総舵手ヘボンの受難#44 『大空中混戦』
次にヘボンが目を覚ましたのは、グレゴール艦の応接間であった。
室内の壁に沿って誂えられたソファに横になっており、中央の台には料理の盛られた皿と水差しが置かれている。
どうやら、先程の一件から気を失った自分は、ここに運び込まれたらしい。
とりあえず、ゆっくりと起き上がろうとするヘボンであったが、脚に思うように力が入らない。
それでも無理に足を上げようとすると、妙な重みとまるで足を固定されている様で、僅かにも動かせない。
視線を足に向けると、どうやら両足ともギプスで固定されている様だった。
何故、こんな脚になっているのか思いを巡らせれば、それは准尉に投げつけられた際に片足の負傷が両足になったという事だとすぐに思い当たった。
動くにあたってどうにもならないので、ヘボンは応接間の窓へ目を走らせると、窓の外には青々とした空と雲海が広がっている。
その様子から既にこの艦は空を飛んでいることが理解できるが、何処へ向かっているかはわからない。
あの近衛騎士達の前で起きたことが現実であったのか、ヘボンはしっかりと記憶はしているのだが、事実として認識できるかはまた別問題であった。
しかし、この手の事はこの数日の間に大分慣れてしまったヘボンは、この場合に自分がまず何をするかはしっかりと理解出来ていた。
それは兎に角、自身の空腹を満たす事であり、そのために寝そべった姿勢のまま、ソファから手を伸ばして皿を寄せるとフォークを使って盛られた人工肉と思わしき物に口を付けた。
味は素っ気ないが、食器に盛られているだけでも立派な物であると脳が錯覚しているようで、ヘボンはそのまま咀嚼して肉を飲み込んだ。
喉から活力が漲るような気配を感じていると、応接間のドアが徐に開いて、焦燥しきった様子の将校服姿をした男が入ってきた。
その人物がこの艦の艦長である『グレゴール』であるとは、随分と彼が近付いて無遠慮にソファの対に座るまでわからなかった。
「やってくれたな。空鬼」
開口一番、彼は恨めし気にヘボンを睨んだ。
先程の出来事のせいか、随分と歳を喰ったような程に彼は疲れ切ってしまっているようだ。
「せめて、官姓名をもう一度、確認しておけばよかった」
彼はそう頭を抱えながら、対に寝そべるスクムシ状態ともいえるヘボンにもう一度恨めしく言った。
「…空鬼…いや、貴官の暴れぶりはよく聞いている」
頭を抱えていた彼が不意に面を上げて此方を見た。
その顔には貴族らしい威厳はなく、底意地の悪い帝民風の色があった。
「コアテラがこんな空域を飛んでる時点で怪しいと思うべきだったが、まさか中佐が、片腕を丸々寄越してくるとは思わなかった…」
彼はなおも頭を抱えたまま、此方へ愚痴らしい言葉を長く投げ続けていた。
その間にヘボンは静かに食事を続け、人工肉を胃袋へ納め、脇にあった水差しから水を二杯ほど流し込み、彼の愚痴が終わる頃には煙草を口に咥えていた。
「まぁ、良い。済んだことは仕方が無い事だ」
艦長はそう言って愚痴を締めくくると、ヘボンへ向き直った。
「それよりもあれだけ話を引っ掻き回してくれた手前だ。一働きして貰うぞ」
「…両足を負傷しました。操縦は実行不可であります」
艦長は立ち上がってヘボンを見下ろしたが、流石に両足が骨折した状況では何もできないとヘボンは説明したが、この艦長は中佐よりは合理的な考えの持ち主の様であった。
「何も、操縦しろとは命令していない。そもそも、貴官に命令するのは指示系統が違うのだが…そこは成り行きだ。貴官には我が艦の船首砲台の任に就いて貰いたい。なに、貴官がレリィグの元へ着くまでの臨時要員だ。一緒についてきた准尉には護衛機として働いてもらう。生憎、我が艦には援護機が不足していてな」
彼はそう言いながらヘボンの口に咥えていた煙草に、卓上点火器を用いて火を点けてくれた。
紫煙を吸い込みながらヘボンは、確かニベニア准尉から貰っておいた、特殊な葉の調合が成された煙草の味に酔いながら、艦長の話に耳を傾ける。
