少佐の休日#2 『オイル』 著 mo56
暗転からの覚醒は激痛を伴う物だった。
ニエンは頭部の中から釘が生み出されるような痛みに呻きながら、目を覚ました。
頭は割れるように痛く、体は横たえられていたが、そんな事を気にする前に頭を抑えていた。
脳からは頭痛に対しての苦情しか上げられず、何故その様な事になったのかの記憶については全く出てこない。
「ようやく、お目覚め? お間抜けさん」
そう此方を嘲笑うかのような冷たい調子で声が掛けられ、声のした方へ頭を動かした。
現在、ニエンはベンチの様な椅子に横たわっていて、顔を横に向ければ、ここ数日何故か一緒に連む事になっていた『エレン』が突っ立っている。
彼女は顔に嘲りと呆れの色を浮かべながら、足下から此方を心配そうに見上げている巨大なクルカ『ギュンバ』と一緒に居た。
今、自分らの居る部屋は何かの更衣室の様に狭かった。
壁には何かの染みが異臭と共に浮き出ており、壁際には衣装箱と思わしき箱が幾つか置かれており、その対極にベンチが設置され、ニエンはそこに横になっている。
天井からは生体器官が原動力と思われる鮟鱇の頭部から垂れるようなランプがつり下げられ、朧気な光を放ちながら部屋内を照らしている。
「・・・おはよう。 今、何時だい?」
頭を摩りながら、目を見開きつつニエンはそう彼女へ問いかけた。
ここ数日の間、彼女とは一緒に地方を漫遊している。
地酒を楽しみ、帝国が領土として支配してからも、未だに根付いている郷土料理に舌鼓を打ち、時に風景を楽しむ大変優雅な旅であった。
だが、それに幾らかの問題があるとすれば、この奇妙な連れ合いの所属が全く判らないと言うことと、度々お互いに大酒をしては記憶を無くすと言うことである。
そして、ニエンは頭部に鋭い頭痛を感じていることから、その後者が今起こっていると直感した。
「何時ですって? よくもまぁ、そんな事のうのうと言えたもんだわね。 もうすぐ『試合』だっていうのにさ」
エレンは何処までも呆れたような深い溜息を吐きながら、大きく肩を落としながら、ギュンバと顔を見合わせた。
「『試合』だって? 何のことを言ってる?」
聞き慣れない単語の出現に、ニエンは顔を頭痛に歪めながら更に問いかける。
今まで何度か大酒で記憶を無くしては来たが、大概は目が覚めてから聞く言葉と言えば『お勘定』と『逃げ切った』と『捕まった』の三種類だった。
「・・・ニエン、本当に覚えてないの? あれだけ引き受けるって、啖呵を切ってたじゃない」
「一体何の話をしているんだ? 私は覚えていないぞ」
「・・・だから、私はここの地酒は飲ませたくなかったのよ。
噂じゃ産業塔から流れ出るような廃液だって酒に混ぜてるような酷い物だって言ったのに、アンタは『帝国の味』とか訳のわからないこと言ってボトル一本まるごと飲み干しちゃうし、その後は革命がどうとかこうとか延々と演説を始めるし・・・、でも、まぁ、あの酒場から出たのが一番の間違いだったのよ。
アンタは何処までも走って行っちゃうし、それでトーロック連中が仕切ってるような賭場まで乗り込んでいくし、乗り込んだ挙げ句に言い掛かり付けて何人かぶちのめしたのかアンタ覚えてる?」
「いや、全く」
「アンタが三人、私が二人、ギュンバが一人ってトコね。 まぁその話はどうでもいいわ。
問題はアンタが酔っ払った勢いで『オイルスモウ』の選手までぶちのめして、そのマネージャーに自分を売り込んだ事ね」
「・・・そんな事をしたのか? 私が?」
エレンが呆れ顔のまま宣う言葉に対し、ニエンは頭痛すら忘れて鳩が豆鉄砲を喰らったような調子に呆然としていた。
その様子を見て取ると、エレンは急に顔を横に向け
「ねっ? だから言ったでしょ? 記憶なんて無くしてるんだから、取り合わないでくれって」
そう少し離れた壁際に立っていた男へ言った。
酒の抜けない朧気な視界では上手く認識出来なかったようだ。
