『汚泥の三飢狼』前編

 『汚泥の三飢狼』前編 著 冷やし狸のマサ

 

 雨が降り続いている。
   ここ3日間は降り続いている。
   あれほどに乾燥していた大地は大量の水を吸い、泥と代わり、人も車も飲み込んでしまっている。

 その泥にはまり込んでいるのか、若しくは寝そべるようにして一両の戦車が壕の中に蹲っていた。
   ここに蹲っている間に突撃砲の外観は半ば泥と一体化している。
   今まではアーキル陸軍の代表色である緑も、現在は濡れきったどす黒い泥の色をしていた。
   そして、その泥だらけの戦車の天辺からは紫煙がまるで排気ガスのように立ち上っては、降り続ける雨に掻き消され消えていく。
   だが、その泥と混ざり合いつつある車両の細い切れ目のような窓より、遠くの泥濘地を見据える目がある。
   そこには泥を掻き分けながら、必死に此方を目指して這いずってくる人影が見えた。
   それも一つや二つではなく、六・七十人はいるだろうか、二個小隊分の人間が必死に這いずってくる。
   その必死の様子から何かに彼等が追われていることは容易に察せられる。
   だが、その後方から雨に打たれながらも、その人々を追う鉄の獣が唸りを上げて姿を現した。
   朱色に染められた外装が雨の中でもよく目立つ、帝国の誇る浮遊戦車『ゼクセルシエ』である。
   生体器官によって僅かに地表より浮いて移動できる戦車は、泥濘地をものともせずに大勢の人影を追っている。
   その気になればすぐにでも追い付ける様にも見えるが、それはあの朱色の獣が逃げる人々を追い立てて楽しんでいるのだろう。
   時折、散発的に射撃を見舞っては、人狩りに興じている様にすら見える。
   それを見据える目は同胞の死に、義憤を滾らせるわけでも、迫る鉄の獣に恐怖するでも無く、慣れた様子に喉元に当てた送信装置へと手をやった。

 「見えた。12時正面にゼクセルシエ一両、距離は五百。後続はいない…囮じゃないな。狩りに熱中してるようだ」

 突撃砲に籠もる目はそう言い終えると、すぐに耳元に当てた受信装置より声が響いてきた。 

  「正面装甲は抜けない。ヅッデなら側面を狙えるが…おい、またか?!」

 冷静そうな通信先の声は急に語気を荒げた。
   もう一台別に味方がいるのだが、その車両から連絡が来ない。
   その味方の車両は危うくなると、すぐに通信機が都合良く故障する。
   どう考えても故意にしているとしか思えないが、元よりそこまでアテになどしていない。

 「いつもの不調だな。砲塔基部を狙え。ダッカーじゃねぇんだ。当たれば取れる」

 諦めたように溜息を吐くと、吸っていた煙草を側面の壁に押しつけて消し、目は照準器へと移された。
   雨によってスコープは曇っており、おまけに飛び跳ねた泥で更に視界は悪い。
   それでも、ゼクセルシエの朱色は格好の的である。
   人狩りの代金は、その朱い身体で払って貰う。
   此方が狙いを定めている間に、先に此方より離れた横の泥丘からくぐもった発砲音が響き、スコープの中でゼクセルシエの砲頭部に爆発が起きた。

 「ちょい下だ。見本を見せてやる」

 僚車の惜しい射撃を鼻で笑いながら、続けて狙いを付け撃発装置に指を掛ける。
   スコープの中の敵戦車は、此方の待ち伏せに驚いた様で生体器官独特の悲鳴を上げている。 雨の音と悲鳴が良い具合に混ざり合い、突撃砲の射手兼車長は苦し紛れに砲を見舞っては、見当違いの泥地を吹き飛ばすゼクセルシエへ、正しい射撃というものを見舞ってやった。

 

 砲頭部が吹き飛び、命からがらに生き延びた人々が此方の壕へと辿り着き、同じように潜んでいた兵士達に案内される様を眺めながら、突撃砲デーヴァⅣの車長は

 「…随分と長い雨だな」

 と、時の流れを思い出したかのように、ぼんやりと呟いた。
   車内にて囁かれた声はまるで時の流れを思い出したかのように、ぼんやりとしていて、その声の主である『ブア』は小柄な体躯を一層丸めて縮こまり、口に咥えた煙草を吹かした。

 「もう三日になりますからねぇ…」

 そのブアの言葉に彼の足下から間の抜けた声が上がる。
   此方と同じように煙草を拭かし、そのブアとは対照的に細長い身体を、彼よりも器用に丸め込んで狭い運転席に押し込んでいる『ダウ』は、少しでも身体の筋という筋の硬直を防ごうと、長い足と腕をどうにかして伸ばそうと悪戦苦闘していた。

