『夢中の回想2』

 操舵手ヘボンの受難#32  『夢中の回想2』

 

 少女はヘボンを静かに見つめていた。
   周囲の風景は徐々に暗くなっていくというのに、その瞳だけは爛々と輝いては彼を捉えて離さなかった。
   ヘボンは押し黙ったまま、少女と視線を合わせたまま動けないでいた。
   その目にまるで吸い込まれるかのような錯覚を覚えた。
   そこからまるで世界が再び歪んで、文字通り何かに吸引されていくかのように風景が変化していく。
   まるで、混ざり合った絵の具が一度グチャグチャに塗りつぶされた後に、それが何かを形取り始めたかのような具合だった。

 

 次に見えた風景は、今に見た草原のような開放的な景色とは打って変わって、室内になっている。
   壁には帝国様式の装飾品である、生物の皮に刺繍が施された垂れ幕が掛けられ、室内の中央には丸いテーブルと、その上に小さい板状の骨を樽のような要領で作られた水差しがあった。
   室内には三人の人物がおり、その内の一人が先程の少女を少し大きくした姿をしていて、先程と同じように朱色の衣服を纏っていたが、その衣服には様々な宝飾が施され、肩から腰にまで掛けた帯には様々な光を放つ光石が縫い付けられ、腰に締められたベルト代わりの紐には、今までヘボンが見たことの無いような鮮やかな細紐を幾重にも織り込んだような装飾があった。
  まるで、その少女が室内を照らす照明の様にも見えたが、室内を照らしているのは天井からぶら下がる生体照明具であり、丸いランプを重々しく吊している、目玉のあるソケットが室内の様子を監視している。
  そんな生体照明具と少女に照らされているのは二人の男で、一人は年老いた気配を感じさせる者と、もう片方は照明の反射なのか、それとも元からなのか顔に強い影がある、背筋のしっかりと伸びた若者であった。
  その二人を少女は見上げるようにして突っ立っていて、ヘボンはその少女の背中を見るようにしてまるで保護者の様な立ち位置に立っていた。
  だが、突然の風景の変化にしろ、登場人物が変わろうと誰もヘボンに対して何か言うわけでも、視線を向けてくるわけでもなく、彼は相変わらず夢の外部者という事の様だった。

 「・・・父上、正気なのですか? この様な馬賊の娘を養女にするなどと・・・」

 若者が父上と呼んだ年老いた男の方へ、恐らく養女と言われている本人を前にして、明らかに侮蔑と狼狽を声に含ませながら聞いた。

 「この場でその様な事を言う奴がいるか、ツェリリゲ。お前の妹になる娘の前だぞ」

 父上はそう『ツェリリゲ』と呼んだ若者を、窘める様に言ったが、彼は言葉を改めようとはしなかった。

 「どうせ、コイツには帝国語がわかりやしません。父上はあの卑しい奴等との約束と言っていますが、それがどうだというのです? 卑しい盗人の人殺し共と守る約束などありませんよ」