男は身ぎれいな格好をしていて、長い髪を後ろで結い上げ、広いデコを反射板の様に光らせていた。
全体的に清潔感はあるのだが、その顔つきは何処までも胡散臭い色を帯びている。
何処かで見たような顔に思えたが、記憶を脳より引き出そうとすると頭痛がするのでやめておいた。
「記憶があるかどうかなんて関係ない。 要は彼女が宣誓書にまでしっかりとサインしてしまったということだ」
彼はそう言い放ちながら、懐から一枚の紙切れを取り出すと紙面を此方に広げてきた。
長々と細かい文字で書かれた、行の一番下にニエンの署名がされてある。
「今更、契約を破棄することは出来ない。 少なくとも一戦はやって貰わねば、此方も代わりを立てる事が出来ない」
「何故、出来ないんだ?!」
「その代わりをお前がぶちのめしたんだろうが!」
ニエンの文句に対して、男は唾を吐きかけるような怒声で応酬した。
流石にこればかりは逆上しやすい彼女でも、引っ込まざる負えない。
「・・・全く、なんで俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ!」
男はそう悲痛な叫び声を上げながら、壁を手で叩きながら少し蹲った。
男が蹲るとちょうど直立したエレンと同じほどの身の丈になる。
「・・・彼、地元の貴族らしくてさ。
賭けに入れ込んでて負けて、何度も賭場仕切ってるトーロック連中に殺され掛けたり、借金してるそうなんだけど、オイルスモウの賭けで全財産全部、自分で仕込んでるこっち側に注ぎ込んだんだって」
「馬鹿じゃないのか?」
「黙れっ! 自分が愚かだって事はわかってる! だが、そんな馬鹿野郎の馬鹿な真似を更に上回る馬鹿に潰される気持ちがわかるか!?」
此方へ事情を耳打ちしてきたエレンに対し、頭痛はするもののその痛みに押し出されるかのような口から飛び出した言葉に、男は怒鳴った。
「いいか? 俺はこの試合に全てを賭けてるんだ! この一戦勝てれば、借金はチャラに出来るんだ! その為に選手を鍛え上げた! 身を粉にして捧げてきた!
それを試合前日に乱入してきたお前等に潰されちまったんだ!」
「・・・別にいいじゃないか。 その選手より私の方が強いって事だろ?」
「オイルスモウで『ハジキ』が使えると思ってるのか?!」
男の言葉に首を傾げたニエンは横に突っ立っているエレンを見ると、彼女は昨晩の事を改めて彼女に説明してくれた。
「アンタ、拳銃で脅し込みながらぶちのめしたのよ? その選手を」
「随分と極悪な事をするじゃないか」
「アンタの事を言ってるのよ」
呆れきって肩を竦めるエレンを見ながら、ニエンは腰に差してあるはずに拳銃を確認したが、見事にホルスターごと納められているべき位置にない。
「没収されたに決まってるじゃない。 逃げ出せないように手荷物全部トーロック連中に持っていかれたの」
「参ったな」
「やっと、状況を理解出来たようね」
項垂れるように頭を抑えながら目を瞑ったニエンの様子を見て、エレンはまた溜息を吐き、ギュンバは『ビュオ』と落胆の鳴き声をあげた。
今居る部屋はオイルスモウ選手の準備室で、ここであと二時間程までば、試合場へ案内されるらしい。
エレンの話では、昨晩の選手をぶちのめし、抗議してきた貴族に対し、『じゃぁ、私が選手になれば問題なかろう』と喚いて自分から契約書を奪い取り、自分で署名したというから、最早逃げようも無い。
おまけに勢いでエレンもその話に乗せて、嫌がる彼女の指を押さえつけて無理矢理署名させたらしく、その点についてニエンは彼女へ謝罪をしたが、今更どうしようも無かった。
「まぁ、こうなったもんは仕方ないわ。 ところで、アンタ、『オイルスモウ』について知ってるから選手になるとか言ったのよね?」
「初耳だ」
「・・・待って? それはどっちの意味で言ってるの? 昨晩の記憶についてのこと? それとも・・・これは無いでしょうけど『オイルスモウ』について?」
