操舵手ヘボンの受難#43 『グレゴール』
ヘボンが必死に声を荒げながら回避機動を試みた際に、正面から迫りくる機影前方がパっと明るくなった。
(撃ってきた!)
そう瞬時に認識した瞬間に曳光弾がコアテラの側面を掠めていくのが、見えたと思った刹那に、機影は一気に通り抜けていく。
回避機動を取らなければ瞬く間に被弾していただろう。
しかし、一度相手の攻撃を回避したからと言って、次も上手くいくとは限らない。
ヘボンは即座に回避機動から通り抜けていったヴェーリャへ照準を合わせようと、機体を急旋回させていく。
不意に頭上でくぐもった声が聞こえてきたが、急旋回で体が飛ばされヨトギ少年が銃座のどこかしらに体をぶつけたのであろうことが窺える。
手痛い目覚めの一撃になったことをヘボンは祈りつつ
「撃て!撃つんだ!」
と銃座へ叫びたてて、視線は暗闇の中へ姿を隠そうと遠ざかるヴェーリャを追う。
相手は一撃離脱戦法を旨とした機であることに逃げ足も速い。
速度が出過ぎたために迂闊な旋回を行って、機体の腹を此方に見せるような愚を犯すことはないだろう。
旋回速度においてはコアテラの方が遥かに速いのだが、それでもヴェーリャが飛んで行った方へ機関砲を向ける頃には姿は全く見えなくなっていた。
だが、完全に気配を絶った訳ではなく、独特の生体音が高く響いている。
美しい音色なだけにそれがより一層恐怖を掻き立てる。
「銃座っ!敵機の方角は?!」
ヘボンは半狂乱気味に銃座に声を掛け、既にヨトギ少年に命令しているのか、提督の娘へ命令しているのかわからなくなってきていた。
今なら皇帝陛下にだって命令することが出来そうな勢いである。
「九時下方にっ…上昇音が聞こえますっ」
凛としてはいるが恐怖に滲んだ声が返ってきた。
間違いなく娘の声である。だが、誰が喋っていようが今のヘボンには関係ない。
この船に乗っている間は三人平等に運命共同体であり、死ぬときは平等にちぎれ飛ぶのだ。
娘の声に目をひん剥いて、ヘボンは夜空を伺いながら必死に機影を探す。
だが、音は聞こえても暗闇に機影はみとめる事が出来ず、夜空へ向かって放った銃弾は闇に虚しく吸い込まれていく。
ヘボンにとって絶望感が増す中、それと反比例して、ヴェーリャの生体音が唸りを増していく。間違いなく相手は此方に機首を向けて突っ込んでくることがわかった。
「撃てっ!撃てっ!」
そうヘボンは半ば自身に対しての鼓舞と化した檄を飛ばしながら、操縦桿に備えられた発射桿を無我夢中に引き絞ることしか出来ない。
不意に眼前に煌めく銃火の他に頭上でも強い光と音が鳴り響き、曳光弾が夜空に一筋の光線を描き出す。
どうやら、銃座のヨトギ少年がいい加減に自身の役割について思い出したらしい。
だが、夜空の中にポツンと浮かぶコアテラの射撃が、敵機を退ける効果を持つにはあまりに弱々しく虚しい物にすら思えてくる。
「10時上方!」
その際に例の娘の声も響いてきた。
その声は異様に近く、とてもハッキリしていたのでヘボンは思わず視線を僅かに上に向けると、既に彼女が銃座から此方へ頭を突っ込むような姿勢で叫んでいる様が目に入った。
高貴な者が浮かべるとは思えない程の、恐怖と狼狽をありありと表情に浮かべている。
彼女の言葉通り視線を今度は前に戻せば、確かに銃火を交わし斜め上から迫る機影が、恐ろしく近い距離で漸く視認することが出来た。
今度の防御射撃は大体の襲撃角度に合わすことが出来た為に、敵機も此方に命中弾を喰らわすこと無く、また高速に機体の脇を通り過ぎていく。
その際の振動は凄まじい物で、銃座から首を突っ込んでいた娘が、身体を強く固定していなかったせいもあり、ヘボンの胸元へと落ちてきてしまった。
途端に視界が塞がれ、手許に彼女の肩やら頭やらがぶつかり、操縦桿を握るのも困難になる。
