パンノニア動乱を今一度振り返ろう
(月刊誌パンノニーレ・レン・デュール 711年4月1号特集記事)
著 A・ライゼリューク、K・トミェヴォ、S・I・シェルドィニャ
監修 M・ミレンステウ(アシュレーウ大学准教授)
来月1日、シルナトリツェ=パンノーニュに建設に8年を費やしたパンノニア王立国際博物館がとうとうオープンする。オープンと同時に4ヶ月展示されるその第一回特別展のテーマはパンノニア動乱だという。この機会にパンノニア動乱を今一度振り返ってみるのも悪くないだろう。海の先に未知の国があるということを知り、これまでは遠く見上げるばかりであった宇宙にさえ手を伸ばそうとする今、もはやかの出来事は遠い昔のことのように感じられるかもしれない。しかし思えばこの国はあの瞬間から始まったのであり、それは同時に現代の始まりであったのだ。そういうわけで、今回はパンノニア動乱について特集してみた。特別展を観に行く予定の人は予習として、また観に行けない人もあの事件に思いを寄せる一つの機会として、このコラムを読んで頂ければ幸いである。
1.動乱までの世界情勢
Ⅰ.南パンノニアの状況
南パンノニアでは、648年の12月にクーデターが起こり、属国時代の制度の廃絶、民主化の推進を主張したスィスルツ・ヴェリメニスクがグロシク首相を辞任させ政権を奪ったが、新体制は非常に不安定だった。理想主義的で急進的な民主化政策は腐敗の拡大とさならる経済崩壊を招いた。このためクランダルトに対して比較的好意的な地域であった南西部の諸州を中心として、ヴェリメニスクに対する批判は増していた。民主化という信念を破ってでも事態を収拾しなければ国家存亡の危機となると察したヴェリメニスクは、650年6月に議会を停止し、全権力を新設した大統領府に移し、7月には戒厳令を出したものの、時既に遅しであった。南西部諸州の、クランダルトと結びつきの強い地域を中心とした反政府運動や、配給引き上げを要求するデモの暴徒化のために、行政機能は完全に麻痺していた。653年には南パンノニア食糧公社が事実上破産し、国営鉄道も約7割が動かなくなっていた。
Ⅱ.北パンノニアの状況
北パンノニアは、戦後アーキルで何度も発生したハイパーインフレの影響を何度も受け、経済的に苦しい状態に追い込まれていた。その影響として行政の末端では深刻な腐敗も生まれていた。
645年にリゼナ・エシュトレウ首相が就任し、アーキルと再接近したエシュトレウ政権下で北パンノニアは連邦開発基金を積極的に呼び込み経済復興を果たしたが、彼女が651年にテルスタリ風邪で辞任した後、与党内での分裂が起き、『無政策時代』と呼ばれる一年間の間に再び経済は低迷した。
この低迷期に、全パンノニア作家同盟によって生み出されたパンノニア・ナショナリズムの思想は多くのパンノニア人に影響を与え、統一への強い意欲が市民の間で復活し始めていた。一方でパンノニア・ナショナリズムの思想は、『パンノニアなるもの』の均一化の働きかけでもあり、ドボゾークの多様性とは両立できないものであった。北パンノニアの世論は分断され、中道的な政権与党は両者から非難にさらされ続けていた。
Ⅲ.アーキルの状況
何度もハイパーインフレを起こしたアーキルは、次第にハイパーインフレの対応にも慣れ始め、経済的には少しづつ安定を見せ始めていた。周辺諸国からの信用は依然として低いものの、地域での主導的地位を取り戻すための努力は成功しつつあった。ただしアーキル国の経済成長には、連邦の存在、より具体的にはパンノニア北西部の工業地域との自由かつ活発な貿易が重要な役割を担っていた。それゆえ、パンノニアの連邦離脱は、現行の経済構造を維持出来るようなものでない限り、アーキル国にとって受け入れがたいものであった。そしてアーキル政府関係者の殆どは、パンノニア統一はそれを破壊するものであるとして警戒していた。
Ⅳ.クランダルトの状況
内外に様々な問題を抱える新生帝国は、アーキル国との関係構築を模索してはいたものの、基本的には消極的な外交政策を進めており、安定した国家体制の確立と維持を最優先としていた。
ところがそのようなクランダルトにとっても、パンノニア情勢はどうしても強硬かつ積極的な介入を必要とするものであり、それは六王湖問題に主に原因があった。クランダルトはアーキル同様、同地域における秩序と影響力の回復を望んでおり、それゆえ南パンノニアの反体制派と協力し、ヴェリメニスク体制の打倒と、親鞍的政権の再設立による勢力圏維持を目指していた。
Ⅴ.その他諸国の状況
連邦の消滅はどの国にとっても間近なことであるとみなしていたが、パンノニア統一は現実味の薄いものと考えていた。メル=パゼルや諸島、ネネツ、フォウなどの列強は、そのような事態に対して具体的な策を用意していなかった。それでも南パンノニアのクーデターの一件以来、有事には柔軟に行動を行えるような準備はなされていた。
