操舵手ヘボンの受難#45『黒海月』
辛うじて浮遊するコアテラの周囲で、瞬く間に血飛沫が上がった。
正確に言えば、それは生体器官の動力液であろうが、猛風に巻かれたそれらが夥しく機体に付着する。まさに血煙といったところか、それが幾重にも渦巻いて、それが飛び交う戦闘機の翼に搔きまわされ、グロテスクな鳥かごの様な風景が目に映る。
通信機からは依然として喧しく、敵か味方も判然としない声が聞こえてくる。
ヘボンはその空戦の焦点になりながらも、台風の目に差し掛かるような一時の穏やかさを持とうと気を宥めようとした。
搭乗席内は依然として血の海と化しているが、これが自分の血でも艦長の息子の物でもないのが救いである。
「グレゴール艦まで巻き込めないぞ、針路を変えよう」
そう自分でも驚いた様な声で平静を装えた。
このままでは、距離を取ろうとするグレゴール艦に被害が及ぶ。
元は後方でやっていた空戦だ。ならば、それを元の位置に戻すだけの事だ。
そう思えば無理やりにでも機体の方向を変えようと、操縦桿を引き切った。
左翼生体器官に著しい損傷を受けている為に、旋回機動は相当に難儀するが、他の下方生体器官と右翼生体器官に負荷を掛けつつ、無理やりに針路を変更する。
敵方の数機がコアテラに食いつこうとしていた為に、嫌がおうにも此方の動きに吸い寄せられる。そこを味方の朱色のグランビアが狙いを澄ませる。
上手い具合の囮だと思い、更に開き直ったヘボンは敵の注意を更に引こうと、銃座のヨトギ少年へ声を掛けた。
「通信旗を上げるんだ!後ろの紐を引いてくれ!どれでもいい!全部だ!全部、引け!」
銃座の少年は依然としてくぐもった声を漏らしていたが、ヘボンの声に対して、体に鞭を打ってその指示に応えた。
すぐさまにコアテラの銃座部より幾重にも旗が紐を伝って飛び出していく。
すかさず朱色の旗が舞い上がる様に広がる。
それは生体器官から溢れた血に染められた、帝国旗の数々であった。
あえて囮になるというヘボンの決意を体現したような旗は、血を撒き散らしながら空戦の最中に咲いた仇花といえた。
ただでさえ、的になっている状況であるが、この旗は敵機だけでなく、友軍の操縦士たちの目に僅かながらにも留まった。
血を流しながらも強く揺れる祖国の旗に、彼等は血が湧きたつ感覚を覚えた。
生死を賭けた戦場の中で、恐怖と焦燥に押し潰されそうな心情が、力強い愛国心によって噴出されるかのように、嬉々とした力強い叫びがヘボンの耳を満たした。
「ミーレ・インペリウム!」
その狂ったような唱和が耳を劈き、空を満たす。
この唱和と熱気に、ヘボンは覚えがある。
それはラーバ中佐が部下たちに熱い演説を放った際に起こった、熱狂めいたそれであった。祖国崩壊の危機と帝国軍人の意地に対して彼女は強く奮起を呼び掛けていた。
それが、今、ヘボンを取り巻く操縦士たちの胸中にも渦巻いている様な心持がした。
意思のない熱狂ではない。背筋から戦闘意欲を発するが如く、この旗は彼らの士気を鼓舞していた。
ヘボンの体は血に塗れた。
それでも目を凝らしながら、空路を突き進もうと血の鳥かごを牽引するかのように飛ぶ。
口からは、小さい祈りの様にミーレ・インペリウムと何度も何度も呟きが漏れた。
もはやそれは呪いの様に、詠唱が続けられる。
その唱和の中をコアテラは突き進んでいく。
生体器官に損傷を被った為に、その動きは緩慢なものであったが、コアテラを囮にするように、または守るかのように朱色のグランビアが飛び乱れる。
目の前の視界には飛び交う戦闘機たちが追いつ追われつ、その凄まじさに戦翼の端から飛行機雲が浮き立ち、それに生体液の血が混じる。
その血煙を掻き分けるように飛び、頭上からは復帰したのかヨトギ少年の放つ対空機銃の音が散発的に響いていた。
一体この空路が何処まで続くのか、ヘボンははるか先に点の様に見える、アクアルア級へと目をやってそこを目的地とした。
