『牽制砲撃』

 ・前回までのあらすじ
   クランダルト帝国内乱の危機に対処するために、過激地方貴族のラーバ中佐一派は、皇帝を警護する強力な第三組織である近衛艦隊や有力なヨダ地区へと接触した。
   敵は帝国内反乱勢力に留まらず、アーキルの軍事顧問団に加えて、奇々怪々にて強力無比な『邪龍』と呼ばれる巨大艦砲まで擁し、その勢いを強めていた。
   既に芽を摘む段階をとうに超えていても尚、帝国の崩壊を防ぐため、本人の意思とは全くの無関係に徴用され、相次ぐ死線に修羅場を幾度となく越えさせられたヘボン・ワトキンス軍曹(現曹長)に最期の戦いの場が用意されようとしていた。

 

 操舵手ヘボンの受難#47 『牽制砲撃』

 

 肩を竦める少佐に対し、青二才の現艦長は二の句を紡ごうとしたが、それは突然の衝撃と爆音に掻き消された。

 「不明機、正面!」

 通信兵の叫びを掻き消すほどに、風を切り裂くような鋭い音色が、艦橋の遙か前方より響いてきたのだ。
   先程まで姿を消していた黒い化け物は、再びまたその姿を空に現していた。
   この音を聞いて、艦橋に居た者達はまた恐慌状態に陥った。
   あの黒い化け物が再び現れたのである。
   誰しもあの化け物の前で平静さを保てる者は少ないであろう。
   ヘボンとて落ち着き始めた所であったが、またひどく心が掻き乱される。

 「大丈夫よ。ヘボン、なんとかなるわ。今までも手を打てばなんとかなったはずよ」

 しかし、身動き一つ取れずに恐怖に顔を歪めるヘボンに対し、エレンは落ち着き払った調子に言うと、ヨトギ少年を従えて、只管に何か叫び立てている通信兵の元へ歩いて行く。
   そのまま流れるような動作で、ヨトギ少年が通信兵の後頭部に曲刀の柄を叩き込むと、昏倒した通信兵を押しのけて、エレンが通信機を奪い取る。
   そして、その通信機を少佐が手にした。

 「ラーバ少佐だ。緊急事態のために、この艦の指揮権を私が取る」

 通信機に向かって少佐は良く通る声で話しかけ、その声は拡声器を通じて艦橋にも良く響いた。
   それを聞いて先程の青二才が此方の凶行に気付いて声を荒げた。

 「少佐!何をしている!憲兵っ!奴を拘束・・・」

 だが、その声は銃声に掻き消された。
   少佐の手許には素早く拳銃嚢から引き抜かれた拳銃が握られており、それは一発の元に現艦長を元艦長の遺骸に変えてしまった。

 「緊急事態だからね。この際は致し方ない。まぁ、前からやるつもりではいたがね」

 元艦長の頭を撃ち抜いておきながら、少佐はいけしゃぁしゃぁと通信機に向かって言葉を続けた。

 「指揮権も戦時法で私に移った。諸君の目下の問題はこの場を切り抜けることであるが、その為にはあの黒い不明機を迎撃しなければならない。これより、この艦の持てる全火力を不明機へ向けろ」

 簡潔な指示を少佐は加えながら、艦橋の方へと振り返った。
   誰も、この場に置いて元艦長の仇を取ろうとするものはおらず、本来のアクアルア級の艦長である彼に席を譲ることが最善だと誰しも判断したようだった。
   その時から目まぐるしく艦橋の様子が変わっていった。
   兵士達の動きは規律化され、少佐が何事か指示を飛ばす度に少なくとも恐慌は落ち着いてきているように見えた。

 「主砲を奴にぶつける。当たらなくとも牽制にはなるだろう」

 その声が聞こえたときには前方に見えるアクアルア級の20.5cm連装榴弾砲が、血が通ったかのような生々しさで躍動している。
   蠢く砲塔は正確に正面に居座る黒い化け物の方へ向けられた。
   そして、少佐の指示を待たずに前門から次々に轟音を轟かせて砲が見舞われる。
   それが命中したかどうかはわからないが、艦橋の天板硝子を大きく揺らしながら何か巨大な物が通り過ぎた事を鑑みると、どうやら不明機の正面攻撃だけは逃れられたらしい。

