さて、これで今日の講義は終了です。
課題は最後のページに記載してあるので、各自で予習してきてください。
次回は、メガネの論文についての話です。
ええ、あのメガネですよ。
ガラスや樹脂、とにかく透明な素材を用いて視力を調整する矯正器具のことです。
まさか、知らない人はいませんよね。
……よかった。本当に知らない人がいたら、もう少し時間をかけて説明をするところでした。
講義も早く終わっても、貴方達の自由時間が減ってしまうところでしたね。
それにしても、このなかでメガネをかけている人がいないのはいいことですね。
私も安心してこの講義ができますよ、なんてね。
……あまりウケはよくなかったみたいですね。
さて、ちょっと時間ができましたね。
恒例の、面白い話の時間です。
聞きたい人はどうぞこのまま。
興味がない人は次の講義に進んでください、
……ああ、そうだ。次は昼食でしたね。
私が忘れっぽいのはどうしようもないですね。
年齢のせいですかね、ここに来てからずいぶんと経ちますからね。
一足先に楽しい昼食を。
さて、面白い話とは言いますけれど、毎回やるとネタ切れになってしまうのですよね。
たまには、どんな話をしてほしいか、貴方達に決めてもらいましょうか。
雑談にしてしまうと怒られますから、私が話せそうな内容に限りますが。
……ええ、本当にそれでいいのですか。
貴方達は存外に怖いもの知らずですね。
上級生から言われたんでしょう。私が面白い話を知っていると。
すこしびっくりしています。貴方達はメガネをかけなさすぎですよ。
私じゃなかったら、けしていい顔はされなかったでしょうね。
むしろ、私が誰かを知っていて、なおかつその話に踏み込むのですから、貴方達は勇者ですね。
いいでしょう。話をしましょう。
私の知っている怪談話を、ね。
信じるも信じないも、貴方達の勝手ですが。
ところで、怪談というのは、本当かどうか確かめられないからこそ怖いのですよ。
実例が目の前にいれば、怪談としての魅力は半減だと思いませんか。
私の口から語るのは、怪談としては片手落ちのような気がしますね。
貴方達は、それが本当だったのか、私に聞けばいいのですから。
我が
クランダルト帝国では、たくさんの怪談が転がっています。
実在したかはともかく、その数は膨大なものです。
人の空想や妄想が生んだものから、事実が湾曲されて噂話として転成したものまで。
戦時中の帝都での噂話──帝都怪談には特に興味をひかれる人も多いでしょう。
信じるに値する組織がそこにあったのですから。
ふん……さて。
テクノクラート。その名前を出せば、どんな怪談でも真実味を帯びてくる。
私がする話は、そのなかでも有名なもの。
人は彼女を「夜のない女」と呼んだ。そんな存在について。
光のなかで生きる人間とは対極に、夜の闇を恐れない存在。
彼女の影は月明かりの帝都の狭間を、青い光を友として駆け抜ける。
暗殺者とも、情報屋とも、はたまた宇宙からの侵略者とも囁かれた。
敬虔なものは、それを通りがかった動物の眼が光っただけだと笑った。
果たして本当にこの世のものなのか、人の妄想の産物か。
その人物を知るものは、視覚を異常に強化された人間だと答える。
眼球を特別製のものに取り替えて、夜に適合した人間だと。
多くの人間は、その話を与太話だと断じた。
そのようなことができるはずがない、と。
だが、テクノクラートならあるいは、とも思っていた。
彼女の話はこう締めくくられる。
他の怪談と同様に。いつしか、彼女の話は聞かなくなっていた、と。
人の興味とは移ろいゆくもので、他の怪談が持ち上がると、次第に彼女のことを忘れていった。
ここは帝都。不思議な話に事欠くことのない場所。
そこは、驚異と怪異のお膝元……。
……まあ、そういう話でしたね。
「夜のない女」はどのような存在なのか、気になる人もいるでしょう。
怪談としては今ひとつ、衝撃に欠けるものですからね。
それがなにをしたのか、どういった恐怖なのか。まったく伝わってこない。
ただ、そこにそんな存在がいたというだけの怪談です。
さて、貴方達の気になるものは、そんな怪談が本当だったのかというところでしょう。
端的に言うと、本当です。
それが民間人の眼に触れたのかは誰も知りようがないですが、たしかにそのような人物は存在しました。
ところで、私の語り口を分類するなら、二段怪談とでも命名すべきですかね。
過去の曖昧なおとぎ話を持ち出して、当事者の関係者だと名乗る人物によって、論拠不明な話で怪談を怪談として補強する。
研究者や学者が真に受けていいものではありませんね。
ああ、すみません。これからいいところなのに話を中断してしまって。
それでは、本題に戻りましょう。
「夜のない女」と呼ばれていたかどうかはわかりませんが──呼ばれていなかったと思いますけれど、そういった身体的特徴をもつ人物は存在しました。
先進生命工学の驚異が生み出した存在だったと記憶しています。
今となっては、眼球に関するあれこれは簡単に実行できるようになりましたが、当時はそうではなかった。
角膜移植でさえ、失明のリスクの高さに忌避された時代です。
察しがいい人もいるみたいですね。
そうです。テクノクラートはリスクを恐れなかった。
一歩進んだ技術の獲得を目指した彼らは、眼球移植手術をしたのです。
……まさか、そんなことはありませんよ。
そんな、おぞましいことはしていませんでした。
失明した一般人や兵士を対象にしたものでしたね。
面白いのは、角膜移植を一足飛びに排除して、眼球の全球移植に踏み切ったところです。
角膜移植で失敗したとなれば、まだ見える人を見えなくしたと非難されて計画は頓挫していたことでしょう。
ところが、眼球の全球移植は失明者を対象にするわけです。
失敗したところで、失明した状態から悪くなることはないのですから、批判も上がりにくい。
管理も適切でした。一般人には通常の──まあ、彼らなりの言い分ですが──移植手術をしました。
培養した眼球を移植して、ある程度の成功はしたとされています。
もちろん大きさや形、色も人間と同じようなものでした。そうでなければ人間とはいえませんからね。
正確には、第三種眼球と呼ばれるもので、それを基礎にして人間向けに改良したものでした。
元々の眼球が工業製品向けのものだったので、小型化の代償として近視になってしまいますが、それでも視力を取り戻せたのです。
