繭と兵隊

                  繭と兵隊
 
 
 
 
最も楽な死に方は凍死であるというのが定説だ。

焼死よりも苦痛が無く、銃殺よりも恐怖が薄い。我々にとって最も身近な死は戦死だったのだが、現在は凍死が取って代わっている。
それより暫く前、この忌々しい雪と氷に海が閉ざされるまでは、溺死が日常における死であった。
湯が湧いたのを確認し、固形燃料の残量に気を配りながら簡易コンロの火を消した。雪を溶かした濁った水から立ち昇る湯気が顔に掛かりそうになり、咄嗟に顔を背ける。顔に水がつけば瞬く間に顔に霜がつき、気化熱に体温を奪われるからだ。
零下数十度の世界。大海すら瞬く間に凍りつき、万物はゆるやかに停止する。獣も鳥も魚も蟲も、みな生きることを放棄し、細胞の一片まで凍結するその瞬間を待つ。
ここで生きようともがくのは人間だけだ。互いに殺し合うことをやめられない人類に呆れた神が、この異常な寒波を呼び込んだのだとしたら、神サマは大きな見当違いをしていたことになる。我々は敵を殺すために明日を迎えようと足掻いているからだ。
溢さないように震える手を押さえつけ、注意しながら湯を機関銃にかけた。
人が飲むための水は貴重だ。弾薬や小銃は凍りついたまま余っているのに兵士に配る食料が無い。戦車用の燃料は余っているのに真水が無い。体力が尽きたものから斃れ、眠るように死んでいく。兵力は損耗され、火器は喪失し、着実に防衛線は崩壊している。
そこに一発の銃声も無いまま。
このチプチャク要塞は我々に残された最後の半永久陣地だった。スラーグの北西120レウコに渡る大要塞線と言えば聞こえは良いが、現在稼働しているのは少数の半地下トーチカと、かまくら状の機銃巣を塹壕で繋いだだけの警戒線。要は少しばかり豪奢な塹壕でしかない。
俺は対戦車砲兵だったのだが、まともに動く砲が無く、死んだ銃手の代わりに機関銃のおもりをしている。砲の無い砲兵、主のいない機関銃、無人の塹壕、ガワだけの要塞、卓上だけの軍隊。全てが虚無で、空っぽで、我々の戦争は全てが意味を欠いた幼戯のようだ。最近は敵の姿すら見ていない。ここ最近、フォウの連中は正面攻撃を避けて補給線への爆撃に注力しているらしく、補給は1週間に2回から1週間に1回に減り、今となっては3週間に1回程度。
日に数回、決まった時間にここの上空を敵機が埋め尽くす。スラーグ軍港の艦隊が狙いか、みるからに鈍重な重爆が護衛も無しに地上スレスレを翔けていく。
腹にしこたま爆薬を抱えた怪鳥達が、女の悲鳴にも似た噴進機関の轟音を振りまき、ただ一門の対空砲さえ持たない我々を嘲笑っているのだ。
見渡す限りの銀世界にうんざりしていると、まだ凍っていない新雪を踏み固める足音が聞こえた。
「中尉、交代です。」
若い伍長だった。寒さで震え、飢えで頬はこけ、目だけが異様にギラついている様は肉体の全盛にあるべき若者を、癲狂を患った老人のように見せた。長いこと俺の部下だが、元の顔がどんなだったか思い出せない。
 
「あぁ?もうそんな時間か。鉄兜に布切れは詰めてあるな?」
 
「はい。あんな死に方は御免ですから。」
 
外気にさらされ凍りきった鉄兜は冷気を増幅して主の脳を破壊する。脳がやられたものは訳も解らぬまま動けなくなって死ぬか、運が悪いと発狂して糞尿や吐瀉物を撒き散らしながら絶命するまで暴れまわる。しばらくして、そんな哀れな奴を楽にしてやるのは分隊長の役目だという不文律が生まれた。
ふいに空を見上げた伍長が口を開く。
 