「そもそも、我が艦は攻撃砲台が時代遅れで戦闘には向いていない。昨晩は貴官のコアテラが誘導してくれたこともあって上手くいったが、あれ以上の事は我が艦には出来ん仕事だ」
このグレゴール艦長はそれなりにヘボンに対して好意を見せつつも、譲歩しないところは絶対に譲らないといった意志の強さを感じさせた。
「そこで貴官のコアテラを不本意ではあるが、船首に応急処置だが括りつけた。暫くの間砲台手として働いてもらいたい。…我が一族は見ての通り、貧乏貴族だ。だが、それでも貴官には精一杯の持成しと寛容さを持ったつもりだ。それにどうか応じてほしい」
艦長はそう言って自身も煙草を取り出し口に咥えたが、今度はヘボンが少し身を起こして卓上点火器を用いて火を点けた。
「…応じる事には応じますが、しかし、何故…?」
「…確かに近衛艦隊は助力に応えて、参戦を決意してくれたが、結局最前線で戦うのは我々地方貴族達ということだ…。貴官が先程見た旗艦がわざわざ出てくることはない。精々、2隻の新造艦、『アクアルア級』と『アルバレステア級』を此方に差し向けてくれるそうだが…、正直頼りになるかわからない。私も先の会戦でふざけた化け物が暴れたことは知っているが…」
「アクアルア級とはなんでありますか?」
「なに、新造空母だ。話ではグランビアが8機も載せられるらしい。こいつが二隻満載ということだから、まだ有難いが、それに乗っているのはエリートボンボン共だ…。正直言うと勝負になるか怪しい」
「私もよくボンボンと呼ばれるであります」
艦長は帝民独特の妬みと皮肉気な笑みをありありと見せながら、紫煙を深く吸い込んで、それを天井へ向けてゆっくりと吐き出した。
「それにこれを貴官に話すのはどうかと思うが…まぁ、いいだろう。貴官に恩を売ることは中佐にも恩を売れることだしな。実際のところ、今回の近衛艦隊から出してくれた増援戦力は近衛騎士連中の方では外れもいいところだ」
「はずれ?」
「あぁ、そうだ。近衛艦隊自体はエリート集団と名を売ってるが、勢力を拡大するためにある程度力はあるが『地方』の奴らを入れ込んである。帝都にはある程度近いが、辺境貴族と言っても差し障りないぐらいの奴らがな。つまり、近衛艦隊の方としては、消耗しても痛くも痒くない程の戦力を送ってくれたわけだ。その程度でやり合うには私は不安だし、更に不安なのは我が艦は、その艦達の急先鋒を務めなくてはいけない事だ」
「それはまたどうしてです?」
「そうしないと奴等ついてこないと言い出してるのさ」
艦長はそう締めくくると、応接室の扉の方へ向いて通路側に待機していた者に向かって声を掛けた。
すると、年の頃はヨトギ少年程か、恰幅の良い、育ちの良さそうな風を漂わせる貴族姿の少年が入ってきた。
「…息子だ。貴官を砲台まで運びたいと申し出た。辺境では空鬼の名は随分と知れ渡っていてな、貴官のファンだそうだ」
艦長はそういうと、息子に顎をしゃくって見せた。
すると、恰幅の良い息子の方は満面の笑みで、ヘボンに対して敬礼をすると、中々に力があるのか、それともヘボン自体が軽すぎるのか、いとも容易く彼を担ぎ上げてしまった。
随分とここのところ誰かに担がれてばかりな気もするが、まさかこんな少年にまで担ぎ上げられるほど自分は軽いのかとヘボンは驚いていた。
暫くして、グレゴール艦の甲板上に担ぎ上げられると、ヘボンは広い空が嫌でも目に入った。太陽は高く上り、漂う雲海は何処までも穏やかで、空は青々としている。
しかし、その平穏そうな空に生体音が鳴り響き、僅かに首を曲げて後方を見れば、確かに艦長の言った通り遠方に此方に追随する艦船が三隻程視認できた。
そのうちの二隻が空母という事もあり、既に6機ほどのグランビアと思わしき機影が周囲を飛んでいる。
もう既に戦闘空域に入っているのであろう。
幾ら空が穏やかであっても張り詰めた空気が、甲板に出た途端に伝わってくるようだった。
それでもグレゴール艦長の息子は嬉々として、ヘボンの武勇伝を聞きたがっていた。