ああ、色も白黒になってしまうのでしたね。それでも被験者は喜びました。
メガネさえかけていれば、人間としてまっとうな生活が戻ってくる。
目が見えないことに比べれば、多少の制約というものは工夫次第で補えてしまうのですよ。
ただ、コストもそれなりなので、全市民に同様の医療を、というわけにはいきません。
慈善事業ではないのですから。
それでも、手術の参加者はそれなりに多くなりました。
テクノクラートが医療関係の予算を引き込む施策が功を奏して、なんとこの手術には税金が投入されていたのです。
つまり、眼球の全球移植には保険が適用できたのですね。
そこから、テクノクラートはさらにもう一歩進み出ました。
一般人による全球移植の実績を活かして、兵士にも同様のことを始めました。
……もちろん、そういったことはありませんでした。
戦場で眼を失ったものは多かったのです。
一般人への手術も、多くが退役した傷痍軍人の救済施策でもあったほどです。
兵士に向けた移植の根幹は、光を失って間もないものを対象にしていました。
手術によって前線に復帰できるのであれば、それは素晴らしいことでしょう。
ただし、一般人に向けた第三種眼球を使うことはできません。
メガネの補助がなければいけないほどの近視は前線でとても不利です。
後方支援に従事させるにしても、色の判別ができないというのはよくありません。
軍が要請したのは、高価な第四種眼球を用いた全球移植でした。
テクノクラートはこれに反対しました。
第四種眼球の性能は人間のそれを大幅に超過するために、移植にはあまりにも不適格だったのです。
艦載システムに接続することを目的に開発されてきた超大径の眼球は、小型化を一番の苦手とするものでした。
性能を高度に調整された第四種眼球は、視力だけでも一般人の十倍をはるかに超え、一秒間で千コマの情景を見分けることさえ容易なもの。
そのほかにも、調整次第では様々なことができるものでした。現代的に言いなおせば、オーダーメイドの一品でもあります。
テクノクラートの自信作であり「スカイバードの眼」と呼ばれたそれは、なぜか人間に移植すると投射弾道学について卓越した感覚を優位に獲得する、とまで噂されたほどのものでした。
……なぜ投射弾道学と判明しているのでしょうね。きっと、誰かが「先行研究」をしたのでしょう。
それはいいとしましょう。人間に移植するに──良い意味で──値しない第四種眼球を欲しがった理由は、誰が見ても明らかですね。
これは軍と、──特に空軍とテクノクラートの癒着に発展する話なので脇に置いておくとして、戦争に勝つために軍は手段を選ばない集団でもあったわけです。
あの時代の戦争は閉塞していました。武力と武力が拮抗して鬱血していました。
そこで、人間という地力が他国に優越していれば、戦争を押し切れるかもしれない。
一部がそう考えはじめるのに時間はかからなかったことでしょう。
軍の要請は、第四種眼球の移植手術による強化人間(スーパーソルジヤー)の生産をテクノクラートに要請するものでした。
テクノクラートの出した答えは、ノーでした。
……意外な顔をしていますね。答えは覆りません、ノーです。
採算と打算を考えれば、第四種眼球を大量生産するコストと要求とが一致しなかったのです。
失明した軍人は大量にいます。それを全員第四種に置き換えることなど、軍の全予算を投じても完遂しえない事業でした。
さらに、軍が要求していたのは希望者への第四種眼球の移植だったことから、軍人はなんと採算性のない身勝手な金食い虫の生き物だろうかと、末代の私にまで語り草として残る「お馬鹿な軍人さん」のお話の一つだったわけです。
会談は破談になりますが、どうしてもと食いついた軍と折衝の結果として、第三種眼球を改良した強化第三種を軍への優先供給するはこびとなります。
同時に軍の予算を使って一・二・三種統合眼球を共同開発することにもなりました。
明暗の認識ができる第一種眼球。色の識別ができる第二種、奥行きを判別する第三種。人間が生まれながらにして持つ眼球の機能と同様の機能である眼球は、登場とともに爆発的に普及することになります。
……それに伴って生産コストも暴落していくのですが、それはまた次の機会にしましょう。
のちに三種統合眼球、汎ヒト用眼球、汎用統合眼球と名前を変えて呼ばれるようになったそれは、元を正せばテクノクラートと軍が開発したものなのですね。少なくとも、これは大戦争以降の医療に大きな貢献をもたらすことになりました。
当時の生命倫理的には十分に非難される内容ですが、全盲から回復する実例を作ったのですから、おおっぴらに非難することはできなかったでしょうね。
せいぜい、ダメだったのは管理が不徹底な施術のせいで脳に近い場所で感染症を引き起こしたくらいですね。
それはそれでひどい話ですが、衛生観念を今と比べてはいけませんよ。
わかっているならいいです。感染症は今の医療現場でも深刻な問題ですからね。日々対策は進化しています。
テクノクラートと軍のつながりはここで強化されたわけですが、その際にゆがみも発生しました。軍はどうしても強化人間(スーパーソルジャー)が欲しいと思っていましたし、テクノクラートは何か新しいことを模索していました。
そこに、共同研究による新たな成果が舞い込んできたのです。
色を識別する第二種眼球の亜型として、第二種乙型が開発されました。
特徴は、温度を色として識別できるようになるというものでした。
特に喜んだのは、共同研究者である軍関係です。
空軍は、時代遅れな光学式装置や誘導空雷を抜本的に改修できると歓喜し、陸軍は暗視装置を根本から改訂することができるのだと、当時の報告書には記載されています。
今回は陸軍に注目してみましょう。
当時の暗視装置といえば、第一種眼球を改良したものでした。かすかな光を増幅して像として投影するものです。
第一種複式敏型──通称「月明かりの眼」は小型化も容易で、特殊部隊で暗視装置として広く採用されていましたが、通称名のとおり、過大な光に、それこそ目の前でマッチ一本つければ目潰しになるほど敏感なものでした。
短所が目立つ「月明かりの眼」を代替して、温度つまり熱を色として識別できる第二種乙型は、夜の戦場を大きく変えることになるわけです。
最初は大型で艦載装置、車載装置として検討されていた第二種乙型は、技術の発展によって小型化されていきました。