「今日は定期便が来ませんね。珍しく晴れだってのに。」
 
「フォウの連中もお天道様が顔を見せてる時くらいは休みたいんだろ。みんな休暇でもとって帰ってほしいもんだが。」
 
太陽を見たのは久しぶりだった。数年前なら今は夏で、キプケやシケレペの漁期を迎えていた。男たちはみな舟を駆って漁に出て、女たちは服を編み、市を開き、余りの魚で塩漬けや燻製を拵えた。海岸や浅瀬は子供らにとって絶好の遊び場で、少年たちは男を見せようと数メルトの岩場から飛び込んだものだ。
今となっては全てが夢の出来事のように思える。数十年共に生きてきた海は姿を消し、下賤な白一色で塗りつぶされてしまった。
今の現実は手元のフォウ製小銃と、自前の対戦車砲1門、それが全て。
我々の低質な銃は発砲による赤熱と外気による凍結を繰り返し、すぐに破断してしまう。砲の油圧機構は油が凍りついて全く動かない。ここで使える武装はフォウから鹵獲した銃器と発条式駐退器を備えた旧式の火砲のみ。
兵舎とは名ばかりの穴蔵に戻ると、防寒着、毛布、テント、はてには軍旗まで身体に巻き付けてスクムシのようになっている戦友達を押しのけて、座れる場所を探す。
臭いがしないのは有難かった。あまりの寒さに悪臭の元になる細菌が死に絶えているから無臭なのだと、大学出の通信兵が言っていたことを思い出す。そいつも脳をやられ、自分の名すら思い出せないまま死んだ。
この兵舎には煙突が無いので、火を焚けばたちまちガスで死ぬ。凍死もガス中毒死も、ゆっくり眠るように逝くというから、究極の二者択一ではないか。
瞼が落ちきる前に、乾いた眼球が腐りかけた柱の真ん中に、ぽつりと浮かぶ白を捉えた。
繭だ。
雪や迷彩の白などよりずっと美しい、艷やかな純白を纏った繭。髪より細く、ずっとしなやかな糸が整然と編み込まれている。糸の塊が、光の無い場所でこれ程輝くとは。
この寒さの中で繭を編む蛾が居るなんて信じられなかった。
あの繭の主は、自らの城の中で、いつの日か羽ばたく日を夢見て眠っているのだろうか。それとも、明けない冬を拒絶して、自分だけの世界に逃げ込んだのだろうか。
あの白い繭の中で眠る蛾が羨ましくてたまらない。墓穴の中で蠢く我々がいくら羨望の眼差しを向けても、あの繭には決して届かない。
蛾は蝶に比べて醜い。華やかな翅も、しなやかな触覚も持たない寸胴な羽虫。しかし、翅をえて繭から生まれ変わる時、かれらは何よりも美しい。繊毛から翅脈までの一切が純白で、細胞の一片までもが清白。かれらは生き残るために、その上から醜い茶褐色を纏うのだ。血がついたままのフォウ軍外套を引き摺り出して巻き付け、目を瞑る。手足の感覚が朝より鈍くなっているのを感じた。このまま寝てしまったら二度と起きれないような気がしたが、疲労は恐怖にまどろむ時間もくれずに意識を沈めてしまった。暗いまぶたの裏に、なぜだかあの繭がちらついた。

振動で目を覚ます。砲撃でも爆撃でもない、もっと緩やかで冗長な地鳴り。
 
「中尉!中尉!来てください、中尉!」
 
兵舎の入り口あたりから伍長の声がする。なんで見張りのはずのお前がここにいやがる?口が冷気で張り付いて言葉が出ないので、心に留めざるを得なかった。
栄養失調で弱っている網膜が外界の光量に耐え切れずに白焼けになる。
ぼやけた視界の先に、青いなにかが蠢いている。
丸腰の歩兵、それらが引き摺る橇、被弾痕の付いた戦車、その上には山積みの負傷兵、小銃を杖代わりに突き立て歩く下士官。
それは我が諸島連合軍の戦列だった。壊走。総撤退。数はいるが、そこに戦力は居ない。
戦前にアーキルから輸入した将校用自動車が我々の塹壕の前に止まり、中から小太りの男が姿を現した。金できらびやかに装飾された階級章は少将を示している。"金ピカ"将校が口を開いた。
「ここの指揮官は何処か?」
答えられる者は俺しか居ない。士官はみな死んだか、死につつある。
 
