操舵手ヘボンの受難#33 『夢中の再会』
押し流されていった先にヘボンの眼前に広がる光景は、娑婆の物とは思えない物だった。
どす黒い赤に覆われた広間を形成する壁は、全て贓物の内壁の様に蠢き血管が色めき立ち、ここ数日に悩まされる悪夢で何度も見た、文字通り肉壁たる光景がそこにある。
壁にはそこら中に目玉が浮き出ており、周囲の様子を伺っているように蠢いているのは悪夢と同様であるが、今回はそのグロテスクな装飾に加え、目玉の間に人間の上半身が幾人も浮かび出ている。
彼等は力無く項垂れて沈黙しており、生きているのか死んでいるのかもわからない。
一瞬にして気が遠くなるような光景に、ヘボンは強烈な恐怖を感じたが、それでも意識を手放せるような逃避は許されていなかった。
ふと、視線を下にやれば、自身も同じように肉壁を形成する一部と化していたからだ。
上半身だけが壁から浮き出て、下半身の感覚が無く、腕は力無く垂れ下がったままに、肩から上の自由だけが利く。
自分自身すら悪夢の一部になってしまったことに、ヘボンは絶叫しそうになったが、その前に広間の中央部に目がいった。
それはこの悪夢たる惨状の主というべき物で、血管の浮き出ている肉の床から生えるようにして骨と肉で形成された台座の上に鎮座するように眠る『少女』であった。
12・3歳程に見える彼女は、小柄な体躯に併せて作られた様な、どす黒いまでの色に染められた帝国空軍の将校服を着込んでいる。
まるで着せ替え人形の様な、何処か歪な雰囲気を感じさせるが、更にその歪さを感じさせるのが少女の肌に大凡、生気が感じられぬほどに白い事であった。
そして、生気の感じられぬ白い肌とは対照的に、制帽の端からあふれ出る長い金髪はこの悪夢の中でも鮮明に輝きを放っている。
ここが一体何処で、彼女は何者であるのか、ヘボンは様々な恐怖に晒される中においても、今まで見聞した情報を繋ぎ合わせ、正常な思考が出来るような状況ではなかったが、推測や妄想のような類いまでが彼の口を刺激したかのように
「…『ディートリント・フォン・ネッゲン・アウフレヒト』」
そうヘボンは呟くように、その少女の名を口にした。
すると、死んだように眠っていた少女の体がが僅かに動き、ヘボンの声に呼応するかのように首を擡げ、ゆっくりと瞼を開け此方を見た。
その表情にも生気の様な物は感じられないが、その表情には不気味なまでに整った狂気が宿っていた。
「…やっと、逢えたね」
少女はそう小さく口を開いて言ったが、その言葉は幾らか距離が離れていても、ヘボンの耳元で囁いているかのようにしっかりとした調子で聞き取れた。
「ずっと、探していたの。ずっと…」
少女は台座にて気怠げに座ったままに、視線だけをヘボンにしっかりと向けている。
その視線からヘボンは逃れたい一心で、体を動かそうとしたが、肉壁に埋め込まれた体は依然として動きそうにない。
「お母様の遠い親戚と、一緒だったみたいだけれど…私からは逃れられないの」
少女は気怠げなままに言葉を紡いでいるが、ヘボンは生きた心地がしなかった。
全てが現実で無いような状況であるのに、少女の言葉は今までの朧気だった感触を微塵も感じさせぬまでに明瞭なものだった。
その明瞭さがこの夢が現実であることを、細かい説明も無しに、ヘボンの体と脳に教え込んでいる。
「…夢の中にて、過去を見聞するなんて、覗き魔と大して変わらない、でしょ?」
少女はヘボンを詰問しようかという様な調子でそう言った。
彼女の言葉に対し、ヘボンは何も口に出来ない。
「私もお母様の遠い親戚と、同じ事が出来るの…。でも、それだけじゃない。こうして、私の中に貴方を引き留める事も出来る…」