(不味い、不味いぞ)
等とヘボンに様々な感触と興奮と焦燥がごちゃ混ぜとなって襲いかかり、彼の脳はこの非常時に置いても彼女の体に触れたと言うことは不敬罪に違いなく、これは銃殺刑が確定したという場違いな考えが過ぎり更に混乱を来した。
それとは別に落ちてきた彼女も、訳の分からぬ操縦手の感触と天地がひっくり返った状態、それに加え、唸りを上げるヴェーリャの生体音に対して緊張の糸が勢いよく切れたらしく、泣き喚きながら何度も母上と叫び立てる。
外も地獄だが中も地獄の様相を呈し、その中でヘボンは必死に恐れ多くも彼女の脚を掻き分けて視界を確保したが、既に敵機は夜空に消えている。
頼りとなった彼女の目耳も今は頼りにならず、アテになるのは銃座のヨトギ少年だが、彼もこの状況を見て流石に困惑したか、銃座から此方を覗いて手を拱いているようであった。
(駄目か、流石に駄目か)
ヘボンはそう頭を掻き回す陰鬱な考えを拭いきれず、敵機からすれば良い的と化したコアテラのバランスを取るのが精一杯であった。
次の襲撃で間違いなくコアテラは撃墜される。
せめて直撃を避け、また不時着までもつれ込めるかとも淡い期待を持とうとしたが、相手は一切手心を加える気は無いらしく、今度の接近音は更に短い間隔で訪れた。
どの方向から敵機が迫っているかは、最早ヘボンにはわからない。
ただ何処までも美しい旋律の様に響き渡るヴェーリャの生体音が、死に神の来襲する様な音が気をただ遠くさせる。
だが、その時、生体音に混じって何処か遠くで砲声が響いた。
機銃や機関砲とは違い、腹奥に響くような音。
その音が響くとほぼ同時に、ヘボンの視界はパッと強く明るくなった。
それは付近で照明弾が炸裂した事だと認識する頃には、ヴェーリャは此方にトドメを刺すのを躊躇ってまた、此方に強い振動を与えながらすり抜ける。
敵か味方が放った物かはわからないが、ヘボンは必死にもう自暴自棄に泣き叫ぶ娘を撥ね除けて、周囲に目を走らせた。
照明弾に照らされて視界がある程度効く様になった為か、コアテラから見て2時方向の遠くに艦船が朧気に見える。
艦船のサイズとなれば此方から見逃すことは早々無いはずだが、巧みに雲に紛れていたらしく、今は照明灯を爛々と点けて艦影を晒している。
ヘボンがそれを見て取った途端に、横腹を見せた形の艦影から横一列に砲火が煌めいた。
此方を狙った物では無く、あくまですり抜けたヴェーリャに対しての艦砲射撃である。
それを見て、ヘボンはあの艦影は味方であろうと算段を付け、機首を艦影へ向けて接近しようとする。
だが、この機動は間違いであった。
ゆっくりと艦影に向けて機首を向けたコアテラに対し、艦影からすればちょうどコアテラが邪魔になる形でヴェーリャが機体の背後から飛び出てきたのだ。
この敵機の動きに最初に気付いたのはヨトギ少年で、彼はすかさず銃座から射撃をヴェーリャに対して加えたが、小憎たらしい事に敵機の操縦手は機転も利けば腕も良いらしい。
此方の反撃を嘲笑うかのように機体を右と左と生体器官特有の四次元的な機動で、それをいなしてみせる。
しかも、その機動はコアテラの背後から大きく逸脱して、艦船からの砲撃に狙われるような愚を犯さない、最小限且つ曲芸的な動きであった。
そもそも速度的にコアテラでは、ヴェーリャを振り払う事が出来ない。
だが、あくまで射撃角度にさえ相手を入らせなければ、後は接近した艦船がどうにかしてくれるとヘボンは、楽観的な考えを脳裏に早急に沸き立たせて、速度を限界まで上げさせることが精一杯であった。
見る見るうちに眼前に艦影が迫り、大凡、この艦影が確かに此方の味方であることがヘボンには推測できた。
この前の大艦隊戦で見た際の改造旧式艦の一種であることがすぐに判ったからである。