普及によって、やはり通称はつけられるものです。
第二種乙型は「クルカの眼」と呼ばれました。熱を捉えるクルカにちなんだものでしたが、クルカ同様に、小型化すると青い色素が定着しやすい眼球になるということもあったようですね。
……一部で噂されている、クルカの眼球をそのまま使っているというのは完全に間違いなので気をつけてください。
たしかにクルカの性質もごく一部入っているようですが、きちんと調整しなければ流用さえできないのは、先進生命工学概論を受講している貴方達にはわかると思います。
それに、あの第二種乙型はクルカよりも性能が良いですよ。
「クルカの眼」が一般の兵士向けに普及したのは、現代になってからです。
あの戦いを覚えている人はいますか。
ほら、あれですよ。最近の山と森の国と戦ったあれです。
……ああ、ありがとう。サン=テルスタリ皇国との戦闘ですね。
大地底進撃戦の話は誰でも知っているとは思います。
暗闇を拓くために、あの戦いで暗視装置が集中的に投入されました。
また、本格的な大攻勢に至るまで、軍は煮え湯を飲みながら暗視装置の改良と生産に心血を注いでいたことでしょう。
当時のスケッチや、後年に発表された写真を見れば、そこかしこに「クルカの眼」を見つけられますよ。
わかりやすい例は狙撃手でしょうか。
彼らの写真を見れば、戦場での狙撃兵は暗視装置を眼につけていることがわかります。
カラーのものであればもっとわかりやすいです。暗視装置の核であるゴーグルは青色に発光していますから。
つまり、狙撃兵は洞窟内の温度変化を──もちろん、それだけではないのですけれど──見ていたのですね。
……また話がそれてしまいました。戻しましょうか。
ここまでならば、テクノクラートは単なる技術屋で終わってしまうところですが、そうでないのはお察しの通りです。
何事にも暗い場所はあります。
人間に転用できないかと考えるのはいつものことですね。
私たちの源流もいえる組織なのですから、そう考えなければおかしい、というのは言いすぎのようで本質でもあります。
どちらが先に提案したかはさして問題ではありません。きっと、どちらもやりたかったに違いないのですから。
量産するにコストがかかりすぎるものをテクノクラートは嫌います。軍も同様でしょう。
しかし、どれだけコストをかけても、それだけで終わりの試作品であれば、いくら予算を投じてもいい。
そんな考えも、どちらも同様に持っているものです。
汎用統合眼球開発の傍流では、強化人間(スーパーソルジャー)を生産する計画は細々と生きていました。
第四種を諦めた彼らが次に使いたがったのは、第二種乙型を人間に移植するというものでした。
強化第三種の量産が軌道に乗りはじめたと同時期に、第二種乙型を小型化に着手しました。
もちろん採算は度外視です。それが試作品というものです。
それなりに高性能な先行試作型ができたのは、数年後だったかと思います。
問題は、それを誰に移植するかです。
そう、最後の問題はそれです。
それゆえに、悲惨なことが起きました。
軍の側は、協力すればテクノクラートとつながりが持てるということで、各部署が率先して健康な若者を差し出しました。
志願制だったはずですが、ここまでの熱狂ぶりではそれも疑わしいものです。
なにより、民間での実績もある手術でしたから、危険性が少ないことも背中を押したのでしょう。
ですが、彼らは今までの実績がすべて失明者にたいするものであったことを忘れていました。──きちんと知っていたはずなのですがね。
テクノクラートの側は、志願者が多い分だけ余裕を持てました。
なによりも、民間で得た経験によれば、高性能な眼球ほど適合性が重視されるということを知っていました。
志願者の増加は母数を増やす行為ですから、適合者を見つけることは簡単でしょう。
満を持して手術を行えるのですから、これほど嬉しいこともありません。
そして、テクノクラートの部署監督官による巧妙な逆競売が始まりました。
どれだけこちら側に協力できるのかを問い、相手を安売りさせようとしたのです。
売り出された兵士の意思とは無関係に、話が進みました。
お前の目玉をくりぬかせてくれ。
別の眼球を入れさせてくれ。
唐突に、兵士はそう言われたのかもしれません。
記録はありません。でも、志願同意書だけは、彼らの名前とともに残っています。
さて、そこに一人の女性兵士がいました。
名前はエイスミー。姓はなく、名をエイスミーといいました。
姓がないのも当然。彼女の出身は帝都の都市鉱山からでした──そう、あの「鉱山」です。
陸軍の士官学校を卒業した彼女は、軍とテクノクラートによる契約に従って、手術に参加することになったのです。
一つ、ここで伝えなければいけないのは、都市鉱山出身者というのが、先物取引の商品だったということです。
帝都の地下で危険な作業に従事する都市鉱山の労働者を支援していたのは、なにを隠そうテクノクラートです。
人頭管理から、保健所の設置や定期的な健康診断の実施、肺疾患の治療、消耗品の卸売りまで、テクノクラートが資本となっておこなわれていました。
慈善的な面もあったのですが、戸籍が怪しい食い詰めものの都市鉱山労働者を相手に、大きな声で言えないことをしていたのは事実です。
例えば、肺疾患の肺そのものを、無断で代替の生体肺に入れ替えただとか。──彼らは喜んでいたそうですよ。
そのなかでも、軍とのつながりが深まったテクノクラートは本格的に都市鉱山労働者を先物の材料として有効活用していました。
やること自体は、労働者の軍へのスカウトでした。
適切な食事、軍学校での教練、落ちてこない天井。
都市鉱山がどういう場所であるかを知っているテクノクラートは、適切な説得によって多くの人材を軍に引き渡すことができました。
都市鉱山の労働者はスカウトされると、テクノクラートの社員として登録し、それを軍に出向させるという労働形態を受け入れなければいけません。
つまり、派遣社員となり、軍人としての教育を受けるわけです。
派遣するほど、支払われる彼らの給金の一部がテクノクラートに納められるのですから、テクノクラートも張り切るでしょう。
彼らは不満に思いませんでした。それは、彼らが都市鉱山で多額の負債と一緒に、テクノクラートに買われたからです。
なぜ彼らが多額の負債を負っているのか。治療費がすべてテクノクラートからの借金によるものだからです。