既に二隻の片方はひどく炎上している。
護衛のアルバレステア級は既に空から姿が無く、この数分の間に堕ちてしまったのであろうと思った。
敵方は敵対国同士でありながら、密な連携攻撃を見せつけてくる。
生体器官戦闘機の利点であり、弱点でもある空中にて浮遊待機してしまう時間的隙を直線的な速度と機動に特化した夜鳥が埋めるように動くのだ。
幾ら此方の友軍機たちが士気を高めようとも、実力差は中々埋まるものではない。
先程より一方的な戦局ではないにしても、現に目の前で後部から炎と血を噴き上げながら、朱色のグランビアが墜ちていくのが目に入ってくる。
しかし、劣勢であろうとも友軍機のパイロット達はミーレ・インペリウムの唱和を止めようとせず、寧ろ味方が減るにつれてそれが更に増している気さえする。
これでは狂信者集団だ、とヘボンは脂汗を滲ませながら辟易するが、己もそれの一部であることを自認しつつ一刻も早く、アクアルア級の元へと機体を飛ばせようとする。
仮になんとか辿り着けたとしても、状況は好転しないだろうが、最早ヘボンは傷つきすぎたコアテラを甲板でも地上でも兎に角平たい場所に下ろして、一時的にしろ休めてやりたい一心になっていた。
今の今まで無茶ばかりをさせてきた。
もう、限界だろう。
搭乗席内はまだ辛うじて操縦は出来るが、先程から器官部より持ってくる血の量が増してきて、艦長の息子がペダルを押すことも難儀している。
既に彼はヘボンの脇に自身の肥え太った体を、申し訳なさそうに脇に押し付けながら、なんとかヘボンの操縦桿操作の邪魔をしまいと努めているが、実情としてはヘボンも彼も肉団子の様に混ざり合う寸前まで密着している始末だ。
「苦しい」
生体動力液とヘボンの頼りない体を押し潰すかのような圧を加えつつも、艦長の息子は苦し気に呻いた。
それは此方も同じ事であったし、寧ろ此方の方が重量を掛けられている分苦しいのだが、決死の状況では愚痴も呻きも漏らす余裕が無かった。
このままでは、空母に辿り着く前に窒息死する。
操縦席内で戦死すら出来ないとは、己の無様さにヘボンは自嘲した。
この際、何振り構っていられない。
ヘボンは何かの線が切れたかのように銃座に声を荒げた。
「彼を引き上げてくれ!すぐにだ!」
その声に応えて、ヨトギ少年が苦し気に悶える二人を銃座から覗いてくると、ヘボンは重量のある息子の体を必死に押し上げながら、操縦席内から銃座へと登らせる。
ヨトギ少年もうんうんと唸りながら息子を引っ張り上げると、ヘボンは人心地ついたように一息をついてから、操縦席の脇へ押し込んであった杖代わりの小銃を手に取った。
それを見てヨトギ少年はすわ自決かと目を向けたが、ヘボンが銃口を向けたのは自身の足元であった。
小銃の遊底を引きながら、ヘボンはコアテラに対して一瞬、とても申し訳ない心情が流れた。まさか何度も傷つけてきた機体だが、今度ばかりは自分から壊しにかかるとはと思った。
しかし、ここで四の五の考えても仕方が無い。
ヘボンは操縦席内から穴を作って僅かでもいいから、操縦席内を満たそうとする動力液を抜こうと考えた。
遊底を戻すとそのまま引き金を引いた。
乾いた音が操縦席内に響き、一発程度では大した穴は出来ないと、弾倉を三回も取り換え、すべて撃ち尽くすまで引き金を何度も何度も引いた。
この光景にヘボンが狂ったかと銃座から艦長の息子とヨトギ少年が顔を見合わせたりして覗いてくるが、漸くヘボンが銃座内に靴底程度の大きさの穴を開けることが叶うと、そこから生体動力液が吸い込まれていく。
機外へ流れた大量の動力液は、周囲を取り巻く敵機たちから、此方が既に撃墜寸前であると思わせた。
しかし、これは偽装でもなんでもなく、実際に撃墜寸前であるのだが、此方があまりに弱り切っている様子を見れば、トドメを刺そうと更に敵機が食いついてきた。
これを見て取ったヨトギ少年と艦長の息子が、慌てて対空銃座を奪い合うかのように決死に食いついて、これを放つが上手い事命中するとは思えない。
