パンノニア動乱を今一度振り返ろう 後半

6.イシュトヴァーン政府の樹立

Ⅰ.エシュトレウの帰還

 5月3日の昼、エシュトレウ元首相が夫と娘とともにルヴャニェシュを訪れた。このことはルヴャニェシュの閣僚たちを大いに喜ばせた。当時、民衆、特にソルノークの市民からは政府はクーデターを引き起こした無能であり、ソルノークを捨てて逃げた裏切り者であるとして見なされ、むしろソルノーク市長ヴィトメニの方が信頼があつかった。しかし、かつて人気のあったエシュトレウなら、ソルノーク市民やヴィトメニと良い交渉もでき、政府の正統性を示せるのではないかと閣僚たちは考えたのである。生存率17%と言われるテルスタリ風邪から奇跡的に回復したものの、その後遺症として両目を失明していたエシュトレウは、一人で歩くことも困難だったが、しかし往時のカリスマ性は健在であった。

 カルメ首相は、エシュトレウに政界復帰の意欲があることを確認すると、彼女に首相を譲り(自由パンノニア共和国憲法第43条:共和国首相は、第32条の定める非常事態に限り、議会の承認なく自身の任期を引き続く形でその指名する人物を首相とすることができる。)、組閣を命じた。エシュトレウは以下の人事を決定し、残りは動乱解決後に指名するとした。

 

首相        リゼナ・エシュトレウ(元首相)

副首相        ザージルト・カルメ(前首相)

内務大臣    アンルヴィト・クルセンツューク(続投)

外務大臣    レルデッシュ・ツェルメイェウ=ビャトリュンシェン(前外務副大臣)

大蔵大臣    エトレジッツ・トストーリ(前ルヴャニェシュ市長)

陸軍大臣    ベルトセ・セ・レークリイェヴォ(続投)

空軍大臣    クレウトヴェナ・ソルヴェンスィク(第1艦隊司令長官)

報道大臣    ネルデ・ロトルヴィン(続投)

 

 ソルヴェンスィクが空軍大臣となったことで空いた第1艦隊司令長官の座には戦艦イシュトヴァーン艦長リドレラ・メステシェ・ツァストロヴァールがついた。

 また、エシュトレウは対南パンノニア問題委員会を設立した。これは事実上の統一問題解決のための組織だった。エシュトレウは動乱はパンノニアの統一及び連邦離脱を宣言しない限り終結しないと判断しており、それは可能だと考えていた。対南パンノニア問題委員会委員長には、長年南北交渉に使われてきたミャルズィメジェ城の城主でありルヴャニェシュの行政長官だったノゼルヴォーラ・K・イェウビャスクロウ=プステメルニ・レン・チェルストヴォが選ばれた。

 エシュトレウの新内閣が、国外からの圧力を意識して統一へ踏み切れなかったそれまでの自由パンノニア政府の方針を変更し、統一に向けて動くよう決めたのは、クーデター派のような狂信的ナショナリズムのためではなく、さまざまな打算があった。まず第一に、アーキルはパンノニア大使館に向けて、何度も『北西地方のパンノニアからの独立さえ承認すれば統一を妨害しない』とのメッセージを送ってきていた。また南パンノニア外務省から流れてきた不確定な情報としてではあるが、エシュトレウはクランダルトにこれ以上介入の余裕がないことを知っていた。こうした事情から、今ならば(あるいは今だけ)ある程度の妥協さえすれば、統一のチャンスがあると考えたのである。

 

Ⅱ.ミャルズィメジェ会談

 レン・チェルストヴォは、対南パンノニア問題委員会委員長に任命されると、すぐにでも南北会談を行う用意があるとエシュトレウに進言した。彼女のもとにはすでにキトリャヴェツィの南パンノニア政府から独自のルートで使者が来ていた。エシュトレウはさっそく会談実施の調整をレン・チェルストヴォに命じた。レン・チェルストヴォはまず外務大臣間の会談をミャルズィメジェ城で行うことにした。これは、首脳会談の前に双方が相手の意図を把握する機会を得られるようにするためだった。

 翌5月4日の早朝、ミャルズィメジェ城に南パンノニア外務大臣ツェラヴィスト・カデルスティクが到着した。ツェルメイェウ=ビャトリュンシェンは朝食もとらないままカデルスティクと『風鈴の間』で会談した。ここは奇しくも505年に自由パンノニア共和国の建国宣言を行った場所でもあった。エシュトレウは前日の晩に閣僚と協議した戦後処理案をカデルスティクに提示した。カデルスティクはその案に好意的な態度を取り、昼前にキトリャヴェツィへ帰った。ヴェルメニスクはカデルスティクの報告を喜び、レン・チェルストヴォの提案した5日昼の首脳会談を受け入れると発表した。

