりも先に、目の前の二人の方が遙かに問題であると思った。
「しかし、ニール。 お前の言いたい事はわかったが、准尉は納得しているのか?」
「勿論だ。 お前が寝ている間、一晩掛けて説得したんだ!」
彼の自信満々な返答に対し、確かに彼は一晩中准尉に対し熱い説得を試みたのだという事が、彼の目の縁に出来ている濃い隈が証明していた。
一旦ニールの熱っぽい顔から目を逸らし、エーバ准尉の方を見てみると、彼女もニールの熱い説得に相当当てられたのか、胸の下で腕を組み力強く頷いている。
そして、目の縁には彼と同様に病的なまでの隈が出来ていた。
(あぁ、なんて馬鹿なんだ)
ヘボンは二人の顔を呆れたように見ながら、深い溜息を付いた。
この限界知らずの馬鹿二名に対して、何を言ってやればいいのか思いつかなかった。
しかし、このままにしてはいけないとヘボンは思い切って声を張り上げ
「准尉殿!」
エーバ准尉に注進しようと、ヘボンは彼女の前まで歩いて行き
「先程の構えでは駄目であります! オイルスモウはより腰を深く落とすのが、基本の構えであります!」
そう叫んで、目の前で低く見本を見せるように構えて見せた。
限界知らずの馬鹿が二名から三名に増えた瞬間であった。
しかし、血迷った3人のオイルスモウに対する異常なまでの熱意は、突如として空から鳴り響いた生体音によって打ち消された。
朝焼けによって明るい色を浮かばせる雲の合間から、その爽やかな光景にそぐわない機影が現れたのである。
それは巨大な縦長の胴体を持ち、左右に複数の翼を展開させた、漆黒に染め抜いたドゥルガ強襲揚陸艇の姿であった。
「例の真っ黒けだ!」
そうニールが素っ頓狂な叫び声を上げると同時に、一同は素早く草木等で偽装したコアテラの傍らに飛び込んで身を隠した。
身を低くして三人固まるようにして息を潜めるが、それと反比例してドゥルガ級独特の生体音は上空から徐々に降下してくる。
「くそっ・・・俺の野望が台無しになっちまう」
ニールが身を伏せながら、忌々しそうに呟き、それと同調するように准尉が少し歯軋りをした。
どうやら、産業塔に現れたドゥルガ級とはまた別の黒翼隊の艦らしい。
そうでもなければ、横っ腹をぶち抜かれておいてすぐに飛んでこられるわけが無い。
今は対空武器はおろか、拳銃すら3人は持っていなかったし、仮に持っていたとしてもどうしようも無いことは常に同じである。
しかも、悪いことは何重にも重なってしまうのか、機影は確認できないものの、ドゥルガ級の生体音に混じって、より低く鋭く音を立てるグランビア戦闘機の音も上空より響いてくるのが三人にはわかった。
十中八九、これも黒翼隊の物であろう。
「・・・ニール、お前の偽装は上手くいくのか?」
「輸送艦の時にゃ、偽装網やそういう類いの物も準備してあったが、こいつは急場凌ぎに過ぎないからな。 奴等の目が相当悪い事を祈るしかねぇ」
ヘボンが伏せながら近くのニールに縋るような声を掛けたが、彼の返答は言葉の割には既に諦めきっている節が感じられた。
そして、その予感は見事的中してしまったのか、今度は上空より生体音とは違う喧しいまでのサイレンが鳴り響き始めた。
サイレンの音というのは幾つかの種類があり、ラーヴァナ級や大型艦船に勤める者、そうでない地上勤務の者だとしても、サイレンの種類については新兵教育の際に叩き込まれる事項であり、そう簡単に忘れるものではない。
だが、この場に限ってはその点についてすっかり忘れて、もっと楽観的に事態を味わいたかったが、ヘボンの脳裏にはしっかりサイレンの意味が理解出来ていたし、口を噤んでいることも出来なかった。
「不味いぞ、警報を鳴らしてる。 発見されたんだ」
「視力検査には合格できる連中らしいな」
苦し紛れの皮肉ぶったニールの言葉を聞きながら、三人の面持ちは険しくなった。
逃げる訳にも打って出る手段とて、今は無い。
この際唯一、縋れる考えという物は、連中が警告を告げて3人を引きずり出し、丁寧にありもしない武装を解除させて、ゆっくりと捕虜として丁寧に扱ってくれるという希望的観測に沿った物である。
だが、産業塔であそこまで暴れた連中を、そんな律儀に軍規に照らし合わせてくれるほど連中が紳士的であるとは到底思えなかった。
「・・・ヘボン。 連中、俺達を後ろから撃つと思うか? それとも前からか・・・、どっちだと思うよ?」
「よせよ・・・。 きっと、派手に艦砲で吹っ飛ばしてくれるよ」
徐々に生体音と警報が近付いてくるにつれて、三人は身を強ばらせながら、己らに降りかかるであろう砲弾の嵐に身構えた。
ヘボンとしても、ここ連日の緊張の連続に幾らか体制が付いてきてしまったのか、胸中に漂う恐怖心は幾らか和らいでいるような錯覚を覚えていた。