「いや、後者だ」
「アンタは救いようのない馬鹿ね!」
準備室で、ベンチに座りながら項垂れているニエンに対し、エレンは小さい体を大きく見せるかのように両腕を振り上げ激しく体を震わし怒った。
おまけにギュンバもエレンと同じように『ビュォ』と怒った様に鳴いた。
この抗議にニエンは大きく参って、さらに項垂れた。
「ぁ~・・・もうっ! 仕方ない・・・仕方ない事よ・・・」
エレンはある程度、ニエンに怒鳴りつけると、頭を抑えながら部屋内をグルグルとギュンバと回りながら、三周した辺りでニエンの前で落ち着いた。
「まぁいいわ。 アンタも一応軍隊に居るんだから、格闘技は出来るわよね?」
「無論だ」
「OK、まだなんとかなる馬鹿で良かったわ。 兎に角、オイルスモウはその・・・なんていうかな、兎に角格闘技なのよ」
「じゃぁ、大丈夫だ」
「えぇ、えぇ・・・ちょっと、服を脱いで。
ちょっと、全身に油を塗りたくって、ちょっと相手と押し合って、ちょっとマウントを取って5カウント取れば勝ちなの」
「・・・随分と『ちょっと』と言うが、君の言うちょっとってのはどれくらいだ?」
そのニエンの質問について、エレンは暫く沈黙してから、一言
「ちょっと、死人が出るレベルよ」
そう、何もかも諦めた様に呟いた。
「それはちょっとで済む問題ではないだろ」
「五月蠅いわねっ! 元はといえばアンタのせいなんだから、四の五の言うんじゃないの!」
エレンの説明に肩を竦めるニエンに対し、彼女はもう一度怒鳴ってから、ニエンの座っている隣へ腰掛けた。
「まぁ、グリッガの言う話が大袈裟なだけなのかもね。 所詮、興業なんだから飾りなのかもしれないし・・・」
「グリッガと言うのは誰だ?」
「さっきまで部屋に居た男よ」
「・・・何処かで聞いた名だな」
「驚いた。 そういう、どうでもいい記憶は残ってるのね」
男の名についてニエンは少し記憶を巡らし、その様子をエレンは呆れて眺めながら、部屋の壁際に置いてある衣装箱まで歩いて行き、箱の中身を取り出してはニエンに投げて渡してきた。
「今のうちに着替えときましょ。 今の格好だと不味いわ」
エレンはそう言いながら、自分用なのか箱より取り出した布切れを取り出した。
先程から二人は軍服を羽織っていたが、近頃洗濯が出来なかったのでお世辞にも清潔な衣服とは言えない。
だが、その渡された衣装も清潔とは言えそうに無い。
それは黒いローブの様な物で、肩や腹部の方に何か奇妙な紋章が刺繍されていた。
「なんか、異国の格闘家という触れ込みでやるそうだわよ」
「動きにくそうだな。 この格好のままじゃ駄目なのか?」
「駄目に決まってるじゃない。 アンタのは盗んだ物でしょうけど、軍人の格好で試合をしたら変に目を引くし、グリッガの言うとおりにした方がいいわ」
その奇妙なローブを手にとって見ると、内部から何か局部を覆う鎧の様な物が出てきた。
それを手に取ってみると、それは小さい生体器官が付いているらしく、妙な暖かみを持って蠢いている。
「なんだこれは?」
「あぁ、試合をするときは、それを胸や脚の付け根に付けろって話よ。 どういう仕組みかはわからないけど、とある条件を満たすとそこから電流が流れるんだって」
「・・・なんでそんな仕組みの物を付けなくちゃいけないんだ」
「その方が観客が盛り上がるからだって、オイルスモウってそういう物よ。
地域性があるけど、こんな地下賭場でやるような危ない物はこういうゲスなものだって、前にアイツから聞いたわ」
「君の同僚は変なことばかり知ってるんだな」
エレンの言葉に出た『アイツ』という言葉大体、彼女の同僚を指す言葉であり、話を聞く分には彼女並みに相当変わっている人物らしく、何故かオイルスモウについて詳しいらしい。