2.パンノニア講和会議
Ⅰ.『統一条項』論争の背景
南北パンノニアは、宗主国たる連邦とクランダルトの講話以降、停戦状態にあったものの、正式な平和条約が未だに結ばれていなかった。実際には国交も存在し、経済交流も次第に強化されていったにも関わらず、形式的には休戦状態のままだったのである。その理由は、大きく分けて2つあった。
一つは、それぞれの宗主国が、それぞれを自国の勢力圏内に留めるために、南北の分断状態を維持することを目的に圧力を掛けていたことである。
二つ目の理由は、むしろ国内の統一派によるもので、平和条約の締結は、即ち互いを正式な国家として承認することであり、それは分断されたパンノニアを法的に保証することになってしまうため認められない、というものだった。ナショナリズムが急速に発達した650年代に入ると、こちらの理論の方がむしろ平和条約締結反対の主な理由となった。
前者の圧力が、旧宗主国のパンノニア地域におけるプレゼンスが低下し始めるにつれ失われていったため、両パンノニア政府は、講和会議の実施を模索し始めた。会議は654年4月13日に始まった。統一派たちは、もし条約を締結するのであれば、その条約に将来的な国家統合を記述することを要求した。ところがそれは、明らかに諸外国への刺激が強すぎるものであり、両政府としてはリスクの高さから受け入れがたいものだった。これがいわゆる『統一条項』論争であり、このためにパンノニア講和会議は難航した。
Ⅱ.条約のための条約
国内のデモや、クランダルト・アーキル・メル=パゼルが連名で発表した『統一条項』への警告を受けて、両政府はひとまず問題を棚上げすることにした。この講和会議は、あくまで正式な平和条約を将来的に締結するための第一歩であり、ここで具体的なことを何か決めるわけではない、21日に宣言したのである。
こうして実際に翌日である4月22日には殆ど中身の無い条約が締結され、これは『条約のための条約』であるとされた。
そのように揶揄される結果を招いてまで、両政府が条約の締結へ急いだのには理由があった。それは、1月9日と3月22日に相次いで起こった国境での偶発的な軍事衝突で、後者では両側あわせて6人の死者が発生する事態となった。そのような事件の再発を防ぐために、たとえ形だけでも平和条約へ向けて前進している姿勢を示すことが必要であると彼らは考えていたのである。
Ⅲ.ヤールツィイヤ=オープイェルナイの行進
両政府が次の策を検討する間もなく、パンノニアの民族主義者たちはすぐに次の行動を始めた。4月23日の深夜から4月24日の夕方にかけて、北パンノニアのヤールツィイヤ市に集結した南北の民族主義的結社(『明日の為の槍』『全パンノニア国家民族会議』『統一主義青年連盟』など)の構成員と、それに賛同する市民約3万人(警察発表2万人)が、南パンノニアのオープイェルナイ市に向けて自動車などによるデモ行進を行い、大規模な不法越境を行った。
この行進に対して、国境を監視していたはずの双方の軍・警察組織は同情的な態度を示し、これを妨害しなかった。このことは、事件がパンノニア統一に向けた大規模な動きのきっかけではないかと各国を疑わせることになった。特に、アーキル、クランダルト、メル=パゼルの三国は、すぐに反応を示した。アーキル軍は精鋭部隊であるラオデギア第一機械化歩兵師団をテルスタリ方面に展開した他、空母6隻を中核とする任務部隊を地中海上空に派遣し、自由パンノニア共和国政府に圧力をかけた。クランダルトもまたルパルクトゥム型迫撃砲艦ネーケクルグムを中心とする小艦隊による意図的な領空侵犯を行い南パンノニア政府に圧力をかけた。(なお、この時ネーケクルグムには補給上の事情から砲弾が搭載されていなかったため、クランダルト艦隊ははったりを利かせていたことになる)メル=パゼルは東地中海で練習航行中だったハテン級イツタルに戦闘準備を命じた。
これらの列強の過剰とも言える反応は、両政府を萎縮させた。もし列強の軍事介入があれば、とても勝利を見込めなかったからである。両政府はそれぞれ国境監視にあたっていた部隊(北:第299歩兵連隊、南:第6竜騎兵連隊)の士官を処罰し、別の信頼の置ける部隊と配置を交換した。このことは統一派にとって大きな屈辱であり、政府に対する不信と反発を大きく掻き立てることとなった。
Ⅳ.第二回講和会議開催問題
こうした状況を受けて、両政府は第一回講和会議閉会からすぐの5月1日に第二回会議を行うことを4月25日の朝に発表したが、この段階で両政府はその内容について何も予定はなかった。この第二回講和会議開催決定はいわば『時間稼ぎ』であり、それまでの間に列強か、統一派か、どちらかの妥協を得られることを期待してのものだった。