彼らはテクノクラートとの治療契約を覚えてはいなかったのでしょう。
たしか、支払い能力が乏しい都市鉱山労働者限定で、医療費に用いられた支払いを無期限に猶予できるという契約が結ばれていました。
社員になった時点で支払い能力を認められて、これまでの彼らの治療代をまっとうに再計算した金額が請求されるのです。
ただし、テクノクラートは無謀な督促はしません。ただ、そこにあるべきと誘導しました。
彼らの生み出す金に興味こそあれ、そこにいてくれることがなによりも重要でした。
彼らは慢性的な気管支炎や肺疾患を抱えています。継続して治療が必要です。
テクノクラート社員でいる間は、治療費を社費で全額まかなうことができました。
軍からの給料が何割か引かれていることも負債の返済に充てられているのだと知っていました。
給金が天引きされているなどという些細なことよりも、軍人になれた彼らの未来は、金よりも明るかったのです。
そういうわけで、彼らはテクノクラート社員でありながら、軍へ出向する身分を受け入れました。
そこまでなら、まだ人買いと呼ばれずに済んだでしょう。
その先は、外野から見ればひどいものです。
エイスミーも、人買いの犠牲者の一人でした。
気管支炎の治療が早期に終わったことが功を奏し、陸軍に仕官した彼女は、テクノクラートと軍の共同主催する生体実験に参加することになりました。
軍とテクノクラートは、人材と生体実験を提供し、金銭と引き換えに生体実験の結果を受け取る関係でした。
これがテクノクラートのやり方です。
被験者には体を差し出さなければいけないように仕向け、組織間の利益をなによりも重んじるのです。
契約社員は、テクノクラートが生体実験への参加を要請すると、断ることはできません。
彼女は社員としてそう契約していたので、当然のこととして応じました。
……ところが、です。おどろおどろしい実態の反面、実験の内容はそこまで非人道的ではありません。
彼らに対しておこなわれた生体実験というのは、ほとんどが致命的なものとはなりません。
当然ですよね。軍人を完膚なきまでに潰して得られる研究成果というものは、そうそうないのですから。
彼女に待っていたのは、「先行研究」の結果、安全性を十分に満たした生体実験です。
エイスミーが生体実験に積極的に参加したのも、テクノクラートの事情をよく理解したした結果のものだったのかもしれません。
また、生体実験には臨時給が対価として支払われるで、家族に仕送りする彼女にとっては大きな特典として映っていました。
テクノクラートとしても、安全性を配慮して、彼女の適合者の素質を最初から見抜いていたために、この生体実験に参加を促したことが記録に残っています。
都市鉱山でテクノクラートが赤字を抱えながらも健康管理を継続していた真の目的とは、生体実験にたいする適合性のあるものを選別することにあったのです。
エイスミーは選ばれたものとして、再びその手を引かれました。
その結果、彼女は先物取引によってテクノクラートによって育てられ、軍の目的である第二種乙型眼球を用いた強化人間(スーパーソルジャー)を生み出す土壌──適合者として生体実験を受けました。
生体実験は見事に成功しました。
彼女にはその素質があり、安全性に十分配慮した手術でした。
彼女の眼は隅から隅まで青空のような色になりました。
もっとも、エイスミーが自分の目の色を認識することはできないのですが。
全球移植された第二種乙型眼球はきちんと彼女に合致し、温度の違いだけを正確に認識できるようになりました。
彼女は戸惑ったようですが、事前の説明もあり──眼の見え方がずいぶんと違うという部分をのぞいて──動転することもありませんでした。
ところが、一ヶ月のリハビリを終えて、テクノクラートが下した結論は「使い物にならない」でした。
彼女はよくやっていましたが、実験の目的と結果、それ自体が不適当だと判断されました。
両目を第二種乙型眼球にしたエイスミーは、夜を見通せる力を身につけました。
しかし、それだけでした。
代わりに失ったものが大きすぎました。
温度を見通す代わりに、可視光によるすべてを失ったからです。
今まで見てきた色、そのすべてがなくなったのです。
彼女は壁に掛かった絵がなにを伝えようとしているのか認識できませんし、手紙のインクの軌跡さえ、満足に読むことができないのです。
さらに、眠ろうとしても熱を発するまぶたに眼球が反応して、彼女の眼に強烈な「光源」となって襲いかかっていました。
結局、半年間の試行錯誤のすえに、眠るときには眼に特殊なガラス板を挿入して眠っていたようです。
ただでさえ生活全般における障害が発生しているというのに、睡眠障害を併発したエイスミーは日に日に疲弊していました。
軍の求めた強化人間(スーパーソルジャー)の姿はそこになく、それをテクノクラートは失敗と判断しました。
もちろん、元の眼球に戻すことはできました。
ですが、それは実験の中断……言い換えれば失敗と表現することは知っていましたから、軍は徹底した経過観察を主張し、実験は惰性によって継続されました。
最終的に、軍に籍を置き続けた彼女でしたが、前線への呼集はありませんでした。
意図的に障害を持たされた彼女は、切迫する戦場にさえ不適格であると認定されてしまったのですね。
実験が終わればきちんと眼をもとに戻してくれるという約束も、最後まで果たされませんでした。
生体実験の期間に関する記述によれば、契約上では生体実験の実施期間は無期限に設定されていたので、テクノクラートとしてはどうとでも反論できました。
いつしか彼女は、彼女を押しつぶそうとする現実を直視できなくなりました。
開き直ったエイスミーは、軍人を一人潰してでも得たいものが自分にあるのだと思うようになりました。
幸いなことに、彼女は葛藤のすえに、元の体に戻れないのは、それだけ今の自分が特別であるからだと、自分に錯覚させていきました。
契約と、義務感と、自身による洗脳によって彼女は支えられていたのです。
エイスミーを待っていたのは研究対象としての毎日でした。
もちろん、普段通りの訓練はできましたし、座学も彼女に配慮した特別なものでした。
基礎研究によって、エイスミーの見ることのできるものはわかっていました。
材質の違いを工夫すれば、彼女に文字を見せることができました。
また、工夫を学んだ彼女は、絵を描くことに挑戦したこともありました。