ここ数日の間に飲み話で何度か、『アイツ』についての話を聞いたが、若干惚気話のようなものでニエンにとっては退屈な話であった。
だが、退屈な話に限って妙に頭にこびりついていて、彼女が『アイツ』と言っただけでなんとなく誰を指しているのかすぐに判った。
「兎に角、これを付けて着て・・・相手も同じような事をしてるのか?」
「まぁこの生体器官は付けてるでしょうけど、衣装は違うらしいわ」
「どんなのだ?」
ニエンがそう黒いローブを上から被りながら、衣服に空いた穴より頭を出して前を見たときには、妙ちくりんな黒い物体が目の前に突っ立っていて、それが此方と同じように穴から頭を出すとエレンだと判った。
「そうね。 アンタが眠りこけてる間にグリッガに聞いた話だけど、私たちより遙かに露出が高いらしいそうよ」
「痴女か?」
「痴女ね。 でも、恐ろしく強い痴女よ。 なんて言ったかな、三〇戦中無敗で、『粉砕コンビ』って言われてるそうよ」
「粉砕・・・ね。 じゃぁこっちもコンビ名でも考えた方がいいのか?」
「それはグリッガが既に登録してあるわ。 『黒い二星』だって」
「随分とダサいセンスだ」
「アンタが宣ってた『黒翼隊』とかいう集まりと似たり寄ったりじゃない?」
黒い小さい塊が蠢きながら、袖から腕を足す仕草を眺めながら、ニエンは何故、エレンが自分の指揮している隊の事まで知っているのかと思ったが、これは聞かずともきっと飲んでいる際に自分で喋ったのだとすぐに推測出来た。
となると、彼女に対しどこまで軍事機密を喋ったのか計り知れない事になるが、今更そこを問い詰めてもどうしようも無いことだとニエンはエレンと同じように、黒い袖から腕を出した。
「・・・今はお前等に縋るしかないが、よろしく頼むよ」
暫くして更衣室から出された二人は、暗く長い通路をグリッガの先導の元に歩いていた。
先程にエレンに聞いた話では、このオイルスモウを興業とする賭場は地方産業塔の地下にあり、このグリッガはその産業塔に一室を構える貴族との話だった。
だが、賭けに入れ込んで道を踏み外してしまったらしい。
破滅一歩手前の奴など今まで腐るほど見てきたが、ニエンとて今の状況を他人事のように笑うことは出来ない。
「試合は一回カウントを取ってしまえばいいのか?」
「あぁ、すぐに終わる」
ニエンの問いに対し、グリッガは暗い調子で答えた。
身長はニエンと同じほどあるグリッガであるが、その背中は落胆で丸まっているのか彼女より小さく見える。
「そんな短時間で盛り上がるものなのか?」
「そりゃ、盛り上がるさ。 何せ感電死する女をそう長い時間見ていたいとは大体誰も思わないからな」
グリッガは視線を通路の先に向けたまま、此方に振り向こうともしなかった。
その背中からは何処か死刑執行人に似たような薄ら寒さすら感じられる。
「・・・おい、エレン。 やっぱり死人が出るみたいだ」
「そうね。 ちょっとの具合が違ったみたいだわ」
だが、その薄ら寒さをはね除けるようにニエンの口調は穏やかだったし、エレンの調子も飄々としているので、グリッガはふと足を止めて此方を振り向いた。
その顔には哀れみと同情の色があったが、二人の声音に驚愕の色も示し始めていた。
「お前等マトモじゃないのか? これから、地下賭場で無敗の連中に挑むんだぞ?二分持ちかどうかもわからんが、全身丸焦げになって死ぬに決まってる」
グリッガは両腕を開いて、二人を説き伏せるような仕草をして見せたが、それは大いに矛盾している物と言えた。
「別にそんなことにはならない。 『ローデンフィルド・グリッガ』中尉。 私もこの隣のチビも死ぬ訳が無い」
ニエンは悠然としながら、グリッガの顔を見据えた。
彼の顔には驚愕と狼狽がありありと浮かび、ニエンの顔を深く覗き込んでくる。
「何故、俺の名を知っているんだ?!」
その問いについて、ニエンは微笑を浮かべながらも答えずに、彼の脇を通り抜けた。
「・・・それについては、この試合が終われば判る」
