メルパゼル艦艇開発史(非公式)
執筆者:静秋 2021.10
メルパゼル共和国。
こちらの世界における2021年初頭に至るまで揚力航空機を主体とした航空艦隊構想を掲げ戦力整備を行い、重砲を搭載した艦艇を配備していなかったとされる陣営である。
しかし、直近の創作において「第三紀に入るとその方針は瓦解し艦隊整備方針の転換を余儀なくされる。」とある。
同時に、これは戦後世界において共和国が民主主義の旗印のもと、パンゲア大陸西岸に覇を唱えるには避けては通れない道であったことは間違い無いだろう。
本文はそんなメルパゼルの艦艇建造思想とその造船業界がどのような道を歩んできたのかを筆者の独断と偏見、独自の解釈と二次創作設定の元、考察していくものである。
なお、本文は妄想を基にしたコラムであり、艦艇製造年表及び技術系資料は含まれないため別売りの「メルパゼル艦艇年鑑」及び「艦艇技術開発史」(税込114514円)をご購入ください。
≪事前情報≫
*空中艦の常備トン数…基本的には水上艦に換算した場合の見込みトン数。正確な数字ではなく船体規模の目安に用いられる。
*浮揚力…浮力と揚力を組み合わせた造語。物体を飛行させる際に運動による揚力由来の上昇力と、ガスや力場などの静的な浮力を統合して「浮かぼうとする力」として表す概念。
黎明期~第一紀(500年~530年)
メルパゼルの空中艦建造は他の北半球国家の例に漏れず帝国とのファーストコンタクトにより始まる。
代表的な黎明期空中兵器はアーキルの武装ガス気球のように、浮くものを武装化する方向であるがメルパゼルは少々異なっていた。
当時沿岸防備用に水軍(当時島嶼部には海賊の勢力が存在したため)が運用していたセタ級砲艦(瀬多級:木造鋼板打ち付け
常備680トン)及び最新鋭のスガミ級コルベット(須賀箕級:鉄製船体 常備1400トン)のドブルジャによる浮揚を試みたのである。
風の噂で南の大国の動きを察知したメルパゼルは各地に視察団を派遣。その時エウルノアに侵攻するノガレス級やフィンガル級を目撃し、その本質を理解した。つまりは「それに対応するは空に浮くトーチカではなく自走可能でなければならない」という点についてであった。
その点において火砲を搭載した船という概念を既に有していたことは幸いであった。が、その一方で実現は困難を極めた。気嚢区画確保にむけ機関の小型化とスーパーヒート対策に機関室との断熱技術が必要になったためである。
そこで他国同様、ひとまずは非動力船の空中戦力化を目指した。
アーキルの最初期の気球(空の目号)がトーチカであったのに対し、メルパゼルの武装気球はどちらかといえ艀(はしけ)のような性質で前後に長く、当初から姿勢制御のために舵を備えていた。あくまで船型へのプロトタイプであったといえよう。これにより砲撃時の姿勢安定性、地上からの牽引時の直進性という面で他の気球よりも効率的な戦闘を行うことが可能であったとされる。
こうして生み出された空中艀は部分的に装甲化されカラギ級空中砲艇(唐祇級:木造鋼板打ち付け、無動力)として戦線に投じられた。同時にメルパゼル軍は気雷(機雷:風船爆弾)を多用した空中閉塞戦を展開し、優位射界に帝国艦を誘導することで初期帝国の侵攻を耐えきった。
艀の動力化が進んだのはそれから間もなく、具体的にはアーキル連邦がパノラマノラらを開発したのと同時期の506~10年ごろのことであった。兼ねてから計画されていた蒸気機関の小型化は一定の成功を見せ、セタ級と準同型(ここでは海空同型という言葉を用いる)といえるセツキ級砲艦(摂旗級:鋼骨木皮鋼鈑打ち付け、蒸気機関スクリュー推進方式)と、既存のカラギ級に当時出始めていた航空機用ガソリンエンジンを外付けし動力化したものがメルパゼル空中艦隊の最初の動力化戦力となった。
510年代後半に入ると帝国侵入当初に考えられていた構想がついに実を結ぶ。
全金属製艦の浮揚である。これは戦時体制へと移行し、それまでの小工場制から統合化と重工業化が推し進められたこと、鋼板製造法の進歩と新たな合金の開発による装甲部材の軽量化による勝利であった。