北パンノニアでは空挺第4連隊が独断で国境へ展開、南パンノニアでは南西部諸州で暴徒化した市民により役所が占拠されるなどの事態が相次ぎ、もはやどのようなごまかしも無意味であると判断された。両政府はまずはこれらの事態へ対応することが必要であるとして、第二回講和会議の開催を延期すると同日の夕方に発表した。北パンノニア政府は暴動に備えて内務省管轄の国内軍を各地に展開し、また信頼できる部隊をソルノークへ集めようとした。
3.テルヴィロスティ29日のクーデター
Ⅰ.恩赦闘争
北パンノニアの民族主義者たちは、『ヤールツィイヤの英雄』に対する政府の酷い仕打ちに激怒していた。4月26日、全パンノニア作家同盟がその機関紙『我らの翼』で発表した檄文に応える形で、ソルノークに民族主義者たちが集結し、第299歩兵連隊の名誉回復と、反逆罪で10年の懲役とされていた連隊長の無罪を要求した。(いわゆる恩赦闘争)このデモは、折しも同日に予定されていた反腐敗・経済政策の変更を訴えるデモと自然に合流した。デモ隊は約12万人に膨れ上がり、首都機能は麻痺寸前となった。
国民と列強との間の板挟みとなった共和国政府は、28日の議会でこの要求を認めるかどうかを採択するとの発表した。
Ⅱ.クーデター前夜
4月28日、パンノニア議会は恩赦要求を受け入れるかについて採択を行った。結果は賛成67、反対89、棄権12、欠席5であったが、集計が終わると急進的統一派の野党『大パンノニア党』の議員による暴行事件が起き、またデモ隊による議会への突入騒ぎなどが起きた。これらの騒ぎは、政府中枢に展開していた国内軍第1特別保安連隊の介入によって、若干名の負傷者を出しつつも一旦は解消された。
この結果を受けて急進的な統一派の一部は、現行の政府主導によるパンノニア統一は期待できないとし、翌日の決起を決断した。全く根回しや計画のほとんど無い状況で突然に決起を決めたのは、親政権的な部隊のソルノーク周辺への配置転換が完了しておらず、また国内軍の多くが地方へ治安維持のためばらばらに展開されている今ならばまだ勝算があると見越したからであった。またアノールやテルスタリ、南アーキルへの偵察飛行により、アーキル軍はそれほど即時には行動できないだろうということをクーデターの主導者たちは見抜いていたとも言われている。(実際、アーキル軍が即応できたのは第一機械化歩兵師団だけで、機動艦隊も燃料が十分に供給されておらず補給船を待っている状態だった。)
Ⅲ.決起
まずはじめに行動したのは、空挺第5連隊と第33戦闘飛行隊であった。これらの部隊の決起をまとめていたのは、空軍のレトレシュ准将だった。ソルノークから北東に離れたオドグャヅキに基地を持つ空挺第5連隊は、深夜に輸送機34機、グライダー22機に連隊の大部分を載せてオドグャヅキ飛行場を離陸し、第33戦闘飛行隊所属の戦闘機26機がこれを護衛した。のべ80機以上もの飛行機をレーダーが見逃すはずは無かったが、各地のクーデターに同調した部隊が主要な空港管制塔を襲撃したことで、空軍本部はこの部隊がソルノーク上空に辿り着くまでそれに気づくことができなかった。
未明にソルノークに辿り着いた空挺第5連隊は、ソルノークの東区に降下、ソルノーク市警を制圧した後議事堂や内閣庁舎のあるシュダーリ区を目指して移動。この突然の報を聞いた陸軍省は、エルトヴォ区に駐屯する第1師団をシュダーリ区へ呼び寄せた。また沿岸部に駐屯する連邦軍も独断でソルノーク市中枢へ移動した。空挺第5連隊と第1師団は議事堂周辺でにらみ合いとなったが、少なくとも日の出前に発砲があったという記録はない。政権幹部は議事堂が包囲される危険があったことから、第1師団の護衛のもとエルトヴォ国際空港へ移動し、ソルノークを離れた。イシュトヴァーン以下39隻からなる第一艦隊がその空路を護送し、ルヴャニェシュを目指した。ルヴャニェシュは644年の南北講話会議で制定された条約都市で、形式的には自由パンノニア共和国領であるものの、法などは独自のものが用いられ、南北共同統治の非武装中立地域とされていた。ここを撤退先として選んだのは、そうした事情から事態解決のために南パンノニアの協力を請いやすく、また南パンノニアに事態が波及した場合の対応をとりやすいためだった。
空挺第5連隊の第4大隊は、議事堂ではなくソルノークの国営放送局の襲撃を試み、歴史緑地の周辺で国内軍の第3保安大隊と遭遇した。若干の交戦の後、第4大隊は放送局を占拠したが、第3保安大隊は撤退前に放送設備を破壊したため、決起部隊はすぐには放送できなかった。
Ⅳ.『臨時政府』の設立
レトレシュ准将は、ソルノークの掌握が時間の問題であることを確認すると、クーデター成功を既成事実化するべく、『臨時政府』の編成に着手した。統合軍参謀本部特別委員会を編成し、自身をその委員長に任命、続いて委員会は『大パンノニア党』の有名なコロムィツェープ議員を臨時首相代行に任命し、戒厳令を発動させるとともに組閣を命じた。後に明らかになったことだが、コロムィツェープにとってこれはまさしく寝耳に水であったという。