「自分が指揮官代理であります。」
 
一介の中尉が要塞指揮官だという事実に驚きを隠せないらしく、少将は目を丸くして俺の外套と階級章を見つめた。次の瞬間には突然眉をひそめる。なんとも忙しい男だ。
 
「貴様、敵国の外套なぞ着て愛国心は無いのか。」
 
呆れて言葉も出なかった。この後に及んでまだ体面を気にしろというのか。悪いがな金ピカ、その愛国心豊かな連中は凍死するか狂死するか、あるいは味方に撃ち殺されたよ。
 
「閣下、我が軍の外套は、燃料か死体袋程度しか役に立ちません。」
 
「……。まぁいい、命令を伝える。我が師団はスラーグで再編後に海軍と共に転進する。貴隊はこの要塞に留まり、艦隊が脱出する為の時間を稼げ。以上だ。」
 
なんだって?海軍と共に転進?何を言っているんだこの男は。
 
「海軍はスラーグから撤退するのでありますか?」
 
「撤退ではなく栄誉ある"転進"だ。来たるべき総反攻の為に主要兵力は双子島に温存、スラーグ以北は……心苦しいが、放棄が決定した。これよりここは対王国戦争の最前線になる。」
再び強い失望に襲われる。言葉を弄んで表面ばかり飾るこの男にではない。司令部がこの集団墓地をまだ陣地だと思っていたことにだ。冗談じゃない。このままではフォウが攻めてくるより先に飢えと寒さで全滅してしまう。
「お言葉ですが閣下、人員、物資、重火器全てが欠乏しております。大隊は半壊、現在戦闘可能な人員は良くて2個中隊いるかいないかです。左官以上も全滅しました。敵の攻撃など受ければひとたまりもありません。」
 
「我が師団からいくらか抽出してくれてやる。戦車もだ。それとアイルタ中尉、とりあえず君を少佐にしてやる。もっとも緊急措置としての、特務少佐だが。祖国の楯として義務を果たせ。降伏も撤退も許可できない。」
 
吐き捨てるように言うと、踵を返して去っていった。紙より薄い戦線の内側に逃げ込む人間があんな態度を取れるのか、さぞかし立派な面の皮をしておられるようだ。隊列が去った後には、哀れな一個歩兵中隊と戦車2両、そして殉死特進の前借りである特務少佐の階級章が残された。
新しく編入された歩兵中隊の指揮官は若い正規の中尉だった。最近士官の平均年齢は下がる一方、訓練期間は短縮の一途なのだという。
 
「ははは、墓場の同居人が増えちまったな。若いのに気の毒なもんだ。」
 
「せっかく2階級特進したのに自慢相手が死人か地獄の悪鬼しかいませんな、特務少佐殿。」
 
吹っ切れたのか、産まれながらの性分か、死地に残されて尚冗談を吐ける気丈。若いが良くできた男じゃあないか。
なんにせよ動ける人間が増えたのはありがたかった。在庫処分のつもりか、物資も少しばかし置いていってくれた。
死体を片付け、塹壕の雪を掻き出し、積雪を穿って銃眼を拵える。物資は凍る前にかまくらに放り込こみ、戦車は戦車壕を掘って砲台代わりに据え付ける。彼方此方に蛸壺を穿ち、使える武器を掻き集めた。
人員に多少の余裕が出来たので見張りも交代させてやれるようになった。
全員仲良く野垂れ死にという結末が一応遠ざかり、安堵と共に餞別替わりのの煙草を呑んだ。紫煙が冷風に煽られ踊り、雪原に溶けて消えていく。
 