 5日夕方、東パンノニア鉄道で発生したテロへの警戒から海路で移動したためやや遅れて到着したヴェルメニスクは、エシュトレウと6時間に渡る首脳会談を行った。この2つの会談をあわせて『ミャルズィメジェ会談』と呼ぶ。この会談によって、パンノニア動乱の終結と、パンノニア統一への大まかな道筋が決定づけられた。

 

ミャルズィメジェ合意

・両パンノニア政府は、事態収拾には最大限の協力が必要であることから、一時的に両国の行政府及び警察組織、軍事組織の全てを、ルヴャニェシュにおいて設立される両パンノニア連盟の指揮下におく。

・条約都市ルヴャニェシュの非武装条項は解除される。両パンノニアの軍隊は、その治安維持のために5月20日まで陸海空軍を領域内に配置することを許される。(この合意が結ばれるまで自由パンノニア第一艦隊はルヴャニェシュの非武装条項に違反してルヴャニェシュ内に停泊していた。)

・両パンノニア連盟は統一されたパンノニア政府の設立に向けて、国内において、また外構において努力する。

・両パンノニア連盟は、来たるべきパンノニア統一のために、憲法制定会議を設立する。

 

 憲法制定会議は、5月7日に設立され、これが事実上両パンノニア連盟の意思決定機関として機能するようになった。主要な議員は以下の通り。

 

自由パンノニア共和国首相リゼナ・エシュトレウ

南パンノニア共和国大統領スィスルツ・ヴェルメニスク

条約都市ルヴャニェシュ行政長官ノゼルヴォーラ・K・I・P・レン・チェルストヴォ

沿地中海経済連盟会長リュイ・F・コンツェントィーリ

ソルノーク市長ニャスト・ヴィトメニ

南パンノニア食糧公社社長ナルナヴェナ・ルフシュテンバッハ=ゼリスィク

他、学者、事業家等26名。

 

Ⅲ.『イシュトヴァーン政府』へ

 5月6日、ミャルズィメジェ合意のニュースが各地に流れると、これに反対する人物(クーデターに加担していた人物か、それとも反統一過激派か、あるいは海外の介入勢力によるものかは未だ諸説あり、明らかになっていない。)3名によるミャルズィメジェ城への迫撃砲によるテロが発生すると、両パンノニア連盟はその活動拠点をミャルズィメジェ城とすることについて安全性の面から疑問が生じた。そこで両パンノニア連盟はもっともテロから安全な場所として、その拠点を戦艦イシュトヴァーン号艦内とした。この頃になるとクーデターに加担していた艦隊はほぼすべて投降しており、空が最も安全であると考えられたからである。

 なお、当時そのような呼び方は無かったものの、680年代以降の歴史家たちは、(初出はK・ラーツェントゥス『統一パンノニア成立史』か?)この時期の両パンノニア連盟を『イシュトヴァーン政府』と呼んでいる。

 なお、5月8日の夕方には航空機4機によるイシュトヴァーンへの雷撃が、また9日昼には地対空誘導弾12発による第一艦隊への攻撃が行われた。どちらも失敗に終わったものの、戦艦イシュトヴァーン号へ拠点を移す決定が果たして安全確保の意味で正しい選択であったかについては今も議論されている。

 

Ⅳ.国王の即位

 5月7日、憲法制定会議は協議の結果、事態収拾には『統一されたパンノニアの復活』のシンボルとして王が不可欠であると判断した。もともとパンノニア王家は、属国時代には傀儡として、直系のカルタグ・メルヴォウ家が形式的には存在していたが、カルタグ・メルヴォウ家最後の国王セルヴィト3世は648年に子を残さず死去したため断絶していた。王位継承順位が最も高かったのはツェストラヴァニ・メルヴォウ家のファーディリイ・メルヴォウだったが、彼は南パンノニア共和国国王への即位を『無意味』として拒否していた。南パンノニア連盟はツェストラヴァニへカデルスティクを派遣し、ファーディリイに『統一パンノニア国王』へ即位するよう要請した。この時のことについて、一つ有名なエピソードがある。カデルスティクの自伝から引用してみよう。

 