Ⅴ.決起放送と各地での蜂起
放送設備を回復できないと判断したクーデター派は、第6大隊をソルノーク市営放送局へ派遣した。これは10時10分に占拠に成功し、隠れていたアナウンサーを捕まえると、10時30分の『地中海の朝』の放送内容を変更してレトレシュ准将の宣言を読み上げさせ、決起放送を行ったが、その途中、連邦軍の特殊部隊によって再占領され、第6大隊は全員その場で射殺もしくは逮捕された。
しかしこの放送によってパンノニア全国で決起を知った部隊の一部は、これに同調して行動を起こした。例えば、独断で国境へ移動していた空挺第4連隊は、第299歩兵連隊の代わりにヤールツィイヤに派遣されていた第303歩兵連隊を武装解除し、再びこの国境を開いた。またヨーヴォで収監されていた第299歩兵連隊の幹部は監獄を襲撃した連隊員によって解放され、第299歩兵連隊はそのまま国内軍第6国境連隊を排除して同地を占領した。
内務省は、各地で同調して蜂起した部隊が合流すると、鎮圧が困難となり、またソルノークへ移動してきた場合、第一師団だけでは守りきれないという判断から、各地の国内軍に橋や幹線道路の封鎖を命じたが、ソルノーク周辺でクーデターに同調した勢力が少ないということを確認するとこれを解除した。
一方、クーデター側は、第一師団以外の政権側の部隊がソルノークに到達した場合、クーデターの失敗は確実となるという危機感から、こちらも交通の封鎖を計画していた。例えば、クーデター側についた空軍の実験飛行隊は、国内軍に差し押さえられた航空機の代わりに、気づかれていなかった試作機を用いてドヴナ大橋の破壊に成功し、ドヴナ以西の地域からのソルノークへの接近を阻止した。
ただし、実際には軍の大部分はどちらにも与しないことを選び、殆どはその基地を離れなかった。統一を推進する人々や、政権に反発する人々であっても、穏健派の多くはこのクーデターを批判的に見ていた。
なお、このクーデターはテルヴィロスティ29日のクーデターと呼ばれるが、Tervirostiはパンノニア語で4月を意味する。
4.クーデターから動乱へ
Ⅰ.北西パンノニアの独立運動
ソルノークなどの中央の諸都市と異なり、パンノニア北西部の諸都市にはパンノニア民族主義を受け入れる下地が無かった。歴史的な経緯から、彼らはパンノニア人としてよりも、ドヴナ人として、シェウレスィロ人としてのアイデンティティをもっていたこと、また、連邦政府が優先的にこれらの地域の工業化、再開発に注力し、国際都市として発展していた地域であったことがその理由として挙げられる。こうした事情から、クーデターによる蜂起と、地域内でのクーデター派の身勝手な振る舞い(ドヴナ大橋の破壊や全土での電話線切断など)がきっかけとなり、それまでの不満が爆発する形でクーデターに乗じて自由パンノニア共和国からの独立を宣言した。歴史的に『ドヴナ市民』という意識が強く、かつてのドヴナ公国を復活させようと試みたドヴナのような都市は完全な独立を求めた一方、ルジン・シェウレスィロのような商業都市は経済活動の維持のため独立後も連邦に留まることを望んだ。連邦政府はこれらの地域を臨時議会で即座に独立承認したが、これはその地域が連邦に留まることを望んでいるかに関わらず、全て連邦内でのパンノニアからの独立という意味での独立承認だった。(そしてこれらの地域は連邦崩壊後アーキル国に吸収された。)
コロムィツェープ政権(クーデター側)は、これに憤慨してパンノニアの連邦離脱を宣言し、また北西部地域のパンノニアからの独立は憲法違反であり無効という立場を取った。(クーデターも憲法違反であるが)一方、ルヴャニェシュに逃れたパンノニア政府は、アーキルの『いいとこ取り』ともとれる動きを良くは思わなかったものの、事態の収集にはアーキル軍との友好な関係が不可欠であること、そもそも首都を捨てて退避している今発言力がないことから、これに対して表立った反発はしなかった。
Ⅱ.南北越境
ソルノークの占拠に行き詰まり、それ以外地域もそれほど支配下におけなかったコロムィツェープ政権は、南パンノニアの民族主義的反政府組織に決起を促し、合流を図ることで、パンノニア統一とクーデターを同時に完遂しようと試みた。越境は2つのルートから行われた。第一のルートは、ヤールツィイヤ=オープイェルナイ間の陸路で、第19戦車連隊、第602機械化歩兵連隊がこのルートからオープイェルナイを占領後、現地の民兵を伴ってイェルノ川沿いに南西へ進軍した。第34襲撃飛行隊(ヴァド35機)、第29戦闘飛行隊(ガモフ24機)がこれを支援し、この際迎撃に上がった南パンノニアの第1303大隊のシュガール8機中3機を撃墜した。