現実離れした自体にヘボンは酷く混乱しているが、その混乱している頭の中に直接彼女の声が響き、これがどういった状況であるのか、まどろっこしい理性的且つ現実的な考えを押し流すようにして、彼女の言葉のみがヘボンの脳に侵入していく。
それに抗う事はヘボンには不可能だった。
まるで溺れている際に何かに掴むかのように、その少女の言葉に縋るほか、今は出来そうになかった。
「色々な人に、私の事を聞いたのでしょ? ここが、なんて呼ばれているかも、貴方は知っているのでしょ?」
少女は冷たい表情のままにそう言いながら、小さな腕を薙ぐ様に動かせてみせる。
すると、その動きに合わせるかのように広間の横壁が蠢き、何者かがそこからゆっくりと現れた。
その者はヘボンの方へゆっくりと歩み寄り、上半身のみのヘボンの前に立ちふさがった。
ヘボンは自身の人生において、激しい憎悪を向けてくる存在が二人以上いることを知っているが、その内の二人が今、目の前に出揃ってしまったことに辟易した。
「この様な場で、出会うとは思わなかったな。ワトキンス」
その者はヘボンを見下ろすようにして、彼の前に立ちはだかった。
それは、少女と同じようにどす黒い軍服に身を包んだ、『レマ・ニエン少佐』その人であった。
あの耳目省管轄の産業塔において、ヘボンに向けたモノと全く同じ調子に、ニエン少佐は彼へ対し激しい憎悪を顔に浮かべていた。
そして、そのまま腰に差している軍刀をゆっくりと抜き放つと、ヘボンの眼前でその鋭利な刃をじっくりと見せつけるように振って見せてから、緩慢な動きでヘボンの腹部へと突き刺してきた。
刹那的に夢の中とは思えぬほどの、激しい痛みを感じた。
まるで刀身が燃えているのではないかと錯覚するまでの痛みと共に、刃はじっくりと腹部へと押し込まれていく。
ヘボンは押し殺した呻きと共に意識が離れそうになったが、そうはさせまいとばかりに、脳には少女の囁きが響いてくる。
「貴方が父上を刺した箇所は、ここだよね?」
その問いかけに対し、ヘボンは答えることも出来ないままに痛みに呻くことしか出来なかった。
まだ、絶叫できるような事が出来れば幾らかマシであると思えるほどに、声が出せぬほどの激痛だ。
「・・・我が部下の無念を、思い知るがいい」
今度は刃をヘボンへ突き立てている少佐が、ヘボンへ密着するようにして耳元で恨みがましく喋っているが、そんな事など気にしている余裕は彼になく、刃を奥へ押し入れられる度に、視界がチカチカとする。
「それとも、もう少し上だったかしら?」
少佐の声よりも、何処か楽しげにすら聞こえてくる少女の声の方が、ヘボンの耳にはこびり付いた。
まるで、裁縫をしているかのように、気軽にヘボンの体を突き刺してくる。
それに力が込められているのを感じると、反射的に首が上を向いた。
その際に目に飛び込んでくる光景は、肉壁から浮き出ている目玉と人間の上半身達であり、彼等もヘボンと同じように捕らわれた者達であるのかと、ヘボンは朧気に激烈な痛みから逃れるようにそう思い始めた。
先程まで意識もしたくなかった彼等達の装いは、十人十色とばかりに幅広い。
帝国空軍の制服に身を包んだ者もいれば、何か胸元に識別印を記した衣服を着込んだ者もいる。
彼等が一体何者であるのか、ヘボンは判らなかったが、少女の犠牲者達であるのかと思われた。
「肉体を殺さなくても、意識が死ねば、貴方は死ぬ」
そんな合間にも、ヘボンの脳内には少女の譫言じみた囁きが響き渡っていた。
それは延々と繰り返され、それと同時に腹部から伝わる激痛に、ヘボンは気が狂いそうになっていた。
最早、意識を理性を正確に押し止めることは出来ないと感じた。
脳の全ての歯車が欠け、崩れ落ちて、己の肉体はおろか、精神もことごとく跡形もなく崩れ去るような恐怖を覚えた。