それはガルエ級の艦側面にこれでもかという程の装甲板を張り付けた艦船で、これ見よがしに巨大な装甲板には所有している帝国貴族の紋章が刻まれている。
この様な旧時代的な趣味で、尚且つ艦船が黒くなければ、これは間違いなくラーバ中佐一派の類いか若しくはそれに限りなく近い所属の艦であると思った。
つい、先程に准尉の機が行方不明になってからというもの、大変心細い想いをしていただけに、艦船に近付くに連れて安心感が増した。
だが、不意にヘボンは足下が突然、冷えるような感覚を味わった。
それと同時にヨトギ少年の驚愕の叫びが頭上から聞こえ、何事かと思った瞬間、視界にその答えは現れた。
此方の背後にしつこく付いていたヴェーリャがコアテラの機下をくぐり追い越したのだ。
最早、コアテラの様ないつでも墜とせるような相手ではなく、前方の艦船を獲物と定めたらしい。
急な敵機の最接近に味方と思わしいガルエ級は艦砲射を見舞えず、無防備な側面を晒している。
それが一瞬の出来事でヘボンは息を呑むと同時に、ヴェーリャが真っ先に機首機銃を近距離でガルエ級に対して鋭く放った。
一撃離脱を得意とするヴェーリャが好んで使う戦法が、同胞に対して今正に使われた。
側面装甲が幾ら厚かろうと側面下部の生体器官部だけは、薄いと踏んだのであろう。
思わずヘボンはマトモにガルエ級が射撃を受ける物と見たが、幾らヴェーリャが距離を詰めて射撃を見舞おうともガルエ級はビクともしない。
それどころか、コアテラから大分距離が離れたのを見て取ってか、側面艦砲が一斉に煌めき、離脱のタイミングを失ったヴェーリャの上部に砲撃が集中する。
しかし、直撃を免れた敵機は、なんとかガルエ級の下部を潜って反対側面へと抜けた。
それだけでも相当にしぶとい様に見えたが、ガルエ級の反対側面に控えていた護衛機が、速度の落ちたヴェーリャに突然に追いすがり、これを連射でトドメを刺した。
ヘボンの視界からは既に大分遠離っていたが、火を上げて降下してゆくヴェーリャの姿をしっかりと捉えている。
敵襲の危機を避け、コアテラはすぐに援護してくれたガルエ級の上部へと浮かび、未だに搭乗席に転がっている娘を出来る限り丁寧に銃座に上げると、光信号にて友軍か確認を改めて行った。
その際に、ガルエ級の護衛機と思われた機が此方に対して近付くように上昇してくると、ヘボンは思わず眉を潜めた。
「…准尉のマコラガか?」
呆然と呟きながら、その護衛機に対して目を向けると、確かにそれはつい数刻前に、レリィグの倉庫にて継ぎ接ぎだらけに無理矢理飛べるように仕立てた、エーバ准尉の機であることがわかった。
一体これはどういうことかと思っている内に、ガルエ級から光信号の返答があり、此方に対して着艦要請を発している。
本来ならガルエ級に対して着艦など困難を極めるが、ヘボンはそれを艦に横付けする形でやってのけた。
特殊なガルエ級の側面に備えられた分厚い装甲板には、機を固定するためのフック等が備えられており、低速で艦の脇へ接近すると、甲板員よりワイヤーが投げられた。
それをコアテラの片翼にある固定具へ固定し、装甲板上部から差し出された長板を足場として、ヘボンは漸く平静を保った娘をヨトギ少年が付き添う形で、奇妙なガルエ級へと渡っていく。
今まで特殊な改造が施されたガルエ級は大量に見てきたヘボンであったが、改めて甲板に乗って艦上を見回してみると、どうやらこの艦はガルエ級ですらないことにヘボンは気付いた。
大方、大戦初期に飛んでいた艦に、度重なる改修を施し続けた末の何かであると思った。 分厚すぎるまでの装甲板にも恐れ入ったが、旧式の時代遅れの短砲塔の群れにもヘボンは呆れていた。