もう一月は経っただろうか、あれ以来敵も味方も見ていない。敵機ばかりは上空を跋扈し、我々に有形無形の影を落としている。我々より以北に味方はいるのか、我々より以南に敵はいるのか、敵空挺に掻き回された前線を把握しているものは一人もいない。
空瓶を燃料で満たしながら、もう戦争が終わったんじゃないかと考える。戦争の実感が忘れ去られ、もっとも自然な餓死、凍死、衰弱死が戦死を覆い隠す。
戦友達が穴蔵からふらふらと出てきて戦車の周りに集まりだした。戦車は発動機が凍らないよう、定期的に暖機運転を行う。その排熱の恩恵に預かろうと言うわけだ。
この"カクテル"に導火布を詰め終わったら俺も行くか__
 
閃光、衝撃、熱。戦車が吹き飛び、周りに群がっていた兵士達が炎に包まれた。続けて数発の弾着が視覚でなく振動で伝わる。そこで初めて、自分が無意識の内に地面に伏せていたことに気がついた。
泥と雪を払い、塹壕から頭を出して霜の張り付いた双眼鏡を覗き込む。地平線から白煙が上がっている。完全に整備されたフォウ王国軍一個大隊が砲煙と雪埃を上げてこちらへ迫っていた。戦車、輸送車、軽歩兵、迫撃砲、ああクソ、あれが本物の戦列だ。あれが本物の軍隊だ。
 
「敵襲!敵襲!動けるものは配置につけ!」
 
喉の限りに叫ぶが声が届いたかどうかはわからないが、こうなっては言葉などなんの意味も為さない。
恐怖に焼きだされた兵士達が塹壕内を走り回る。運の良いものは銃座に取り付けるが、運の悪いものは先の砲撃で生き埋めだ。
半狂乱で小銃を構える味方の中に、見知った顔を見出す。
 
「伍長!伍長!砲を引っ張り出せ!敵戦車が突っ込んでくるぞ!」
 
「中尉…じゃない特務少佐!もう駄目です!みんな死んじまう!」
 
慌ててるのか冷静なのか、俺の階級を呼び直す様がなんとも滑稽だった。伍長の襟首掴んで踵を返す。
「歩兵の指揮は正規の中尉に任せる!対戦車猟兵は集結しろ!火炎瓶は一人二本、いいか、二本だぞ!」予め掘っておいた蛸壺に対戦車猟兵を忍ばせ、敵の肉薄に備える。猟兵といっても特別に訓練された精鋭と言うわけではなく、戦車との戦闘経験がある者を掻き集めただけだ。いや、戦闘経験というより、戦車の蹂躙から運良く生き残った者とでも言うべきか。我が軍にはどれくらい残っているだろう。火炎瓶だけで戦車に肉薄できる狂人が、戦車のビスが見える距離まで恐怖に耐えられる砲兵が。
砲兵には砲兵の仕事がある。少佐の階級章を付けても、俺に兵の指揮はできない。星の数が変わっても俺の仕事は変わらない。

俺と伍長、それに運良く外に出ていて助かった戦車兵の3人。定数の3割にも満たない即席の対戦車砲分隊で雪を掻き出し、壕から砲を引き摺って据え付ける。
598年式42口径3.7fin対戦車砲。砲口初速600mlt/M、最大射程6000メルト、500メルトで5フィンの圧均装甲板をようやく貫通する旧式火砲。
発条式駐退器というだけで寒波の中を生き残った骨董品だが、これが我々に残された最後の対戦車火器だった。レバーを押し上げ閉鎖機を開き、徹甲弾をねじ込む。
敵歩兵はこちらの機銃掃射を避けて散開したようだ。戦車が先行し、こちらの銃撃を受け止めつつ戦線を押し上げている。小柄なヤツはヴァスチ、正面に1両、右に2両、左に___クソったれ、グリディアが1両。
 