 「いい加減に、ここは諦めて帰りゃいいんだ。帝国人共がここまで我慢強いとは思わなかった」

 「なんとしてでも、私等を包囲したいのでしょう?そりゃぁ躍起になるでしょ…戦線の腫れ物みたいなものですしぃ」

 彼女と同じように筋を伸ばそうとしているブアに対し、彼女は無理な体操を諦めて煙草を吸い直している。

 

 この二人が流れ着いた戦場は泥濘の地であった。
   雪上の地獄から本隊が四散し逃げ出してから早数ヶ月。
   二人は特殊な改造が施された雪上用ダッカーに早々に見切りを付け、それを遺棄してからは徒歩にて友軍の戦線を求めて彷徨っていた。
   運悪くアーキル軍の憲兵に捕まれば、脱走兵として最前線に送られてしまう為、極力、大きな道を外れて移動しているつもりであったが、元々ブアはオデッタ人、ダウに至ってはニヂリスカ人であるため土地勘は皆無と言っていいほど無く、それによって最前線から逃れているつもりであったのに、気付いたときには前線のこの突出部に入り込んでしまったのである。
   長い逃亡生活によってお互いの衣服はすり切れボロボロとなり、彼等が何人であるのか皆目見当も付かなかったが、唯一持っていた軍隊手帳の記録から対帝国連合所属という事だけが判明し、アーキル正規軍兵士とは違う身分だという事で懲罰隊には送られなかったものの、事実は其方の方が良かったのでは無いかと思われる程の酷い部隊に二人は所属する事となる。 彼等は対帝国連合と立派なお題目が付いていても、実情は外人傭兵部隊であり、アーキル共用語すらも全く通じず、意思の疎通も拙い集まりであるため、正規軍では持て余す為に二人は最前線の突出部へ配置された。
   ここの部隊の指揮官も正規軍の出身では無く、二人と同じく対帝国連合からの出のアナンサラド人で元々はアーキル軍の戦車運用を学ぶためにアナンサラドより派遣された技術将校であったらしいが、それも何を間違えたか前線で指揮を執ってしまっている。
   なにもかもちぐはぐな部隊であり、アーキル人は一人も居ないような始末であった。
   おまけに装備もどこからかき集めたのかわからないが、故障寸前のデーヴァ突撃砲を数台要し、その車長に当てるためにダッカーを扱った経験のある二人はそこへ押し込まれた。
   そして、早数週間の間、突出部にて戦車壕の中で蹲り続けている。
   この戦線の腫れ物とダウが表現するとおり、数ヶ月前のアーキル軍の攻勢によって勝ち得たこの地域は、勝ち進んでいる時節は良かったものの、帝国軍の手痛い反撃を貰って後退する際には、退却してくる部隊を飲み込んで膨らみ続ける腫瘍と化している。
   帝国軍としてはこの腫瘍を包囲し早々に取り除いて、戦線の憂いを無くしたくあり、またアーキル軍としてもこの突出部に当てるための増援を割き、戦線を一本化して予備兵力を生み出したいと思っていたが、退却してくる部隊と二人のような迷子の外人傭兵達が敵戦線からも味方戦線からもやってくる事態に、アーキル軍司令部は柔軟に対応することが出来ず、腫瘍は血を流しながらも膨らみ続ける一方であった。

 

 「…まぁ、でも良かったんじゃないですかぁ?」

 出し抜けに運転席からダウがぼやいた。
   視線は常に運転窓から離れないが、言葉の先は明らかにブアに向いている。

 「何がだよ?」

 「いえね、どうせ後方に行ったって、偉そうなアーキル人に顎で使われる訳ですしぃ、こっちの方が一応、以前の集まりとそこまで変わらないでしょう?…それに、ここなら玉の輿って事も曹長はあるわけですからぁ、更に得ですよねぇ?」

 ダウは含みのある笑みを浮かべて僅かにブアを見上げてきた。
   それに対しての彼の返答は、彼女の枯れ木のような身体への蹴りであった。

 「馬鹿も休み休み言いやがれ、このニヂリスカの枯れ木女郎が…。俺はあんな訳の分からねぇ双子の玩具じゃねぇ」

 ブアの蹴りを受けて、若干、彼女は前のめりになったが大して痛みも感じていないのか、依然としてヘラヘラとした笑みを浮かべながら、煙草を咥える。

 「曹長はそう思っていても、あの二人はそうは思ってないでしょうしぃ、アナンサラドじゃオデッタの小石が宝石に見えるようでぇ」

 煙草を咥えたまま言葉をふにゃふにゃと紡ごうとする、そんなブアの後頭部に不意に冷たい感触が伝わった。
   どうやら、曹長を随分と苛立たせたらしい。
   彼は腰に差した拳銃を引き抜いて押しつけてきたようであった。