……ええ、資料として見たことがありますよ。材質が違う同色の絵の具で描いたそれは、暗視装置で見て始めて意味がわかるものでした。
はじめは感心したものですが、エイスミーなりの皮肉だったのだと気づくのに時間がかかりましたよ。
それよりも、彼女の一番の問題は、日が出ている間のことでした。
すべてが熱を持つ環境では、第二種乙型眼球がすべてを同じようにエイスミーに映してしまうことになったからです。
発展途上の第二種乙型眼球の限界もあって、日の照りつける間は、風景の微細な違いを捉えることが難しかったのです。
ただ、これも彼女に特別なサングラスをあてがうことで軽減させることはできました。
半年かかって、やっと彼女は人間らしい生活ができるようになりました。
エイスミーの容態が落ち着いてきた頃、軍は彼女を強化人間(スーパーソルジャー)として「適格」であると認定しました。
テクノクラートによる一連の施術こそが、エイスミーを強化人間として「あるべき場所」に到達させたと喜んだのです。
数々の補助器具で障害を踏破してきた彼女の努力と忍耐を、軍は評価しませんでした。
生体実験を失敗から成功に切り返すための方便でしたが、不幸なことに、彼女にとってまさにその評価が生きる意味となっていました。
すぐ、彼女は特殊部隊の訓練を受けることになりました。
熱心な彼女は「そうあるべき」という熱意に呼応するように、自身の不利を努力で踏み倒して、軍の要望に応え続けました。
敵に察知されずに対象を追い込む技術──《ストークス》を身につけた彼女は立派な特殊部隊員として認知されるようになります。
眼の性質上、彼女は透視能力がありました。もちろん、超能力のような好都合なものではありません。
科学的に、可視光とは違った光線が物体を透過しており、彼女はそれを見ることができました。
ただし、ただの人間にはわからないものですから、それだけでも彼女の特技となりました。
エイスミーの初めての任務は、耳目省と軍警に混じっての任務でした。
どうしても彼女の実践能力を証明したかった軍は、内勤として帝都で勤務する帝国軍警にエイスミーを──というより、彼女を含むストークス部隊数人を貸与することにしたのです。
また、軍警に強化人間(スーパーソルジャー)のことを悟られては困るため、テクノクラートの紹介でバックアップとして耳目省が後援に就きました。
……表層だけでの耳目省と軍警のつながりは、テクノクラートに仲介されることで発展するわけですが、この話も別の機会にすることとします。
夜の帝都で、帝都警察の手が回っていない地域での哨戒任務に従事しました。
さっそく彼女の能力は遺憾なく発揮されました。
密造銃を押し込んだ紙袋を摘発してから数週間後、ストークス部隊と軍警の主導で反政府組織の支部を一つ潰したところで、実力が本物であると認めさせたのです。
エイスミーははじめての実戦が評価されたことを喜びました。
一連の任務のなかで、第一種複式敏型を使った暗視装置の弱点が露呈する一方、彼女の眼はさしたる弱点もなく、きっちりと成果を残し続けたことも大きかったでしょう。
眼の性能を評価されることは、すなわち彼女自身の成績を評価されることですから、喜ばないはずがありません。
軍も彼女の実績には非常に満足しました。
テクノクラートの「使い物にならない」という評価を覆した格好になったからです。
軍の要請のとおりであれば、強化人間(スーパーソルジャー)の試作品──つまり人間兵器であるエイスミーの実態はそれだけでも成果として上出来なものだったのかもしれません。
でも、エイスミーはきちんとした人間で、実生活をその身に抱えた女性でした。
兵器としての彼女は、軍にとっては満点を遙かに超える傑作に映りました。
それは奇しくも、エイスミーが人間兵器としての自覚を持ち、純粋な人間としての自我を押し殺していたことと時期を同じくしていました。
特に軍が注目したのは、夜間都市戦での彼女の活躍ぶりでした。
それまでの森林部や平野部での演習記録と、暗闇と光源が入り交じる帝都での彼女の実績を統計学的に比較すると、ストークス部隊での平均値よりも近距離での実績が有意に認められたからです。
エイスミーは引き続き、帝都での任務が割り振られました。
都市型ストークス部隊──「ナイトストークス」が設立されたのもこの頃でした。
それが彼女を帝都に送り込む口実だったのか、部隊設立に彼女が招待されたのかは、どこにも資料がないので憶測でしか語ることができません。
おそらく、その両方でしょう。
軍は都市型ストークス部隊を欲していましたし、次世代暗視装置を搭載した強化人間(スーパーソルジャー)との交流は、未来の夜間戦闘を先取りするものとなるはずですから。
ただし「ナイトストークス」の活躍は、帝国領内にとどまることになりました。
手始めに帝都で実績を固めることで、組織を大きくしていく予定だったのかもしれません。
前線に向かう機会は不祥事による部隊縮小で失われ、大戦争後のストークス部隊再編成を待つことになります。
したがって、治安維持部隊としての活躍を求められた「ナイトストークス」ですが、彼女の眼の性質を別の任務に見出したものもいました。
彼女は一般的な哨戒任務に従事しながら、政府要人の監視もしていました。
夜に走る車列をことごとく覗き見て、どこに誰が座っているかを報告し続けたのです。
そう。彼女の眼は、帝都の要人が乗る車列の遮光ガラスを透過することができました。
また、警護対象の要人が目の前を通り過ぎる際に、彼らが隠し持っているものを覗き見て、報告し続けました。
エイスミーも、なぜそうするのかという理由は聞かされていました。
もしなにかあったときに、伏されている情報を押さえておけば、要人の救出作戦が立案しやすくなるから、と。
事態は全くの逆であり、軍が要人を脅迫する際の資料として用いられていました。
彼女は仲間と、軍の言葉を信じました。
気を許した部隊の仲間と、親代わりのような軍を信じていました。
そのうち「ナイトストークス」の任務が積極的治安介入に変わっていても、彼女は信じていました。
軍の指示する目標を指先の引き金一つで打ち倒すのとは裏腹に、情勢は混迷を極めていきます。
まず、部隊設立を境として、軍警は手を引いていました。
独立した組織として都市部で活動できる「ナイトストークス」は、軍警との共同任務を解消していました。