 彼はそう父上を説得するように言葉は厳しいが、声音は何処までも丁寧に迫ったが、父上は全く相手にする気が無かった。
   その様なやり取りを前にしても、少女はただただ黙りこくって、喋っている二人の顔を左右に見るだけで、まるで首だけが動く人形の様にも見えた。
   ヘボンは一体この自分に見せられている光景が何を意味するのか、考えようとしたが、どうせ自分にどうこう出来る次元の物では無いのだろうと思い。
   ずっと立って見ているのも疲れるので、素知らぬそぶりで室内の登場人物内に紛れ込むかのように、部屋中央の椅子に腰掛けた。
   椅子の座り心地はよろしく、毛皮を用いているのか臀部に柔らかい感触が伝わる。
   どうやら、物が良いらしく、体の軽いヘボンとはいえ、幾ら負荷を掛けても軋まない。
   部屋の装飾と言い、この椅子と言い、二人の男は帝国貴族なのであるとヘボンは察した。
   となれば、この例の中佐に酷似している少女は、この貴族の養女だったのかとふと考えた。 だが、この様な幻の様な光景が見えるからと言って、それが事実であるかどうかなどかは見当も付かない。
   元より、深く事を考えるクチではないヘボンは、何か重大な事が目の前で起きていることよりも、男二人が囲んでいる丸テーブルの上に置かれた、水差しの横にあった紙巻き煙草が気になった。
   何かこの貴族の紋章が塗られた様な小さな箱に納められ、蓋がずれているところから、両切り煙草が覗いている。
   それを見てヘボンは、親子と思わしい男二人の会話が長くなると読んで、静かに煙草入れへ手を伸ばした。
   こんな夢の中で煙草が吸えるかどうかは知らないが、興味も無い話をただただ聞いているだけの我慢強さは軍務を除いてはヘボンにはさして無かった。
   だが、不思議なことに手を伸ばして煙草入れから、両切り煙草を一本指で挟んだところで、元より夢なのだから物質を掴めない等という事態は予期していたのだが、それとは別に親子喧嘩じみたように口論しているツェリリゲの方が、ヘボンの方へ一切目を向けず、意識も向けていないような素振りなのだが、徐に摘まんだ指先から煙草を取り上げて、箱に戻した。
   一瞬、ヘボンはこの現実的な妨害にたじろいだが、今のは何かの間違いでは無いかと、別角度から手を伸ばして煙草を摘まもうとしたが、今度は父上の方が、依然としてヘボン等いないように扱っているのにも関わらず、確実にヘボンの指から煙草を取り上げて、箱へ戻した。
   これはこれで異常な事態にヘボンは阿呆の様に口を開けて、先程から少女がしているように二人の顔を左右に見たが、依然としてヘボンは存在していないかのような素振りである。 

   (なんて、ケチな夢なのだろう)
   
   ヘボンはそう内心毒突きながら、腕を引っ込めながら、親子喧嘩の様子を眺めた。

 「お前がなんと言おうと、私は彼と約束をしたのだ。だから、それを果たす義務がある」

 父上の方はそう頑なに、何があろうと考えを曲げるつもりは無いとツェリリゲに示していた。だが、この親子は随分と遺伝が強いのか、ツェリリゲの方も全く譲るといった事がないらしい。

 「それは筋の通ったご立派な事だとは思いますが、父上。しかし、この娘は馬賊で盗人だ。現に今にも煙草を盗もうとしたではないですか」

 親子喧嘩はまだ続いていたが、ツェリリゲはそう言って、少女を指差した。
   今まで人形の様に黙りこくっていた彼女も、これには少々たじろいだように見えた。
   どうやら、ヘボンが煙草を取ろうとした行為自体は、この光景の中にあったらしい。
   しかし、それはこの親子にとってヘボンではなく、少女が腕を伸ばして盗ろうとしたという結論になっているのだ。
   そんな扱いになっているとは判らなかったヘボンは、申し訳なさそうに少女を見た。
   少女は何故か、ヘボンの存在を認識しているのかいないのかわからないが、此方をチラリとだけ見た。
   そこには何処か達観した色があって、幼い少女には見えない色がある。

 「確かにそれは認める。だが、それだけ抜け目ないと言えるぞ。しかも、冷静だ。ツェリリゲよ、何故ならこの娘は帝国語が判る」

 父上の方が微笑を浮かべながら、そう告げるとツェリリゲの表情が途端に青醒めた。
   それを見た途端に、今まで黙りこくっていた少女がまるで魔物を見たような顔で戦いているツェリリゲに対し

 「・・・よろしくね。兄上様」

 そう丁寧な透き通るような声で帝国語を喋ったのだ。
   これに対して、ツェリリゲは狼狽を露わにしたが、そこは帝国貴族と言った具合なのか言い訳も取り繕いもせずに、即座に彼女へ対し謝罪をした。
   その様子をヘボンは眺めながら、どさくさに紛れてもう一度、煙草を盗ろうとしたが、やはり父上に無言で阻止された。
   頑なにヘボンは煙草一本程度は取っておきたいと、指に力を込めたが、父上の握力は中々の強さを誇り、結局ヘボンが煙草を取る前に、また景色が歪み始めていた。
   壁の装飾が崩れ、親子の形が崩れる泥人形の様に歪んでいく。
   そのグロテスクな具合にヘボンは動揺したが、幾ら風景が歪んでもヘボンと少女だけは崩れる事は無く、また暗転が訪れた。

 