この空間は恐ろしいまでの執念深い憎悪にて、制御されているのだと感じた。
激しい憎悪こそが全てにおいて力を握り、ヘボンの様なか細い存在を意図も容易く弄び握りつぶすことが出来るほどの物であると、彼は悟った。
しかし、そう悟っても安易に絶望する事すら、この空間は許さない。
終わりのない激痛を伴う拷問は、永遠に繰り返される。
だが、ヘボンは果てしない激痛の果てに、目の前に浮かぶ朧気な物を見出していた。
依然として眼前には憎悪を剥き出しにして、己を刺し貫く少佐の顔と、その向こうに台座に鎮座する少女の姿が映っている。
しかし、それ等とは別に、何か得体の知れない朧気な影が浮かんでいた。
この光景自体全てが得体が知れなかったが、その中でも群を抜いて、その影は苦しみ続けるヘボンを見守るように、ごくごく彼の近くで朧気に浮かんでいた。
この影の存在について、少佐も少女も気付いていないらしかった。
幻覚の中で更なる幻覚を見るとは奇妙であると、ヘボンは激しい苦痛を味わっている中で、その影を注視した。
影はヘボンの視線に気付くと、まるで意識があるかのようにゆっくりと近寄って、彼へ寄り添った。
途端に、周囲から押し寄せる憎悪も、腹部にねじ込まれる刃の苦悶も感じなくなった。
この怪異の中においての怪異に、ヘボンは訳もわからずに途方に暮れたような顔をした。
彼に寄り添う影は、上半身に纏わり付いた。
そして、影は耳元にまで這い上がり、依然として脳内に響く少女の譫言を消し去るように、凜とした声がヘボンの耳元で、極々近くで囁かれた。
「どうか耐えてくれ、ヘボン君。時期の辛抱だ。奴等に君は殺せないし、私が殺させやしない。・・・夢の中で死んでしまう者など、君は聞いたことないだろう?」
極々、低い男性特有の様な声音に聞こえるが、何処か女性じみた不思議な調子もある。
その声の主が誰であるのかヘボンはすぐに判った。
それは、彼が最もむ憎むべき存在であり、または最も縋るべき存在である者だ。
徐々にその声に掻き消されるように、少女の声が脳裏から遠退いていく。
そして、不敵な囁きは尚も続く。
「君が最初に私の記憶へ、流れていってしまったのは幸運だった。さもなければ真っ先に、小娘に取り憑かれてしまっただろうね」
声はヘボンを嘲笑うかの様な調子もありながら、彼を慰めるような暖かい色もあった。
「全ては夢なんだよ。 奴は決して、君を完全に取り込んだ訳じゃないし、そもそも、ここは真に奴の中じゃない。 勝手に君の意識へ入ってきて、幻覚を見せているだけに過ぎないし・・・、君に刃を突き立てている女も、幻覚に過ぎない」
苦痛から解放されたヘボンへ囁かれる言葉を聞く内に、視界に広がる光景が僅かに崩れ始めた。
それと同時に、ヘボンの眼前にいる少佐の姿すら朧になってきている。
少女は少佐の後ろで依然として姿を保っているが、何故かその表情には苦悶の色が窺えた。
「祈祷師達も危険な賭に出たものだね。 敢えて君を撒き餌にして奴をおびき寄せ、君の意識を媒体として、奴の意識へと潜り込もうという魂胆なんだ」
影の声は面白がるように言ってのけると、その影が急に分裂した。
分裂した影は4つほどに分かれ、ヘボンの周囲を取り囲んだ。
彼に纏わり付いている影はそのままであったが、4つの影は少女の方へゆっくりと近寄ろうとしている。
その影の動きにヘボンが目を見張ると、眼前にいた少佐も、彼女が握る刃すらも幻の様に消え失せていた。
「奴もそこまで甘くはないだろうが、君の役目は終わった・・・場所を移そうじゃないか」
影はそう今までに無いほどの優しい声音で囁くと、ヘボンの肩へ纏わり付いた。