こんなもので、よくヴェーリャに命中させた物だと感心するような半ば呆れるような心境で、その前時代的な砦の様な艦を眺めていた。
そして、甲板員に促されるままに艦橋へと通された。
艦橋の内装もこれまた前時代的で、特に意味を成さないような呪い品の数々がシャンデリアのように垂れ下がっている。
これにもヘボンは呆れ掛けたが、その前に艦橋の入り口で自身の官姓名を名乗った。
すると艦橋の最も奥から、将校服を着込んだ男が此方へ歩み寄ってきた。
恐らくはこの奇妙な艦の艦長であると窺えるが、どうにも険しい顔つきのその細身の男は、奇妙な艦とは不釣り合いなほどに現実的な雰囲気を漂わせていた。
まるで生涯一度も笑ったことの無いような苦々しい表情で、無精髭を随分と蓄えている。
貴族然とした将校服を纏ってはいるが、首から上はこれまでに嫌と言うほど見てきた野戦畑の人間に似ていた。
「お初にお目に掛かる…。私が艦長だ」
そう彼は簡潔に名乗った。
事情通な物なら、彼の着ている将校服に織り込まれた紋章の刺繍で察するのであろうが、帝民出のヘボンには見当が全く付かない。
多分、辺境貴族なのであろうが、こうしてヘボンを艦橋まで通しているのだから、敵対者でないことだけはわかる。
「それで、曹長…。中佐の方は随分と人員が不足している様だな。子供まで搭乗員に仕立てているのか?」
そう言って艦長は、ヘボンの背後をその高い背丈で見透かそうと首を動かした。
先程から、ヨトギ少年と娘がヘボンの後ろから付いてきている。
わざわざ全員降りてくる必要は無いと思ったのだが、狭いコアテラに長く押し込んでおくよりは此方の方が良いと判断した。
「いえ、この子達は…」
ヘボンは艦長に対して、娘の素性について話そうと思ったが、思い直して口を噤んだ。
ここ数週間の内でヘボンもそれなりに疑り深くなっていた。
この男が本当に味方かどうかまだ信用できなかったのだ。
だが、そんな彼の心情を無視するかのように
「その娘は近衛艦隊提督の娘だ。我々は彼女を艦隊の元へ送り届ける任務を受けている」
等と黙っておこうかと思ったことを、全て艦橋の入り口に立った准尉が全て話してしまった。彼女も艦橋に通されていたとは知らなかったし、矢継ぎ早にそんなことを捲し立てる共思っていなかった。
彼女は耳目省出身であるはずで、この手のことには精通していると思われたが、それはヘボンの大きな買いかぶりであったらしい。
「近衛艦隊…?」
准尉の言葉にヘボンの肩越しに艦長は目を胡散臭そうに細めた。
次にそのまま視線を娘へと向け、最期にヘボンに視線を戻した。
「曹長、それは本当か?」
そう問い詰められれば、今更違うと言うわけにもいかず、ヘボンは小さく首を縦に振った。 それを見て艦長は脇へ大きく動くと、娘に対して大変恭しくお辞儀をした。
きっと、これが貴族式の儀礼作法なのであろうと思わせるくらいに、その動きは大仰でヘボンは呆気にとられて、それを見ていることしか出来なかった。
そこから先ヘボンは下へも置かない待遇を受けた。
近衛艦隊の娘ということがハッキリすれば、4人は艦内にある応接間の様な一室へ通された。通常の戦闘艦にこの様な空間は無用の長物と思われているが、辺境貴族の旧式艦にはこの手の設備施設が整っている物が多い。
ヘボンも原隊にいた際に夜伽艦と渾名される慰安施設を備えた艦に乗ったことがあるが、あれは大変素晴らしい物だったと記憶している。
ただ、気をつけるべきはこの様な素晴らしい空間に通されると、気が緩みに緩んだヨトギ少年が娘に対して何をしでかすか分かった物では無く、それに対しては常時目を光らせる必要があった。
今まで、急に何処かの艦に乗れば乗ったで散々な目を受けてきただけに、この奇妙な艦がヘボンは大変素晴らしい物だと瞬時に彼は考え直した。