このころの代表的な空中艦としてオオミト級装甲フリゲート(大海渡級:鋼製船体 常備4400トン 後に防護巡空艦に類別変更)とマツカセ級気雷艇(満津枷級:鋼製船体
常備125トン)という二つの対照的な艦級がある。
それぞれ64㎞/hと118㎞/hであり、特にオオミト級は同時期の空中艦と比べても低速であったが、純粋な馬力は高く重武装を誇った。これはのちにメルパゼルの主力を務めるシグニット級まで続く「艦種の割に重武装」の伝統を築く要因の一端となったとされる。同様の艦は艤装の互換性こそあれ、純粋な同型艦を持つものは少なく、少数ずつが改設計を受けながら建造された。基本的には防衛寄りの艦艇であり、来るべき大規模侵攻とそれに伴う艦隊決戦に備えていたが主としては対地攻撃支援に用いられた。
またマツカセ級は初めて航空機用ガソリンエンジンと蒸気レシプロ機関を併用した艦である。同年代の艦と比しても優速であり革新的な兵器であった。武装としては外装空雷と気雷敷設能力を持ち、後の空雷至上主義思想を育んだ艦として認識されている。技術力こそあれ工業力、数の上での人的資源では列強の中でも下位に位置するメルパゼルにとって小型艦で大型艦の撃沈を狙うことができる雷撃戦は非常に魅力的であったのだ。
何より重要だったのは小型艦故に製造が容易であり、大型艦製造には十分な設備を持たない中規模民間造船所や、水上船舶の造船から転身した造船所でも、空技廠からある程度の支援があれば建造が可能であったという事である。
530年時点においてメルパゼル空軍の航空機と艦艇の兵員比率は4:6であり航空機の有用性を理解しつつも空戦の主役はあくまで艦隊であるというスタンスを崩さなかった。艦籍登録されていた艦艇の7割が小型快速艦であったとされ、同国がいかに力を入れて国内造船業へ働きかけていたかが伺える。
同時に自走式機雷の開発も積極的に試みられた。初期のものは爆弾に翼をつけたグライダー滑走爆弾を発射台(カタパルト)から打ち出す方式、同様のモノを船尾からワイヤーで曳航する方式など実に多彩であったが、第一紀末期に小型レシプロ機関による推進機構と、巨大な浮揚力を翼ではなく内部にドブルジャガスを内封することで管状発射機からの発射と高度維持が可能になった今日まで続く空雷の原形が完成された。
こうしてメルパゼルの艦艇整備は重量級の砲戦艦と小型快速の雷撃艦の二種に定められ一定の成功と到達点を見る。しかし、世界の空中艦の進化速度はそれをも通過点とし、情勢は遅滞を許さなかった。建造費と就役艦数がピークを迎えた532年以降、メルパゼルの造船業は着実に停滞期へと陥っていくのである。
第二紀前期(538年~570年)
時代は大きく動き出す。
540年代初頭、アーキルでは浮遊機関の解析が進み、ドブルジャ艦の集大成であるイクリール級装甲艦がエル=クラッド級防護巡空艦やトリプラ級攻撃軽巡をはじめとした新鋭に主力の座を譲り、ついに主力艦の艦隊戦闘速力が100㎞/hの大台を突破した。
艦砲の長射程化、通信装置・射撃管制装置の発達、空雷の実用化により艦隊戦はその複雑さを増し、速力を活かした艦隊運動と優位高度の奪い合いにも焦点が置かれるようになる。
一方で狙撃戦という上記とは真逆の静的戦闘の風潮も現れ、反動の軽減と多数の武装を搭載するために艦は大型化した。
これは戦闘地域が拡大し居住性と航続距離が求められるようになった時代にも即していたと言えるだろう。
結論から言えば、第二紀メルパゼルの造船業と艦艇整備政策は世界の流行についていくことが出来なかった。
ご存じの通り第二紀のメルパゼルといえば大型の陸攻を主体とした航空艦隊構想を掲げ、艦艇の整備は最小限度という、「第一紀に編み出された小型快速兵器による漸減撃滅戦法を主体とし、より先鋭化した」と言える思想で知られている。陸攻をはじめとした対艦打撃戦力、それを護衛する制空機といった航空機の能力が急速に発達した第二紀において航空主兵論が展開されるのはむしろ当たり前であったかもしれない。
だが、その見方には少々誤りがある。