 次にヘボンの視界が明るくなった時に、真っ先に目に映ったのは何処までも晴れ渡った青空であった。
   今度はなんであろうかと、ヘボンは怪異に対する恐怖よりも好奇心が打ち勝っているかのように、周囲を見回すようにして横たわっていた体を起こして立ち上がった。
   顔に何処からか流れる風を感じ、鼻腔には穏やかに何処か覚えのある臭いがした。
   それが帝都の産業塔で嗅いだ臭いと思い出す前に、眼前にはその帝都そのものが広がっていた。
   自身が今立っている場は、帝都の風景がよく見渡せる高い産業塔の天辺らしく。
   周囲にも幾つかの帝都独特の産業塔が並び、様々な塔からは枝木に付いた葉の様に帝国の繁栄を示す多くの旗が翻っている。
   大量の生体飛行艇が、樹林を縫って飛ぶ鳥のように行き来し、その樹林の連なる枝を思わせる産業塔を繋ぐ端々に蠢く人々が点の様に見えた。
  今見ている光景が現在か過去なのかは知らないが、兎に角その景色から視点を変えて後ろを振り向くと、ヘボンの背後では間合いを取る二人の人物と、更にその二人の後ろにもう一人、ヘボンと同じような要領で観察するように立っている人物が見える。
  その間合いをとる二人の人物の内の一人は、先程から一緒に居る少女である。
  さっき見た際よりも背丈が伸び、髪も首辺りまで伸ばしながら、手には何かの訓練用と思わしい棒が握られていた。
  その間合いを取る二人の後ろで観察している者もヘボンには見覚えがある。
  やはり、先程より幾らか身の丈を伸ばし、顔に更に影を強くしているツェリリゲだった。
  二人はあの光景の後から親密になっているのか、ツェリリゲの視線は少女に当てられているが、その瞳には兄弟愛を絵に描いたような暖かみと見守っているような色が見てとれる。 これはどうやら、あの光景からの数年後なのだろうとヘボンが考えたところで、今度は知っている二人とは違い見覚えのない、少女が間合いを取っている相手の方へ視線を向けた。
  それは中年男性と思わしい風体をしていて、きっと棒を用いた訓練なのだろうと思わせるにちょうど良い構えをしていたが、ヘボンにはその構えを見たことがあった。
   中年男性は大きく棒を振りかぶっている。
   しっかりと、攻めてきた相手に対し応じようとする仕草であるが、ここまで来ると、あの中年男性が誰であるのか、ヘボンには察しが付いてしまい、思わず口から言葉が出そうになったが

 「アウフレヒト卿! 今度こそ、取らせて頂くっ!!」

 と、出し抜けに少女の方が先に叫んだので、ヘボンは間の悪さに口を噤んだ。
   そのまま少女は威勢を上げて棒を構えて、卿へ向かって突進する。
   元より風当たりの強い産業塔のせいか、少女の髪は一層に靡き、晴れ渡った青空を金糸が彩るように舞い上がった。
   一瞬、ヘボンはその少女の可憐さに見とれるような気がしないでもなかったが、ふと、少女の着ている朱色の衣服が気になった。
   少女に着せるような代物で、貴族らしく袖口や首襟に刺繍が施されているが、それは嫌みったらしいまでな派手さはなく、幾らか謙虚に纏まっているように見える。
   だが、その衣服を着ている少女の背中に何か妙な膨らみがあるのを、ヘボンは見て取った。 服の下に背負い物ではおかしいし、膨らみは掌ほどの大きさをして角張っていた。
   そして、その角張った膨らみが『L』字をしているとヘボンは思ったとき、何か不穏な気配を僅かに感じとっていた。
   それに加え、不穏な物を感じさせるのは、訓練用の棒を用いて、只管に卿へ打ち込んでいく少女の姿であった。
   ただ、少年少女の遊びの様な生半可な動きではない。
   少女の身動きはその年齢には相応しくないほどに、卓越した何かがあることをヘボンは薄らと感じていた。
   例えるとすれば、白兵訓練の際の熱気に似る何かがある。