聞くところによると艦長は『グレゴール家』と呼ばれる辺境貴族の出で、今回の騒乱には中佐の元へ参集する事が早い段階で決まっていたらしい。
しかし、例の邪龍と出くわした会戦のせいで、合流する機会を逃したというのが艦長の言い分であった。
准尉にも彼が嘘を言っていないかと応接間に入ってから問い質したが、ヘボンが知らぬだけで『グレゴール家』は皇帝派の中では随分と有名な家らしく、裏切りはまずあり得ないという事であった。
中佐に現状を伝えたかったが、通信を傍受される恐れもあるために、迂闊に連絡が取れない点が歯がゆかった。
コアテラとマコラガの二機で近衛艦隊の元へ向かうより、この分厚い装甲艦に守られていた方がずっと心強かった。
艦長の方も此方の任務のことを告げると、惜しみなく協力すると宣言した。
皇帝に近い存在である近衛艦隊と有力な関係が築けるかもしれないという功名心が、その宣言にはありありと浮かんでいたが、それぐらいわかりやすい男の方が信用も出来る。
そこから来る安心によるのか、ヘボンは応接間の座り心地の良い椅子の上で、気を失うように眠ってしまっていた。
思えば自分は負傷兵であったのだ。
先日の脚の負傷もまだ治りきっておらず、まだ松葉杖が必要だった。
それを度重なる恐怖と興奮によって支えてきたが、安心すると途端に睡魔に襲われてしまったのだ。
ヨトギ少年の行動に不安は拭えなかったが、娘の脇でしっかりと虎のような准尉が固めていれば無謀なことはしないだろうと思えたので、心から安心して彼は睡魔に襲われた。
そして、ヘボンは応接間のドアをノックする音で目を覚ました。
周りを見回すと、危険人物であるヨトギ少年はしっかりと寝る前に座っていた位置から動かず寝ていたし、娘もしっかりと准尉の隣で寝ていた。
幼い彼女には随分と心労を加えたと思うが、まだ目を爛々とさせて一晩中起きていた准尉の事もあって安心したらしい。
ドアのノックへは准尉が応対してドアを開けた。
ドアを開けると随分と身ぎれいな男が立っていた。
「近衛艦隊の元へ到着しました。閣下にご準備して頂きたく参上しました」
丁寧な物言いでまた恭しく頭を下げている顔が上がると、ヘボンはその男が先程に艦橋で見た艦長であることが判った。
彼はしっかりと髭を剃り立て、髪に良い香りの漂う整髪油を塗り固め、将校服は先程見たときのより新品のような装いだった。
あまりの変わりようにヘボンは狼狽えながらも、松葉杖代わりの小銃で起き上がり、敬礼を返した。
そのまま、一行は身綺麗な艦長に案内されて艦を降りた。
既に奇妙で素晴らしい艦はリューリアの草原地帯に着陸していて、辺りは朝焼けに包まれて昨晩まで血塗れの戦いを潜った同じ土地とは思えないほどに美しい。
そして、着陸した艦からそれなりに離れた位置に、物々しいテント集落とも思えるような物が見えた。
ゆっくりとそこへ進む内に、それは近衛艦隊の野営であることが判った。
それはとても華々しく豪華で、ヘボンは原隊の基地がそれと比べればあまりにみすぼらしく、基地と呼ぶにも恥ずかしいと思えるほどだった。
一行の先頭には身綺麗なグレゴール艦長が立ち、周りは武装しつつも失礼の無いように着飾った貴族の近衛兵が固める。
だが、華々しい野営地に近付くと、我々はまるで帝都に初めてやってきた田舎者集団のような錯覚に襲われた。
近付く内に見えた野営地の奥で着陸している近衛艦隊の艦船は、それを遙かに上回るほどに豪華な物で、とてもじゃないが戦争に持ち出せるような物には思えなかった。
特にその内の野営地の中央に着陸している、大型艦は誰が見ても旗艦であることがすぐに判るほど大型で派手であった。
それはまるで巨大なオオトカゲの上に豪華な攻城塔を幾重にも建てた様な代物で、どことなくバセン隷区の旧型生物艦の風を漂わせていたが、それよりも遙かに洗練されていて雄大だ。