蹴ったり殴ったり、訳の分からない事に巻き込んでくる、最近あった珍妙な子供たちの中では群を抜いてこの艦長の息子は礼儀正しく、強い親しみをヘボンは感じられた。
やがて、船首に近づくと確かに艦長の言った通り、コアテラが半ば蹲るような姿勢で生体器官部を畳み、機の下方をワイヤー等で固定されている。
この様な応急砲台処置は割と珍しい事でなく、ヘボン自身は原隊で任務に就いていた際に地方貴族の艦船でこの様な砲台を乗せたのか、くっつけたのかの様な物を見たことがあったが、それでもそれに自分がなるとは思っていなかった。
そして、ヘボンが担がれたままコアテラに近づくと、先に乗り込んでいたのかヨトギ少年がコアテラから軽快な動きで甲板に吹き荒れる風に動じず走り寄ってきた。
「ボンボン!」
彼はそう何処か嬉しそうな声音で、担がれたヘボンを見上げているが、彼の心境がどうなっているのかヘボンには皆目見当が付かない。
近衛艦隊提督の娘が親元に戻った時には、随分といたたまれない様な面持ちであったように思えたが、彼の感情の起伏はクルカ並であるらしい。
そのまま、ヘボンは艦長の息子とヨトギ少年の助けを借りて、なんとか操縦席の方へ収まることが出来た。
ヘボンは艦長の息子とヨトギ少年に対して、友愛を込めた調子に礼を言った。
しかし、ヨトギ少年は兎も角として、艦長の息子がコアテラの銃座から立ち退こうとしない。
「…どうしたのですか?」
ヘボンはそう見上げながら、子供とはいえ目上の貴族の息子に問いかけた。
すると、艦長の息子はじっとヘボンを見下ろしながら
「父上から、空鬼曹長の傍でよく学べと仰せつかったので…」
と気弱気に答えてきた。
戦闘空域に侵入したものの、空は生体音が鳴りやまないながらも平穏であった。
ヘボンは通信機越しに慌ただしい艦内の通信を聞き、また周波数を弄っては後方の近衛艦隊艦との連絡通信も傍受する事が出来た。
それをする前にグレゴール艦長に自身の息子を船首砲台なんぞに居座らせていいのかと、再三確認したが、艦長が言うには自身の息子に少しでも旅をさせたい心持の様であったが、それにしては随分と危険で物騒な旅であった。
軍人貴族はどうも帝民には窺い知れぬ心意気があるらしい。
暫くはヘボンの耳元で鳴り続ける、傍受した音声のやり取りは平穏なものであった。
あくまで此方の艦が先陣を切っている間は、例の近衛艦隊もくっついてきているらしい。
だが、それにしては傲岸な態度は崩す様子が無く、随分と距離を置いてある。
確かに艦長の言う通り、彼等には逼迫した情勢に対する危機意識というものが薄いように感じられる。
だが、それは暫くすると否が応でも掻き立てられる次第となった。
事の最初は、その後ろに引っ付いていた近衛艦からの光信号であった。
『我、敵目視す』
との内容のそれは、グレゴール艦の艦首に拘束されているコアテラからでも、通信を傍受することによって知ることが出来た。
それからというものは通信が増え、半ば混線状態の様相を呈し、内容を正確に聞き取るのに難を来し始めている。
ヘボンはうすら寒いものを背筋に感じ始めながら、聴覚へ神経をとがらせつつ、銃座にてしっかりと見張るようにヨトギ少年へ身振り手振りで促すが、それにつられて艦長の息子も彼と一緒に銃座へと勇んで登って行った。
出来る事なら艦長の息子をさっさと安全な場所へ引っ込めたかったが、戦闘となれば最早どこにも逃げ場も隠れ場もない。
「全砲台、周辺を警戒せよ」
受信機から艦橋からの通信が入ってくる。
状況がどうなっているのかヘボンは不安になってきていたが、それに答えるかのように今度はグレゴール艦長の通信をコアテラが直接受けることになった。
「曹長。後方が騒がしくなってきた。アクアルア級の艦載機が敵影を見たと言っているが、どうにもあの混乱ぶりでは事情が分からん。実戦経験があるかわからん様な奴等だから、誤認も有り得るが一応警戒態勢を取る。准尉のマコラガも出すから、場合によっては援護に離陸してもらうぞ」
