小惑星724番 大空間辺縁部 最内殻壁面
メンバーは奇妙な都市群の間を抜け、永遠に続くかと思うような巨大壁面のたもとに立っていた。貨物ユニットの全フラッシュライトが上に向かって指向し、可能な限り遠くまでを照らし出そうとしている。セラミックの質感がある壁面は宇宙風化が進んで赤黒くなっている。少し先に直線状の凹みが見て取れ、それが光の続く限り先まで何十本と刻み込まれていた。
「ひゃー、でっかいな。距離感がわからない」
「透視データによれば、内殻を構成するタイルは一枚100メルトね」
ルッツが感嘆し、ナテハが答える。
「ほう、じゃああの線のとこまでが100メルトか。ひいふうみい……」
「1キロメルト半から先は見えないね」
メロカやミトも感嘆した。
「データによると、ここから壁を3キロメルトほど登ったところに大穴があって、外につながっているらしい。上がろう」
セニャは滑らかに壁面方向に身体を向け、もう進み始めている。
それ見てメロカは宙間モービルをウィリーさせ、壁面を地面と見做して進んでいこうとした。しかし壁で反発を受け、前輪部ばかり持ち上がっていき、ついにひっくり返ってしまった。それを見たピチューチカ、ケピピと笑いながらふわりと頭を90度上げ、やはり壁面を地面とみなして上り始める。しばらくしてゴム紐に引かれたピチューチカがしずしずと戻ってきた。
「お前な……」
「モービルの認知にパラダイムシフトを与えて、地面とみなす対象を切り替えてやる必要がある」
ムロボロドは宙間モービルを持ち上げて、壁面に沿うように置いてからレバーを操作した。モービルは一呼吸のちに安定し、そのまま壁面を車体下にした姿勢で、15センチほど浮いてとどまった。
「なるほどね。パルエで進化してきた脳はたとえ無重力下でも、二つの平面を同時に地面と認識できないんだもんね」
ミトはそう言いながら同じようにモービルの認識を切り替え、ほかのメンバーもそれに続く。宙間モービルが切り替わったところで最後に貨物ユニットがふわりと姿勢を変える。メロカたちはすぐにピチューチカに追いつく。
「ん、ピチカ。セニャは?」
「ピュイ」
遠くを示す。命綱から離れたセニャはかなり先のほうにいた。迷いも振り返りもせず、まっすぐと進んでいる。
「線2本ぐらい先か、かなり遠くまで行ってるな。迷子にならないか? 命綱にロック掛けとくべきだったな」
「だが今のところ、目標地点に向かう適切な方向に進んでるらしいぞ、メロカ。あっち方向で合ってる」
ムロボロドが端末機を確認して言った。
「どうしたんだあいつ。さっきのタブレット拾ってからちょっと静かになったみたいだ」
「というか、キャラ変わったか」メロカが肩をすくめる。「何かタブレットの輝きを見てショックを受けたんだろう。体調は悪くないようだし、気にしていない。クルカも賢くなれるもんだな」
しばらく走っていると、前方をゆくセニャが近づいてきた。50 mも近づくと、セニャがさっきからその場に立ち止まっていたことに気付く。セニャのすぐ背後まで来てやっと、メロカ達は巨大な穴の縁にセニャが留まっていたことを認識した。
「お……っとお。でかいな、こりゃ。隕石が貫通した時の大破孔だろうな」
エディがモービルから降り、足元を覗き込んだ。100 m四方のタイルが何枚も大きく損壊しており、その外側の構造材のいびつな断面が見て取れる。複合材や外側の配管、通路、さらに多重の壁面や骨組みが入り組むずっと下方には、それらの隙間から星空がちらちらと見えていた。
『見ての通り、この穴は外まで貫通しているようだ。ここから配管や通路、そして外殻を経由して別の場所と、いろいろな場所へのアクセスルートを提案可能だよ。……だが、君たち疲れていないかい?』
「ええ、少し。お気遣いありがとうございます、わぁ……」ナテハがしたあくびに釣られて、ピチューチカもくぱっと口を開いた。メロカが腕時計を確認する。そこでやっと、連盟制定の宇宙時間ではもう夜の21時に該当することに気づいた。途端に、瞼が重くなってきたような気がしてくる。
「こういう場所で探検していると交感神経が高ぶって眠気を感じなくなっちゃう。よくないよー」とミトはもう、貨物ユニットから仮設与圧テントのコンテナを人数分下ろし始めた。
「準備が早いな」ムロボロドが豪快に笑いながら「良いだろう。ここで宇宙キャンプといこう……全員、仮設テントを受け取って展張し、各自休息を取ってくれ。それでは出発は9時間後、各自の端末機にタイムデータを送っておく。貨物ユニットからあまり離れるなよ」こう真っ暗だと貨物ユニットの明かりから離れて夜を超すのも度胸がいるがな、と付け足した。
メロカはとりあえず油を売っていたクルカ2匹を見つけると、貨物ユニットに付属するクルカ用休息コンテナに投げ込む。休憩コンテナは箪笥ほどの大きさをした与圧モジュールで、クルカ用インターフェースを操作して思い思いに休める代物である。2匹は中で船外服を脱いで、テレビゲームをやったり餌を食べたり布団に包まったりしながら、出発ギリギリまで休むだろう。訓練された宇宙クルカといえどもサボるのは好きなのだから。