カデルスティク『外交官という人生』より

私は、「パンノニアの統一と秩序回復にはあなたの力が必要だ」と言った。するとファーディリイは、厳しい目つきで「私ではなく、『国王』の称号を持つ者の力だろう」と聞き返した。私はとっさに、「その通りです」と答えた。するとファーディリイは突然微笑んで、執事に自分と私にお茶と菓子を持ってくるよう言った。そこからは不思議にも話がすんなりと進んだ。(中略)後に王妃からこの時のことについて話を聞くことができた。どうやらファーディリイは、私が正直に答えたのを評価して、同意してくれたのだという。もし、『いや、あなたでなければならない』と私が言っていたなら、拒むつもりだったのだと。王妃は、『もし、パンノニアの統一にある個人が不可欠なのだとしたら、そんな不安定な統一はすぐに瓦解する』と彼が何度も語っていたという話を聞かせてくれた。

 

 ファーディリイがパンノニア王即位に同意したことで、両パンノニア連盟はようやく紛争終結の目処が立ったと感じることができた。カデルスティクは、シュトラサを旗艦とするカルタグ艦隊の護衛のもと、ファーディリイをカルタグへ移動させ、9日に南パンノニア上院が置かれていた旧カルタグ王宮で即位式を行い、ファーディリイは全パンノニアに向けた演説を行った。この演説を受けて、『パンノニア統一』をそもそもの目的としていた自由パンノニア軍のクーデターに加担していた部隊の殆どは、それが現実のものとなろうとしていることをようやく悟り、ほぼ全ての部隊が投降した。また多くの国民にとって、両パンノニア連盟がパンノニアの正統政府であることを実感させ、ほぼ全ての地方自治体がその指揮下に入ることに同意した。

 

Ⅴ.ソルノーク演説

 両パンノニア連盟はつづいて、『国王』を北側でも演説させようと考えた。『御召艦』にはシュトラサが選ばれた。『御召艦』シュトラサを旗艦とするカルタグ艦隊と、両パンノニア連盟の拠点たるイシュトヴァーンを旗艦とする自由パンノニア第一艦隊が合流し、この二隻が翼を並べてソルノークの上空を飛ぶという光景は、国内外へ統一はもはや決定した出来事であるとアピールする上でこの上なく理想的な光景だった。

 両艦隊はシェーデ・レ・ニルギセ上空で合流し、そこからドレフヴァル、ラスズャーシュ、イツィトロヴァ、ペルーシェ、ノーアルジェヴィ、トュルプィエヴォ、オドグャヅキなどの沿岸各都市を回って東からソルノークへ向かった。ソルノークには5月11日に到着した。

 ファーディリイはソルノーク上空につくと、演説をはじめた。(ソルノーク演説)それが一通り話し終わると、彼は一つ歌を歌うと言った。これは両パンノニア連盟が作成していた台本に従ったもので、そこではパンノニア統一の悲願についての歌である『パンノニアは永遠なり』(パンノニア統一運動南北同盟会の制定した歌)を歌うことになっていた。しかし、実際にファーディリイが実際に歌ったのは、『ペルテの木の実は川を流れて』だった。護衛機として随伴していたシェツェプレード8機は、スピーカーからソルノークのすべての場所でそれが聞こえるように放送した。ファーディリイが台本を無視したのは、第一にパンノニア統一運動南北同盟会はそれまで国内外に敵を作りすぎていたこと、第二にソルノーク市民の間で『ペルテの木の実は川を流れて』が流行していたことを彼は知っており、ソルノークで歌うならばこれしかないと考えていたためだった。ソルノーク市民はこれに歓喜した。彼こそが真に我らの王たる資格のある人物だと、その歌一つで理解したのである。両パンノニア連盟の多くは驚いたが、しかしそれが人々から好意的に受け取られていることに気づいたため彼を責めなかった。

 また、この演説はラジオで全パンノニアに放送されていた。放送を聞いていた人々は、家の中で、あるいは公園で、また家電屋の中で、居酒屋で、統一されることとなったこの国の、ありとあらゆるラジオの前で、『ペルテの木の実は川を流れて』を歌った。統一の理想が生んだ分断が、ようやく終わった瞬間であった。

 

7.戦後処理と統一への歩み

Ⅰ.テュヴィヴァン条約

 パンノニア動乱の最終的解決のため、各国はパンノニアと全関係国による会議と、明文化された条約の締結を望んだ。サン=テルスタリ皇国は、その開催地の提供を提案し、各国はそれに同意した。サン=テルスタリ政府とパンノニア政府の協議の結果、パンノニア資本が多く投入され建設された都市であるテュヴィヴァンにおいてその会議は開かれることとなった。会場は自由パンノニア共和国大使館の保有するホテル『レシュルティエ・ペトリャッテ』の中央ホールが選ばれた。