その合間に、内部から弾丸をぶち込まれ穴を開けられたコアテラは生体器官から断末魔の様な凄まじい声を響かせた。
それをヘボンは鳴り響く銃声と共に聞いていた。
生体器官の叫びは何処か物悲しく、ヘボンを恨んでいるようにすら聞こえる。
それはごく当然の成り行きであると、ヘボンの血に塗れた感性はそう告げていた。
この機体とは短い付き合いであるが、あまりに壮絶で密な付き合いであると思っている。
不意にヘボンの耳に付けた受信機から、何かくぐもった呻き声が聞こえてきた。
何処か聞き覚えのある声だった。
男か女であるかは判然とせず、子供の様な声であるが、中性的なものというより、まるで多数の声の集合体のようである声音は全く不気味であった。
周囲の友軍機か敵機の操縦者が、送信のスイッチを押しっぱなしにしているのだろうか、だが、その呻き声は通信音声と思えないほどに妙な事だが明瞭に聞こえる。
まるで、すぐ傍で唸っている様だ。
それを聞いてヘボンは察する事が出来た。
その感覚は正に以前に見た夢の内容を、また夢の中で再認する事に似ている。
というより、今まさにヘボンは夢心地でいた。
先程に窒息しかけていた意識と、自身の機体を撃ち抜いた事によるショックと、壮絶な死に向かっていく恐怖が彼の精神状態を不安定にしていた。
銃座の二人はそんなヘボンの事など気付かず、意識を迫る敵機へと向けている。
「─────…ずっと…」
呻き声の中で、帝国語と思わしい言葉が切れ切れに聞こえてくる。
それがヘボン自身に向けられているのであると、彼はすぐに悟った。
「ずっと…一緒に…飛んでて…」
切れ切れの言葉はやがて沿う形を作った。
間違いなくあの声だとヘボンは思った。
あのトゥラーヤ級を墜とした際に気を失って、その際に見た明晰夢の時に聞いた声だ。
機体が呼んでいる。
あの時とは幾らか状況が違うが、大体は似通っている。
周囲を飛ぶ敵味方と判然としない機体は、漂う雲を生体液でどす黒く染め上げ、臓腑を撒き散らしながら飛び回る機にすら見えていた。
あの悍ましい悪夢の光景がヘボンの周囲で、現実となって現れていたのだ。
「飛ぶさ、飛ぶとも。…直ぐ傍にいる。落ちるなよ」
そして、あの時の夢と同じことをヘボンは言い放って、操縦桿を引いた。
両足は依然として効かないため、今度は小銃の銃口でフットペダルを押し込んでいた。
この悪夢から突き抜けようとヘボンの意思は固まっていた。
既に声は遠ざかっていた。幻聴であろうとなかろうと、ヘボンは何かが振り切れる感覚を覚えつつ、動力弁を全て放ち切って、出力を限界まで上げようとした。
断末魔の悲鳴を上げながら、機体が正面へと舞い上がる。
後方に張り付いた敵機を振り払いながら、アクアルア級の甲板が近付いていくのがヘボンの目に見えた。
風を切り、雲を切り、血しぶきを掻き分ける。
グロテスクな鳥籠を突き破る際に、ヘボンは雄たけびの様な物を上げていた。
その際に鳥籠を突き抜けた瞬間、追いすがっていた敵機が、機体正面へと躍り出た。
それを見るや否や、ヘボンは発射桿を引き切って、両翼の機関砲を見舞ってやる。
先程の損傷によって4丁あった機関砲のうち二つは弾が出ないようであったが、射線が追い抜いた敵機の横っ腹へ突き刺さるのが視認できた。
視界に飛び交う何もかもが邪魔に思えた。
何かが頭の中で弾けている様な錯覚を覚え、発射桿を引く指先は滑らかに動き、照準は流れるように敵機の横腹を捉えていく。
瞬く間にどす黒い雲が機体の前方を覆い、火炎と黒煙を吐き出して夜鳥が前方で砕け散る。
あの前方に浮かぶアクアルア級の甲板が自分の死に場所であると、一途にそれだけを思った。そこへたどり着く前には墜ちれない。
ヨトギ少年は兎も角として、艦長の息子だけは死なせる事は出来ないと思った。
まさに敵機の波を掻き分けながら、コアテラはアクアルア級の飛行甲板へと幽鬼の様な出で立ちで飛び進んでいた。