 だが、この卿と少女の打ち合い自体が何かの訓練であるとは思うのだが、それがただの訓練と思わせない気配を少女は薄らと醸し出していた。

 言うなれば『殺気』を感じるのだ。
   訓練の際でも実戦のつもりで取り組む訳ではあるが、その際に出る覇気とは毛色が違っている。
   あからさまに出る殺気ではなく、ごくごく下手くそであるが、殺気を極力押し殺そうとしながらも出てしまうソレに似ている。
   ヘボン自身は、殺気を持って事を行うことは少ないが、自分自身に殺気を当てられることは多々にあり、ここ数日でその色は更に顕著になったといえる。
   アーキルのトゥラーヤ級にてコアテラの翼にへばりついている際に、ヘボンを踏み墜とそうとした青年兵士の顔はこの場に及んでも、脳裏にこびり付いているし、頭に銃口を突きつけてきた、あの人外と成り果てた少佐の事すら忘れられるわけもない。
  しかし、それよりも記憶に焼き付く殺気と言う物は、コアテラにて巫山戯た曲芸飛行紛いの空戦を行った際に当てられる物である。
  機体を通し、伝わる殺気と言う物は名状し難いまでに静かで恐ろしい。
  声を大にして、感情を昂ぶらせてヘボンへ憎悪をぶつけてくる訳ではないが、巨大な鉄鳥や空飛ぶ肉塊に乗り込んで襲い来る者達が放つ殺気は、静かではあるがそれ故に恐ろしい。
  目に見えない気配は、自身の想像力と培ってきた経験が、それを何倍にも増幅させる形で己に伝えてくるからだ。
  ヘボンはここ数日で主にその手の殺気について敏感になっていた。
  その為に、少女の放つ尋常で無く、押し殺した殺気について知ることが出来たのだ。
  大凡、この場において、少女の殺気について感じとっている者は少ないだろう。
  それなりの近さで眺めているツェリリゲとて、少女の殺気には気付かずに穏やかに見守ったままでいる。
  しかし、その少女と対峙している卿が、その当てられる殺気に気付かないわけが無かった。 
  彼は悠然と構えながら、少女の打ち込みを身を引いて躱し、時に手にしていた訓練用の棒で器用に受けていたが、それを繰り返す瞳には真剣さが滲んでいる。
  勿論、これも訓練に勤しむ類いの物では無い。
  少女のように殺気こそ露わにしないが、その気配をしっかりと感じとっているのか、防御の動きは堅い。
  その動きを注視していたヘボンだったが、今度は少女の動きに目を見張った。
  ある程度の打ち込みが全て卿に躱されると、一旦後ろに引き下がり、身を屈めている。
  その際に背中の例の膨らみに手を伸ばしているのを見て、いよいよヘボンは不穏な物を顕著に感じ始めた。
  少女が背中に何か隠し持っている事は確かだった。
  だが、その物で一体何をしようと言うのかは、幾らか見当が付いた。

 (動くぞ)

 そう少女が屈んだままの姿勢で背中へ手を伸ばした際に、ヘボンの視線は少女の背中へ注がれた。

 「貴方っ!」

 その時、出し抜けに緊迫した空気を破く様に、明るく張りのある声が響いた。
  ヘボンも一瞬、声に驚いたように顔を上げて、声のした方を見たが、それはこの場に居る者皆同じだった。
  声の主は、此方から幾らか離れた産業塔の天辺へ上がるための螺旋階段口の入り口に佇んで、此方を見ていた。
  年の頃は二〇後半頃と見える女性で、彼女の風に靡く鮮やかな金髪はあまりにも少女に似ている。
  帝国貴族らしい装飾の施された婦人服の様な物を着込んでおり、その細い腕には朱色の布に包まれた赤ん坊を抱いている。
  どうやら、卿の事を呼んでいるらしいが、となると、彼女は卿の妻君らしい。
  彼女の登場に、卿も少女も出し抜けに構えを解いた。
  そして、一旦、訓練を止めるようにと卿が少女へ合図し、彼は妻君へと歩み寄っていく。
  それとは反対に、ツェリリゲが少女へ歩み寄ってきて、今の訓練について動きが良かった等と褒めちぎっている様が見えた。
  その一連の緩急の激しい様を見ていたヘボンは、少女と突然に現れた卿の妻君とに目が行っていた。
  少女は兄に幾ら訓練の出来を褒められようとも、ニコリともしなかったし、寧ろ大きな失態をしたかのような落胆の表情を浮かべ、しかも、それは卿の妻君へと視線が流れると悲痛な物に変わっていた。
  一方、当てられる視線に気付かずに、卿と微笑ましく何か話している妻君は如何にも明るく幸せそうであった。
  あまりに幸福そうな様子から、その妻君がさっきの夢の光景で悲痛な表情で遠離っていたあの小柄な女性に酷似している事を、ヘボンは見逃すところだった。

 

 (これは中佐の過去を見せられているのか?)