この頃の軍警は、軍の下部組織に分類されるものでしたが、軍から応援にやってきた部隊との交流は、書類上では共同任務という形態で施行されるのが通例でした。
独立気質の強い組織で、帝都に関しては誰よりも知っているという自負もあったはずです。
だからこそ、軍警は帝都における「軍」本体の独立した活動には反対していて、必ず共同任務という形式を遵守させようとしていたのです。
「ナイトストークス」の発展にともなう軍の独断先行は、軍警と軍の信頼関係を失墜させ、軍から独立してしまう背景の一つにもなっていくわけです。
そして、軍の直接介入がもたらしたのは、耳目省との連鎖的な提携でした。
耳目省は強化人間(スーパーソルジャー)の秘匿を理由に、後援者の席から降りることはありませんでした。
また、帝都で軍が独立して活動するための情報提供者として、「ナイトストークス」の周囲に居座ったのです。
軍も渋々了承していたようですが、それには軍の資金を吸い上げる以上の目的がありました。
すべてを信じていたが故に、エイスミーがそれに気づくのは、最後の最後になってしまいます。
テクノクラートと深いつながりのある耳目省は、軍とテクノクラートの一連のやり取りを観察し、エイスミーの裏仕事に向いた能力と、任務に向けた忠誠心を再評価しました。──暗殺者としての適性を発見したのですね。
また、彼女がテクノクラートに認定された適合者であることも彼らの気を引きました。
軍とテクノクラートの共同開発とは比較にならないほど、耳目省における強化人間(スーパーソルジャー)のあり方についての論法は飛躍しています。
効率的に任務を達成することができるのであれば、方法論さえ飛躍してもいいと考えるのが耳目省です。
また、帝国の根幹に深いつながりがある耳目省は、秘密主義のまま気密しておきたい性質上、動員数では劣勢でした。
人員の個々の能力を引き上げることで劣勢を補おうとしていた耳目省はテクノクラートを利用し続け、人々の感じる「悪しき耳目省」そして「悪しきテクノクラート」という組織像に近づけていくわけです。
それをして、次世代暗視装置の利権そのものであるエイスミーは、なんとしても軍から引き抜いておきたいものでした。
まず、耳目省は彼女に猛烈な攻勢をかけます。
エイスミー自身への説得からはじまり、説得の輪を広げていきました。
任務の片隅で、エイスミーは耳目省からの引き抜きの提案を拒否しました。
耳目省が彼女と親密な部隊員を懐柔しようとしても、彼らは拒否しました。
テクノクラートとの直接交渉も、軍との契約による優越を理由に却下されました。
耳目省の積極的な勧誘行為に軍の第三課が介入するという噂も流れ、次第に現場は沈静化していくように思えました。
彼女も部隊員も、お互いを信頼して、戦友の絆が彼女を守りました。
真っ先に彼女を裏切ったのは軍でした。
次世代暗視装置に向けたデータが揃ったと判断した軍は、耳目省に彼女を売り渡したのです。
耳目省に体を明け渡せば、眼を変えた程度で終わってくれるはずがないのだと知っていながら、です。
きっと、軍の時流は、強化人間(スーパーソルジャー)から次世代暗視装置の開発に移っていたのでしょう。
彼女は軍から必要とされなくなっていました。
あとは、耳目省の提示する見返りと、エイスミーがもたらす利益との天秤だけが残り、彼女の皿は浮き上がったのです。
耳目省が彼女をさらに有効活用することで、彼女の「ナイトストークス」での実績を上回る利益を出せると思っていたのでしょう。
以降の記録は残っていません。
テクノクラートが保管している資料では、任務中の事故により行方不明を事由として、違約金とともに彼女に関する軍の契約は解消されています。
同様の理由でテクノクラートの社員登録も解消されています。彼女の眼球は持ち主不在のまま死蔵され、ついにテクノクラート解体のおりに遺失してしまいました。
耳目省が独自の研究に舵を切ったのか、テクノクラートからエイスミーを強奪した気後れなのか。
耳目省がテクノクラートを相手に、エイスミーの話題を持ち出すことはありませんでした。
さて、怪談の真相としてはそんなところですかね。
面白い話ですね。
帝都を駆け回った数奇な軍人エイスミー。
クルカのような青い眼を持ち、帝都の闇に消えていった女性。
……いいえ。私も資料がない以上、それ以上はわかりませんよ。
全知全能ではないのですから、そのあとは誰しもが想像で語るしかないのです。
まさに怪談にふさわしい終わり方だと思いませんか。
今でも彼女はどこかで青い眼を暗闇に輝かせているのかもしれません。
真っ暗な路地裏にご用心。その女は影より出でて貴方を闇へと連れ去るだろう。
もし今でも生きていれば相当なおばあちゃんなので、そんなことはないと思いますけれど。
ああ、こんな話をして、よく私が危なくないものだと思う人もいるでしょう。
「どこ」がやったのか、それだけ言いふらすなら案外大丈夫なものですよ。
「だれ」がやったのか、それさえ気をかけてさえいれば。
……あまり怖がらないでください。半分は冗談ですよ。実は情報開示によってもう少し事態は緩和しています。
ある程度のことであれば貴方達でも──むしろ、貴方達だからこそ、研究目的で積極的に調べることができるのですよ。
新しい世代のテクノクラートである、貴方達なら、ね。
後味の悪い話で終わるのもよくないので、もうちょっと話を続けましょう。
時間もあることですし。
そうそう、私が話題にした眼の手術の話でもしましょうか。
ここまで聞いてくれた貴方達にちょっとしたご褒美です。
次回の講義にもかかわってくる話なので、聞いておいて損はないですよ。
「
クランダルト帝国でメガネが絶滅の危機に瀕していること」についてですからね。
先進生命工学が発達したことで、眼球というものは、簡単に移植できるようになりました。
なぜ、というのは愚問でしょう。
エイスミーと、それまでの人たちを見れば、なにが起きたかわかるはずです。
テクノクラートは優秀で、臆することなく足を踏み出しました。
もちろん、角膜の移植も後年には容易にできるようになったので、眼球手術の死角もなくなりました。
今では誰でも手術を受けることができ、手術の失敗率は極限まで低下しました。
人間の眼ではないという原理主義的で旧倫理的な面も時間が押し流しました。
ついに、人間は生まれ持った目の不良を、失った視力を取り戻せるようになったのです。