両翼は見るも無残な損傷に加え、生体器官の臓物を既に随分と吐き出している有様で、近距離で爆散した敵機の破片をモロに受けながら、それでも尚も飛んでいた。
銃座の方はと言えば前方部が破損し、これも目も当てらない惨状であったが、銃座後方に退いていたヨトギ少年と艦長の息子の二人は、辛うじて無事であった。
ただ、問題は機体下部の操縦席の方で、既に破片が内部を貫通しており、貫通した穴から先程の生体液に混じって、他の動力液等も漏れ出している。
まさに空飛ぶ傷ついた臓器と形容するに問題ない状態であった。
操縦席は嵐が過ぎ去ったような有様で、風防は破れ飛び、黒煙も破片も何でも正面から飛び込んでくる。既にヘボンの頭部に身に着けた飛行帽はズタボロで、レンズは割れて、その割れた破片が顔面をズタズタに引き裂いたので血塗れになってしまい、既に用をなさなくなった為、ヘボンはこの飛行帽を捨てた。
しかし、ただでさえ気圧の薄い上空で、半ば剥き出しの操縦席で飛行帽を外すという事がどれほど愚かであるか、ヘボンは久しぶりに身をもって知った。
投げ捨てた途端に息が苦しくなって意識が薄くなってくる。脳に回る酸素が一気に減ったのだ。
夜間爆撃隊に居ただけあって、ヘボンはこの手の事態の経験はあった。
ラーヴァナ級の操舵をしている際に、風防硝子が敵機の砲撃で吹き飛ばされ、血の海の中で操舵をしたこともある。
あの時よりはまだ可愛いものだと思える自身も頭のどこかにいたが、それでも実際に足りない酸素ばかりはどうにもならない。
そのせいもあってか、薄ぼんやりした視界の先に見えるアクアルア級の背後に、何か素早く飛ぶ影を見止めた。
戦闘機にしてはあまりに直線的に飛んでいて、しかも半ば目で追えないほど速い。
何かの幻覚かと、ヘボンは思ったが、それに加えてあの影からは幻聴まで発せられるのか、鋭い生体器官音を周囲に巻き散らしている。
それはまるで何かを警告するようなサイレンであり、とても耳障りな響きであった。
思わず耳を塞ぎたくなるような音だが、ヘボンは操縦桿から手が離せない。
そして、アクアルア級の甲板へ無理やりに機体を不時着させようと、自由の利かなくなった舵をなんとか下降させようとする。
最早、アクアルア級へ通信連絡することもままならない、強引にでも甲板に機体を叩きつけて不時着しなければ、一刻も猶予もない。
その時、またもや影が右10時の奥に見えた。
その影は此方よりも先にアクアルア級に突っ込んでくるような勢いで、接近してくる。
「────ワトキンスっ!!」
その際に何か怒号が壊れかけの受信機から聞こえた。
この声にもヘボンは聞き覚えがあった。
意識は酸欠によってぼんやりしていたが、それが一気にたたき起こされた。
憎悪の怒声だ。
(あの女だ、あの女の声だ。また、やってきた。畜生、殺されるぞ)
そう脳内でヘボンの誰かが毒づいた。
そう感じた瞬間、着陸態勢に入ろうとしていたが、機関砲を影の方へと咄嗟にヘボンは機体を捩じるようにして照準しようとする。
その一連の動作は人が毒虫を振り払おうとするほど、自然で素早かった。
そして、飛び込んでくる影に対して、躊躇なく機関砲を見舞った。
相変わらず4丁のうち2丁は不動であったが、それでも射線は確かに影を捉えた。
如何な戦闘機であろうと、正面から機関砲を見舞われて無事でいられる筈がない。
だが、その影はそんなことなどお構いなしに突っ込んできた。
まるで射撃が効いている様子が無く、パッと開いた傘の様な影がヘボンの真正面まで近寄った。
驚愕と恐怖にヘボンの意識は遠ざかるが、それでも発射桿だけは引き切ったままだった。
そして、強い衝撃を受けたと思った瞬間、ヘボンの意識は暗転した。
妙な場所にヘボンは紛れ込んでいた。
自身は何処か帝都内の薄汚れた定食屋の中にいて、産業塔の内部の為に、円状室内に沿うように作られたテーブル席の一つに腰を掛けている。