 5月19日、シュルティエ・ペトリャッテに集まった各国代表は、丸一日会議を行い、翌日である5月20日にこれを条約としてまとめあげた。これが、いわゆるテュヴィヴァン条約である。(691年に同地で締結された、『医薬品輸出入に関する国際条約』との混同を避けるため、教科書等ではしばしば『テュヴィヴァン条約(654)』と表記する)

 

テュヴィヴァン条約

第一条 調印国は、パンノニアにおける統一国家の樹立を妨げない。

第二条 調印国は、パンノニア国内にパンノニア政府の許可なく派遣されている軍及びその他の武装組織を速やかに撤兵させる。

第三条 パンノニア政府は、パンノニア動乱によって生じた各国の損害について、十分な補償を行う。

 

他に、個別に結ばれた条約もあった。アーキルと北西地方の国家群の間には、連邦解体条約が、またアーキル国そのものとはアーキル・パンノニア貿易協定が締結された。

 

連邦解体条約

第一条 アーキル連邦は、654年5月20日をもって消滅する。

第二条 アーキル国は、パンノニア地方を除くアーキル連邦の全財産を継承し、またアーキルの連邦の外交関係を継承する。

第三条 パンノニアは、パンノニア地方のアーキル連邦の全財産を継承する。

第四条 連邦軍は解体される。

第五条 パンノニア北西地方の諸国家群は、アーキル国に統合される。

 

アーキル・パンノニア貿易協定

674年1月1日まで、アーキル国とパンノニアは、互いに関税をかけてはならなず、また、互いに最恵国待遇を約束する。この期限は、双方の同意によって5年ごとに延長することができる。

 

またクランダルトとの間には、カイレモ山租借条約が締結された。

 

カイレモ山租借条約

クランダルトは、カイレモ山を1年につき80億ダルクで30年間パンノニアより租借する。

 

 こうしてパンノニア動乱及びパンノニア統一問題は、『引き分け』(パンノニアは統一を各国に承認させた一方で、片務的な損害補償と北西地方のアーキルへの割譲の明文化を強いられた)の形で、ひとまず外交問題としては片付いた。しかしパンノニア国内では、その統一を実際に成し遂げるために長い努力が必要であった。

 

Ⅱ.統一パンノニアの成立とその後

 誰もが、『イシュトヴァーン政府』のような体制はあくまで一時的なもので、持続可能なものではないと理解していた。憲法制定会議は南北の全く異なる体制のすり合わせに難航していた。国民も、気持ちの上ではともかく、実生活としては統一に大賛成というわけではなかった。特に南部の国民の多くは、グロシク退任以降の混乱の経験から、急速な変化を警戒していた。それでなくとも南北パンノニアは、百年以上の隔絶で、経済構造にせよ社会構造にせよ、何もかもが違っていたのである。両パンノニア連盟は、現実にはパンノニアがいきなり一つの国となるのは不可能だと判断した。

 そこで持ち上がったのが、連合王国構想であった。ひとまず制度上は別々の国(北パンノニア王国/南パンノニア王国)として残したまま、パンノニア国王はそれぞれの国王であるとし、2つの立憲王国を同君連合とする。そしてそれぞれの王国では動乱前に近い政治・経済体制が残され、将来的な統合に向けて少しづつ調整するという構想であった。(いわゆる『連合王国時代』。654-674)憲法制定会議は全会一致で国民投票の実施を可決し、翌日に行われた国民投票は投票率92%、賛成89%で可決した。宮殿は、国境線とニルギス川の交点に新たに建設されたシルナトリツェ=パンノーニュへカルタグから移転され、全パンノニア連盟は連合王国政府と名を改めた後、イシュトヴァーンを降りてシルナトリツェ=パンノーニュを拠点とした。両王国はソルノークとカルタグを『州都(イステルヴァッテ)』とし、そこに旧自由パンノニア及び南パンノニアの政府を概ねそのまま残した。

 テュヴィヴァン条約から1年後の655年5月20日、連合王国はそれまで特に定められておらず表記ゆれのあったその国号を正式に統一パンノニア王国とした。一般にこの年が統一パンノニア王国建国の年であると見なされている。