 「…それ以上言うと、その二人に頼んで、代わりの操縦士を補充して貰うからな」

 ブアの口からは戯れの軽い色は無くなって、怒気を孕んでいるのを感じとったダウはそれ以上を口にしようとしなかった。
   普段からさほど冷静な性格ではないブアにとって、その『双子』の事については彼から更に冷静さを失わせる一大要素だ。
   この寄せ集め部隊に入ったときから、その指揮官であるアナンサラド人将校の『双子』に彼は目を付けられていた。
   ブアは文字通り、双子等が入隊申告を行った際に彼をまじまじと4つの目でしきりに見つめていたことを覚えている。
   しかも、それだけでなく、双子が事あるごとに彼に対して言い寄ってくる出来事も多々あった。
   内容は彼の戦車の操縦技術を見込んで、戦争が終われば、我がアナンサラド陸軍へ軍事顧問として招待したいという物であり、傭兵でなければチンピラ同然の彼にとってはとても有り難い物であった。
   しかし、それはあくまで建前で、本音はその双子が国にブアを持ち帰って『娶りたい』と言う意思があるのだということを、ここ数日で認識してしまっていた。
   それを認識してからというもの、双子のブアに対する言い寄りはエスカレートしていった。 当初は、何故やらブアの車両にだけに対し酒保物品を密かに多く支給したり、配給食の割り増しを増やしてくれる様な、これは同車に搭乗するダウにも有り難かった。

 だが、ブアの一種のオデッタ人兵士としての尊厳を大いに傷つけた事件と言えば、つい三日前に双子が乗り込んでいる指揮車の中へ呼び出され、文章に起こすも悍ましいほどの行為が行われたと言うことである。
   ブアはこの事について他言することは一切なかったが、彼と長く連んでいるダウにとって想像は難くないことであり、彼が指揮車から突撃砲の車内へ戻ってくる際は意味ありげな笑みで出迎えたのであった。
   一体、何がどうあってこの小柄な子供の様な身体に、汚れた中年男性の顔をすげ替えたようなブアがあの双子に気に入られたかは全くの謎である。
   その双子については、まだ歳も声からして若い様であるが、その容姿はお互いに厚手の民族衣装を頭からつま先まですっぽりと包んでいて、その顔は常に面布にて覆われわからない。 ブアはこの双子の中身を、指揮車の中で見ているそうなのだが、出来事の事を話したくないせいでその双子指揮官の正体は謎に包まれている。
   ダウはその正体について、きっと厚手のローブの様な民族衣装の中には、全身が触手で構成されているような化け物が詰まっていて、そんな化け物にブア曹長は花を散らしてしまったのだと、他の兵士に吹聴して回ったために、それが部隊内に密かに広まってしまっていた。 

 しかし、そんなやり取りがあってすぐに、ブアの頭上からハッチを叩く物音がしてくる。
   雨音では無い。車中に対してハッチを開くようにと伝える音である。

 「噂をすれば…じゃないですかぁ?」

 その音を聞くと、先程まで黙り込んでいたダウが彼の股の間より皮肉げな顔を覗かせている。
   ブアはその声に睨みを持って答えてから、ハッチを上に押し上げて開いた。
   開けたと同時に雨粒と泥が少量流れ込み、ブアの顔を汚した。
   不快な感触を味わうと共に、続けざまに此方を見下ろした顔は更に不快さを増長させるものであった。

 「…格戦車長を招集して、指揮所へ来てくれ」

 ブアの頭上にある面布の顔はそう告げると、さっと姿を消した。

 その者こそが、我が戦車隊を率いる指揮官の片割れであった。

 

 指揮官直々に指示を伝えられ、ブアは各車の戦車長を纏めて、数分後には指揮所へと赴いていた。
   何も、指揮官直々にブアに伝える必要などは全くなく、伝令兵の役職を無駄にしている。
   そもそも、各車に備えられた無線機を用いれば、その伝令兵すら使わなくて済むのだが、長期に渡る忌々しい雨と泥によって車載無線の大半は故障していた。