既に影の大きさはヘボンと同じような大きさとなっていて、朧気に人の形を取っていた。
そして、やんわりと肩を掴まれる感覚をヘボンは覚え、今まで全く感じられなかった下半身の感触を感じるようになった。
影はヘボンに場所を移そうと言ったが、それは今までのような歪な場面転換ではなく、随分と物理的に彼の体を朧気になった肉壁から引きずり出していた。
まるで沼から引きずり出されるように、ヘボンの下半身が肉壁から現れ、彼はそれを呆然と見ている間に、影に肩を抱かれるようにして、その肉壁の広場であった中から連れ出されていた。
先程まで肉壁の広間は密室のように思えていたが、影は意図も容易く前に立ちふさがる肉壁を、ヘボンを引きずりながらすり抜けていく。
「君には随分と『嘘』をつき続けていたが、いい加減に本当の事を話すべきなんだろうね」
影はそう言いながら、ヘボンの肩に手を回しながら、肉壁の向こう側にあった暗闇を歩き始めた。
ヘボンの意識は度重なる急な場面の移り変わりによって、強い混乱を示していたが、それを柔らかく受け止めるように影の声が囁きかける。
「まず何から話すべきか・・・。 私も少し心の整理が出来ていないんだ」
「自分も何か何だかわからないであります。・・・『中佐殿』」
少し自信の無い声に、ヘボンは同調するような言葉を発した。
すると、影はヘボンの言った言葉に対して、何故か含み笑いを示した。
「こんな場において、堅苦しい事を言うでないよ。ヘボン君。『ツェツェーリエ』で良い」
「そういう訳には・・・」
陽気に言う影に対して、ヘボンは困ったような表情を示したが、それが余計に影の気をよくしたのか、気付けば朧気な影は徐々に、彼の記憶によくある『彼女』の姿をしていた。
朱色の軍服に身を包んで、頭にはしっかりと被った軍帽が乗り、あの輝くまでの長い金髪が暗闇を僅かに照らしているような錯覚を感じさせる。そして、何よりも彼女の左右に色の違う眼を見て、不思議な安心感を覚える。
「まぁいいさ。君がどう呼ぶかは自由だ。・・・まずは君の質問から答えよう」
ラーバ中佐は一旦、ヘボンの肩に回していた手を離すと、暗闇の中に腰掛けた。
「質問と言っても、山のようにあるであります」
「構わない、今の君は安全だ。ゆっくりと話し給え」
一瞬、ヘボンは言葉に窮して目を閉じて、彼女の落ち着いた声音を聞いて目を見開くと、そこには暗闇から周囲の景色が変わっていた。
それは、先程に幼い時分と思われるラーバ中佐が、養父と兄とで会話をしていた一室であった。
彼女は室内にある椅子に腰掛けては、テーブルの上にあった煙草を取って、口に咥えているところであった。
この空間に居ることにいい加減に、感覚が慣れていたヘボンはただ彼女を見ながら、言われたとおり質問を考えていた。
「まず・・・、中佐殿は一体何者なのでありますか?」
「何者だかって?面白くない質問をするものだね。出自が馬賊の成り上がり者な将校に過ぎないよ」
「将校殿は、他人様の夢にまで乗り込んで来ないであります」
「私は他の者とは幾らか違うのさ」
彼女は此方の質問に答えるとはいったが、それは何処か気のない物だった。
だが、今更疑問を幾ら覚えようと、現状が現状では受け入れざる負えないような諦めにも似た達観をヘボンは感じながら、彼女の腰掛けている椅子の対にあった椅子に腰掛けた。
落ち着いて椅子に腰を降ろすと、妙に頭が落ち着いてきて、今までに感じていた疑問が止めどなく溢れ出てきた。
それを整理して口にすることには難航したが
「・・・ミュラー曹長に先日聞きましたが、中佐殿は彼等に対してや私に対して恩赦を与えるつもりなど無いと聞きましたが・・・」
「そうではないぞ、ヘボン君。当初の計画はその予定だった。だが、途中で帝国貴族達がそれを反故にしたんだ。私の責任ではない」
