操舵手ヘボンの受難『空鬼について』

 操舵手ヘボンの受難#30  『空鬼について』

 

 「…コイツは特に今は関係ない。 失礼した」

 寝息を立てながら蹲っていた若者は、すぐに壁際に立っていた男とその周囲にいた連中数人に掴まれ壁際まで引きずられていったが、それでも若者は寝ていた。
   壁際の男は他のラーヂ達と同じく全身に包帯を巻いており、それは余りにも複雑に幾重にも巻かれているために、目も口の部位も判然としないのっぺりとした頭をしていた。
   そして、包帯には刺繍が施され、目の部位には目の形をした印が織り込まれている。
   なんとも異様な外見をしていたが、その外見を辛うじて俗物的な物へ引き寄せようとしているのは羽織っている帝国陸軍の薄汚れた軍服である。階級章ははぎ取られているようだが、幾らか贅を尽くしたような装飾は、汚れていても歪な光を放っているように見える。
   大方馬賊らしい戦利品の一つであるらしいが、包帯姿に羽織っているとただの負傷兵にも見えなくも無い。

 「さぁ、空鬼よ。 早速であるが貴殿は我らを救うべく、この地に降り立ったのだと、祈祷師共は喚いているが、その真意を説いたい」

 壁際の男は敷物に胡座を掻きながら、ヘボン達にも同じように座るように促しつつ、包帯越しの眼から此方を見据えるようにして言った。
   だが、意味深長な調子に言われても、ヘボンには答えようが無かった。
   我らを救うとはどういうことか、一体何を言っているのかわからない。
   そんな疑問が顔に表れたか、壁際の男は一瞬困ったような顔をしてから、考え直したように少し間を置いてから口を開いた。

 「いや、やっぱ小難しい言い方は良くねぇ、てめぇの面がおっかねぇもんだから、つい恐縮しちまったが、流石『奴等』の施した印の事だけはある。 久方ぶりに肝が冷えたってもんだわ」

 男はそういうと豪快な笑い声を上げた。
   それに釣られるように周囲の者達も笑い声を上げて、いよいよこの集まりが親戚か何かの様な雰囲気を帯び始める。
   おまけにそれと同様に緊張感が無いのが、ヘボンの周囲を取り囲む、ベルンの言っていた『祈祷師の様な者』と言っていた子供達だ。
   先程からこの広間に通されてから静かにはしていたものの、それはあくまで声を出さないという事だけの事で、よく小さい子供が面白半分に構って欲しいような気持ちでヘボンの肩や背中を叩いてくる。
   いや、叩いてくるという次元では無い。
   先程はわざわざ助走を付けて跳び蹴りを見舞ってきたほどで、あまりの勢いにヘボンはその場に突っ伏しかけたし、隣のニールはその様への笑いを堪えるのに必死であった。

 「まぁまぁ、別にお前さんが何か考えがあって、こんなトコに来た訳じゃねぇこたぁわかっとるよ。 そこら辺の事は『ゼェリベル』から聞いてるし、ちょっと畏まりたかっただけだ、気にするな」

 男はそうまた笑いながら言うと、壁際に立っているベルンの方を見た。

 「ゼェリベル。 確かにてめぇの言うとおり、一見おっかねぇが、落ち着いてみりゃぁただのガリガリだ。 安心したよ」

 男はベルンの事をゼェリベルと呼び掛けた。
   どういう意味なのかと問いかけようと口を開き掛けた瞬間に、男が答えてくれた。

 「…『ベルン・シュタリット』なんて、ご丁寧な名ぁしとるが、こいつの本名はゼェリベル・ラァーシジアガ・グワズ…おい、そこから先はなんて言ったか?」

 「…ゲニヘェルゲ・ラバデッド。 親父、息子の名前ぐらい覚えてろよ」

 「仕方ねぇだろが、そこから下は俺が名付けたんじゃねぇから覚える義理ぁねぇ」

 男はどうも長ったらしい名前に戸惑ったのか、ベルンに聞くと彼は衝撃的な単語を孕みながら男へ返答した。
   男は少々バツの悪そうな顔をしたが、すぐに当惑しているベルンとニールの方へ振り向いて訂正した。