 「また、指揮官様直々に訓示に来られたか?」

 指揮所へ赴く際に、ブアの横で一人の戦車長が皮肉に此方を見下ろしながら言った。
   彼等はブアと指揮官達との関係について、あのニヂリスカの枯れ木女達と同様に精通している。
   戦車長の皮肉に対して、ブアは肩を竦めながら徐に指揮所のテントへ潜っていく。
   テント内には付近の地図を広げた台を中央にして、奥には通信装置と通信手が忙しなく動いている。
   そして、それとは対照的にブア達を待ち構えるようにじっと面布を付けた変わった風体の二人が並んで立っている。
   彼等こそこの腫れ物戦線を支える指揮官であり、アーキル正規軍の人間では無く聞いた話ではアナンサラド出身と言う。
   その内の片割れは先程、わざわざブアの戦車へと顔を見せた者であり、思わずブアは其方へ少し苦々しい顔を向けた。
   片割れの此方へ向けるやましい視線を面布の内から感じとったからである。
   面布の片割れは時折、ブアに対して口に出すのもおこがましいような情念を孕んだ視線を浴びせてくる。それを浴びると三日前のおぞましい出来事が脳裏に過ぎる。
   面布の視線は見えやしないものの、背筋に悪寒を走らせるほど強烈な気配があった。

 「諸君に集まって貰ったのは他でもない。我等は担当する戦線の突出部から、後方戦線へ後退するよう司令部より通達があった」

 ブアに視線を向けない方の面布はそう戦車長達を見回して、単刀直入に言い放った。
   この言葉が何を意味するかは言わずとも知っている。
   それはこれより大規模な撤退戦が始まると言うことであった。

 「依然として、この突出部を目指し撤退する部隊が多いことは認識しているが、ここに収容しきる前に帝国軍の包囲が閉じてしまっては全滅の可能性もある。しかし、退却してくる部隊は対帝国連合の同志達だ、完全に見捨てるわけにもいかぬ」

 ブアに視線を向けない面布はそこで言葉を切ると、依然としてブアに視線を集中させている片割れの肩を叩き、視線を他の戦車長達に移させ、言葉を紡がせた。

 「…要請によって把握できている隊は、これを最後の最後まで収容してから、本隊のある戦線まで後退する。それには機動力のある機甲部隊の力が必要不可欠だ」

 「…殿として残れということで?」

 片割れの面布の言葉に対し、一人の戦車長が不躾に口を挟んだ。
   対帝国連合の傭兵同士であると階級意識も薄いためか、この様な事も度々あり、それに加え、このアナンサラドの双子指揮官は何処までも寛容な態度を持っていた。

 「その通りだ。しかし、全隊が残るわけではない。先に後退する部隊の護衛にも割かねばならぬ」

 片割れの面布はそう言いながら、厚手の民族衣装の袖口より何やら細く長い紙の束を取り出し、戦車長達の前に差し出した。
  それを見てブアを含め、他の戦車長達も苦笑する。

 「貧乏くじを文字通りくじで引かせる訳か」

 ブアが思わずそう呟くと、笑い声は更に賑やかとなった。
   片割れの面布指揮官も此方に合わせ少し笑ったが、それはすぐに収まった。

 「…先に後退出来るからと言って、安全とは限らぬ。下手をすれば戦線の解れを突いた帝国軍と戦闘になる場合も大いにある」

 面布の指揮官はそう言い聞かせるように言いながら、さっさとくじを引けと言わんばかりに台の向こうから回り込んで、ブアが立っている位置から最も遠い端の戦車長に手を差し出してきた。
   ブアはそれを眺めながら、不意に妙な気配を感じた。
   今まで突出部を守り抜けたのは、勿論ブア達の戦車隊と歩兵隊の活躍に他ならないが、それを上手く指揮したのはこの異様な双子の指揮官の功績である。
   その指揮は何処までも冷静沈着なもので、アーキル正規軍の無能指揮官達とは天と地ほどの差があることを、様々な死線を潜ってきたブアは知っている。
   だが、その指揮官達が重要な撤退戦に置いて、くじ引きを用いるとはどういう事だろうか。 冷静に此方の能力を分析し、戦車壕の配置等も見当していた指揮官達である、それがこんな雑な事を今までしたことなど無かったはずだ。
   ブアはその今までの修羅場によって磨き抜かれた直感を信じ、端に立っている戦車長の前に割り込んだ。

 「残り物には福があるって言うだろ?後で引かせてやる」

 そう言いながらブアはズカズカと割り込んでいく。
   幸運な事に端の戦車長は少々臆病な気質が災いしていて、クジを引くことを躊躇しており、喜んでブアに先を譲ったが、片割れの指揮官は急にクジ束を持っていた手を引いた。