艦長はそう言って通信を終えた。
この時点で既に艦長は『離陸』という単語を持ち出したが、果たして今のヘボンにそれが出来るかは、当人は疑問に思ったがそれを掻き消すように声に逼迫した色が浮き出始めているのをヘボンは感じ取り、その思考は隅に追いやられた。
そして、確かに耳を澄ますと准尉のマコラガと思わしき生体音が響きだしていた。
やがて、前方の視界からマコラガがグレゴール艦の右舷を旋回して飛び去っていく。
どうやら通信があまりに混乱している為に、准尉が直接後方の様子を確認しに行くようであった。
そして、マコラガが視界から消えてから、数秒後に鈍い炸裂音が後方から響いてきた。
「ボンボン!」
音がしたと同時にヨトギ少年が、銃座から此方を呼んでいる。
コアテラが砲台として据え付けられている状態では、あまり出来る事も無かった為に、彼は後方の様子を見ようと慌てて銃座へ上ろうとしたが、両足が折れている状態ではどうにもならない。
それを思い出した二人にヘボンは操縦席から担ぎ上げられながら、少年と艦長の息子に担ぎ上げられ銃座に上げてもらい、三人で後方の様子に目を凝らした。
本来であれば銃座から後方を伺っても、艦橋によって見えないのであるが、グレゴール艦が回頭しはじめており、その地獄絵図は目に勢いよく飛び込んできた。
自艦からは大分距離を置かれていたのが、ヘボン達には幸いした。
敵は真っ先にアルバレステア級や新造空母に対して狙いを定めていたのだ。
確かに旧世代の改修艦のグレゴール家の船など、敵にとっては勘定に入れていないことは少し考えればわかる事だった。
アルバレステア級はその巨躯と火力を活かす事もなくあっさりと炎上していた。
艦首に備え付けられた巨大生体器官からは既に多量の出血が起きていることが、遠く離れている此方からでも視認できる。
「…此方、ミーヴァンス。友軍、アルバレステア級炎上中。艦周辺に敵機多数。指示を乞う」
その様子を呆気に取られて見つめていると、受信機からマコラガからの通信が入ってくる。確かに彼女の言う通り、アルバレステア級の周辺には素早く動く多数の影が目視できた。
その一部は直線的に素早く突き進み、大きく旋回すると執拗にアルバレステア級の側面へ射撃を見舞、もう一部は自由に空中で停止し、また再発進を繰り返しながら不安定ながらも効果的な機動で確実にアルバレステア級の生体器官に更に深手を与えている。
「黒翼隊と顧問団か…」
ヘボンは脳裏に過った言葉を呆れた様な言葉で呟いた。
この長きに渡る南北戦争時代に、両国の機が共同で作戦に当たる光景などまるで夢を見ている様な不思議な感覚であったが、これはまさに悪夢に違いなかった。
「此方、グレゴール。ミーヴァンス、艦へ退避し護衛機動を取れ。我艦だけでは火に油だ」
艦長の声を聞きながら、三人はこれからどうなるのだろうと顔を見合わせ合った。
ヨトギ少年は不安気な色もなく落ち着いたものであったが、艦長の息子は初めて見たのであろう艦の炎上する模様に恐怖や興奮ではなく、火事場を見に来た野次馬野郎の様な何とも言えない好奇心の溢れた表情をしていた。
どちらかといえばヘボンは後者に近い様な面持ちで、状況がひっ迫してくれば此方の出番だという事を思い出し、とりあえずは操縦席へ慌てて子供二人に担いで腰を下ろしてもらった。
「了解。アルバレステア級尚炎上中。友軍艦載機多数見ゆも、劣勢」
准尉の声を聞きながら、ヘボンは操縦席で震えが起こるのを感じているが、彼女の言葉通りのことを興奮した艦長の息子が銃座から実況してくれていた。
アルバレステア級の危機に、後方に控えていたアクアルア級から急遽、艦載機が飛び出したようであるが、艦長の言葉通りエリートボンボン達は役に立っていないらしい。
「駄目です!また墜ちた!黒いのが早すぎます!」
熱狂した口調で艦長の息子が声を荒げている。
艦載機連中の機体自体はまだ新鋭の物と思わしかったが、やはり実戦経験の少なさが災いしたのか、艦長の息子が見た処、もう三機は火と血を噴き上げて撃墜されたと言っている。