優秀な航空機を製造できたから航空主兵がもてはやされたわけではない。
航空機を強化する方針しか取ることが出来なかったのだ。
メルパゼル造船業界は苦しんでいた。
552年、軍用艦船の受注は過去最低を記録した。商船事業においてもアーキル製船舶の流入により苦境に立たされておりこちらは国内産業保護を目的に政府の介入が行われている。(旅客分野などではいまだに航空機よりも船舶の方が優勢であったため)
理由としてメルパゼル艦の浮媒がドブルジャであるにも関わらず、自国での産出量が少ないためであるとされることが多いが、最大産出国であるアナンサラド王国はアーキル軍用艦艇向けの需要がひと段落したこともありメルパゼルとパンノニアに積極的な売り込みをかけていた。
最大の要因は機関にある。
ガソリンエンジンの開発において大陸随一を誇り、戦車等に搭載される小型ディーゼルエンジンの領域でもメルパゼルの技術は他の追随を許さなかった。
しかし、どういうわけか(目に見えぬ力が働いて)船舶用大型ディーゼルに関しては有効な開発を行うことが出来ず、この市場はアーキルの独占が続いた。この状況はメルパゼルが十分な製品を量産できるようになる630年代の後半まで続いた。
必然的にメルパゼルは旧来より採用してきた蒸気レシプロ機関の採用を考えることになるが、当時の技術では機関容量と技術発展による高出力化に頭打ちが来ていた。何より燃料のほかに蒸気用の水を積載し、機関本体は缶とシリンダーは別に用意する必要があり船内容量を大きく専有する。浮媒であるドブルジャ気嚢も同様に浮揚力はその体積に(正確には含まれる分子数に)依存する特徴がある。
つまり高出力、長航続距離を得ようとすれば機関とタンクの大型化は避けられず、重量がかさみ、それに対応しようとすれば気嚢も大型化せざるを得ず、バイタルエリアの拡大は装甲区画の肥大を必要としまた重量がかさむという負の連鎖が起こるのである。
また気嚢を採用する都合上、許容される艦内容積は狭く、居住性は劣悪にならざるを得なかった。武装の重量もあるため気嚢容積は妥協することが出来ない。したがって必然的に縮小対象は機関区画に定められた。メルパゼルは自国軍艦の機関をアーキル製船舶用ディーゼル機関にする方針を固めたのだ。
しかし機関の輸入も安定はしない。リューリア作戦以前の連邦軍は艦隊拡張の最盛期である。輸出に回されるエンジンの総数は限られており、これはアーキルが戦費調達と連邦全体での安定した兵器調達を目的として、手っ取り早い外貨獲得のためにライセンス生産権を売却するまで改善されなかった。(570年)
こうした複数の要素に当時の財政等を考慮した結果、外征可能かつ、大規模な艦隊の整備は不可能であると結論付けられ、ドクトリンは防衛主体、自国で生産可能な兵器でその主力を賄う方針を固めたのである。
この決断によりメルパゼル空軍は航空主兵に舵を切った。
メルパゼル空軍の防衛戦略は空雷艇と雷撃機を主力に侵攻してきた敵艦隊を漸減し、敵戦力が損耗したところを少数の自国艦艇(シグニット級駆逐艦)と国内に駐留するアーキル艦隊をもってこれを撃滅するというものである。
幸い第二紀の帝国艦は対空火力を重視していなかったこと、また航空母艦のような航空機集中運用艦を持たない艦隊母艦思想を掲げており、艦隊直掩戦闘機の数に限りがあったため、護衛戦闘機さえ排除することが出来れば大型爆撃機でさえも容易に敵艦隊に肉薄することが可能であると見積もられた。
戦力構成は以下の通りになる。
艦艇においては砲戦が可能な駆逐艦と砲艦はごく少数のみとされた。
主力は多数の銃座と敵戦闘機の機銃を防護可能な装甲を備えた戦略爆撃機クラスの陸上攻撃機とし、それに追随するに十分な航続距離と、敵直掩機と一戦交えた後でも尚も高い攻撃力を保持できるよう、武装積載量を確保した双発重戦闘機を多数配備した。
またそれらを補助する目的で拠点防備に重点を置きつつも航空隊と共同作戦が容易な重ストレルカに代表される高速空雷艇を筆頭に、小型快速艇を配備した。