ニエンはそう言い放ってから、既に道案内を不要になった通路をグリッガを置いて、真っ直ぐにエレンと歩き始めた。
脳に溜まっていた酒は抜けきったように、ニエンの意識は醒めていた。
ようやく、グリッガの事を正確に思い出したのである。
だが、一方で彼自身は此方の顔を見ても、名前を見ても思い出せないらしい。
しかし、それは無理も無い話であり、ニエンと彼が会ったのは戦場で一度だけであった。
彼は西方の一貴族の次男坊であり、常に冷や飯食いと言われるほど冷遇された中を懸命に中尉階級まで実力で上り詰めることが出来た人間だった。
空軍との共同作戦にて、ニエンがグランビアで護衛する中、自身の指揮するドゥルガ級強襲揚陸艇で敵基地への強襲を仕掛けた実績がある。
だが、その後は何によってかは知らないが、軍から追い出されたという話は風の噂で聞いていた。
原因は自身より不出来な兄との諍いだったそうだが、事実はニエンは知らない。
そして、当のグリッガは呆然としたまま立ち尽くして、二人の姿を見送ることしか出来なかった。
通路を抜けた際に二人を待っていたのは、それなりに響く歓声と床に張り巡らされたオイルの鈍い光であった。
二人が通路を出た瞬間に、背後にあった扉がゆっくりと閉じられ、二人はそのオイルスモウのリングと思わしき場所に閉め出されてしまった。
頭上では何かアナウンスの様な声が流れているが、歓声が喧しい為に此方からでは何を言っているか判らない。
二人の周囲は巨大な籠をひっくり返したように鉄柵で覆われていて、足首まで鈍い光を放つ半透明なオイルに浸かっていた。
「・・・思っていたのと、何か違うな」
異常とも言える熱気の中においても、ニエンはそうエレンへ落ち着いた調子に話しかけた。 「私もアイツの話を聞く限り、もっとファンシーな物だと思ってたわ。
トーロックって本当どこまでも考えることがゲスだわね」
それに対し、エレンは小さな肩を竦めながら、ちんちくりんな黒いローブをオイルに浸していた。
そんなやり取りをしている間に、二人の立っているリング端の対極側にある通路より、二人の選手が飛び出してきた。
彼女らが現れるなり、鉄籠の外では大歓声が巻き起こり『殺せ!』とのコールがハッキリと聞こえてくる。
「なんか、私たちより向こうの方が人気があるな」
「そりゃそうよ。 こっちは無名の新入りで、向こうは三〇戦無敗のチャンピオンよ?」
「・・・さっきはチャンピオンだなんて言わなかったぞ?」
「三〇戦もやって負け無しなら、普通はチャンピオンになるわよ」
少し驚いたような顔をしてみせるニエンを見て、エレンは溜息を吐いた。
どうやら、この女の脳にはまだ酒がどっぷり残っていると思ったからだ。
対峙した相手選手は、女ながらもニエンと同じ体躯をしていたものの、此方より遙かに筋肉質で胸も大きかった。
荒々しく伸ばしきった青い髪を垂らしながら、よく日に焼けた肌は何処か鬼のような異形さすらも感じさせる。
そして、もう片方の相方と言えば、そこまで筋肉質ではないものの身の丈がニエンよりも高く、よく引き締まった体をして、短く揃えた緑髪をしている。
二人とも確かに先程エレンが言ったとおり、露出の高い装いであり、胸と股間部を覆う皮鎧の様な物と、長手袋にブーツしか身につけていなかった。
(確かにあれでは痴女だ)
そんな格好を眺めながら、ニエンは相手とは対照的な此方の黒いローブ衣装を少々有り難く感じていた。
そして、対峙した相手の目を見つめてみる。
確かに三〇戦無敗というだけ合って、しっかりと勝利の自信から成る闘志を爛々と燃やし、その瞳の奥にはこの地下賭場の女王たる優越感からくる、無名選手に対する侮蔑もしっかりと見えた。
だが、所詮薄暗いトーロック連中に仕切られている場で掴んだ栄光など、たかがしれているとニエンは思った。