 「順を守れ」

 そう一言、小柄なブアを見下ろしながら指揮官は窘めたが、何処か一言の内に狼狽の色があることをブアは感じとっている。

 「硬いこと言うなよ。後から引こうと前から引こうと、そんな変わりは無いだろ?」

 ブアはそう口を尖らせ、無理に引っ込んだ手に此方の手を入れて、クジを一本抜いた。
   彼の素早い動きに指揮官は止めることも出来ずにクジを抜かせてしまい、何処か面布から覗く瞳に落胆の色が見えたような気がした。
   引いた紙の下は朱で塗られており、それが殿なのか先に撤退するかを示すかはわからない。 

   「おう、指揮官殿。朱はなんだ?」

 そうブアが見上げながら問うと、前に立っている面布の指揮官は少し黙ってしまった。
   何故黙るのか、他の戦車長達も訝しげに思い、何か口を開こうとしたが、それを制したのは台の向こうに居るもう一人の面布の指揮官だった。

 「おめでとう。ブア曹長、栄光ある殿だ」

 皮肉めいた口調にブアは肩を竦めたが、その顔にはしてやったりという色が浮かび、素直に横に引っ込んで次の戦車長に番を譲る。
   だが、その際に此方の前にいる指揮官が、台の向こうの指揮官に対し、何処か恨めしげに顔を向けるのをブアは見逃さなかった。

 

 殿と後退部隊かのクジ引きを済ませた後、ブアは栄光の殿仲間である戦車長達と共に戦車壕へと戻ろうとしていた。
   面々の顔は一様に暗く、ブア本人もテントで見せた嬉々とした色は消え失せて、陰鬱な物に早変わりしている。

 「…ブア。お前、わざとやりやがったな」

 そう恨めしげにブアの隣に居た戦車長が言う。
   彼は汚れきったレンズにヒビの入った眼鏡が、特徴のサーマンと言うメルパゼル出身の聡明な男だ。
   この戦線に1・2ヶ月の間柄だが、ブアと同様に悪運の強い男でブアの僚機を勤めている。 

   「なんのことだよ?」

 「とぼけるな。朱色は後退部隊の色だったと俺は見てる、あの変態指揮官の仕草を見れば誰でも判る」

 サーマンは恨みがましくそう言いながら、その場に立ち止まると胸ポケットからくしゃくしゃに潰れた煙草を取りだし、指先で折れた煙草を器用に伸ばしながらそれを咥える。
   それは数日前に双子指揮官の贈り物を、ブアが彼にお裾分けした物である。

 「お前の性癖については知らんし、好みに口を出すつもりもないが、その為に俺を巻き込んだのは許せねぇ」

 「…どゆこと?」

 サーマンが口を挟んだ横で、もう一人殿として残ることになった戦車長ヅッデは全く事の次第が判っていないのか戸惑っている様子だった。
   彼女は表向き陽気でお気楽な諸島の出身であるが、この戦線に置いては古株であり、ブアよりも戦歴は長い。
   ブアに対する双子のお墨付きが無ければ、彼女が本来戦車隊を率いる筈だったのであろうが、面倒な戦車隊長などはやりたくなかったらしく、ある意味最もこの三人の内で賢い。

 「指揮官殿も言ったろ。後退するのだって無事にはすまねぇって」

 「あんな物、殿に対しての方便に決まってる。帝国は真っ先にココを叩いて退却部隊ごと叩き潰すつもりさ」

 ブアは言い訳を試みたが、聡明なサーマンはとっくに全てを見抜いているようだった。
   あの片割れの指揮官の狼狽振りは、一方的なブアへ対する親密振りから見て、彼を撤退部隊へと回そうとしていたものであることは察しの良い者ならすぐに見当が付く。
   大方、ブアにクジを最期に引かせ、彼が引いた色を見てから結果を話すという幼稚な手を使うつもりであったのだろう。
   そんな無理矢理な手段を用いてでも、彼を自身の傍に置いておきたい気持ちが見て取れる行為に、何処か哀れさすらも感じなくもないが、誰とて他人のメロドラマに巻き込まれ危険な橋など渡りたいわけがない。

 「…確かに俺の我が儘だが、何もくたばると決まった訳じゃない」

 「だが分の悪い方についたってのは確かだ」

 苦く言うブアに対して、サーマンは紫煙を曇天に吐き出しつつ、小さく唸った。
   それを見てつられたようにヅッデも煙草を取りだしている。

 「ま。グアスとハーベルドに、恩を売ったようなものだと思えばいいじゃない?」

 彼女は後退部隊へ合流の決まった、同胞のことを持ち出しつつ煙草を吸い、ブアにも一本勧めてきた。
   あのニヂリスカの枯れ木なら、他人様に自身の持ち物をやるということは一切しないだろう。その点このヅッデという女は女神の如く明るく優しい。
   だが、その裏には計算付くな諸島人らしい色もあると言うことをブアはよく知っている。
   しかし、それを差し引いても、腹黒く不親切な者と腹黒いが親切な者をと選ぶとすれば、間違いなく後者に決まっている。