注目すべきは単発機の配備数の少なさであり、軍上層部は小型機をあくまで露払いとしか見ていなか
ったこと、550年代当時の技術では単発機に重武装を載せることが不可能であったこと、航続距離の不足が敵戦力への痛烈な打撃を目的とした航空艦隊構想に不適合であるとされ、その多くは陸軍の支援と前線基地の防空任務に就いていた。
またこの思想を大きく後押ししたのが誘導空雷の開発であった。
当時の空雷は(そもそも水平座標が拘束されていない時点で空中雷撃は成功率が低い)砲戦距離ではまず当たらないものとされ、会敵前に敵艦に回避を強いて高度を奪う、優位射界に敵艦を行動制限するといった牽制と近接戦における必殺の一撃としての要素が大きかったが、任意に誘導可能な空雷の登場により、確実な打撃が与えられる兵器として完成したのである。
*やはりこの国の性とでもいうべきか、細かい工作や電子技術は一歩抜きんでたものがある。
有線誘導空雷は高度なジャイロと母機からの信号を舵に伝達する磁石やモーター、それを統制する機械式コンピュータにより成り立つ。この技術を早期に開発したことが誘導手を持たない単座機の地位をさらに低いものにしたのはのちの不幸であった。
第二紀のメルパゼル空軍において
に分類されるが、艦艇と舟艇は艦艇派が、航空機は航空派がそれぞれ権限を握っていたことは把握しておくべきであろう。
空雷艇
航空機に関してはまた別の機会に回すとして、空雷艇について述べる。
メルパゼルの空雷艇には二種類の系統が存在する。第一紀に登場した気雷艇を発展させた200トン級の雷撃艇を祖とする系譜と第二紀前期に登場したより航空機に近い設計を持つグループである。
前者はこののち艦隊型空雷艇に発展し、シグニット級駆逐艦とともに航空艦隊至上主義の陰で第三紀にメルパゼルが艦隊整備を行う基盤を繋ぎとめた。が、その道は常に航空論者に脅かされ続けていた。
構想当初は調達費削減が続き第一紀の快速艇に通常空雷を搭載して使用していたが、誘導空雷の搭載に際し新規艦の建造が計画された。
カテナ級空雷艇(霞照那級 常備152トン
主機:ガソリンエンジン及び発電用ボイラー)は誘導空雷を主兵装にした最初の空雷艇である。複数の機関砲を搭載する本級は敵護衛航空戦力を突破するのに十分な火力を持っている反面、マツカセ級とそう変わらぬ船体に多くの武装を詰め込んだ結果、運用に支障をきたすほどの低速になった。
これに危機感を感じた軍部は次なる艦艇としてカトラ級空雷艇(夏彪級;常備230トン)を建造した。大型化し機関と武装に余裕が出ただけでなく、速度も敵艦に対し優速になったが、初の誘導空雷艦に気をよくした上層部により大量建造されてしまったカテナの悪評は覆せず、折しも巨人機メリダ(玫理騨)の計画が準備段階にはいっていたことにより艦艇部門の予算が大幅に削減され更新はかなわなかった。(なおメリダは無事爆死)
その後いくつかの少数生産艦を経て最終的に561年建造のカサキ級重空雷艇(嘉佐紀級:常備370トン)で一応の決着を見るが、量、質ともに十分と呼べる戦力は確保できなかった。
索敵網を監視所や哨戒機、聴音装置といったアナログな方法に頼っている当時の方式では、航空機に比べ速力に劣る艦艇型では未来位置への移動の誤差を修正する能力に劣り、追撃に際しても交戦位置に付くには時間がかかったために、迎撃型ドクトリンの第一防衛ラインでの運用は困難であると判断されたのだ。
一度は泊地拠点を増加させ綿密な近距離出撃ポイントを設定すると同時に、複数拠点の所属艦による同時攻撃案も検討されたが、ただでさえ航空派の台頭でカツカツな戦力の分散につながるという理由で否定された。
船艇型空雷艇が成果を上げられぬ中、航空派はさらに発言力を強め空雷艇への予算は縮小傾向にあった。
550年に発表された「艦艇不要論」は「少数の駆逐艦、及び砲艦を対地攻撃支援用に残存させることを許容しながらも、段階的に削減し、将来的にすべての戦力を航空機によって賄う」という乱暴なものであったが、高く評価され艦艇派の発言権を大きく制限した。