それに比べて自分は大空を舞い、腐敗した帝国を正すべく行動する翼であり、対峙している連中とは比べものにならない程の優越感が胸中にわき起こっていた。
しかしその反面、それほど大層な存在であるのに対し、こんな妙な状況に陥ってしまった大失態については一切考えていなかった。
そして、大歓声に掻き消されてしまう程ではあるが、僅かに試合開始を告げる鋭い笛の様な音がなったと感じた瞬間、『粉砕コンビ』こと相手選手が突進してきた。
何か前口上の一つでもあると思っていただけに、ニエンは少々面を喰らったものの、この鉄籠に入ってから常に体は臨戦態勢にあると意識している。
身を屈め鍛え上げられた体を突っ込ませてくる相手に対し、ニエンは悠然とした姿勢を崩さぬままに、両腕を垂らしたままであった。
一方、ニエンの脇に立っていたエレンは素早く横へ飛び退いて、オイルを派手に飛ばす。
相手選手の一方を此方へ引き受けるように見えた動きであるが、相手は最初から小柄なエレンなど眼中に無かったらしく、二人とも全力でニエンに向かってくる。
オイルスモウと言う格闘技がどうやって相手を押し倒しカウントを取るのか、ニエンは今この時になっても特に答えを見出せていなかった。
ただ、判ることはとりあえず相手を倒せば良いという一点だけであり、それほどシンプルな方式について迷うことはない。
先にニエンへ最も近付いてきた相手は大柄な方であった。
この手の体躯をした相手は男にしろ女にしろ、部隊内での格闘訓練で経験が幾らでもある。
大柄なために、動きが鈍そうであるという固定概念はまず持たない方が良い。
鍛え上げられた体躯は幾ら大きくとも、その筋力が素早く動かせる事を可能にしているからだ。
まず相手の攻撃射程に入ってしまっては体格差で勝てるわけも無い。
その為、ニエンはローブに隠された口元に、戦闘を楽しむかのような微笑を浮かべながら、大柄な相手が繰り出してきた右突きを、躱す以前にまずは射程から逃れるべく、床を大きく蹴って跳躍した。
しかし、流石に床全体にオイルが張り巡らされているために、思いの外、跳躍力を得る事が出来ず、大柄な相手を飛び越える筈だったのが、僅かに脚が相手の眼前に残ってしまう。
だが、付着したオイルによって無理に飛び越そうとすれば、滑る皮膚は大柄な相手の首へ絡みつき、まるで軟体生物の様に体ごと、大柄な相手へニエンの体は絡みついた。
これこそ、オイルスモウの醍醐味であるのか鉄籠外から響く歓声が、喧しくニエンの耳を突く。
大柄な相手の首へ巻き付いた己の脚と、咄嗟に跳躍の姿勢を崩して絡みつくような形で抱きついた相手の太股より、オイルに遮られていてもしっかりと相手の闘志の熱が伝わってくる。
この感触は部隊内の格闘訓練で散々味わった物であり、ニエンの酒で潰れきった意識を再度膨張させるかのように、ローブに隠された顔には戦闘の喜びを表す熱を帯びた。
そのまま、相手に藻掻く暇すら与えずに、脚と腕へ交差するような力を込めていけば、如何に大柄な相手とて梃子の原理よろしく、よろけずにはいられない。
況してや床はしっかりと体重を落ち着かせることが出来ない、オイルに浸かった不安定な床であり、ニエンの動き通りに大柄な相手は床へ液体を撒き散らせながら転倒してしまう。
その上に覆い被さるような姿勢を保つ。
だが、相方の一方的な状況をその相棒が見逃すわけも無く、咄嗟にニエンを引きはがそうと飛びかかってきた。
しかし、彼女の腕がニエンの体へ触れる前に、その相棒も蹌踉めく羽目になった。
つい先に横へ飛び抜いて、相手の標的から外れていたエレンがその相棒の背後より跳び蹴りを喰らわしていた。
「ぎゃっ」と小さい悲鳴を相手の相棒があげるなか、蹌踉めいたところへエレンが小さい体躯で背中から組み付いていく。
その予想外の展開を垣間見た観客達は、一瞬息を呑みながら黙り込んでしまう。
大方、賭けはニエン達ではなく、この劣勢に立たされている相手にあるのだろう。