 「まぁ、長ったらしいが奴の本名はソレだ。 貴族のとこに養子に出してから妙な事ばっか覚えやがってからに、こっちは苦労しとる」

 ベルンに親父と呼ばれた男はそう豪快に笑い声を上げながら、顔中に巻いた包帯を揺らしながら、少し脚を組み直した。

 「俺はこのラッシジアの一応、族長って事になっとる『ゼェリゴズ・ラァーシジアガ・グワズェリ・ゲニヘェルゲ』・・・まぁ、『ゼェリゴズ』と呼べ」

 そうゼェリゴズと名乗ったラーヂの族長は、敷物に座りながらまた背を少し仰け反らせるほどに笑って、ヘボンとニールを見据えた。

 「まぁ、空鬼よ。 お前さんがここに来たことは俺達にとって幸いだ。 御陰で狂姫(キョウキ)に恩を売る事が出来る。 俺達の稼業は幾らかスポンサーの信用が必要だからよ」

 ゼェリゴズはそう早口にまくし立てながら、ヘボンとニールの二人に何かを説明しているようであったが、知らぬ単語が混じっているために余計に二人の脳を混乱させてしまった。

 「一体何を言っているのか、わからないであります」

 ヘボンが困惑した調子にゼェリゴズへ細かい説明を頼むと、今度はゼェリゴズが困惑した顔をした。
   どうやらお互いに意思の疎通が取れていない事をようやく理解したらしく、彼は自身の息子と言ったベルンを少々睨み付けた。

 「おい、しっかりチクイチ説明したんじゃぁないのか?」

 「あんな短時間で全部説明仕切れるもんか、親父がしろ」

 ゼェリゴズの少々怒気を孕んだ言葉に対して、ベルンはキッパリとした調子で返した。
   何処にでもあるような親子の会話のようにヘボンには見えた。
   ベルンの決然とした態度に、ゼェリゴズは諦めたように溜息をついた。

 「仕方ねぇなぁ。 俺ぁ長話は苦手なんだがよ」

 そう彼はさも嫌そうに前置きをしたが、ベルンの父親となれば、言葉とは裏腹にきっとベラベラと喋るのであろうとヘボンは内心思ったし、そして、実際の処そうだった。

 「まぁ、まずお前さんの事を重要視するには訳がある。 お前さんが帝国軍のとこの所属で、何をしていたかはゼェリベルから聞いた・・・とは言っても一昨日にコイツがここへすっ飛んできたばかりでそこまで話を噛み砕けねぇ奴もまぁチラホラいるが、俺はわかってるつもりだ。 ラッシジア・・・いや、お前さん方の間じゃラーヂと呼んでるだろうが、そこのところは今はどうでもいい。 俺達にとって肝心なことは、今ラッシジアは、非常に不味いことになっているということだ」

 ゼェリゴズはそう一旦話を切ってから、ヘボンとニールを交互に包帯越しに見た。
   彼の瞳はヘボン達には見えないが、包帯の奥には鋭い眼光があるように感じられる。

 「俺達は商売柄、辺境貴族共の持ち物を拾って、それを別の貴族に売りつけたりしている事はお前さん方もよくご存じだろうが、それが今成り行かなくなっちまってる。 原因は分かりきったことだが、辺境貴族達が結束し始めているということだ。 以前は辺境同士に縄張り争いやらなんやらで揉めていたんで、つけ込みやすかったし、トーロック団とも連携して仕事が出来たが、最近はそうもいかねぇ」

 ゼェリゴズの言うトーロック団とは帝国内で有名な無法者集団の事であるが、その実態はよくわかっていない。
   軍需物資の横流しなどには彼等が関係しているとの話は、機関誌などで読んだことはある。
   ふと、隣でニールがその単語を聞いて肩を竦めた所を見ると、産業塔の際に判明した彼の所行には多かれ少なかれトーロック団も関係していることが推察できた。

 「戦争というモノは嫌だね。 前までは尻尾振って品を買っていた連中が、次には掌を返して銃を向けてきやがる」

 そうゼェリゴズは苦々しく言ってのけたが、その戦争で生計を立てている身の上の癖に、彼も随分と図々しいことを言うとヘボンは思ったが、自身もそれで給料を頂いている身であるから、その点についてどうこう言える者はこの場には誰もいなかった。

 「結束した貴族達は、過去のことは忘れて仲良しこよしに機体や物資を交換しあってるから、俺達の付け入る隙がねぇ。 これを変えて以前のように喰っていくためには、ゼェリベルのボスっていう…あぁ、なんて言ったか?その女?」