辺りでは何か食事を平らげている人々の影が見えているのだが、その姿は何か赤い霧の様で朧げで判然としない。
あまりにも唐突な事にヘボンは戸惑ったが、不思議と何処か落ち着いた面持ちでいた。
彼の隣にはグレゴール艦長の息子が同じように困惑した様子で、彼の隣で此方を見上げている。
この時点でヘボンは、この事象がここ数週間の間に何度もあった、奇怪な夢の一部であることを感じ取ったが、それでも艦長の息子の様な同伴者を伴った経験はない。
まるで二人は兄弟で定食屋に入った様な調子であった。
だが、同伴したのか客はまだいた。
それは対の席に座って、何やら無造作に積まれた料理を平らげる、『少女』と形容するには異質な生物であった。
その生物は薄汚れた桃色の丈の短い衣服を纏い、頭にはクルカの様な鬘を乗せている様な具合で、瞳は異様に大きく、まるで何かの宣伝商品のキャラクターの様な具合である。
その現実味の無い不気味さにヘボンは一度目を背けたが、それは艦長の息子も同様であった。
「…食べないの?」
不意に対の席の生物が、怪しげな帝国語を喋り、我武者羅に汚らしく食べていた食事の手を休めて此方を見た。
口元には何か赤い果肉の様な物が纏わりついていて、幼子の食事風景を連想させるが、この生物の声の調子は何処か大人びていて、それが更に不気味さを増させた。
何か迂闊に此方から口を開くことがヘボンには出来なかったし、艦長の息子もそれは一緒だった。
何かの怪奇話の中へ迷い込んでしまったような心持で、無言でいる此方などお構いなしに、目の前の生物はまた食事へ汚く専念している。
「…でも、頑張ってるよねー。偉いよねー」
生物はそう誰に話しかけているのかわからない調子で、口に食べ物を運びながら言った。
その様子にヘボンは恐怖を覚えていたが、何故かこの様な奇怪な現場においても、指先は胸元の煙草入れへと伸びていた。
そして、そのまま口に煙草を咥えながら、訝し気にその生物へ目をやった。
「本当にしぶといよねー。スクムシ並だよねー」
生物はそう汚い咀嚼音交じりにそう判別できる声を漏らした。
そして、顔は伏せたまま、大きな瞳がグルリと此方を見上げてきた。
「もー…死んじゃってもいいんじゃないのー?」
その声音は何も感情が込められていない。
いや、生物的な発声ではなく、何処か機械音声で語り掛けられたような唐突さがあった。
その口元はやはり何処までも赤かった。
それが血肉か何かと連想するには幼稚すぎると、ヘボンは想いながら煙草を咥えたまま生物の瞳を見た。
「辛いですが、死にたくはないです」
と、小さい声が自然とヘボンの口から漏れた。
何かを意識したわけではなかった。ごくごく自然な会話の返答であると思えた。
「そー、あれだけ死なせておいてー?」
生物の質問に対して、ヘボンはすぐに感じるところがあった。
確かに多くの者を死なせたし、殺したことは事実である。
だが、それを深く意識することについて、ヘボンは今まで無かった。
原隊の夜間爆撃隊からして、民間人にとって憎悪の対象であろう。
彼等は闇夜に紛れて炎と死を撒き散らすのである。
「そうです」
ヘボンの返答はまた淡々としたものであった。
傍らにいる艦長の息子はこの異常な空間で行われる、平常な会話に唯々当惑していた。
「まだ、死なすのー?」
「生きてる限りは」
気付くとヘボンは煙草に火を点けていた。
意識はこの会話からどこか遠いところへ向かっていた。
未だにあれだけ死線を抜けてきたが、まだ運が残っている節は疑うこともない。
何がどう転ぶかはわからない、戦場においても平時においても、全ては一寸の動きで決まっている、そんな気がした。
「…あげるー」
此方の回答に対し、別段気に留めた様子もなく、生物はテーブルの隅にあった皿を此方に寄越した。
それはどうも気色の悪い海鮮料理で、何か粘ついた肉塊が、皿の上で脈打っている。
「食べてー」
生物はそう勧めながら、ヘボンをじっと見据えた。