だが、ニエンがそんなオッズを気にする必要など無く、組み伏せた相手の抵抗を完全に封じるべく、首へ絡みついて脚をギュッと締め上げに掛かった。
足首まであるオイルの深さに顔面を沈めている大柄な相手は、窒息を回避すべく、その筋肉を全力で抵抗に傾けるが、ニエンに対しての攻撃が伴わない動きでは脱する事は不可能だった。
その間にエレンは背中から羽交い締めに掛かった相手を鉄柵の際へと、体重を掛けて導いている。
彼女の腕は小柄な体躯なりに細く頼りなさそうに見えるが、殺意にも近しい闘志が相手を押さえ込むのに役立っていた。
そして、鉄柵まで近付くと、羽交い締めにしていた相手を解放するように、鉄柵へと向かって蹴り飛ばし、自身は蹴った反動で宙を舞いながらも、一回転加えてオイル床へと着地した。
どうやら、小柄な体躯をしているだけにあのような曲芸紛いな喧嘩方はお手の物のようだと、ニエンは大柄な相手の抵抗が完全に無くなるまで脚に力を込めながら、その様子を見ていた。
一方、鉄柵へ投げ飛ばされた相手は、鉄柵前へ投げ飛ばされ、床に張られたオイルによって制止も利かない為に、絶望の悲鳴を上げながら鉄柵へと全身を強打した。
途端に壮絶な悲鳴と肉体を焦がす音が鉄籠の中へ響き漂った。
どうやら、試合前に装着した生体器官が正常に作動している様だった。
そんな凄惨な光景を眺めながら、ニエンが立ち上がる頃には、足下で大の字で突っ伏している大柄な相手は既に事切れていた。
こうなるまで二分も掛かってはいなかった。
カウントを取るまでも無く、相手を再起不能にさせた二人に対し、観客は大歓声も送ることすら無く、ただお通夜の様に沈黙していた。
その様子を眺めながらも、ニエンとエレンも特にこれといった感情も抱かず、勝者のみが通ることが出来る、元来た通路への入り口へと歩を進めてさっさと立ち去っていた。
「・・・ほんと、興醒めだったわね?」
暗い通路を夥しい量のオイルとその他の液体が纏わり付いたローブを引きずりつつ、エレンが隣を歩くニエンを見上げながら言った。
「もう少し長引くと思った」
ニエンも彼女を見下げながら、ローブを引きずりつつ歩いている。
つい数分前までいた、鉄籠へ続く背後からは未だに歓声の一つすら聞こえてこない。
どうやら、興業的には不味い展開だったのだと二人が思いながら、通路を歩いていると、更衣室のドアの手前にはグリッガが立っていた。
彼は先程までの胡散臭げな表情をやめ、緊張が張り詰めたような面持ちで此方を、特にニエンを真剣に見つめては直立不動で敬礼の姿勢を持っていた。
「・・・ニエン殿、大変失礼致しました」
彼はそう厳かに言うと、瞳に涙を浮かべながら床に崩れ落ちた。
「トーロックの奴等から手荷物を返すように指示され、その際に軍隊手帳が混ざっておりまして確認しましたが・・・、奴等も大変困惑しております」
「・・・だろう、な」
グリッガはそう床へ崩れ落ちた姿勢のまま、ニエンに対し、謝罪と感謝の意を全力で示してきた。
「・・・何さ? アンタの知り合いだったの?」
この異様なやり取りを傍から眺めていたエレンが、二人の間に割って入って問いかけてきた。
ニエンにとってはここ数日、誰にも自身の階級について話しても信用して貰えなかった。
今、目の前で興味津々に小柄な体を揺らして聞いてくるエレンは、その典型であったし、飲み屋で喚こうが、一度憲兵に捕まって拘留もされたが、その際は軍隊手帳を所持していることすら信じて貰えなかったのだ。
「まぁ、そんな所だ」
ニエンはエレンに対して、素っ気ない返事をして、どうせこの場に及んでも、彼女は此方の階級について頑なに信用しないであろうことは目に見えていた。
その為、泣き喚きながら感謝しているグリッガを押しのけて、更衣室へ入る頃には記憶を無くすまでに大酒することは絶対に控えるべきであると、強く自分を戒めていた。