 「よし、いいぞ。このまま遁走している艦隊に合流する。確か、殿はホットニルの艦だったな」

 少佐は不明機の魔の手からごく一時逃れたこの機を全力で使おうと、通信兵に声を掛けた。 

  「此方に回頭して此方の回避機動を援護するよう連絡しろ。拒否するようなら、奥方の一件を全回線に流してやると加えておけ」

 少佐は矢継ぎ早に通信兵に声を掛けながら、今までの押し殺した平静さをかなぐり捨てるような演説ぶった調子に兵士達を鼓舞し始めた。
  その様子を見てヘボンは彼の妹である中佐の熱の入った演説振りを思い出したが、それはどうやら兄譲りだったのかもしれないと感じ入った。

 「乗員諸君。この艦に対する指揮権はこのツェツェリゲ・フォン・ラーバ少佐が執った。我々は此より、持てる力を全て用いて、友軍艦隊への合流を果たすよう努力しなければならない。敵は我が栄光ある帝国軍に対して銃を向ける、憎き裏切り者達と父祖の時代より敵であった連邦軍だ。しかし、敵はあのような奇怪な化け物まで繰り出してくる。・・・しかしだ、諸君。あの化け物とて、この艦の火力には為す術がないと言うことを教えてやろうではないか!我々には血路を切り開く手段がある!ミーレ・インペリウム!」

 少佐の演説は妹の調子と大分似ていたが、此方の方が本家本元らしい帝国貴族の熱を帯びた色が合った。
  その彼の言葉を聞き出すと、兵士達は唸り声を上げながら、帝国万歳と何度も復唱した。
  この一喝は少なくとも、恐慌状態に陥っていた彼等に対して熱意という楔を打ち込むことが出来たのかも知れない。

 「さて、残っている艦載機はあと何機ある?ホットニルの方からも連絡機でもなんでもいいから出撃するように伝えろ。脱出用にしてはえらく装備の整った奴をまだ何機か隠し持っているはずだ」

 少佐は通信兵に素早く告げながら、艦橋のど真ん中に悠然と立ち、腰に手を当てて恐怖心を一切見せない堂々とした態度を示しだしている。
  それに応じて艦橋の兵士達は先程の恐慌振りが嘘のように、規律正しく動き始め少佐の指示通りにキビキビと兵隊らしく働き始める。
  元より彼がこの艦の艦長であったらしいことは疑う余地を挟まなかった。

 

 その脇では先程に飛び出していったエレン伍長達が何処から持ってきたか判らないが、赤い鉱石のような物を削り出して、何か艦橋の床に何かを描き始めていた。 
   彼女等は今の主砲の大轟音にも怯むことなく、手慣れた手付きで作業を続け、やがて艦橋中央に複雑怪奇な円状の模様を描き出した。

 「さぁ、彼を連れてきて」

 満足げに模様を描き終え、ギュンバと共に胸を張るエレン伍長は脇のヨトギ少年へ声を掛け、艦橋の壁に背中を預けて蹲ることがやっとのヘボンへと彼を差し向けてきた。

 「何をするつもりだね。また例の呪いか?」

 その様子を眺めて、少佐は不思議そうにというよりは何処か愉快そうな調子にそう彼女へ問いかける。

 「そうよ。呪いよ。あの子が逃げないように、この艦へ惹きつけてやるの。少佐、いつでも主砲を撃てるようにしておきなさい。きっかり二時方向にあの子は現れるわ」

 エレン伍長は意味ありげに語りながら、ヨトギ少年へ急ぐように合図を送る。

 「あの子だと?伍長、あの化け物の事を言っているのか?」

 「そうよ。・・・そう、いい子だったけれどね。頭に血が上りやすいのが災いしたんだわ」

 エレンはそう自分に言い聞かせるように呟きながら、少し悲しげに頷いている。
   その仕草を見て少佐は怪訝な顔をしたが、それでも彼女のことを少佐は信頼しているのか、艦の主砲を二時方向に向けるように指示を出し始めた。

 「早く、彼を模様の中央に置いて。置き方はどうでも良いわ、後は呪い文が上手く働くと良いわね」

 そのままヨトギ少年と訳がわからないまま、流されるようにヘボンを担いだグレゴール艦長の息子と共に、ヘボンの身体はその妙な円状模様の中央へと置かれた。
   ヘボンは彼女等が何を企てているのか、まるっきり判らないわけでも無かった。
   この手の儀式は彼が原隊に居た時でも夜間爆撃に出撃する際に、吉兆を占うために此と比べれば随分と小規模ではあったが、彼女が行っていた催事と似通っていた。