一方で彼らも航空機の重砲に対する打たれ弱さは理解していた。548年7月に発生した第7次グランパルエ川河口部会戦では陸攻隊が敵艦砲の対空炸裂弾とグランビアの機首榴弾砲によって壊滅した一方、強行策に出た陸攻隊に進路を譲り、再度雷撃進路を取るためにより長く対空砲火にさらされたはずの二十七號空雷艇(のちの重空雷艇のプロトタイプ。常備297トン)に率いられた第3空雷戦隊6隻が雷撃に成功、損害を被りながらも生還している。
しかし艦艇にはない利点があったのもまた事実である。
航空機は艦艇に比べ敵艦との速度差の優位が顕著であり、領空侵犯した敵艦への初動対処に優れていると同時に、再度攻撃位置に遷移する際には速度差の少ない空雷艇よりはるかに容易であった。(もっとも、旋回式発射管を搭載した艦はその限りではなかったが。)
これに伴い、航空派、艦艇派の一部に互いに歩み寄ろうとする動きがあった。
航空派はより頑強な機体を、艦艇派はより高速な船体を求めたためである。この機船統合様式のいわゆる「第三の雷撃兵器」が第二紀中期から航空艦隊の終焉、第二紀末期にかけて空雷艇の主力となっていく。
その最初の機体(船体?)は舟形の胴体に巨大な主翼と胴体内部に搭載されたエンジンから延長軸を介した特徴的な推進式プロペラを装備した。これはメルパゼル初の重爆『センゲン』(千玄)の特徴を色濃く反映した構成であり、エンジンブロックを装甲化するための措置であった。ドブルジャ気嚢は積まず、浮揚力はすべて揚力に依存した。
胴体にエンジンを搭載した結果、機関士のエンジンアクセスが可能であると同時に、装甲の集中化による総重量の軽減、重心が一か所であったため運動性は良好であった。
ここから始まった系譜は次級『重ストレルカ』に発展し、以降空雷艇に関する予算は複合様式がその大半を占め、陸攻隊とともに航空艦隊構想の中核に位置づけられたのである。
大型艦艇
艦艇部門は航空艦隊の尻ぬぐいの役割も担っている。
航空艦隊で撃ち漏らした…漸減され、なおも侵攻の意思のある敵戦力を食い止める最後の戦力としての駆逐艦・砲艦の及び輸送艦の運用である。
これこそが第二紀末期~第三紀への希望をつなぐ艦艇派による国内造船保護の戦場であった。
第一紀から引き継がれた旧式艦は維持コストの高いものから新鋭艦の就役と同数ずつ(場合によっては倍の隻数)削減し、艦艇派の生き残りをかけた挑戦が始まった。
駆逐艦に関しては二つの設計案が検討されたが、予算の都合上もあり一つの艦級を継続発展させる方向で決定された。
シグニット級駆逐艦(時雨新都級)は同時期の駆逐艦のみならず、大戦期を通じて比較した場合でも大型駆逐艦に分類される艦級である。これは艦艇を少数しか配備しない関係でできるだけ多くの武装と防御力を要求されたからであり、事実上の小型軽巡であった。第二紀前期に建造されたのは1番艦~9番艦でありそれぞれ3隻ずつ3度に分けて建造されている。一度に大量に建造しなかったのは継続した発注によって技術の継承と研究を継続させるためである。
主砲として採用された128mm重メルパゼン砲は第三紀においても通用する優秀砲である。同砲は他国における軽巡砲並みの貫徹力とそれを上回る射撃速度を有し、極めて異質な存在であった。1番艦~6番艦まではこれを露天砲塔式、7番以降はシールド付き(B型砲塔)で2基装備した。最低公算射撃門数には届かなかったが、これは自動装てん機構を備える本砲の全備重量と、船体容積の余裕のなさが主な原因であった。副砲には巨大な防盾に不釣り合いな連邦製8㎝砲を搭載した。これは当時艦載に適した適当な砲がなく、新規開発コストを抑えるための措置であり、のちの改装で10㎝高角砲に換装されている。
もう一つの副武装として搭載された14㎝縦列榴弾砲は詳細不明の武装である。帝国軍:ガルエ級(河流江級)の主兵装を参考に開発されたと推定され、主に対地攻撃用に装備されたようだが、有効性がなかったのか、旋回式空雷発射管が開発される搭載位置を明け渡して姿を消した。