「耳目省の者からも話を聞きましたが・・・中佐は耳目省と繋がっているのでありますか」
「協力を申し出たのは此方からだったね。彼等の持っている情報と細かいところを照合しないと、奴の正体を暴けなかった」
「奴とは『邪龍』の事でありますか?」
「そうだ・・・。ミュラーからそれも聞いたのだろう?アイツめ、守秘義務と言う物をわかっていないようだ」
中佐はそう煙草を口に咥えたまま、椅子に持たれたが、それを眺めながらヘボンはそれを部下にペラペラ喋ったのは、そもそも中佐自身ではないかと内心に静かに思った。
「・・・中佐殿は、今何処に居られるのです?」
「今、君の目の前にいるよ」
「そういう事ではなく、現実においては・・・」
「君のすぐ近くさ」
彼女は不敵な表情を崩さぬままに、口に咥えた煙草に懐から取り出したマッチで火を点けた。その仕草は、初めて出会った際の様子に似ていた。
「しかし、中佐殿は帝都に向かわれた筈では・・・?」
「あぁ、確かにそう伝えはした。・・・伝えはしたが、如何せん、保身派の動きの方が一枚上手だったのだよ」
口から紫煙をゆっくり吐き出しながら、彼女は深く椅子に腰掛けながら黙り込んだ。
暫く言葉を探しているような調子に、ヘボンは質問を一旦取りやめて、彼女の口が再び開くまで待つことにした。
頭には様々な疑問が湧いて出てくるが、それを整理するには此方も時間が掛かりそうだった。
しかし、そう困っているヘボンよりも先に、彼女の方が先に口を開いた。
「君と別れたのはヒグラート前線部から遠ざかった空域で、リューリア地方に近かった。その艦隊戦で邪龍の出現によって急遽、私たちは手勢の者を纏めて、例の報を発した。確かにそのまま帝都で再起を図る予定だったのだけれどね。・・・リューリアの空域に差し掛かった辺りで兄上の方から急報が入った。保身派は邪龍の出現で活気づいたのか、帝国貴族と皇帝に対し本気で戦争を仕掛けるつもりになった様だよ・・・。表だった物では無いが、既にヨダ地区が突端となって、保身派勢力と皇帝派の間で境界線がこのリューリア地方に引かれている・・・。ヘボン君、最早事は政治闘争ではなく、あからさまな内乱に至った訳だ」
「内乱・・・」
「そうだ。最前線では依然としてアーキルと向かい合っているというのにだよ。奇妙な状況だよ・・・、このままの状態が長く続けば、最前線の防御は何処までも崩れていくだろうし、そこを突いてこない程アーキルは無能ではないだろう。保身派はアーキルと手を組むつもりだろうし、表だって連中が共に攻めてくれば、帝都艦隊や近衛艦隊で防ぎきれる訳がない。・・・面白いぐらいに帝国存亡の危機という構図が出来上がってしまった訳だ」
彼女は少々熱の入った調子にそう言い立てるが、何処か面白がっているような素振りすら見せる。一方、そんな話を一方的にぶつけられたヘボンと言えば、理解が追いつかないのか口を阿呆の様に開けることしか出来なかった。
「我々としては、敵味方がハッキリしてきた分、さっさと帝都に行きたかったわけだが、保身派達の引いた防衛戦を突破出来るほどの勢力は、現状有していない訳なんだよ。あの艦隊戦で手駒を失い過ぎたのさ」
そう言うと、彼女は長話に一息入れるように、たっぷりと紫煙を吸い込んで、それをゆっくりと吐き出して、室内に漂わせた。
彼女の話し方は何処か暢気な色があり、とてもじゃないが己がその最前線にいるという感触を全く感じさせなかった。
まるで卓上遊戯に耽る者が、少々劣勢に立ったときに見せる苦笑いにそれは似ている。