 「『ツェツェーリエ・フォン・ラーバ』中佐。 親父、いい加減にボケたか?」

 「馬鹿言うんじゃぁねぇよぅ。 名前が長ったらしいもんで、忘れやすいだけだ。 なんでこう貴族達はまどろっこしい名前を付けやがるんだ」

 そうゼェリゴズとベルンはそんなやり取りをするものの、長ったらしい点は其方の方が勝っているのでは無いかとヘボンは彼等の話すそれなりに方言が混じってはいるものの、聞き取りやすい帝国語を聞きながら、ある程度の文化の違いを感じた。

 「兎に角、その中佐に今は恩を売るって事で、ゼェリベルの連れであるお前さん方を助けておけば、その中佐が商売を稼業を続けられるよう上に掛け合ってくれる・・・というよりは今まで通り見て見ぬ振りしてくれる訳だ。 なんと言ってもこの内紛は皇帝連中に勝って貰わなきゃいけねぇのよ。 一度、辺境貴族達は痛い目を見て貰わねぇとな」

 ゼェリゴズはそう言ったが、ヘボンにはどうもラッシジアの立場について疑問が残る。
   彼等は元を正せば帝国の侵略を受けてバセンから出た豪族と言う話だが、中佐と手を組むと言うことは敵と手を組むと言うことではないか。
   そう思った矢先に、ゼェリゴズは此方の考えを読んだかのように、少々疑問の色を顔に出したヘボンに対して笑みを向けた。

 「別に俺等は過去の栄光がどうとか、そういうこたぁ言わねぇ。 そりゃ、帝国に祖先達は酷い目に遭わされたが、過去だけを見てりゃ今に滅んじまうし、今だけ見てりゃ緩やかに滅ぶしかねぇ。 俺達は先を見据えているのさ」

 彼はなんとなく最もらしい調子にそう言ったが、要は長いものに巻かれるべきだという発現と同義の要にも聞こえた。

 「…ご援助感謝するであります」

 ヘボンとニールはそう感謝の意を口にした。
   自分達も彼等の様に長いものには巻かれていくしか、生き残る道はないのであるのだから。

 「空鬼と呼ぶのは、お前さんがウチの部族に伝わる伝承・・・まぁ俺ぁんなこと信じちゃいないし、ここの連中もこれっぽっちも信じちゃいねぇんだが、偶々、祈祷師共が言うには当てはまるそうだから、そう呼ぶ訳だ。 俺等の部族は元を辿れば今は隷区なんて呼ばれてる辺りの豪族で、遙か昔の帝国侵略で追い出された身の上だ。 伝承たぁその時からある代物で・・・あぁっ!嫌だ嫌だ、俺ぁこんな痛々しいこたぁ言わねぇぞ!」

 そういう割にはそれなりに長く色々と話していたゼェリゴズだったが、伝承がどうこうという下りに至ると、頭を振って説明を嫌がった。
   どうやら、大の男が幻想的な事を宣うという事は大変恥ずかしいことの様で、その辺りは確かに以前にニールが言ったとおり俗っぽい感じがする。

 「そも、なんで族長たる俺が、そんな説明をしなきゃならねぇ? こういう時こそ、祈祷師が意味ありげに語るもんだろが」

 本当にこの部族は俗っぽいものだとヘボンは痛感しながら、困っているゼェリゴズを見た。 困ったゼェリゴズは周囲を囲む他の者達にも説明を願い出たが、他も嫌がったために、つい先程自身の敷物に図々しく座って眠りこけていた若者へ白羽の矢が立った。
   若者は少々乱暴に叩き起こされ、ゼェリゴズから説明しろと促されると、広間に響くほどの露骨な舌打ちをして見せた。
   顔は心地よい眠りから娑婆へ引きずり出された苛立ちをありありと浮かべ、寝ている際の冷静そうな色は欠片も無いが、目だけは依然として細められている。
   そんな彼がさも嫌そうに、ヘボンの処まで這いつくばって近寄ってくると、ローブの内から何か革製の布切れを棒状に巻き込んだ物を取り出して、二人の前に少し広げて見せた。
   それはどうやら絵図の体裁を取った物らしく、彼も口では説明したくないのか、広げられた革面を指さし始める。

 「ソイツは俺の護衛で『ヨトギ』って者だが、一応伝承については詳しい」

 ゼェリゴズがそう若者の名を紹介したが、ヨトギと呼ばれた若者は特に会釈をするわけでもなく、何も反応を見せずに絵図を開いている。

 