メロカは次にミトから、仮設与圧テントが格納された電話ボックスのぐらいのコンテナとガスボンベ、糧食箱を受領する。貨物ユニットからやや離れ、コンテナを床面に吸着させてピンを抜くと、一面が開いて中からバルーンが膨らんできた。バルーンの外膜は湿っていたが、真空状態で乾燥するとクリプトビオシスとなり急速に硬化する。1分もせずに半球状の硬質バルーンが形成された。メロカはボンベを持ってコンテナに付いた扉を開き、中に入る。金属製のコンテナ部分は中で仕切られていて、簡易エアロックとなっているのだ。ボンベのレギュレータを弄って内部を与圧し、異常がないことを確認すると船外服を脱ぐ手順に入った。
「ふわぁ、どっと疲れが出てきた気がする」
メロカは伸びをして、エアロックから室内に入る。中は4畳間程度の広さだ。ドーム内は折りたたみ式の合成樹脂で内装されていて、展開式の寝袋に小さな作業机だけ組み立ると、もう宇宙ワンルームの完成だ。
「うわっ、トイレないじゃん。え? この吸水袋にしろって? トイレ付きの最新型じゃないのかよー……」メロカは真空パック詰めされた布団をばさっと開きながら、端末機で取説を見て愚痴る。
「まぁ、気を取り直して食事でも……」
寝袋の上に身を投げ出したメロカは、先ほど受領した糧食箱を開封する。机なぞいちいち使わない。
「まずはパック入りの飲料水が4つと、加熱袋だな。……栄養胚入り麦シチュウのパックに、グルヌイユの角煮缶詰。あとキャッサバ丸ごと。メイプルケイクの缶詰と……やった! 連邦チヨコだ」
これは珍味なんだよなぁとメロカはうきうきしながらパック入り飲料についているチューブをまとめて折る。パックに入っているのは普通の水だが、数本の小さなチューブが刺さっていて、シーバやクドゥス茶、黒糖クォクアやザイルデーツのジュースなど、色々なフレーバーが入っているのだ。悪趣味なことにメロカはこれを全部折って混ぜるのが好きなのである。
メロカはしばし夕食のひと時を楽しむ。食後、チヨコを肴に闇鍋ジュースをちびちびと飲むメロカは、なぜか酔ったような気分に浸りながら強化蛋白窓の景色をぼおっと眺めた。
貨物ユニットはちょうど窓と反対方向だから見えない。クルカコンテナの窓から2匹と目が合うのが嫌だったので、大破孔の方向に向かって建てたのだ。724番の自転によって、宇宙空間から太陽光がちらちらと射しはじめた。複雑な破孔壁面の構造体に反射した光が、蛋白窓で乱反射して、さながら万華鏡のような虹が見える。破孔の淵から、反対側の崖まで何キロあるんだろうか、とぼんやり考える。
酸素交換する生体肺の呼吸音を聞いているうちに、メロカの意識は遠のいていった。
調査2日目
昨日とっておいたキャッサバで腹を満たしたメロカは、あくびを噛み殺しながら衣服を脱ぎ去ってエアロックの扉を閉めた。寝ぼけて自殺しかけている訳ではない。エアロック内は防水加工されており、タンクの水と給水システムを使って簡易シャワーを浴びることができる設計なのだ。
深宇宙のキャンプでも個室で過ごすことができ、はてはシャワーまで浴びれるというのは、ルーンの頃と比べて長足の進歩だといえよう。メロカは連盟宇宙軍の偉大なる発明品に感謝した。
「水タンクの容量は改良しないとな」
もとい、ちょろちょろ中途半端に出が悪く生ぬるいシャワーで体を洗いつつ。
「ここに便器もついてるタイプなら文句なしだった」
机に置いた端末機のアラーム音が響く。もうこんな時間かとシャワーを終わらせると、手短に身支度を整え、再びエアロックに戻った。船外服を着こみ気密チェックを完了させる。安全ロックを外して外出レバーを降ろすと、シャワーの水滴が速やかに泡立ち消えていった。
外はかなり明るかった。破孔からまっすぐに日射が入り、複雑な船体構造によって反射を繰り返して照らしているようだった。
「おはよう、メロカ! チヨコあげる」
「ミト、お早う。ありがとう」
「俺もやるよ」
「メロカさん、どうぞ」
「ピーヤ」
メロカがテントの外に出ると、同僚から学生やクルカにまでチヨコをプレゼントしてくれた。あの舌が痺れ付く感じがいいと思うのに、みんなチヨコが嫌いなのは不思議な話であるとメロカは思っている。
「まぁ、なんだかモテたみたいで悪い気はしないかもしれんな」
『バカヤロー、そういうふざけたセンスを顧みないから振られたんだろうが』
見事な突っ込みを受けた。そのいつか聞いた声は、頭上はるか彼方から聞こえてくるように思えた。
「……コルチクか。これはプライベートの通信チャンネルだな。探査活動に正規のログを残すという意味でも、こういった行為は推奨されていないはずだが」とムロボロドが指摘する。
『ああ、申し訳ない、隊長。だがひとつ気がかりで調べたことがあって、報告する』
「何だ」
『マイカの存在だ。海洋気象・国際学術ジャーナル誌の記者を自称していたが、艦内の誰も知ってる奴がいなかったんで、秘密通信でパルエに問い合わせてみた。そしたらオデッタに籍を置くペーパーカンパニーだったんだ。とあるアノール人の名義で登記されていたんだが、そいつは何年も前に死んでいた。マイカ・セルという記者も、世界中のジャーナリストのコミュニティに当たったり、かつて出版された書籍や記事をできる限り調べてもらったんだが、書いたコラムひとつ見つからなかった』
メロカたちは全員顔を見合わせる。
「……マイカ・セルが架空の人物だって? しかし連盟宇宙軍のログには彼女が記者に採択された記録なり、少なくとも申請書ぐらいは残ってるはずだ。なにも身分が分からないでルスランに乗り込めるわけがない」
ムロボロドの指摘に、コルチクは。