 「彼奴らにはいつも売ってるさ。お釣りが欲しいぐらいだ」

 ブアは苦く言いながら、煙草を受け取りつつ三人で紫煙を焚いた。

 

 戦車壕へ立ち戻り、また薄汚い車内へハッチを開いて身体を押し込むと、ニヂリスカ人の醒めた瞳が待っていた。

 「…当ててあげましょうかぁ?親切な恋人達の願いを突っ張ってきたんでしょう?」

 そう皮肉たっぷりに彼女が言うと同時に、その顔面にブアは足蹴を喰らわせた。

 「…正解だよ。懸賞だ、馬鹿野郎」

 痛がるダウを尻目に見下ろしながら、つまらなそうにブアは先程にテントから受け取った雑嚢を彼女に渡した。

 「オマケだ。これが最期の酒保物品だとよ」

 雑嚢の中には殿に対する手向けの物品が詰められている。
   既に自分の分は少ないながらも、ブアは抜き取っていた。
   以前にもこのダウに物品をほとんど奪われたことがあり、それを警戒してだが、今更そんなことはどうでも良くもなってきている。
   妙な意地を張ったせいで命を短くしてしまった、己の愚かさにブアは頭痛がしてきた。

 「明日には戦車壕を飛び出て、此方へ向かっている退却部隊の援護に回る。指揮車や他の大多数の歩兵隊は本部へ後退する。俺達は殿になったぞ」

 「それはそれはぁ…前もそんなことありましたよねぇ?」

 ブアの説明を聞きながら、ダウは今の足蹴で鼻腔を切ったのか、僅かに鼻血を垂らしながら間抜け面を向けてくる。

 「前よりはマシだ。サーマンとヅッデも道連れになる」

 「あの諸島人は賭けてもいいですがぁ…トンヅラかましますよ?」

 「どうだかな。ここまで追い詰められれば無理だろ」

 彼女はあの諸島人が嫌いらしく、苦い顔をするが、それに対してブアは鼻でも拭えと物品からまだ綺麗な包帯の切れを渡してやる。

 「どの程度、粘れば此方は撤退していいので?」

 「退却部隊を収容するためにトラックが数台随行する。それに乗り切る分まで乗せたらだ」

 「…乗せきれなかった分は?」

 「言わなくても判るだろ」

 布で顔を拭う彼女の言葉に、ブアは少々沈痛な面持ちを向ける。
   同じ様な対帝国連合の兵である、中には同じオデッタの同胞も含まれているだろう。
   だが、自身等は人権団体でも無く、戦線に置いて命は数として計上される。
   顔を拭ったダウは何処か悲しげな顔で此方を見ている。
   時折、このニヂリスカ人は人間らしい表情という物を厄介な時に見せてくる。
   彼女の同胞も退却部隊に含まれているだろう、熾烈な戦場で人を支える数少ない物の中には同胞意識というものも強く含まれている。
   対帝国連合の兵達には特にそれが顕著に現れていると言ってよい。

 「他人の心配をしている場合じゃねぇ。今は自分のことだけ考えろ。明日の暗い内には壕を飛び出す。さっさと喰って寝ろ」

 ブアはそう言いながら、狭い車長席に身体を埋めて、取っておいた自身の配給である缶詰を取り出し、腰に差した軍用短剣を用いて乱雑に開き始める。
   既に缶切りのような物は何処かで紛失していた。
   そして、そのまま短剣の刃先に缶詰の中身を手掴みに掬い、口に放り込んでいく。
   味気ない携帯食でもオデッタ出身の彼からすれば、美食であるが、それも次に口に放り込める時は来るかと不安に襲われる。

 「…ねぇ、曹長?」

 不意に股下からダウの声がした。
   普段の皮肉な声音では無く、まだ先程の悲痛な色を引きずっているかのような調子だ。

 「曹長ってぇ、他人によく譲る人ですよねぇ」

 妙な言葉にブアは返事をし損ねた。
   質の悪い煙草をこんな密室状態に限りなく近い車内で吹かし続けたせいか、彼女の頭は病んでしまったのでは無いかと疑った。

 「物もなんだかんだ言って寄越してくれますしぃ、安全な策だって他人にほいほいあげちゃいますよねぇ?」

 此方に対して言っているようだが、それは独り言のような雰囲気もあり、不気味さは色濃い。

 「…良かったんじゃないですかぁ…?あの二人はアナンサラド人にしちゃぁ良い人達ですよ?」

 彼女が誰を指しているかはすぐにわかった。
   わかっても、返す言葉は出てこない。

 「曹長は、受け取れない人なのですねぇ」

 何処かしみじみと彼女は言い終えると、それっきり黙り込んだ。

 