 絵図の大きさは、一人分の座布団ほどの大きさであり、ヨトギがまず最初に指し示した図は、ヘボンとニールから見て左上部の隅だった。
   絵図に描かれている図は全て刺繍で編み込まれており、どのような染め物を使い表現したのか色鮮やかな物であった。
   指し示された図には、恐らくバセン隷区に生息し使役されているという、確か『ミィミ』と呼ばれている生き物だろうか、そんな生き物の上に跨がる人が刺繍で表され、その人物と生き物の周りには鮮やかな集中線のような線と賑わいを示す人物達が多数織り込まれていた。 どうやら、ラッシジアの誕生か起源を示す図であると、連想させたが詳しいことはわからないし、ヨトギは図を指し示すだけで特に説明はしなかった。
   古くから伝わる伝承を表した絵図と言うだけあって、相当に年月を経てはいるのだろうが、それでも経年劣化を抑えるために手入れをしっかりと施している様だった。
   そして、ヨトギは図を指す指をゆっくりと下へ下げていき、次の図を示した。
   その刺繍には人々が例のバセン生物に跨がりながら、空を飛ぶクルカの様な物と戯れている図だった。
   これもラッシジアの文化や発展を示す物であることはなんとなくわかるのだが、依然としてヨトギは説明しないし、それに随分と刺繍の図もいい加減な表現なのかわからないが、『変な物』が織り込まれている。
   それは人が巨大なクルカに丸呑みにされ掛けている途中なのか、それとも巨大なクルカから人が生えているのか判然としない奇妙な化け物が図の隅に織り込まれているということだ。 

 「なんだこりゃ」

 思わず共に図を見ていたニールが唸ったが、ヘボンも同様だった。
   だが、その二人の様子など気にせずに、ヨトギは更に指を下げる。
   そこからは歴史の講習か何かで、時たまに見るような物とは随分と打って変わった奇妙な光景が広がっていた。
   図自体は生き物が二体並ぶ単純なものであったが、左には人と思わしき影が、その場に跪くようにして、右のクルカが直立したような者に慈悲を乞うような図だった。
   クルカの様な物が左の人影に手を差し伸べ、その手の様な部位からは何か力のような物を表したのか放射状に線が織り込まれ、左の人物の頭部を包んでいる。

 「これはどういう意味なんだ?」

 思わずニールがヨトギへ質問したが、彼はそれに答える代わりに指を更に下へ下げた。
   次の図は上の図と同じ人物と思わしき人が、大勢のラッシジア民と思わしき連中を従えているような図である。
   上の図では左の人物がどういう容姿であるのか判然としなかったが、今ヨトギが指し示している図はそれが幾らか鮮明になっている。
   長い金髪を垂らし、異様に白い糸で縫い込まれた肌をして、その両眼は左右とも色が合っていなかった。
   その人物は朱色の衣を纏っており、手には長い儀式用と思われる杖が携えている。
   人物の後ろにはラッシジアの民と思わしき連中が続いていて、この金髪の人物が彼等を導いているような形が図から伝わってくる。
   次にヨトギは指を一気に刺繍図の上へ動かし、今見た縦一列の図の隣を指した。
   隣の雰囲気と打って変わって、その図には胴の長い蛇の様な生き物が刺繍されている。
   その蛇の様な物は全身が黒く、頭部と思わしき頂点の膨らみには八つか九つ程の赤い目を持っていて、長い胴の節目ごとに巨大な翼を持っていた。
   そんな化け物が、空を飛んでいるのか、刺繍図の下部には建造物と思わしき細く尖った図が波のように織り込まれ、建造物の上を取り巻く赤い刺繍は破壊を示す物と思われた。
   そして、その下の図へとヨトギが指差すと、異様さは更に増した。
   巨大な蛇は自身と同じほどの大きさがある柱へ絡みついて、今にもその柱を締め潰さんが如く力をいれている図で、柱には巨大な目が織り込まれている。
   ヘボンにはその柱が帝国産業塔の様に一瞬思えた。
   だが、それはすぐに無理も無い連想だと片付けた。
   何しろ帝国侵略時の伝承とすれば、彼等ラッシジアが帝国に対する怨みが並々ならないものであろうし、大方この蛇こそがラッシジアの怒りを示すもので、帝国に対する復讐心の表れであろうと感じた。
   