『その通りだ。だから連盟宇宙軍の上層部にも探りを入れてもらった。宇宙軍探査部の人事課士官に聞いてみると、ジャーナリストの採用は連盟広報部がやったと言う。連盟広報部に聞くと、うちは関与してませんと言う。しょうがないので探査司令部を調べると、そこの幕僚達は別のジャーナリストが行く予定だと聞いていた、と言っている。マイカは知らないと』
「それはおかしい。探査司令部が把握してないわけがない。そもそもルスランの存在は重要機密なのに、そんな下請けに任せるだろうか? まったく不可解だ」
『ああ。月面基地のメオミー基地に立った人間はそれほど多くない。全員の身元を洗ってみる予定だ。それから内部文書もなんとかして入手して解析してみたい』
「ちなみに、だ」エディが質問した。「当のマイカはどうしてる?」
『ああ、たまに取材と言ってCICを見学したり、君たちから送られるデータを見せてもらったりしている。特に怪しい様子はないようだ。一応、信頼のおける部下数人に事情を話して監視させているが……正直、このことを艦内に公開していいのかすら分からん』
「司令部が関与している可能性があるのなら、表立って波風立たせないほうがよさそうだ」
『だな。しばらくは水面下で、地上スタッフに調べてもらうつもりだ』
「頼んだ。また何かあったら報告してくれ」
端末機からコルチクがオフラインになった。
いったい何が起こっているのか。数秒、その場の全員が思考を巡らせ、インカムは壊れたかと疑うほどに、誰の声も拾わなくなった。
沈黙を破ったのはクルカの鳴き声だった。
「……ピーッ……ヤッ!」
ぼこぼことクルカ用休息コンテナが揺れ動くと、エアロックから船外服を着たピチューチカが飛び出してきた。慌てたようにメロカに駆け寄る。
「んあ? どうした」
「ピチピチピチ……」
ひっきりなしに自分が出てきたクルカ休息用コンテナを指し示す。クルカ用の小型エアロックは開け放たれ、コンテナの奥まで覗けるが、もう一匹は見当たらない。
「あれ、おい、セニャはどうした」
「ピュイヤ」
ピチューチカはぶんぶんと首を振り、お手上げだとでも言うようにばたばたとヒレを振った。それから首を傾げながらも大穴の方を示してヘドバンを始めた。メロカもなんとなく、セニャが出歩くとすれば大穴のほうではないかと思えてきた。
「あいつ、まさか夜中に勝手に逃げ出して……?」
「……キ……ピィ……」
かすかなセニャの鳴き声がインカムに聞こえたのを、メロカは聞き逃さなかった。
「なんて奴だ。……どこだ?」
メロカは端末機を取り出して捜索プログラムを起動させる。端末機はまだ寝ぼけているかのように、起動準備中のアイコンがぐるぐると回っていた。そうしているうちにもう一度、かすかなセニャの声が聞こえた気がした。相当な遠さにいるようだ。
「あぁ、やっと表示が……」起動した周辺立体地図にセニャを示す青点が浮かび上がった。「あっ、あいつ。こんなところまで!」
その座標は驚くことに、眼下に広がる大破孔から船体外殻に向かってしばらく進んだあたりで口を開けている、多数存在するトンネル状構造物のある開口部付近であった。
「あの馬鹿……!」
メロカは呆れてため息をついた。様子を見ていたムロボロドも看過できない、と呟き全員を一瞥して伝えた。
「あいつのいるトンネルの先はカテゴリー2クラスの未踏未知領域だ、安全の保証はないぞ。貨物ユニットで周辺をスキャンしながら慎重に進んでいくべきエリアだな。セニャのシグナルをロストしないよう、すぐに出発準備だ!」
「テントはどうするの?」
ミトの質問に、ムロボロドは手短に答えた。
「回収してる暇はないから置いていこう。貨物ユニットに予備がもう1セットある」
連泊は可能ってわけだな、とルッツが肩をすくめた。
まもなく一行は、手際よく出発準備を整えた。まず仮設与圧テントの中から必要な物品を回収し、モービルのバイナリタンクと端末機の電池を交換した。予備の酸素ボンベも受領する。次に貨物ユニットを定置拠点モードから探索モードに切り替えると、五脚で張り付いていた貨物ユニットは壁面から一定の距離をとって浮き上がり、自走可能な状態に遷移した。3分もしないうちに全員がモービルにまたがり、アクセルを蹴上げて発進した。
モービルが大破孔に侵入すると、その圧倒的な光景に複数人から声が漏れた。
大破孔は直径3キロメートル、奥行5キロメートルほどもある、超巨大な構造だ。奥の宇宙空間からは太陽光がさんさんと差し込んでいて、この広大な機械の通路を照らしつくし、ひたすら煌びやかに輝かせていた。太陽風イオンで帯電したミクロンサイズのデブリが浮遊しているのか、わずかに霞を帯びて見え、それがより幻想的な雰囲気を醸している。
陽光を受けると同時に、ヘルメットの蛋白ガラスに組み込まれた色素細胞が拡張して遮光バイザーとして機能するので、眩しいと思うこともなく、その絶景を観察することができた。外殻に向かって数十秒ほど移動すると、前方に数えきれないほどの長さの違う針のような物が林立しているのに気づく。いや、その針のひとつひとつをよく見ると大きな配管や通路といった構造であり、それらが大破孔の断面部分で分断されて中空に向かって生えているのであった。
ここで詳しい位置関係について改めて説明しておく。これまでの調査隊一行は、小惑星324番、もとい超巨大宇宙船のように見える船体の内部で、もっとも目立つ大空間に最初に降り立った。旧文明仕様のものと正体不明の都市群のような構造を通り抜け、大空間の端部まで到達したため、90度上を向いて宇宙船の内壁沿いに登っていった。メロカたちはその壁面に存在する大破孔に到達し、ここで一晩キャンプしたのである。キャンプしていた時にメロカたちが足元の方向として認知していた大破孔からは、外の宇宙空間が視認できる。