針鼠のような砲塔の数々も然り、それが新型の強力な長砲身砲塔であることも然り、帝国の新旧が大変上手い具合に混ざり合った装いで、ただただ歪で古いだけのヘボンが今まで見てきた改修艦の内ではもっとも優れているように見えた。
思わず一行は、グレゴール艦長も含めて圧倒され、旗艦の前で立ち尽くしてしまった。
その合間に旗艦の搭乗口が大きく開き、艦にも勝るとも劣らない連中が、見事な隊列を組んで降りてきた。
これが近衛騎士団と言われる者達だろうとヘボンは思い、一行に倣って恭しく頭を下げようとした。
だが、その瞬間に周囲に少し目がいくと、何やら野営地の様子が慌ただしいことに気付いた。
一行が野営地に訪れた際からその動きは活発であったが、近衛騎士団が出て来てからは更にその動きが目に付いた。
敵襲や危険状態とは違うが、まるで嵐から逃げるような慌ただしさで、ヘボンは地面にしゃがみ込むような礼儀動作をしている際に、この周りの動きは撤収作業だと思い当たった。
これは一体どうしたことだとヘボンは疑問に思った。
「…ご苦労であった」
そう思っている内に、大仰な声が一行の前から響いてきた。
僅かに頭を下げた状態で視線を前にやると、近衛騎士団の隊列が開いて中から、煌びやかな将校服とも上流貴族風とも取れそうな装いの長身痩身な女性が立っていた。
迂闊に顔を見ようとすれば不敬罪で即座に撃ち殺されそうな威圧感が、ひしひしと伝わってくる。
出来れば、このままずっと平服していたかったが、ヘボンとしては中佐に託された任務を果たさねばならず、平伏して地面に這い蹲った姿勢のままに、一行の内では最も位の高いグレゴール艦長に中佐からの言伝を伝えさせた。
彼は近衛艦隊の面々と初めてあったことで若干緊張している節があったが、それでも辺境貴族の意地を奮い立たせて立派に物々しく口上を伝えてくれた。
これで、近衛艦隊が中佐の味方をしてくれるかどうかは大変怪しい。
十中八九、彼等がそれを受け入れないことは、ヘボンは周囲の撤収作業を見て察していた。 このまま、娘を回収すれば近衛艦隊は帝都に戻ってしまう。
「…そうか、下がって宜しい」
更にぽつりと前に立っている女性から出た、この一言がそれを決定づけた。
娘は今まで色々とあったものの、何も言わずにスタスタと前の女性へと歩み寄っている。 ただ、一度振り返ってヨトギ少年を見たようだった。
だが、それだけであった。
ある意味、この方がこの場は収まった様な気がした。
ヘボンとしてはお上に何か言うほど胆力は無かった。
中佐にはいざという際は、飛行帽を取れと言われていたが、それをする度胸は無かった。 このままではいけないという気持ちは胸中に渦巻いていたが、それ以上に上からの圧力と恐怖がそれをさせまいとしていた。
徐々に隊列が遠離っていく様子が見える。
このまま彼等は艦に乗って飛び去るだろう。
「…ご助力の程は如何に!?」
だが、そうはさせまいと草原一帯に響き渡るような轟音で叫んだのは、エーバ准尉であった。彼女の鍛え上げられた肉体に相応しいまでの轟音は、如何に冷徹な集団でさえも振り向かざるをなかった。
途端に、周囲の空気が張り詰めるのをヘボンは感じた。
思わず、エーバ准尉をその場にしゃがませようと縋り付いたが、勿論無駄であった。
「艦隊の助け無くば、我等は殲滅されるのみです!」
そのまま准尉は叫び続ける。
その声に対して、近衛騎士達は容赦なく銃口を寸分違わぬ動作で此方に向けてきた。
百は優に越える銃口を向けられた事は初めてであった。
下手な銃殺刑よりも豪華な光景に、ヘボンは思わず悲鳴を漏らし、准尉の背中に隠れ、素早くその後ろにヨトギ少年とグレゴール艦長が隠れた。
隠れたってどうしようもない状況である。