   だが、次にヨトギが指を下げて示した図は、その見解が覆される物であった。

 ヘボンが咄嗟に思ったラッシジアの怒りを具現化したであろう蛇が、今度は左の図で出てきたラッシジアの民と思われる者達を飲み込み始めていたからだ。
   それはクルカが食料を考えなしに乱暴に貪るかの如く、随分と乱暴な表現であり、中には四肢を飛び散らせながら飲み込まれている者も見えた。

 「訳がわからないな」

 そう思わずヘボンが呟いて、ヨトギを少し見上げた。
   だが、不思議なことにそこで彼はニタリと不敵な笑みを浮かべて、ヘボンを見返していた。 彼の意図が全く読めずにヘボンは困惑したが、図は更に続く。
   次に示された図は、限られた枠で表現する上の致し方ない処置の為なのか、隣の列に織り込まれている例の朱色の衣を纏った人物と、それと同じ大きさに織り込まれ表現された黒い蛇が対峙するような姿勢で表されている。
   
   しかし、この図では表されている人物が増えている。

 蛇は大きな円を描くような姿勢で織り込まれているが、その円の中央には朱色の人物とよく似た格好をしている者がちょこんと収まっていた。
   しかし、円の中に居る者の髪は対峙している者の髪より短く、左右の目の色も異なっているが、色の配置が対峙している者と逆になっている。    織り込まれ表現された大きさは違うものの、まるで二人は鏡の様にも思える。
   これで計二人と一匹の図であるのだが、図の端にはもう一つ生物が蛇と対峙する朱色の人物の頭上に織り込まれている。

 これが最も異様な生き物と言えた。

 それは人の形はしているものの、全身が蛇と同じように黒く、図の上枠線にぶら下がるような姿勢を取っている。
   人の様に目は二つ付いてはいるが、その均衡はあまりにもズレていて、顔の左端にだらしなく開ききった口を持っており、そこから赤い舌を垂らしていた。
   思わず見入ってしまうほどの奇怪さが、単純な織り込み方で表現され、幼い頃によく聞かされるような化け物の姿をヘボンは強く見いだし、背筋に寒い物が走った。

 「それが『空鬼』だ」

 不意に頭上より声が聞こえて、少し驚きながら見上げると、そこにはゼェリゴズがヨトギの背後から覗き込むようにして、かがみ込んでいるヘボンとニールと同じように絵図を見ていた。
   しかも、ふと気付けばヘボンの隣に祈祷師の様な者と言われる子供達も、いつの間にかヘボンに全力の蹴りを食らわすのを止め、真剣な眼差しで絵図を見ていたし、子供らの頭上には他のラーヂ達も絵図を覗き込んでいる。
   その光景は親戚一同で集合写真か何かを真剣に見つめる図に似ている。

 「他の連中も初めてお前さんを見た時に、この図と同じように見えたと言っていた。 俺も一瞬そう見えたもんだ」

 ヘボンはその言葉を聞くとキョトンとしたような間抜け面で、一同を見回し、随分と失礼な事を言うじゃないかと憤慨しかけたが、それを打ち消すほどに彼等の表情には侮蔑の色はおろか皮肉の色すらなく、真剣なものであった。

 「…俺も失礼ながら、シュトラヴァルカ級内で初めて顔を見たときにそう感じました。 何せ、ガキの頃から見てきたこの絵に凄い似ていたものですから・・・」

 ゼェリゴズの隣で、少々親子仲良く顔を並ばせているベルンがそう言った。
   ヘボンはバツの悪い顔をしながら、絵図の化け物を改めて見てみた。
   どう見たって人間ではない、化け物そのものである。
   だが、他者に己がこう見えているというのであれば、ここ数日に多々起きた、此方の顔を見て素っ頓狂に震えだす連中の事について合点がいく。ヘボン自身こんな化け物と現実に出くわせば泣き叫ぶに違いない。
   それだけ『空鬼』の姿は恐ろしく、見る者にとって説明しがたい恐怖を与える形をしていた。
   人の形と似てはいるが、細かい部分が大いに違っていたのだ。
   顔のパーツが平均的に連想させられる物からは大いにかけ離れ、先天的な症状や戦闘による負傷などで起きる物とも違う。
   今まで顔や体の部位を失い、ねじ曲げられ、削られた者達を見てきたヘボンにとっても『空鬼』のそれは次元が違う感触であった。
   ずっと見ていると気をやられるような気配がして、ヘボンは本能的に一時、絵図から目を逸らした。
   逸らした視線の先にはニールの横顔があり、彼は此方の視線に気付くと同様に絵図から顔を上げてヘボンを見ると