第二のルートは、西部の山脈を超える空路で、クーデターに加担した第8艦隊(シルミウム級ペルーシェ、アルパド級ラスズャーシュほか小型艦艇6隻と輸送艦8隻)が第992胸甲騎兵連隊、第223機械化歩兵連隊、第101騎砲兵連隊を輸送艦に載せてリューレンニを目指した。この艦隊は、山脈を超える途中でクランダルト軍のネーケクルグムを中心とする小艦隊と遭遇し、発砲こそなされなかったものの進路妨害により小競り合いとなった。ラスズャーシュが体当たりで情報収集艦ヴァイネベルテンを航行不能させたことで、クランダルト艦隊はこれを曳航して撤退したが、ラスズャーシュも大破したため乗員は脱出して自沈させた。艦隊はその後もリューレンニを目指したが、リューレンニまであと少しのところで空母シュトラサを旗艦とする南パンノニアの主力艦隊と遭遇したため、第8艦隊は撤退を決定した。しかし陸軍部隊は撤退を受け入れず、輸送艦をそのまま降下させ、陸路でリューレンニを目指した。シュトラサ艦隊は艦載機で追撃しペルーシェ含む第8艦隊の大部分を撃破したが、その間にクーデター軍はリューレンニを占領した。
29日の夜までに、南パンノニアの北部1/4はクーデターに加担した自由パンノニア軍の支配下に入った。この極めて迅速な占領は、クーデター軍が南パンノニアの反政府勢力の懐柔に成功したこと、また、辺境における南パンノニア軍の士気と装備が壊滅的なレベルまで低下していたことが理由であると考えられている。
Ⅲ.カルタグ暴動
29日の夕方、カルタグでは北パンノニアでの混乱が波及する形で市民による暴動が発生した。大統領府、国営銀行、裁判所などの施設が爆破されたほか、高級住宅地などが焼き払われ、食糧生産所を含む都市インフラの大部分が暴徒の手に渡った。この暴動は、民族主義的な、統一を求めてのものというよりも、純粋に崩壊した経済からの不満によるものであり、それまでと同じ反ヴェリメニスク的な、反政府的な暴動であった。ヴェルメニスク含む政権閣僚は、ルヴャニェシュに近いキトリャヴェツィへ避難したが、これによって南パンノニア政府および参謀本部は事実上機能停止に陥った。南パンノニア軍は指揮系統が一時的に崩壊したため、兵士たちは国土が北からきた少数に過ぎないはずのクーデター軍に占領されていくのを黙って見ているしかなかった。
Ⅳ.『想定外の事態』
列強各国にとって、それまで火種はあったとはいえ、南北パンノニア全土がたった1日で戦火につつまれるというのは想定外の事態だった。
a.クランダルトの対応
クランダルトにとっては、カルタグ暴動のような状況はまさに南パンノニアの再傀儡化に都合の良いはずであったが、何らかの介入をするような余力はなかった。その原因は単純な戦力不足であった。損傷したヴァイネベルテンをグレーヒェン工廠まで回航するには、護衛に2隻ほどつけたいところだったが、そうするとネーケクルグムを護衛する艦がなくなってしまう。貴重だがそれ自体は脆弱な迫撃砲艦と残りの輸送艦を紛争地域に残して帰るわけにもいかず、結局南パンノニアに派遣されていた艦隊は撤退するしかなくなったのである。
といって、本国から遠く離れたパンノニアに追加の部隊を派兵することは国民感情的にも補給的にも難しかった。また軍部の間にもこれ以上の面倒事は避けたい、パンノニアとは関わらない方がいい、という意見も強かった。(対六王湖に必要な戦力を分散させられることを嫌っていたこともその一因である)加えて、非常に高価な情報収集艦ヴァイネベルテンの大破に対する軍部への厳しい責任追求も、追加派兵の決断を困難にしていた。
そうした事情から、クランダルト軍が南パンノニアで動かせる戦力はグランツェル1個準飛行隊12機のみだった。それでもクランダルト外務省はこの非常に小さな戦力を有効活用しようと試みた。29日の深夜、戦艦4隻を中核とする艦隊を派遣予定というブラフとともに駐カルタグ大使は南パンノニア政府に対して4箇条の要求を行った。(メーシテンボルフ勧告)
メーシテンボルフ勧告
①南パンノニア政府はクランダルト帝国の派遣する治安維持軍を受け入れ、これに警察権を与え、十分な補給と協力を約束せよ。
②南パンノニア政府は自由パンノニア共和国との統一を行ってはならない。
③ヴェルメニスクは退陣せよ。
④カイレモ山を割譲せよ。
キトリャヴェツィへの移動準備中にこの横暴な要求を知らされたヴェルメニスクは、断固拒否と回答した。クランダルト飛行隊はカルタグへ示威飛行の命令を受け、体調不良で出撃できなかった1機を除く、11機のグランツェル部隊がカルタグへ向け飛行した。ヴェルメニスクは、自身の搭乗する輸送機の護衛として発進準備をすすめていたカルタグ親衛戦闘飛行隊(シュガール9機)に迎撃を命じた。もしクランダルトがこれに激怒して本格的に介入すれば、北からはクーデター軍に、首都は暴徒に荒らされていた南パンノニアはほとんど抵抗も不可能であると考えられたが、ヴェルメニスクはクランダルトにそれを実行する余裕がないことを見ぬていた。カルタグ第1親衛戦闘飛行隊は、コトヴァ上空でクランダルトの戦闘機隊と接触し、領空からの退去勧告を行った。クランダルト軍機が警告を無視したばかりか、銃身を稼働させたのを確認すると、カルタグ第1親衛戦闘飛行隊は2度目の警告なしに戦闘を開始した。(この対応の法的正統性については、戦後に論争となった。)戦闘は、対グランツェルを前提に設計された機体で、そのための訓練を続けてきた南パンノニア側が優勢となった。クランダルト軍機が撤退を決めた段階で、クランダルト側は11機中5機を喪失し、一方南パンノニア側は9機中1機が中破しただけだった。