子供の様な純粋な色をした瞳に見えなくもない。
だが、ヘボンにはそれが混濁し、戦場の熾烈さに勝機を手放したかつての戦友たちの瞳にも似ているようにも見えた。
「食べないならー食べちゃうよー」
此方のまごついた様子を見て、生物は皿を手元に寄せようとしたが、ヘボンはそれを即座に皿の端を持って抑えた。
「いや、食べるよ。ありがとう」
そうヘボンが返すと、生物は満足げに自分の皿に盛られた料理をまた食べ始めた。
その様子を見ながら、ヘボンはふと視線を艦長の息子の方へと戻した。
彼も狼狽した様子で、どうしたものかとヘボンを見つめていた。
しかし、このままでもどうしようもないと、特に何か前触れもなく、紫煙をある程度吐き出して煙草の火を消すと、ヘボンはその海鮮料理に手を付けた。
フォークの様な食器も無かった為に、手掴みでそれを貪った。
かみしめる度に、口内に凄まじい苦みのある水が飛び散った。
思わず吐き気が込み上げた時、傍らの艦長の息子が不意に大声を出した。
その声に反応して、彼が指さす窓の外へ目をやると、今まさに口の中に無理やりに詰め込んでいるグロテスクな物体が、巨大化して窓の外から此方へ突進してくる最中だった。
理性の線が切れてヘボンが叫び声を喉から絞り出さんとする時、今度は対面の生物が目に入った。
「食べてね」
そう一言、吸い込まれそうな歪に大きい瞳をして言われると、そのままヘボンの意識は暗転していった。
一瞬の暗転後に、ヘボンの意識を覚醒させたのはヨトギ少年の叫び声と激痛だった。
此方の意識を起こそうと懸命に呼び掛けていたのであろう、ヘボンが目を見開いた時に飛び込んできたのは彼の決死の形相であった。
「ボンボン!」
彼は怒りとも歓喜とも付かない声を出しながら、ヘボンの軽い体をコアテラの操縦席から機外へ運び出そうとしていた。
既に機体は無残にもアクアルア級の飛行甲板上でバラバラに成り果てていて、中の人間が良く同様の結果にならなかったのが不思議なほどだったが、それよりも先にヘボンは強く痛む全身の痛みに呻きながらも、空の方を見た。
未だに空では大空戦が繰り広げられ、アクアルア級の甲板の脇で火を噴いて墜ちていく機体が見えた。
「さっさと脇に退かせ!発着できる隙間を空けるんだ!」
その脇で男のもの思われる怒声が聞こえ、其方へ目をやると大勢のアクアルア級の整備兵と思われる連中が忙しなく動いている。
今まさに甲板上に不時着と言えば良いのか、墜落したと言った方が正しいのか、コアテラであった残骸は甲板脇に、艦内から作業用に用いられる砲を取っ払ったダックによって押し退けられているところであった。
「無茶苦茶しやがる!一体、どこの所属だ?!」
ヨトギ少年がヘボンと艦長の息子を引っ張っている様を見て、他の整備兵も数名駆けつけ、この3人が何者であるかは彼等には不明であったが、兎に角、飛行甲板から退けようと、待機所の方へと引きずり込んだ。
艦長の息子の体は重かったが、ヘボンの体は軽々としていて、整備兵の片腕でなんなく引っ張り出され、待機所内の長椅子の上に強引に寝かされた。
「お前らは憲兵に引き渡す!兎に角、其処に居ろ!」
と、一人の整備兵が叫ぶと、皆、甲板の方へまた駆けだしていった。
その間にヘボンは混乱と痛みで何一つ言葉を発す事が出来なかった。
今さっきの夢と生物は一体何だったのか、無理やりにでも頭の中で整理を付けようとしたが、それは土台無理な事であった。
痛みに呻きながらも、疲れ果てて項垂れているヨトギ少年と、それと同様にくたびれて肩で息をしている艦長の息子を見た。
三人とも兎に角、九死に一生を得た具合であったが、この艦が安全とは限らない。
結局は最前線の中で薄い板箱に引っ込んだに過ぎないのだ。
しかも、まだ空には先程の黒い何かが居る。
邪龍と似通ったような気配を感じたが、あれよりも遥かに小さく機敏な何かである。
それがまだ雲の合間を不気味に飛び回り、此方の陣営に恐怖をばら撒いているのだ。