さて、大破孔を見る限り、宇宙船の外壁と内壁の境界部は数キロの厚みがあるようだ。その外殻も単一の船体構造ではないらしく、複数の船殻が入れ子構造になっているようである。ちょうど外洋水上船の船底が2重底になっているようなものだろう。透視立体地図を見た限りでは船体の大半が2重構造の外殻を持ち、さらに一部は3重構造になっているようだった。それを知ったメロカは、ちょうどネネツ伝統工芸品のマトラシュヤみたいだなと思った。
大破孔が存在していた位置はちょうど外殻が3重構造になっている領域で、大破孔を進むうちに第二、第三の船体の境界面が見て取れた。自分たちを取り囲む配管と構造材でできた巨大なアーチのようにも感じた。そしてセニャは、第二の船体部分から生えた通路構造のうちのひとつで待っていた。入口の部分に居座り、近づいてきた調査隊の方をじっと見ていたのであった。
「こらセニャ! なに勝手に逃げ出したんだ!」
メロカが最大音量設定で叫び、何人かのメンバーは驚いて耳をふさごうとしたが、ヘルメット越しではあたわず我慢するしかない。ピチューチカも便乗するように高速でヘドバンしだしたが、「お前もセニャをちゃんと監視してろよ……」とメロカに呆れられ、不服そうに頭を止めた。
セニャは悪びれもせず、近くに来たのを確認して通路の奥へと進んでいった。
「あいつ……ひょっとして、この先に何があるのか分かってるのか?」ムロボロドは面白い、と鼻を鳴らして真っ暗な通路を覗き込んだ。
太陽光の角度の問題か、入口からすぐ先でも視認できない。ただセニャの船外服についた発光塗料が、ちらちらと動いているのみだったのみである。
「今日の探査予定はこれから議論して決めるつもりだったが。まぁよかろう、ついて行ってみるか。捜索機器類を起動」
ムロボロドの指示でハーヴローバのランプが緑色に点灯する。貨物ユニットは真空耐性触角を伸ばして、周囲に脅威がないか分析し始めた。一行が通路の入口に立ったところで、ムロボロドはフラッシュライトを点灯させて中を覗き込む。
全員が、その内装を見た瞬間に息をのんだ。メロカに至っては頭を抱えるほどだった。彼女にとっては、見覚えがあるものでもあったのだ。すなわちそれは前日に見た、前衛的な文様が刻印された通路と同類の構造だと一目で分かる壁面だったのだ。異なる点は、その内部が先ほどのものよりよほど大きく、ヒト一人が余裕で立ち歩ける広さぐらいあることである。さらに何より目を引く差異は、五角形の通路断面のうち一面が人工物――旧文明設計のプレハブパネルで舗装されていることだった。手前に銘板が埋め込まれており、そこに旧文明の文字が刻印されていた。旧文明語が分かるナテハはそれを読み上げた。
「『ミケラ辺縁工作所 統一床材パネル2型:【警告】この先複数存在を前提とした生命維持システムセクション。人類用改修進捗/1.5 -> 1.8%』とのことです。このパネルに限って言えば、間違いなく旧文明製のコンポーネントですね……」
「……複数存在ってどういうことですか? ミケラ仕様とパレタ仕様の機材が混ざってるってこと?」とルッツ。
「……わからないわ。旧言語の言葉を素直に読めば『生命維持システムの存在』そのものが複数通りあるみたいなニュアンスになるのかしら……?」ナテハは首を傾げる。「先生?」ハーヴローバの方を振り返った。
『その理解で合ってるんじゃないかな。僕のネイティブ言語ではないから細かい意図までは解釈が難しいけれど』とハーヴローバも補足した。
一方エディは壁面の構造をルーペで拡大し、昨日セニャが拾ったタブレット板と見比べ始めた。文様の分岐パターンを拡大画像で撮影し、端末機に何やらデータを書き加え。
「文様が持つ分岐アルゴリズムのエントロピーは99.7%で一致。3シグマの確からしさでほぼ同一構造だ」などとつぶやいた。案の定これらの奇妙な文様は、昨日見たものと同じ由来らしい。
「ピーヤ」
メロカがあっけにとられていると、少し先でこちらを振り返って見ていたセニャが、さらに先へと移動し始めた。
「あっ、おい! 待てよ!」
セニャはこちらを気にする素振りを見せず、ずんずんと前進していく。
「あのバカ行きやがった! どうする、隊長!?」
「……仕方ない。行こうか、皆。アイツ、何か意図があるのか。この文様は何なのか、この宇宙船が一体なぜ造られたのか……ここで首をかしげていてもらちが明かない。ついていけば何か答えがあるのかもしれない」
ムロボロドは端末機を確認して指示を出す。
「実際、ここから先に気になる領域がポイントされている。……1レウコほど先だ、長いぞ」
そう言う間にもセニャは微小重力下を滑るように進み、フラッシュライトの照らす限界を超えて闇に吸い込まれていった。奇妙な文様のトンネルに入っていくのは、メロカの精神力をしても憚られた。足元の旧文明製のプレートが、先人たちの道標のように思えて今は頼もしい。一行は、ライトの届く先にかろうじて見え隠れするセニャの発光塗料を追っていく。めまいを起こしそうな奇妙なトンネルに突入してプレートを建設した、数万年前の旧文明人の肝っ玉に思いをはせた。