 今の今まで、ブアは譲るというよりは捨てる選択を多くしてきたと言える。
   対帝国連合に参戦すること自体が捨て石のような心情を帯びていたし、数々の死線においても後退や撤退が出来なくも無かったが、概ねは前進した。
   その前進こそが生還に繋がったからこそ、今があるというのも事実である。
   しかし、それも今回ばかりは運の尽きでは無いかと感じさせる。
   包囲網を縮める帝国軍は正規の主力隊と見て間違いない。
   これまで相手してきたダックのようなチンケな敵ではない。
   エマーリアン重戦車が投入されてきているという報告も既に聞いているし、先日もそれなりの数を有する機甲部隊が戦線へ退却しようとしてきたが、あえなく殲滅させられている。
   ベテランであると自他共に認めるブアにとっても今回の相手は分が悪い。
   それでも双子の指揮官に身を委ねる事の方を、ブアは強く恐れた。
   何故、双子を恐れたのか。
   それは彼等がブアに対し、経験したことのない愛情を与えたからである。
   彼の耳には怒号と皮肉しか、耳に入ってきたものはほぼ無いであろう。
   恋人に送るような甘美な囁き等、彼は聞いた事もなかったし、精々拙く脆い友情からなる信頼の言葉が幾ばくかある程度であった。
   ブアはあの面布の裏にある双子の素顔をよく知っている。
   あどけなさが残る褐色の肌に、あの輝きを持った4つの目、そして、さらさらと流れる砂のような美しい黒髪。
   異国の貴族といった強い面影を残し、此方をじっと見据え愛を囁く。

 そんな相手と対峙した経験がブアには無かった。

 経験のないものは彼にとっては理解出来そうで、出来ない恐怖に似たものであった。

 

   物思いに耽りだした果てに、やがて微睡みがブアに訪れた頃だった。
   不意に鉄板を叩く音が、頭上から聞こえてきた。
   どうやら何者かがハッチを叩いているらしい。
   ブアは面倒くさそうにその音に招かれるままにハッチを上げて、訪問者の姿を見ようとした。
   月明かりに照らされても尚、影の具合で顔立ちは漠然としているが、その民族衣装を厚手に纏い、面布を外した姿にブアは思わず

 「…何の用だ。ギノガ指揮官殿」

 そう如何にも嫌そうな表情で呟きながら訪ねた。
   訪問者は双子の指揮官の姉の方であった。
   ブア以外は誰もその彼女の常に面布で覆われた素顔を見たことが無かった。

 「最期に話がしたい。出たまえ」

 女性指揮官はそう素っ気なく告げると、嫌がるブアを強引に引っ張り上げて車外へと連れ出した。
   その合間に物音で下の操縦席のダウの奴が起き出さないかと、ブアはヒヤヒヤしたが、ニヂリスカの枯れ木は依然として惰眠を貪っていた。

 

 「…昼間、弟の願いを拒否したな。曹長」

 突撃砲が並んだ位置から少し離れ、既に随伴歩兵達も大半が去ってもぬけの殻となった塹壕の物陰で、女性指揮官はそう切り出した。
   昼間の双子の弟の無理な引き留め方に対し、ブアの行った逃れ方を責めるような物言いだった。

 「…」

 ブアは押し黙りながら、煙草を取りだして口に咥えながら不満そうな顔で火を点けては紫煙を吐き出している。

 「何故だ。何が不満というのか、曹長。命が惜しくないのか?」

 「…命は惜しいが、アンタ等に妙な物をねじ込まれてまで、惜しがる命じゃねぇだけだ」

 憮然とした態度でブアが答えると、二人の間に暫くの沈黙が流れた。
   面布の無い指揮官の姿は、月明かりに照らされて漸く鮮明に見えていた。
   黒く焼けた肌によく似た長い黒髪は、美しい光沢を放つ白砂のような輝きも帯びていた。 その姿に対し紛れもない中性的美女であると、ブアは評価していたし、その美貌を同じように併せ持つ彼女の双子の弟『バノガ』指揮官も中性的美男と表すことが出来る。