クランダルト軍はこの戦闘を最後に、パンノニア動乱に軍事的な介入は行わなかった。
b.メル=パゼルの対応
メル=パゼルにしても、ハテン級1隻でできることなど皆無に近かった。強いて言えば本国からラケーテ攻撃を行うことは射程的には不可能ではなかったが、そのような暴挙はこのような場合には何の意味もなかった。追加の部隊を派兵するにしても、パルエをまるまる横断しなければならないため、間に合わないのは明らかだった。そのためメル=パゼルは紛争への武力介入のかわりに、この紛争を覗き見しようと試みた。いまだその具体的な内容は開示されていないが、おそらくイツタルは無線の傍受やパンノニア艦の使用するレーダー用電波の調査などをおこなったのではないかと言われている。
c.アーキルの対応
アーキルの場合はやや事情が異なり、この『想定外の事態』はそれほど悪いものではなかった。パンノニア統一に反対し、また連邦からパンノニアが離脱することに反対していた最大の理由である北西部工業地域を棚ぼた的に手に入れたアーキルとしては、もはや政権側が勝利しようとも、クーデター側が勝利しようとも、どちらでも問題はなかった。そもそも紛争が越境した時点で、クーデターが成功すればパンノニアが統一され、失敗すれば連邦が維持される、というような単純なものではなくなっていた。そのためアーキルは、ソルノークに駐留する連邦軍を除き、北西地域より内側へは派兵をせず、この地域の確保を確固たるものにすることのみに専念することにした。
d.その他諸国の対応
列強三カ国以外にも、軍事的・外交的な介入を様々な形で行った国家が20カ国程存在するとされているが、それらもごく小規模なものに過ぎなかった。どの国も人的消耗を非常に恐れていた。たとえそれがかりそめのものだとしても、一度掴み取った『平和』を手放すことは、どの国の世論も容認できなかったからである。こうした介入国の介入動機は、列強三カ国のようにパンノニアにおける利権の維持やパンノニア統一の阻止ではなく、むしろ政治的パフォーマンスの側面が強かったと多くの国際政治学者は分析している。というのも、もし介入をしなかったなら、為政者は外交上のチャンスを無駄にしたとして批判されかねなかったからである。といって、先述したように犠牲は出せなかった。犠牲は出せないが成果は欲しい、という矛盾した状況が、ある種の形式参戦へとこれらの国々を導いたのである。とはいえ、完全に人的・物的損害なく作戦を遂行できたのはネネツ軍だけであり、殆どの国は何らかの被害を負った。
5.混乱の3日間
Ⅰ.4月30日
一般に、クーデターの翌日である4月30日から5月2日までの3日間を、『混乱の3日間(トゥルセルニエ・ラズィエリーレチェノ)』と呼ぶ。
『混乱の3日間』の初日は、クーデター派のさらなる規模拡大から始まった。というのも、列強諸国が大規模な介入を行わない可能性が高いとの噂が早くも広まったため、それならばと統一に向けて加担する部隊が現れ始めたからである。朝8時に新たにクーデターに加担した第22驃騎兵連隊は、第6艦隊に輸送されドレフヴァルへ到達し、同地を占領後、陸路で政権側の根拠地ルヴャニェシュを目指した。これに同調して、ルヴャニェシュ上空で待機するイシュトヴァーンを旗艦とする第一艦隊を排除するために、第106空雷艇隊と第111空雷艇隊が攻撃を行った。この際、記念碑的存在であるイシュトヴァーンを破壊することに対して、隊内でも反対意見が出たものの、部隊長は『あれは艦としては旧式艦で、あれくらいのものはまた作れるし、なんならもっと良いものを作れる』と強弁して攻撃を実行しすることとなった。しかし結果的に攻撃には失敗し、両隊は壊滅した。イシュトヴァーンは右翼端に一発空雷の直撃を受けたものの、巨大戦艦にとってそれはかすり傷程度のものだった。
リューレンニを占領した第992胸甲騎兵連隊、第223機械化歩兵連隊、第101騎砲兵連隊も戦線拡大をはじめた。第101騎砲兵連隊をリューレンニに残し、第992胸甲騎兵連隊は川沿いに東へ向い、第223機械化歩兵連隊は幹線道路を通って南下し、コトヴァを目指した。またオープイェルナイから南西へ移動していた第19戦車連隊、第602機械化歩兵連隊は、リューレンニ占領成功の報告を受けて南へ進路を転じ、この日の夜にはメリの手前まで到達していた。この部隊には、南パンノニアのサプレジ歩兵師団が合流していた。