 「いい、ヘボン?あの黒い化け物が何者なのか、アンタは言わなくても、わかりすぎるほどわかっているわよね?だったら、その誰かをしっかりと頭に思い浮かべなさい」

 床に置かれて、視線の高さがちょうどエレン伍長と同様になると、彼女はそうヘボンへと言った。
   正直なところ、其奴は忘れたくても忘れられない鬼女であって、敢えてそれを思い出したいとヘボンは思わなかったが、これもまたその場の流れとも言える調子で、彼女に言われるがままヘボンは四肢の痛みから逃れようとするように頭にあの『顔』を深く思い浮かべることにした。

 

 ヘボン達の乗艦が退避行動を移る最中でも、依然として戦闘機による激しい攻撃は続いていた。
   既にアクアルア級の艦載機はほとんどが撃墜され、残っているのは精々二機で、それに加えてもう一機、エーバ准尉が駆るマコラガがしぶとく艦の防御行動に徹していた。
   そこら中で黒煙と爆炎が上がり、射線が乱れるように走る。

 アクアルア級の対空銃座や砲座はしきりに敵機を追い払おうと、果敢に射撃と砲撃を見舞い続けるが、それに被弾する様な敵機は早々居ない。
   敵とてあの訳のわからない黒翼隊と国境を越えて帝国内地で暴れているアーキル軍事顧問団となれば、アクアルア級の搭乗員との練度には雲泥の差があった。
   しかし、それでも、まだこの艦が墜ちないのは、一重に艦長の巧みな指揮振りと乗員の決死の努力に寄る賜だが、それがいつ何時崩れるかは予想が出来なかった。

 「アクアルアに最も近い奴から撃て!一機だけだ。二機に増えたら散れ!」

 唸りを上げて、艦の周囲を飛び回るマコラガ機から、アクアルア級艦載機の二機へと通信が飛び交っている。
   空戦が始まってから、敵機も友軍も皆、同じ様な通信帯を用いるために、混沌とした様な状況で命令もなにも聞き取れた物では無かったが、その中で真っ先に規律を生み出せたエーバ准尉は唯一、敵機よりも優勢な部分を持っていた。
   彼女は耳目省出身であるのにも関わらず、情報戦やその分野に置いては、ずぶの素人である戦闘要員であったが、その点、戦闘に置いての巧みさは群を抜く物があった。
   ヘボンのコアテラがアクアルア級に不時着をする様を見た彼女は、素早く通信帯を此方に合わせるようにと、アクアルア級の艦載機へと指示を出した。
   彼等は帝国内地貴族の搭乗員達で、指揮系統がとてもいい加減な物だったから、元よりまともな連帯行動も出来なかったが、其処へ来て空戦が始まると隊長機が真っ先に落とされた為に個人個人が勝手に動き回っていたのである。

 「誰だ?!敵か?」

 当初はエーバ准尉の要請に対して、既に自分以外は全て敵とばかりに、我武者羅に飛び回っていた艦載機のパイロットであるは叫びを上げて、彼女の声を無視しようとしたが、通信機自体はもう既に役にも立っていなかったので、久しぶりに意味のある通信内容に多少聞き入った。 

 「第13特殊空域旅団所属、エーバ・ミーヴァンス准尉だ。朱色の戦闘機は私の指示に従え、マコラガが飛んでいるだろう、それに付いてこい!でないと、纏めて叩き落とす!」

 耳を寄せた艦載機の搭乗員の耳に、そんな准尉の怒号が飛び込んできたのだから堪らない。
   この時に既に艦載機隊はその数を多く減らしていた為に、既に回りは敵機だらけになっていたが、その中でも度々目に入ってくる珍妙な旧式機は嫌でも目に付いた。

 「・・・さっきまで、コアテラにくっついていた奴だ!敵の一味かも知れない!」

 別の艦載機搭乗員は、そう耳を貸さないように言ったが、今更、たったの数機を罠に嵌めるほど敵が悠長なことをしてくるとは、その搭乗員は思わなかったし、あのコアテラが何者であるかはここ数日の奇妙な噂話の数々から察しが付いていた。
   戦闘機ならまだしも、対置攻撃用の強襲艇一機でアーキル軍空母を撃滅したという化け物の話は、ここ数日で随分と尾ひれが付きすぎて、最早、全く別の内容へと変容していたが、それでも事実無根でないことはここ数日の騒ぎで誰しもが知っている。