テクノクラートが残していった遺産もそれを後押ししました。
国からの予算を獲得するために獲得した保険が、現代でも残っていました。
眼球にたいする手術は、医療行為であれば保険が適用されるのです。
急速に発展したマイク・ザ・スウェイターウェア社が先進生命工学を積極的に推進していることも、価値観を大幅に更新し、不幸な人を減らした要因でしょう。
人類を環境にたいして快適にさせる。
そのための道具を作るのが先進生命工学の方法論とすれば、帝国からメガネがなくなったのは、移植できる眼球はきっと素晴らしい道具だったのです。
汎用統合眼球の普及と保険の適用によって、帝都でメガネは絶滅危惧種になりました。
メガネをかけた、という慣用句が流行する程度には、ね。
……もしかして貴方達、この言葉が成立する過程を知らなかったのですか。
あらあら。そうでしたか。
私たちが生み出した言葉なのですから、きちんと知っておいた方がいいでしょう。
汎用統合眼球の普及でメガネをかけなくてもよくなったのです。
手術を受けられないのは、よほど困窮しているか、特殊な事情がある人だけ。
体質の問題もごくわずかにありますが、倫理的な観点から忌避する人と比べると誤差のようなものです。
現代の我が国の倫理観と比べると、原理主義的な人間信仰はずいぶん旧態依然としたものというのは貴方達も同意するところです。
ところで、メガネをかけている人は移植手術を受けていないということになります。
必然と特殊な事情があるのだというのは一目瞭然ですね。
メガネをかけている人は、倫理的な価値観の更新ができていない「古くさい価値観の人間」である、と人々が定義するのに時間はかかりませんでした。
そのうち「遅れている」という意味を全般的に表現する言葉として定着します。
今となっては「メガネをかける」という言葉は遅刻を表す言い回しとしても使われるようになりました。
そうですね。いつか「メガネを探していた」という言葉がふと受講生から出てきたときは、言語学的な変遷の不可思議を感じることができて、とても感動したものです。
そろそろ時間ですね。
これで私の面白い話の時間も終わりです。
楽しい昼食を。
……ああ、これですか。
いいでしょう、これ。日除けメガネ(サングラス)ですよ。
あんなことを言った手前ですが、またメガネは流行の兆しを見せていますね。
医療器具としてではなく、着飾るための道具としてですが。
特に、日除けメガネ(サングラス)は若者にはウケがいいようですね。
目元が隠れるので、ミステリアスな雰囲気が格好いいとか。
……私のものは格好つける目的じゃありませんよ。
最近はちょっと視神経が過敏なのか、光がまぶしく感じるようになりましてね。
このメガネは日を遮ってくれるので、それなりに重宝して使っているのですよ。
私向けに色を調整したオーダーメイドの一品なので、気に入っていますよ。
郊外にメガネ屋のおばあちゃんがいましてね。ずいぶんと長い間、メガネを作ってきた職人気質の人なのですよ。
その方の「マイナーズ」というお店は、最初は都市鉱山労働者を念頭に軽量安価な保護メガネを製造していたらしいのですよ。
今でも、きちんと度の入ったメガネを製造しているということで、我が国に長期出張で来ている外国人向けに手広くやっているみたいです。
最近は日除けメガネ(サングラス)が売れるということで、いつにも増して張り切っていましたね。
そんな半生のおばあちゃんとは、すこし前に知り合いになりまして、いつもかけている素晴らしい日除メガネ(サングラス)を褒めたらこれを作ってくれました。
もちろん有料で、それなりに高価でしたよ。
……なんですか。その顔は。
もしかして、という顔をしていますね。
いえいえ、いくらなんでも、姿と年齢が一致しているからといって発想が飛躍しすぎですよ。
第一、そのおばあちゃんは近衛騎士団に連なる由緒ある人ですよ。
……本当です。店の奥に近衛騎士団章がかかっていましたからね。もしかしたらご主人がそうだったのかもしれません。
どちらにせよ老いて退いた身なのですから、メガネを作りにいくのは勝手ですが、好奇心で突っ走っておばあちゃんを困らせないように。
話はもう終わりです。
それに、これ以上話していると昼食の時間がなくなってしまいますよ。
……元近衛騎士団、ね。
誰もが、その言葉でやましい心を忘れ、正義を思い出す。
私も一時期は近衛騎士団の人間だったと知っていれば、欺瞞を看破できただろうに。
帝作戦において、テクノクラート狩りは近衛騎士団の計画として重要な位置を占めていた。
あのとき、異形を捕らえて有効活用しようとしたのは、生存戦略としては正解だった。
私はテクノクラートから脱出するときに、近衛騎士団に捕まった。
逃がそうとした機密をすべて掠めていった彼らは、それにとどまらなかった。
彼らは私自身の体を探ろうとして、私を痛めつけた。
それほどのことをしても、近衛騎士団にとってはテクノクラートを叩いてたまらず飛び出してきた異形を捕らえることが急務だった。
クーデターをひっくり返されたくない一心で、人間では想定し得ない不確定要素を抑えてしまおうとした。
それだけではない、あわよくば異形の力を利用してクーデターの勝率を上げようとしていた。
クーデターが収まるまでの間、捕まっていた私は近衛騎士団に所属していることになっていた。
だからこそ、なんの因果か今の気楽な生活があるというわけだ。
私も、近衛騎士団からすれば十分な異形だったから、貪欲に利用されつくした。
それほどの熱意を持つに至るには、彼らが異形の動向に固執していた、何十年の話をしなければいけないだろう。
帝都の窮屈な組織図が乱立するなかで、圧倒的劣勢を覆そうとしたのは、耳目省だけではなかった。
帝都での動員数で耳目省よりも劣後している近衛騎士団もまた、打開策を探していた。
彼らは装備の充実や、下部組織である特務委員会の発展によって勢力を補っていたが、それにも限界があった。
そのなかで、彼らが目をつけたのが帝都怪談だった。
帝都での怪談のいくつかにはエイスミーのような「本物」が存在していた。
それらが誰かの差し金であることを知っていた近衛騎士団は、これを横領することができればどれほどいいだろうかと思った。
そして、皇帝直属の組織ゆえに人間原理信仰が激しい近衛騎士団は考え抜いた。
どの組織も倫理観に欠ける異形を保有している。私たちがその後追いをすることはできないし、してはいけない。