「このままでは、保身派達に囲まれて全滅させられるのが目に見えているからね・・・。ここは帝都へ向かうのは諦めて、ヨダ地区に向かう事にしているんだ。彼処は皇帝派の最期の砦だ。艦隊戦の際に散り散りになった部隊も、保身派に追われた同胞達も身を寄せて武装している」
「ミーヴァンス准尉にも、ヨダ地区へ迎えと言われたであります」
「・・・艦隊戦の後に君が彼等に拾われるのは予想外だった。運命とは皮肉な物だね。ミュラーも昔の戦友に再会したのだろう?」
彼女は全てを知っているかのように、深く頷いた。
確か、彼女は六王湖の産業塔において准尉と連絡を交わしたと言うことであったが、それ以降の騒ぎについては知る由も無いように思われた。
「彼等は君達に邪龍の情報を託したのだろう?その報告については准尉から聞いているが・・・あぁ、いや君がこうなっていると言うことは大体の察しが付くよ。・・・ヘルマン中尉は死んだようだね」
彼女の口から彼の名前が出て来たことに、少々ヘボンは戸惑った。
しかし、その戸惑ったヘボンの表情を彼女は静かに見据えながら言葉を紡いだ。
「とびきりのエースだった。ミュラーの方から話はずっと聞いていたし、実際に会って見たいとも、出来れば此方に引き込んでおきたい人材だったけれどね。・・・レマよりも遙かに役に立っただろうね」
「・・・?中佐殿は、レマ・ニエン少佐の事をご存じで?」
「うん?当たり前だろう?あの女とは同期さ。私より機体の扱いが上手いといつも鼻に掛けているような・・・、心底鼻持ちならない奴だよ」
ヘルマン准尉については、少々声を落として話したが、例の少佐の事に触れると、彼女はさも嫌そうな顔をして苦々しげに言った。
「怒りっぽくて、頭も悪い・・・何故、あんな奴が将校に成れたのか皆不思議がっているさ。先程も見たとおり、邪龍に扱われているようだが・・・彼奴本人が現れないところを見ると、完全に魂まで売り渡している様じゃ無いらしいね」
「それはどういう意味でありますか?少佐殿は・・・その・・・化け物になってしまったんです。原因を作ったのは私でありますが・・・しかし、発砲したのは正当防衛だと・・・」
彼女があの少佐と知り合いだったことにもヘボンは驚きを隠せなかったが、それに加えて少佐があのような人外になってしまった件に触れると、ヘボンは言い訳がましく顔を歪ませた。
仮にも一時的な預かりの身ではあったが、上官へ対し発砲したのである。
ただでさえ脱走罪の罪状があるというのにだ。
しかし、それでもあの様な現実離れした状況では、少佐を射殺する他に手があっただろうか。
その点について、ヘボンは必死に口で説明しようとしたが、形容するには難しい出来事の連続であり、そんな彼の様子はとても滑稽に彼女には写っていた。
そして、その彼の様子を彼女は面白がって、手で制してから口を開いた。
「なに、別にあの女は死んじゃいない。…いや、厳密には人間として死んだのだろうが、それでもしぶとい奴だ。それだけは評価に値するよ…奴は何かを探していただろう?それが良い証拠だ」
彼女は面白がるように、口元に不敵な笑みを浮かべたまま深く息を吸い込むと、それをゆっくりと吐き出して椅子にもたれ掛かった。
心地よさそうな顔をしながら、吸いかけの煙草をヘボンに指で渡してくる。
吸いたまえ、と彼女は促してきたが、ヘボンはそれに大分躊躇した。
その躊躇しているヘボンの様子を彼女は眺めると、視線を少し強いモノにして、半ば命令するかのように目で促してくる。
仕方なく、そのまま彼女の吸っていた煙草を口に咥えながら、ヘボンは紫煙をたっぷりと吸い込んだ。
混乱に次ぐ混乱に壊れそうになっていた心身が、ようやく一つに纏まった様な気がする。
そんな現実とも夢ともどっちつかずな曖昧な空間で、彼は彼女の視線を感じながら不思議な安心感を覚えていた。