「あのクルカに意図がある、な……あいつらにそんな器用な真似ができるとは思っていないが。あんなのでもヒトを除けば一番知能の高い動物なんだってな、そういえばさ」メロカは、タブレットを拾って以降はセニャの鳴き声をさっきまで聞いていなかったことに気付いた。
「クルカの翻訳装置ってのは作れないのか? あいつらも準知的生命体だろう」
「そうだ、気になっていた。クルカは状況に応じて異なる音色の鳴き声を出してお互い連携しているといつか記事を読んだ。明らかな『クルカ語』のようなものは存在するんだろう?」と、エディも便乗する。「脳機能の専門はミトだっけ?」
「情報脳科学はナテハのほうが近いかも?」ミトの振りに、ナテハはわたしの専門とはちょっと違うのですが、と前置きしてから話す。
「クルカの認知特性が人間とだいぶかけ離れているらしく……意味が一対一に訳せる単語がほとんどないというのが、翻訳する上で避けては通れない問題ね。特にクルカの5W1Hの概念は、私たちのそれとまったく異なっているようですの」
「『なぜ』『なに』『いつ』『どこ』『だれ』『どうやって』の6種類ですか」とルッツ。
「そー、正解♪ 特にクルカは『だれが』と『なぜ』の概念を理解することができないと言われています。クルカという生き物は、芸を仕込めば使役できますし、クルカ同士が協力して原始的な集落もどきを作ることもできますが、自分以外の個体がどうしてるということに意識が向かないらしいんです。他の個体が何かをしたとして、それがもたらす結果や現象自体はかなり詳しく認知できている一方で、その特定の『どの』クルカが、どういう意図で『なぜ』そういうことをしたのか、ということに対して全く思考できないようなの。むしろ、もっと別の認知能力を使っていて、自身の心理をほかの個体と共有できるらしくて。群れでいるクルカは自他の意識があいまいになっているようですって」
「常に自分の視点から物事がどういうことなのかを判断していて、ときどき自分の意識に他の個体の意識も溶け込んでいたりする……みたいな感じなんですかね」とルッツが首をかしげる。
「なるほどな……一言で表すと、かなり異質な”心の理論”を持っている、とも言えるな」とクルツ。「だがそれがどうして翻訳できないことにつながるのか、ちょっと判らんかった」
「そうですね……人間の言語の特徴は再帰性があると言えますね。つまり入れ子構造にできるということだけれど」ナテハは説明を続ける。
「例えば……『メロカは、ピチカがゲームでいつも負けてることを、セニャが馬鹿にしてると考えた』という言葉。この言葉は『セニャが馬鹿にしてる』という文章の中に『ピチカがゲームでいつも負けてる』という文章が組み込まれていて、さらにそれが『メロカは考えた』という文章の中に入っているという、入れ子構造になっています。あ、言葉の意味じゃなくって、文章の構造の話ね。この特徴は裏側文明圏を含むパルエのすべての言語に共通しているので、人間に生まれ持って備わっている普遍的な言語能力だと言われていますね」
皆ナテハの言葉に集中する。宙間モービルで進めど進めど、通路構造はずっと同じで代り映えしない。最初はぞっとしなかったトンネルにもやがて慣れてきて、メロカには「実際のところあいつらのゲームの勝率は五分五分らしいがな」と茶々を入れる余裕もできてきた。
「ふふ、そうだったわね……さて、この言葉を『私は~と思い出した』という文章にはめ込むと『私は、メロカはピチカがゲームでいつも負けてることをセニャが馬鹿にしてると考えたことを思い出した』という新しい文章を作ることもできてしまう。それがどうしたと思うかもしれないけど、この入れ子構造を繰り返して、どれだけ複雑な概念でも無限に言葉で言い表すことができるのが、私達の言語の本質なのですよ」ナテハは、あまり一文の中で繰り返すと複雑な文章過ぎて訳わからなくなりますけどね、と補足した。「さらに言うと、人間は言語を用いて思考しているから。この『入れ子構造』の概念が頭の中にあるおかげで、どれだけ関係が複雑に入り組んだ物事でも原理的に理解できるといえるでしょう♪ それでは、クルカの場合はどうでしょうか。クルカの認知特性はさっき言ったように、群れの個体と自他の境界をあいまいにしか理解できない傾向があるわけです。さっきの文章から『私』『メロカ』『ピチカ』『セニャ』という単語の概念を区別できない、というか……ごちゃまぜにしか考えられない場合を想像してみて。それがクルカの喋った言葉の構造、脳の認知システムに当たりますわ」
「うーん」メロカはクルカの顔が自分みたいになった妖怪を想像し、いやそういうことではないかと思い直して「……確かに。頭の中で誰それが切り分けられないと、うまいこと物事を理解できなくなりそうだ。なんかこんがらがってきたぞ」
「ですよね。自他を区別する感覚が、人間とはかけ離れてるんです。そんなクルカが話す言語の構造は、人間の脳にとっての普遍的な文法から大幅に外れてしまって、その構造をまともに解釈できなくなってしまうと予想されてるのです……これが、クルカ翻訳機が極めて困難な理由とされていますの」
「なるほど……?」メロカは解ったような解らないような気になりながら、気になったことを尋ねた。「でもあいつら、知能はあるんだろう? バカだとは思うが」