「12時方向のヴァスチに照準合わせ!砲塔を狙え!」
 
二等兵が使い物にならない測距器を押しのけ照準器を覗き込む。距離にして約500メルトといったところか、幸いにして此方はまだバレていないが、初弾で仕留められずに位置を露呈すればおしまいだ。
我が軍の魚雷艇のにも似たスクリウが唸りをあげて、およそ20トンはあろうかという車体を高速で滑らせている。凍った大地を掘削しながら疾走るその姿は小柄な軽戦車を無敵の化物のように見せていた。恐怖に喰われて塹壕の中から飛び出した兵士を随伴歩兵が即座に射殺する。
まだだ。この距離からでもタレットリングやスクリウ牽吊架なら破壊できるかもしれないが、こちらが切れるカードは1撃分だけ。賭けに出るには分が悪い。砲塔を、戦車を殺戮兵器たらしめている鉄の牙を叩き折らなければ。
伍長の額に汗が浮かんでいる。極度の緊張、激発索を握る手が震えてもなお、無理矢理に平静を保っていた。
距離300メルトあたりでヴァスチの砲塔がこちらを捉え、正対した砲口が黒点になる。
撃て、おそらく、この声が耳に届く前に激発索は引かれていただろう。熱風の塊が叩きつけられ粉雪を吹き飛ばす。心地よい衝撃が疾走り、反動で砲が浮き上がった。
爆圧に押し出された音より速い鉄塊が、照準器の十字に磔にされた砲塔を撃ちとばす。鉄を鉄で絞め殺す独特の破砕音。戦車の断末魔が銃声や爆音の間隙を縫って鼓膜を貫いた。
「命中!」
伍長の歓喜の聲。一方的な蹂躙に御執心だった戦車に胸がすくような一撃食らわせてやったのだ。
彼らを一方的な蹂躙者から曲がりなりにも引きずり降ろしてやったが、まだ終わりではない。むしろここからが正念場だ。
 
「目標撃破、次目標10時方向のメルディラ、弾種、徹甲弾。」
 
連中にこちらの位置が割れた。2時方向のヴァスチはまだ距離があるが、グリディアはこちらの第二塹壕線まで浸透して来ている。ヴァスチよりも遙かに巨大な車体が狂乱の中撃ち込まれる機銃弾を弾きながら着々と鉄条網と塹壕を食い破っていく。
火炎瓶を投擲しようと身を乗り出した猟兵が撃たれ、火だるまになった。人間のそれとは思えない悲鳴。炎が酸素を奪い、窒息するまでに許される最期の贅沢。痛覚が生きてるうちは文字通りの地獄に焼かれ、熱で縮小した筋肉が骨の強度を超え、自らをへし折っては奇妙なダンスを踊らせていた。当然、炭化して崩れるより先に絶命しているだろうが、焼死だけはゴメンだ。
 
「スクリウ牽吊架を狙え。右のだぞ」
 
指示がなくとも伍長は照準を合わせていたが、発射された砲弾は浅い角度で装甲に突っ込み、弾かれた。彼我の距離は約500メルトといったところで、この砲では足を崩すか、敵の砲身を貫く奇跡にしか期待できない。
グリディアのペリスコープがせわしなく動き、今の一撃の射点を探り出そうともがいている。その姿は、民謡にでてくる1つ目の巨人を思い起こさせた。腕をひとふりすれば村を吹き飛ばし、足を一歩蹴り出せば畑を抉り、人々から恐れられた巨人。その天下は小さな勇者の機転により潰える。足を斬りつけられ、ひっくり返った巨人は自らの長躯により頭を打って死ぬ、というものだ。
諸島人なら誰でも知っているお伽噺だが、あの75ミリ砲を振り回すド近眼の巨人とどちらが恐ろしいだろう。
 
「次弾急げ!照準そのまま!」
 
2発目も大きく逸れて凍った雪を抉るに終わる。照準に問題があるのではない。氷結状態だった砲身が吹き込まれる熱と爆裂に耐えられずに歪んでいるのだ。一発ごとに砲身は微妙な変化を見せる。こうなると命中どころか照準修正も不可能だ。
「砲が冷えるまで待機。ある程度熱が引いたら連続射撃用意、破断してもかまうものか」
唯一の火器が沈黙した今、味方が蹂躙されているのを指を加えて見ているしかない。戦車もこちらを脅威とみなさず、機銃巣への攻撃に夢中になっていた。拳銃の輪胴弾倉を開いて残弾を確認する。軍人は武装してこそ軍人で、兵士は敵を殺してこそ兵士だが、一発だけはとっておこうと思う。他ならない自分自身の為に。
 