 「罠なら罠で構わない!あのマコラガについていけ!」

 搭乗員は叫びながら、僚機に告げながら機体を大きく捻って、旧式機へと機首を向けた。 そこから先はある程度の纏まった動きで、敵機の中を切り抜ける事が出来たが、それでも三機の纏まりは濃い雲のように迫る敵機から、懸命に墜とされない様に飛び、ごく僅かに見える隙に切り込んでいくのが精いっぱいであった。

 

 事態は劣勢であることに変わりはなく、少佐の指揮するアクアルア級は、艦首を友軍艦へ向けながら、群がる敵機を必死に払い除けようとしていた。
   艦の主砲ですら、素早く飛び回る敵機に対して、音だけは凄まじいものの効果としてはまず期待できない砲声を轟かせ、なんとか威嚇して追い払おうとするのがやっとだった。
   しかし、そんな中で艦橋から入った指示は『二時方向に何時でも砲撃を加えられるよう備えろ』と言ったもので、砲員達は小首を捻るのだった。
   一方、艦橋の方では更に首を捻るような事態が進行中で、艦橋の床に描かれた巨大な赤い円の中で一人の重傷者が寝かせられ、それを取り囲む二人と一匹が、珍妙な経文めいた呪いを唱え続けているのだ。

 艦橋に居た兵士はぽかんと口を開きながら、その光景を眺め、またある者はこの際そんなことなど必死に意識しない様にしようと、意志を硬くしていた。
   そして、艦橋で指揮を執るツェツェリゲ少佐は後者の方に類していて、この奇怪な連中とは極力関わらない様に努めていた。
   しかし、彼らの呪文の詠唱が徐々に熱を帯びてくると、それに影響してなのか定かではないが、付近の空域の雲行きが俄かに怪しくなってきていた。
   先程までは雲も少ない晴天だったために、こうも派手な大空戦が始まったのだが、今ではあたりに巨大な雲の群れが並び、それが薄い黒さを滲ませ周囲を取り囲みつつあった。
   こうなってくれば、今までの様な密集した空戦を戦闘機たちが展開することは不可能で、視界不良によって空中衝突の危険性が上がってくると、冷静な敵機達は一時的に雲の中へと消えていく様が見えた。

 それでも状況判断の優れたアーキル軍パイロットたちと違って、まだ頭に血の気が上っている黒翼隊の戦闘機は黒い雲を背景としている為に、識別がしにくいが、まだ多数飛んでいるらしく、対空防御の手は休まることは無い。
   だが、それでもアーキル軍事顧問団の夜鳥が居なくなったのは幸いで、敵機の数が減れば射撃を集中させる事により相手も損害が出始めていた。

 「宜しい。このまま友軍艦へ進路を取れ。陣形を立て直す」

 少佐は満足げに艦橋員達に声を掛けるが、背後では依然として経文の詠唱が続いている。
   態勢が整いつつある今でも、後でもこの様な儀式が何の意味があるのかと少佐は疑ったが、その答えはすぐに伍長の叫びによって返ってきた。

 「来るわ!二時方向よ!早く!」

 とても小柄な体躯の何処から、そんな大声が飛び出るのかわからないが、彼女は艦橋中に響き渡るような怒声を発した。
   ある艦橋員はその声に驚いて、艦長の指揮を待たずして主砲に指示を出そうとした程であった。

 

 その時、ヘボンの脳内は真っ暗な空間に浸っていた。
   元々、四肢からくる激しい痛みを一時でも忘れようと、意識を集中した先程から、痛みは感じないのだが、自身の肉体の感覚があやふやとなっている。
   そんな中でもどこか遠くで、エレン伍長やヨトギ少年に加えて、ギュンバの低い唸り声が聞こえてくると同時に、彼の意識は暗闇から薄汚い空へと向かっていく。

 (これは新手の葬式ではなかろうか)

 と、脳裏で何処か間の抜けたことをヘボンは思ったが、それにしては周囲に見える天空はそれ以上登っていくことは無く、あくまでアクアルア級の艦橋天板から見えるほどの高さからの光景であった。
   こんな異様な状況であっても、酷く痛んだヘボンの心身はこれを痛みから遠離ける為に受け入れていた。

 やがて、その黒く歪んだ視界から見える雲間の合間に、更に一層どす黒くなっている箇所をヘボンは見つけると、そこから目が離せなくなっていた。
   それは色に感情があるとするならば、真に醜く歪んだものであるが、それ故に鋭利に端々が尖っているようにも感じられ、その鋭さが此方に向けられている物だと彼はすぐに察した。
   その黒い雲の主が誰なのか、ヘボンは誰かに言われずとも理解できた。