「そうですね。一匹の抽象的思考力自体は人間の子供と遜色ありません。ただ同族の意図を人間には理解できない感覚で掴んでいるようなのね。逆にクルカの方からしてみれば、私たちの方こそよく分からない知的存在じゃないかしら。人間が他人と一緒に何かする計画みたいな、ヒトの思考や心理を推し量るといったことにはまったくできないし、興味ないみたい」
「……不思議な感覚を持ってるもんだな。ふざけた野郎だ」エディは感心したように笑いながら、ピチューチカのヘルメットを指でつつく。ピチューチカは目をつぶってキーと鳴いた。
「多くの人は頭がいい動物と聞くと、相手にも自己の知能構造を外挿する……つまり、自分自身にとっての等身大の理解、認知構造を基準に他者もそうだと考えてしまう。俺たちはこれまで、クルカの認知能力を擬人化しすぎてきたかもしれん。割と化け物みたいなもんだぜ」
「馬鹿者の間違いだ」メロカは鼻で笑う。
「なら逆に、奴らの言語を翻訳するのにどのぐらいの技術開発が必要なんだ。逆立ちしても、人類にゃ不可能なのか?」とクルツの質問。
「そうですねー……リゼイさんくらいの高度な認知能力なら。高度に人間と異なる認知をトレースして、文脈に合わせて人間の世界観に再翻訳しなきゃいけないのです。超級電算機に莫大な時間とデータを入れて学習させるしかないでしょう。先生でも無理っぽいですわね♪」
「たはは、手厳しい。だが計算資源が少ない”ローバの僕”はもちろん、オリジナルの僕でも困難だろうね。僕は結局、数万年前のハーヴ・ウェラシックというヒトの成人男性の脳をエミュレートしたものだから。人間に理解できない概念をゼロから認知するためには、抜本的なソフトウェアの変更が必要だ。それはもはや、僕が僕でなくなることを意味する」
そんなもんなのか、とメロカは落胆した。たまにこいつらを見ていると意思疎通ができている気がしてくるんだがな。
「クルカはクルカだ。擬人視しすぎるのもよくないのかもしれないな」
アトイはメロカの考えを見透かしたかのように、前方を往くセニャのしっぽの明かりを眺めながら呟いた。
「……さて、そろそろだ」
ムロボロドが端末機を見て伝えた。話しているうちにもう1レウコは移動したようだ。貨物ユニットのライトは、開け放たれた扉を前方に照らし出していた。それは鈍く灰色に輝くバルクヘッドで、足元の床材に接続されている。どうやら旧文明製の代物らしい。扉の奥は真っ暗でよく見えない。
一行はその扉を認めると立ち止まり、警戒調査体制に移行する。
「旧兵器ECM起動だ。……敵性シグナルは検出されてないが、念のため」
貨物ユニットが防御遮蔽板を展開し、9人は背後に隠れた。ピチューチカもやって来る。
「おい、セニャ、来いよ」
「ピー」
先頭を行っていたセニャだけは遮蔽板に隠れることなく皆の方を振り返って2、3回うなずくと、すーと扉の向こうへ消えていった。
「あいつ……!」
メロカは貨物ユニットの取手を開いて中から宙間ライフルを取り出し、セニャを追いかける。扉の手前でカバー姿勢を取ってセニャに呼びかけた。
「おい、セニャ。無事か、どういうつもりだ」
クルカと会話できないという話をした直後にこう話しかけるのも馬鹿馬鹿しいと自分に呆れながら、メロカは宙間ライフルのマズルブレーキを捩じって最大まで展開する。踏ん張ることができない無重量状態でも正確に狙えるよう、反動を極限することができる宇宙軍の正式ライフルだ。初速は小さく、重力偏差を取らなくてよい環境に特化している。
「ピーヤ」
セニャは別段変わったこともないと言うかのように一声鳴いた。
「ここまで来て大丈夫だぞ」
メロカはほかのメンバーにハンドサインを送ると、宙間ライフルのフラッシュライトを点灯させ、意を決して室内に飛び込んだ。
そこはオフィスの一部屋ぐらいの大きさだった。入ってすぐ、部屋は手前側と奥側のふたつの領域に分かれていて、構造が全く異なっているのに気付いた。少なくとも手前側は、廊下から旧文明製の床材と同じ構造材でできた内装になっており、どこかで見覚えのある複雑な機材が数台設置されていた。奥は暗くてよく見えないが、どうやら通路の壁面と同じ奇怪な文様がびっしり刻まれた壁の場所らしい。
メロカが辺りを見回すと、セニャは機材のひとつを興味深そうに覗き込んでいた。こちらには気付いていないようなので、メロカは大ジャンプして飛びついた。
「捕まえ……おおっと!」
セニャは間一髪ですり抜け、複雑な軌道を描いてふよふよと飛び回る。メロカは舌打ちした。飛ぶクルカを捕まえるのが難しいことは、“星の街”でクルカ訓練中に嫌というほど認識させられた。ひょいひょいと飛び回るクルカは、しばらく放置すれば疲れて捕まえやすくなるはずだ。セニャはひとまず放置して、機材の方に注目した。
『これは間違いない。旧文明製の生命維持システムだよ』
背後からハーヴの声がした。他のメンバーもこの室内に入ってきたらしい。貨物ユニットのライトに照らされ、周囲はだいぶ明るくなった。
「”第35号、37号、38号生命維持装置”と書かれていますわね」とナテハは機材の足元に打刻されていた文字列を見て言った。「これ一台はせいぜい中型宇宙機用の生命維持装置ですわ。工事は中断したようですが、何十台も搬入してこの宇宙船の生存環境を支えようとしたのかしら……?」
「やはり場当たり的設計だな」とアトイ。
ナテハは機材の中央に据え付けられた旧時代の電算機を見つけてふわりと近寄った。慣れた手つきでホログラム用ディスプレイを外し、数本のコードを引っ張り出して自分の端末機と結び付けた。