王国戦車はその速力と、卓越した機動力で氷上を滑り、障害を避けている。進行方向そのままに平行スライドする様は、最早乾いた笑いを誘う。味方の随伴歩兵すら追従できない動きをするので孤立させることは簡単だが、人力で投擲する火炎瓶を当てるのは至難の業だった。
小脇に抱えたアルケメヂン・スクリウで破砕するのは氷や残骸だけではない。接地面を巻き上げて引き込むようなスクリウは塹壕内の兵士を巻き込み、彼らの諸々で赤く塗装されていた。普通の履帯は圧で潰すが、スクリウは馬力にものを言わせた膂力で引き千切るので、原型が残ったままこびり付いていることも少なくない。
混乱、狂乱、壊乱。塹壕内は悲鳴とも命令ともつかない叫びで満ち、みな目の前しか見えていない。狙いも定めずバラ撒かれる機銃弾が王国兵を釘付けにし、最も活躍しているのが皮肉な話だ。
在庫処分と言わんばかりにありったけの爆薬を投げつけているようで、兵員数の割に派手な炸裂がそこら中で起こっている。王国兵もそれなりに死に、鉄条網にスクリウを取られた戦車は停止して火炎瓶の的になっていた。
最も突出しているグリディアを潰せば、敵は撤退を考えるだろう。そう思った矢先、迫撃砲の流れ弾近くに弾着し、雪を巻き上げた。砲に降り注いだ雪を払っていると、視界がそこに無いはずのものを捉える。
あの繭だ。砲尾に繭が張り付いていた。さっきまでは無かったはずだ。第一、こんな場所に蛾は繭を紡がない。幻覚に違いないが、直接触れたくはなかった。頭で理解していても、手が空を切ることを受け入れられない。なにより、討つべき現実が眼前にいる。
 
「もう十分だろう。弾種徹甲弾、目標10時方向のグリディア」
 
「少佐、徹甲弾の残り4発です」
 
元戦車兵の装填手が叫ぶ。
砲弾は砲兵の義務だ。砲が動き、弾がある限り我々の義務は続く。後4発であの巨人を仕留めなければならない。たった4発の徹甲弾が我々を軍人足らしめている最後の頸城だった。
 
「全弾ぶち込め。どうせ砲身が持たん。」
 
「サー。次は当ててみせますよ。」
 
閉鎖機が閉じられ、砲身が水平に向き直る。グリディアは自らの突出に気がついたのか、300メルト先で行き足を落としていた。
 
「撃てッ!」
 
激発索が引かれ擊針が落ちる。砲口から押し出された徹甲弾は吸い込まれるようにグリディアの右スクリウに命中し、ギアとシャフトを吹き飛ばす。
推力の均衡を失ったグリディアは制御を失い横腹を向けた。
 
「次弾込めろ、車体側面後部を狙え。」
 
後は脆弱な機関部に全弾叩き込めばグリディアは撃破できる。続く2発目は側面装甲に斜めに当たり弾かれたが、3発目は機関部を砕き、耳障りなタービンの音を沈黙させた。
最後の砲弾が装填され、照準が露出したプロペラントタンクに合わせられる。
閉鎖機が閉じた瞬間、グリディアの砲塔が旋回し、此方を捉えた。
発砲はほぼ同時だった。敵戦車の榴弾は手前に着弾し、陣地を掘り返して砲ひっくり返した。俺や伍長や戦車兵が無事なのは雪が衝撃を殺したからだ。
此方の弾はプロペラントタンクを貫き、炎上させた。火炎は気化した燃料を伝い、車内に流れ込んで乗員を焼き尽くす。一人はハッチをこじ開け車外に這い出たが、焼けた装甲板に皮膚が固着し、"崩れて"死んだ。
グリディアの砲弾が誘爆し、大きな黒煙を巻き上げる。恐らく、それが合図になったのだろう。
王国兵が負傷者を集めて後退を始めたのだ。空爆もなく、準備砲撃も申し訳程度の物しかなかったが、威力偵察のわりには兵力は過大だったと言える。連中は我々が兵站切れでとっくの昔に全滅していると踏んで攻撃してきたらしく、ある程度の被害を受けたら撤退するなどその証左に他ならない。連中は諸島軍が予備兵力を掻き集めて防衛線を構築していると報告するはずだ。時間を置かずに、より強力な第二波が殺到するだろう。
此方は予備兵力が無いからこそ無茶苦茶な反撃をしていたのだから、彼らが実情を知った時の顔を見てみたい気もする。
此方の死者も莫大だった。600人いたか居ないかの兵員は100人弱にまで減り、武器弾薬も払底した。鉄条網や塹壕も使い物にならない。あの中尉も戦死していた。あの手の若者を殺し続けていたら、戦争の勝敗など関係なく負けだ。
心なしか体が軽く感じるのは、飢餓でやせ細っているだけではない。今まで軍人であったからこそ、この地獄から逃げ出さなかった。今や武器も陣地も無い、ただの死に損ないに堕ちて始めて、義務から開放されたのだ。限界まで射撃を続けた対戦車砲は墓標のように、裂けた砲身で空を睨んでいた。お前、生まれ変わったら対空砲にでもなるか?
 