主機は二種類の外装式船舶用ディーゼルであり、アーキルからの輸入品に自国製の部品を組み込んで使用した。これらは純粋に推力のみに貢献する機関であり、船体内部に発電用ボイラーを搭載し、艦内電力を賄った。
これほどの重武装を実現させたのはドブルジャ気嚢とアーキル由来の技術である浮遊機関である。体積を抑えながら浮揚力を稼ぐことが出来るだけでなく、浮力調整の難しい気嚢と異なり通電によって浮揚力の制御が可能になったため姿勢制御が容易になった。もともと高精度だった重メルパゼン砲を生かすには最適の環境に仕上がったと言える。4番艦以降のドブルジャ気嚢は耐圧管の中に圧縮して収められるようになりのちの変相型気嚢管に繋がった。
しかしながら、主機と補機を輸入に頼った本級の建造費は馬鹿にならず、しばしば艦艇派と航空派の対立の原因にもなった。
駆逐艦が一点豪華主義でその当時の最適化された艦であるとすれば、砲艦は自国技術のテストの場であった。また、空軍上層部を欺くという点でも「砲艦」という艦種は都合よく使われていたと言える。(空雷砲艦等)
少ない予算の中ではあったが多くの技術が生まれ次の世代のシグニット級に搭載された。
中でも変相型ドブルジャ気嚢管と王式タービン機関はメルパゼル造船業界の運命を大きく変えたと言える。
タービンは以前から蒸気レシプロを代替する機関として注目されていた。理論や実験用モデル、小規模な発電用としては存在していたが、研究リソースの不足による開発遅延で実用に足る性能を引き出せずにいた。転機は550年代、フォウ王国からの依頼によって都市向け火力発電施設の復元に関する共同プロジェクトに参入し、国家の予算を使った研究が行われたことに起因する。ブレード形状や耐圧加工技術が向上し、ついに実用化にこぎつけた。
タービンを初めて搭載した艦が558年就役のカサノ級空雷艇(暈乃級:四十一號空雷艇)、長期に運用した艦が561年就役のサツカ級空雷砲艦(薩香級)である。カサノ級は振動不具合の解消により一年遅れでの就役となった。
両艦とも初期のタービン艦にありがちな機関とプロペラが直結された構造を持ち、優れた速力を発揮したが、のちにサツカはギアボックスを介する改装を受けている。
良好な性能を示した両艦であるが、量産はされていない。空雷艇の以後の主役は航空型であり、砲艦は基本的にテストの場であるため貴重なリソースは数少ない次の実験艦に充てられるのだ。
その中でもサツカは数少ない砲戦可能艦かつシグニットと異なり喪失しても惜しくない艦として他の旧式砲艦を率いてたびたび出撃し、陸軍の支援等によく姿を見せることから人気の高い船であったようだ。
またアーキル軍との共同作戦を行うにあたっても遜色のない速力を見せつけた一方で、艦内に積載可能な水に限りがあり航続距離には不安を残していた。もともと領内での運用しか意図されていなかったこともあるが、乗員に回される水も少なく長期航海は不可能であった。
長期航海に必要な要素は水の潤沢化そして快適な船内環境の実現である。
国土交通省が蒸気機関車の給水塔よろしく各港湾に補給タンクを整備した一方、空中製水器と復水器、そして与圧区画の開発に最も早く着手したのは商船を製造する民間造船所であった。
530年代から物自体は存在していたが、飛躍的な発展が現れるのは560年代後半に入ってからであり、本格的に運用され始めたのは第二期後期になってからである。
このように第二紀前期において艦艇の地位は低いものであったが、一方で限られた機会の中で成果をあげられたことは幸運であった。これはひとえに、技術者集団を祖に持つメルパゼル人の向上心によって成し遂げられたことであった。同時に、その性格は多数の試験艦の建造という形で現れたが、運用や生産性という点において実戦的ではなく、本来発揮されるべき艦隊戦力の上限値を大きく下回り、この艦艇軽視の状況をさらに悪化させる要因であったとも分析される。
いずれにせよ、技術的面ではメルパゼル製艦船による艦隊再建に向けての可能性を十分に示し、航空艦隊構想が失敗に終わった場合のバックアップという形ではあったが、第二紀後期・第三紀に向けて希望は紡がれた形となる。
第二紀後期へと続く