 その二人がブアのことを一方的に愛しているのだという事を知ったのは、形容するにも悍ましい夜を経てすぐのことだった。
   いや、悍ましいというのはブアの極端な言い訳とも言える。
   実際の処、彼自身はそこまで嫌な事とは心底では思ってはいなかった。
   ただ、彼にとっての現実から考えれば、あまりに突拍子も無い出来事だったので彼の表面的な脳が咄嗟に拒絶反応を起こしたというのが事の事実であった。

 「…確かに、事を性急に求めすぎたことは私も弟も恥じている」

 ギノガ指揮官は長い沈黙から絞り出すように、謝罪めいた言葉を掛けてきた。

 「私も弟も、曹長を失うことだけは避けたかった。その為、弟が稚拙な手だがあんな事を…」

 その言葉を切ろうと、ブアが大きく手を振って口を開く

 「アンタ等は俺に何を求めてるんだ?愛玩動物の一種だと思ってる様なら…」

 彼はそう皮肉げな台詞を吐こうとしたが、それは彼女に怒気を孕んだ声に一蹴された。

 「断じて違うっ!!」 

 この戦線で指揮下に入ってからと言うもの、この何を考えているかわからない指揮官が、感情的に叫ぶことなどは決して無かった。
   その意表を突いた怒声に不敵なブアさえも言葉を噤んだ。
   今の大声で他の連中が起き出してこないかとヒヤヒヤしているのもあった。

 「曹長…。君に持っている我等の感情が何故わからぬ?指揮官とはいえ、最前線間近で詰めている我等双子とて命を張っている。勿論、君達戦車乗り達を軽んじた事など一度たりとて無いつもりだ。だが、その中でもブア曹長。君は特別だ、特別なんだ…」

 怒気を孕んだギノガの声は、しかし、やがて徐々に萎んでいった。
   普段の冷静さはかなぐり捨てて、今はただしょぼくれるように泣き出しそうな色が表情にも見て取れる。
   謎のアナンサラドの怪奇な双子指揮官とて人間だということが、ブアには改めて知らされたような気がした。

 「私と弟はアナンサラドにおいて、最下級の家に生まれた。その日の食物に困るという次元では無い。…常に他の兄妹肉親と奪い合いで私と弟以外は皆、奪って殺した様なものだ。だが、それでも弟と私だけは常に二人で分け合って生きてきた。アナンサラドで強く生きるには軍人として出世する他に道は無い…。その為に更に多くの者を自ら手に血を染めて蹴落とし殺してきた身の上だ。御陰で今の身分がある…。君達には後方の本部へと撤退すると告げたが、その後は私と弟は本国へと戻ることになっている。だが、決して本国へ戻っても安全では無い。この戦場での敵は帝国であるだけわかりやすいが、本国では常に周りが敵なのだ。四方八方に怨みを抱いて生きてきた故の代償だが…」

 気付けば消え入るような声で彼女の告白が始まっていた。
   先程の怒声が嘘のように周囲は静まりかえっている。
   ブアは話を遮る気力も失って、ただ紫煙を吸い込み吐き出し、彼女の言葉を待っていた。

 「敵を多く作った分、私と弟に心を置ける存在は無いと言って良い。常にずっと弟と一心同体だと思い、弟も私さえいればいいと思い、私もそう思っていた。だが…君がここに現れ、心許ない戦力で戦線を維持し、戦車をまるで愛馬のように扱う様を見て、弟も私も君に惹かれた…。私は君に火照りを感じた…弟も君のことを、兄を慕うような感情…いや、それ以上の物を感じている…。こんなことは今までにない。初めて私と弟が何かを別々に独占したいと思った。食料も地位も名声も分け合った双子だが…君だけは別なのだ」

 彼女がそう言葉を結ぶと、ブアの方をじっと見据えていた。
   ブアもその視線から逃れられず、彼女の方を見ていたが不意に口を開いて

 「指揮官、弟を差し置いて抜け駆けしたいのか?」

 そう言った瞬間、彼女の視線がハッとしたようにブアを通り過ぎてその背後へと注がれた。 そこにはブアを挟んで奇妙な鏡を見るような具合で、彼女の生き写しが立っていた。

 「…姉よ。余計な事を言ってくれたな」

 ギノガ指揮官の双子の弟であるバノガ指揮官も、今は面布を取り払い、その中性美男と言うに相応しい顔を月明かりに晒していた。
   ブアはこの気不味い状態をギノガよりもいち早く感じていたが、双子は此方より身の丈も高く、挟まれてしまっては身動きも取れない状況を歯がゆく思っていた。

 

 張り詰めた風がブアの背筋を撫でた。

 それはさながら猛獣と出くわした時のそれと似ていて、加えて此方は無防備な時のそれである。

最終更新:2021年01月07日 11:26