それでも、戦力の拡充のためには、異形の力は絶大な力として映った。
議論の果てに、それを横領したところで異形を返せと公に抗議してくることはないだろう、という確信があった。
お前達こそ帝国の、皇帝の求める正しい人間像に仇なす逆賊なのだ、という信念があった。
皮肉なことに、質実剛健な近衛騎士団は帝都の誰よりも帝都怪談に詳しくなっていた。
エイスミー。
軍が彼女を裏切っても、「ナイトストークス」は裏切らなかった。
命令不服従、反乱という最大の軍紀違反を背負うことになっても。
エイスミーは広大な帝都に逃げ出した。
手引きしたストークス隊員に守られながら。
人間と怪異が、これほどお互いを信頼していたのか。そう思わせるほど。
耳目省は、ついに帝都の複雑な地形から、彼女を見失った。
敵に察知されずに対象を追い込む技術が《ストークス》なら、その逆、察知されずに対象から撤退する技術もまた同じ《ストークス》なのだということを、耳目省は甘く見ていた。
帝国軍警の哨戒網すらすり抜けた彼女は、近衛騎士団の詰め所に転がり込んだ。
《ストークス》と彼女自身の異形の力を取引材料に、近衛騎士団は彼女を迎え入れた。
しかも、目の敵にしていた耳目省から戦力を横領したということもあって、近衛騎士団はこの上なく狂喜乱舞した。
これを機に、近衛騎士団は異形を取り込むことを是とする方針を固めていった。
その後、彼女には帝都での様々な戦いがあった。──彼女と近衛騎士団の内戦も含めて。
異形の到来を待ち望みつつ、人間原理信仰を崩さない彼らとの戦いが待っていた。
彼女は徹底的に利用された。知りうるすべてを吐かされたあとは、体のいい捨て駒の一つにされるところだった。
それどころか、彼らは彼女を《ヒトデナシ(ヒューマノイド)》と蔑んで、歩み寄ろうとしなかった。
人間に勝る異形を、人間のための消耗品として扱おうとする近衛騎士団。
軍での出来事と同じことを繰り返す日々で、彼女は消耗品の地位に甘んじなかった。
彼女の思想信条を意志ある行動として変えたなにかがあった。
夢想していた理想が本当に転がり込んできた拒絶反応と混乱の渦に身を投じた彼女は、ついに。実力行使によって偏見をねじ伏せた。
マイナー女史。またの名を「メクラ」のマイナー。本名をエイスミー・マイナー──近衛騎士団帝都情報局室長。
内戦が終わると、彼女はそんな地位に上り詰めていた。
彼女の身体的特徴を罵る言葉が、いつしか彼女の人格を畏怖し尊敬する言葉に変わっていた。
視界は開けていて、次になにをすべきか、なにができるかを知っていた。
彼女の、近衛騎士団としての矜持と、《ヒトデナシ(ヒューマノイド)》の超人間主義が化学反応して、新しい未来を見ていた。
近衛騎士団の来たる悲願の日を見据えた彼女は、自然とテクノクラート狩りを提案していた。
決起の日まで、彼女にはすべきことがたくさんあり、できることがたくさんあった。
彼女の戦いは始まったばかりだった。
つまり、私は貴方の計略によって近衛騎士団に捕らえられたというわけだ。
エイスミー。
クーデターのときの近衛騎士団は私に容赦がなかったよ。
思わず「ヒトデナシ」と罵りたくなるくらいには。
私が敵だったから、テクノクラートだから、というだけではなかった。
私が異形だったから、彼らはあれほど私に興味を持ち、そして厳しかったんだね。
貴方のときは、もっと酷かったんだろう。
どうやって、貴方はそこまで強くなれたんだい。
私が「マイナーズ」でそれを聞いたとき、貴方はさも当然とした態度でこう言った。
「もう今上皇帝には謁見したかい」
その言葉ですべて納得してしまった。
ああ、とても懐かしい。
今上皇帝と謁見した日のことを、昨日のことのように思い出した。
近衛騎士団の一員として忠誠を誓い、許された日のことを
人間が人間に許しを──ましてや異形に赦しを与える、おこがましいことじゃないか。
いつもと変わらない、手続きによる上辺だけのものなのだろう。
そう思っていた私を粉々に打ち砕いたのが今上皇帝だった。
身分の差はもちろんあった。
でも、私と今上皇帝は、たしかに同じ人間の立ち位置にいた。
異形を知らないわけではあるまい。
知っていて、貴女(へいか)は同じ人間としての振る舞いを崩さなかった。
はじめてだった。
はじめて、普段通りに接してくれる人間と出会った日だった。
私にとって今上皇帝は、近衛騎士団で会った誰よりも、ヒトらしかった。
あの近衛騎士団が、この今上皇帝を祭り上げたのかと思うと、ひどい矛盾だと思った。
そう思うがゆえに、私は今上皇帝がその位にあることをなんの不自然さもなく認めることができた。
近衛騎士団に従わされるのではなく、貴女との誓いによってヒトになることを赦されたと思った。
貴女(へいか)こそ、わたしの、《わたしたち(ヒューマノイド)》にとってのほんとうの救世主だった。
エイスミー・マイナー。
貴方も、あの暖かさに抱かれた一人だったんだ。
赦しを与えられたのだろう。ヒトとして生きていくことの赦しを。
貴方を変えたのは、きっと貴女(へいか)が万人にそうするように──彼女を万人と同じように抱き留めたからだったのだろう。
異形としての自覚が崩れていく実感が、たしかにそこにあったよ。
熱い感情が体から吹きだして、体が熔けてしまった。
鍛造された芯がぐにゃぐにゃと曲がって、貴女の息吹が私たちを本当の姿に戻していった。
人間性を吹き込まれた貴方はその瞬間、新しい帝国を夢に見続ける近衛騎士団の一員として、貴方自身の意志を持ったんだね。
「皇女殿下なら、私が一線を引いた後でも世界を善くしてくれる」
貴方はその先を語らなかった。
そのためなら自ら命を差し出してもよかった、と言いたくなかったんだね。
ヒトになる夢をヒトに託して、異形の力を振り絞って朽ちることすら厭わせなかった。
貴方は《わたしたち(ヒューマノイド)》のために、ここまで戦ってきたんだ。
おかげで、私は新しい人生を始めることができた。
ありがとう。貴方は十分に戦った。少し休んでいるといい。
次は私の番だ。
もう、あの頃の迷いはない。
過去を懐かしむよりも、目的に向かって歩けることが楽しいから。
私たちがヒトである限り、帝国の未来は今上皇帝のように明るいだろう。
いいことがいい結果を生むかはわからないが、その努力は継続していこうじゃないか。
最終更新:2020年04月27日 22:08