 完全な統一への調整は時間をかけ段階的に行われた。建国の年の末に人の移動の自由が取り決められられたのをはじまりとして、657年に国軍の統合、660年に刑法の統合、662年に産業規格の統合、665年に物の移動の自由、669年に民法の統合、674年になってようやく憲法の統合が実施された。動乱から20年のこの年ついに名実ともに統一国家となったのである。これにともなって憲法制定会議はようやく解散した。この緩やかな統合計画が功を奏し、675年にはパンノニアはメオミー景気と呼ばれる好景気を迎えた。さらに679年にはセレネ景気と呼ばれるそれ以上の好景気を迎え、684年にはソナ景気でそれをさらに上回った。これらの時代は、パンノニアにおける高度経済成長期と見なされている。

 

Ⅲ.諸外国への影響

a.アーキルへの影響

 アーキルにとって、パンノニア動乱は将来的な摩擦の可能性のある大国を近隣に誕生させたという点では失敗だったものの、アーキルの生命線であった北西地方を事実上割譲することができたため、全体的な結果としてはそう悪くはなかった。テュヴィヴァンにおいて締結したアーキル・パンノニア貿易協定は、動乱が北東パルエ経済圏の混乱を防ぐことができ、アーキルは動乱後経済的にはより安定した。重要な事実として、動乱後から現在に至るまでディナールは極端なインフレを起こしていない。そうした点から、アーキルはこの動乱から比較的良い成果を得られた国家であると考えることもできるが、パンノニアを除いて最大である21名の死者を出したという事実もある。

 また、アーキルは自由パンノニア共和国という最大の同盟国を失ったため、北東パルエにおける軍事的・外交的プレゼンスが大きく低下した。このためアーキルは、次なる同盟国を探さなくてはなり、正統アーキル条約の締結を急いだ。アーキルが次なる同盟国として最も注目していたのは、経済的・軍事的結びつきがもとから強く、友好関係を築いていた東アノールだった。

 

b.東アノールへの影響

 動乱以前、東アノールは『旧連邦最大の影が薄い国家』と呼ばれた程その存在感がなかったが、先述したようにアーキルからパンノニアにかわって重要視されるようになったことで、相対的にその存在感は大きくなった。アーキルからの多大な援助と、それを活用した国民によって国力を伸ばした東アノールは、動乱前と動乱20年後では国内総生産が実に519%も上昇している。このことは投資家たちを注目させただけでなく、東アノールを名実ともに正統アーキル条約機構ナンバーツーの国家としての力をこの国に与えることになった。

 

c.メル=パゼルへの影響

 列強のうちの一国であり、パンノニア動乱以前から統一阻止のためにさまざまな外交努力を行ってきたメル=パゼルだったが、しかしいざ動乱が起きてみると情報収集以外特に何もすることができなかった。この事実は、メル=パゼルにとって屈辱的であり、軍事力は戦力投射能力を伴ってはじめて意味があるものであるということを痛感させられた。この経験によって艦艇設計やドクトリンを見直したメル=パゼルは、後の目覚め作戦において非常に長距離を遠征しなければならなかったにも関わらずスムーズな移動と補給を実現することができた。

 

d.クランダルトへの影響

 クランダルトもメル=パゼルほどではないとはいえ軍事力を持ちながらそれほど有効な介入を行えなかったが、これは戦力投射能力の問題というよりも、低い国内安定度と、決して良いとは言えない旧属国群との関係にあった。クランダルトは、統一阻止、再属国化というそもそも現実味の低かった目標が結果として明らかな失敗に終わったことで、むしろこれらの問題を直視できるようになった。動乱後クランダルトはその外交政策の中心を六王湖の封じ込めとしつつ、国内外の諸問題の解決に努力した。

 

e.六王湖への影響

 南パンノニア西部にクランダルト軍が存在していたことで、六王湖は動乱そのものには特にいかなる目的の介入も行えなかったが、動乱後にはパンノニアに対して友好的な関係を持つ国の一つとなった。六王湖は動乱以前より南パンノニアとの間に強い経済的・政治的結びつきがあり、共通化された規格や、十分に開発された輸送路のおかげでパンノニアとの貿易が非常に発達していた。こうした事情から、六王湖は統一パンノニアの成長のおこぼれをもらいつつ成長した。

 

 これらの国以外にも、全ての国がパンノニア動乱とパンノニア統一から何かしらの影響を受けた。パンノニアの統一の影響を受けなかった国家というものは、パルエの中に一つとしてなかった。全ての国は、この突如として現れた大国といかに向き合うべきか、様々な策を練らなければならかった。

 

8.パンノニア動乱とは何であったか?