「…帝国の汚物共を助ける義理など無い」
准尉の必死の言葉に対し、返ってきた声は何処までも冷たく大きい声では無いが、よく透き通った声だった。
声の主は例の娘を傍に立たせ、此方を冷たく見ていた。
先程の女性、恐らく彼女こそが娘の母親である近衛艦隊提督であろう。
何処までも美しく垂れる白い長髪に、薄い褐色の肌。
整った顔立ちと姿は、帝国芸術絵画から抜け出してきたようにも感じられる。
そんな美しい女性が、冷酷に此方を突き放すというよりは、突き殺す程に鋭い声音と睨みを利かしている。
「ならば、我等にも手段があります!」
しかし、准尉は相手が百を超える銃口であろうと、雲上の人物であろうが、一歩も退かず、また轟音で宣った。
そして、退かない代わりに、縋り付いていたヘボンの首根っこを掴んで掲げた。
此方も大の男である筈だが、准尉の手に掛かれば皆ペットのクルカの様に振り回されてしまう。
「お前に交渉を引き継いで貰う」
准尉はそうヘボンの耳元で提督にも劣らぬ声で言うと、此方を砲丸投げのような要領で放り投げた。
ヘボンの身体は一般成人よりも軽かったであろうが、良く飛んだ。
空中に投げ出されヘボンは素っ頓狂な悲鳴を上げながら、提督の前から数歩離れた場へとぶつけられた。
身体全身を衝撃が遅い、治療中の脚がまたあらぬ方向へ曲がった気がする。
ヘボンはもう何が何だかわからず、兎に角顔をあげた。
鮮明に目の前に此方を見下ろす提督が見えた。
(撃ち殺されるぞ)
ヘボンは不敬罪が適用される要項に対して、全てチェックを入れてしまったような気分になった。
最早、どうしようもない。
自分はもう更に更にどうしようもない深淵まで飛ばされてしまった。
既に投げられた際に飛行帽は脱げていた。
せめて最期に恨みがましく准尉を睨んでやろうと振り返った。
その際に彼の顔は彼を取り囲む面々全員に晒された。
「其奴が…雌狐の懐刀か…面妖な…面妖…」
ヘボンの眼前で提督が狼狽えた。
その声音には明らかに恐怖の色があり、顔も平静を保とうとしているようであったが、脂汗に様な物が美しい顔に滲んでいるのが見えた。
まるでヘボンは自分が巨大な自身の震源になったような気分であった。
この様な場に立っていては即座に撃たれるか、取り押さえられると思ったが、周囲の近衛騎士達が一様に立つことすらままならず、腰を抜かして崩れ落ちているというあまりに奇妙な光景がそう思わせた。
一体何が起きているのかヘボンはわからないが、兎に角、以上に顔面が熱くなっている事だけが気になった。
まるで顔の皮膚全体に熱した棒を近づけられているのかのようだ。
だが、それは此方が蹲り苦悶するほどのものではなく、気付けばヘボンは脚の痛みをものともせず立ってしまっていた。
何か釈明の様な物をヘボンは叫んだ気がする。
しかし、彼自身にも自分が何を言っているのかわからなかった。
「わかった…。あの女に助力してやろう」
ヘボンの何か意味不明な言葉に対し、提督はあまりにあっさりと此方の要求を承諾した。
彼女は必死に脚に力を込めて辛うじて、精神力を頼りに立っている様に見えた。
既に傍に立っていた娘は失神して倒れていた。
「下がらせろ…。其奴を下がらせろ!」
次に提督は半ば悲鳴のような声を上げていた。
ヘボンは訳も分からず、それを見ながら自ら引き下がろうと後ろへ足を引いた。
その際に今まで顔面を覆っていた熱がふっと消え去って、それと同時に全身の力が抜けて後ろに倒れ込んだ。
そのまま気が遠くなり、最期に見た光景は後ろへ視線が行った際に嗚咽を上げて崩れている准尉の姿と、グレゴール艦長の傍らで歓声を上げるヨトギ少年。
そして、自身の立身出世があり得ない形で粉砕され、強い絶望を顔に浮かべている、グレゴール艦長の表情であった。