そもそも、ある程度、実戦経験のあるパイロットが居たところで、黒翼隊と顧問団の連合軍に敵うかも怪しい。
今までヘボンの周りに居たミュラー達が異常な技量な持ち主であったという事で、まともにやり合えばこうなることは火を見るよりも明らかだったのかもしれない。
「此方、グレゴール。曹長、見ての通りの有様だ。今、人を寄越して固定具を外す。准尉と共に艦の護衛に当たってくれ」
「近衛艦隊の方はどうするのです?」
「んなもんは知らん。それよりも身の安全を確保しなければならん。いつ、デカい的撃ちに飽きた奴らがこっちに遊びに来るかもわからんぞ」
逼迫しているものの、何処か陽気な節で艦長は指示を飛ばし、ヘボンはその言葉に素直に従いながら、ヨトギ少年をコアテラの銃座から機外へ出し、今まさにグレゴール艦の中から猛風吹きつける甲板を飛ばされまいと進んでくる整備兵達と合流させた。
「役に立たねぇ奴等だぜ!」
合流して固定具を共に外す作業に取り掛かりながら、整備兵の一人がふと後方に目をやって叫んだ。
彼の言葉通り、アルバレステア級は既に撃沈したも同然に高度を落し始めている。
更に後方のアクアルア級二隻はより固まって、必死に身を守ろうと艦載機を全て飛ばし、防御陣形を取る事だけに躍起になっている様子が朧げに伺えた。
「しっかり頼むぜ!」
固定具を外し甲板からの離陸準備が整うと、初対面の整備兵達はヘボンへ随分と馴れ馴れしく手を千切れんばかりに振りながら、勇ましく艦へと引っ込んでいった。
威勢がいいのが地方艦の乗員達の売りであるのか、ヘボンはそれに満更でない笑みを返しつつ、内心は怖くて怖くて仕方なかったが、操縦席へと再び収まった。
だが、この時点でまだ艦長の息子が機内に居ることに気付いたヘボンは、艦長へ息子を下すかどうか聞こうとしたが
「警戒‼右舷四時方向、敵機2!」
その前に警報が耳を劈く様に鳴り響き、確認する前に即離陸しなければならない状況になってしまった。
「曹長!准尉に付いて飛べ!迎撃するんだ!」
「しかし、艦長!私は両足が使えません!」
しかし、幾ら離陸しろ言われても出力調整を足で操作するペダルが踏めなければどうしようもない。あまりの慌てぶりにヘボンの両足が不自由な事をこの時まで艦長達はうっかり忘れてしまったらしい。
「そうか!仕方ない!息子を使え!」
そこで即興で艦長の考えた対策はあまりに酷いものであった。
非常事態と親の命令ともなれば、致し方ないのかもしれないが、それでもヘボンは口を阿呆の様に開いたまま塞がらなくなっていた。
「ど、どうしますか!?」
それを言いたいのは私の方だと言わんばかりのヘボンに、銃座から艦長の息子が困惑した顔を向けてくる。
ヘボンはこの際、半ば自暴自棄な調子に操縦席に降りてくるように促しながら、狭い操縦席に恰幅の良い艦長の息子を押し込めて、出力調整のペダル指示を願った。
「右のペダルを踏み込みながら、左のフットギアを強く押してから…」
まさか、ここまで来て離陸を口頭でする羽目になるとは思わなかった。
こんなまどろっこしい手順を踏むぐらいなら、まだ先日の片足が骨折した状態で飛ぶ方が良かった。
しかし、為せば成るとは言ったものか、緊急の離陸だけは上手くいき、コアテラは甲板から高く勢いよく舞い上がった。
ただ、それがあまりに高すぎた為に、艦の右舷で迎撃態勢を取ったマコラガの遥か頭上という位置に付いてしまう。
急激な上昇を行った為に銃座からヨトギ少年が転がり落ちてくるような事態になり、操縦席は鮨詰め状態になっている。
そんな中でもヘボンは苦しい呼吸を続けながら、視界をなんとか確保してマコラガの後方へ取りつこうとした。
「敵はグランビアと夜鳥!突っ込む!援護しろ!」
准尉の叫び声に似た通信が入ってくる時には、彼女は既に艦の右舷へ急接近する敵機に果敢にも喰らい付こうとしていた。
護衛機はコアテラと彼女のマコラガしかいないとはいえ、あまりに無謀な行動に思えた。