Ⅰ.軍事的側面から

 この紛争は、この時代3つの大きな軍事的変化を明らかにした。

 第一の変化はスピード化である。この紛争は期間としては非常に短く、初日と混乱の3日間を足したたった4日間に、これほど広範囲に戦乱が拡大し、前線は長距離を行き来した。これは、大戦期よりもはるかに進歩した空陸協同、陸上戦力の機械化の進歩の現れであったと言える。また実際、機械化されていない二線級の戦力は、この紛争においてほとんどなんの影響力も持たなかった。

 第二の変化は技術のもつ優位性が極端に大きくなったことである。例えば、第106空雷艇隊と第111空雷艇隊によるイシュトヴァーン襲撃が大失敗に終わったことはその象徴である。レーダー射撃と近接信管によって空雷艇の殆どは接近する前に破壊され、発射された誘導空雷のいくつかは迎撃され、また別ないくつかは電波妨害によって誘導に失敗した。その結果として2個艇隊28隻で攻撃して命中したのはわずか1発だったのである。他にも、地上でも旧式装備では新型兵器に歯が立たないという事態があちこちで起こっていた。このことは、規模を縮小してでも質を向上させる必要があることを明らかにし、各国に装備の更新を急がせた。旧式艦艇の多くは練習艦などに変更されたほかは退役させられるかモスボールとなった。(なお、モスボールとして保管された艦艇の一部は目覚め作戦にあたり復帰した。)

 第三の変化は犠牲者を出すことがこれまで以上に許されなくなったことである。先述したように多くの国々は世論から犠牲者を出すことを非常に恐れており、損害のない介入という矛盾した要求から形式参戦を余儀なくされた。ソルノーク平和研究所のR・ゼトリックは、パンノニア動乱以降世界では全面戦争が不可能になったと述べている。また氏は、その例外が目覚め作戦であるとしており、その理由は巨大な統一された目的意識の存在を挙げている。逆に言えば、パンノニア動乱においては、いかなる国もはっきりとした目的を決めることも、またそれを国民間で統一することもできていなかった。

 大戦終戦からたった十年でこれほどまでに戦争の形が変わってしまったことはあまりにも大きな衝撃であり、その衝撃は各国の軍隊においてドクトリンを一新させる必要があることを明らかにした。保守的な戦術家は軒並み考えを改めるか、さもなくば追放されるしかなかった。

 

Ⅱ.文化的側面から

 封鎖下のソルノークで、民謡『ペルテの木の実は川を流れて』が流行し、それがしだいに動乱解決の一つの象徴となった、というエピソードについては、すでに何度か触れた。勇敢でもなければ、民族主義的なニュアンスも、国際主義的なニュアンスもなく、いかなるイデオロギーも持たない素朴な民謡だったが、それこそが古き良きパンノニアの原風景を回想させるものとしてあらゆる市民を連帯させた。それは、『統一の理想』が結果として『さらなる分断』を生んだことへのある種の反省であり、そうした気運だけが全てではなかったとはいえ、そうした側面もあったからこそ、パンノニア動乱はあれだけの混乱にしては速やかに収束できたと考える学者も少なくない。

 そういう視点で考えると、パンノニアの動乱後の政策は、『さらなる分断』への警戒が随所にあらわれている。段階的統一はまさにそうした例であるが、より細かな点においても配慮はなされている。例えば、連合王国の公用語は『全てのパンノニア語』という言葉によって定義された。北方と南方のどちらかが上位の標準語なのではなく、すべてパンノニアの言葉であるというゆるやかな仲間意識は、パンノニア・ナショナリズムの急進化の終焉の一つの象徴であるといえよう。ソルノーク方言とカルタグ方言にはそれほど差はないものの、例えばアシュレーウ方言は首都から『古文』扱いされ、またイツィトロヴァ方言には『パンノネクル語』という蔑称がついていた時代があったことを鑑みれば、それは一つの文化的進歩であった。

 パンノニア・ナショナリズムのあり方が変化したことで、全パンノニア作家同盟は656年に分裂解散した。実際にそれが実現したいま、『統一』という言葉は魔法の力を失った。『パンノニアなるもの』とはなにか、人々は見つめ直さなければならなかった。そしてそれこそが新しいパンノニアを作り上げていった。

 パンノニア動乱によってパンノニアが得た最大のものとは、統一でも、それによって得た国力、地位でもなく、『持続可能な民族意識のあり方』ではないか、とW・メルカミヤン氏は記している。

 

8.統計

Ⅰ.各国の損害

自由パンノニア共和国(政権側/クーデター側あわせて)