 間違いようがない、あの女である。

 咄嗟にヘボンは恐怖に身を捩るような悲鳴を上げたくなったが、それをなんとか押し殺して、その黒い雲を注視した。
   やがて、その黒い雲は更に濃厚な色を持って迫ってきて、その雲特有の膨張が一種の憎悪の表情に変わっていくように感じ取れた。
   此方がその憎悪を一手に引き受けなければならないことを知って、ヘボンはその黒い雲が消え去らないかと強く願ったが、それに反して黒い雲は彼へ強く罵声を与えるかのように低いが良く響く唸りを持ってして迫る。
   その凄まじい恐怖の接近に対し、ヘボンは悲鳴にも近いものを心の中で叫んでいた。
   そして、黒い雲幕から細長い槍が突き出されるかのように、あの女が乗っているのであろう巨大な海月の様な化け物が飛び出してきた。
   突出したその機影の脇には黒い雲を引き連れ、空の幽鬼と形容するに相応しい姿だ。

 

 「本当に二時方向だっ!」

 艦橋内では観測員が報告も半ば忘れて驚愕して叫びながら、事前の用意もあって素早く砲塔は二時方向へ備えていた。
   敵機はそれに気付いても尚、そのままアクアルア級へと突進を加えてくる。
   先程は主砲にある程度怯んだように見えたが、今度こそはその勢いを反らすことは無い。

 「…ラドュネ!(撃て)」

 艦橋にその身を置いた少佐は、ぐっと声を張りあげながら砲撃するように号令した。
   それに答えて艦橋の前方が、轟音と共に黒い雲よりも更に暗い砲煙に包まれた。
   主砲が命中したかどうか定かではないが、それはすぐに明らかになった。
   黒い雲と砲弾の炸裂した黒煙の中を、まるで意に返さないかのように黒い海月は此方へ向かって煙を切り裂いてその姿を現したのだ。

 「牽制にもならないか、船首を向けろ!横への直撃だけは避けるんだ!」

 少佐の顔には苦々しい色が浮かんでいたが、すぐに対応策を取った。
   しかし、此方へ猛然と突き進んでくる敵機に対し、それが間に合うかどうかは自明の理であり、これは虚しい最後の抵抗ともいえる。
   艦橋内では再び恐怖と焦燥が場を支配しようとしていた。
   だが、その迫る敵機の背後で激しい炸裂が起きた。
   敵機の正面は艦をえぐる程の装甲が施されているが、後方はそれの比でないらしく、後方からの炸裂で俄かに黒い海月はその速度を落とし、アクアルア級の艦橋間際を緩い速度ですり抜けようとする。
   その瞬間をみすみす逃すほどに、艦の側面砲手たちは迂闊ではなかった。
   即座にアクアルア級の側面砲座が次々と火を放ち、海月の漂う後方の尾を狙うように砲火を浴びせていく。
   流石の化け物もこれには一時的にこの艦への執着を止したのか、また黒い雲の中へ下降しながら姿を消した。
   ヘボンはその様子を意識のみの視界から窺っていると、あれほど強く感じていた殺気と憎悪が急に張り詰めた糸が切れたかのように消えていく実感を覚え、意識が艦の中へ戻っていくように暗転していく。

 

 「三時方向に新たな機影!巡洋艦の様です!」

 今しがたの化け物に対する援護砲撃の主が、観察員の叫びと共に一同の目に入ってきた。
   あの化け物と同じように黒い雲を突き破って現れた、その朱色の細長いシルエットをした艦は、艦首の砲塔からまだ砲煙を漂わせながら、此方へ光信号を放っていた。

 「…艦長!ヨダ地区からの増援です!グレーヒェン家の艦です!」

 素早く光信号を読み取った観測員がそう告げると、少佐は影の濃い顔つきから、眼光を光らせるように呻いた。

 「…スタバツィオか。近衛に尻でも叩かれたな」

 少佐は何処か愉快そうに呟きながら、視線を後方へと向けた。
   後ろでは相変わらず、妙な模様の中央に負傷兵を転がして珍妙な経文を喚きたてている連中が見えているが、その例の負傷兵ヘボンが意識を取り戻したのと同時に、少佐と目があってしまった。

 「…曹長、運が向いてきたようだぞ」

 そう顔の陰影が強いながらも、しっかりとわかる笑みを浮かべる姿に、覚醒したばかりでぼんやりとした意識の中で、ヘボンは強い既視感を味わっていた。

最終更新:2022年04月26日 18:39