 そうヘボンはぼんやりと脳裏に仮説を立てた。
   つまり、あの最初に見たラーヂと決闘をする若かりし頃の卿と、連れ去られたあの小柄な女性、そして、置いて行かれた少女の出来事が、順番に見せられていると言うことなのか。
  だが、そうなると、中佐の出自はラッシジアと言うことになってしまう。
  その点については違和感を感じないわけでも無いが、この夢が万が一真実であるとするならば、それを信じる他ない。
  なんだか、頭が酷く混乱してくる。
  そもそも、どうして、自分はこんな夢を見なければならないのか。
  この夢の前に、ベルン軍曹の言っていた事は何を意味しているのか。

 (確か、邪龍の経緯を・・・)

  そう頭に一つの疑問が新たに浮かんだ瞬間。
  ヘボンは己に注がれる視線を感じた。
  自分は今まで、この空間において、ただ見ているだけの空気に過ぎなかったと思っていただけに、改めて自身に当てられるそれは強烈なものがある。
  一体、誰の視線と思って周囲を見回した途端に、察しが付いた。
   幾らか距離が離れているとはいえ、向こうに見える卿も妻君も何かを話しているようで、此方など目もくれない。
  そして、目の前の兄妹も向こうの夫婦ほどでは無いが、お互いに顔を見て何かを話している。
  だが、その中において、ヘボンをしっかりと見据えている者が居た。
  それは大凡、まだ自我や知性が整っているようには思えなかったが、驚異的なまでに遠くからしっかりとヘボンを見据えていた。
  それは、卿の妻君に抱かれる赤ん坊であった。
  朱色の布に包まれ、遠目に見たところはただの赤ん坊に過ぎないが、その目つきは何処か少女に似たような達観した色すらある。
  その両眼が幾らか距離を置いていても、まるで近くから覗き込んでいるかのように、ヘボンを見ている。
  冷め切った氷の様に冷たく光る蒼い左目と、光石の様に輝く黄色い右目が印象的だった。
  これと似たような目付きを何処かで当てられた記憶があると、ヘボンは思った。
  だが、それまでだった。
  その赤ん坊と目が合わさった瞬間にヘボンは身動きが取れなくなり、視線が赤ん坊の顔から離せなくなっていた。
  固定された視線の先に、赤ん坊の唇が動くのが見えた。
  呻いたり、泣き叫んだりするような動きではない。
  しっかりと意思を持って言葉を紡ごうとする動きだ。

 「やっと、捉えた」

 そんな声がヘボンの耳元で聞こえた。

 

 声がした途端に再び、景色が崩れ始めた。
   今度は派手な色をした絵の具がぶちまけられるような、劇的な場面転換と言えた。
   ヘボンの視界が真っ赤に染まっていく。
   目の前からペンキを浴びたように、光景の全てがどす黒い赤色に染められていく。
   まるで、赤い海の中に飛び込んでいるかのような錯覚をヘボンは覚えたが、体が今度は浮遊感を覚え始めた辺りで、これは錯覚では無く。
   実際に赤い色をした液体の中に体が突っ込んでいるのだと実感した。
   溺れているかのように、ヘボンは腕や脚を無理矢理に動かそうとした。
   しかし、液体の中へ沈んでいる感覚はあるのだが、体は動かせない。
   視界は依然としてどす黒い赤であり、一寸先も鮮明に見えない。
   頭は混乱したままで、状況の劇的な変化に理解が全く追いつかない。
   夢というのに手から肌から感じる液体の感触は鮮明であり、まるで皮膚の外から液体が染みついてくるような感覚を覚える。
   これと似た感覚は以前にも、ラーヴァナ級に乗り込んでいた際に、生体器官の調整液槽の中に不手際で飛び落ちた際に似ていた。
   だが、体がどんどん沈んでゆくにつれ、視界の下からより色の濃い灯りの様な物が見え始めた。

 そして、その灯りの様な物は一層強く閃光を発すると、それが弾けた。

 一瞬にして視界が広くなり、おまけにヘボンの体は流されるようにその弾けた方へ押し流されていった。

最終更新:2017年12月12日 17:59