だが、火力も機動力も此方に遥か勝る相手に対しては、格闘戦を挑んでも勝ち目はなく、命がけのすり抜け様の一連射を見舞う程度しか攻撃のチャンスが無い事を彼女は知っているのだろう。
それに答えようとヘボンも色んな意味で死に物狂いな状態で、果敢に艦長の息子へ速力を上げるように口頭で叫んだ。
だが、操縦経験等全くない彼に対し、強く出力ペダルを押せと言ったらどうなるか、ヘボンは全く想定していなかったし出来る訳もない。
艦長の息子は息苦しさと戦闘に対する恐怖と興奮で、普段よりも更に強い力でペダルを押し込んでしまい、コアテラの生体器官は今までにないぐらいの金切り声を上げる。
これまでヘボンはこの旧式機に対して、ある程度の労わりを持った出力調整を行ってきたとはお世辞にも言えない。
だが、艦長の息子の腕力は彼の細足を遥かに上回る怪力で、生体器官の活性化を促してしまった。
敵機の方からすれば、正面に護衛機のマコラガが無謀にも突っ込んでくる様子は見えていたと察せられるが、実際はそれよりも先に上方から空戦上まず見ることはない様な旧式のコアテラが猛烈な速度で降って迫ってくる。
是には歴戦の顧問団操縦者も黒翼隊操縦者も泡を喰ったか、衝突を避けるために最もコアテラに近かった黒塗りのグランビアが大きく腹を見せて旋回した。
ヘボンの視界にはこのグランビアの船体底部が見えた為に、瞬時に機関砲を放とうと発射桿を操作しようとしたが、それは銃座から落ちてきたヨトギ少年の尻に塞がれている。
そのお陰でバランスを崩したヘボンは、不敬にも艦長の息子の体を更に押す状態になってしまい、コアテラは更に速度と出力を上げ、回避機動を全く取れないまま、コアテラの左翼生体器官がグランビアに接触した。
いや、接触という生易しい表現の騒ぎではなく、船体と生体器官を繋ぐ個所へまるでラリアットを叩き込むかの具合で、コアテラの左翼生体器官はミンチにされるかのように砕けた。
全ては一瞬の出来事で、飛び散ったコアテラの左翼生体器官の残骸と血飛沫はグランビアの視界を封じ、そこへ漸く駆けつけたマコラガが、あまりにコアテラと敵機が近い状態にもかかわらず機関銃を見舞ったのだ。
ヘボンは強い衝撃を体に受けながら、友軍機から放たれた機銃弾が機体を貫通するのを実感した。
そして、次の瞬間には弾けたグランビアの生体器官と残骸がコアテラに飛び散り、操縦席内部は一瞬にして生体器官の血の海と化した。
「何がどうなってる」
ヘボンは混乱した頭で叫びながら、機体の安定を取ろうと操縦桿を捻り、漸く安定が保たれると、ヨトギ少年はヘボンの顔面を蹴って銃座へと飛び上がっていく。
既にヘボンの足元は生体器官の動力液が銃創から漏れているのか、ちょっとした湯船のような具合になっており、しかもその場に収まっている艦長の息子は生体動力液の海に窒息してしまいそうな状態だ。
慌ててヘボンは身をかがめて彼を引き起こし、窒息を回避させたが、彼の顔面と体は液体塗れでそれはヘボンも同じであったが、お互いに不測の事態の連続で息が切れていた。
だが、戦闘はまだ始まったばかりで、ヨトギ少年が銃座にて機関銃に取り付いて、射撃を開始したらしく、耳障りな銃声が耳に詰まった液体を押しのけるかのように響く。
視線を空へ向ければ、どうやらヨトギ少年は大きく旋回した夜鳥に対して射撃を見舞っている様だった。
だが、これは敵機の素早い機動の前に空しくも明後日の方へ飛んでいく。
そもそも、ヨトギ少年は空戦時に対する射撃方など知ってはおらず、ただ闇雲に射撃を繰り返すのみで猶更質が悪い。
それでも兎に角今は、敵機を此方に近づかせない事が出来ればそれでよく、ヘボンもそれに応じて機関砲を闇雲に見舞う事しか出来なかった。
衝突したグランビア自体は不安定な機動ながらもまだ飛行を続けており、マコラガの射撃を受けても尚健在な様に見える。
今の騒ぎの間にグレゴール艦は距離を取ろうと回頭している様子が、ヘボンの目に入ってくるが、それよりも目についたのはコアテラの周囲が、鳥の群れに捕まったかのように多数の機影が飛び込んできたことであった。