「なにかデータ吸いだせますか」
「……んー、だめだよルッツ。死んでるネ」
ナテハは首をすくめてにコードを引き抜いた。
「向こうはなんだろう」旧文明の装置から得られる情報は少なそうだと思ったメロカは、部屋の奥側を指さした。「例の模様が入った区画だ」
ナテハは電算機の外板を軽く手で推して飛び上がり、雰囲気の異なる部屋の向こう側へと移動した。
「ここが境界部分ですね。……ここからこっち側が旧文明製のプレハブ床材で、床も壁も覆ってます」
ナテハがメロカたちのいる『旧文明側』を指さしたあと、振り返って文様の入った区画を観察した。
奇妙な装置が複数立っていた。大きさは旧文明製の生命維持装置と大差ないくらいだが、形状は大きく異なる。壁面の文様のようなレリーフが刻まれた、くすんだ水色の五角柱の装置で、それらが床と天井から同じように伸びている。レリーフはよく見ると上下対称かもしれない。
「……こっち側の方が古いんじゃないかしら」
「じゃあなんだ」エディが文様の区画に移動してきた。「もともとこっちの変な部屋が最初にあって、そのあと旧文明の人間がこういう感じに手直ししたってことかい」と、旧文明の装置側を指さす。
「かもしれないわ」ナテハは境界付近の床に設置された、文字の書かれたプレートを読み上げた。「旧時代の人たちがこうメモってます。”これより先未踏領域:安全確認せず”」
「まるで旧文明より昔からこの宇宙船が存在していたかのような言い方だな」とクルツ。
「その可能性は排除すべきではないと思うな。まぁ、こっち側もあっち側も旧文明の設計によるもので、単に設計ミスで部屋の中身を建て替えなきゃならなくなったって解釈の方がシンプルだけどさ」とミト。「そもそも、元のこっち側……文様の側はどういう意図を持った部屋なんだろうね。賢者さん」
『判断……できない。僕には分からないんだ。こんな装置、見たことも考えたこともない』
あ、ハーヴが匙を投げた。
「あれ、これは“こっち側”の制御マシンかなにかじゃないですか、ナテハさん」
ルッツが示したそれは、他の機材よりやや小さくシンプルな作りをしていた。自動車のタイヤを横にしたような円筒の台座のようなものがある。その台座の前にテーブルがあり、5角形の板のようなものがはめ込まれている。
「これは制御装置かしら……? それにしては、ボタンもスイッチもついてませんね」
ナテハが観察する。五角形の板はタッチディスプレイと解釈するのが自然な設計に思えたが、表面はざらざらしたセラミックかなにかでできているように思え、画面として機能する物か疑わしい。ディスプレイじゃないとすれば、操作できるようなインターフェースは何も備わっていない。先ほどナテハがコードを引き出した制御装置とは、全く異なった設計コンセプトに思えた。
一方で足元に視線をやったナテハは、幅10センチぐらいの黒い帯が台座から伸びていることにも気付いた。それは複数に分岐し、床と天井から生えた五角柱に繋がっている。黒帯は、よく見ると白いラインで縁どられており、その白縁には数本の曲がった黒線がバーコードのように刻まれているようだった。黒い曲線はどことなく壁の文様を連想するようなパターンを描く。
「……?」
ナテハは考え込んで、言葉が途切れる。数秒。ハーヴのランプが赤く点滅し、ローバからラジエータパネルが展開された。考えすぎてCPUがオーバーヒートしたらしい。しばらく喋られないだろう。
「ピャー」
ちょうどその時、セニャが円筒の台座に向かって降りてきた。
「ピュイヤ!……」
そう叫んだが、何も起こらない。
「……ピー」
セニャは残念そうにうなだれ、直後に捕まえようと手を伸ばしたメロカの脇をするりと抜けていった。
いい加減本気で捕まえておかないと駄目かもしれん、とメロカが障害物のある室内で追いかけっこを始める意を決したところで、セニャはやおら立ち止まって左側の壁をヒレで指し示した。
「ピュイ。ピーヤ」
セニャは指し示す体勢のまま、じっとナテハの方を見つめて動かない。
「ん~? どうしたのかな。壁になにかあるのかい、セニャちゃん」
ナテハは二歩ほど前に出て、セニャの指示した壁面に注目する。そこもやはり奇妙な文様で埋め尽くされた壁面だが、よく見るとこの部分だけ、テーブルほどの大きさの五角形の枠でかたどられた文様になっており、周囲と比べて1cmほどの段差で出っ張っている。その中央部には長方形の凹みがあり、その凹みを取り囲んだ文様が四角い渦巻のような形状になっていた。
「この模様は一体……?」
「ピャー!」
ナテハがもっとよく見ようと近寄ってかがむ。その瞬間、セニャはナテハに飛びついた。
「あっちょっと! 何を……!」
「ピヤ、ピヤ」
メロカや他のメンバーがセニャを阻止する暇もなくナテハ船外服のバックパックに頭を突っ込み、昨日拾った謎のタブレットを取り出した。
「やだ!? なんなんですかね!? セニャちゃんのえっち!」
「ピポッ!ピロロロロ……」
セニャはタブレットに頭を近付け、なにか喋っているような鳴き声を出した。ずっと機能を停止していたタブレットはほのかに光りはじめ、再び機能を蘇らせはじめた。
メロカはとりあえず、便乗してナテハにいたずらしようと近寄るピチューチカを捕まえておいた。
「おお、光っている……!」
光量は弱弱しくちらついて今にも消えそうだが、しかし確かにタブレットに刻まれたレリーフは、紫色に発光を始めている。
「ピ」