なお、政府側も反攻を行っており、ほとんどもぬけの殻となっていた空挺第5連隊の本拠地であるオドグャツキ基地に対してトュルプィエヴォから出発した特殊部隊が降下作戦を行い、これを奪還している。
ソルノークには大きな動きはなかったが、長時間に渡り市内で数万の軍勢が銃口を向けあっている様子はソルノーク市民を不安にした。市内のどこかで銃声が聞こえるたびに、またどの所属かも分からぬ飛行機が上空を飛び越える度に、街ではどこからともなくヒステリックな叫び声が聞こえた。4月30日の夜には、街の東半分で停電が起きた。その原因は第1師団の架橋戦車がクレーンを誤って電柱に衝突させてしまったためで、平時なら数時間で復旧できる程度のことだったが、このような状況で作業にあたる電気会社の職員はいなかった。
Ⅱ.5月1日
5月1日は南パンノニア軍の反攻から始まった。深夜2時、機能停止した参謀本部に変わって、セルニューク中将を中心とした南パンノニア防衛委員会がコトヴァで設立され、現地の兵力をまとめ上げ、6個師団(19個連隊)でリューレンニへ出撃した。朝7時ごろにセルニューク中将の部隊とクーデター軍の第224機械化歩兵連隊はエルセト駅周辺で遭遇し、20倍近い戦力差から第224機械化歩兵連隊は壊滅した。道中、近隣のいくつかの部隊は南パンノニア防衛委員会に同調しこれによりカルタグ以西へのクーデター軍の侵入は実質不可能となった。セルニューク中将は昼頃にはヴェルメニスク及び自由パンノニア共和国政府と会談するため、東岸へ飛んだ。セルニューク軍はこの日の13時ごろにはリューレンニを解放した。
一方南東パンノニアでは、第19戦車連隊、第602機械化歩兵連隊がサプレジの占領に一時成功したものの、シェーデ・レ・ニルギセ空軍基地より出撃した対地攻撃機部隊の反撃を受け弾薬の大部分を失い戦闘能力を失った。
こうした状況の中で、この日の昼頃には、概ねこの動乱の勢力図が確定する形となった。まず第一にクーデター派、いわゆるコロムィツェープ政権派の勢力は、南北パンノニア内陸部を中心とした領域を支配し、自由パンノニア共和国の陸上戦力の1/6、艦隊戦力の1/5、航空戦力の1/4を有していた。陸上戦力のうちの大部分は空挺部隊であり、全空挺軍のうちコロムィツェープ政権派に加担しなかったのは第12連隊のみである。加えて南パンノニアの陸上戦力の1/8、および2個航空連隊がコロムィツェープ政権派に加担した。
一方、ルヴャニェシュに逃れた自由パンノニア共和国政府の指揮を直接受ける部隊は、陸上戦力の1/4、艦隊戦力の2/5、航空戦力の1/7であった。ただし陸上戦力の多くは二線級の部隊か、内務省国内軍のような準軍事組織であり装備の点において劣っていた。ほかに、警察及びその他の治安組織は政府に忠実であった。ルヴャニェシュの政府は、主に海岸部を支配していたが、それ以外の地域でも、コロムィツェープ政権側の軍隊の存在しない中立的な地域は、基本的にクーデターに否定的な市民が多かった。
つづいて南パンノニア共和国軍は、殆どが機能停止していたものの、先述したセルニューク中将の部隊が政府とヴェルメニスクに忠誠を誓い、これはリューレンニ―コトヴァ―カルタグ―メリを結んだ範囲と、キトリャヴェツィやアルニのような東海岸地域の統治を維持していた。
最後に、北西地方ではテルスタリから移動してきたラオデギア第一機械化歩兵師団が進駐し、この地域の独立の既成事実化を推し進めていた。ただし5月1日の時点ではまだ北西地方にもパンノニア軍やその他の準軍事組織は存在していた。これらの地域内のパンノニア軍の一部は、その所属をそれぞれの『独立国家』へと変更する宣言を行った。例えば、シュトリャクィ師団(第189驃騎兵連隊、第190驃騎兵連隊、第220竜騎兵連隊、第288騎砲兵連隊)は隊員の殆どがこの地方出身の人間で構成されており、シュトリャクィを首都とするココヴィク自治共和国(旧自由パンノニア共和国領ココヴィク準県、後にアーキル国トランミヂテラーニャ自治州シュトリェツィ県)の国軍として改編された。
5月1日の午後にはめだった戦闘はなかったが、コロムィツェープ政権派は当初の勢いを失い始めていた。当初クーデターに明るい未来を期待した国民の中に、本格的な内戦となることを望んでいる人は一人もいなかった。クーデターから3日経っても結果が出ず、一方であちこちで死者や建築物の破壊が起きている状況は、誰にとっても好ましくないものであっt。コロムィツェープ政権にはそうした国民からの、無形の圧力、早く降伏しろという冷ややかな視線が注がれ始めていた。