後方でアルバレステア級の防御に失敗したアクアルア級の艦載機たちが、あろうことか母艦に戻らず此方にまで飛来してきたのだ。
おかげでそれを追撃してきた黒翼隊の黒塗りのグランビアと顧問団の夜鳥、そして、追撃を受けているアクアルア級の朱色に染めた艦載機を含め、もう何が何だかわからない大空中格闘戦の様相を呈していた。
陽光の反射でどの機影も一様に黒く輝く瞬間があり、最早敵味方が誰かもわからない大混戦となってしまっていた。
そこへ闇雲にコアテラの機関砲と銃座からの対空射によって更に鍋の中を引っ掻き回すかのように、混迷が極められ通信は壊れたラジオの様に阿鼻叫喚の渦となっている。
誰に当てているかもわからない援護指示や、攻撃指示。中には正気を失ったか、延々とミーレインペリウムと叫び続ける声まで混じってくる。
顧問団の方ならいざ知らず、近衛艦隊と地方貴族艦、そして黒翼隊までほぼ同じ周波数帯の為にこの様な混沌とした状態になってしまっている。
「陣形を組みなおせ!陣形を組みなおせ!」
そう半狂乱で叫んでいる声が、ヘボンの耳に最も強く響いた。
こんな混戦状態で陣形も何もあったものではない。
全ての機は各々必死に目を凝らしながら格闘戦を繰り広げ、中には完全に友軍機と敵機を混乱の末に見誤ったか、朱色の艦載機同士で撃ち合っている光景すらヘボンの視界の端に映っている。
この中に浮いていても、いずれすぐに墜とされるか、流れ弾にやられる。
そう判断したヘボンは、用をなさなくなった通信を無視して、兎に角ここから離れようと、グレゴール艦へと機体を向けようとした。
既に准尉のマコラガが何処へ飛んで行ったかなどわかる訳もない。
「…見つけたぞ!空鬼だ!あのコアテラから墜とせ!」
だが、通信を無視しようとした瞬間、ヘボンは自身に狙いを定めている声を聞いた。
ここ数週間で不名誉な名前が知れ渡ったのは味方だけの訳もない。
此方を名指しされれば、こんな混戦の中でも凄まじい練度を持った数機がしっかりと此方へ機首を向けるのがヘボンには見えた。
戦闘機自体は遠目と混乱した状況であれば、見極めるのに難儀するが、コアテラの様な特徴的なシルエットはいやでも目に付くし判別が付きやすいのだ。
此方はグレゴール艦へ向かって、まっすぐに飛んで逃げようと思っていた矢先、そんな的になるような飛び方は出来なくなってしまった。
慌てて少しでも回避機動を取ろうとした瞬間に、先程の衝突で酷い負傷を負ったであろう左翼生体器官に銃撃を受けたのが、衝撃とヨトギ少年の叫びで分かった。
おまけに銃座部にも見舞われたか、ヘボンの頭上へ銃座部の天板の破片が落ちてくる。
今の射撃でヨトギ少年が負傷したのか、破片を受けたのか、彼のくぐもった呻き声が銃座から聞こえた。
「まだ浮いてる!二番機、中央下部を叩け!」
もう此方の事など放っておいて欲しいのに、聞きたくもないコアテラに対しての攻撃指示まで聞こえてくる。
ここ数週間幾度となく感じている生命の危機を、大いにヘボンは味わっている。
その本能的に鍛え上げられた察知力が彼に教えるのか、ヘボンは咄嗟に頭上に目を向けると、コアテラの遥か上から急降下で攻め立てるグランビアの正面機関砲が迫ってくるのが見えた。
全身が寒く震えるのを感じた瞬間、此方へ下ってくる敵機の搭乗席部分が唐突に弾けた。
何が起きたのかヘボンが目を凝らすと、瞬時に爆散するグランビアの脇を朱色の同型機が飛び抜ける。
それはどうやらアクアルア級の艦載機らしいが、エリートボンボンの中にはそれなりの腕利きがいるらしいことが窺えた。
「攻撃焦点をコアテラに向けろ!」
だが、多分にアクアルア級の艦載機からの通信を聞いたヘボンは、これは自分を援護しているのではなく囮にしているのだと知った。
自身はこの空戦から一刻も早く逃れたいというのに、それと反するようにこの悪目立ちするコアテラはこの大空中戦のど真ん中となりつつあった…