死者・行方不明者2203名(軍人1890名、民間人223名)

負傷者16121名(軍人11292名、民間人4829名)

艦艇21隻喪失、29隻大破

航空機89機

戦車86両

装甲車128両

その他軍用車両269両

 

南パンノニア共和国

死者・行方不明者3654名(軍人2112名、民間人1542名)

負傷者21080名(軍人15022名、民間人6058名)

艦艇3隻喪失、6隻大破

航空機48機

戦車112両

装甲車172両

その他軍用車両311両

 

アーキル(国軍及び連邦軍)

死者・行方不明者21名(軍人20名、民間人1名)

負傷者105名(軍人73名、民間人32名)

航空機2機

戦車4両

その他軍用車両12両

 

クランダルト帝国

死者・行方不明者17名(軍人17名)

負傷者76名(軍人54名、民間人22名)

艦艇1隻大破

航空機4機

 

メル=パゼル共和国

死者・行方不明者2名(軍人2名)

負傷者6名(軍人6名)

艦艇1隻小破

 

東アノール

死者・行方不明者3名(民間人3名)

負傷者12名(軍人1名、民間人11名)

 

サン=テルスタリ皇国

負傷者4名(民間人4名)

 

ワリウネクル諸島連合

死者・行方不明者1名(民間人1名)

 

マン王国

負傷者1名(民間人1名)

 

合計

死者・行方不明者 5901名

負傷者 37405名

 

Ⅱ.664年度(動乱から10年後)意識調査

文化社会省による調査、664年8月1日実施、用紙配布によるアンケート形式

対象約600,000人、無回答は除外

※小数点以下を四捨五入しているため、足しても100%にならない場合があります。

 

動乱の意義について

①パンノニア動乱は統一のために必要であった

すごくそう思う        8%

ややそう思う        12%

どちらともいえない    23%

あまりそう思わない    32%

全くそう思わない    25%

 

②パンノニア動乱は起こるべくして起こった

すごくそう思う        25%

ややそう思う        34%

どちらともいえない    12%

あまりそう思わない    21%

全くそう思わない    8%

 

③パンノニア動乱は私の人生を変えた

すごくそう思う        78%

ややそう思う        18%

どちらともいえない    2%

あまりそう思わない    1%

全くそう思わない    1%

 

北西地方について

④統一パンノニア王国は北西地方への請求権を持つ

すごくそう思う        67%

ややそう思う        21%

どちらともいえない    9%

あまりそう思わない    1%

全くそう思わない    2%

 

⑤北西地方の住民が望むなら、併合すべきだ

すごくそう思う        27%

ややそう思う        27%

どちらともいえない    25%

あまりそう思わない    11%

全くそう思わない    10%

 

⑥北西地方の住民が望まなくとも、領土回復を試みるべきだ

すごくそう思う        12%

ややそう思う        23%

どちらともいえない    31%

あまりそう思わない    21%

全くそう思わない    12%

 

現状について

⑦今の国家の状況は分断当時より良い

すごくそう思う        62%

ややそう思う        24%

どちらともいえない    10%

あまりそう思わない    1%

全くそう思わない    3%

 

⑧今の個人的な状況は分断当時より良い

すごくそう思う        43%

ややそう思う        38%

どちらともいえない    8%

あまりそう思わない    4%

全くそう思わない    6%

 

⑨統一パンノニアは最良の国である

すごくそう思う        82%

ややそう思う        8%

どちらともいえない    6%

あまりそう思わない    2%

全くそう思わない    2%

 

⑩統一パンノニアは世界をリードしている

すごくそう思う        42%

ややそう思う        26%

どちらともいえない    16%

あまりそう思わない    11%

全くそう思わない    5%

 

政策について

⑪段階的統一政策はうまくいっている

すごくそう思う        23%

ややそう思う        41%

どちらともいえない    21%

あまりそう思わない    5%

全くそう思わない    9%

 

⑫将来的な南北の憲法統合に賛成である

すごくそう思う        33%

ややそう思う        21%

どちらともいえない    20%

あまりそう思わない    12%

全くそう思わない    4%

 

⑬国王を支持する

すごくそう思う        46%

ややそう思う        20%

どちらともいえない    15%

あまりそう思わない    10%

全くそう思わない    9%

 

⑭動乱の犠牲者への補償は十分である

すごくそう思う        12%

ややそう思う        10%

どちらともいえない    12%

あまりそう思わない    35%

全くそう思わない    31%

 