皆が呆気に取られている間に、セニャはタブレットをこんなものかとでもいうように持ち上げて、壁面の長方形の凹みにはめ込んだ。
次の瞬間、渦巻状の文様もゆっくりと輝き始めた。メロカ達から困惑の声が漏れる。十秒ほどののち、文様の光は脈動するように数回強くなったかと思うと、鈍く振動し始めたようだった。
いや、ただ震えているのではなかった。五角形に出っ張った壁面は今や、非常にゆっくりと動き始めていた。動いているのだ! 空気があれば、この鈍い振動はこすり合わせるようなゴリゴリという音として聞こえたに違いない。
最初に我に返ったのはメロカだった。
「カテゴリー1の異常事態発生!」
メロカは叫ぶ。ふたたび宙間ライフルを構えて、今にも開こうとしている出っ張り、すなわち扉の手前に身を隠した。その場にいた全員も、メロカの一声で貨物ユニットの展開した遮蔽板の背後に隠れ、有事の体勢を取った。
「状況が意味不明だ……! これは何が出てきても驚かないぞ。覚悟を決めた!」
「待ってメロカ。ピチカは」
そういいながら遮蔽板から頭を出したミトに、メロカは小脇に抱えていたピチューチカを投げてよこした。次はセニャか。
五角形の扉に再び目をやる。扉は中心部から五角形の頂点に向かって切れ込みが入り、開き始めているようだった。メロカは背中越しに扉の向こうを覗き込んだが、真っ暗で何も見えない。今やクルカ一匹分開いた扉から、セニャは部屋の中に一歩入ってじっと前を見つめている。
「おい、セニャ! お前な……いい加減にしろ。こっちに来んかい!」
セニャは扉の真ん中からメロカの方を一瞥すると、そのまま真っ直ぐ内部へと進んでいった。
「……大変だ。どういうつもりか分からんが、あの馬鹿を自由にさせておくべきではなかった!」
「せめて言葉が分かればなあ。リゼイ君こそ無理してでも連れてくるべきだったようだ」
メロカの呟きに機能復旧したハーヴが答えた。ほぼ同時に、メロカは扉の開口部から青い光が漏れていることに気付く。扉の奥、大部屋に光が灯り始めたのであった。
メロカは慎重に覗き込む。そこは今いた部屋よりさらに大きい、テニスコートぐらいの面積の大部屋だった。真ん中に通路があり、通路の左右には横に倒した家庭用冷蔵庫より二回りほど小さい箱が数十個並んでいるらしい。通路の反対側の端はスロープのように盛り上がっており、そこにも何らかの構造体があるようだが、ここからは良く見えない。倒れた冷蔵庫の間には、しおれたコーンのような物が同じぐらいの数だけ立っている。いくつかのコーンは直立し、青白い光を放っているのが分かった。セニャがその中をふよふよ移動しながら、コーンの間を行ったり来たりしている。セニャがしおれたコーンに近付くと、驚くべきことに数本に一本の割合でコーンは立ち上がり、新たに光り始めるのであった。
一筆書きでセニャがすべてのコーンに近付き、今では全体の3割くらいが発光している。残りはしおれたまま機能していない。
セニャは入り口の反対側にある通路の先までゆっくり浮遊し、そこに留まってメロカに視線をやった。
「ピュイヤ」
一言発声し、うなずくように頭を垂れた。
来いとでも言っているのだろうか。メロカは意を決し、ライフルを構えて室内に侵入することにした。慎重に上下左右を確認する。壁面と天井には通路と同タイプの文様が入っている。一方で、足元の一面は文様ではなく、先ほど台座から伸びていたのと同じ黒帯が多数刻まれていると気付いた。多数の黒帯は通路の真ん中を通って分岐を繰り返し、いずれも横になった冷蔵庫のような箱に延びている。残る通路の一本はセニャのいる方向に伸びているようだった。
「……クリア。一応、目視ではセニャ以外何もいないようだな……ハーヴ、ムロボロド。そちらはどうか」
「旧兵器センサその他特異な反応なし」
そうか、とメロカは安堵したが、ムロボロドは普段あまり気にしない数値が異様な値を取っていることに気付いた。
「……いや、待ってくれ。この部屋の中だけ、神経戦活性が異常な高さだぞ」
「神経戦が掛かってるのか? それって発狂するってことじゃないのか。部屋に入ったセニャとメロカは既にイっちまってるってことかよ!?」
エディが縁起でもないことを言う。ムロボロドの端末機を覗き込んだミトが反応した。
「ううん、神経閾値のポテンシャルが高いだけで伝達レベルは整流的だね。精神に錯乱をもたらすような状況ではなくて、むしろ瞑想時のように落ち着いた状態ってことを意味するわけだけど……」
ミトはいくつかのバイタルデータを見比べて言った。「メロカ、落ち着いてるでしょ。心拍数がかなり下がってるよ」
言われてみると、すこぶる落ち着いた心持ちにあるのかもしれない。リラックスしすぎて、青く光るコーンがアロマキャンドルみたいだなぁという感想が湧き上がってくる。先ほどまで抱えていたような緊迫感は何だったんだろうか、と。
『――そうです。大丈夫です。ここは危険な部屋じゃありません』
「……?」メロカは奇妙な感覚に襲われて、背後を振り向いた。
「おおい。誰か今なにか喋ったか?」
「え? なにか言ったか?」「知らないわ」「ミトがぶつぶつ考え事してたのか?」
皆の返事は要領を得ない。
『そっちじゃありません。逆ですよ』
メロカは前を向いた。そこにいるのは、セニャだけだ。メロカは不審顔でセニャを見据えた。
『そう、ボクです。君たちの言葉でいう、セニャです。ああよかった、やっとボクの言葉を伝えられます。メロカ!』