 「…なるほど。 お前が不細工だってことは、伝説級に折り紙付きって事か」

 そう神妙な顔で訳のわからないことを宣ったので、軽く拳を彼の顔に喰らわせた。

 

 「それで、この化け物がなんで伝承では、貴方方を救うと?」

 ヘボンは顔を押さえながらその場でのたうち回るニールを尻目に、ゼェリゴズの包帯面へ問いかけた。
   彼はその質問について口では答えずに、ヨトギと同じように腕を伸ばして指先で絵図を指した。

 「そう慌てるない。 続きは図に織られてある」

 そう彼が指差した先は図の右端上部で、そこには朱色の衣を纏う者が蛇に対して杖を振りかざしている場面であり、蛇は杖の力か何かかは知らないが、打ちのめされるようにして倒れ込んでいる。
   そして、依然として空鬼はなんとも言えない表情で此方を見据えながら、朱色の衣を纏う者の頭上にぶら下がっていた。
   それだけでもどことなく場違いな不気味さがあるが、ゼェリゴズが指し示したのは正確には空鬼のだらんと下がった脚の部位で、そこには丸い何かが空鬼の脚に下げられている。

 最初の内は織り込み方がこの部位だけ雑で、糸が少々解れているために判然としなかったが、よく見てみると、それは人の頭部であった。

 単純な刺繍であるものの、雑に織り込まれているような糸は血のような赤色であり、頭部から血が垂れている様を表現していた。
   しかし、空鬼の残虐性が露わにはなっているが、そもそも、その頭部は誰なのか。
   なんだか恐ろしい気配を感じながらも、ヘボンは目を凝らして頭部を観察し、今までの図に出てきた人物達に照らし合わせていくと、すぐにわかった。
   それは一つ前の図で、蛇が作った円の中央に居た、小さい朱色の衣を纏った者であった。
   頭部だけなのだから見分けが付きにくいが、空鬼の脚に吊されている頭部から生えている髪は短い金髪と左右違う色をした目が証拠だ。

 「この図の通り、朱色の者・・・俺達は『狂姫』と呼んでいるが、これは祈祷師連中の上位の呼び名だ。 祖先達をまぁいろんな意味で導いたと聞いているが、よく知らん。 まぁ兎に角、ソイツは蛇を打ち倒したし、空鬼も蛇の片割れを殺した事になっている」

 あれほど伝承について語るのは嫌と言ったゼェルゴズが唐突に口を開いた。
   説明を頼んだヨトギが全く喋らないために業を煮やした様子である。

 「いまいち、意味がよくわからないであります。 この図に織り込まれている蛇とは一体何を表しているのでありますか? それに、『蛇の片割れ』というのは・・・」

 「まぁ一片には答えられねぇ、まずは蛇からだが、これには様々な現象を考える事は出来る。 自然災害とか戦乱とか・・・上の図では広範囲な建造物を攻撃してるようにも見えるから、俺達だけじゃなく全体的な災厄の事を示してるのかもしれないからよ。 だが、俺達が思うに、この蛇は今を示しているんだ」

 ヘボンの当惑した質問に対し、ゼェルゴズはある程度自信のある声音で言い切ったが、彼の調子からあまりに胡散臭い物をヘボンは感じたために、顔は一層当惑した。

 

 「…邪龍の事だ。 軍曹」

 突然、ヘボンの背後から聞き覚えのある濁声が響いた。
   反射的に振り返ると、ラーヂ達の囲いの外から、太った男が此方を見ている。

 「ミュラー曹長?」

 その濁声を連日と聞いているヘボンは、すぐに太った男の名を言ったが、その当人の外観は少々今までと違っていた。
   何故かはわからないが、今のミュラーは軍服ではなく、ラーヂ達が羽織ったりしているような緑色のローブに身を包み、その薄い髪が無ければどこぞの導師か何かに見える。

 「おう、軍曹」

 彼はそう丸々と肥えた体を揺らしながら、まるでバスローブを羽織っているかのようなリラックスした様子で、ゆっくりと此方の集まりへ歩み寄ってきた。

 絵図に皆密集していた為に、温度が上がりつつあったが、曹長の登場により熱気は更に上がる羽目になっていく。 

最終更新:2017年08月17日 10:49