9.さいごに

 動乱から六十年近くが経とうとするいま、当時を正確に記憶する者は少ない。他のあらゆる出来事と同様に、『歴史に学ぶ』の名のものとに、おのおのに都合の良いように解釈されている現状もある。例えば、優秀な民族であるパンノニア人が、外国の分断工作に対して、手を取り合って立ち向かい、これを打ち倒して統一を成し遂げた戦いだったのだと。または例えば、裏切り者のパンノニア人から、我々の力で建てた工場を、みごとな調略で奪い返したのだと。

 実際のパンノニア動乱は決してそのような単純なものではなかった。このコラムで示したように、そこにあったのは、巨大な歴史の力と、無為の混乱と、そしてなにより、今シルナトリツェ=パンノーニュの記念公園の石碑にその名の刻まれている、5901人の犠牲者であった。

 我々はこの出来事を、またパンノニアの再統一を、パンノニア史の中においていかなる意義を持つものとして捉えなければならないのだろうか?そして我々はこれからどこに向かうのだろうか?著者の意見をここに書くのはよそう。それは、各々で考えてはじめて意味があることだ。代わりに、章末にこのコラムを書くにあたって参考にした書籍を列記しておいた。興味を持たれた読者の理解の助けになれば幸いである。また、パンノニア王立国際博物館へ訪れる方は、記念公園の石碑も見学されてはいかがだろうか。博物館から東に徒歩わずか10分ほどの距離のところにあり、献花用のエレテッニャの花束もその場で買うことができる。

 

主要参考文献

エ・テプトゥルィク=アンディウスィカ,トーヴァ(710)『パンノニア・ナショナリズムの100年』カルタージュ・ルテ社

ポルティウ,レナ(709)『エシュトレウ時代』ミールムィテ社

ニール,アーリ(702)『パンノニア近現代史』ソルノーク出版

カーゼンベルク,イルフヴルト(699)『偽りの戦隊』ノイエラント新聞新書

N・K・ルッペ,ニャトランディカ(789)『動乱と東アノール』ルティーラ・パルェト社

S・セルヘン,トゥロイ(682)『3日間』ソルノーク出版

ラーツェントゥス,キュイエ(680)『統一パンノニア成立史』KW出版

メルカミヤン,ウラディヤ(673)『南北の文化的統一の過程について』ラオデギア出版

ネーフベルゲ,ルエット(670)『私達は川辺にいた』オルヘフシェン書房

ルイトスレーヘ,ベーンデ(669)『ヴァイネベルテン号の生涯』ニェスル社

エルルコ,ライリヤ(664)『岐路はあったのか』パンノニール新書

エトヴァロラン,メルツほか編(664)『パンノニア統一統計全書』ソルノーク大学出版会

グカラグ,メイリ(663)『メル=パゼル外交史』スィクミ図書

リーレンケン,トゥルロット(662)『南パンノニア政治史』カイリルィン社

アイレルグ,テッラル(661)『白板』アシュレーウ出版

リメドヴォ,テトルヴェナ(661)『声』ヴォード・レールツェン財団出版

カルカン,メフ(659)『パンノニア動乱の全貌』ラオデギア出版

R・ヴャード,クッシス(655)『動乱報道全集』ノイエラント新聞

 

ペルテの木の実は川を流れて

パンノニア民謡

 

ペルテの木の実は川を流れて、

静かな野原へ流れ着く。

泡立つ岸の左岸には、

花に飾られた白い水車小屋。

 

ニ匹のクルカは実を拾い、

庇の上へと実を飾った。

 

海沿いの丘の斜面へ陽は落ちて、

梢に濾された夕日は照らす。

ニルギス川は果汁のごとく、

畑を富ませる果汁のごとく。

 

鮮やかな、春の日の夕べ。

ピスキーリの轍にも、小さなペルテ色。

 

Partela, partela, pertanja oriki,

Di pelle tishane lize sje dirtela,

Par bagu, pinastum par bagu, ljevastum,

Bi kolka bilinka gvatsjemi vodetna.

 

Vozjama pertanju tej kulken, ibenka,

Vodetimao-vrke kolkanan pidoknja.

 

Pavlila, di skatse prokanin sonatja,

Vjatvinim persvjeten sonefa raskrashta

Bikalja, vodera Nirgissjka zhitova,

Bikalja, shtomiren bjagnatni zhitova.

 

Gvatsano jesnano, sofina polatja.

Bi pertenka malka o rize piskilja.

 

 

※太字はアクセントのある母音

 
最終更新:2020年03月22日 14:58