「伍長、指揮権を一時的に預ける。歩けるものを連れてスラーグまで後退しろ。負傷者は置いていけ。」
「指揮権って…少佐はどうするんです?」
 
「国家への義理建ても終わりだ。負傷者と降伏して捕虜にでもなるさ。それに、左官の一人でもいなけりゃ格好がつかない。」
 
捕虜?彼らとて本国から脆弱な兵站を引いて進行しているのだ。自分達のメシだけで手一杯のはずだ。食わせきれない捕虜の始末は我々だって散々やった。
 
「正直、もう疲れた。足掻く理由も無くなったしな。」
 
伍長は何か言おうとしたらしいが、口をつぐんで敬礼を返し、持ち場に戻った。
指揮所跡に座って煙草を吹かす。背面には味方の隊列、正面には骸と鉄塊の山。煙草の灰が足元に落ち、そこに目をやると、見慣れた白い塊がそこにある。
あの繭だ。真ん中で裂け、乾燥魚のように開かれている。中身は粘液でてらてらと艶を持ち、かつての所有者が飛び立ったことを示していた。
最後にしてはなかなかつまらない締めだが、なにも背負う必要が無いというのはなんて楽なのだろう。
曇天に引かれるように紫煙が雪原に溶けて消えていく。
 
 
 
 
こんな酷い話があるだろうか。死ぬ気でスラーグまで歩いてきたのに、まるで空っぽだなんて。海軍の艦隊はとうの昔に脱出しており、軍港には破壊しつくされた港湾施設だけが残されていた。定期便がなくなった理由を知り、予想できて当然だったと、僕は自嘲気味に嗤う。
意外な、そして微塵も嬉しくない再会もあった。あの金ピカだ。僕らを捨て石にして生き残ろうとした少将の部隊も置き去りを喰っていたのだ。少将が僕らを見たとき、なんとも言えない、歪んだ笑いを向けてきた。嘲笑ってくれ、とでも言うように。
軍人も軍属も民間人も消え失せた死都に死人が集結して陣地を張っている様は、確かに滑稽だろう。
夕暮れ頃、元行政官庁だった建物に拵えられた観測所が王国軍の猛爆撃を記録した。キプチャク要塞の方角に火炎が一瞬だけ見えたという。日没まで砲爆撃は続き、その振動はスラーグにいる我々まで届いた。
少佐は__意識していないと中尉と呼びそうになる。僕にとって、あの人はずっと中尉だったからだ。あの人は無事だろうか、いや、本人がそれを望まないだろうな。
次は我々の番だ。残りの弾を弾倉に押し込み、ボルトを閉じた。我々はスラーグを枕に、奴らに一人でも多く血を流させる為に陣を張る。
風が粉雪を運んでくる。曇天に無数の白が混ざり、形容詞がたい景色を描く。舞い落ちるというより、舞い上がるような粉雪は、まるで羽化したての蛾かなにかの群に見えた。

タグ:

短編
最終更新:2019年10月02日 20:46