ソルノーク市での緊張は未だ続いていた。パルエ有数の人口を抱える大都市ソルノークは早くも食糧不足に陥り始めており、供給ルートの遮断された乳製品や肉が食料品店から消えた。これは大規模な買い占めを招き、それ以外の食料品も昼ごろには殆ど売り切れる事態になった。こうした状況を受けてソルノーク市長ヴィトメニは、唯一市内で自給できる食糧である魚類を非常事態権限で配給制として管理する決定を下した。またソルノーク市長は両軍との間に休戦の機会を当てようと仲介を試みていた。 市民の間には、クーデター派でも、政府でもなく、『動乱という事態そのもの』に対する反感、抵抗も生まれ始めてもいた。市民の一部は本来の生活を取り戻そうと試みた。たとえば、ソルノーク市電は電気の通っている地区で操業を再開した。市民はルヴャニェシュの政府とコロムィツェープ政権がそれぞれに出した『戒厳令』を可能な限り無視して行動した。歌手のリール・パフチャテウは終戦記念公園で民謡『ペルテの木の実は川を流れて』を歌った。この歌はほどなくソルノークで流行しはじめた。
Ⅲ.5月2日
クーデターの失敗が明らかになったと判断したコロムィツェープは、早朝、部下が出勤する前に執務室で処刑を恐れてサーベル自殺した。これを受けてレトレシュ准将は臨時政府を停止させ、統合軍参謀本部特別委員会による軍政への移行を宣言し、た。またレトレシュ准将はソルノークの占領を一旦諦め、態勢を立て直すべく市内の空挺第5連隊及び市を包囲していた2個師団とともに南へ撤退した。この撤退には付近にいたクーデター派の艦隊戦力、航空戦力の全てが投入され、輸送艦で空輸することとなった。准将は最終的にテナ川沿いを上ってアシュレーウを目指すことにした。レトレシュ准将がアシュレーウを目指した理由は、彼の副官を務めたツェルプメニューク少佐の証言によると、①ソルノークから程よい距離にあること、②ヨーヴォからの増援との合流が期待できること、③アシュレーウ駐屯地の第6師団はこの紛争において中立を保っているが、これを懐柔出来た場合同師団の豊富な貯蔵弾薬を利用できること、であった。
この動きを察知した政府側の航空部隊は、この輸送を襲撃し、レトレシュ准将を殺害ないし捕縛してクーデターを終わらせようと計画した。この襲撃には近くの出撃可能な全航空機が参加することとなった。参加したのは、第58戦闘飛行隊(ガモフ19機)、第28戦闘飛行隊(フォイレ22機)、第69戦闘飛行隊(フォイレ12機)、第81戦闘飛行隊(ストロンタム15機)、第3教導飛行隊(ガモフ3機、不明6機)、第6襲撃飛行隊(ヴァド21機)、第9攻撃飛行隊(ヘヴェーシェ21機)、第2管制飛行隊(テルグゼ1機)である。クーデター側の正確な戦力は分かっていないが、少なくとも戦闘機50機、その他航空機80機と言われており、4~6個飛行隊程度と考えられる。
両戦力は、アシュレーウから北200帆里で接触し、戦闘となった。アシュレーウ航空戦と呼ばれるこの空戦は、パンノニア動乱最大の航空戦であると同時に、目覚め作戦に至るまで最大数の航空機が一つの戦場で戦闘状態に入った瞬間であった。戦闘開始4分で双方2割近い喪失を出し、しばらくしてクーデター側の一部は管制機の呼びかけに応じて投降したが、それでもなお防空は強固で輸送船団まで攻撃機は接近できなかった。そのため襲撃は結果としては失敗に終わった。
しかしアシュレーウ上空に辿りつくと、レトレシュ准将の期待とは裏腹に第6師団は市内への立ち入りに抵抗した。アシュレーウ城周辺に配置された強固な対空陣地のために、艦隊は市内へ接近できなかった。行き場を失った艦隊はそのまま郊外に部隊を降ろし、ヨーヴォからの合流を待って陸上から市を包囲して占領を試みることにしたが、ヨーヴォから合流する予定であった部隊は、途中で政府側の艦隊の艦砲射撃を受けヨーヴォへ引き返したとの連絡が入った。
この連絡を受けてレトレシュ准将もサーベル自殺した。これによって指導的役割にあった人物を失ったクーデター派は、より統制の無い武装集団と化し、それぞれが独断で行動するようになった。ある部隊は投降し、また別な部隊はテロ組織化した。さらに別な部隊はマフィアと結びついて軍閥化し、地方を支配しようと試み始めた。
主敵こそ倒したものの、どうすれば終わりなのかわからないという状況に、ルヴャニェシュの北政府もキトリャヴェツィの南政府も困惑するしかなかった。民衆の生活は混乱のために一層困難になっていった。ソルノークでも、市内での戦闘こそなくなったものの、都市インフラの回復の目処は立たず、市民は困難な生活を強いられていた。
ソルノーク駐留連邦軍はアーキル本国から届く救援物資を市民に配布したが、『北西地域を奪っておいて善人面か』『外国人は去れ』などの罵声を浴びせる者、我先にと物資を受け取ろうとして喧嘩になる者なども現れ、ソルノーク市警と国内軍第1特別保安連隊は市内の治安維持に腐心していた。
最終更新:2020年03月22日 14:48